田面には地図の様な線條が縦横に走つて、旱の空は雨乞の松火に却つて灼かれたかの様に、あくまでも輝やき渡つた。情けないほどのせせらぎにさえ仕掛けた水車を踏む百姓の足取りは疲れた車夫の様に力がなく、裸の脊を流れる汗は夥しく増えた埃りに塗れて灰汁の様だつた。 そして、小作争議事務所に当てたS寺の一室は日増しに緊張して行つた。
「おい、遂々、彼奴等白東会を雇いやがつたぜ」引裂く様に障子を開けて入つて来た藤本は、一座をにらみ廻して報告すると、新たに現われた敵を、眼前に挑む様に唇を噛んだ。居合わせた者は一様に肩を揺すり眼を据えた。
「知つてやろ、この県の白東会の支部長云うたら、ほら、この間町でコーヒ呑んだやろ、あの時隅に坐つて俺達をにらんでいた紋付の羽織着てた奴、彼奴だよ、永い間東京をうろついていた、そら、町の前川新聞取次店の息子や……」
「ああ、胸毛の生えた、柔道二段とか云う、心臓の強そうな……」と、誰かが訊くと、藤本はグッと首肯いて胸を張つた。
「そうや、あれで江戸仕込みの壮士そうな、どうせ、腕力と心臓の強いだけが取柄の男さ、けど、注意せんと彼奴等の唯一の戦術である『切り込み』があるか知れんぜ、地主からだいぶ金も出てる様子やから……」
藤本の歪めた唇には、激げしい敵愾心が、冷めたい微笑となつて漂つていた。同じ想像と期待に、一座の顔は潮の引く様にすつと蒼ざめて誰れもが深い溜息をついた。
慎作は、勿論この報告に衝撃を受けた。が、その衝撃が忽ち火に落ちた錫箔の様に崩折れて、燃えあがるべき反抗心が、雑草を揺がす一戦ぎの風ほどの力しかないのを如何することも出来なかつた。一寸ひるがえつた心が、直ぐと暗い懐疑と姑息な内省に重くよどんでしまつた。慎作は、新しく刺戟されて炎の様に闘志を沸き立たせて居る同志の前に、深く自分を恥じた。同時に、この心の秘密を持ちつつ、同志と共に嘆き共に憤つているかの様に装つている自分に、たまらない憎悪を感ぜずにはいられなかつた。やつぱり俺は駄目だ。この刺戟に於てさえ、自分の心は豚の様に無感動だ、俺はいよいよ戦列の落伍者だ。何時、何処で、どうして、あれほどに燃えあがつていた意識が、常夜燈の様に消えることのないと信じ切つていた反抗の火が、かくまで力弱くされたか自分ながら不可解だつた。いや、諸々の原因は数えあげることは出来たが、その諸々の原因そのものが本来ならば胸の火をより燃え熾からしむべき薪である筈だつた。この新しい薪であるべき事柄が、何時の間にか石綿の様に燃えなくなつた以上に、却つて自分を卑怯にする鞭の役目を努めるとは、前線に立つ者にとつて致命傷だと思つた。だが、この理智に頓着なく慎作の心は懐疑に燻つて羊の様に繊弱なものになる一方であつた。理智と思想に於てはまだ、決して曇つていないと確信しているだけに、この脆弱な感情の泥沼から匐いあがろうとする焦燥は一倍強かつたが、次々と周囲に起る事柄が反抗を薄めて、不可抗力に裾をかまれた様に動きがとれないのだつた。
そうだ。第一に暗い一家の現在が、慎作をひしぐ力の最大なものに違いはなかつた。
前年からの借金が抜けない上に、養蚕の不成功に次ぐこの大旱だつた。家産を傾むけた正直一途というものよりほかに何の才能も持合せない父は、目前の仕事を唯がむしやらにするより思案がなかつた。日向を追つかけ廻る様になつても、まだ維新当時、区長という大役の下命された名誉を、晩酌の酔と共に吹聴することを忘れない祖父は、去年の春、祖父そつくりの頑固者だつた兄が死ぬと共に飾るべき何者もなく、只ストーブのように温かい資本家を憎む思想と感情とを土産に、顔を蒼くし髪を長くして帰郷するやいなや、農民運動に寧日ない慎作を目の敵にして、事毎に小姑の様な執拗さで楯付いた。母は洗濯とボロ綴りに総ての時間を消費し、妹の絹は、あどけなさと快活な足音とを何処かで失くした様な佗しい小娘だつた。
催促のはげしい負債返還の日が近づいても、一年の衣類代と肥料代に当てるべき養蚕の上り高さえ予想外に少くない現在如何にし様もない事は、碌々稼ぎを手伝えない慎作には身に沁みて分かつていた。仙人の様にしなびた脛を、一種超然たるあぐらに組んだ祖父は、落着き過ぎた下半身とは反対に顔を無闇にガクンガクンさせて、切抜け様もない窮迫を、慎作と父のせいにして怒鳴り立てた。
「ほんまに如何する気や、お前等呑気そうに黙つてくさるが、今度こそわしにも見当はつかんぞ、おい慎作、お前の……その何や、新しいとか云う頭で考えついたこと云うてみい。ヘン、こんな世帯智慧は出まへんがな、直造かて、足しにもならん水換ばかり能やないぜ、何んとか法見付けたらどうやね」
七十八にしてはまだ弾力のある声だつた。父は眼を眇める様にしてチラと慎作を一瞥しただけで黙つていた。皆の無視的な態度が祖父の尖がつた肩を余計に厳めしくした。
「組合やたら、何やたら、碌でもないことばつかり仕腐つて、ええ若い者が何の様や、一ペンでもええから、絹に一枚の木綿物位、買うてやつてみい、罰は当らんぞオ」
だが、慎作は祖父の毒舌には別に反感も覚えなかつた。無理にいからした肩も尖先の様にとがり、憎まれ口も齒のない唇にもつれるのを見ると、寧ろ哀憐が先に立つた。祖父と違つて父は、組合運動のため蕩児の様に家を明ける慎作を責めなかつた。時々開催する演説会等にも、祖父だと「文章軌範も碌に読めんそこいらの青二才の話し見たいな、ヘッ、あほらしゆて聞けまへんわい!」と鼻先で嗤つて、てんで問題にもしなかつたが、父は、暇の許す限り出席した。慎作が興奮して卓を叩き、拍手の前に一寸見得を切る時等見ると、大抵父も遠慮勝ではあつたが、パンパンと手を叩いて、少なからず得意気であつた。それは慎作の演説に共鳴すると云うよりは、何でもよい自分の息子が人前で拍手されることを祝福する、愚かな親心の飾らない現われであるらしかつた。慎作はそれをくすぐつたく思つたが、併しこの父のたとえ子煩悩からの支持にしても、家の中では古い豪傑の様に威張り返つて居る祖父の手前、甚だ心強くもあつた。必然、父は板ばさみになつた。そこへ母は、父に譲らない引込思案の女だつた。祖父が「體あたり」式な論法、糞味噌に慎作をやつつけ、ひいては、それを黙視する父自身にまで鋭鋒を向けてくると、流石に父も、昔の思想習慣に引戻されて父親としての責任も考え出す様ではあつたが、それでも、丁度赤穂浪士の様に苦難して百姓達の幸福の為に闘うのだと勇んで走り廻つて居る慎作の決心の様を見ては、どうしても口に出しては攻撃しかねる様だつた。それに慎作の演説会場に於ける一種の勇姿も、鳥渡捨てかねる風でもあつた。兎も角父と母との思惑は水銀の様に動き易く難かしく言わば「対立」するところの祖父と慎作との間を、振子の様に行つたり来たりした。
ある日だつた。慎作は帰宅するとすぐ祖父に掴まつて、宣言的に言い渡された。
「おい、お前は反対やそうだが、こうなつたら背に腹は換えられんさかい、どうせ、肥代にも、足らん金や、繭の金で小鳥飼おうと思うのや、今、流行つてる十姉妹な、あれに定めたんや」
慎作は、吐胸をつかれて言葉がなかつた。愈々来た……ある決定的な問題が、突然、目前一杯に立はだかつた様な気がした。
民衆への救いででもあるのか、或は悪魔の手弄みか、実際この十姉妹の流行は、一時天下を風靡した萬年青と同じく、不可解な魅力をもつて、四国を発端にして中国近畿、殊に慎作の故郷附近には、感冒より凄じい伝染力をふるつた。この小鳥は、安易な世話と僅少な食餌代とで六十日目毎に幾つかの雛鳥を巧みに巣立させた。巣立つた雛は飛ぶ様に売れて、それで親鳥の代償は完全に償われ、後は全くお伽話の様に金の卵を産むに等しかつた。憑かれた様な流行力は、何の変哲もなく、只日本人の如く多産であると云うだけのこの鳥に「白」だとか「背残り」だとか「チョボ一」だとかまるで骨董の様な種別を創造し、価値の上には相場の様な変動を生みつけた。需供の関係等は悪宣伝と浮気な流行心理の後ろに霞み去り「飼鳥」と云う純粋な愛鳥心等も病的流行の前に死滅し、そこには唯、露骨な殖金の一念ばかりがはびこつた。にわかの小鳥屋が相継いで出来、遊人は忽ち役者の様に小鳥ブローカーとなりすまし、連日の小鳥の市で席貸するお寺には厄病時の様に金が落ちた。事実、この流行力が存続する限り損失者は殆んど例外で、十姉妹はインチキ骰子同様だつた。
「阿呆奴、今に暴落が来るぞ」と嘲笑していた人達が、何時の間にか悪夢の捕虜になつて、ぞくぞく渦に巻きこまれた。旱りで、田に旧い餅の様な亀裂が出来初める頃には、地道な百姓達までが鳥籠を造り出した。それは全く異様であつた。行逢つた人達は、天気の挨拶より旱りの噂より先に十姉妹の話だつた。それは唯、不景気の病的な反動だとだけでとり澄ましていられなかつた。個人を利己的に、歪めて一攫千金を夢見させる事に於て、賭博に譲らない蠱惑を持つていた……
慎作は今、祖父から唐突に飼鳥を言い渡されて、足許に火がついた驚きを味わずにはいられなかつた。
「お前が、なぜ反対するのか知らんけど、見て見い、拡がる一方やないか。これから東京や北海道の方へも、どしどし出るそうや、ほんまに、これこそ間違いない内職やぜ、こんなええ事、又とほかにあらへん!」
是が非でもこの思い付は実行するぞと云う意気込みは、疊みかけるような口吻に明かだつた。
「金が儲かる儲からんは別問題だよ。僕の反対するのは、どれだけ苦しゆても、こんなばくちみたいな流行鳥を飼うなんて、如何にも心を見すかされるこつちやし、それに、この前の萬年青みたいに何時がらが来るか分からんし……」慎作は、若し正面切つて反駁して行つたら、八歳の様にカッとして枯枝の様な腕をも振りあげかねない祖父なので、出来るだけ調子を柔げ静かに言い続け様としたのだが、もう祖父は、怒つた時の癖である首をガクンガクンさせて管を巻くようにいきり立つた。
「儲かる儲からんは別問題やて! 何をぬかしやがる阿呆め、金を儲けたいさかい、苦るしいならこその話しやないか、これこそ窮余の一策ちゆうのや! それに、まだまだ暴落なんか来るもんかい、誰かてまだ二三年は受合や言うてるし、おれ、今日仏さんの前でけんとく(予想)みたんや、『吉兆』と心の底で声がしたわい」
「そら分かつてる。苦しいから鳥でもと思うのはよく分かつてるが、そうやないのに祖父さん、おれの言うのは、一羽二羽楽しみに飼うのと違うて、大切な資本をかけて小鳥屋みたいに鳥飼うて、そら今日も鳥の市や、明日は西応寺で交換会や、そら『背残り』はいつぺんに二十円も値が上つた。ほら何、ほら何やと、百姓がまるで相場師みたいになるのが間違うてると云うのだ。この旱りと繭の不作で苦しいのは、今切り抜け様と、皆が結束して争議を起してる最中やないか……」
「ヘん、偉そうなほげた吐かさんとけ! 小作争議みたいな、第一お前等が先頭やないか。負けるに決まつてる。小鳥で儲かるのは、ちやんと見えたことや、ここ二年三年のうちに、何千何萬と儲けた人が幾人あるか分らん位やないか。小鳥で儲けたら、小作料を負けろつて、徒党なんか組んで騒がんでもええのや…」
「それがいけないのだ、争議に加わつている者のうちでも、だいぶ十姉妹に色目つかう者もあるけれどその度におれは云うのだ。十姉妹の流行など決して永久に続くものでもない。と云うと、たとえ流行つてる間だけ飼うて助かりたいと云うかも知れんが、そういう心は、自分一人だけよかつたら、他の者は構わないつて云う心と同じだ。百姓は百姓として働き、それで如何して食えなんだら、それは、天候と地主と社会全体の責任だから、その時は百姓は一致団結して……」
「ええい、黙まらんかッ、この社会主義奴! 十姉妹は大丈夫やわい、この勢いやつたら世界中ひろまる!」
「とにかく、おれはこの理由のもとに、蚕の金で十姉妹飼う事は大反対だ」と慎作は断定的に併し半分はおどけた顔色を忘れずに云つた。反射的に、多分祖父は喉で叫んだのだろう、声は出ずに唇が「何! 何!! 何!?」と云う風に動いた。すぼんだゴム風船の様にペロペロ皮膚のたるんだ頚が驚くほど延びた。慎作は、この一徹な祖父を納得させるだけの言葉を知らない自分が腹立たしかつた。いや、自分の思想を如何に噛み易く柔かなものになし得ても祖父の歯牙は、既に郡長授与の刹那に於て抜け落ちてしまつたのを如何せん……であつた。
その夜、父は、祖父と慎作との間で眼の遣り場に困つた。
「お父つつあんの様に云うたかて考えもんやぜ、慎作が反対しよるだけでなく、なんぼ流行かつて、きつと儲かるもんとはきまつてやせんしなあ……それに、もう遅いわい!」
だが、その事より何より、父は慎作の意嚮に気をかけていることは確かだつた。父にしてみても、不成功だつた養蚕をこの鳥で、或はとりかえされるかも知れない事は、何に増しの誘惑であるに違いなかつた。
「いや、儲かる、世間をみたら分かるこつちや、一体誰れが損をしよつたんや? 皆、儲けてるやないか、この村でかつて、十姉妹飼えんのは慎作みたいな因果な息子持つた家だけや、慎作に何の遠慮があるや! 飼う言うたら飼う!」祖父は唾を飛ばしてあくまで決定的であつた。
「そやなあ、どつちにしてみてもええ考えやが、十姉妹ででも儲かつたら、少しは助かるのやけども……」餘程、心動いたらしい母が横から口を出すと、父は何時になく顔を赤くしてたしなめた。
「糸、お前は黙つとれ!」
併し父は、直ぐお祖父さんの逆襲を受けねばならなかつた。
「何やて直造! 糸になんの怒ることあるや、そやつたら何やな、お前にはこの苦しい家を明るみに出す好い考えがあるのやな、それを聞かせてもらおうかい、この際、鳥より上手な金儲を知つてたら、教えてほしいもんや!」
父は瞬間、顔を逆撫ぜにされた様な表情を見せたが、すぐと持ち前の、如何にもお人好しらしい微笑をたたえて「こりや敵わん」という様な眼色で慎作を見た。
祖父の罵りと迫る貧困と、さし招ねく誘惑の中で、どう梶をきめて好いか迷い乍ら、辛ろうじて自分を尊重してくれる父に、慎作は心から感謝した。
けれど、それから一週間ほど経つて、委員会が永引いたため夜十時頃帰宅した慎作は、敷居を跨たぐと同時にはつとして棒立になつた。蚊遣りの煙りが薄い幕の様に立ちこめたほの暗い土間で、白襦袢一枚の父と祖父とが並んで坐り、父は板をカンナで削つていた。坐禅めいたあぐら姿の祖父が、両手を膝に端然とつき、亀の様に首を延ばして父の手付を頼もし気に覗き込んでいた。薄い燭光と蚊遣りの煙りに包まれた二人の周囲に、心なしか、何か秘密の作業場と云つた雰囲気が感ぜられた。門口に突立つた慎作をみて、台所で縫物をしていた母も、土間の二人も、一瞬に、息を呑んで体を固ばらせた。と、父は慌て、側に置いた鳥籠を糠桶の蔭へ押しやつた。そして、不自然なほどかがみ込んでカンナに力を入れた。「シュッ、シュッ」とカンナの音が何かの悪い前兆の様に四辺に際立つて、むくれあがる白いカンナ屑が傷ついた者の様に転がつた。白い眉を上げて祖父は屹と慎作を見たが、思い返した様に舌打して向き直り、故意と慎作を無視する様な高い皺枯れ声を出した。
「これで八つ位は大丈夫出来るやろな!」
「……う……」父は曖昧に首肯いていよいよかがみ込んだ。胸一杯にふくれあがつて来る感激めいたものを拒むように慎作は晴れがましく「只今」と言つて上がつた。母は、慎作の飜つた態度にほつとして、すがりつく様に云つた。
「慎作、粥、温めるかい」
慎作は首を振つて冷めたい芋粥を水の様に流し込んだ。たかが些細な十姉妹の問題だ自己の主義主張と家人の行動とは、必ずしも併立するものじやない、清濁あわせ呑む度量と矛盾の中での一つの……けれど鼻が痛く眼頭が熱く見まいとしていて視線を土間に引寄せられた。無論、父は祖父の強制に、詮方なく露の様に向う側へ転んで行つたに違いなかつた。責めたてられる奴隷の様に手を休めなかつた。祖父は愈々肩を張り、ゴムの様に唇をもぐつかせていた。慎作が食事を終つても二人は土間を離れなかつた。
「もう、好加減にして寝なはれ、明日また、水換えで急がしいさかい!」と、母が白けた空気をとりなす様に云つたのをきつかけに二人は道具をかたづけたが、寝ようとはせずに、慎作の居る火鉢の前に坐つて無闇と煙草を吹かした。父は、すまなさそうに慎作の眼を逃げては故意とらしい咳払いに何度も拘泥し、祖父は喧嘩前の腕白みたいに唇を尖がらし、パタパタと団扇を煽つた。慎作は、この場合何とか云わねばと思つていて、思考がとりとめないままに深く沈んで言葉が無かつた。
「慎作、やつぱり十姉妹飼う事に定めたぜ」
祖父は止めの様に云い切つて心構えたが、何時までも慎作が黙つているので気抜けした様に声を落し「なんぼお前が嫌いかてこうなつたら、藁にでも掴まるより仕様あらへん、さあ、直造、寝よ、寝よ……」と危かしいすり足で次の間に入つた。
思い切つて慎作は併し哀願的に言わずにはいられなかつた。
「お父つつあん、どうしても十姉妹飼うのかい」
「……」
「鳥渡、考えただけでは別に悪い事とは思えんけれど、この間から何度も云う様に、俺の立場から言うと……」慎作が父の顔を見ない様にして云い続けようとすると、父は狼狽てて「いや、その事やつたら、よう分かつてるのやが」とせき込んで遮切つたが、何かの固まりの様に唾を呑むと弱々しく呟やいた。
「何せ、爺さんはガミガミ云うし、蚕があんな様やつた上に、この旱りやろ……おまけに、この秋に返えさんならん借金の当は皆目つかんしなあ、わしかつて、お前の理窟は成程と思うてんのやが……」
「俺も、お父つつあんの心配は分り過ぎる位分かつてるよ、充分家の手伝出来ん俺がかれこれ云う権利はないか知らんが……」
「いいや、そんな事あらへんど……」
慎作への理解を眼色にふくめて、彼の述懐をいたわつてくれた父の言葉を、次の間から祖父の癇癪声が更に強く打消した。
「そやそや、慎作なんかに、ちよつとも権利なんかあらへんぞ」
後に、白けた沈黙が深かつた。
慎作は、坑道を見失つた土龍の様な父が、最後に頼ろうとする飼鳥を、理性一点ばりで拒否する自分が非常に冷酷なものに思えてならなかつた。赫黒い父の額に、藪蚊が一匹血に膨れて止まつていたが、鳥渡、眉をしかめただけで叩こうともしなかつた。掌のマメをぽりぽり掻きつつ、頭の中で難解な謎でも解きほぐそうとするかの様に、永い間、上眼遣いに顔を動かさなかつたが、ふと決心した様に父は慎作を真直に見た。
「お前が、顔出し出来んことやし、そうや、やつぱり十姉妹は止めにしよう」
「ええ、止める?」
「ああ、爺さんは怒るやろが、止めるよ、何とか考えよう」
父はにじむ様に微笑した。同時に次の間で「何やて、止めるて!?」と祖父の叫びがしたかと思うと、ゴソゴソ赤兒の様に匐い出して来た……。
父の飜意に、慎作は自分のために飼鳥を思い止まつてくれたのだと云う喜びだけでは足りない、もつと大きい感激を覚えた。寧ろ自分ヘの愛だ等と推断するのは、父への冒涜だと思つた。父に一つの根強い自覚を見た……そう慎作は考えた。
が、その翌晩、何処へ行つたのか父は十二時過ぎまで帰らなかつた。それは今までにない異例だつたので慎作は非常にいぶかつたが夜更けに帰宅した父の、大きい過ちでも犯したような自卑的な眼差しと物腰しを狸寝の眇めに見せつけられて、尚の事、不審を大きくした。不躾な祖父の追窮にも、父は誤魔化す様に笑うのみで、はつきり言おうとはしなかつた。それが隔日か、二日置きに半月程も続いた。
その間に只一度、珍らしく濁酒を呑んで酔つた時、父は哄笑しながら「まあ、爺さんも、慎作も、心配せんと見てておくれ、今に皆んなをアッと云わせるからな、それまで種明しはおあずけや、あははは、近いうちに、皆んなでエビス顔やぜ」と云つた事があつたが、その調子が如何にも附元気らしく、あはははと笑つても、その笑顔が今にも惨めな泣顔に変りそうなのを、慎作は、いやにはつきり感じた。併し父は、それ以上の詰問には碁盤の様に固ばるのみで答えなかつた。
父の秘密な外出この間に遊びという感じは毛頭なかつたが、それだけにまた異様な恐怖を、大袈裟に云わば密封された恐ろしい贈物を前に置く様な恐怖を、抱かずにはいられなかつた。
ある晩、とうとう母は、祖父には内密に自分の想像をそつと慎作に打明けた。
「ひよつとすると……あの人田村へ行つてるのかも知れまへんぜ」
「田村ヘ! まさか……」と打消したものの、慎作は変に吐胸をつかれた。予想外の事ではあつたが言われてみると、この際、案外近々しい想像なのに驚かされた。田村の賭場へ父が……と想つただけで「勝負」と骰子壷の伏せられた瞬間、試みにピアノの鍵板を叩いてみたら、その音波が散り拡がろうとはせずに何時までも響いているような、極度にはり切つた空気、押し潰した囁きと、袖口と胸元から隠見する入墨、その片隅で、例のお人好らしいにじみ笑を浮かべて、しかし両手は中風の様に震わせているであろう土に汚れた父……が見える様だつた。ふと描がき出した幻影の様なこの想像に見る間に、額にはまつた絵の様な確実味が帯びた。だが慎作は何気なく云つた。
「母さんに、思い当たる節でもあるの」
「そやかて……こないに毎晩、何処へ行くとも云わんと出て行くのが、第一変やないか、それにあの人の、近頃、落着きのないこと、そら可笑しい位やぜ、引出しの鍵はあの人が持つてるよつてに、蚕の金はどうなつたか知らんけど、な、慎作、きつとそうやで」
ひそめるだけ声をひそめた母は、若し慎作が「そうだ、それに定まつた」とでも云おうものなら、わつと飛び立ち兼ねない様子を示していた。十姉妹を一つの自覚から思い止まつてくれたのだとすると、その父がこつそり賭場通いする等とは、どうしても算出されない答案ではあつたが、また一方、たとえ飼鳥は思い切つても他に何とか収拾をつけねばならない責任のある父にしては、あの晩、既に「賭場」が思い当つていたのかも知れないとも考えられた。自覚からじやなかつた。少くともそれは第一義じやなかつた。子煩悩から支持する愛児の面目を、理由は第二として盲愛から立てずにはいられなかつた、そうは思つても、慎作は父に対して決して幻滅を覚えたりはしなかつた。総てを胸のうちにおさめて臆病な父が、賭場通い等と云う様な冒険を決意した……その間の苦渋が胸の痛むほどに察しられた。
田村の賭場は巧妙な客引策に依つて百姓達を鴨にする、近代には珍らしい(或は当局に何等かの了解を得てるのかとも邪推されるほどに)堂々たる賭場であつた。村の銀三や源太等の常連のほか、慎作の村にも少なからず田村のお客がある様子だつた。この附近には、十姉妹や萬年青等の流行を先鞭的にきたすだけに、賭博等の悪習も封建時代から濃い筋を引いていた。田村の賭場は、玄関先でそつと面を見せれば、中ではお客に覆面さえ許した。面を包んだ客がさし向いに黙つて賭に熱中し、無意識に覆面をとり、後ではつとして見交すと、それがお互に知人でお互によもやと思つていた人間であつた……こんなエピソードまであつた。養蚕期の直後等は定例の様に、源太や銀三が百円札の五六枚も見せびらかせつつ一種の勧請に歩いた。
「お前、ちよつと田村の近所までも、見に行つてくれへんかい」と、母にも悲しい確信があるらしかつた。
「大丈夫そんな所へは行つてへんと思うが、よし今晩、どれだけ遅くなつてもよく父つつあんに訊いて見るよ」
「そやかつて、今晩も、もう九時過ぎやのにまだ帰つてきやへんし!」
とその時だつた。表戸が突然細目に開いて、そこに覗う様な二つの眼が光つて、声は表でした。
「エエヘヘヘヘ今晩は!」と漸く戸を開けて入つて来たのは、遊人風体の男だつた。
「ヘヘヘどうも、こんなに遅くお邪魔して何とも申訳ありません。直造且那のお宅はこちらで?」と小腰をかがめ乍らその男は封書をさし出した。そこに、薄い墨で認めた下手な父の筆蹟があつた。
くわしきは帰りて申上候。この使の者に金三十円也お渡し下され度し、家には三十圓無之と思うが、三十円のネブチのある品物にてもお渡し下され度し。
爺殿にも慎作にも何卒ないしよにお願申候。それからタンスの百五十円は無之御すいりよ下されて何卒々々宣敷願上候。お詫びは帰りて幾重にもいたす可候。
直造
糸殿
手紙を書いたこと等の殆んど無い父の、この拙い文章がどんな悲痛な台詞にも増して胸にせまつた。荒々しい風が直接身内へ流れこんで、ふつと音を立てて何もかも吹き消された様な気がした。この気配に折悪しく祖父が起き出てきた。
「何や、何や?」と祖父は、手紙をひつたくるなり念仏の様に音読して「外道奴」と唾をとばし、再び音読して「情けないこつちや、この下手糞な字を見たれ!」と泣声で呟いた。
「ヘヘヘどうも……」他国者らしい男は懐から風呂敷を出して下品に笑い、袖からのぞく入墨に似合ない猫撫声を出した。
「何しろ、このいたずらつて奴は『目』でしてね、ヘヘヘその運ですね、此方の旦那なんざあ、仲々どうして素人衆にしちや上手なもんですが、何分、今言つた様な次第で、今夜その目つてのが無く、それに、あせつて追つかけなすたもんですから無理な借りまで背負いこんだ様な訳でして、この落目の時の追つかけつてのはまた不思議と!」
「ええ、ゴタゴタ言わんといてくれッ」と祖父は男をグッと睨みつけて、母に怒鳴つた。
「糸ッ、何を泣いてるのや、早出してやらんかい、わいの紋付も絹の外出着も、皆包んでやれ、ほほたら、少しは性根にこたえるやろ」
男が出て行くと祖父は通りの悪い煙管を岬の様に唇を尖がらせて吹きまくり泣く母をたしなめた。「お糸、泣くなよ、泣いたかて如何なるこつちや、見つともない、泣くな、泣くな!」
母は、塗りの褪せた箪笥に凭れかかり、空になつた鬱金の財布を、ハンケチの様に目に当てて鳴咽つた。
妹は、影の様に裏口から出て行つたと思うと、すぐコソコソ戻つてきてカマドの蔭に跼つた。
「あんな人が丁半するなんて、蚕の金までとられてしもうて、ほんまに、肥代や今度の利息どうする気や、夜も寝やんと桑洗うた絹や、手伝うてくれた新宅の里代にも、まだ一枚の着物もこしらえてやらんのに……、ほんまに、あの人、気でも違うたんや!」
「気も狂うやろかい、この旱と繭の不作やないか、彼奴かてその苦労しとるんや、苦しまぎれに田村へなんか行く気になりよつたんやわい。こんなやつたら十姉妹でも飼うといたら!」と祖父は、たるんだ瞼を釣りあげる様にして慎作を睨みつけた。
「鳥でも飼うといたら、こんな事起らなかつたンや。わいがなんぼよぼよぼでも、十姉妹の世話位出来たんや! みてみい、あれから鳥の相場、まるで鰻のぼりやないか、それにこれから南洋へまで送り出すつて、新聞に書いたある。それやのに、この餓鬼が、屁理窟並べやがつたさかいに……こら慎作未練やないぞオ、お父つつあんが、一人で苦労してばくちみたいなものに手を出しよつたのも、みんなお前のせいやぞ」
祖父は喋り乍ら、日頃からの不平不満に一時に火が付いた様に熱して行つた。桁丈の短かい浴衣が、憤怒を笑うように枯れた全身にまつわりついていた。
「さ、違うなら違うと言うてみい、こら、なんぜ黙つてくさる、返事せんかい、この罰あたりめ、この先、この一家はどうして暮らすのか言え。これでも貴様はまだ、十五円の月給仕事仕腐さる気か!? 改心するなら両手をついてあやまれ、こ、こら、慎作、なんで、寝転びやがる! この阿呆、年寄やと思うて馬鹿にする気か、こん畜生!」
堪え兼ねた様に祖父は立上ろうとしたが、利かない体は無闇な威勢を裏切つて、つつかれた達磨の様に尻餅をついてしまつた。
その夜、父は帰らなかつた。明け方、心配の余り、町の田村まで迎いに行こうとした慎作は、裏の田で軍鶏の様に眼を薄黒く窪ませた父が祈る様に眼を閉じて、水車を踏んで居るのを見た。
ふいと慎作を見付けた父は、危く足を踏みはずそうとしたが、やつと両肱で体を支え、それでも微笑もうとした。が、笑えなかつた。どんな時にでも、看板の様に面から去つた事のない微笑が、もう拭きとつた様に消え去つたのだ。慎作は、ただ泣き笑うより術はなかつた。出来る事なら、愛撫を籠めた手で父の背を叩き、何んでもよい涙の出る様な慰めを何時までも言い続けたかつた!
振りかかつてくる火の粉の様な苦痛は、街と野にあふれた悲惨は、すべて皆、反抗の火を焚く燃料たるべきであつた。だが一家の悲惨はあまりに身近過ぎる様だつた。それは余りに生々し過ぎる薪であつた。理智が悩みを清算する前に感情は迷児の様に泣きわめいた。慎作は、この事実に、全く打ひしがれた自己をはつきり知つた。そうだ、慎作は常夜燈の様に消えなかつた胸の火を、忽然吹き消されたまま、村を背に、同志を背に殊に眞暗な一家を背にして、何処までも何処までも走つて行きたかつた。だが、足には思想のおもりが離れず、頭では間断なく理智の鐘が鳴つた。何のこれしきに、闘争児の総てが舐める苦痛ではないか、高く批判せよ、あらゆる煩悶を情熱の糧にせよ! けれどこの呟きも野面を渡る一陣の風であつた。一戦ぎの後に、古沼の様な憂鬱が襲いかかつた。これが、毎日の闘争にまで尾を引いた。今まで気に止めなかつた同志の、ふと不用意に洩す利己的な言葉の端が棘の様に心にささり、ともすれば白眼をむきたがる仲間の百姓に、日頃にない軽蔑を覚えたりした。
慎作は恐れ乍らも想つた。もう一つの苦痛が、より大きい試練がほしい、それに依つて現在の如何にもならないこの怯儒が、このまま絶望の底へ沈潜してしまうか、或はまたそれを契機として再び暗雲の様に情熱が染め出されるか……いささかこの希求に不安とあるおこがましさを覚えつつも、抱かずにはいられなかつた。
白東会を雇つて応戦準備を整えた地主達は、戦艦の様に落着き小作人達の結成を眼下に視下した。
「農民組合を脱退して来い。すべての交渉はそれからの事だ」
これが動かない最後の返答だつた。
示威と結成の固めを兼ねて、大演説曾がS寺の電気のない大広間で開催された。説教壇に弁士が立つて激烈な言葉を吐いた。百目蝋燭が聴衆のどよめきにゆらぎ、その都度、融け合つた陰影が生物の如く躍つた。
藤本が、台に立つた。川つ縁や林で鍛えた声が、二十四にしては朗々として太かつた。金色の仏具に反映する柔かな光芒、感激に息を呑む聴衆、一堂の場景は何か尊厳な、旧びたフィルムの様だつた。藤本の論点は白東会に及んだ。
「……諸君、地主は遂に白東会を抱き込んだ、これが彼奴等の常套的な最後の手段なのだ。白東会とは何か……名を正義に藉りたる暴力団に過ぎないではないか! 彼等地主は、今や悪剣をとつて立つたのだ。諸君は、桜田門外の雪が血に染められたのは! 井伊の握つた暴剣の報いであることを忘れないだろう。我等、正義を主張する、国宝たるべき百姓に、剣を持つて臨まんとする彼等……」
この時であつた。演壇の直前にすつくと立あがつた一人があつた。おや、と思う間もなく人影は演壇に飛びあがつた。
「国賊ッ」叫喚が礫の様に聴覚を打つた。
と、白刃がサッと光芒を切つて、高く翳された藤本の右腕に、にぶい強靱な音を立てた。慎作は駈け寄つた。どつと殺到する群衆の上で、白刃が瞬間鋭くきらめいたが、忽ち拭われる様に消えた。藤本は血のしたたり落る右腕を支え乍ら、微笑を忘れていなかつた。左右から警宮に掴まれたその男は荒々しい胸毛の胸をはだけて、闘犬の様に吠え立てた。
「俺は、白東会の前川だ、正成じやないが、七度生れ変つて国賊を誅すぞ」
犯人を奪おうとして犇めく群衆に、揉みほぐされそうになり乍ら警官は退場した。
藤本の右腕は失われた、だが、彼の逞しい勇気には、失くした右腕だけ附加した様だ。
「なあ、慎ちやん、こうして俺達の意志は鍛金の様に強くされるんや、白東会の奴等、俺が右腕やられたさかい、もう争議には出るまいて言いふらして居るそうだが、ふン、右腕一本位で屁こたれる品物と、品物が違うわい。左手と足がまだ二本もあるやないか、かりに、これ皆やられて胴ばかりになつても、若し生きてさえいたら、俺は止めんぞ、そうなつたら慎ちやん、いざり勝五郎やないが乳母車にでも乗つて、君に後押して貰うわ、ははは」
「ああいいとも、後押して引受けた」
藤本の凄まじい闘志に、却つて励まされる形であつたが、それでも慎作は、久しぶりで心の底からはつきりものを言つた様に思つた。とぐろを巻いていたが、春を迎えた蛇のそれの様に、のろりと頭をもたげた様な氣がした。自家の暗鬱は、まだどうしても燃えない薪ではあつたが、藤本の遭難は暗い心に一つの窓を開けてくれた。
病院を同志の宮崎と連れ立つて出た時は、黄昏であつた。宮崎は涙をためて藤本の闘志を讃嘆した。
「宮崎、やろうぜ、どうや、階級戦線に体を曝す吾々だ」
慎作も合槌を打ちつつ、寧ろ自分に言い聞かせる気持だつた。そうだ。まだ俺の心は死火山ではない筈だ。今に、藤本に負けない活動を始めるであろう。
常設館の角を曲がつてA川に沿つて坂をのぼりつめるところA橋と小さい公園の入口とが、T字形に接して居た。そこに夕照を受けて涼みの群が円を造つていた。近寄るにつれて、はげしい拍手と笑声が聞えてきた。
「何んだろう」と、宮崎は小走りに寄つて行つた。慎作も大跨になり延びあがる様にして中心をすかし見たが、二三間先の宮崎が突然くるつと廻つて慎作を睨み、何か訳の分らない叫けびをあげたので中心に何があるか分からないままに立止まつた。宮崎は何故か酷く狼狽して、慎作の腕を掴んで橋を渡ろうとした。
「何だ、どうしたんだい」宮崎の腕にグングン引つぱられながら、後に凭れる様にして慎作は原因を探つた。と、また、宮崎は急に立止まつた。まじまじと慎作を見詰めて、徒に唇を歪めた。
「おい、喫驚させるなよ」と呆れて慎作が叫んだのと、聞覚えのある声を耳にしたのと、群衆の隙から眼球を引抜かれる様なものを一瞥したのと、殆んど同時だつた。
「おおッ」慎作は泳ぐ様に群衆をかきのけた。クワッと最後の一炎をあげた晩暉の中に、拳が空を叩き、熱弁をふるつているのは、盲縞の裾をはしより、全身を痙攣させた、まぎれもない慎作の父だつた。
「物持階級は百万円の問題である。吾々は団子の様に困つて……」
父は据えきつた眼をギロッギロッと人々の上に流して行つたが、突然、恰も空から落ちかかる何物かを受け止める様に、両手を高々と翳して、一語一語に永い尾を引かせて叫んだ。
「十姉妹は悪いぞオ、なんぜ皆は、鳥なんか飼うのかあ、丁と半とは仲々分からないぞオ、諸君、物持階級は百万円の問題であある」
誰れかが「ヒヤ」と弥次り、誰かが「ノー」と嘲笑つた。怪訝そうに足を止める新らしい通行人も演説者の狂気を知ると安心して顔を崩した。
「……であるからして、吾々は団子の様に固まつて……」父は皮肉にも慎作の演説の端つくれを、而かも慎作そつくりの抑揚で叫ぶと、だしぬけに掩口された様に行詰まり、義眼の様に瞳孔を拡大させた。汗と涎れが哀愁と憤怒の表情のまま氷りついた顔皮をびつしより濡らしていた。
「団子の様に固まつてどうするのや」
「喰うのかい」
「この狂い、さつきから同じ事ばかり言いよるがな、浪花節でもやつてんか」 父は狂つた。狂つた父が、機械の様な饒説であつた。昏倒しそうな衝動が慎作を一種の無感覚に誘つたが、次の刹那せきを切つた怒濤の様なものが、爆発した火華の様なものが、全身に狂い廻つた。
慎作は泥酔者の様によろめいて近寄つた。
「おい、お父つつあん、しつかりしてくれ、おい、おおいッ」
涙で震える視野に、不審気な青い顔が、ぼッと霞んでいた。
「おい、分らないのかい、俺が――慎作が分らないのかい」
襟首を鷲掴みにされて身悶えした。父は渋面一杯鯉の様にパクパク口を開き、何か叫び出しそうにした。群衆はどよめいて、囁きが飛び交うた。
「あ、親子やぜ」
「ありや、S村の直造さんや」
「二人とも狂うてンのかい」
「何や、何や?」
慎作は、父をかかえ込んで叫んだ。
「諸君、これは私の愛する父です。私は、父の狂つたことを今はじめて知りました。私の父は従順しい、正直者でした、それが……どうして、こんなあさましい気狂いになつたか、諸君、諸君にも責任があるのだ。それは十姉妹の悪流行だ、この大旱りだ、貧乏だ、悪地主だ、いや、それはそれは資本主義制度の……」
声は泣きかすれて行つた。が、見よ! 慎作の胸底にうず高く積まれた悲惨な薪に、遂に火がついたのだ。今こそ無産階級意識が、大炬火の如く燦々と輝き出したのであつた。
(昭和三年五・七・十一月「文藝戦線」)