國民の友の附録にするとて御望みが有つたため歴史的小説のみじかい物を書きました。が、実の処これこそ主人が精一杯に作つた作で決していつもの甘酒では有りません。匆忙の中の作だの何だのと遁辞をば言ひません、只是が今の主人の実の腕で、善悪に関せず世間の批許をば十分に頂戴します。猶この後には春のや、思軒の兩「しんうち」が扣へて居ります。それ「比較は物の価格を定める」。大牢の前の食散らしは或は舌鼓の養生にも為りましやうか。一座早く出た無礼の寓意(も凄まじい)は実にこゝに在るのです。
脚色は壇浦没落の後日です。 安徳帝は実に御入水にならなかつたといふのがまづ多数の説で、文化十四年三月、攝津国能勢郡出野村の百姓辻勘兵衛が幕府へ一つの古文書を持出した事が有つてそして其古文書は經房卿と言つて幼帝に供奉して逃げた人の自筆で書いてあります。是等は白川少将も望んで一覧し、また京都で日野大納言も懇望して見た事さへあつた程で、中々容易ならぬ箇條なのです。今この小説は脚色をその經房の古文書から抜いて一毛一厘も事実を枉げず、ありの儘に書いた物で、その他日向に御逃れなつたの、又は阿波に御逃げに為つたのといふ方の説は爰で更に取用ゐませんでした。
中の人物の言葉は矢張り武蔵野と同様つとめてその時代の口気を写しました。時代物に必ずその時代の言葉を用ゐるといふことは全体たしかに是と言つて褒めるほどの事でも有りません。たゞ目先を変へただけです。
明治二十一年十月 美妙齋主人
其一
勇む源氏、いさむ濱風、無情、何のうらみ、嗚呼今まで白旗と数を競つて居た赤旗もいつか過半は吹折られたり、斫折られたり、はやその色をば血に譲つて仕舞つて、たゞ御座船の近処の辺に僅に命脈を繋いで居るありさま、気の故か、既に靡いて居るやうです。
海は一面軍船を床として、遠見の果てが浪に揺られて高低さへ為なければ水が有るとは思はれません。雨のやうに箭が降注いだのは戦争がやゝ熾に為つた頃(まだ運命がいくらか頼もしかつた内)だけで、今はその雨も敵の凱歌と共にあがり掛つて、たゞ手近な太刀討と組討と薙倒しがあちこちに始まるばかり、折れて水に陥つた箭の死骸、それも討死した士卒の躯と共に幾百となくむらがつて浪に弄ばれて居る體たらく、さながら堰か水門に塵芥が集まつたやうです。今少し前でした、能登守(教経)が血眼に為つて源氏の旗下へ飛込んだのは。蹴散らし、拂ひ倒して見る見る敵の中へ割つて入つたうしろ姿のいさましさ、かなぐり捨てた、鎧の袖の切れ目の絲は微かな波を空中に打つて、乱髪に勢を添へて居て、そして之が乱入するや否や、敵はにはかに噪ぎ立つて、主人九郎(義経)が危いと思つたか、やゝ進んだ兵の内でも、旗下へ引返したものさへありましたが、いつかそれも静まつて更に立直る反動の力のすさまじさ、瞬く間に敵は早御座船ちかく近寄ります。「能登守だに死にたるよ」。たれ言ふと無く伝へる此声、こゝろ細さは増すばかりです。新中納言(知盛)の顔を見るさへ涙です。泣立てゝ訳も無く主上(安徳帝)に取縋る女房どもの有様には萬夫不当、平家の柱石と聞こえた新中納言の唇もわなゝいて、着馴れた鎧の威毛にやゝ止る露の雫、それを飛沫と言ふだけ哀れ、だれが永別の涙で無いと言ひましやう。知盛の今日のむねぐるしさ、わざと従容として無理に笑顔を賣るものゝ、その笑顔は冬野の寒菊、無情の風を待つのみです。主上に対する眼、女房どもに向ける目眦、いづれ優劣なく無念の露を宿して、否帯びて、むしろ色は、今まで蒼ざめて居たのが次第に紅く為つて行き、いつの程にか髪の毛も針を植ゑて居るやうです。
かなはぬまでもと思ふ心は今でも知盛の胸には充ちて居ますから一寸帰つて主上に拝謁するや否や更にまた引返しては敵に近付いて士卒をはげまして居ます。
敵は次第に御座船に近づく。……また矢が雨のやうに為る、……前後には呻り苦しむ聲。見るに目も暮れ、心も消えます。はや其処此処とも乱れ果てました。最前から幾度も心元なさに舷頭へ立出ては戦争の様子を見て居た二位尼もこゝで心を決したと云ふ體で窃に御座船の奥の間へ源典侍、侍従経房、原田大輔判官種長、因幡郡司景家、及び右大将基方、大納言典侍、勾当内侍、阿波内侍の八人を呼びました。
それから何を話して居るか元より祕密にしたことと見えて次の間へ行つて聞いてもよくは聞えませんが、たゞ非常に嘆きかなしむ声がします。蝴蝶と言つてことし甫めて十七になつた宮女、これは京都から此処までも常に源典侍に従つて居る美人ですが、しきりに怪しく思ふのあまり近寄つて心を静め、よく聞けば其内に門院(建礼門院)の御声として涙にうるんだ気はひが洩れて来ます。
「さればとて、喃、二位」、紛れも無い門院の御声です、「御門(安徳帝)のむづがらせ給はんを……如何に、是のみにては」。
「御心細くも侍らん。然はあれども源氏あざむかんには二位こそ此上なきものなるを」。
是はたしかに二位の声で、跡は鼻をすゝる音が聞えるばかりです。聞けば表の方で女ばらも立噪ぐやうです。「すはや源氏」といふ声に蝴蝶も立聞しては居られません。足を抽いて立帰つて外を見れば、なるほど源氏は既に間近く寄りました。が、頼母しい、それでも猶名を惜しむ士卒どもは防戦して寄付けまいとして居ます。
「かくては争でか逃れ果つべき。早く心をするこそ好けれ」。一度蝴蝶も心をば斯う決しましたが、さて又主上や門院の御身の上が気に為つて気に為つて堪りません。暫時舟の端にたゝずんで(今は矢を恐れもしません)、四方を見回はして居ましたが、思付いてまた奥の方へと立帰つて行く出合がしら見れば二位尼は主上の御手を引いて其処に立つて居ます。
「蝴蝶、いくさは如何にぞや」。
問はれては墓々しくも言へません。
「口惜しうこそ。みそなはせ、御船ちかきに源氏も来ぬる」。
「つなぎ止めしも甲斐無かりき。いざさらば我もなどてやたゆたふべき。いでや人々もろともに」……
言掛けてはらはらと涙を落して蝴蝶をじつと見詰めたまゝやゝ身繕ひをする體たらく、如何にも合点が行きません。
「人々もろともに、そも如何に為せたまふ」。
「もろともに水にこそ」。
「今はや入らせたまはんとや。そは勿體無し玉體を」。
「玉體と和女も思へるよ。これは如何に」。
言つて尼が主上の被衣を取退ければ是は主上と思ひの外、知盛の子息です。蝴蝶も之には駭きました。
「こは、そも。そもそも主上は」。
「今はや落ちさせ給ひけり。かくてぞ敵を欺くべき」。
「はや落ちさせ給ひけり」。あまりの意外に息もせはしく、「女院の君も諸共に」。
「然なり、供奉しまゐらしゝは先き程呼びぬる八人になん。和女もいざ疾く……はや事迫りぬ……ためらひ給ひそ、落延びんほどは落延びて御門を助けまゐらせてよ。爰に心な残し給ひそ」。
言ふ内人の叫ぶ声は既に間近く聞こえて来ます。
「源氏入来る、間もあらじ。刃にかゝるはうたてきを……蝴蝶、疾く疾く……いざ疾く疾く」。
二位は切りに急立てゝ跡の蝴蝶の返事を耳にも入れず、何か錦の嚢に入ツた御剣めいた物を捧げながら右に主上(仮の)の御手を引き、早足に船端にさしかゝれば……威しのためか……敵から来る箭は隙間もなく降注ぎます。
「喃、しばし待たせたまへ」。蝴蝶は跡から追ツて来ました。が、無残、及びません。蝴蝶が船端まで来た頃には既にはや水烟りが……
「すはや入らせたまひしよ」。呟いたのは是ばかり。流石に生死を構はぬ身にも又何処やら箭玉の雨は恐ろしく、急にまた踵を返して横の船端から屹と見れば、主上の影は見えませんが、源典侍たちが小舟に乗ツてはるか向ふへ漕いで行きます。死ぬ気は蝴蝶も有りません。追付いて供奉が為たう厶います。
片手は涙、片手は周章、急に一人の雑兵を呼掛けて手を合はさぬばかり、
「逃れん。喃、漕ぎてたべ、小舟にて」。
命ぜられて雑兵も再議に及ばず直に小舟を引寄せて蝴蝶を乗せて漕ぎ出しました。櫂は折れてありません。仕方なく薙刀で一心不乱に漕ぎました。
前後左右は皆源氏です。が、わづかの仕合せ、皆御座船を目掛けますから落人も案外平易に逃れます。けれど肝を冷したのは幾度ですか、波も荒ければ四方に船も多く、思ふやうには進めません。それのみか、わるく為ると典侍の居る船を見失ひます。折々は僅かの目を偸んで懐かしい今までの御座船を見返れば、その今日まで皇居とした御座船には雑人ばらが早乱入して……きらめく剣戟の影のするどさ。
典侍の方の船に心を注けると同時に身の周圍に敵が来るかと気を配る混雑の間、ことにあちこちに簇がつて居る敵の眼を掠めることですから自然船も典侍の船のすぐ跡に跟く事が出来ません。或は右へ駈隔てられたり、あるひは左へ迂回させられたり、終に、あゝ、やゝ敵の目の遠く為ツた処へ来て、やれ安心と思ふと一途に典侍の方の船の影は……折角の骨折も水の泡……どこへ行ツたか見えません。弱りました、これには蝴蝶も。船はやゝ見れば苫屋の二三軒ある磯の辺の近くへ来て居ます。傍には漂泊して居る、主の無い兵船も一二艘あります。
「喃、辛く命は助かりつ。されど是より如何に為ん」。
話掛けるといふ風でも無くて蝴蝶は呟きました。
「如何に為ん。何をか宜ふ。漕もて来ぬる骨折の賃、いざおのれに賜はずや」。
頬髯を撫でながら宛も傲慢な體で而も冷笑といふやうな気色をあらはして言ひます。
蝴蝶は流右に眞面目です。
「何を」。
「何をなンどゝ」、傍へすりより、「骨折の賃にこそ。されど玉にも黄金にもあらず、たゞわが妻になりたまヘ。こやなどて駭きたまふ、あたりに人の見る目も無きを」。
思ひの外の無礼な言葉、婦人ながらも軍馬の間を経て来た蝴蝶、これには赫となりました。物をも言はず睨付けるを雑兵は更にかまひません、袿衣の袖を取らうとする、今は蝴蝶もこらへかねて、振拂ふや否や、身を躍らせて近い処の船に飛込まうとは為ましたが、運わるく足が滑りました。滑りました、眞逆さま……跡は水烟と呆れた雑兵の顔ばかりです。
其二
清くて、優美で、そして愛らしいものは六七歳の少女と浦の春景色ででも有りましやう。その眉のまだ繊くて薄く、その顔のまだ肥えて固まらず、薄絹の頬に笑靨の泉をたゝへて、こぼさうとは思はずに愛嬌の露をこぼす有様を見ては誰が一片きはめて高尚な愛情を起さずに居られましやう。夕日の紅を解かして揉砕いて居る波の色、その余光を味はふといふ有様で反射の綾模様を浮織にしてゐる苫屋の板びさし、しかも昨夜過ぎた春雨の足跡をば銀象嵌とも見立てられる蝸牛のぬめりに見せて居ながら、それで尚水際立つて見える工合の美くしさ、餘情は以心伝心です。
壇の浦つゞきの磯づたひ、白沙の晃めきを鏡として翠色の色上げをば生温い浦風にさせながら思ふまゝに悠然と腹這して居る黒松の根方に裸體のまゝ腰を掛けて居るのは、前回に見えた蝴蝶といふ少女です。実に西の嵐に東の日和、花をたしなめる風雨を見ては誰が実を結ばせる末を思ひましやう。わづか離れた処の修羅の巷はここに蜃楼の影も留めず、一網の魚に露命を恃む、いはゆる質朴の静かさばかりが苫屋の春を鎖して居ます。波にもてあそばれて居る鴎。可愛らしい銀色の足でちよろちよろと磯へ這上がつて来るさゞ浪。血腥いといふ言葉は爰では只魚の料理で僅に悟るといふばかり、すべて景色が、言ふもおろか、さて空気を汚すべき非理の福原の別荘も、否、別殿も、有難いこと、まだ有りません。
濡果てた衣服を半ば身に纏つて、四方には人一人も居ぬながら猶何処やら吾と吾身へ対するとでも言ふべき羞を帯びて、風の囁きにも、鳥の羽音にも耳を側てる蝴蝶の姿の奥床しさ、うつくしさ、五尺の黒髪は舐め乱した浪の手柄を見せ顔に同じく浪打つて多情にも朝櫻の肌を掠め、眉は目蓋と共に重く垂れて其処に薄命の怨みを宿して居ます。水と土とをば「自然」が巧みに取合はせた一幅の活きた画の中にまた美術の神髄とも言ふべき曲線でうまく組立てられた裸體の美人が居るのですものを。あゝ高尚。真の「美」は真の「高尚」です。
見亙せば浦つゞきは潮曇りに掻暮れて、その懐かしい元の御座船の影さへ見えず、幾百かの親しい人の魂をば夕暮のモヤが祕め鎖して居るかと思はれるばかり、すべて目の触るゝその先の方は茫漠として惨ましく見える塩梅、いとゞ心痛の源です、否、「源」といふのも残念な。
「そも如何にすベき。如何に為らせ給ひしやらん、事無う御幸ましましつるよ。覚束無。さるを猶この身だに斯くて御ン跡をも失ひつ、いづくに頼りて便りを得ん。苫屋の外は無きものを、もしは敵に見認められなば、逃れ来し心尽くしも泡なれや。人目を避けて山路より御幸ますとや聞きぬるに……されば伯耆や過ぎさせ給はん。よし、さらば、如何にもして御跡を慕ひまゐらせん。久しく時を移すは甲斐なし。命めでたうてかく蘇りつ、疲れは有るとも何ならん。いでや苫屋に哀れを請ひて蜑の衣だに乞ひ受けてん」。
雄々しくも屹と思案を定めましたが、さて其処が乙女のあどけなさ、まだ裸體を人に見られる恥かしさに、何の思慮もなく、更にやゝ暫くは松の根に腰を掛けて居るその処へ聞えるのは兼ねて幾度も聞馴れた鎧の袖の噛合ふ声です。
驚いて見返つて更に一入、さて穴へも入りたい程になりました。鎧の音は一人の武者で、武者、しかも其人は兼て蝴蝶が陣中で名を知つて見覚えて居る同じ平家の旗下の二郎春風といふ人で、また而もその人は蝴蝶が常から……おゝ、つれない命……人知れずその為に恋衣を縫つて居た者です。
駭きましたが逃げられません。逃げたくは有りますが身は縮みます。俄に顔は……はてどうでも宜いのに……潮路の紅を借りて来て……見れば、今日を晴と粧つたその武者ぶりの奥床しさ、村濃の鎧に白の鉢巻、目は涼しく、口は潤つて……
「思掛けぬ……蝴蝶ぬし、御身のみにてましますか」。
あゝ身が慄へます、近寄らずに二郎は尋ねます。
返辞は有りませんので二郎は重ねて、
「見たまへや、此身も落ちて来ぬるを。主上は如何に為らせたまひし」。
「御幸ますとて為りしが」、声は微かに蝴蝶の口を忍び、「恙無う在せしならん」。
「御幸。いづくヘ」。
「人無き里、伯耆わたりや過ぎ給はん」。
二郎は勇立ちました。
「さらば、蝴蝶ぬし、やよ心な為たまひそ。如何に御跡を尋ねまゐらすべきに、打連れて、君もろともに」。
下を向いて慄へて居る蝴蝶の横顔、さしのぞけば愛と情と嬉しさとに掻乱されて涙は湧返るばかりです。
「あな、いみじき御姿」。思はず出した二郎の声、さて其声を見送るのか、怨めしげに光りを凝らす蝴蝶の眼、手弱くも横へ向く二郎の眼。
其三
西山を啣む二十三夜の残月、今些し前まで降続いた五月雨に洗はれた顔の清さ、まだ化粧は止めずに雲の布巾を携へて折々はみづから拭つて居ます。夜半、それが此時の「美」の原素で、山里、それがこの処の「美」の源です。消迷ふといふ様に淡泊な朦朧な光を受けては沐浴したまゝまだ露を滴らせて居る新樹の影も咽ぶやうで、そして僅にかよわい呼吸を吐く風に戯れられては辛く浮世の宿を求めた梢の雫も落ちてまた雨と作ります。形容すれば、秋冬の淋しさは「嘆いて居る淋しさ」で、そして春夏の淋しさは「笑つて居る淋しさ」、その「笑つて居る」夜半の淋しさに忍んで色彩を添へる四辺の寂寞、思へば「自然」の腕も非常なものです。
此処にある貧しい草の屋は手製と思しく、掘立の柱に楢の丸木の棟木を持たせ、そして貧家の常として、籾糠を厚く布いた上に更にまだ乾果てもせぬ蒲の席を不作法に舒べて有ります。今の眼から之を想像して御覧なさい、北海道の土人の家か何かとか思はれましやう。それでもまだ感心なのは明るいといふよりは寧ろ暖いといふ方が適当して居るらしく見える残燈が哀れな浪を打つて居ることです。「裏もかへさぬ」と馬琴なら言ふ荒壁に矢根が幾本も打付けてあつてそれに衣服調度のたぐひが吊されて有るさへも釘の用方がまだ自由で無いと思はれて生計の度の低いのが見えます。時は夜更です。それで何か容易ならぬ事が有ると見えて此家の夫妻は臥しても居ません。男は胡坐、女は片膝立て。二人とも思入つた體です。
男も女も別人では有りません。二郎春風と蝴蝶です。濱辺で二郎と蝴蝶とが遇つた後は作者が述べるにも及びません、是からの二人の会話で知れます。
身の運命と共に薄い光の燈火を見詰めて居るばかり、返答もせぬ蝴蝶の體に二郎は更に語気に力を入れたやうです。
「君を思ふ志しは左もあらん。されど暫時は身をも思ひたまヘ。埋木の花咲かで朽つるも一期、時めいて暮すも一期。あたらしや一期を落人と共に墓なく過ぐさんは」。
膝を進めて声を潜め、
「宿世いかなる縁なりけん、君と假初の濱辺の物語りは斯くも三年がほどまでの契りを持来つ、君の情のこまやかなる、吾もなどて仇にせん。かく言ふも君を憐れみ思へばなり。如何に末長う吾を憐みたまはずや。末長うあはれみ玉ひなば……喃、答へたまヘ、など泣いたまふ」。
やさしく言はれるだけ胸ぐるしく、
「しか宣はすから猶ぞもの憂き。君のやさしき御ンなさけの程は言ふまでも非ず、たゞ酌知らせ玉はずや、如何にせん、稍知れぬる御門のおンありかを源氏に告げんとは……喃、思ひまゐらするだに惨ましきを、扨も養はれつる平家の恵を思したまはゞ……いかで左る正無き事は思ひ止まり玉ひてよ、喃。霜に臥し、薪に宿り、憂きを経てこゝに住むはそも何のため。御門に尽くす真心ぞ。喃、願ふは涙のみ。思ひ止まりて給へかし」。
して見れば御門の所在が知れたので二郎は心変りしてそれと源氏に訴へやうといふのでしやう。あゝ人の心の頼み難いこと……二郎は何か得意顔ですこし身を反らせました。
「いまだ知らねば左のたまふ。永く祕むべきにもあらねば打出でん、聞きたまヘ、喃、吾は」。
改まつた言葉に蝴蝶は重い目を上げました。二郎は些し笑を寄せ、
「まこと吾は平家の譜代にあらじ。源氏より忍入りし者なるを」。
「源氏より忍入りし者」、……忍び……忍びの者!
今はじめて知つて、あゝ残念、無二の人と頼んだ者は浅ましい敵。
蝴蝶には答が出ません。
「ことわりなり、駭きたまふも。されば、早、かく為らば」……言掛けて二郎は有無の挨拶を待つて居ます。
胸は噪いで顔は逆上せ、それで身は烈しく顫へて蝴蝶の歯の根は合ひません。わが良人ながら睨付けるばかりです。
「扨は、御身は……あゝ二郎ぬしツ」。
如何にも無念らしく見えます。二郎も(夫婦の愛情はまだ消えません)無念らしく顔色まで変へる妻の體を眺めては居られません。妻の方もまた左様です。愛情の点に於てはまだ度は減らぬいとしい二郎、しかし怨みの点に於ては流石忍兼ねるおのれ二郎。
* * *
はや時も曙ちかく為ると覚しく闇が暫時濃く為つて星も光を隠して居ます。残酷な羽音を響かせて血に乾いた咽喉を鳴らす梟。人を嘲けるか、冷淡に戸の隙間をすりぬけて肌膚を薄淋しく嘗める山風。其処へ立つて居る蝴蝶、実に花をはづかしめた美人の蝴蝶は殺気を含んだ目元を屹と見張つたまゝ闇にも晃めく短刀を抜離してじつと眺めて息を一吹。寝入つて居る良人二郎の顔をのぞき込みました、極めて冷かに。
しかし目も露を重く含んで居ます。
兎角急いて出る呼吸を無理に弱く出して居ます。
がさつく蒲の筵をば憎いながら窃と踏んで居ます。
彳んで居る身は吾か人かのやうです。
「口惜しや、あざむかれて。はじめより敵とだに知りつらば如何に浅ましい煩悩は哮るとも……さりと知らねばこの憂目よ。敵、源氏、さてぞゆゝしき。今日も今日、三年ごしの今日しも初めて御門のいます方の得知れし喜び、言ふ間もあらで、如何にぞや、源……源氏の方に告げうとは。なつかしい、いたいけの君、その君をあはれ気も無う、その君に憂き思ひ為せたいまつらんず、おのれ二郎ツ、にツくき春風ツ。そこを頼み来しゝはそも何の為ぞ。たゞ女子の甲斐なきを助けられて諸共に安らけき君を見参らせ、この真心のせめての一筋聞上げてんとせしばかりなる……うたてくも為りしよ、喃。猶予せば御門の御大事、女なりとて武家の片はし、男なりとて御門の怨敵、夫なりとて君の仇、とても斯くても……悲し……あゝ二郎ぬし……否、二郎……君の心の招くなり、そこの心の為すことよ。時はこよひを限るべき。つま殺す罪、後世のほどだに恐ろしけれども……念ぜよ、是も君のおんため」。
殺さうと心は決めても猶何とは無しに今すこし物思に胸を悩ませたくて更にまた持つた刀を敷き隠して筵にすわり、
「殺されうとも知ろし召さでいぎたなう……宿世あやしき縁しかな。縁しかなツ! 源氏より忍び来し人。さしも吾がその時に床しとも思はずもあらば妹脊の契は結ぶまじきに、あなや、をさな心の女子の浅ましさよ」。
けれど平常からやさしい二郎の情愛を思出せば腸は実に猶切れるやうです。
「ねんごろに情こまやかなる人、その人を殺さうとや、その人のためには袖捲きし、この懐かしき手をもて。なつかしき手、昨日まではぬしの病を撫でし手も、あはれ、今こそはぬしを切る、ぬしの身を裂く手になん。浅ましき妹脊かな。友白髪まで契るべきを……浮世の道こそつれなけれ」。
今は咽ぶばかりです、が、悟られまいと歯をくひしばり、
「夫を殺せし妻ありきと後の人にも歌はれん。罪の程など知らざるべき、知りつゝも為す心根、喃、ねぶらせ給ふ二郎ぬし、酌知らせて……酌知らせて……喃、二郎ぬしイ」。
首を傾けて考沈み、
「たゞ此身には怨も無き人を墓無くも殺さんは、思へばいとをし。さりとも吾も心をひるがへして……さらば妹脊の契りも破れず……夫の心のまゝにせうか。夫の心の儘にして……されどいたいけなる御門の御上、それも扨おン惨まし。壇の浦の船にても蝴蝶と宣はせし事さへありき。その御恵の程し思へば……あら、げによ、我ながら空……空恐ろしき、などてさる正なき心」。
雨と降る涙をあらあらしく払ひながら屹と戸の外を眺むれば、吾を促し顔です、はや闇は次第に影を潜め始めて居て。
「夜明けなば……こよひは再び得難かり。あゝ心、などて手弱き。あな、手まで、など震ふ」。
たしかに思案を定めて刀を抜持ち、片唾を呑んで近寄る夫の枕もと、はツし、空蝉の命、知らぬが佛の寝顔のやさしさ。「この優しき顔なるを、このやさしき人なるを……せめて此身を愛づるそのやさしき心を御門にまゐらせたらんには」。
立掛ツてはいよいよますます瀧を落す無情の涙、それが滴ツて二郎の顔を撲たぬやうにと気を配ツて片手は目を掩はぬばかり、やゝ刃を下しかけましたが、しかし肉と骨とは溶けて離れるやうです。
「そこの首級を携へて御門にこの身の真心を切めて一言なりと聞え参らせ、さてしも後は同じ刃、同じ刀に死ぬばかりよ。妹脊の中はかはらじな。浮世の道は扨いと憂き」。
今にその首から血も出ましやうか。今に男の命も絶えましやうか。あゝ斯う活きて居るものを。暫時刃は仇にさまよツて晃めいて居ます。
その内に、無残、勇氣! にはかに始まる泣声、物音。
「た……た……たれ……二郎を斯く」。跡はもろともに唸る声。
また暫時、物音も絶えました。物音の絶えるや否や慌たゞしく戸際へ馳出して人でも居るかと見回はした蝴蝶の顔のその凄さ(あゝ殺した)、忍寄る暁の青い朦朧に映つては、顔色は全く土と見紛ふばかり、たゞその代りこツてりとした鮮血の紅を縦横に塗ツて居て……御覧なさい、噛まれて居る乱髪の末一二本。既に仕留て仕舞ひました。今更無念なやうでもあり、悲しいやうでもあり、くやしいやうでもあり、また情無いやうでもあり、気は逆上してほとンど知覚も無くなつて只茫然……ですが、猶思詰めた一ツの念力、火のやうに熱する身と切れて続かぬ忙しい息を辛うじて奨まして終に首をば斬放して仕舞ひました。
が、はや身はほとんど打たれたやうです。何を見ても目は目の役を為ず、何を聞いても耳は耳のつとめを仕遂げず、それで、妙です、猶何処か神経が鋭敏に過ぎるやうな処もあります。
首を取りましたが抱占めたばかり、声を惜まず泣出したそのいぢらしさ、実に意地ほど恐ろしいものは有りません。
やゝ昇ツて来る旭日も昨日までは勇ましさうに見えましたのに今日はそれも幽鬱であるやうです。やゝ啼出す鳥も咋日までは猶比翼の情に咽喉を鳴らして夫婦つれだつて居ましたに……哀れと薄命といふ言葉はつまり蝴蝶の又の名です。
人の話し声、発矢、家の外に聞える人の話し声。風の音にも忙がはしく耳をそばたてる今日の蝴蝶。蝴蝶も之をよく聞けば(乱れたながらも本性違はず)、これは主上の行宮のある辺の作男どもの話です。それで何と言つて居ました。斯う言つて居ました。「おンいたはしさよ、若宮の。定業にてや在しけん、あへなく為らせたまひつゝ」。
若宮が……ま、どうです、御崩れなさいましたとか。恥を忘れて蝴蝶も表へ飛出しました。
「物問ひてん、方ざまたち。いないな必ずうろたへ給ひそ、たとひ斯く浅ましき姿せるとて。さて。若宮はツ」……
言へません、あとは些しも。里人たちは素気も無く、
「咋日の朝の程なりき、崩れさせたまひてき」。
其四
さてもさても無情な世の中。花が散ツた跡で風を怨ませるとは何事です。月が入ツた後に匿した雲を悪ませるとは、ても、無残な。風は空の根方と共に冴互ツてやゝ紅葉に爲ツた山の崖に錦繍の波を打たせて居る秋の頃、薄い衣を身に纏ツて其辺を托鉢して居る尼の様、面影はやつれても変りません、前の哀れな蝴蝶です。
羽を伸した事も無くて世にはその名に縁ある夢の間に過ぐしました。実に蝴蝶、それも平家の紋処です。壽永四年の彌生の春風に翼も切れて……そもそも之が浮世ですか。思遣れば須磨浦の昔の歌、「掻曇る雪気の空を吹変へて月になり行く須磨の浦風」。その吹変へる風は寧ろ小笹を噪がせたばかりです。
(明治二十二年一月)(挿畫 渡邊省亭筆)