断頭台
1
『仮面座』は数多い新劇団のなかでも中堅どころにあり、前衛的なレパートリーを、次々に上演するのを売物にしている。年に二本の翻訳劇、一本の創作劇と――劇団の文芸部、経営部に人材がいて、話題作を矢つぎ早にぶっつけるから、一公演ごとに人気が出て、
それだけに俳優もわりかた粒が揃っているのだが、左京太だけは別であった。劇団員連名の演技部のなかに、ただ体裁上名前を連ねているだけのことで、演出部の連中からは、「あいつは
仲間の俳優たちがどしどし大役を振られて、はなばなしく舞台の脚光を浴び、ラジオ、テレビ界のタレントとしても、目ざましく進出していくのにひきかえて、彼一人は取り残されたように、裏方の手伝いばかりさせられていた。大道具の職人にまで、「左京太、左京太」と呼び捨てにされる。それでも芝居が飯より好きだから、不平一ついわずに黙々としてよく働くので、お情けで籍を抜かずに置いてもらっているようなものだった。
そんな冷遇を受けていたのは、彼のセリフにひどい東北なまりがあり、役者としてどうにも使いものにならない、不器用さのせいもあるにはあったが、性格が妙に陰気すぎて、劇団内の空気にそぐわないところから、芝居に大切なアンサンブルが、彼のおかげでこわされてしまうおそれがあるので、敬遠されていたためもあった。
彼はふだん稽古場に出てきても、隅の方に積みあげた大道具のがらくたの間にうずくまるようにすわって、刑事が張込みでもしているような
影が薄いから死神という綽名をつけられていたが、そう言われてもしかたがないほど、暗い表情だった。一度などは出番が来て、楽屋から舞台へ上がりかけた女優の一人が、うす暗いハリモノの陰からいきなりぬっと、裏方の格好で出てきた左京太を見て、危うく卒倒しかけたこともあったほどだ。
しかも、どこか体に欠陥でもあるらしく、頬はげっそり痩せこけ、落ちくぼんだ目ばかりが
それをある程度知っているのは、劇団研究生の
いったい左京太のどこに魅力を感じたのか、鴇子が彼といっしょになると公表したときは、劇団中のものがあっと言った。人一倍美人で、ゆくゆくは『仮面座』のトップスターになるだろうと、演出部内でもひそかに期待をもっていた
「だって気の毒よ。左京太さんはあの若さで戦犯だったんですもの。少年航空兵でラバウルの特攻隊員だったんですって。死刑の判決を受けて、あちらの刑務所に二年間も収容されていたのが、無実だとわかって奇跡的に釈放されたんだというわ」
なんでも基地にいるとき、
彼女の父親の陸軍大佐も戦犯として刑死しているので、そんな共通点が二人を結びつけたらしい。そう言われてみるとなるほどと、左京太の性格の極度に
経歴といい性格といい、芝居の世界に間違って飛び込んできた人間としか思えなかった。鴇子だけが、「でも左京太さんは、そのうちにきっと素晴らしい俳優になれると思うわ。あれほど人にできない苦労をしてきたんですもの。性格俳優として、みんなの見なおす日がきっとくるに違いないわ」と信じこんでいたが、そういう彼女自身彼のすべてを知っているわけではない。むしろ鴇子にすら秘密にしていることの方が多く、彼はふしぎと、過去のことについて触れられるのを
その左京太に、とつぜん役がついたのである。
その年の秋の公演は、文芸部員の一人が書きおろした、四幕物の野心的な創作劇『断頭台』を上演することに決まり、なかに出てくる死刑
鴇子はわが事のように喜んだが、それは何も演出部が彼女の切なる願いを聞きいれたからでもなく、特別に彼を見なおしたしたせいでもなかった。『断頭台』がフランス革命を背景にした芝居で、登場人物がやたらに多く、劇団員が総出演しても、まだ役者が不足するので、やむなくそうせざるをえなくなっただけの話だった。――それに、
「どうせあまり重要な役じゃないんだ。演技上多少の
演出家はさいしょから、見くびった割りきりかたをしていた。
しかし、いざ稽古に入って読み合わせにかかってみると、当の演出家の方がたじたじとなった。
左京太のその役に対する打ち込み方には、いままでかつて見られなかったほどの、異様な真剣さがこもっていたのである。人の嫌がる役が逆に彼の情熱をかきたてたのか――それともこのチャンスをのがすまいとする必死の意気込みからか。ここ何年というもの、左京太の裏方姿しか知らなかったほかの俳優たちは、ギョッとして顔を見合わせた。いや、それよりも台本を手にした彼の姿に、何かしら肌寒いものを感じたという方が当たっていた。鴇子にしてもまるで真剣勝負でもするような、そんなひたむきな彼を見たことがなかった。
セリフにしてわずか数言――四幕目の幕切れの処刑の場面に顔を出すだけの、人目をひかない役だというのに、まるでその役と心中でもしかねまじき、取り組み方なのである。
ふつう、よほどヴェテランの新劇俳優でも、舞台上で完全に役の人間になりきるためには、相当な期間の稽古を必要とする。だからこそ俳優は、演出者を
「あいつは生まれてはじめてプログラムに名前が載るんで、のぼせやがったんだぜ」
「いや、役が役なんで、打ち込み方も違うのさ」
仲間の俳優はてんでにそんな憎まれ口をきいたが、左京太はひとり黙々として取り合おうともしなかった。
のみならず彼らが、舞台監督からガミガミ言われるまでは稽古時間も遅れがちなのにひきかえて、一時間も前からきちんと稽古場へ現われる。台本もすでに百回以上も読み返している。セリフも他人の分まで
「いいんだよ。何もそんなに大げさに考えなくても、ただ暗い冷酷な感じを出してくれれば、それで結構なんだ。君の地のままでやってくれてかまわないんだよ」
演出家は、彼自身の演出プランに従って、やや皮肉にそう答えるほかはない。
しかし、左京太はそんな
だいたい作者がそこまでは書いてないのである。何十人と出てくる登場人物のなかで、そんな傍系人物の説明にまで、いちいち神経を使っていたらきりがないからだった。
「それは、君の方で勝手に推測してくれたまえ。僕の方では、前歴はともかく、台本にあるような冷酷な刑吏になってくれれば、それでいいんだから……」
演技の初歩もろくにできないくせに、生意気なことをいうなとばかり、しまいには感情的な口調でつきはなされて、左京太は世にも悲しそうな顔になった。
というより、その顔は日一日と苦悩で
「あなたは少しノイローゼになりすぎているわ。役者の良心として、そりゃあ、あなたの態度は立派には違いないけど、そんなにとことんまで追及してたら、頭の方がどうかしてしまうわよ」
今度の芝居では、酒場の女ジルダを演じることになっている鴇子が、一番心配して注意したが、いつもは彼女の言うことならなんでもすなおに聞く左京太が、別人のように耳を貸そうとはしなかった。
それどころか、まだ立稽古にも入らないうちから、
明けても募れても――ときには彼女の存在すらも忘れてしまうほど、彼はサンソンの幻影に取り憑かれてしまっていた。左京太と呼ばれたのでは、返事もしなくなった。眠っているときでも、サンソンとかギロチンとかいう言葉が、
――それは、いよいよ明日で最後の立稽古が終り、明後日には待ちに待った初日があくという日のことであった。
2
風が
後には処刑台の周囲を警護する何名かの憲兵と、
「革命裁判所万歳!」
そのとき、処刑台の上で、まだ縄の端を握ったままぼんやり佇んでいた刑吏サンソンの唇から、低いしゃがれた呟き声が洩れた。
その声は、つい半時ほど前、血に狂った群集たちが感きわまって
それは彼の姿が全身黒ずくめで、魔法使に似た三角頭巾、だぶだぶの釣鐘マントですっぽり全身をおおっているせいばかりではない。
彼はかたわらの相棒から、「おい兄貴……」と促されると、やおら
「いつもながら、なんて重てえんだ」
滑車はあっても、縄の先端の三角に磨ぎすまされた刃を
「だ、台に流れた血が、刃の先に
「そりゃ、たっぷり恨みがこもってるからよ。今日のように往生ぎわの悪い御婦人だと、なおさらだぜ。
相棒のジルべルトは刑吏に似合わぬ臆病者と見えて、柱の向こう側から歯の根も合わぬ
なかには斬り落とされてまだまもない犠牲者の首が、おびただしい血汐を吸った
その
「まったく手こずらせやがったぜ。おれはどうも女は苦手でいけねえや」
「しかし、わ、若い女を殺っつけたのは、久しぶりだったな」
サンソンは
「ヴェルサイユ王宮の式典長官、ド・オリヴァー公爵夫人とかいったっけ」
「そうよ。公爵なら二週間も前にあの世へお送り申し上げたじゃねえか。兄貴の膝にすがりついて一目女房に会わせてくれろ、とわめくやつをな……。兄貴、何かかかわりあいでもあったのかい?」
「いや、そ、そうじやねえ。そんなことじゃねえんだ」
口のうちでもぐもぐ言ってから、サンソンはふ、ふ、ふ、と含み笑いをした。
「貴婦人と名がつきゃあ、どこの誰だってかまやしねえのよ、若い女の、く、首がばっさり落ちるのをこの手で感じると、おれは体じゆうの血がゾクゾクしてきやがるんだ。……み、みんなあいつが、ここへ送られてくる日までの小手調べっていう気がしてな。……ふ、ふ、ふ、それも後二日の辛抱だが……」
「後二日だって? 何が……」
「おれが四年間待ちに待った日が、やってくるのがよ。おれはその日が来るのを、どれほど待ちこがれていたかしれやしねえ。……あの高慢ちきなオーストリア女が、今日の貴帰人みてえに、
ジルベルトが思わずギョッとして見なおしたほど、サンソンの目は酔ったように妖しくかがやいていた。
しかもその目で、台の上の首のない女の
――今日の女、オリヴァー公爵夫人は、護送車から降りて、断頭台のさいしょの一段に足をかけたとき、恐怖のあまり気を失った。サンソンが
「目をさまさせてから、ギロチンにかけろ! 罪の償いを最後の瞬間まで、思い知らせてやらなけりゃ、見せしめにはならないぞ」
その声に応じて、すぐさま憲兵が駆け寄ると、
苦痛に意識を取りもどした夫人が、眼前にのしかかる断頭台の重圧に半狂乱になったところを、ジルベルトに手伝わせて、無理やりひきずりあげ、ふたたび失神しかかる一歩手前で、一挙にそのかぼそい首を刎ねたのであった。
「兄貴って、じっさい気味の悪い男だぜ。おれたち首斬役人のなかでも、特に変わり者だってことは知ってたが……やっぱり何かあったんだな。……それで、兄貴の待ちこがれているその女ってえのは、いったいどこの何さまなんでえ。兄貴がそうもったいつけるからには、よほどの上玉なんだろうが……」
少々頭の足りないジルベルトは、首をひねったぐらいでは、見当もつかないらしい。
「ふ、ふ、ふ、知りてえか。……そうか。じゃあ、教えてやろう」
サンソンは興奮を押えかねた熱っぽい口調で、舌なめずりをしながら、
「今日は、何日だったっけな?」
「いやだぜ。兄貴、十月十四日に決まってるじゃねえか」
「そうだ。その十月十四日……革命裁判所検事フーキエ・タンヴィルは、コンシェルジュリー獄に投獄中の一囚人を、反逆罪、内乱罪、国費乱費、皇太子との近親
「その日は?」
「革命史上永遠に残る、記念すべき日になるだろうぜ。――女帝マリア・テレサの娘、ルイ十六世の王妃マリー・アントアネット・ド・フランスが、この断頭台にむかって送られてくる!」
3
ジルベルトは、サンソンの前歴を知らない。
もともと首斬役人などというものは、きわめて身分が卑しく、いずれもいかがわしい前身のものに決まっているから、
――数年前にさかのぼる……イルロード・ダンティニャック・ド・サンソンは、
トリアノン宮は、当時、王妃マリー・アントアネットが、国の疲弊をよそに、国庫から百六十四万九千五百二十九リーブルの巨額の金を支出させて、改築した快楽の館である。
サンソンははじめ王から警護の任務を命じられたときは、内心で苦々しい思いがしたが、ひとたび王妃の身近に
マリー・アントアネットの方でも、この新参者のきびきびした若い貴族に――少なからず興味を感じたらしい。もちまえの
やがて館うちでの、さまざまな饗宴に飽きて、おしのびのオペラ座見物がはじまると、かれは王の末弟アルトア伯などとともに、なくてはならない随行者の一人になった。
王妃が戯れに自ら俳優になり、『フィガロの結婚』を宮廷劇場で上演しようと、途方もない計画をたてたときも、彼は配役の一人に特に選ばれたほどの、お気に入りになっていた。その稽古のため、トリアノン宮からフランス座までのゆききの道々、
吹雪のある夜、深更に王妃が帰館の途上、馬車の車輪が
すっかり嫌気がさしていた
しかし、一夜が明けると、王妃はすっかりサンソンの無器用な愛の技巧に、興味を失っていた。マリー・アントアネットの気まぐれほど、恐ろしいものはない。史上名だたる
「わたしは、退屈ほど恐ろしいものはありません」とオーストリー大使メルシーに書き送った彼女の書簡は有名だが、彼女がかりそめの恋の相手に選んだ貴族は、ことごとくといってもいいくらいに、歓喜の絶頂から絶望のどん底に陥し込まれるのが運命だった。サンソンもしょせんその一人に過ぎなかった。
愚かにもこれこそ真実の恋、無上の恋と
一度ほうり込まれたが最後、一生陽の目を見ることができないといわれているバスチーユ行は、一夜の秘密を永遠に封じるためには、絶好の手段だった。死刑を免れたのが奇跡に等しいほどで、名門ロレーン家の血をひくサンソンの一家
うたかたの恋の代償に、文字どおり一身を葬ったサンソンが、彼自身の果たしたみじめな道化役に気がついて、
「いまに見てろ! この
天を呪い地を呪うその一念だけが、かろうじて、サンソンの生命をつないだ。
四年の歳月が、剣技で鍛えた逞しい彼の肉体から、一寸刻みに若さを奪っていった。かつて栗色だった髪の毛も、一本一本死人のような白髪に変わり、闇になれた目は陰惨な翳が凍りついて、毒蛇のような妖しい光を放つようになった。
だが、獄の外にあっても、その四年の歳月のあいだに、フランス王国はもはや昨日までのフランス王国ではなくなっていた。マリー・アントアネットの政敵ロアン大司教が、パリの高等法院から無罪の判決を言い渡された例の
後年フランス大革命史は、その年譜に次のような記録を残している。すなわち一千七百八十九年、五月一日、ノートルダム寺院におけるルイ十六世の三部会召集。十月十七日国民議会の組織。つづいて国民軍の誕生。治世十二年間に、実に十二億五千万リーブルの莫大な負債をつくった王家に対する、国民の
囚われの身のあいだ、朝に夕に単調な号砲と見張りの兵士のラッパの音しか、耳にすることのなかったサンソンは、とつぜん嵐のように押し寄せてきた群衆の
サンソンは熱狂した彼らの手でかつぎあげられ、その背におぶわれて、真夏の太陽がじりじりと照りつける牢獄の外に、運び出された。長い獄中生活で痛めつけられた彼の肉体は、ミイラのように、見る影もなく痩せ衰えて軽い。いきなり厳しい陽光にさらされて盲目になるのを防ぐために、目隠しをされていたが、彼はその目隠しを通して熱湯のような熱い光と、
「王妃は……ハプスブルグ家の皇女は、この暴動を御存知か……」
それから今日までの約四年余り。以前の召使をたよって、身を落ちつけたサンソンの周囲では、あわただしく次々と王政をゆさぶる大事件が相ついだ。
しかもその事件は、サンソンの一個人としての感情や意志とは無関係に、日一日としだいに血なまぐさく、
国王一家のタンブル幽閉。九月
サンソンが進んで刑吏を志願したのは、その国王の処刑後まもなくのことである。
死の直前まで、美食と大食の習慣を改めなかったというふとっちょの国王の首が、断頭台の下にぶざまにころげ落ちるのを見たとき、彼は群集のなかにあって、ひそかに
時勢が変わったからといって、決して復讐の誓いを忘れたわけではなく、
彼にかわって、あのひんやりとした巨大な国家の
その日、その瞬間、王妃としての誇りも自尊心もかなぐり捨てて、一人の打ちひしがれた女の姿で彼の膝に
「王妃陛下よ。貴女の国民が、貴女の処刑を待ちかねておりますぞ!」
――その日は、後二日でやってくる。
4
風が一段と不気味に吹きつのってきた。砂塵はつむじを巻いて断頭台の周囲で荒れている。そのたびに
サンソンは
ジルベルトの姿は、もはや見えなかった。小心者のあの男は、ルイ十六世の処刑のときも逆上したあまり、すんでのところでしくじりかけた苦い経験があるので、マリー・アントアネットと聞いただけで、腰を抜かしたのであった。そのうえ、サンソンの狂気じみた声に、なおいっそう
「お、おれにはできねえ。王妃さまの首を斬るなんて、そんなことおれにはとてもできねえ……か、勘弁してくれよ!」
手をすり合わすようにして哀れな声で言うと、
「ふん、弱虫め! いまの言葉を憲兵にでも聞かれりゃ、明日はお前の首がすっ飛ぶ番だぜ」
サンソンはいまいましそうに、ペッと唾を
「だが、まあいいや。お前がやれなくったって、おれが立派にあの女は
マントの肩をそびやかすようにして、断頭台をさも愛しそうにふりあおぎ、もう一度、ふふふとひくく笑い声を洩らした。
ジルべルトは市役所から出る、十五リーブル三十スウの雀の涙ほどの手当て欲しさに、いやいや刑吏をつとめている哀れな男なのである。いま時分はさぞおっかなびっくりと、オリヴァー公爵夫人の
やがて不吉な
サンソンは墓地と反対の方角の、サン・トノレ街の方へ足をむけ、十五分後にはパリの裏街の、とある貧民窟の一角に
そのうちの一軒――赤い
とつぜん、その歌声が嘘のようにぴたりとやんだ。
「遅かったじゃないの」
客たちのあいだを縫って、酒を注いでまわっていた
その声につられて、客たちはいっせいに戸口の方をふりむいた。誰の顔もいい合わせたようにしらじらしく強張り、一瞬、化石したような沈黙がただよった。だが、その重苦しい沈黙はすぐに破られ、客の一人が
「いよー、悪魔の大将!」
別な一人が盃をさし上げて、樽から立ち上がった。
「ブラボー!……革命裁判所万歳!」
その後から前以上に騒々しい歌声が、再びドッとよみがえった。いや、酒場ぜんたいが、常軌を逸して狂い出したような騒ぎになった。サンソンはその動物的などよめきを無視したように、戸口のわきの階段をゆっくりと二階へ上がっていった。お祭騒ぎに夢中になった客は、サンソンの黒衣の姿がいつのまにか音もなく消えているのに、誰も気づいたものはいない。ただあの赤毛の女だけが、目ざとくそれを見つけて彼の後を追った。
「サンソン。わたし今日、あの女の裁判を見てきたわ」
と、彼女は二階の奥まった一室の戸を開けるなり、さもそのことを話したくて、待ちかねていたといわんばかりに、口を切った。
その部屋は、刑吏サンソンがバスチーユから救出されて以来、ひそかに人目を避けて身を落ち着けている部屋だった。女はかつての召使の娘ジルダである。二人の間にいまは階級意識はなかった。あるのは、肉体のつながりのあった男と女の、むきだしな馴れ馴れしさだけだった。勝気な彼女の目は酒と裁判の強烈な印象に酔って、すっかり自制を失っていた。
「あの女は、黒いヴエールの垂れた白い亜麻の帽子、みすぼらしい
マントも脱がずに、テーブルに向かってカルタを手でもてあそんでいたサンソンは、ジルダの方に冷ややかな
「ねえ、あんた……」
たまりかねてジルダは泪声になりながら、彼のマントにすがりついた。口から右の耳にかけて残る、醜い
「わたしは、あんたを喜ばせたいばっかりに、裁判のあいだじゅう、あの女の一挙一動を、まばたきもしないで見つめていたんだよ。あんたが死ぬほど憎い女は、わたしにとっても
「おれのマントを脱がせてくれ」
サンソンはカルタから手を離すと、はじめて押し殺すような低い口調で口を開いた。
「いや、マントだけじゃねえ。上着もはいでおれの背中を裸に晒すんだ!」
「えッ」
驚いたジルダが眉をひそめて身をひくと、サンソンは、
「早くしねえか!」と声を荒らげてせきたてた。
「お前に見せてやりてえものがある!」
ジルダは、サンソンが急に何を思い立ったのかと怪しみながらも、いわれるままにうす暗いランプの火影の下に、彼の背中をむきだしにした。とたんに彼女は、思わずあっと口を手でおさえて、後じさりした。
サンソンの背中には、目をそむけたくなるような忌わしい十字の
「わかるか。ジルダ。おれはこの十字の傷をつけられて以来、化物みてえな人間になっちまったんだ。……断頭台のうえに上がって、血がドクドクしたたる、女の生首を見たときじゃねえと、人並みな興奮を感じねえんだ。人間らしい喜びが
そう言いながら、サンソンはいきなりジルダの
ジルダは腕のなかであがいた。あがきながら恐怖でいっぱいに見ひらいた目で、サンソンを見つめた。それからいや、いや、いやっと、火がついたように激しくわめきたてた。
「あんたは、あんたは、……いまでもあの女を愛しているんだわ」
だが、サンソンの腕は、
5
朝が訪れた。なんのへんてつもない朝である。
正確にいえば、一千七百九十三年十月十四日が過ぎ去って、翌日の十五日になったというに過ぎないが――その朝、サンソンはだれかに激しく揺り起こされた。
誰かといっても、そんなことのできるものは、ジルダのほかにはいない。昨夜、彼と
「ねえ、起きて、起きてったら。気味が悪いから、そんな変な白目をむいて眠るのはやめて!」
ゆすぶるだけでは効果がないと見て、頬っぺたをぴしゃぴしゃと両手でたたく。
「左京太さん。左京太さんたら……」
やっとその声が聞こえたのか、サンソンはいきなり棺の中から甦った死人のように、蒼白な顔でガバと起き直った。
「よかった。あなたがいつもと違って、夜通しうわごとを言いつづけてるもんだから、病気にでもなったんじゃないかと思って、心配したのよ」
ベッドの前に、ネグリジェにカーコートをひっかけた見なれない女が、立っているのを見て、サンソンは目をしばたたかせた。
その女はジルダではなかった。彼は昨夜飲み過ぎた酒が、まだ頭に残っているせいかと思って、あわててあたりを見まわした。部屋のようすがまるで違っている。
サンソンが昨夜、泣きじゃくるジルダをひきずりこんで眠ったのは、壁に押しつけるようにつくりつけた粗末な木製のベッドで、布団のかわりに藁を敷いた、みすぼらしいものである。同じ木製は木製でも、こんなふかふかした布団のかかった、幅の広いものではなかった。第一すぐに手が届くところにあったランプがないし、風が吹くたびにギシギシと鳴る、板をうちつけただけの窓が、いつのまにかカーテンのかかったガラス窓になっている。蜘蛛の糸のかかった裸の
ただ同じなのは、カーテンや戸口の隙間から流れ込んでいる、樹脂のような平和な朝の陽光だけであった。
サンソンはベッドの上にすわったまま、しばらくぽかんとして我を失っていた。女は彼が寝ぼけているとでも思ったのか、クスクス笑いながらベッドの横にすわりこんで、またなれなれしく彼の肩に手をかけてゆすぶった。
「何をそんなにおっかない目をして、じろじろ見ているのよ。左京太さん――あら御免なさい。サンソンって呼ぶって、約束だったわね」
そのときサンソンの面にあらわれた、なんとも言えない奇妙に歪んだ表情を、どのように形容したらいいだろう。
彼は女の言っていることが、まるでわからなかった。左京太とは誰のことなのか? 自分のことをなぜそう呼ぶのか、面食らった。だが、次の瞬間、かれは自分の耳を疑った。自分の目を疑った。サンソンは内心で、
ジルダはどこへ行ったのだ! 酒場『リヤン』の二階の部屋は、いったいどこへ消失したのだ!
ただ一夜のうちに部屋が変わり、見知らぬ女がいるというだけなら、彼が眠りこんでいるあいだに、何者かの手で
サンソンはいきなりベッドから飛び降りると、その女をつきのけて、窓のカーテンをサッと押しあけた。金色のまばゆいばかりの光が、一時に彼の面へあふれかかった。
「お、教えてくれ! ここはいったいどこなんだ? お
「あら、いやだ。ここはあなたの部屋に決まってるじゃない。……わたしが誰かですって。寝ぼけないでしっかりしてよ。あなたは自分の恋人の顔を忘れたの?……ジルダよ。いいえ、鴇子じゃないの」
「ジルダだって……」
と、サンソンは口のうちでぶつぶつ呟くように、何度もその言葉を繰り返した。
「……じゃあ、今日はいったい何日なんだ! 何年何月何日だというんだ」
「一千九百六十三年、十月十五日……」
「な、な、何っ!」
サンソンは頭をかかえて、ベッドの上にうつぶした。
「そんな馬鹿な! 馬鹿なことが……」
と、彼は脂汗を額にじっとり浮かべて言った。大変なことになった、と思った。
一夜のうちに、二百年もの歳月が経ったというのか……突如として信ずべからざる奇跡が起こったのか……そんなはずはない。
彼を見つめる鴇子の顔が、にわかに気づかわしげにくもり、憐むような
「しっかりしてったら、左京太さん。いったい何がどうしたっていうのよ? ここは、あなたの住む世界ではないとでもいうの?……あなたは……」
その言葉がふっと宙で凍った。「可哀相に」と深々とした溜息をついて言った。
「とうとう頭へ来てしまったのね。お芝居に夢中になりすぎて、自分がわからなくなってしまったのね。このあいだから、こんなことになりはしないかと思って心配してたんだけど、左京太さん。あなたがサンソンになるのは、お稽古と舞台の上だけのことにしてほしいわ。ここはわたしたち二人きりの部屋なのよ。目黒のアパートなのよ。あなたは少し頭が疲れすぎてるんだわ」
「嘘だ! 嘘だ!」
サンソンは吠えるように言った。
彼女こそ頭がどうかしているのだと思った。
「芝居なんて……お、おれはそんなものは知っちゃいねえ。おれは昨日あの断頭台で、オリヴァー公爵夫人の首をばっさりやった男だぜ。正真正銘の首斬役人なんだぜ。――そうだ証拠がある。おれには証拠があるぞ!」
ハッとあることが、彼の頭にひらめいたと見え、血の気のない顔色が急にいきいきとした。サンソンはいきなり着ているものを脱ぎ捨てると、部屋の隅のドレッサーに、自分の裸身をうつしてみた。
あの忌わしい十字の傷痕は、歴然として刻印を残していた。彼はホッと救われたような気もちになった。いや勝ち誇ったような顔つきで言った。
「見ろ! これが見えねえか。この傷が、何よりの証拠だ。これは、おれがバスチーユに……」
だが鴇子は、悲しそうに首をふった。
「そんなもの、わたしの目には何も見えないわ。傷なんてどこにもないじゃないの。それに……」
と、彼女は言った。
「あなたはさっきから、日本語を使って喋ってるのよ。あなたがもしほんとうにサンソンなら、そんなおかしなことってあるかしら……」
それから鴇子は、彼のことはもう諦めたというように、さっさと着替えをはじめた。
「お稽古は、朝の十時からはじまるのよ。急がないと間に合わないわ」
サンソンはふと自分を疑った。自分がほんとうに左京太という男なのだろうかという疑問が、頭のなかをかすめたのである。鴇子の言うところによると、彼は俳優で、たまたま『仮面座』という劇団が上演する芝居の、舞台の上でだけ、サンソンの役を演じるのだという。だが、その疑問を、かれはすぐに打ち消した。
断じてそんなことはあり得なかった。記憶も生々しい刑吏としての半生が、単なる一夜の悪夢だったとは、どうしても考えられなかった。彼がトリアノン宮警護の近衛隊長をしていたあの華やかな貴族時代からはじまって、バスチーユに投獄され、刑吏になるまでの十年近い歳月にわたる歴史が、わずか一晩の夢の中で辿れるものかどうか。
第一、彼は、どんなに思い出そうとつとめてみても、左京太という男の過去が、どうしても現在の自分につながってこないのだ。とつぜん左京太だと言われても、すべてが空白で、面食らうばかりである。――それだけではない。
サンソンの肉体に病毒のように滲みこんでいるマリー・アントアネットに対する、憎悪と復讐の一念はどうだ。いまなお
「大変なことになった!」
と、彼はまたもや咽喉の奥から、しぼり出すような声でうめいた。
サンソンは自分自身に、もはやなんの疑いも感じようとはしなかった。彼がうろたえたのは、今日が十月十五日だということであった。
マリー・アントアネットの処刑は、十六日に行なわれる。彼があれほど待ちに待った日は、いよいよ明日に迫っているのである。
もしも、その日その時を逸したら……と思うとサンソンは慄然とした。四年間の牢獄生活で誓ったことが、すべて水の泡になる。復讐のチャンスを失うことになる。断頭台の上に彼の黒衣の姿が見えないとしたら、群衆たちも失望するに違いない。
サンソンはこうしてはいられないと思った。なんとかして明日までに、この見知らぬ世界から脱け出さなければならない。もう一度一千七百九十三年十月十五日のパリーに、戻らなければならない。本物のジルダが実在するあの酒場『リヤン』の二階へ、懐しいギロチンのそばへ戻らなければならない。十八世紀の世界が、一夜のうちに二十世紀の世界に一変したのが、奇跡の力によったのだとすれば、ふたたびその力にすがって、時間を二百年昔にかえしてもらわなければならないのである。
その奇跡に通じる扉を、思いがけなく開いてくれたのは、鴇子であった。そのときサッサと自分の支度をおえた彼女は、サンソンに向かってこうせきたてたのだ。
「さあ、左京太さん。あなたもぐずぐずしてないで、早く支度してよ。稽古場へ行けば、あなたの会いたがっているマリー・アントアネットだって、ルイ十六世だって、ジルベルトだってみんな待っているのよ」
その日『仮面座』の立稽古は、千駄ヶ谷の区民会館で、朝の十時から全幕を通して行なうことになっていた。
舞台稽古のときは、ほんの明かり合わせ程度の段取りしかできないので、この劇団では初日の前日の稽古を、俳優たちに当日そのままの舞台衣装、メーキャップをさせて、総仕上げをするのである。照明と大道具がないだけで、効果も小道具も、飲食物などの消え物もきちんと揃え、俳優たちはそれらに引き立てられて、ほぼ当日の舞台に近い雰囲気の中で、稽古をするのだった。
そのため、稽古場にあてられた、がらんとした広い講堂のなかは、ごった返していた。椅子という椅子はすべて隅の方に押し片づけられ、衣装や
サンソンは、鴇子に連れられてその稽古場に入っていった。彼と顔を合わせた劇団員の誰も彼もが、サンソンのことを左京太、左京太と呼んで怪しまないのが、不快だった。――だが、彼はとたんに目を輝かせた。
光のとどかないうす暗い講堂の中央に組みたててある断頭台に、サンソンの目は思わず吸い寄せられたのである。
それは小道具係が、資料をどこかで捜してきて、苦心してつくったものであろう。角材を実物の断頭台そのままの高さに組み、二本の柱も
サンソンは、「おお」と動物のような
だが、
その断頭台からかなり離れた椅子に、ぼんやり稽古のはじまるのを、すわって待っている若い女優と男優の二人が、かれの眼をとらえたのである。二人ともすでに扮装をおわっていて、女優の方は白の亜麻の帽子と白のモスリン服を着たみすぼらしい恰好で、男の方は彼と同じ刑吏の姿である黒マントをすっぽり着て、黒の三角頭巾をかぶっていた。たちまちかれの咽喉の奥から、低い押しつぶされたような声が洩れた。
「王妃がいる。マリー・アントアネットがいる。そしてジルべルトまで……」
思わず周囲のものが驚いてふりかえったほど、その声は人間のものとは思えなかった。
彼は、その二人も自分と同じように、とつぜん十八世紀の世界からこの世へ迷いこんで来たのではないかと、錯覚したのである。だが、そのとき足早にサンソンの背後に近づいた鴇子の声が、彼の驚きに水を差した。
「何を見ているのよ。」あの二人は王妃の役をする小暮さんと、ジルベルト役の平島さんじゃないの」
女は『仮面座』のトップ女優小暮
鴇子は、「さあ、わたしたちも早いとこメーキャップをしないと、もうまもなく稽古がはじまるのよ」と、サンソンの腕をせかせかとひっぱった。彼はどこまでも、俳優熊倉左京太としての扱いしか受けなかった。
サンソンは、断頭台の上に立っていた。そのそばにジルべル卜役の平島が介添役で同じように立っている。芝居言葉でいうイタツキで、稽古は、テレビやラジオに出る俳優の都合で、急に四幕目からはじめられることになったのだった。
だが、いざ舞台監督のキッカケを取る合図で、幕があいてみると、彼はしだいに異様な興奮をかきたてられてきた。断頭台といっても見てくれだけのもので、登場人物もいちいち役者が扮しているのだとわかっていながら、その台の下に憲兵が立ち、二十人ばかりのガヤの群衆たちに、周囲を囲まれて見上げられると、床に白墨で線をひいた仮定の舞台が、周囲から切り離された、別の世界のような気がしてくるのであった。
それは芝居の持つ特殊な魔力というものかもしれなかった。別な言いかたをすれば、同じ劇場の中でも舞台と客席と二つの異なる次元の世界が、同時に存在するということなのだ。そして俳優は扮装をほどこし照明の当たった背景の前へ立つことで、未来の世界または過去の世界へと自由に出入りすることができるのだ。殊に名優は稽古のときでも、パントマイムだけでも、簡単にその世界の人間になることができるといわれている。
サンソンもまたある意味で、それと同じような心理状態におち入ったのだった。かれは、稽古がはじまった瞬間から、白墨の線の外にいる演出家や、舞台監督、見物の新聞記者たちの動きが、まるで、目に入らなくなった。彼の意識の中には、断頭台とそのまわりの群集たち、そして群集のなかを割って、護送馬車に乗って登場する、マリー・アントアネットだけしか映らなかった。小暮茉莉子が扮した王妃が、着剣の憲兵に護られてその馬車から降りるのを見たとき、彼はそれが芝居だということをまったく忘れて、心をかき乱されたのである。
その日の四幕目の稽古は、茉莉子がテレビヘ出る時間の都合で、そこまで芝居が進行しただけで中止になったが、サンソンはさめやらぬ興奮の中で、突如神の
それはもしも舞台の背後に、それと同じ次元の世界が存在しているとしたら、どうだろうかということであった。永久に幕が閉まらないとしたら、どうだろうということだった。そうすれば、舞台上の人間も、そのままその時代の人間になって、生活を始めることになりはしないか。それこそサンソンの願う、奇跡を行うたった一つの方法なのではないか。そして、そのためには、俳優自身が舞台の上で完全にその時代の人間になりきってしまえば、それでいいのではないか。言いかえればサンソンこそ、それのできるたった一人の人間ということにもなるのだ。だが、それには、彼の舞台上のすべての動きに、いささかも虚構があってはならなかった。断頭台は本当に首の斬れるものでなければならなかった。
その夜、サンソンは、稽古が終わると後に残った小道具係に、次のようなことを頼みこんだ。
「明日の本番までに、ギロチンに馴れておきたいんでね。少し具合を見させてもらえんだろうか……それからこのベニヤ板の刃は、おれにあずからせてくれねえか。どうせおれの道具なんだから、明日、おれが責任持って幕あきまでに取りつけておくよ」
「ああ、いいとも」
と、小道具係は他の仕事に忙殺されていたところなので、気さくに応じた。サンソンはさらにこんなこともさりげなく聞いた。
「どこかこの近所で、
小道具係は
6
「仮面座」の芝居、「断頭台」は、初日から予想外の大入満員になつた。プレイガイドの切符が、当日の朝になって急にばたばたと売り切れ、劇場の当日売りの窓口にも、切符を買う客が殺到した。このようなことは新劇界では、大劇団でもめったにない現象だった。
劇団が芸術祭参加作品と、ポスターやチラシなどで大々的な宣伝をしたせいもあるにはあったが、それほどの反響を呼んだのには、もっとほかに訳があったのである。それはその前日の各紙の夕刊が、芸能欄にこぞってある記事を大々的に紹介したからである。
新劇界に特異な性格俳優出現か、外国俳優にも劣らない演技とかいう大げさな見出しで、いずれもサンソンのことを最大級の賞賛の言葉で、うずめたからであった。サンソンは何も知らなかったが、昨日稽古を見にきていた新聞記者たちのあいだで、彼のことは大変な話題になっていたのである。「仮面座」にこんな隠れた有望な俳優がいようとは思わなかったと、彼らは口々にサンソンのことを誉めそやして帰ったのだ。
おかげで客席は通路まで補助椅子を出し、それでもまだ足りずに後方の立見席まで客でうずまる始末だった。熱心な新劇ファンの女学生のなかには、わざわざ差し入れのウイスキーや洋菓子の包などを持参して、楽屋まで彼の顔を見に訪れる酔狂なものもあった。他の劇団員たちが二の句がつけないほど、彼の人気は素晴らしかった。
だが、そうした異常なまでの脚光を浴びながら、サンソンが楽屋にこっそり持ち込んだ、あるかさばったずしりと重い包に、気づいたものは誰もなかったであろう。鴇子でさえ、うかつにもその事には少しも気づかなかったほどである。
幕が開いた。――舞台は四幕目、コンコルド革命広場の処刑場の場面である。
ホリゾントぎりぎりに遠見の背景があり、うっすらと
が置かれ、それらに見おろされるような位置に、断頭台が傲然とした構えで聳え立っていた。
広場をうずめていた群集たちは、処刑時間が刻一刻と近づきつつあるのを知って、ざわざわとざわめきたっていた。彼らの間では呼売人の売る新聞や漫画、「悪名高き淫乱な
黒ずくめの衣装を着たサンソンは、断頭台の上で凝然とそれらのさまを眺めていた。全身がおさえることのできない感動に、こきざみに震えるのをどうしようもない。血の気のない顔がなおいっそう蒼白になり、脈うつような興奮が襲ってくるのを、どうすることもできなかった。彼はいまこそと思った。今こそすべては終わる。今こそかれの多年の怨みは報いられるのだ。
そのとき、舞台の端に居並んだ鼓笛隊の太鼓の音が、ひときわ高く鳴り響いた。群集たちはいっせいにどよめきたった。王妃を乗せた死の馬車が到着したのである。その護送用馬車は、力づよい駄馬に曳かせた、天蓋のない
舞台のソデで止まったていの演出なので、幕にかくれて観客の席からはそれが見えない。客に見えるのは、車を降りたったマリー・アントアネットが、憲兵に両腕を支えられ、下手のソデから断頭台に向かって、一歩一歩、歩を進めていく姿だった。群集は口々に罵声を彼女に浴びせて道を開く。
サンソンはその進んでくる王妃の顔を、唇をゆがめて食いいるように
サンソンは彼女の態度にまるで取り乱したところがないのに、
王妃は腰をかがめると、心から済まなそうに丁重な
それから彼女は自分から、柱の間の刃の下に身を投げかけ、頸をさしのべた。ジルべルトが、その細く骨ばった首に
サンソンは照明が暗転するのをきっかけに、一気に引縄を引いた。閃光一閃、三角の刃が落下し、にぶい音とともに、王妃の首は血しぶきをあげた。彼が鍛冶屋に一晩がかりで作らせた鋼鉄の刃が、血に染まって生物のようにギラギラ光っている。サンソンはかがみこんで、王妃の首の髪の毛をひきつかんで、高々と差し上げた。
劇場内はたちまち大混乱に陥った。客席では女客のかん高い悲鳴とともに、客が総立ちになり、舞台の上では、俳優たちが芝居を中断して、わけもなく右往左往していた。裏方の連中は幕を閉めることも忘れ、舞台監督が血相を変えて断頭台の下へ飛んで来た。
「左京太が発狂した!」
「警察を呼べ!」
その瞬間、サンソンは、ふたたび、自分の身が十八世紀に帰つているのを発見した。彼はもはや、劇場の押しつぶされるような重苦しい天井の下にはいなかった。蒼々と無限に果てしなくひろがる、大空の下の自由な大地の上に立っていた。
「フランス共和国万歳! サンソン万歳!」
と口々に叫んで押し寄せて来た群集も、もはや俳優たちの扮したそれとは違っていた。
今日の処刑を見んものとパリー中のあらゆる街から集まってきた、二万の老若男女なのである。
サンソンはその天にこだまする歓呼を、さも満足げに聞きながら、もう二度と昇ることのない断頭台の階段を、激しい虚脱感におそわれながら一歩一歩降りていった。
その頭上に一千七百九十三年十月十六日の太陽が、さんさんとしてかがやいていた。
(歴史考証は、シュテファン・ツワイク作「マリー・アントアネット」高橋禎二・秋山英夫氏訳による)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/09/28
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