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近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ

  中央集権官僚制

 廃藩と同じ日(明治四年=1871七月十四日)土佐出身の板垣退助と肥前出身の大隈重信が、参議に再任せられた。これで参議は薩摩の西郷(隆盛)、長州の木戸孝允(たかよし)とともに、薩・長・土各一、肥二の旧四藩出身者ということになった。廃藩の前、大久保(利通)はもっぱら薩長の力で廃藩後の政権を維持しようとしたが、木戸は土・肥を加えることを主張し、それが実現されたのである。

 木戸は、薩摩の西郷が、薩長土三藩よりだした親兵(後の近衛兵)、すなわち政府に現にある兵力の主力を掌握しているのみならず、全国の保守的士族の精神的支柱となっており、大久保についてもまた、かれがとかく漸進論の名のもとに旧藩勢力にけんせいされるのを不満としていた。木戸はことごとに、元治元年(1864)の禁門の変で、西郷のひきいる薩摩藩兵に長州勢が討たれたことを想起しては、薩摩人、ことに西郷を警戒していた。それゆえかれは、廃藩後は土・肥の勢力を加えて薩摩の勢力に対抗しようとしたのである。

 同月(明治四年七月)二十七日、民部省を廃止してその業務を大蔵省に合併、ついで大久保大蔵(きょう)のもとに長州の井上(かおる)大輔(だいぶ)になった。これにより大蔵省は、租税寮・造幣寮と出納司・戸籍司・勧業司・紙幣司・駅逓司・統計司・通商司・営繕局その他を管し、財政・通商・勧業の全権をにぎり、あわせて戸籍司を通じて府県行政の根幹をおさえた。

 二十八日、欠員の文部卿に肥前の大木喬任(おおきたかとう)(前民部卿)が任ぜられた。

 二十九日、官制を大改革、太政官を分かって正院(しょういん)・左院・右院とする。正院は天皇親臨して政務を()べる機関で、太政大臣(だじょうだいじん)一人と納言(なごん)・参議(若干名)を置く。太政大臣は天皇を輔翼し、庶政を総判し、祭祀・外交・宣戦・講和・条約締結の権限をもち、また海陸軍のことを「統治」する。納言は大臣につぎ、大臣が欠けたばあいにはその代理となることができる。ただしこのときの官制では納言となっているが、この後、納言が置かれた事実はなく、このときの官制にはない左右大臣が任命されているので、納言は左右大臣と読みかえるべきだろう。参議は大政に参与し、太政官のことを審議決定し、大臣・納言を輔佐する。以上の三役の下に、機密の文案を起草し、位記(いき)・官記をつかさどる枢密大史(すうみつだいし)大内史(だいないし))以下の諸役人がある。行政事務は正院の総轄指揮のもとに、神祇(じんぎ)・大蔵・工部・兵部(ひょうぶ)・司法・宮内(くない)・文部の七省と開拓使が分掌する。ただし司法省は裁をもつかさどる。

 左院は、参議が兼任する議長と正院が任命する一等・二等・三等の議員(定員なし)よりなり、正院の諮問に応じ、左院自身の発議で「諸立法ノ事ヲ儀スルヲ掌ル」。その会議の開閉および議事の規則は、すべて正院の裁許をうるを要し、院議で決定した法案は正院を拘束する力は全然なく、それを採用して実行するか否かも正院のみが自由に決定する。また議事はすべて機密とし、審議中のことはもとより、すでに審議を終わって議決したことでも、正院の決裁がないうちは、議員各個人の意見といえども外部にもらしてはいけない。

 右院は行政各省の長官と次官の会議体で、正院の諮問(しもん)または各省の発議により、各省事務の法案を議し、さらに行政の実際の利害を審議する。

 ついで八月八日、二年七月以来、祭政一致にのっとると称し、一般国務に当たる太政官の外にあって、それより上位におかれた神祇官を廃止し、その事務は太政官中に新設された神祇省に移した。同月十日、太政官(正院・左院・右院)を本官とし、諸省をその分官と定め、従来の官位相当を廃止して新たに官等を十五等に分けた。すなわち議長・各省卿および宣教長官を一等官、副議長・各省大輔らを二等官、大内史・各省少輔らを三等官とし、以上を勅任官、四等官より七等官を奏任官、以下を判任官とする。勅任官は正院の議をへて天皇がこれを任免し、奏任官は天皇に上奏したうえで正院が任命し、判任官の補欠は各省長官がまず任命して月末に正院に報告する。太政大臣・左右大臣および参議の三職は天皇を輔翼する重官であるから、一般官吏なみの官等をたてない。

 

  藩閥官僚の形成

 以上の官制改革を通じて、天皇—三職—勅・奏・判任官という官僚の階層が確立された。旧来の官位相当制では、身分と位階の高い華族または皇族でなければ最高官に任用できなかったが、新制により、そのようなことはなくなった。これを事実についてみよう。

 明治元年(1868)の三職七科ないし三職八局の制と政体書では、議定および行政部の長官と次官は公卿・大名のみから任ぜられた。二年七月の二官六省制では、神祇官の長と次官および太政官の大臣・納言は公卿のみから任ぜられ、省長官は公卿または大名から任ぜられた。このときはじめて、藩士出身者が参議、および各省次官にまで進むことができた。

 ところが今回の官制改革以後は、太政大臣に三条実美(さねとみ)、右大臣に岩倉具視(ともみ)が任ぜられ(後明治八年、左大臣に島津久光が任ぜられる)、大臣が公卿・大名に実際上は限られたことは従前と同じであるが、参議はすべて旧藩士出身のみであり、各省長官も四年七月、外務卿に岩倉がほんのしばらくなっただけで、すぐ旧肥前藩士出身の副島種臣(そえじまたねおみ)に代わり、華族出身の卿は皇室の事務に当たる宮内卿のみとなった。

 いかに王政「復古」をたてまえとするとはいえ、祭政一致という古代そのままのイデオロギーと、古代宮廷のままの身分制・官位相当制では、古代社会とはまるでちがった近代の、日々に新たに、日々に複雑になる国務にあたる機構は維持できなくなったのである。

 祭政一致のよそおいが無用となると同時に、「公議政治」のたてまえも無意味になった。もともとこの公議とは、諸藩の議をさしており、公議政治とは諸藩および民間の人材を中央に吸収し、また公議によるという名で新政府が諸藩を統制する方策であったから、藩が廃止されれば公議も問題でなくなる。諸藩代表の集議院も当然廃止された。

 左院はもはや公議輿論(よろん)を集めるという見せかけさえももたない。それは現代でいえば、実質的には、内閣の法制局にすぎない。これを「立法」府と称し、その議長を各省長官なみの一等官とし、初代議長に土佐の後藤象二郎を、副議長に肥前の江藤新平を任じ、議員には比較的知識の豊かな人材をあげたのは、元年以来の公議尊重の名残りをとどめ、また実際上にも、百事創草のこの時期に、法制局的な役所の役割は、現代よりもはるかに重くかつ大きかったためである。

 こうして、天皇の権威と権力を源泉とし、それを上級から下級へ順次に移していく天皇制官僚のきびしい中央集権体制がつくられていった。しかもこの体制をつくるのに、もとの薩・長・土・肥の四藩、とりわけ薩長両藩出身者の力が決定的な役割を演じたから、政府の重要な椅子は、三条と岩倉を除けば、いつのまにかすべてこれら旧四藩、とりわけ薩長出身者によって占められた。かれらは旧藩時代の同志・同僚であることによって閥を形成しているので、これを藩閥官僚という。ただし、同じ薩摩出身でも、官僚専制派ともいうべき大久保(利通)派と反官僚派の西郷(隆盛)派は対立し、長州出身でも木戸・井上・山縣らは官僚派で、前原一誠・鳥尾小弥太らはその反対派というべく、土佐でも佐々木高行らは土佐藩閥というよりも大久保派であり、板垣は反官僚派である。肥前では大隈らの官僚派と副島・江藤らとは対立する。反官僚派は概して士族第一主義であるが、そのなかにも大きなちがいがあるので、あえてこれを士族派といわずに反官僚派といおう。

 そして官僚派と反官僚派は藩をこえて連合する。それにもかかわらず、官僚派にしろ反官僚派にしろ、政府の指導的地位は、みな薩・長・土・肥の旧四藩の出身者で占められているところに、藩閥といわれるゆえんがある。そして西郷派と板垣派が政府から追われたとき、厳密な意味での薩長藩閥官僚専制が成立するが、そのことは歴史的におのずから明らかにされるであろう。

 

  岩倉大使らの米欧派遣

 廃藩置県にともなう中央官制の大改革が一段落すると、政府は一大使節団をアメリカおよびヨーロッパ各国へ派遣することとした。これより先、明治二年五月ごろ、大学南校の雇教師で新政府の教育・文化政策の顧問格であったオランダ人フルべッキが、当時の外国官副知事大隈重信に、使節を派遣して欧米の制度・文化を視察し、日本の将来の参考にすることが重要だと建言した。大隈はこれに賛成し、岩倉輔相(ほしょう)にはかり、両人でひそかにその実現の機会を待っていたという。いまや廃藩置県で中央集権の基礎は固まり、使節団派遣の政治的余裕ができたばかりでなく、まさにこの時期にその必要が痛感された。

 というのは、第一に、安政条約によれば一八七二年七月一日、すなわち明治五年五月二十六日から条約改正のための交渉を開始できるが、安政条約の治外法権や関税協定制などの不利と屈辱は、明治政府が早くから痛切に感じており、それを改めようとの意欲はさかんであった。そのためには、いま改正交渉開始にさきだち、有力な使節を各国に派遣し、新日本が外国と和親通商に熱心であることを印象づけ、かつ条約改正の予備交渉をすることが有効であると考えられた。第二に、条約改正のためには、日本も欧米文明を手本とした改革をせねばならないと為政者は考えたが、そのためには欧米の「開化最盛ノ国体・諸法律・諸規則等実務ニ処シテ妨ゲナキヤヲ親見シ」、その日本に適切なものをとり入れる必要が強く感ぜられた。

 九月十五日、政府は使節団派遣のことを決定、十月、全権大使に右大臣岩倉具視、副使に参議木戸孝允・同大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務小輔山口尚芳(なおよし)を任じ、理事官として司法大輔佐々木高行・侍従長東久世通禧(ひがしくぜみちよし)・陸軍少将兼兵部大丞山田顕義(あきよし)・戸籍頭田中光顕・文部大丞田中不二麿・造船頭肥田為良(ひだためよし)を加え、ほかに書記官・通訳・随員など総勢四十八人の大使節団を編成した。

 一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を親しく視察し、これから学ぼうとするのは、古今の歴史に類のない政治的文化的大事業であった。奈良朝の貴族は、幼稚な造船・航海術をもって、颱風あれ狂う支那海をも恐れず、幾度も大遣唐使団を派遣して唐の文明を学んだが、そのさいにも、政府指導部のもの自身が渡航するのではなかった。これとくらべても、明治維新政府の新文明摂取の意欲のほどが想われる。

 使節の派遣そのものについては政府内に不一致はなかったが、使節の人選はもめた。政府内には、さきにのべた官僚派と反官僚派あるいは開明派と武断派ともいうべき対立がはげしく、官僚派・開明派はほとんど使節団に加わり、その派で留守にのこるのは大隈参議と井上大蔵大輔・山縣兵部大輔らのみとなる。そこで三条太政大臣は、木戸・大久保の出使に反対し、井上はせめて大久保だけでものこることを強く要望したが、岩倉は帰国後の新日本建設のためには、ぜひとも木戸・大久保が、自分とともに欧米各国を視察してくる必要があると力説した。木戸・大久保もこれに賛成し、ついに副使となった。反官僚派ないし武断派は、官僚派が大挙して外国へでるのをむしろ歓迎したのか、かれらのほうからの使節団への割込み運動はない。

 岩倉らのほうでは、留守中に西郷らになにをされるか心配でならなかった。そこで十一月七日、使節団と留守政府の大臣・参議・各省卿・大輔、左院議長、開拓長官・次官が連署捺印して誓約書をつくった。誓約の眼目は二つあった。

 その一つは使節が帰国した後に、大使や理事官が欧米で学びとったことを、日本の実状に照らして実行することに一同あらかじめ同意し、「内地ノ事務ハ大使帰国ノ上大ニ改正スルノ目的ナレバ、其間ナルベキダケ新規ノ改正ヲス可カラズ。万ヤムヲ得ズシテ改正スル事アラバ、派出ノ大使ニ照会スベシ」、ただし「廃藩置県ノ処置ハ、内地成務ノ純一ニ帰セシムベキ基ナレバ、条理ヲ追テ順次其実効ヲ挙ゲ」、大使帰国後の大改革の下地をつくるべしという。すなわち大使派、いいかえれば開明・官僚派の帰国後の国政主導権を確保することである。

 第二は、諸官省の長官の欠員は補充せず、諸官省とも、勅・奏・判任を問わず官員を増さず、また雇外国人を増さない、すなわち留守派が人事を通じて勢力を強めるのを予防することである。

 しかし、日本の歴史に未曾有の大変革期に、一年以上も政府がなんら新しいことをしない、人事も動かさないということは、とうてい不可能であろう。大使ら帰国後の留守派との大衝突の種は、このときすでにまかれていた。

 岩倉大使一行は、留守政府の動向を気にしながら、明治四年(1871)十一月十日、東京を出発し、十二日、アメリカ汽船にのって横浜を出港、サンフランシスコに向かった。ちょうどそのとき本国に帰る駐日アメリカ公使デ・ロングが、一行の案内役になった。大使らがまずアメリカに向かったのも、あるいはこの使節団派遣に、デ・ロングの働きかけがあったのかもしれない。

 

  賤民制の廃止

 新しいことはなるべくしないという大臣・参議らの誓約書にも、「内地政務ヲ純一ニ帰セシム」、すなわち中央集権の統一支配を確立するための「廃藩置県ノ処置」だけは、順次行なうことが認められていた。いわゆる四民平等の制や戸籍制度・地方行政制度は、まさにそのような「処置」であった。 

 四民平等についていえば、政府は明治三年九月、それまで平民に禁ぜられていた苗字を名のることを許し、廃藩直後の四年八月には、華士族の散髪と脱刀は「勝手たるべきこと」とした。この文面では、散髪・脱刀を強制するのではないが、事実はそれが強力にすすめられた。同月また、平民が羽織や袴を着用する服装の自由をみとめた。同月、さらに士族が下民のささいな「不敬」をとがめて、はなはだしいのは斬りすてるなどのことは、「御維新ノ今日アルべカラザルコト」とし、地方官をして心得違いのないように士族をあつく教諭させた。

 また華族より平民にいたるまでの通婚の自由をみとめ、年末には、華士族が在官中のほかは農工商の職業につく自由をもみとめた。平民が官吏・将校になることも、これより以前にすでに制度上は可能になっていた。

 このようにして服装・結婚・職業と身分が分離され、その点での四民の差別が制度上はなくなったばかりでなく、四年八月二十八日には、「穢多・非人の称廃され候条、自今、身分職業とも平民同然たるべきこと」とされて、千年以上にわたる賤民制の廃止が発令されたのは、「四民平等」の大きな前進であった。

 えた・ひにんの廃止は、これまでさまざまの立場から主張されていた。たとえば二年三月の公議所の討論で、会計官判事で当時第一級の洋学者加藤弘之は、すべての人間は平等の人権を天から与えられているとの天賦人権論の立場から、えた・ひにん制の廃止をとなえた。丹波福知山藩からでた公議所議員中野(ひとし)は、道路里程の計算にさいし、えた村の道程は除くという従来の制度では、実際の里数に合わないので、全国の真の里数を明らかにし、全国統一の交通・駅逓の制度をたてるに不都合があることを指摘して、えた村も里数に加えることを主張した。

 天皇制による全国統一支配と賤民制との矛盾が、意外なところにまであることを知った議員たちは、二○一名のうち一七二名が中野の提案に賛成した。公議所ではこのほかにも、えた・ひにんの名目を廃止して、これを北海道開拓に用いよ、(豊後日出藩(ぶんごひじはん)の帆足龍吉)、あるいは革屋組・革屋職として百姓・町人と同業にせよ(信州松本藩の内山総助)などの主張があった。

 土佐藩の最下級の陪臣出身の大江(たく)は、幕末には討幕運動に参加し、明治二年、政府の兵庫県の役人となり、一年ほどで退官して上海(シャンハイ)に遊び、帰国後は神戸に住んでいたが、神戸の被差別部落民の惨状を見るに忍びず、また開港地のこととて部落を外国人に見られては体裁が悪く、これでは国交にも害があると考えて、明治四年一月と三月、政府に賤民制の廃止を建白した。かれはたんにえたの名称をなくするだけでなく、政府が勧業資金を与え、牧畜・開墾・酪業・製革などの技術を習得させ、人なみの生活を保障することを要望した。

 部落の人々自身も、幕末以来、機会をとらえては解放を要求していた。慶応年間、長州藩で百戸につき五人の部落民を選抜してこれを平民籍に列し、屠勇隊を編成したとき、人々が相次いで入隊を志願し、慶応二年、幕府が長州を征討したさいにも、屠勇隊はめざましい活躍をしたが、それは解放への強い願いのあらわれであった。また慶應三年五月、摂津渡辺村の人々は、幕府が御用金を賦課したさい、えたの名を除いて平民とされるならば、家財をかたむけても御用金をだそうと上書(じょうしょ)した。これは部落の富者が金で解放を買い取ろうとするものであるが、この背後には、土佐藩倒幕派の働きかけがあると幕府は推測していた。

 江戸に住む関八州(かんはっしゅう)えた(かしら)弾左衛門(だんざえもん)も、幕府の長州征討のさい、手下(てか)をひきいて軍夫として働いた。戊辰(ぼしん)内乱が始まると、かれは幕府への忠勤を申し立てた。それにより明治元年正月、まずかれ自身が「平人」にされ、二月、かれの手代(てだい)六十五人も平人とされた。弾左衛門はさらにかれの支配下のすべての者の身分引上げを幕府に要請した。幕府はそれをいれる代わりに冥加金(みょうがきん)を取ろうとしたが、まもなく江戸開城、幕府の滅亡となった。弾左衛門はさらに新政府に奉仕して解放を買い取ろうとした。また京都の蓮台野村の年寄元右衛門らは、明治三年、政府に身分解放を願い出た。

 

  「四民平等」の実態

 このような部落内外の動きを背景にして、賤民制の廃止が発令されたのだが、それは、もっぱら外国への体裁をつくろうのと、全国土全人民を政府が画一的に支配するためであった。政府はえた・ひにん廃止を令すると同時に、府県に、地租そのほか、従来かれらからは取り立てなかった公的負担を、今後は平民なみにとるよう調査のうえ大蔵省へ伺い出るべきことを通達したが、勧業資金を与えてその生活を人なみに向上させることなどは、考えてもみなかった。解放令当時のえた・ひにんおよび官庁用語で「雑種賤民」とされた人々の総数は五十万人以上、全国総人口の一・七パーセントを上まわるものと推定される。

 こうして複雑な封建身分制は、超人間的身分である天皇と皇族および華族・士族・平民の三級に整理された。華族は依然として貴族身分であり、旧領主としての莫大な財産をひきつづき保証された。士族もなお社会的に高い地位をしめ、しばらくは封建家禄を与えられていた。明治六年七月施行の新刑法「改定律例」でも、華士族にたいする刑罰は平民にたいするのとは違って、軽い罪は金をだしてあがなうことをみとめ、平民なら懲役刑にあたる罪を禁錮刑にした。

 この刑法ではまた、官吏を華士族と同じにあつかい、平民の官吏となったものと、その父母兄弟子孫の犯罪は、すべて士族に準じて取り扱った。官吏は新しい特権身分になったのである。

 つまり「四民平等」は名のみで、華士族と官吏は新しい特権身分となり、人はすべて平等であるとの理念さえうちたてられなかった。ことにもとの賤民にいたっては、その名称が廃止されたことによって、従来は課せられなかった納税・兵役その他の義務を平民なみに課せられただけで、実生活上では依然として被差別身分としてのこされた。職業の自由や居住の自由は、部落民の大多数にとっては、農業・商工業に進出し、あるいは近代的労働者となる自由でもなく、ただその身分と結合していた特定の手工業のうち皮革業のような発展性のある分野の独占は、部落以外の資本にやぶられていく「自由」にほかならなかった。

 しかし法制上の解放は、部落の人々の社会一般との交渉の道をすこしずつひろげ、それとともに差別される屈辱と苦しみの自覚をいっそう痛切ならしめ、その実質的解放をかちとるたたかいを発展させる一条件となった。

 

  戸籍と新町村制

 統一的な国民支配のためには、身分にかかわらず国民一人一人の姓名・住所・年齢・生死などが確実に政府に掌握されていなければならなかった。そのため政府は、廃藩前の明治四年四月、早くも戸籍法を定めていた。その第一則に、従来の戸籍は錯雑しており、遺漏があってもそれを検査して改めることができないが、そのわけは、「族属ヲ分テ之(戸籍)ヲ編製シ、地ニ就テ之ヲ収メザル」ためである。「故ニ此度編製ノ法、臣民一般……其住居ノ地ニ就テ之ヲ収メ」るという。すなわち従来は武士・町人・百姓・えた・ひにんなど、それぞれ身分ごとに戸籍を別にしていたのを根本的に改めて、まず数ヵ村をまとめて小区とし、いくつかの小区をまとめて大区とする行政区域を定め、その区域に居住するすべての者を、「毎戸ニ官私(官吏・民間人)ノ差別ナク臣民一般番号ヲ定メ、其住所ヲ記スルニスベテ何番屋敷ト記シ、編製ノ順序モ其号数ヲ以テ定ムルヲ要ス」とした。

 華族も士族も平民も官吏も民間人も、すべて「臣民一般」としてとらえることは、以前にはありえないことで、それは近代国家の「国民」の概念に近いものであるが、「臣」(君主の家来)と「民」(君主の被治者)とを合わせて臣民として把握されるところに、なお封建的な性質があらわれている。それはともかく、この戸籍法が廃藩置県をへて明治五年(1872)壬辰(じんしん)の年、はじめて全国いっせいに施行された。よってこの戸籍を壬辰戸籍という。

 戸籍編製の必要から設けられた行政区域である大区には区長、小区には戸長が置かれた。五年四月には、従来の町村役人である大庄屋・庄屋・名主・年寄などの名称はすべて廃止し、戸長・副戸長・用掛りなどと改め、従来の町村役人が取り扱ってきた事務はもちろん、新しい戸籍そのほか土地・人民に関係のことはいっさい取り扱わせた。戸長は小区の長で、町村の長は副戸長というのが通例であったが、後者も戸長と称されることもある。

 これはたんなる名称の変更ではなかった。以前の村は現今の大字に相当するせまい区域の住民共同体で、庄屋・名主はそこの住民自身が選んだ共同体の代表という性質が基本であり、代表であるがゆえに、領主はこれを領民支配の最末端に組み入れ、共同体の機能をそのまま支配の機構に転化し、利用した。しかし新しい区長はもとより、戸長・副戸長らは、地域住民が自主的に選んで、府県長官の承認をえるばあいもあるが、原則的には上から任命され、法制上は共同体の代表の性格をうばわれて、政府の最末端の行政担当者たることが基本とされた。明治六年末から、区長・戸長の身分は官吏に准ずるとされ、したがって刑法上にも官吏と同様に扱われた。

 

  府県制

 中央政府と町村をつなぐ府と県は、廃藩の直後には、旧藩域をその大小にかかわらずすべて県としたから、三府三○二県もあったが、政府は一県の石高(現石)が十万石以上になることを標準とし、旧大藩の地域を中心に、その周辺区域を統合して、明治四年十一月には北海道および三府七十ニ県とした(沖縄を含まない)。九年末に三十五県(同上)にまで県をへらし、その後も分合はつづき、明治二十一年(1888)にいたって三府四十三県(沖縄県を含む)として現在におよんでいる。

 廃藩による新置の県の機構は、さしあたり旧藩の行政機構をかりに転用するほかなかったが、四年十月、府県官制、十一月、県治条例定めて全国画一の制をしいた。府の長官を知事、副を権知事(ごんちじ)といい、県の長官を県令、副を権令とし、その下に大・小参事以下の役人を置いた。府知事・県令は三等官とされ、旧制よりも地位が低くなった。奏任官以上は中央政府が任命し、判任官以下は知事・県令に任免権があるが、それもつねに中央に報告し、監督を受ける。府県の事務は、四年末には庶務課・聴訟課・租税課・出納課に分けられた。聴訟課の名の示すとおり、府県長官は管内の民事・刑事の司法裁判権をもち、その点でまだ純然たる地方行政官になりきらず、旧制の知事、さかのぼれば幕府の遠国奉行や代官の名残りをとどめていた。しかしすでに府県兵は、いかなる名義のものも全然なく、司法裁判権も五年八月、司法省統括のもとに府県裁判所が各府県に置かれてから、府県長官の管轄からはずされた。こうして府県は、中央の指揮監督のもとに中央の政策法令を施行する純然たる行政機関となった。

 

  中央集権警察制

 府県制と地方裁判所の制度が整うのと前後して、中央から地方にいたる集権的な警察制度も整備された。廃藩前の府県の警察制度は所によって区々であったが、四年十一月の県治条例で、府県は地方警邏(けいら)の規則を定め、あるいはこれを変更するときは中央政府の指令を受けるべしとして、全国画一の警察制度創設の一歩がふみだされた。五年八月、前記の司法制度改正で省中に警保寮を置き、東京府下邏卒(らそつ)五千名を兵部省の管轄から警保寮に移すとともに、同寮が全国画一的な警察制度の中央機関となった。

 すなわち警保寮(かみ)権頭(ごんのかみ)は、司法卿・大輔(だいぶ)の指揮を受け、「全国警察ノコトヲ総提シ、大小ノ警視以下ノ諸員ヲ監督」する。そして大警視・権大警視が各府県に出張して管下警察のことを監督し、小警視および警部・巡査を総摂(総指揮)する。地方によっては、大警視が「検事逮部(けんじたいぶ)長」(いまの検事正)を兼ねる。小警視・権小警視は大区に派出され、区中の警保のことをつかさどる。大警部・権大警部が各府県長官および府県「逮部」(地方検察庁のこと)の管下におかれ、大小警視の指揮をうける。大警部のもとに小警部・権小警部があり、その下に一等巡査・二等巡査・三等巡査がある。さらに巡査の指揮下に番人がおかれる。巡査は番人十人ごとに一員をもって定員とし、昼夜一度ずつ、また不時にその区内を見廻り、たえず状況を警部に報告し、犯罪者があればただちに逮捕し、または番人に逮捕させる。

 これによれば、全国の警察には、寮頭から村々番人にいたるまで整然たる中央集権の指揮命令系統があり、知事・県令の所管は大警部以下にしかおよばず、その警部にたいする指揮権も、知事にあるか中央から派遣される大小警視にあるか明確でない。これは当時の司法卿江藤新平のすさまじいばかりの権力欲に発する官制であって、ただちに全国一律に実行されたわけではない。明治六年二月にも、司法省は各府県独自の規則による邏卒の制につき、現に施行中の分も、今後あらたに制定する分も、すべて警保寮に報告してその指揮を受けるべしと達している。警吏の名称も、東京の邏卒は巡査となったが、全国的に巡査に統一されたのではなく、地方では相変わらず邏卒とか捕亡(ほぼう)・ポリスなどとよばれていた。全国画一の警察制度が本格的に確立されるのは、警保寮が司法省から新設の内務省に移管された明治七年以後のことである。

 警察制度に関連してきわめて重要なのは、明治五年十一月、「違式詿違条例」五十三条を制定して東京府に施行し、ついで六年七月、東京以外の各府県に「違式詿違条例」九十条を公布施行したことである。法に違反するを違式、過失をするを詿(かい)違というが、この条例では罰の軽重により違式と詿違に分けただけで、現在の軽犯罪法に相当するものの起原である。政府は、この条目は「国中ノ安寧人民ノ健康ヲ警保スル所以(ゆえん)」とし、各府県によって条目の増減を許した。

 地方に施行された九十ヵ条をみると、「検明ヲ受ケザル薬物ヲ売ル事」からはじめて、「往来並木ノ小枝ニ古草鞋(ふるわらじ)ナドヲ投ゲカケル事」、婦人の断髪ないし男装と男子の女装の禁止——これには「但シ俳優舞妓等ハ勿論、女ノ着袴スルハ此限リニアラズ」ともっともしごくな但し書がついている——「乞食ニ銭ヲ与ウル」、「犬ヲ闘ワシメ、及ビ戯レニ人ニケシカケル」その他、大たこ(凧)をあげる、道路に荷車を置いて諸人通行の妨害をする、はだぬぎ・裸体、男女混浴銭湯の禁止等々、およそ考えつくかぎりの、当時の役人の感覚で不作法あるいは見苦しい、他人の迷惑となる事柄の禁止条項がならんでいる。

 違式の罪は小警視が即決し、七十五銭以上一円五十銭以内の罰金もしくは(むち)十—二十とする。詿違の罪は小警部が即決し、五銭以上七十銭以下の罰金または一日以上七日以内の拘留とする。これらの罪は法による国家の処罰の対象となるべきものではなく、その地方の社会慣習による社会的規制にまつべきものばかりといってよく——したがって条目の増減は各地の実情によることになっており、また罰の重さも地方により多少の差がある——、これを法により処罰するのは、警察が人民の日常の一挙一動にまでつねに監視し干渉できる法的根拠をつくるものであった。

 当時、警察制度創始の中心人物であった川路利良(かわじとしよし)(大警視)の明治九年一月、内務卿への建議書中にいわく、

「日本人民は不教の民であり、これに自由を許すべからず。『頑悪ノ民ハ政府ノ仁愛ヲ知ラズ、サリトテ如何セン、政府ハ父母ナリ人民ハ子ナリ、タトエ父母ノ教ヲ嫌ウモ子ニ教ウルハ父母ノ義務ナリ、誰カ幼者ニ自由ヲ許サン、其ノ成丁ニ至ルノ間ハ、政府宜シク警察ノ予防ヲ以テ此幼者ヲ看護セザルヲ得ズ』、『束縛ハ保護ナリ、規則法令ハ良民ニトリテハ必ズ幾分ノ(わずらい)トナルモ、其実ハ己レヲ保護スルガ為ニ設ケラレタルモノナレバ、マタ已ムヲ得ザルナリ』」と。こういう思想から違式詿違条例もつくられ、人民のすみずみまでも、日常不断に監視束縛する世界無比の警察制度がつくられてゆく。

  徴兵令の制定

 廃藩置県の成功により、新政府の念願であった兵権の集中帰一は実現し、強大な常備軍をつくることもまた可能となった。常備軍こそは官僚制とならぶ天皇制の二大主柱の一つである。

 廃藩置県の直後(七月、日欠)、兵部省の官制が改革され、陸軍掛りと海軍掛りの分課が明らかになり、また陸軍参謀局がもうけられ、のち別局となった。これが軍令機関のはじまりである。そして兵部卿は軍政のみならず、「征討発遣」の軍令事項をもつかさどることが明らかにされた。ついで八月、旧諸藩の常備兵隊はすべて解散し、もとの東山(とうさん)西海(さいかい)両鎮台は廃止して、東京・大阪・東北(仙台)・鎮西(小倉)の四鎮台とし、それぞれ二ないし三の分営を置き、それらの兵は旧藩常備兵から選んだ。

 同年九月には、陸軍費八百万円、海軍費五十万円および臨時軍事費二十五万円を次年度の兵部省の歳出予算と定めた。この合計八七五万円は、第五期(明治四年十月—五年十一月の十四ヵ月間)の経常歳入二四四二万円の三分の一以上をしめる。政府がいかに軍備に力を集中していたか知られよう。

 これより兵備は着々と整えられ、明治五年二月には、兵部省を廃止して陸軍省と海軍省に分けるまでになった。五年三月、御親兵を近衛兵(このえへい)と改め、都督がこれを指揮した。初代の都督は山縣兵部大輔が兼任したが、この年七月、西郷(隆盛)が元帥(げんすい)となり、近衛都督を兼ねた。同月十五日、「巡検参謀将校職務」が定められた。その任務は、「各地城塞ノ方向並ニ地勢ヲ見極メ、攻守ノ便不便ヲ計ル」こと、「城下市街人烟ノ多寡・貧富」を調べること、「後来、万一一揆ナド起ルトキ、味方ニ城ヲ取ルトモ、敵ニ城ヲ取ラレタリトモ、其ノ攻守ノ方法、(あらかじ)メ存意ダケニテモ記シ置キ申スベキコト」という。これが反政府の士族および一般民衆の内乱に備えるものであることは、いうまでもなかろう。

 政府は、このていどの国内鎮圧の軍備で満足するものではなかった。すでに四年十二月、山縣兵部大輔は、正院(しょういん)に外国に備える軍備をつくる急務を建議していた。それではどうしてその大軍備をつくるか。山縣らは、いまこそ断然徴兵制度を行なうべきであると主張した。近衛兵や四鎮台のように、士族の旧軍隊をもって外国に対抗できる大常備軍をつくることはとうてい不可能であり、国民徴兵が理想であることは、理論上はもとより元年以来の経験からも明白であった。ただ廃藩前においては、全国に強力な統一的行政ができないため、国民徴兵が技術的にいちじるしく困難であり、またとくに重大な難点としては、人民のなかから軍隊をつくれば、それが政府に反抗する兵力に転化するかもしれないという大きな不安があった。そのため国民徴兵論は、これまで政府から否定されてきた。

 しかし、いまや廃藩置県により、徴兵の技術的困難は基本的には解消した。また徴兵軍隊が万一叛乱を起こしても、近衛兵があってこれを鎮圧できる。山縣らはいまこそ徴兵制を断行しようとの決意をかためた。しかしこれにはそうとう強い反対があった。反対の最大の理由は、これまでと同じく人民徴兵は安心できないというのであった。薩摩の桐野利秋少将などは、もっとも強硬に反対し、「山縣は土百姓を集めて人形を作る、はたしてなんの益あらんや」と放言していた。

 西郷も桐野と同様に、農工商の子弟ではたしてりっぱな兵隊ができるかあやぶんで、徴兵制には反対であった。もしかれが桐野のように真向から反対すれば、徴兵制は実現できなかったであろう。しかしかれは反対を明言しなかった。かれは、山縣およびかれの弟の西郷従道(つぐみち)兵部少輔ら専門家が、じゅうぶん研究したうえで推進している徴兵制に、正面から反対するだけの有力な論拠を見出せず、かれのこういうばあいの発想法のつねとして、徴兵のよしあしを争うてもしかたない。もっと根本的な、政府と日本のあり方を正しくせねばならないと考えていた。

 山縣らはさまざまの反対論を説伏した。ついに明治五年十一月二十八日(太陽暦十二月二十八日)「全国徴兵の詔」が発せられ、太政官がその趣旨を「諭告」した。諭告は、まず上古の日本は全国民みな兵であって、「モトヨリ後世ノ双刀ヲ帯ビ武士ト称シ、抗顔坐食シ(いばりかえって、なんの仕事もせずに暮らしている)甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其ノ罪ヲ問ワザル者ノ如キニ非ズ」と武士をはげしく非難する。ついで中世の兵農分離の害をのべ、「然ルニ大政維新、列藩版図ヲ奉還シ、辛未(かのとひつじ)ノ年(明治四年)ニ及ビ遠ク郡県ノ古ニ復ス。世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減ジ、刀剣ヲ脱スルヲ許シ、四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス。是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル基ナリ」、そして国民徴兵はこの四民の平等と自由を基礎とするといい、最後に徴兵がいかに「天然ノ理」であるかをつぎのように説く。

「天地ノ間一事一物トシテ税アラザルナシ、以テ国用二()ツ。然ラバ則チ人タルモノモトヨリ心力ヲ尽シ国ニ報ゼザルべカラズ、西人之ヲ称シテ血税トス(中略)。且ツ国家ニ災害アレバ人々其災害ノ一分ヲ受ケザルヲ得ズ、其故ニ人々心力ヲ尽シ国家ノ災害ヲ防グハ、則チ自己ノ災害ヲ防グノ基タルヲ知ルベシ。(いやしく)モ国アレバ即チ兵備アリ。兵備アレバ即チ人々其役ニ就カザルヲ得ズ。是ニ由テ之ヲ観レバ、民兵ノ法タル、モトヨリ天然ノ理ニシテ、偶然作意ノ法ニ非ズ」と。

 

  徴兵制の外見と本質

 この諭告には、天皇に忠義を尽くすためとか、国体を守るためとかの類の字句が全然見えず、国民は自己をまもるために兵役につくとか、自由・平等とか、あたかも民主主義政権の布告のような字句のみがつらねられている。これは、あるいは当時陸軍大丞として欧州の軍制を研究し、徴兵令制定に理論的にもっとも寄与した西周(にしあまね)などの起草によるかもしれない。

 しかしこの徴兵制の真の目的・精神は、太政官の国民にたいする諭告にではなく、山縣陸軍卿が翌明治六年正月四日(太陽暦、旧暦では五年十二月六日)、徴兵制により鎮台を四から六にすることと、その募兵の順序を天皇に上奏した文中の、「是ニ於テカ兵制始メテ備ワリ、内ハ以テ草賊ヲ鎮圧シ、外ハ以テ対峙ノ勢ヲ張ルニ足ル」という一句に端的に示されていた。

 徴兵令の規定そのものにも、国民国家を国民自身がまもるという精神はまったくない。このときの徴兵令では、第一に中央・地方の官吏(当時は府県庁の役人も区長・戸長も官吏である)の兵役を免除し、第二に官・公立専門学校生徒、洋学修業中の者、および医術・馬医術を学ぶ者、すなわち将来官吏あるいは支配層になると予想される者の兵役を免除し、第三に代人料二七○円を納める者をも免除する。以上の免除規定によれば、官吏ないし支配階級・有産階級は兵役を免除されるので、兵役が「臣民一般」平等の義務ではなく、被支配階級・無産階級のみの義務であることを示している。さらに、一、戸主、二、嗣子ならびに承祖の孫、三、独子独孫、四、父兄に代わりて家を治むる者、五、養子、六、徴兵在役中の者の兄弟を免除した。この一から五までは、徴兵が戸の存続を危うくするようなばあいは免除するという趣旨であり、六は兵役が個人に課せられる義務でなく、戸ごとに壮丁一人を徴する封建的な賦役の徴集であることを示している。

 明治六年正月九日、従来の四鎮台を廃し、鎮台六、営所十四を置き、歩・騎・砲・工・輜重(しちょう)の五科の将兵合計三万一六九○人を平時常備の現役とした。同年三月、はじめて東京鎮台管下で徴兵令を施行し、漸次全国におよぼした。八月には早くも陸軍省は、「鎮台ヲ除キ兵隊ノ名儀コレ無キハズ」につき、地方で民衆暴動のさいに地方官が士族をつのって「兵隊ノ名儀ヲ下シ」て鎮圧するのを禁止した。ただし士族が他の名義で出動するのは、「当省ニオイテ関係致サズ候事」という。士族はなお民衆鎮圧のための事実上の予備軍であったが、もはや軍隊を名のるものは、天皇—太政大臣—兵部卿—鎮台—営所の一本の線で完全に統帥されるもののほかには、まったくなくなった。明治八年から、鎮台および近衛の旧藩士族兵もしだいに徴兵に代えられていった。

 

  教導職・祝祭日制

 官僚制、戸籍および町村制、警察制、さらに徴兵常備兵制の樹立によって、天皇の名による日本の全国土・全国民にたいする専制支配機構の基幹がここにつくられた。しかしどんな専制権力も、国民にたいする精神的支配なしには、真に強固ではない。そのためには神道(しんとう)を事実上の国教とし、国民に天皇を神的権威として尊信させるさまざまの政策が元年以来とられてきたことは、これまでものべてきた。神祇官が神祇省に格下げされ、官制上の祭政一致の体裁はなくなったが、神道国教主義の「大教宣布」は、神祇省と宣教使により、ひきつづきさかんに行なわれた。

 明治五年三月、神祇官・宣教師とも廃して教部省を置き、そのなかに教導職をもうけ、神官・僧侶および儒学者をそれに任じた。中央に大教院(芝の増上寺に置く)、府県に中教院、その下には無数の小教院がもうけられ、大教正(だいきょうせい)以下訓導にいたる十四等級の教導職が、全国いっせいに「敬神愛国の旨を体すべきこと」、「天地人道を明らかにすべきこと」、「皇上を奉戴し朝旨(ちょうし)遵守(じゅんしゅ)せしむべきこと」の「三条の教憲」にのっとる説教をした。明治七年の教導職の数は、神官四二○四人、僧侶三○四三人という。

 ところが明治七年、欧州の宗教界を視察して帰った本願寺の僧島地黙雷が、宗教と政治の混同に反対して、真宗各派の賛同をえて大教院解散運動をおこしたので、八年四月、政府は神仏の合同布教を禁止し、大教院を解散した。一般国民もこうした押売り的な説教には反応を示さず、この事業はしだいに衰え、明治十年には教部省も解散された。教導職はなお存続したが、これも明治十八年には全廃される。教部省廃止後は、政府による国民教化は学校や軍隊教育で行なわれるが、学校のことは後でのべる。

 政府は大教宣布のような神道思想による公然の説教のほかに、神道思想および天皇崇拝にもとづく祝祭日制度を通じて、知らず知らずのうちに国民心理に深く天皇崇拝をしみ通らせていた。まず明治元年(1868)に(明治)天皇誕生日を祝う天長節が制定され、明治四年には四月三日を神武天皇祭として国家の祭日とし、五年十一月十五日には、神武天皇即位の日と『日本書紀』に書かれている「辛酉(しんゆう)年春正月朔日」を太陽暦で明治六年一月二十九日と換算して、「神武天皇御即位相当」の祝日と定めた。ついで六年三月、神武天皇御即位の祝日は紀元節と称するとし、さらに同年十月十四日、紀元節は二月十一日と定めた。『書紀』にいう神武即位の辛酉年一月一日を、太陽暦で一月二十九日または二月十一日に「換算」することには、暦学上の根拠は全然ない。これは換算を命ぜられた文部省天文局が、『書紀』に記載の干支(えと)により「簡法相立(あいた)て」、と当局自身が明言しているとおり、便宜的にきめた日であった。

 天長節・紀元節・神武天皇祭・新嘗祭(にいなめさい)などの国家的祝祭日がつくられると同時に、人日(じんじつ)(一月七日)・上巳(じょうし)(三月三日)・端午(五月五日)・七夕(たなばた)(七月七日)・重陽(ちょうよう)(九月九日)という民衆の伝統的な五節句は廃止された。民衆的祝日では新年元旦だけが、天皇の四方拝(しほうはい)の日として国家の祝日とされた。このことにつき「明治七年紀元節の後二日」の序文をもつ『開化問答』は、旧平(旧弊を代表する)をしてつぎのように言わせている。

「改暦(明治五年十二月三日=六年一月一日)以来は五節句・盆などというたいせつなる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝うことでござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜のふたの明く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋(ぎゅうなべ)を食う老爺(ろうや)というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき(のぼり)(日章旗をさす)や提燈(ちょうちん)をださするのは、なお聞こえぬ理窟でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡(りょうけん)が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を、しいて祝わしむるはもっとも無理なることと心得ます」

 この旧平にたいして、開次郎(文明開化を代表する)が、五節句はいわれもない迷信、天長節・紀元節は合理的な祝日だと説明すると、旧平も、なるほどよくわかりましたというのが『開化問答』のしくみである。しかし現実の民衆には、なかなかわからなかった。

 明治十三年(1880)ごろの東京でさえも、市民が天長節に自発的に国旗をかかげるものは少なく、巡査が戸ごとに強制して歩かなければならなかったことが、帝国大学雇教師、ドイツ人ベルツを悲しませている。しかし警察の力によってでも、こういう祝祭日が二十年、三十年とつづけられるうちに、それはいつのまにか国民生活上の習慣となる。また明治の日本人は、統治者としての天皇陛下にたいする政治的に自覚された尊敬をもつよりも、かなり急速に、神様の子孫である天子様にたいする宗教的畏敬をもつようになった。三浦観樹将軍はその回顧録で、かれが東京鎮台の司令官であった明治二十年(1887)ごろのことについて、「兵隊に天皇陛下ということを教えるのも容易でなかった。天子様といえばすぐわかる」と語っている。

 このようにして、廃藩置県とそれにつづく統治制度の大改革により、天皇を唯一最高の権力者として、また神的権威としていただき、中央・地方を一貫する完全な中央集権の官僚制と、国民徴兵による常備兵制とをもって、全日本をすみからすみまで統一的に支配する新しい国家のしくみ、すなわち近代天皇制が確立された。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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井上 清

イノウエ キヨシ
いのうえ きよし 歴史学者 1913年 高知県に生まれる。京都大学名誉教授。

掲載作は、文部省維新史料や帝室制度史の編纂にもながく携わり、その該博な研鑽の一成果として明治維新から近代国家成立へむかう明治の権力機構をつぶさに語ったもの。1974(昭和49)年7月、中央公論社刊『日本の歴史』第20巻「明治維新」の一章をとくに懇請招待した。 「ペン電子文藝館」は、この1編につづく色川大吉「自由民権 請願の波」、隅谷三喜男「大逆事件 明治の終焉」、今井清一「関東大震災」、大内力「ファシズムへの道 準戦時体制へ」、林茂「大平洋戦争 総力戦と国民生活」および蝋山政道「よみがえる日本」、一連の優れた歴史記述により、抄録ながら、我らが多彩に苦難を経て「主権在民」の平和日本へと歩んできた道筋を、永く此処に記念しようとした。時代を超えて読み継がれたいと切望している。

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