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断頭台

    1

 

 熊倉左京太(くまくらさきょうた)は、劇団仮面座の若手俳優である。一風変わった古めかしい名前なので、いかにも名優のように聞えるが、その実まったく無名の三文役者にすぎなかった。劇団内でもこのうえもなく冷遇(れいぐう)されていて、いままで本公演、試演会を通じて通行人以上の役らしい役のついたことはなかった。

『仮面座』は数多い新劇団のなかでも中堅どころにあり、前衛的なレパートリーを、次々に上演するのを売物にしている。年に二本の翻訳劇、一本の創作劇と――劇団の文芸部、経営部に人材がいて、話題作を矢つぎ早にぶっつけるから、一公演ごとに人気が出て、常打(じょうう)劇場(こや)のD生命ホールは、いつも客が満員にならなかったことはない。

 それだけに俳優もわりかた粒が揃っているのだが、左京太だけは別であった。劇団員連名の演技部のなかに、ただ体裁上名前を連ねているだけのことで、演出部の連中からは、「あいつは(がら)ばかりで大根役者だからな」と頭から問題にされていなかった。

 仲間の俳優たちがどしどし大役を振られて、はなばなしく舞台の脚光を浴び、ラジオ、テレビ界のタレントとしても、目ざましく進出していくのにひきかえて、彼一人は取り残されたように、裏方の手伝いばかりさせられていた。大道具の職人にまで、「左京太、左京太」と呼び捨てにされる。それでも芝居が飯より好きだから、不平一ついわずに黙々としてよく働くので、お情けで籍を抜かずに置いてもらっているようなものだった。

 そんな冷遇を受けていたのは、彼のセリフにひどい東北なまりがあり、役者としてどうにも使いものにならない、不器用さのせいもあるにはあったが、性格が妙に陰気すぎて、劇団内の空気にそぐわないところから、芝居に大切なアンサンブルが、彼のおかげでこわされてしまうおそれがあるので、敬遠されていたためもあった。

 彼はふだん稽古場に出てきても、隅の方に積みあげた大道具のがらくたの間にうずくまるようにすわって、刑事が張込みでもしているような胡乱(うろん)な目つきで、稽古の進行を見まもっているのだ。必要な用件以外はだれとも(しゃべ)ろうとはしない。読み合わせの際たまに、演出家からト書を読むようにたのまれても、黄色い歯のあいだから空気の洩れたような声で、つっかえつっかえ読む。

 影が薄いから死神という綽名をつけられていたが、そう言われてもしかたがないほど、暗い表情だった。一度などは出番が来て、楽屋から舞台へ上がりかけた女優の一人が、うす暗いハリモノの陰からいきなりぬっと、裏方の格好で出てきた左京太を見て、危うく卒倒しかけたこともあったほどだ。

 しかも、どこか体に欠陥でもあるらしく、頬はげっそり痩せこけ、落ちくぼんだ目ばかりが(なまり)色ににぶく光っていて、おまけに額が武士の月代(さかやき)のように禿()げあがり、両側の(びん)に申しわけ程度の薄い髪があるだけときているから、なおさら、若さというものが感じられなかった。年は三十二歳ともいうし三十五歳ともいうし、正確なことは誰も知らない。現在の境遇はどんなふうで、劇団へはいる前はどんな生活をしていたのか? 彼に関しての履歴もまったくの謎になっている。

 それをある程度知っているのは、劇団研究生の城戸鴇子(きどときこ)ぐらいのものだった。

 いったい左京太のどこに魅力を感じたのか、鴇子が彼といっしょになると公表したときは、劇団中のものがあっと言った。人一倍美人で、ゆくゆくは『仮面座』のトップスターになるだろうと、演出部内でもひそかに期待をもっていた(かん)のいい女優だけに、彼女の気まぐれをたれもがとがめた。左京太は鴇子にからかわれているのだと、まことしやかに(うわさ)するものもいた。しかし、鴇子の左京太に対する愛情は、不真面目でもなんでもなかった。むしろ献身的なくらいだった。

「だって気の毒よ。左京太さんはあの若さで戦犯だったんですもの。少年航空兵でラバウルの特攻隊員だったんですって。死刑の判決を受けて、あちらの刑務所に二年間も収容されていたのが、無実だとわかって奇跡的に釈放されたんだというわ」

 なんでも基地にいるとき、濠州兵(ごうしゅうへい)の捕虜の首を日本刀で()ねて、処刑した疑いによるものだった、と鴇子はムキになって代弁した。

 彼女の父親の陸軍大佐も戦犯として刑死しているので、そんな共通点が二人を結びつけたらしい。そう言われてみるとなるほどと、左京太の性格の極度に陰鬱(いんうつ)なわけを、誰もが納得したものの、それ以来よけいに彼を気味悪がって、近づくものはなくなった。

 

 経歴といい性格といい、芝居の世界に間違って飛び込んできた人間としか思えなかった。鴇子だけが、「でも左京太さんは、そのうちにきっと素晴らしい俳優になれると思うわ。あれほど人にできない苦労をしてきたんですもの。性格俳優として、みんなの見なおす日がきっとくるに違いないわ」と信じこんでいたが、そういう彼女自身彼のすべてを知っているわけではない。むしろ鴇子にすら秘密にしていることの方が多く、彼はふしぎと、過去のことについて触れられるのを(いや)がった。ふだん黙々として、何を考えているのかも鴇子にはわからなかった。

 その左京太に、とつぜん役がついたのである。

 その年の秋の公演は、文芸部員の一人が書きおろした、四幕物の野心的な創作劇『断頭台』を上演することに決まり、なかに出てくる死刑執行吏(しっこうり)サンソンの役に、彼は抜擢(ばってき)されたのであった。

 鴇子はわが事のように喜んだが、それは何も演出部が彼女の切なる願いを聞きいれたからでもなく、特別に彼を見なおしたしたせいでもなかった。『断頭台』がフランス革命を背景にした芝居で、登場人物がやたらに多く、劇団員が総出演しても、まだ役者が不足するので、やむなくそうせざるをえなくなっただけの話だった。――それに、陰惨(いんさん)風貌(ふうぼう)首斬(くびきり)役人という柄の上の注文からいうと、左京太のほかに、ふさわしい俳優がいなかったからでもある。確かに柄の点だけ見れば、彼以上の適役者はいなかった。

「どうせあまり重要な役じゃないんだ。演技上多少の見劣(みおと)りがあっても、目をつぶるさ」

 演出家はさいしょから、見くびった割りきりかたをしていた。

 しかし、いざ稽古に入って読み合わせにかかってみると、当の演出家の方がたじたじとなった。

 左京太のその役に対する打ち込み方には、いままでかつて見られなかったほどの、異様な真剣さがこもっていたのである。人の嫌がる役が逆に彼の情熱をかきたてたのか――それともこのチャンスをのがすまいとする必死の意気込みからか。ここ何年というもの、左京太の裏方姿しか知らなかったほかの俳優たちは、ギョッとして顔を見合わせた。いや、それよりも台本を手にした彼の姿に、何かしら肌寒いものを感じたという方が当たっていた。鴇子にしてもまるで真剣勝負でもするような、そんなひたむきな彼を見たことがなかった。

 セリフにしてわずか数言――四幕目の幕切れの処刑の場面に顔を出すだけの、人目をひかない役だというのに、まるでその役と心中でもしかねまじき、取り組み方なのである。

 ふつう、よほどヴェテランの新劇俳優でも、舞台上で完全に役の人間になりきるためには、相当な期間の稽古を必要とする。だからこそ俳優は、演出者を媒介(ばいかい)にして、役の心理、性格を自分のものにするために、骨身を削る思いをするものだが、それも役に応じての程度問題だった。その他大勢に類する端役(はやく)を演じるのに、左京太ほどの異常な熱意を示したものは、誰一人として、なかった。

「あいつは生まれてはじめてプログラムに名前が載るんで、のぼせやがったんだぜ」

「いや、役が役なんで、打ち込み方も違うのさ」

 仲間の俳優はてんでにそんな憎まれ口をきいたが、左京太はひとり黙々として取り合おうともしなかった。

 のみならず彼らが、舞台監督からガミガミ言われるまでは稽古時間も遅れがちなのにひきかえて、一時間も前からきちんと稽古場へ現われる。台本もすでに百回以上も読み返している。セリフも他人の分まで(そらん)じてしまう。そればかりではない。シュテファン・ツワイクの歴史作品のほか、フランス革命に関するありとあらゆる文献を、古本屋や図書館で捜し出してきて調べる。古今東西の死刑執行吏の伝記を読む。ギロチンの模型まで自分の手でつくってみる。そのうえふだん無口な彼には珍しく、演出家に執拗(しつよう)な質問を繰り返した。

「いいんだよ。何もそんなに大げさに考えなくても、ただ暗い冷酷な感じを出してくれれば、それで結構なんだ。君の地のままでやってくれてかまわないんだよ」

 演出家は、彼自身の演出プランに従って、やや皮肉にそう答えるほかはない。

 しかし、左京太はそんな生半可(なまはんか)な答えでは納得しなかった。彼は老人のようなダミ声でなおもしつっこく聞く。サンソンの暗い冷酷な性格は、どういうところに原因があるのか? サンソンとはいったいどういう人間で、なぜ刑吏(けいり)などになったのか?――そうなると、演出家の方はぐっとつまった。いや自尊心を傷つけられて苛立った。

 だいたい作者がそこまでは書いてないのである。何十人と出てくる登場人物のなかで、そんな傍系人物の説明にまで、いちいち神経を使っていたらきりがないからだった。

「それは、君の方で勝手に推測してくれたまえ。僕の方では、前歴はともかく、台本にあるような冷酷な刑吏になってくれれば、それでいいんだから……」

 演技の初歩もろくにできないくせに、生意気なことをいうなとばかり、しまいには感情的な口調でつきはなされて、左京太は世にも悲しそうな顔になった。

 というより、その顔は日一日と苦悩で(いろど)られていった。だれの眼にも彼が俳優としての技量、俳優としての追及の限界を越えて、サンソンという役に立ちむかっているのだということが、ありありわかってきた。

「あなたは少しノイローゼになりすぎているわ。役者の良心として、そりゃあ、あなたの態度は立派には違いないけど、そんなにとことんまで追及してたら、頭の方がどうかしてしまうわよ」

 今度の芝居では、酒場の女ジルダを演じることになっている鴇子が、一番心配して注意したが、いつもは彼女の言うことならなんでもすなおに聞く左京太が、別人のように耳を貸そうとはしなかった。

 それどころか、まだ立稽古にも入らないうちから、化粧前(けしょうまえ)に向かって、メーキャップをあれこれと苦心してみる。人の寝しずまった深夜に起き出して、ドーランを顔中にべたべたと塗りたくるのである。髪の毛もオキシフルで赤茶色に染める。ある日、夜中にゴソゴソと起き出した左京太が、口中を血だらけにして、ナイフと釘抜(くぎぬ)きで歯を抜こうとしているのを発見して、鴇子はまっ青になってとめたことさえあった。

 明けても募れても――ときには彼女の存在すらも忘れてしまうほど、彼はサンソンの幻影に取り憑かれてしまっていた。左京太と呼ばれたのでは、返事もしなくなった。眠っているときでも、サンソンとかギロチンとかいう言葉が、譫言(うわごと)のなかにまじっていた。夢と現実との区別がつかないくらい、彼の脳裏で彼自身とサンソンとが、混同されているように見えた。

 ――それは、いよいよ明日で最後の立稽古が終り、明後日には待ちに待った初日があくという日のことであった。

 

    2

 

 風が颯々(さつさつ)と砂塵をまいて吹き出している。影絵のように黒々とした影を落として(そび)え立つ、不吉な二本の柱のあいだで、茜色(あかねいろ)の空はようやく血に()きて黄昏(たそがれ)はじめた。広場を喧騒(けんそう)怒号(どごう)とでうずめていた群集たちも、はやちりぢりになって影もない。鼓笛隊を先頭にした兵士たちの靴音も遠のいた。

 後には処刑台の周囲を警護する何名かの憲兵と、(あわ)てて店じまいに取りかかった胡桃(くるみ)売り、レモネード売りなど屋台の大道商人たち、そして、自由の女神の巨大な石像が残るばかりである。その石像は、夕靄(ゆうもや)のかなたのチュルリー宮に背を向けて、革命の象徴の、真紅(しんく)のフリージャ帽をかぶせられている。彼女が置かれた場所は、かつてルイ十五世の記念碑が立っていたところであった。

「革命裁判所万歳!」

 そのとき、処刑台の上で、まだ縄の端を握ったままぼんやり佇んでいた刑吏サンソンの唇から、低いしゃがれた呟き声が洩れた。

 その声は、つい半時ほど前、血に狂った群集たちが感きわまって(すき)(くわ)をふりあげ、口々に絶叫したのとは違って、ゾッとするほど陰々として、呪文(じゅもん)でもくちずさんだかのように聞こえる。

 それは彼の姿が全身黒ずくめで、魔法使に似た三角頭巾、だぶだぶの釣鐘マントですっぽり全身をおおっているせいばかりではない。軍鶏(しゃも)のようにするどい目と、顴骨(けんこつ)の思いきりとがった死神のような横顔とが、何かに憑かれているような、奇異な感じを与えたからである。

 彼はかたわらの相棒から、「おい兄貴……」と促されると、やおら蒼白(そうはく)な顔をふりむけ、握った縄に骨ばった腕をそえて、力いっぱいひきあげた。

「いつもながら、なんて重てえんだ」

 滑車はあっても、縄の先端の三角に磨ぎすまされた刃を(くびき)の上までひきあげるには、満身の力を必要とするのだ。

「だ、台に流れた血が、刃の先に(にかわ)のようにくっついて、離れやがらねえ」

「そりゃ、たっぷり恨みがこもってるからよ。今日のように往生ぎわの悪い御婦人だと、なおさらだぜ。桑原(くわばら)、桑原……」

 相棒のジルべルトは刑吏に似合わぬ臆病者と見えて、柱の向こう側から歯の根も合わぬ(ふる)え声で言った。――彼の足許には、どす黒い色をした柳の小籠が据えてある。

 なかには斬り落とされてまだまもない犠牲者の首が、おびただしい血汐を吸った鋸屑(おがくず)に半面をうずめて、果物のようにころがっていた。それは若く美貌の貴婦人の首だった。白蝋(はくろう)のような生白い色の頸から金髪の巻毛にかけて血がベっとりとこびりついている。切断された瞬間に、強く唇を噛みしめたのであろう。紫色に変色した唇からも、糸のような血がしたたり落ち、無念の形相はすさまじかった。

 その凄惨(せいさん)な生首を――ジルべルトはおっかなびっくり、金髪をわしづかみにして宙にぶらさげると、目をそむけるようにして、台の下の手押車のなかに投げ入れた。

「まったく手こずらせやがったぜ。おれはどうも女は苦手でいけねえや」

「しかし、わ、若い女を殺っつけたのは、久しぶりだったな」

 サンソンは(ども)るように、かすれた声で言うと、

「ヴェルサイユ王宮の式典長官、ド・オリヴァー公爵夫人とかいったっけ」

「そうよ。公爵なら二週間も前にあの世へお送り申し上げたじゃねえか。兄貴の膝にすがりついて一目女房に会わせてくれろ、とわめくやつをな……。兄貴、何かかかわりあいでもあったのかい?」

「いや、そ、そうじやねえ。そんなことじゃねえんだ」

 口のうちでもぐもぐ言ってから、サンソンはふ、ふ、ふ、と含み笑いをした。

「貴婦人と名がつきゃあ、どこの誰だってかまやしねえのよ、若い女の、く、首がばっさり落ちるのをこの手で感じると、おれは体じゆうの血がゾクゾクしてきやがるんだ。……み、みんなあいつが、ここへ送られてくる日までの小手調べっていう気がしてな。……ふ、ふ、ふ、それも後二日の辛抱だが……」

「後二日だって? 何が……」

「おれが四年間待ちに待った日が、やってくるのがよ。おれはその日が来るのを、どれほど待ちこがれていたかしれやしねえ。……あの高慢ちきなオーストリア女が、今日の貴帰人みてえに、土壇場(どたんば)で見苦しくじたばたしやがるだろうかと、思ってみるだけでも、うっとりとしてくるんだ」

 ジルベルトが思わずギョッとして見なおしたほど、サンソンの目は酔ったように妖しくかがやいていた。

 しかもその目で、台の上の首のない女の胴体(どうたい)を、なめまわすようにして言うのだから、なおいっそう鬼気迫るものがあった。闇は刻一刻と深くなったが、サンソンの頭のなかには、いましがた終ったばかりの血みどろな処刑の情景が、白日夢(はくじつむ)のようにまだありありとこびりついていて、その生々しい一齣(ひとこま)一齣が、彼の官能を異様にかきたてるらしいのだ。……

 ――今日の女、オリヴァー公爵夫人は、護送車から降りて、断頭台のさいしょの一段に足をかけたとき、恐怖のあまり気を失った。サンソンが(かつ)ぎあげて処刑しようとすると、いきりたった群集が怒号(どごう)した。

「目をさまさせてから、ギロチンにかけろ! 罪の償いを最後の瞬間まで、思い知らせてやらなけりゃ、見せしめにはならないぞ」

 その声に応じて、すぐさま憲兵が駆け寄ると、皮鞭(かわむち)で夫人を思いきり打ちのめした。

 苦痛に意識を取りもどした夫人が、眼前にのしかかる断頭台の重圧に半狂乱になったところを、ジルベルトに手伝わせて、無理やりひきずりあげ、ふたたび失神しかかる一歩手前で、一挙にそのかぼそい首を刎ねたのであった。

「兄貴って、じっさい気味の悪い男だぜ。おれたち首斬役人のなかでも、特に変わり者だってことは知ってたが……やっぱり何かあったんだな。……それで、兄貴の待ちこがれているその女ってえのは、いったいどこの何さまなんでえ。兄貴がそうもったいつけるからには、よほどの上玉なんだろうが……」

 少々頭の足りないジルベルトは、首をひねったぐらいでは、見当もつかないらしい。

「ふ、ふ、ふ、知りてえか。……そうか。じゃあ、教えてやろう」

 サンソンは興奮を押えかねた熱っぽい口調で、舌なめずりをしながら、

「今日は、何日だったっけな?」

「いやだぜ。兄貴、十月十四日に決まってるじゃねえか」

「そうだ。その十月十四日……革命裁判所検事フーキエ・タンヴィルは、コンシェルジュリー獄に投獄中の一囚人を、反逆罪、内乱罪、国費乱費、皇太子との近親相姦(そうかん)等の破廉恥(はれんち)罪で起訴した。陪審員の評決は明後日行なわれるが、判決状はすでに作成されていて、死刑……そして、明後日の十月十六日――すなわち一千七百九十三年十月十六日は……」

「その日は?」

「革命史上永遠に残る、記念すべき日になるだろうぜ。――女帝マリア・テレサの娘、ルイ十六世の王妃マリー・アントアネット・ド・フランスが、この断頭台にむかって送られてくる!」

 

    3

 

 ジルベルトは、サンソンの前歴を知らない。

 もともと首斬役人などというものは、きわめて身分が卑しく、いずれもいかがわしい前身のものに決まっているから、詮索(せんさく)する必要もないためで、サンソンが、刑吏になる前、バスチーユの牢獄に四年間もつながれていた囚人だったという以外、仲間のうちでも、知ってるものは誰もいない。まして釘抜きと焼鏝(やきごて)で容貌を変え、言葉つきまですっかり刑吏になりきっているサンソンが、もとをただせばれっきとした由緒ある貴族で、男爵(だんしゃく)だったと知ったら、ジルベルトでなくとも目をまわすものがほとんどであったろう。

 

 ――数年前にさかのぼる……イルロード・ダンティニャック・ド・サンソンは、凛々(りり)しい軍服に身を包んだ、トリアノン宮警護の近衛(このえ)隊長であった。

 トリアノン宮は、当時、王妃マリー・アントアネットが、国の疲弊をよそに、国庫から百六十四万九千五百二十九リーブルの巨額の金を支出させて、改築した快楽の館である。

 謁見(えっけん)室の金の鏡板や、玻璃(はり)の華飾。ワットーやぺーターの絵をはじめ、十八世紀の選り抜きの芸術作品を収集した客間など、古代ギリシャの素朴な線とフランスの優美とを結合した、ロココ建築の粋ともいうべきその離宮は、ルイ十六世の住むヴェルサイユ王宮から、かなり離れたところにあり、それをいいことにした軽佻浮薄(けいちようふはく)な王妃は、ここに取り巻きの若い貴族たちをおおぜい集めて連日のように仮装舞踏会(かそうぶとうかい)を催したり、徹宵(てっしょう)の宴を張ったりしたのであった。

 サンソンははじめ王から警護の任務を命じられたときは、内心で苦々しい思いがしたが、ひとたび王妃の身近に伺候(しこう)して、彼女の類いまれな美貌に接すると、たちまち魂を奪われた。当時の貴婦人の典型ともいうべき優美典雅な容姿が、無骨で純情な一青年将校の心をいかにかきみだしたかは、容易に想像できることだった。サンソンは王妃の側近の列に加えられた栄誉に、どれほど感激したかしれなかった。

 マリー・アントアネットの方でも、この新参者のきびきびした若い貴族に――少なからず興味を感じたらしい。もちまえの悪戯心(いたずらごころ)起こして、ひたむきなかれの奉仕に、それとなくまんざらでもなさそうなそぶりを、ほのめかすのであった。

 やがて館うちでの、さまざまな饗宴に飽きて、おしのびのオペラ座見物がはじまると、かれは王の末弟アルトア伯などとともに、なくてはならない随行者の一人になった。

 王妃が戯れに自ら俳優になり、『フィガロの結婚』を宮廷劇場で上演しようと、途方もない計画をたてたときも、彼は配役の一人に特に選ばれたほどの、お気に入りになっていた。その稽古のため、トリアノン宮からフランス座までのゆききの道々、燦然(さんぜん)たる宮廷馬車の御者台にすわったサンソンは、この世のものとも思われぬ甘美な陶酔感に酔いしれていた。

 吹雪のある夜、深更に王妃が帰館の途上、馬車の車輪が泥濘(ぬかるみ)に落ちこんで、はずれたことがある。御者が修理に当たっているあいだ、王妃とサンソンは身分をかくして、近くのアモー部落の百姓小屋で時をすごしたが、一杯のブルゴン産のリキュール酒と、赤々と燃えた暖炉の火のほてりが、二人のあいだにただならぬ秘密をつくった。愚鈍なうえに生理的な欠陥のある国王に、

すっかり嫌気がさしていた淫蕩(いんとう)な王妃は、ほんの一時の浮気心で彼を慰んだのである。

 しかし、一夜が明けると、王妃はすっかりサンソンの無器用な愛の技巧に、興味を失っていた。マリー・アントアネットの気まぐれほど、恐ろしいものはない。史上名だたる妖婦(ようふ)ポッピアやカトリーヌ・ド・メディシスには及ばないとしても、いったん熱がさめると、(てのひら)をかえしたように冷たく残酷になるのが、彼女の性格だった。

「わたしは、退屈ほど恐ろしいものはありません」とオーストリー大使メルシーに書き送った彼女の書簡は有名だが、彼女がかりそめの恋の相手に選んだ貴族は、ことごとくといってもいいくらいに、歓喜の絶頂から絶望のどん底に陥し込まれるのが運命だった。サンソンもしょせんその一人に過ぎなかった。

 愚かにもこれこそ真実の恋、無上の恋と芳醇(ほうじゅん)な夢幻の美酒の香に、たあいなく酔い()れたのも束の間――翌る日、王のもとにとつぜん召喚されると、青天の霹靂(へきれき)のように職を罷免された。のみならず、貴族の特権をも剥奪(はくだつ)され、呆然自失して事の次第を問いただすまもないうちに、刑吏の手に引き渡され、一枚の拘禁状(こうきんじょう)とともに、バスチーユヘ投獄されてしまったのだ。理由は、王妃に対する許すべからざる不敬な振舞いが、あったというのであった。讒訴(ざんそ)したのは、むろん、その王妃自身である。

 一度ほうり込まれたが最後、一生陽の目を見ることができないといわれているバスチーユ行は、一夜の秘密を永遠に封じるためには、絶好の手段だった。死刑を免れたのが奇跡に等しいほどで、名門ロレーン家の血をひくサンソンの一家眷属(けんぞく)も、ことごとく国外に追放された。

 うたかたの恋の代償に、文字どおり一身を葬ったサンソンが、彼自身の果たしたみじめな道化役に気がついて、憤怒(ふんぬ)のあまり全身の血を逆流させたのは、冷たい牢獄のなかである。

 蝋燭(ろうそく)一本ともすことを許されない暗黒に閉じこめられ、食物といえば黒パンと豆と水のみ。昨日にうって変わる、卑しい粗麻(そま)の獄衣を着せられたサンソンは、飢えと寒さに責めさいなまれながら、獣のように吠えたり、ありとあらゆる呪詛(じゅそ)の言葉を鉄格子にむかってたたきつけた。押せどもひけども、びくともしない岩壁(いわかべ)を、両手の爪がはがれるまでかきむしって、怨みのありたけを刻みつける。そのあとにはきまって底無し沼におちたような激しい絶望感が襲ってくるのだが、かれはくじけなかった。

「いまに見てろ! この復讐(ふくしゅう)はかならずかならず、果たしてみせるぞ!」

 天を呪い地を呪うその一念だけが、かろうじて、サンソンの生命をつないだ。

 四年の歳月が、剣技で鍛えた逞しい彼の肉体から、一寸刻みに若さを奪っていった。かつて栗色だった髪の毛も、一本一本死人のような白髪に変わり、闇になれた目は陰惨な翳が凍りついて、毒蛇のような妖しい光を放つようになった。

 だが、獄の外にあっても、その四年の歳月のあいだに、フランス王国はもはや昨日までのフランス王国ではなくなっていた。マリー・アントアネットの政敵ロアン大司教が、パリの高等法院から無罪の判決を言い渡された例の頸飾(くびかざ)り事件を皮切りに、腐敗しきったブルボン王朝の瓦解(がかい)は、いまやとどまるところを知らないいきおいで、坂道を転りはじめていたのであった。

 後年フランス大革命史は、その年譜に次のような記録を残している。すなわち一千七百八十九年、五月一日、ノートルダム寺院におけるルイ十六世の三部会召集。十月十七日国民議会の組織。つづいて国民軍の誕生。治世十二年間に、実に十二億五千万リーブルの莫大な負債をつくった王家に対する、国民の怨嗟憤激(えんさふんげき)はその極に達し、人望の篤かった宰相ネッケルが追放されるに及んで、ついに爆発した。――すなわち七月十四日、蜂起した暴徒二万のバスチーユ城砦襲撃となって現われる。

 囚われの身のあいだ、朝に夕に単調な号砲と見張りの兵士のラッパの音しか、耳にすることのなかったサンソンは、とつぜん嵐のように押し寄せてきた群衆の喊声(かんせい)を聞いても、とっさに何が起こったのか、判断に苦しんだ。右往左往する兵士たちの騒ぎが、嘘のようにぴたりとやんだのを知って、不審の念を抱いたものの、そのとき古塔の上に守備隊長の鮮血のしたたる生首が槍の穂先に突き刺されて踊り狂い、三色旗が翩翻(へんぽん)としてひるがえっていたのを、見るべくもない。熱狂した暴徒が口々に万歳を叫び、鉄格子をたたきこわしてなだれ込んで来たのを()のあたりにして、はじめて革命の勃発を悟ったのであった。

 サンソンは熱狂した彼らの手でかつぎあげられ、その背におぶわれて、真夏の太陽がじりじりと照りつける牢獄の外に、運び出された。長い獄中生活で痛めつけられた彼の肉体は、ミイラのように、見る影もなく痩せ衰えて軽い。いきなり厳しい陽光にさらされて盲目になるのを防ぐために、目隠しをされていたが、彼はその目隠しを通して熱湯のような熱い光と、蒼々(あおあお)と果てしもなくひろがる大空をじかに皮膚に感じながら、おぶってくれている若い農夫にむかって、わななく声でまっ先に()いた。

「王妃は……ハプスブルグ家の皇女は、この暴動を御存知か……」

 それから今日までの約四年余り。以前の召使をたよって、身を落ちつけたサンソンの周囲では、あわただしく次々と王政をゆさぶる大事件が相ついだ。

 しかもその事件は、サンソンの一個人としての感情や意志とは無関係に、日一日としだいに血なまぐさく、戦慄(せんりつ)すべき様相を呈していった。

 国王一家のタンブル幽閉。九月殺戮(さつりく)。国民公会の成立。ルイ十六世の裁判開始。処刑。そして革命裁判所の設立。……

 サンソンが進んで刑吏を志願したのは、その国王の処刑後まもなくのことである。

 死の直前まで、美食と大食の習慣を改めなかったというふとっちょの国王の首が、断頭台の下にぶざまにころげ落ちるのを見たとき、彼は群集のなかにあって、ひそかに北叟笑(ほくそえ)んだ。それは血に狂った過激な共和党員たちが、国王の処刑だけでは、とうてい満足するはずのないことを慧眼(けいがん)にも見抜いたからだった。彼らにとって国王以外の不倶戴天の敵、国民の憎悪の象徴ともいうべきあの高慢きわまりないマリー・アントアネットを、どうしてこのままのめのめと生きながらえさせておけよう。彼女こそまっ先に、ギロチンにかけられて、血の花を咲かせるにふさわしい女ではないか。

 時勢が変わったからといって、決して復讐の誓いを忘れたわけではなく、虎視眈々(こしたんたん)としてその機会を狙っていたサンソンに、天がそのチャンスを与えてくれようとは、願ってもない幸いだった。

 彼にかわって、あのひんやりとした巨大な国家の剃刀(かみそり)が、怨みのありたけをはらしてくれる。彼はただ刑吏として、その綱を引いてやりさえすればいいのだ。

 その日、その瞬間、王妃としての誇りも自尊心もかなぐり捨てて、一人の打ちひしがれた女の姿で彼の膝に(すが)りつき、命乞いをするに違いないあの哀れな寡婦(かふ)を、彼は冷酷につきのけて、こう言ってやるのだ。

「王妃陛下よ。貴女の国民が、貴女の処刑を待ちかねておりますぞ!」

 ――その日は、後二日でやってくる。

 

    4

 

 風が一段と不気味に吹きつのってきた。砂塵はつむじを巻いて断頭台の周囲で荒れている。そのたびに立哨(りっしょう)の憲兵の手のカンテラが、闇のなかで大きく揺れる。

 サンソンは蹌踉(そうろう)とした足どりで、断頭台の階段を降りていった。囚人たちが一段ごとに神にすがって昇るその階段を、かれは悪魔に祝福されて、一歩一歩降りていくのである。

 ジルベルトの姿は、もはや見えなかった。小心者のあの男は、ルイ十六世の処刑のときも逆上したあまり、すんでのところでしくじりかけた苦い経験があるので、マリー・アントアネットと聞いただけで、腰を抜かしたのであった。そのうえ、サンソンの狂気じみた声に、なおいっそう怯気(おじけ)づいてしまったらしい。

「お、おれにはできねえ。王妃さまの首を斬るなんて、そんなことおれにはとてもできねえ……か、勘弁してくれよ!」

 手をすり合わすようにして哀れな声で言うと、死骸(しがい)を入れた手押車を押して逃げるようにねぐらのある墓場へひきあけていった。ジルベルトは埋葬(まいそう)人夫でもあるのだ。

「ふん、弱虫め! いまの言葉を憲兵にでも聞かれりゃ、明日はお前の首がすっ飛ぶ番だぜ」

 サンソンはいまいましそうに、ペッと唾を()き捨てると、

「だが、まあいいや。お前がやれなくったって、おれが立派にあの女は()っつけてみせる」

 マントの肩をそびやかすようにして、断頭台をさも愛しそうにふりあおぎ、もう一度、ふふふとひくく笑い声を洩らした。

 ジルべルトは市役所から出る、十五リーブル三十スウの雀の涙ほどの手当て欲しさに、いやいや刑吏をつとめている哀れな男なのである。いま時分はさぞおっかなびっくりと、オリヴァー公爵夫人の(なきがら)に生石灰をふりかけ、他の刑死者の(ひつぎ)といっしょに埋葬すべく、無縁墓地の墓穴を掘っていることだろう。

 やがて不吉な夜鴉(よがらす)にも似たサンソンの後姿が、闇のなかにのめり込むように消えていくのを、銃剣を肩にして化石のように(たたず)む、憲兵の無表情な視線が見送った。

 サンソンは墓地と反対の方角の、サン・トノレ街の方へ足をむけ、十五分後にはパリの裏街の、とある貧民窟の一角に瓢然(ひょうぜん)と現われる。

 そのうちの一軒――赤い洋灯(ランタン)に『何も無し(リヤン)』と店の名のはいった、穴蔵のような酒場のドアを押して、サンソンはぬっとなかへはいったが、戸口の暗がりに、しばらくじっと立ち止まったままでいた。

 窒息(ちっそく)しそうなほど、汚れた空気をかき乱して、はでな矯声(きょうせい)と度はずれた歌声が渦巻いている。空樽(あきだる)に思い思いの姿勢ですわって、怪しげな淫売(いんばい)女たちがへべれけに酔った客に、しどけなくもつれていた。客はみなついさっきまで、コンコルド広場の血なまぐさい饗宴を見物していた群衆の一部だった。年寄りの農夫がいる。職人ふうの男がいる。浮浪者がいる。彼らのかたわらで燭台(しょくだい)の赤い蝋燭が、ジジジと音をたて、その灯影のゆらめきに、天井から(かぎ)で吊り下げられた鷲鳥(がちょう)腸詰類(ちょうづめ)が、異様に赤黒く照らし出されていた。客たちの歌声も赤々と燃えているようだ。

 

 とつぜん、その歌声が嘘のようにぴたりとやんだ。

「遅かったじゃないの」

 客たちのあいだを縫って、酒を注いでまわっていた雀斑(そばかす)だらけの赤毛の若い女が、目をキラキラさせて言った。

 その声につられて、客たちはいっせいに戸口の方をふりむいた。誰の顔もいい合わせたようにしらじらしく強張り、一瞬、化石したような沈黙がただよった。だが、その重苦しい沈黙はすぐに破られ、客の一人が呂律(ろれつ)のまわらぬ声を威勢よくはりあけて怒鳴った。

「いよー、悪魔の大将!」

 別な一人が盃をさし上げて、樽から立ち上がった。

「ブラボー!……革命裁判所万歳!」

 その後から前以上に騒々しい歌声が、再びドッとよみがえった。いや、酒場ぜんたいが、常軌を逸して狂い出したような騒ぎになった。サンソンはその動物的などよめきを無視したように、戸口のわきの階段をゆっくりと二階へ上がっていった。お祭騒ぎに夢中になった客は、サンソンの黒衣の姿がいつのまにか音もなく消えているのに、誰も気づいたものはいない。ただあの赤毛の女だけが、目ざとくそれを見つけて彼の後を追った。

 

「サンソン。わたし今日、あの女の裁判を見てきたわ」

 と、彼女は二階の奥まった一室の戸を開けるなり、さもそのことを話したくて、待ちかねていたといわんばかりに、口を切った。

 その部屋は、刑吏サンソンがバスチーユから救出されて以来、ひそかに人目を避けて身を落ち着けている部屋だった。女はかつての召使の娘ジルダである。二人の間にいまは階級意識はなかった。あるのは、肉体のつながりのあった男と女の、むきだしな馴れ馴れしさだけだった。勝気な彼女の目は酒と裁判の強烈な印象に酔って、すっかり自制を失っていた。

「あの女は、黒いヴエールの垂れた白い亜麻の帽子、みすぼらしい恰好(かっこう)で固い木の椅子にポツンとすわっていたわ。憲兵士官ビューヌ中尉に介添されてさ。でもあの女は検事の起訴状に対して、顔色ひとつ変えず、眉根(まゆね)ひとつうごかさず、陪席判事に向かってこう言ったわ。――わたしの過去の行ないは、すべてフランスの幸福を願ってしてきたことです。わたしはルイ十六世の(きさき)であり、したがって夫の定めた一切の行為に、従わねばならなかったのです。――あの女は目に(なみだ)ひとつ浮かべずそう言ったわ」

 マントも脱がずに、テーブルに向かってカルタを手でもてあそんでいたサンソンは、ジルダの方に冷ややかな一瞥(いちべつ)を与えただけで、なんの反応も示さなかった。ジルダは取りつくしまもなく、しばし呆然としていた。

「ねえ、あんた……」

 たまりかねてジルダは泪声になりながら、彼のマントにすがりついた。口から右の耳にかけて残る、醜い火傷(やけど)のひきつれに頬をすりつけて、

「わたしは、あんたを喜ばせたいばっかりに、裁判のあいだじゅう、あの女の一挙一動を、まばたきもしないで見つめていたんだよ。あんたが死ぬほど憎い女は、わたしにとっても(かたき)みたいなものさ。それなのに……あんたは何も感じないの」

「おれのマントを脱がせてくれ」

 サンソンはカルタから手を離すと、はじめて押し殺すような低い口調で口を開いた。

「いや、マントだけじゃねえ。上着もはいでおれの背中を裸に晒すんだ!」

「えッ」

 驚いたジルダが眉をひそめて身をひくと、サンソンは、

「早くしねえか!」と声を荒らげてせきたてた。

「お前に見せてやりてえものがある!」

 ジルダは、サンソンが急に何を思い立ったのかと怪しみながらも、いわれるままにうす暗いランプの火影の下に、彼の背中をむきだしにした。とたんに彼女は、思わずあっと口を手でおさえて、後じさりした。

 サンソンの背中には、目をそむけたくなるような忌わしい十字の烙印(らくいん)が、刻みつけられていた。()えた痕が赤黒くひきつれているその痛ましい傷は、彼がバスチーユに投獄されたさいしよの日に、典獄の手でむりやり、押されたものである。囚人のうちでも、特に罪過の重いものに限って、文字どおり背負わされるその屈辱は、生のある限り無残につきまとう桎梏(しっこく)なのだ。サンソンは、いままでわざとそのことをジルダに固く秘して、目に触れることを避けていたのであった。

「わかるか。ジルダ。おれはこの十字の傷をつけられて以来、化物みてえな人間になっちまったんだ。……断頭台のうえに上がって、血がドクドクしたたる、女の生首を見たときじゃねえと、人並みな興奮を感じねえんだ。人間らしい喜びが()いてこねえんだよ。い、いまのおれは、この体にじかに感じるものじゃないとだめなんだ。憎しみも(のろ)いも、この傷の中に()みこんじまってるんだ! え、わかるか……」

 そう言いながら、サンソンはいきなりジルダの(おび)えた腕をわしづかみにすると、荒々しく抱き寄せた。

 ジルダは腕のなかであがいた。あがきながら恐怖でいっぱいに見ひらいた目で、サンソンを見つめた。それからいや、いや、いやっと、火がついたように激しくわめきたてた。

「あんたは、あんたは、……いまでもあの女を愛しているんだわ」

 だが、サンソンの腕は、牝山羊(めやぎ)を巻きこんだ蛇のように、しだいに力を加えて(あえ)ぎながら、彼女の胴体を締めつけていった。

 

    5

 

 朝が訪れた。なんのへんてつもない朝である。

 正確にいえば、一千七百九十三年十月十四日が過ぎ去って、翌日の十五日になったというに過ぎないが――その朝、サンソンはだれかに激しく揺り起こされた。

 誰かといっても、そんなことのできるものは、ジルダのほかにはいない。昨夜、彼と臥床(ふしど)を共にしたジルダが、サンソンのうなされ声のあまり(すさま)じいのに驚いて起こしたらしいのだが、しきりに名前を呼んでいるその声が、死んだように眠っている彼の意識にはいってくるまでには、かなりの時間がかかった。彼はカッと両眼を見開いたまま、眠っているのである。毎夜のことながら、サンソンのうなされかたの恐ろしさといったらなかった。断末魔(だんまつま)のように両手がわなわなと闇をつかみ、ギリギリと歯ぎしりをしたかと思うと、とつぜん発作的な叫び声をあげたりするのだ。夢のなかにまで血みどろな情景につきまとわれているからであろう。だが、目を覚ましたときには、サンソンは何一つ記憶していなかった。

「ねえ、起きて、起きてったら。気味が悪いから、そんな変な白目をむいて眠るのはやめて!」

 ゆすぶるだけでは効果がないと見て、頬っぺたをぴしゃぴしゃと両手でたたく。

「左京太さん。左京太さんたら……」

 やっとその声が聞こえたのか、サンソンはいきなり棺の中から甦った死人のように、蒼白な顔でガバと起き直った。

「よかった。あなたがいつもと違って、夜通しうわごとを言いつづけてるもんだから、病気にでもなったんじゃないかと思って、心配したのよ」

 ベッドの前に、ネグリジェにカーコートをひっかけた見なれない女が、立っているのを見て、サンソンは目をしばたたかせた。

 その女はジルダではなかった。彼は昨夜飲み過ぎた酒が、まだ頭に残っているせいかと思って、あわててあたりを見まわした。部屋のようすがまるで違っている。

 サンソンが昨夜、泣きじゃくるジルダをひきずりこんで眠ったのは、壁に押しつけるようにつくりつけた粗末な木製のベッドで、布団のかわりに藁を敷いた、みすぼらしいものである。同じ木製は木製でも、こんなふかふかした布団のかかった、幅の広いものではなかった。第一すぐに手が届くところにあったランプがないし、風が吹くたびにギシギシと鳴る、板をうちつけただけの窓が、いつのまにかカーテンのかかったガラス窓になっている。蜘蛛の糸のかかった裸の棟木(むなぎ)が、重苦しくのしかかっている下に、酒瓶(さかがめ)や空樽や(まき)などがごろごろしている、納屋兼用のあの殺風景な部屋と違って、目に触れるものすべてになじみがなかった。

 ただ同じなのは、カーテンや戸口の隙間から流れ込んでいる、樹脂のような平和な朝の陽光だけであった。

 サンソンはベッドの上にすわったまま、しばらくぽかんとして我を失っていた。女は彼が寝ぼけているとでも思ったのか、クスクス笑いながらベッドの横にすわりこんで、またなれなれしく彼の肩に手をかけてゆすぶった。

「何をそんなにおっかない目をして、じろじろ見ているのよ。左京太さん――あら御免なさい。サンソンって呼ぶって、約束だったわね」

 そのときサンソンの面にあらわれた、なんとも言えない奇妙に歪んだ表情を、どのように形容したらいいだろう。

 彼は女の言っていることが、まるでわからなかった。左京太とは誰のことなのか? 自分のことをなぜそう呼ぶのか、面食らった。だが、次の瞬間、かれは自分の耳を疑った。自分の目を疑った。サンソンは内心で、愕然(がくぜん)とした声をあげた。

 ジルダはどこへ行ったのだ! 酒場『リヤン』の二階の部屋は、いったいどこへ消失したのだ!

 ただ一夜のうちに部屋が変わり、見知らぬ女がいるというだけなら、彼が眠りこんでいるあいだに、何者かの手で拉致(らち)されたとも考えられるが――しかし、十八世紀のフランス共和国のどこに、このような部屋が存在する。どこにこんな女が実在する……。

 サンソンはいきなりベッドから飛び降りると、その女をつきのけて、窓のカーテンをサッと押しあけた。金色のまばゆいばかりの光が、一時に彼の面へあふれかかった。蒼々(あおあお)とした雲一つない空――電信柱が、自動車が、電車が彼の目を射た。サンソンは顔をそむけて、喘ぐように言った。

「お、教えてくれ! ここはいったいどこなんだ? お(めえ)は誰なんだ」

「あら、いやだ。ここはあなたの部屋に決まってるじゃない。……わたしが誰かですって。寝ぼけないでしっかりしてよ。あなたは自分の恋人の顔を忘れたの?……ジルダよ。いいえ、鴇子じゃないの」

「ジルダだって……」

 と、サンソンは口のうちでぶつぶつ呟くように、何度もその言葉を繰り返した。

「……じゃあ、今日はいったい何日なんだ! 何年何月何日だというんだ」

「一千九百六十三年、十月十五日……」

「な、な、何っ!」

 サンソンは頭をかかえて、ベッドの上にうつぶした。

「そんな馬鹿な! 馬鹿なことが……」

 と、彼は脂汗を額にじっとり浮かべて言った。大変なことになった、と思った。

 一夜のうちに、二百年もの歳月が経ったというのか……突如として信ずべからざる奇跡が起こったのか……そんなはずはない。

 彼を見つめる鴇子の顔が、にわかに気づかわしげにくもり、憐むような眼差(まなざし)しになった。

「しっかりしてったら、左京太さん。いったい何がどうしたっていうのよ? ここは、あなたの住む世界ではないとでもいうの?……あなたは……」

 その言葉がふっと宙で凍った。「可哀相に」と深々とした溜息をついて言った。

「とうとう頭へ来てしまったのね。お芝居に夢中になりすぎて、自分がわからなくなってしまったのね。このあいだから、こんなことになりはしないかと思って心配してたんだけど、左京太さん。あなたがサンソンになるのは、お稽古と舞台の上だけのことにしてほしいわ。ここはわたしたち二人きりの部屋なのよ。目黒のアパートなのよ。あなたは少し頭が疲れすぎてるんだわ」

「嘘だ! 嘘だ!」

 サンソンは吠えるように言った。

 彼女こそ頭がどうかしているのだと思った。

「芝居なんて……お、おれはそんなものは知っちゃいねえ。おれは昨日あの断頭台で、オリヴァー公爵夫人の首をばっさりやった男だぜ。正真正銘の首斬役人なんだぜ。――そうだ証拠がある。おれには証拠があるぞ!」

 ハッとあることが、彼の頭にひらめいたと見え、血の気のない顔色が急にいきいきとした。サンソンはいきなり着ているものを脱ぎ捨てると、部屋の隅のドレッサーに、自分の裸身をうつしてみた。

 あの忌わしい十字の傷痕は、歴然として刻印を残していた。彼はホッと救われたような気もちになった。いや勝ち誇ったような顔つきで言った。

「見ろ! これが見えねえか。この傷が、何よりの証拠だ。これは、おれがバスチーユに……」

 だが鴇子は、悲しそうに首をふった。

「そんなもの、わたしの目には何も見えないわ。傷なんてどこにもないじゃないの。それに……」

 と、彼女は言った。

「あなたはさっきから、日本語を使って喋ってるのよ。あなたがもしほんとうにサンソンなら、そんなおかしなことってあるかしら……」

 それから鴇子は、彼のことはもう諦めたというように、さっさと着替えをはじめた。

「お稽古は、朝の十時からはじまるのよ。急がないと間に合わないわ」

 

 サンソンはふと自分を疑った。自分がほんとうに左京太という男なのだろうかという疑問が、頭のなかをかすめたのである。鴇子の言うところによると、彼は俳優で、たまたま『仮面座』という劇団が上演する芝居の、舞台の上でだけ、サンソンの役を演じるのだという。だが、その疑問を、かれはすぐに打ち消した。

 断じてそんなことはあり得なかった。記憶も生々しい刑吏としての半生が、単なる一夜の悪夢だったとは、どうしても考えられなかった。彼がトリアノン宮警護の近衛隊長をしていたあの華やかな貴族時代からはじまって、バスチーユに投獄され、刑吏になるまでの十年近い歳月にわたる歴史が、わずか一晩の夢の中で辿れるものかどうか。

 第一、彼は、どんなに思い出そうとつとめてみても、左京太という男の過去が、どうしても現在の自分につながってこないのだ。とつぜん左京太だと言われても、すべてが空白で、面食らうばかりである。――それだけではない。

 サンソンの肉体に病毒のように滲みこんでいるマリー・アントアネットに対する、憎悪と復讐の一念はどうだ。いまなお灼熱(しゃくねつ)した炭火のように燃えているこの体内の血の炎はどうだ。俳優が虚構の世界ででっちあげる、(いつわり)の炎では断じてなかった。サンソン自身が生身で感じている、憎悪であり呪いだった。

「大変なことになった!」

 と、彼はまたもや咽喉の奥から、しぼり出すような声でうめいた。

 サンソンは自分自身に、もはやなんの疑いも感じようとはしなかった。彼がうろたえたのは、今日が十月十五日だということであった。

 マリー・アントアネットの処刑は、十六日に行なわれる。彼があれほど待ちに待った日は、いよいよ明日に迫っているのである。

 もしも、その日その時を逸したら……と思うとサンソンは慄然とした。四年間の牢獄生活で誓ったことが、すべて水の泡になる。復讐のチャンスを失うことになる。断頭台の上に彼の黒衣の姿が見えないとしたら、群衆たちも失望するに違いない。

 サンソンはこうしてはいられないと思った。なんとかして明日までに、この見知らぬ世界から脱け出さなければならない。もう一度一千七百九十三年十月十五日のパリーに、戻らなければならない。本物のジルダが実在するあの酒場『リヤン』の二階へ、懐しいギロチンのそばへ戻らなければならない。十八世紀の世界が、一夜のうちに二十世紀の世界に一変したのが、奇跡の力によったのだとすれば、ふたたびその力にすがって、時間を二百年昔にかえしてもらわなければならないのである。

 その奇跡に通じる扉を、思いがけなく開いてくれたのは、鴇子であった。そのときサッサと自分の支度をおえた彼女は、サンソンに向かってこうせきたてたのだ。

「さあ、左京太さん。あなたもぐずぐずしてないで、早く支度してよ。稽古場へ行けば、あなたの会いたがっているマリー・アントアネットだって、ルイ十六世だって、ジルベルトだってみんな待っているのよ」

 

 その日『仮面座』の立稽古は、千駄ヶ谷の区民会館で、朝の十時から全幕を通して行なうことになっていた。

 舞台稽古のときは、ほんの明かり合わせ程度の段取りしかできないので、この劇団では初日の前日の稽古を、俳優たちに当日そのままの舞台衣装、メーキャップをさせて、総仕上げをするのである。照明と大道具がないだけで、効果も小道具も、飲食物などの消え物もきちんと揃え、俳優たちはそれらに引き立てられて、ほぼ当日の舞台に近い雰囲気の中で、稽古をするのだった。

 そのため、稽古場にあてられた、がらんとした広い講堂のなかは、ごった返していた。椅子という椅子はすべて隅の方に押し片づけられ、衣装や(かつら)を入れたボテが散乱するなかで、俳優たちはめいめいの化粧前をひろげて、メーキャップに取りかかる。舞台監督や効果係は、そのかれらのあいだを縫って、テープレコーダーのコードをひっぱったり、小道具の位置を決めたりして、コマ(ねずみ)のように働いている。殊にその日は、いくつかの新聞社の芸能記者たちが、稽古写真を撮りに来ることになっていたので、関係者の神経は必要以上に高ぶっていた。

 サンソンは、鴇子に連れられてその稽古場に入っていった。彼と顔を合わせた劇団員の誰も彼もが、サンソンのことを左京太、左京太と呼んで怪しまないのが、不快だった。――だが、彼はとたんに目を輝かせた。

 光のとどかないうす暗い講堂の中央に組みたててある断頭台に、サンソンの目は思わず吸い寄せられたのである。

 それは小道具係が、資料をどこかで捜してきて、苦心してつくったものであろう。角材を実物の断頭台そのままの高さに組み、二本の柱も(くびき)も囚人を横たえる横板も、がっしりとできていて、舞台で使う物にしては、実に入念な手のこんだ作りかたがしてあった。ただ肝心の首を斬る刃だけが、ベニヤ板を三角形に切り抜き、(はがね)に似せた色を塗ってある。今日の稽古が終わり次第、この図体の大きな大道具は、明朝早く劇場までトラックで運ぶ手はずになっていた。

 サンソンは、「おお」と動物のような(うめ)き声を発して、そのそばへ近寄った。狂気したようにその階段を駆けのぼった。台の上に仁王立ちになって、その柱をなつかしそうになでてみた。(くびき)の滑車を通してぶらさがっている、ロープにもおののく手で触れてみる。

 だが、(ほふ)られた犠牲者の血で、どす黒く汚れていなければならないはずのその柱とロープからは、プンと泥絵具の匂いがしただけだった。ベニヤ板の刃は、少しも死の重みが感じられなかった。彼はがっかりしたように溜息をつくと、とぼとぼと力なく階段を降りた。――次の瞬間、今度はその足が釘づけになった。

 その断頭台からかなり離れた椅子に、ぼんやり稽古のはじまるのを、すわって待っている若い女優と男優の二人が、かれの眼をとらえたのである。二人ともすでに扮装をおわっていて、女優の方は白の亜麻の帽子と白のモスリン服を着たみすぼらしい恰好で、男の方は彼と同じ刑吏の姿である黒マントをすっぽり着て、黒の三角頭巾をかぶっていた。たちまちかれの咽喉の奥から、低い押しつぶされたような声が洩れた。

「王妃がいる。マリー・アントアネットがいる。そしてジルべルトまで……」

 思わず周囲のものが驚いてふりかえったほど、その声は人間のものとは思えなかった。

 彼は、その二人も自分と同じように、とつぜん十八世紀の世界からこの世へ迷いこんで来たのではないかと、錯覚したのである。だが、そのとき足早にサンソンの背後に近づいた鴇子の声が、彼の驚きに水を差した。

「何を見ているのよ。」あの二人は王妃の役をする小暮さんと、ジルベルト役の平島さんじゃないの」

 女は『仮面座』のトップ女優小暮茉莉子(まりこ)、男は三枚目の平島(ひとし)なのだった。

 鴇子は、「さあ、わたしたちも早いとこメーキャップをしないと、もうまもなく稽古がはじまるのよ」と、サンソンの腕をせかせかとひっぱった。彼はどこまでも、俳優熊倉左京太としての扱いしか受けなかった。

 

 サンソンは、断頭台の上に立っていた。そのそばにジルべル卜役の平島が介添役で同じように立っている。芝居言葉でいうイタツキで、稽古は、テレビやラジオに出る俳優の都合で、急に四幕目からはじめられることになったのだった。

 だが、いざ舞台監督のキッカケを取る合図で、幕があいてみると、彼はしだいに異様な興奮をかきたてられてきた。断頭台といっても見てくれだけのもので、登場人物もいちいち役者が扮しているのだとわかっていながら、その台の下に憲兵が立ち、二十人ばかりのガヤの群衆たちに、周囲を囲まれて見上げられると、床に白墨で線をひいた仮定の舞台が、周囲から切り離された、別の世界のような気がしてくるのであった。

 それは芝居の持つ特殊な魔力というものかもしれなかった。別な言いかたをすれば、同じ劇場の中でも舞台と客席と二つの異なる次元の世界が、同時に存在するということなのだ。そして俳優は扮装をほどこし照明の当たった背景の前へ立つことで、未来の世界または過去の世界へと自由に出入りすることができるのだ。殊に名優は稽古のときでも、パントマイムだけでも、簡単にその世界の人間になることができるといわれている。

 サンソンもまたある意味で、それと同じような心理状態におち入ったのだった。かれは、稽古がはじまった瞬間から、白墨の線の外にいる演出家や、舞台監督、見物の新聞記者たちの動きが、まるで、目に入らなくなった。彼の意識の中には、断頭台とそのまわりの群集たち、そして群集のなかを割って、護送馬車に乗って登場する、マリー・アントアネットだけしか映らなかった。小暮茉莉子が扮した王妃が、着剣の憲兵に護られてその馬車から降りるのを見たとき、彼はそれが芝居だということをまったく忘れて、心をかき乱されたのである。

 その日の四幕目の稽古は、茉莉子がテレビヘ出る時間の都合で、そこまで芝居が進行しただけで中止になったが、サンソンはさめやらぬ興奮の中で、突如神の啓示(けいじ)を受けたようにあることを思いついた。というより、彼だけに通じる異常なとっぴょうしもない論理に、自ら惹きつけられたのである。

 それはもしも舞台の背後に、それと同じ次元の世界が存在しているとしたら、どうだろうかということであった。永久に幕が閉まらないとしたら、どうだろうということだった。そうすれば、舞台上の人間も、そのままその時代の人間になって、生活を始めることになりはしないか。それこそサンソンの願う、奇跡を行うたった一つの方法なのではないか。そして、そのためには、俳優自身が舞台の上で完全にその時代の人間になりきってしまえば、それでいいのではないか。言いかえればサンソンこそ、それのできるたった一人の人間ということにもなるのだ。だが、それには、彼の舞台上のすべての動きに、いささかも虚構があってはならなかった。断頭台は本当に首の斬れるものでなければならなかった。

 その夜、サンソンは、稽古が終わると後に残った小道具係に、次のようなことを頼みこんだ。

「明日の本番までに、ギロチンに馴れておきたいんでね。少し具合を見させてもらえんだろうか……それからこのベニヤ板の刃は、おれにあずからせてくれねえか。どうせおれの道具なんだから、明日、おれが責任持って幕あきまでに取りつけておくよ」

「ああ、いいとも」

 と、小道具係は他の仕事に忙殺されていたところなので、気さくに応じた。サンソンはさらにこんなこともさりげなく聞いた。

「どこかこの近所で、鍛冶屋(かじや)を知らねえかな」

 小道具係は怪訝(けげん)そうな顔つきになったが、そのうちの一人がその場所を教えてくれた。サンソンは鴇子のハンドバッグから、テレビの出演料の五万円をこっそり抜き取ると、どこかへ出て行った。かれはその夜、目黒のアパートヘは帰らなかった。

 

    6

 

「仮面座」の芝居、「断頭台」は、初日から予想外の大入満員になつた。プレイガイドの切符が、当日の朝になって急にばたばたと売り切れ、劇場の当日売りの窓口にも、切符を買う客が殺到した。このようなことは新劇界では、大劇団でもめったにない現象だった。

 劇団が芸術祭参加作品と、ポスターやチラシなどで大々的な宣伝をしたせいもあるにはあったが、それほどの反響を呼んだのには、もっとほかに訳があったのである。それはその前日の各紙の夕刊が、芸能欄にこぞってある記事を大々的に紹介したからである。

 新劇界に特異な性格俳優出現か、外国俳優にも劣らない演技とかいう大げさな見出しで、いずれもサンソンのことを最大級の賞賛の言葉で、うずめたからであった。サンソンは何も知らなかったが、昨日稽古を見にきていた新聞記者たちのあいだで、彼のことは大変な話題になっていたのである。「仮面座」にこんな隠れた有望な俳優がいようとは思わなかったと、彼らは口々にサンソンのことを誉めそやして帰ったのだ。

 おかげで客席は通路まで補助椅子を出し、それでもまだ足りずに後方の立見席まで客でうずまる始末だった。熱心な新劇ファンの女学生のなかには、わざわざ差し入れのウイスキーや洋菓子の包などを持参して、楽屋まで彼の顔を見に訪れる酔狂なものもあった。他の劇団員たちが二の句がつけないほど、彼の人気は素晴らしかった。

 だが、そうした異常なまでの脚光を浴びながら、サンソンが楽屋にこっそり持ち込んだ、あるかさばったずしりと重い包に、気づいたものは誰もなかったであろう。鴇子でさえ、うかつにもその事には少しも気づかなかったほどである。

 

 幕が開いた。――舞台は四幕目、コンコルド革命広場の処刑場の場面である。

 ホリゾントぎりぎりに遠見の背景があり、うっすらと朝靄(あさもや)に包まれたチュルリー宮が、寺院の塔に並んで描かれている。その前に剣を手にした大理石の自由の女神の像と、赤茶けた高い枯葉の立木の切り出し

が置かれ、それらに見おろされるような位置に、断頭台が傲然とした構えで聳え立っていた。

 広場をうずめていた群集たちは、処刑時間が刻一刻と近づきつつあるのを知って、ざわざわとざわめきたっていた。彼らの間では呼売人の売る新聞や漫画、「悪名高き淫乱な牝虎(めとら)」などと書いたパンフレットが、飛ぶように売れている。大道商人からレモネードを買って、ラッパ飲みをしながら跳びはねている子供もあった。

 黒ずくめの衣装を着たサンソンは、断頭台の上で凝然とそれらのさまを眺めていた。全身がおさえることのできない感動に、こきざみに震えるのをどうしようもない。血の気のない顔がなおいっそう蒼白になり、脈うつような興奮が襲ってくるのを、どうすることもできなかった。彼はいまこそと思った。今こそすべては終わる。今こそかれの多年の怨みは報いられるのだ。

 そのとき、舞台の端に居並んだ鼓笛隊の太鼓の音が、ひときわ高く鳴り響いた。群集たちはいっせいにどよめきたった。王妃を乗せた死の馬車が到着したのである。その護送用馬車は、力づよい駄馬に曳かせた、天蓋のない皮剥人(かわはぎにん)用の荷車なのだった。

 舞台のソデで止まったていの演出なので、幕にかくれて観客の席からはそれが見えない。客に見えるのは、車を降りたったマリー・アントアネットが、憲兵に両腕を支えられ、下手のソデから断頭台に向かって、一歩一歩、歩を進めていく姿だった。群集は口々に罵声を彼女に浴びせて道を開く。

 サンソンはその進んでくる王妃の顔を、唇をゆがめて食いいるように(にら)みつけた。恨み重なる仇敵を、冷笑を浮かべて迎えるつもりだったが、顔も口も強張って冷静をたもてなかった。毅然(きぜん)として、首を高く張り、いささかも動じた色を見せなかったのは、かえって後ろ手に縛された王妃の方であった。

 サンソンは彼女の態度にまるで取り乱したところがないのに、唖然(あぜん)とした。反感さえ感じた。三十七歳という年齢にもかかわらず、かつての美貌の面影はなく、人が違ったように老いこんだ王妃マリー・アントアネットは、昂然(こうぜん)と唇を引きむすんであたりを睥睨(へいげい)しているかのように見えるのだ。彼女は断頭台の階段に、黒襦子(くろじゅす)のハイヒールの足をかけたときも、確乎たる足どりで、ただ最後の一段を昇るとき、ちょっとよろけただけだった。そのはずみにサンソンは軽く足を踏まれた。

 王妃は腰をかがめると、心から済まなそうに丁重な()びを言った。

「御免なさい(パルドン)。ムッシュウ」

 それから彼女は自分から、柱の間の刃の下に身を投げかけ、頸をさしのべた。ジルべルトが、その細く骨ばった首に(かせ)をはめ、横たえた彼女の身を、膝と胴とで縛りつけた。

 サンソンは照明が暗転するのをきっかけに、一気に引縄を引いた。閃光一閃、三角の刃が落下し、にぶい音とともに、王妃の首は血しぶきをあげた。彼が鍛冶屋に一晩がかりで作らせた鋼鉄の刃が、血に染まって生物のようにギラギラ光っている。サンソンはかがみこんで、王妃の首の髪の毛をひきつかんで、高々と差し上げた。

 劇場内はたちまち大混乱に陥った。客席では女客のかん高い悲鳴とともに、客が総立ちになり、舞台の上では、俳優たちが芝居を中断して、わけもなく右往左往していた。裏方の連中は幕を閉めることも忘れ、舞台監督が血相を変えて断頭台の下へ飛んで来た。

「左京太が発狂した!」

「警察を呼べ!」

 

 その瞬間、サンソンは、ふたたび、自分の身が十八世紀に帰つているのを発見した。彼はもはや、劇場の押しつぶされるような重苦しい天井の下にはいなかった。蒼々と無限に果てしなくひろがる、大空の下の自由な大地の上に立っていた。

「フランス共和国万歳! サンソン万歳!」

 と口々に叫んで押し寄せて来た群集も、もはや俳優たちの扮したそれとは違っていた。

 今日の処刑を見んものとパリー中のあらゆる街から集まってきた、二万の老若男女なのである。

 サンソンはその天にこだまする歓呼を、さも満足げに聞きながら、もう二度と昇ることのない断頭台の階段を、激しい虚脱感におそわれながら一歩一歩降りていった。

 その頭上に一千七百九十三年十月十六日の太陽が、さんさんとしてかがやいていた。

(歴史考証は、シュテファン・ツワイク作「マリー・アントアネット」高橋禎二・秋山英夫氏訳による)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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山村 正夫

ヤマムラ マサオ
やまむら まさお 小説家 1931~1999 大阪生まれ。「わが懐旧的探偵作家論」で日本推理作家協会賞受賞。新聞記者、劇団文学座の演出を経て作家生活に入り、1981(昭和56)年から4年間日本推理作家協会理事長を務めた。後進の育成にも努め、多くの作家を輩出している。

掲載作は旧『宝石』(宝石社刊)1959(昭和34)年2月号初出。江戸川乱歩は「この作品は日常の現実は架空となり、架空の夢が現実となる転倒心理を描いている。私のいわゆる『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』の系列に属するものであろうか」と評し、作者自身、「もっとも好きな短編」であり、「現在に始まって過去に終るという、新機軸の小説形式に挑んでみた」と記している。

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