一
マラソン競走の優勝者、仏蘭西領アルジェリイ生れの亜刺比亜人エルアフイは少しばかり跛足を引きながら地下室の浴場に入つた。
一九二八年の八月五日の夕方であつた。そこはアムステルダム市外にある国際競技場に附属した浴場だ。北欧の八月は沙漠に育つた彼には秋に等しい。午後の三時から二十六哩四分の一を走り通した後で、空色の地に赤い鶏を染め出した仏蘭西代表のジャケットを脱ぐと、エルアフイはやはり幻覚を感じるほどに疲れてゐた。
彼は不意に耳をそばだてた。
ラ・マルセイエェズの吹奏楽を競技場の方角に聞いたやうに思つたのである。
「はてな。観衆が熱狂してもう一度繰り返へさせてゐるのかな」
しかしそれは奏楽ではなくて、ほんの一瞬間のうちに消えたアムステルダム発巴里直通の急行列車の汽笛であつた。それほどに彼は、やはり昂奮してゐたのだ。
湯槽に仰向いたエルアフイの胸はまだ魚のやうに喘いでゐた。乳の間隔がひどく開いたり縮まつたりした。彼は人種学の教へるとほりに黒髪で、面長で、銅いろの額が広かったが、その手入れのいい髪につけてゐる油はまさしく巴里生粋のものだった。シャワーをねぢつて彼はその髪の汗臭さを落したが、すると此処のシャワーは細かい湯を降りかけながらくるくる廻るシャワーであつた。さうだ。今日の走路の至るところにかういふものが廻つてゐた。――回想しながら彼は顔をしかめて、降りそそぐ温い雨のなかで眼をつぶつてゐた。――運河のほとりの無数の風車。人垣のなかでどこの国の民族性よりも喜怒哀楽をあらはした仏蘭西応援委員。最後の一キロまで彼から十米とは離れなかつた智利人のプラザ。頬骨の出てゐる日本のヤマダ。頭髪が麻いろで、それが青いジャケツと釣り合ふやうに染めてあるのではないかと思はれた芬蘭のマルテリン。到着を知らせる表門の喇叭。そして最後に、影の長い夕日のなかで押しあひながら動いた新聞写真班。……
彼はいまこそ自分の二時間三十二分五十七秒を清算した。
数学の式を分解するやうにいまそれを分解した。――
扉があいて、オリンピック競技の象徴である五色の輪を帽子に縫ひとりした僕が覗いた。エルアフイは選手監督がマッサージ師をよこしたのだと思つて誰何もしなかつた。すると、隙き間をすり抜けるやうにして靴から先きに忍び込んで来たのは、細面の、眼と脣の子供じみた、パリジァン好みの装をした、薔薇の花束を一抱へかかへ込んだ新聞記者だつた。新聞記者だとひと眼で判つたのは腕に巻いたしるしの布からである。記者は妙ににこにこして、まるで彫刻家が美術館の彫刻にでも近づくやうにエルアフイの裸体へ無雑作に近寄つて来た。
「誰だ。誰だ。君は」
エルアフイは狼狽ててタオルを腰に巻きながら怒鳴つた。
「御免下さい、ムッシュウ、大変お邪魔をして」記者は遣り口の突飛なわりには、それでも顔を赤らめて低頭してゐた。つまり図図しいよりも熱狂の力で侵入が出来たものらしい。「この名刺はどうぞ。僕はその、ル・タンの特派員です」
「ル・タンの特派員ならばひとの風呂場に入つてもいいのですかね」
「済みません。済みません」若い記者はエルアフイの顔いろを見て、一層巴里人むき出しの早口で謝まつた。「私は通報機関です。本社から至急詳報を命ぜられてゐるのです。それに私は、ムッシュウの裸体をはじめてではないのです。七月二十六日の夕方に、そら、マラソンコースの復路だけを極秘のうちにあなたが試走されたでせう。あの後でマッサージの粉が足りなくて、あなたは大変怒つて居られましたね。その時にすぐ自動自転車で選手宿舎まで粉を取りに行つた男があつたでせう。あれが私なのです」
さう云はれて見れば、けふも往復三十キロほどマラソン走路に沿つてゐた運河の上のモーターボオトから、三色旗を振りながら誰よりも熱狂した声で、先頭を切つてゐる他国の選手と彼との距りを絶えず知らせてゐたのもこの青年らしかつたと、エルアフイは次第に想ひ出して来た。この青年は生粋の巴里語でエルアフイが刻刻に追ひつきつつある日本人、亜米利加人、芬蘭人、加奈陀人に就てひどく洒落のまざつた批評を加へては、沿道と船の上の仏蘭西語のわかるすべての人間を笑はせてゐた。この若者は応援隊の哄笑の中心だつた。活気の要素だつた。――エルアフイはいまその洒落の一つを思ひ出して、知らず識らずこの男に笑顔を向けてしまつた。
と、新聞記者はもう公然の許を得たといふ身ごなしで、浴衣のかかつてゐる椅子に花束を置くと、その端に自分も腰をおろしながら、手帳を開いて云ひ訳するのだ。
「失礼します、ムッシュウ。こんな奇矯な事をやらないと大戦後はなかなか喰つて行けないのです。私は元来詩文をつくる方なのですが、巴里のやうに世智がらい都会では、文士も第一歩は奇抜に出ないと生存競争に負けるのです。巴里は流行第一の市ですからね。御承知でせうが、『エッフェル塔の結婚』といふ評判の踊を書いたジャン・コクトオ。やつは私と左程年も違はないのですが、その手でたうとう飛躍しましたよ! こんな癖が私にもつい附いてしまつて、それに、家の母親や妹がまだ私のパンのためにその癖を頼みにしてゐるのです。――そこで、御感想をうかがひたいのですが」
「感想? 感想はさつきスタジウムで聯合記者団に話してしまひましたよ」エルアフイはこの青年に少しづつ馴れて、石鹸のついた両足を思ひ切り湯の面に浮かした儘、笑つて応酬した。
「君は折あしくそこに居合せなかつたと見えますね」
「どうしまして! あれはこの通りもう打電を済ませて来たところです」記者は手帳の頁をめくつて証拠を見せた。「さやう、あなたはこんな風に仰有つたのですね。闘牛士出身の智利のプラザがいつまでも影のやうにあなたの後に附き添つて、薄気味のわるかつた事――日本の選手は勝を急いだ気味があつて、それにふだん優美な苔の道をかけてゐたせゐか、敷石道では少し勝手が違つて見た事――あなたは又何者よりも伝統を持つた芬蘭のラクソーネン、マルテリン、コスキ、ラスタスの一団を恐れた事――前回の勇者米国のデ・マールの衰退は意外であつた事、そんなお話でしたね。しかし、うちの主筆はもつと詳しいあなたの印象を纏めるやうに命令して来てゐるのです。祖国は八百米競走でセラ・マルタンを遁しましたからね。それから千五百米でもラドウメニュを遁しました。優勝を遁したばかりでなく優勝のニウスまで遁しちまつたのです。そこへあなたが大きい特種を作つて下さつたのです。ル・タンは優勝者には三段分の記事を用意する筈です。明日は巴里は役所でもカッフェでも湧き返るでせう。――失礼ですが、巴里のムッシュウのお住居は?」
「どうせパッシイといふやうな場所ぢやありませんよ。わたしは自動車会社の技手なのです」
「もうどのくらゐ巴里にいらつしやいますか」
「三年」
「それからと、生ひ立ちなぞも少し伺ひたいのですが。――アルジェリイからおいででしたね」
「さうです。砂や蝿のなかで育つたのです」エルアフイは思ひついて、不意に忍耐強い眼をあげた。「時に、あなたはチュニスから三百哩ほど奥へ入つたビスクラといふ町の名を――名前ぐらゐ聞いた事はありませんか。もしかするとおありかと思ふのだけれども」
「ビスクラですか? ええ――ありますが」
「あすこが私の郷里です。さう、ビスクラのやうなちつぽけな町を御存知だとすると、旅行記か何かからですな」
「ええ、旅行記もさうですが――」
「ああ、さういふ御返事だと又面白いです!」エルアフイは待つてゐたといふ工合に天井を向いて狡く笑ひ出した。「当てて見ませうか、あなたは文士だと仰有るから。――名高い小説からでせう。私は軍隊にゐる時にはじめて聞いたのです、ビスクラを種にした小説本があると。私はつい
未だに読まないのですが、どうもその小説は私がまだ家にゐる時分のビスクラを書いたものらしい」
しかし若い新聞記者が興味を起して何か訊ねようとした時に、ノックの音でマッサージの用意の出来た合図があつた。
「かうしませう」と、アルジェリイを場末扱ひにしないでくれる青年記者を前に置いて、エルアフイが先刻よりずつと機嫌よく云ふのだ。「マッサージをして貰ふ間だけ、あなたに時間を割きませう。隣の部屋へ御一所にいらつしやい。私なぞと違つて小説を沢山読んで居られるあなたには、恐らく一寸面白い話がありますよ。それがまた、私のマラソンを稽古した事に全然無関係でないのです」
かう云つてエルアフイは石鹸の泡のなかから立ち上ると、運動シャツのところだけ皮膚の白くなつてゐる背中を見せながら浴衣を取つた。エルアフイはさうして薔薇のある椅子の傍へ後ろ向きに立つた。新聞記者にはその瞬間のエルアフイが、異国好みの画家に雇はれた壮麗なモデルのやうに見えた。
二
「私はアルジェリイ駐屯軍に編入されて、もともと沙漠のなかの支隊から支隊へ信書を運ぶ伝令兵に選ばれてゐたのです。このために私は自然と長距離競走のコツを覚えたのです」
エルアフイは隣の部屋に用意してある、まるで野戦病院のそれのやうな寝台の上に俯伏せになりながら、マッサージ師の肩越しに話し出した。
「尤もそれは大戦直後のことで、もう大ぶん以前の話ですが、昨年の秋にオリムピック仏国準備委員会の役員としてこの私を憶ひ出したのは、当時のチュニス本隊附大尉であつた外務書記官のS氏でした。そこで私はアヴニュド・シャンゼリゼの自動車店からコロンブ競技場へ引き出されたのです」
「私にはお望みのやうな生い立ちの話もありませんな。また、運動を特に好きになつた動機といふほどのものもありません。もともとアルジェリイ人には静かにしてゐる生活といふものがないのですから。――ただあなたの本職といふものをさつき伺つたら、一寸お話して見たい事柄が一つあるのです。それは郷里のビスクラにあつた話なのです。――十四五年も前でしたらう。――」
頸すぢを押されて枕の中に顔を埋めたので、エルアフイは一瞬間黙つた。が、それは記憶を追つてゐる人の動作にふさはしいものだつた。
「たしか降誕祭のすぐ後だつた。といふのは、私の母親が基督教徒なので、土人の私にも降誕祭の記憶はあるのです。――或る日私の遊び友達の悪童どもが云ふのです。村のホテルにたつた一組仏蘭西人の旅客が夫婦で滞在してゐて、その良人のはうが大ぶん重い病気らしい。しかもその夫婦は寂しい土地のホテルに退屈しきつて、村の子供たちが庭に入つて遊ぶのを大変喜ぶし、時によると二スウから五スウ、少くとも菓子を呉れる事は保証すると。――私はよく覚えてゐます。山羊小舎の柵の上でその客人の噂を非常に珍奇なものに思つて、兄にすぐさま告げ口した。一体北部亜弗利加ではその時節が一年のうちでも気候のわるい変り目で、婦人を連れた遊覧客と聞いては尋常に思はれないのですから。――私はもう十六七で、正直のところ子供でなかつた。愛らしくもなかつた。が、好奇心と慾に駆られてホテルの土塀をそつと越えたものです」
「その仏蘭西の紳士は脊の高い、額の広い、眼の澄んだ、言葉の至つて少ない人でした。寝台に寝たきりで、子供達がコルク倒しをしたり、角力をとつたり、喧嘩をはじめたりするのを見てゐました。黙つてゐる時には怒つたのではないかと思はれるやうな様子だが、しかし一旦物を言ふとなると、不意にそれが優しい眼つきの人に変るのです。この癖を呑み込むと子供達はホテルの露台にまで入り込んで遊ぶやうになつた。――ホテルと云つても白い石灰を塗つたままの平屋建であつて、私の国の習慣として露台は荒れて見えるほどに広い露台から棕櫚の木を越して町はづれの果樹園のオアシスが見え、更にオアシスの向ふには沙漠がだんだん高まつて拡がつてゐました。――病人の部屋はひどく寂しくて何の額も懸つてゐなかつた。ただ天井までのガラス扉が露台へ開いてゐるのです。だから病人は一つの大きい穴をとほして沙漠と向ひ合せになつてゐたものです」
「まつたくそれは静かな夫婦だつた。なぜといふにアルジェリイの土人は『ホテルが汚い。人間が醜い』と云ひ散らす旅客に馴れてゐたからです。殊にその奥さんが物優しかつた。といふのは旅客で大袈裟に苦情を云ふのがいつも女の方であつたからです。奥さんは飾もない帽子から黒いヴェールを深く垂れてゐました。今から考へれば服喪のしるしらしい。そのヴェールが金髪の艶を隠して、顔を実際よりも遠くにあるやうに見せてゐた。――奇妙な事にこの夫婦は一つ部屋で離れ離れに物を考へてゐる時が多かつた。少くも私の見たところではさうでした。良人が何十分もの間ぼんやり空や沙漠を見つめてゐると、奥さんはその邪魔をしないやうにして、本国へ書くのであらう手紙の封を幾つとなく、そして一つ一つ脣で叮嚀に湿してゐました。が、この離れ離れに見える奥さんは土人の眼には一層華奢で美しかつた! ――白人の夫婦が腕を組んで歩く時に見せびらかすところの二倍の横柄さを私たちの種族でないあなたには到底想像がつかないでせう」
「或る日、ホテルの洗濯ものを引き受けてゐた村の女が露台の奥さんを見つけると、瓶に入れた地酒を売りつけに近寄つて行きました。地酒は棕櫚の幹に切り傷をこしらへて、そこから垂れる滴でつくるやつです。ところがこの説明が洗濯女には出来ない。庭の子供にも出来ない。そこで私が呼ばれたのです。私はいつも土塀の破れ目に足を組んで、近づきになる機会を辛抱強く待つてゐましたから。――私は親から出世のためにと云つて少しづつ教はつてゐた仏蘭西語で、どうやら通訳してのけた。そこへ遅れ走せに駈けつけた黒人のボオイが、私を見ると奥さんに説明したのです。『なるほど、この子は親がテュニスでホテル勤めをしてゐましたから一寸喋れます。母親は母親で基督教徒ですよ、奥さん。散歩の時にはこの子をお使ひになるが御便利ですな。こいつは駝鳥のやうにすばしつこいが、いえ、あまり物を壊したり盗んだりは致しません』――私は金髪の奥さんの前で全く赤くなりましたよ。拳骨でひと撃ちにそのボオイを撲り倒してヤらうかと思つた。が、奥さんは基督教徒の子と聞いて安心したのでせう、それ以来私といふものを覚えてくれました」
「石と砂ばかりといふ庭のベンチで、手真似を少し許り混ぜて貰ひながら、私は奥さんの口からこの本国人夫婦の身の上を多少知りました。この夫婦はまづ新婚といふべきであつた。新婚後はじめての旅行にマルセエユからシシリイ島に渡つて、さらにシシリイからの便船で大陸のテュニスに来たのです。良人の父親の重病のために、長い交際もなしに結婚を急いで――この遣り口はどうも仏蘭西風よりは亜刺比亜風ですが――葬式が済んでからはじめて慰労の旅行に出たのであつた。が、南方の気候をまつたく信じて、厚着の用意もなしにこの大陸へ来て、長い間の看病に疲れてゐた良人は駅馬車のなかで突然血を吐いたのださうです。(かういふ事を話す時に奥さんの見せた笑顔は影が多くて、そのために大変奥さんに似合ひましたよ。)奥さんはまた良人が巴里で本を書く人だと教へてくれた。――次の日に奥さんはテラスから降りると、白い本を一冊持つて私の傍へ来ました。『これが昨日話した、ムッシュウの書いた本ですよ。表紙のここは読めるでせう。読んで御覧なさい』
カシイの花の匂つて来る石の上で、私は無器用に字を拾ひました。
『ア・ン・ド・レ・ジ・ツ・ド』
三
エルアフイの云つたその名前を聞くと、ル・タンの記者は思はず声をたてた。
「何ですつて!」意外でもあるが、商売気からも刺戟された声だつた。「アンドレ・ジッド? あなたは『狭き門』や『プロメテ』や『背徳者』や『アフリカ紀行』の作者の噂をなさらうつていふのですか!」
そして記者は『背徳者』のなかにあるアルジェリイの美しい描写を不意に想ひ浮べた。
「さうです。あの後沢山のよい本を書かれたといふムッシュウ・ジッドとの因縁を、さつきからお話してゐるんです」
エルアフイはもう一度、狡くて無邪気な笑ひ声を天井へ打ちつけた。われわれの物に馴れる本能で、エルアフイはこの若い記者の抜け目なさがどうやら快くなつて来たのだ。――が、彼は急に口を曲げて耐(こ)らへた。マッサージが腰骨の急所に触れたので。
「――私はその時、偶然にも生きるか死ぬかの重態にあつたムッシュウ・ジッドを識つてゐたわけです。実際ムッシュウはただの容態ぢやなかつた。或る晩なぞはカンテラを点けて、駐屯軍の軍医が馬を飛ばして来たりしました。私は奥さんから小遣ひを貰つてゐたし、この晩も用を云ひつけて貰はうと待ち構へてテラスの隅にじつと足を組んでゐたのです。が、やがて軍医が『お休み』を云つて立ち去つた後で、奥さんはいつものやうに『誰かボオイさん』とは呼ばずに、不意に取り乱して、優しさを籠めて、寝台へ寄つて行きました。私は見つかつた時の奥さんの怒りを想像して赤くなつた。
『わたしのためにお祈りするんぢやないよ』……やがて私の予想とはまつたく違つて、ムッシュウ・ジッドの低い傲慢な声が聞えて来ました。『わたしは保護を受けるのなんぞは嫌ひだからね』
『どうしてなの? アンドレ。……』
奥さんが情けないといふ調子で訊き返してゐるのです。
『あなたお独りでは癒りませんわ。可哀想に』
『ぢやあ仕方がないさ』寝返りでもうつたのではないかと思はれる間があつた。『――気の鎮まるやうにして置くさ』
私はそろそろテラスを逃げ出さうかと思つた。
『あなたは神様のお援けを斥けていらつしやるのね、アンドレ。分りますわ』
『…………』
『あなたは別のものに頼らうとしていらつしやるのね』
『…………』
私は吠えつく犬を叱り飛ばして土塀の穴をすり脱けました。が、あの光沢のいい髯を生やして傲然としてゐる紳士が、まるでうちの母親から私の問ひ詰められると同じやうな事柄を、奥さんから聞き訊されてゐるのにはまつたく驚きました。透き徹つた星の下で、私はムッシュウ・ジッドと自分とはつまる所仲間だと思ひましたよ。ムッシュウは教会へ行つて足をしびらすのは嫌ひといふ手合ひだなと呑み込みました。これは野生児には痛快な発見であつた! 私がムッシュウに対して持つてゐた微かな毛嫌ひを取り除いたのはその晩あたりからだつた。――」
「ひと月も経つと、しかし、ムッシュウ・ジッドはやうやく外へ出られるやうになつた。ムッシュウは村の子供を介添にして、毎日歩く距離を少しづつ伸ばして行きました。たうとうムッシュウはあの露台から見えたところの、町外れの果樹園まで歩けるやうになつた。土語でセギアスと云つてゐる灌水用の堀の、幾すぢとなくめぐつてゐる単調きはまる果樹園です。ムッシュウはそこのベンチで子供を相手にいつも長い休息をしました。雉鳩の微かに聞えるベンチであつた。――が、私はなぜムッシュウが白人の習慣のとほりに奥さんを連れて行かないのか、不審でならなかつた。私は或る日思ひ切つて奥さんを誘つて見た。奥さんは大変喜んで、しかし私にムッシュウの外套をあづけながら断りました。
『いいのよ。いいのよ。あなた達で行つていらつしやい。ムッシュウはいま病気と精一杯取つ組みあつていらつしやるんです。だからわたしのやうな弱虫とよりはあなた方のなかへ混つて、あなた方の悪戯に見とれていらつしやりたいのよ』
気の毒な――といふ眼付を私から感じたのでせう、奥さんは直ぐにほかの事を云つて紛らせました。
『それよりか、エルアフイ。ムッシュウがもつと元気になつたら、今度あなたの家へ行つて見ませうね』
『でも、僕の家はあんまり汚いのですから』
『そんな事を気にかけないでもいいのよ。私は信者同志の訪問をするのですもの』
『ぢやあムッシュウは? ――信者ぢやないんですか』
奥きんは一瞬間私を視つめました。
『ムッシュウも――信者です』
と奥さんが云つた。
『ただ、ムッシュウのはプロテスタンと云つて、分らないでせう? 私の神様とは少しばかり違ふのですよ。ムッシュウは戦つて行かうとなさるのよ。私のは神様に唯おすがりする信者ですけれど――』
しかしそれきり、奥さんは笑つてやめました。やめて――外套を果樹園へ届けてくれ、そして日が陰つたらムッシュウが厭がつても着せてあげてくれ、かう頼んでテラスへ引つ返しました。……」
「アルジェリイでは二月に入ると急に豪雨が続いて、その合ひ間の晴れた日はぐつと気温がのぼるのです。まさしく熱帯風な春の前触れです。ジッド夫妻はそこで荷物を纏めて、巴里の家ではない、ノルマンディの郷里へ行つて後養生をする仕度を始めました。だから、その儘であつたならば私は奥さんの便利な小使になつただけで、別にムッシュウとは何の因縁も持たずに終つた筈です。ところが出発する少し前の晴れわたつた日に、ジッド夫妻は突然私の家の入口まで散歩がてら来てくれた。ムッシュウは文士だから亜刺此亜人のふだんの生活といふものを一度見て置きたかつたのでせう。私の家は砂地の中庭を取囲んだ粗土造りの平屋で、入口は乗馬の儘でも入れるやうに高く穹形になつてゐました。――私の父はその時鉄砲の手入れをしてゐた。母は水瓶を頭に載せて井戸へ往復してゐた。――兄は半裸体で寝ころびながら盗んだ笛を吹いてゐた。が、私が白人の客を迎へると見ると一斉にうろたへて――飛び出して挨拶したり、奥へ逃げ込んだりしたのです。ムッシュウ・ジッドはそれを大変面白がつた。白い頭巾や着物が光つて間誤つくのを興がりました」
「私の父は口ぎたなく羊や駱駝を追ひ立てて、そのかはり厩から自慢の仔馬を引き出してムッシュウに見せました。われわれ亜刺比亜人がどんなに亜刺比亜馬を大切にするかは御存知でせう。と、馴れない服装の客人を見て、仔馬は急に耳を立てると跳ね上りました。仔馬は父の手を振りほどき客人の胸をかすめて駈け出した。私の父は見事仰向けに転がつて、それから老人の醜さをさらけ出しながら無駄にも後を追はうとしました。突嗟に私は中庭の入口に向つて斜に走つたのです。私の敏捷なことは兄弟ぢうでも定評であつた。私は穹形の庇の下で往来へ走り抜けようとする仔馬に間に合つた。横飛びに一間ほど飛んで鬣をつかまへると、私は引きずられながら踠いて背中へよぢ登りました。やがて――中庭をひと廻り輪乗りして見せた時の、ムッシュウの満足は大したものであつた、何をそんなに感動したのか私には分らなかつた位です。ムッシュウはいま精一杯活躍させたばかりの、そして擦りむき傷から血のにじんでゐるところの私の手足をさすつて見て、思はず独り言のやうに云つてゐた。――『ああ、達者なものだ。本当に羨ましいものだ。このすんなりした筋肉はどうだらう。君の今つかまへた美しい仔馬の比ぢやない』
正直に云つて私はしばらく厭な気持がしたのです。しかし、ムッシュウ・ジッドはそれ以来目に見えて、出発の日までを私に愛想よくしてくれました。――それから一週間。ジッド夫妻は駅馬車でコンスタンティーヌへ発つて行つた。私どもは砂の道を一キロも走つて、その頃そもそも起工してゐた鉄道線路に添つて送つたものです。――さうさう、私の母に奥さんの遺して行つた形見が、いまもビスクラの家にある筈です。それは聖句の刷つてある綺麗な栞であつた。奥さんは私の母にかう云つて渡しました。
『ムッシュウにはお礼を云はなくてもいいのですよ。ムッシュウはこの文句がどうもお好きではなくて、本に挿んであげた時にもお怒りになつたのですから』
私はいつとはなしにその句を覚えてしまつた。それはペテロに与へた基督の言葉であつた。
『汝今こそ、自ら好む処を歩めども、老いたらん後は手を伸べん……手を伸べん……』」
四
日が落ちかかつてゐた。
スタヂウムの観衆を散らした筆法で、秋風がこの部屋でもマッサージの白い粉を敷布に散らしてゐた。と、マッサージ師は隅の窓の透き間に沢山の顔の押し合つてゐるのを見つけた。マッサージ師は乱暴に透き間を閉めてしまつた。それで万事お終ひだつた。何故ならば此処の休息室の窓は運動家の神経を鎮めるために、すべて刷り硝子にしてあつたから。――
「三年経つてムッシュウ・ジッドは又アルジェリイに来ました。私は実に奇妙な場所で出会つたのです。私はその頃仏蘭西語を資本にコンスタンティーヌの町へ出て、新らしく出来た鉄道会社の案内係をしてゐました。やがてはニイスか、せめてマルセエユの洒落(しや)れたホテルの事務員になるのが私の望みでした。私は儲けた金をカッフェではたいてゐた。線路工夫や殖民地稼ぎの放浪者の巣窟で毎夜ごろごろしてゐた。私のムッシュウ・ジッドに出会つたのは実にさういふ場所であつた。それはスウダン人の出してゐる天幕張りのあやしげなカッフェだつた。私は奥まつた部屋で、敷物から一尺とは高くなつてゐない寝台のうヘで阿片をふかしながら、亜刺比亜女の気まぐれな踊を眺めてゐたのです。その踊はただの滑走のやうに退屈で、その女は私の情婦だつた。喜んで行人に身体を売るやうな女でした。――夜になつてしきりに東南風が吹いてゐた。と、不意に白人の紳士がステッキで帳を挙げて私達を覗きました。紳士は鋲を打つた旅行靴を鳴らして、天井とすれすれに侵入して来ました。
『エルアフイ! エルアフイ! たうとう見つけたよ』――紳士はいきなり跼むと、私に心から懐しげな接吻をしたのです。
私はこの遣り口にすつかり驚きました。ムッシュウ・ジッドはあの形のよい髯をとつてしまつて、そのかはり手入れもしない髪を無雑作に伸ばし、眼をぎらぎら光らせて、全く別人のやうであつた。
『どうしたのです、ムッシュウ!』私はたしかに狼狽してゐました。『どうしてこんなところを捜し当てたんです』
『君の両親に聞いたよ。それから鉄道会社で聞いた。君は――すつかり大人になつたね』
しかし情婦の眼の前でそんな言ひ方は私にあまり有り難くなかつた。
『何でまた、ムッシュウ。アルジェリイへなんぞいらつしたのです。あなたの身体にはさはつた土地ぢやありませんか』
『生かへつた場所が懐しかつたからさ』
『ぢやあ奥さんも御一所なんですね』
ムッシュウ・ジッドは一寸暗い顔をしました。
『いや、あれは今カンヌの里家で母親と暮してゐるよ』
『それは又どうされたのです!』その僅かな暗い顔をも見逃さずに、奥さんの便利な小使であつた私は急き込んで尋ねました。『あの美しい奥さんが――』
『僕の病気が伝染つたのさ。あれは可哀想な女だよ。僕もこの一年、一所にカンヌで静かに暮したのだ。ところが医者は――ジローといふ巴里の腕利きなのだが――妻の身体には絶対安静が必要だといふし、僕の状態にとつては本当のところ保養旅行がいいのだが、と云ふのでね。――さう聞くと急に昔の土地が見たくて堪らなくなつたのさ。今の季節の此の大陸は天国ではないかね! 実を云ふと僕はビスクラからの帰りなんだ。君の郷里だが、ビスクラには失望したよ』
『どうしてです』
『鉄道人夫の募集で古馴染は皆散つてゐるぢやないか。アマタルもゐない。ブウバケもゐない。アリもゐない。そして残つた奴は合憎マルセエユの人間のやうに抜け目がなくなつてゐる』そのマルセエユの人間に先づならうと云ふ私は、一寸出鼻を挫かれた形でした。
『それから君の家を訪ねた。君の居所を教はつた。――さうさう、僕は此処の鉄道案内局へ行つて、一週間君をガイドとして雇ふ契約を結んで来たよ。――しかし、僕はまだ晩飯を済ませちやゐない!』
そしてムッシュウ・ジッドは学生か士官のやうに、私と拉んで寝床のうへに仰向けに寝ころびました。
金のある旅客と睨んだのであらう、私の情婦はいやに忍び寄るやうな亜刺比亜風の媚を見せて卓の上の阿片の煙管を故意と下手に匿さうとしてゐた。白人相手の阿片代がどの位うまい儲けになるかは想像がつくでせう。すると、ムッシュウはその女への合図は抜きにして、いきなりこの私に尋ねました。
『君はあいつを飲るね』
『いいえ』と私は不意打ちにどぎまぎして嘘をついた。『この家が密売をやるので、それでどの部屋にもあんな仕掛けがしてあるのですよ』
『どうだか! ――ビスクラで訪ねた時にも、お母さんが僕をつかまへて何かくどくど云つて居られたぜ。ここにはウィスキイもあるね。葉巻もあるね。君はすつかり実業倶楽部の紳士だね。どれ』とムッシュウは、私の腕をとつたのです。『なるほど、こんな疲れた腕は巴里の邸町に転がつてゐる。それにこの御大層な容れ物だ』ムッシュウは笑つて、少し滑稽に阿片の煙管を取り上げました。『ひと瓶いくらに附くね。今ぢやあお父さんの仔馬が逃げたら君はどうするね』
『それあ私だつて阿片ぐらゐやりますよ。亜刺比亜人は十五でも嫁を貰ひますからね』むつとして、私は云ひ返したのです。『亜刺比亜人だつて人並みな事はしたくなりますよ。あなた方に、亜刺比亜馬より強いなんて珍らしがられるのは、もう沢山でさあ』
酔にまかせて、それに情婦の手前、云ひ過ぎたなと気が付いた時には、ムッシュウ・ジッドは今の瞬間までの人懐しげな笑顔を消してゐた。そして意外な事に、まるで孤独な人間ででもあるかのやうにムッシュウは、私を柔かく視つめました。
『君はあれを覚えてゐたね。――さうだ。――はつきり覚えてゐてくれたかはりに間違つて覚えてゐた』少時して、ムッシュウが穏かに云つた。『それどころか! 僕は君達の生きる力が好きなんだ。先租代代の生活の力が好きなのだ。分るかね。エルアフイ』
『それならばムッシュウ。なぜあなただつて飲む酒や煙草が此処にあるのを見て、いい顔をなさらないのですか』
『僕がかね!』靴よりも低く、仰向けに頭をクッションに埋めた儘、ムッシュウ・ジッドは肩をつぼめて見せました。『とんでもない! 僕は食後の葡萄酒さへ飲むのを惜しみたいよ。僕はシラフでゐた方がよつぽど酔ひ心地になれるのだ。夜中でも僕は眼を開いたままで眠たいと思ふくらゐだよ。何故だらう。生命の値打を知つてゐるからさ。生きてゐるのが堪らなく珍らしいからさ。しかし、そいつを教はつたのは君の国でなんだよ!』
実際ムッシュウは先刻から一滴の酒も飲まないのに、まるで酔つたやうに若返つてゐた。
『君は亜刺比亜馬に喩へられたのは不平かね。どうしてだらう。僕に云はせれば君が三年前に見せたのは、あれは美しい動物力だ。あれこそ僕たちの先祖伝来の力だよ。文明はあれから溢れて来たのさ、君の今ひどく奉つてゐる文明だがね。――分るかい。僕は神のかはりにこいつを信じてゐるんだ。こいつを信じて快活になるのだ。それで、三年前の君達はそのすばらしい標本ぢやなかつたのかね』
外では東南風の向きが変つたらしい。筵張りの薄い壁がわれわれの寝床を微かに揺るのです。その早春の足音をじつと聴きとりながら、ムッシュウ・ジッドは私に出会つたといふ事がどうも気に入つたらしく、一人でいつまでも大声に喋り立てました。私は以前ビスクラのホテルの扉口に何十分も坐つて知つてゐた。ムッシュウの激しい独り言は昔からの癖であつた。
『君は覚えてゐるだらう、エルアフイ。ビスクラで僕が散歩の時にあまり妻を連れて行かなかつた事を。――今でもこの通り、あの物優しい女の傍をそつと抜け出して来たよ。分つたらう。僕は猛烈に生きたいのだ。生きたいのだ。この大陸が好きなのだ。欧羅巴大陸にはもう何の魅力も感じないのだ。それあ奴らは礼服を着て生きた振りをしてゐるさ。奴らは教会へ行つてゐるさ。奴らは十分生きたつもりでゐる。ところが僕は奴らの傍へ行くと、もう生きてゐなくなるのさ』
興に乗つて、ムッシュウは立ち上ると低い天井の下を無意味にあちこち動きました。ムッシュウはまた、私の女の置いて行つた銅盤の楽器を鳴らして見た。
『君はがつかりするだらうが、奴らの文明はもう固まつてゐるんだよ。それで自分のつくつた殻で今首を締めてゐるのさ。ところがどうだらう。やつと地中海を抜け出して昔の土地へ着いて見ると、ここにも一人首を締めてゐる男がある』ムッシュウは急に笑ひ出して、冗談を混ぜてくれた。『疲れて――気取つて――勿体ない話だ。やめ給へ、やめ給へ。さもないと今夜のうちにガイドの契約は取消して、さつさとカンヌへ帰つてしまふよ』
私は実のところこんな風の話がよく分りませんでした。よく分らなかつたばかりでなく、あまり気にも留めなかつた。が、ムッシュウ・ジッドと新設の汽車旅行を一週間も愉快に続けた翌年に、私は本国のアルジェリイ駐屯軍に召集されたのです。私はトウグウルの分隊に編入されて奥地に入りました。この辺まで入ると沙漠はまつたく際限もなく拡がつて、移動する支隊と支隊との聯絡にはその頃として伝令のほかは方法がなかつた。――そこで新兵の何より厭がるのはこの伝令卒見習になる事です。それは一番能のない、足の強い、馬の代りになり得る男が採用されるのです。ところが最初の体格試験で、私は見事にその一人に選ばれてしまひました。私は大笑ひのうちに命令された。古参兵に小突かれたり、帽子のうしろに垂れてゐる日覆(ひお)ひの布を引つ張られたりして揶揄はれた。酒保の女までが気の利かない証拠のやうに私の新らしい役目を笑ふのです。私はもう軍法会議も何もない、天幕のなかで小刀を振り廻はしてやらうかと思つた。亜刺比亜人は小刀を上手に使ひますからね。――その時にふと私の思ひ出したのは、ムッシュウ・ジッドの、あの汽車旅行の間にも厭になるほど聞かされた独り言に近い説法であつた。私は古参兵や女や同僚に対する反抗心から、はじめてその説法に頼つて見ました。するとだんだん強く、だんだんはつきりとその説法の魅力を感じるやうになつた。ガアルダイアの沙漠区域――ワルグラの区域――エル・ゴレアの区域――私はたつた一人で、帽子のうしろに附いた日覆ひの布を聳かせて、小さい砂煙を立てて、自分の足音を一日ぢう聞きとりながら、分隊分隊の休んでゐるオアシスからオアシスへ五時間も十時間も駈け通しました。ともすれば私は日の出と月の出とを、いつまでも起伏してゐる砂の丘の同じ方角に見ました。さういふ時に、私は地球が円い、地球はいつまでも廻つてゐると教へてくれた土人学校の教科書を目のあたり、身をもつて復習したのです。さういふ時に私は人間が大変小さいといふ、補習学校の教科書を目のあたりしみじみと復習したのです。しかし、さういふ時に私はムッシュウ・ジッドの話のとほり、祖先代代の人間の一番の強みだといふ、限りない動物力を胸一杯に感じて、それを呼吸して、沙漠のなかでこの上なく傲慢になつたものです。風で出来た砂の波の一つ一つに朝の日、昼の日、夕方の日のあたるのを見渡して、全身をもつて傲慢になつたものです。そしてこの前後七年間にわたる最も忠実な伝令兵としての賞状と履歴書が、私のマルセエユへ出た時、巴里に来た時に、何よりも役に立ちました。――大戦では私は自動車隊に編入された。私は近東地方で土耳其軍と戦つた。私の今後の望みとしては、今の職業で発動機の秘密を知り尽して飛行士の免状を取る事です。肉体の力をまづ相当のところまで永年使つてお見せした私が、もうそろそろ機械の力を司配しようと思ひ立つても、ムッシュウ・ジッドはあながち厭な顔はなさるまいと思ひます――。私の妻はいまトロカデロ広場の方で百貨店に務めてゐます。――今日の電報が行つたら喜ぶことでせう。――テュニス生れの混血児ですが私は満足してゐる。私どもには、どうも脾弱くて困るやつですが、もう五つになる娘があるのです」
引見を終へた時に、エルアフイは気のない様子で枕元の新聞紙を取り上げて見た。今朝のアムステルダム新報だ。マラソンに就てのあらゆる予想を一面抜きに載せてゐる朝刊であつた。しかしつい先刻の一時間以来、それはもう堪へ難いほど古い反古になつてゐた。記者から貰つた薔薇を包むにしても、それは花よりも早く醜くなつてしまふであらう。……
帰り途にル・タンの記者は、窓から運河の見える中央郵便局に立ち寄つて、この興味のある会見談の概要を本社へ送ると同時に、次の電報を打つた。
「マラソン優勝者エルアフイは競技の直後特に余を浴槽に引見し、既報の感想のほかに、文学者アンドレ・ジッド氏との意外なる友交に就き語れり。原稿発送」
もう六時であつた。巴里の本社まで無電で一時間かかるとして――堤防の影とは反対に白く光りはじめた運河では、モーターを具へた引き船が窓枠から窓枠へゆつくり通り過ぎてゐた。
五
六日後。巴里。
「背徳者」「アフリカ紀行」の作者アンドレ・ジッドはこの年珍らしく巴里に落ち着いてゐた。彼はクリッシイの並木通りから一寸入つた裏町のアパルトマンの前で、予め打ち合せて置いた時間にエルアフイの細君を待つてゐた。呼鈴を押して門番に言伝を頼んでから、四階住ひの女が降りて来る間を待つてゐたのである。
やがて女は鈍いろの石のために影の多い、その往来に降り立つた。仕立直しらしい服をつけた、皮膚が秋の葉のやうに黄色味を帯びて、眼が秋の実のやうに黒いエルアフイの細君は、混血児らしく控へ目にして「先日は」といふ握手を交した。ジッドは俯いて細君に手を引かれた娘を見た。白髪を少しばかり見せたジッドは、子供には適しない愛想を云つて見た。なるほど話のとほり腺病質な、顔いろの悪い子供だと思つた。
ジッドがエルアフイの娘の病弱な事を知つたのはル・タンの記事からであつた。アムステルダム特派員の例の会見談もさうだし、また巴里の本社員がエルアフイの留守宅を訪問した記事にもその様子が書かれてあつて、ジッドはそれを朝の食卓で読んだのだ。
それから彼宛にエルアフイの細君から礼状が届いた。エルアフイの細君は何かジッドが良人に長距離競走の秘訣を教へたことでもあるかのやうに、新聞記事を読み違へたものらしい。ジッドは苦笑したが、しかしそれは素朴な香りを不意に嗅いだ心地のする、穏かな苦笑であつた。彼はすぐに返事を書いてこの半仏蘭西人の細君――チュニスの太陽や砂を共通の話題にのぼせ合ふことも出来る細君をお茶に招いた。
ホメールとニイチェとマラルメと、この三人の集冊の殊に目立つ書斎で、ジッドはそのお茶の折にエルアフイの細君の口から娘のふだんの様子を聞いたのだ。風邪をひき易くて風邪をひくと長い。脣が赤くない。そして細君の口振りから察すると、どうも時々微熱の出る形跡がある。――ジッドは胸の病では心肝に傷を刻まれたやうな過去を持つてゐた。頑丈な掌を卓の上に組んで、ジッドは科学者のやうに娘の容態を問ひ詰めた。混血児の細君の医薬にまつたく無智なのが彼はいぢらしくなつた。――ジッドはペンを取つて名刺に添ヘ書きした。
「差し出がましいやうですが、奥さん、これをお持ちになつて私の友人ジローといふ医者の意見をお聞きになりませんか。この男ならば十分相談に乗つてくれます。――同じやうな目に逢つた者には、どうもお嬢さんの様子は他人事ではありませんから」
しかし、エルアフイの細君が躊躇してゐるのを見た時に、ジッドはそれでは自分も附き添つて行かうと約束した。並木の落葉がぢきに始まらうといふ巴里でそのやうな容態を放つて置く事をジッドは反対であつた。この年の気候は夏のをはりの変化が激しくて、それに肝心のエルアフイはスカンヂナビアの体育連盟に招聘されてゐて、まだ一ト月は留守だつたから。――
ジローの住居はモンソウ公園の裏でクリッシイからタクシで五分もかからない。人によつては亜米利加じみてゐると非難するかも知れないやうな、白塗の清潔なアパルトマンの三階にそれはあつた。が、薬瓶のあるべき棚に分厚な書物なぞを乱雑に積んで、借家人のジローは客種のいい開業医といふよりはむしろ研究所の書記の生活に近かつた。この人が昔ジッドの病、ジッド夫人の病の主治医であつた。それから最も親しい精神上の仲間としてジッドの著作を揃へて持つてゐる友人だつた。ジローはまた知りびとの依頼で絶えず施療患者を抱へ込む方面の名人でもあり、それを幾分か生活の義務と心得てゐる、といふ風な男なのである。
助手が娘の姓名容態を書き取つてゐる間に、リンドバアグ好みの新らしい秋服を着けた女が、懐中白粉で頬をたたきながらレントゲン写真室から出て行つた。これがジローを訪ねる患者の最初に受けねばならない試験だつた。そしてこれが表向きの診察時間の最後まで居残つてゐた患者であつた。――やつとこれでひと息つける。冗談も云へる。やれやれと云つた調子で、ジローは扉越しにジッドとエルアフイ母子とをそのレントゲン写真室に呼び入れた。
写真室では窓を残らず黒い幕で覆うて、ジローは革の手袋と前掛とをいかめしく着けてゐた。ジローは、この部屋の器械や人間の奇妙な格好にもう脅えてゐる娘をあやさうとして、戸棚からアルバムを取り出した。
「そら、お嬢さん、これが何処だか分りますか。――奥さん、これが誰だか分りますか」
それは、白い日覆の頭布をかぶつて亜刺比亜土人の姿に装つた、ジッドその人であつた。うしろは砂と太陽と蝿とのビスクラだつた。例の重患の折の紀念に撮つた写真なのである。台紙には署名に添へて、現在よりはずつと圭角のある十五年前のジッドの文字で、かう記してあつた。
「余は此の大陸の熱と力とを愛す。余はこれによつて再生す。余はこれに拠つて虚無に反抗す。――A・G」
アルバムの効き目のあつた間に電気装置の用意が出来た。下着一枚になつたエルアフイの娘をジローはレントゲン写真機の真中にある乾板と刷り硝子板との間に立たせようとした。が、娘はもう泣き顔に変つてしまつた。
「おやおや、可笑しいですね。ちつとも恐い事はありませんよ。――では奥さん、一寸その刷り硝子の間に手をお入れになつて下さいませんか。――よろしい!」
助手がボタンを押すと、器械は蒸気汽船に似た音をたてた。電気の両極が小さい稲妻をこしらへた。その響きに打ち消されない用心をして、ジローは急行列車のなかの乗客のやうに声を高めながら、娘の気を引き立ててゐた。
「そら、お母さんの手が映つたでせう? 覗いて御覧なさい。映つても、お母さんはちつとも痛いとは仰有らないでせう」
実際刷り硝子の上には、母親の手の骨が化石した蜘蛛といふ格好に、はつきり映つてゐた。指輪の影像が骨の影像にとつては不似合ひに太くて、今にも音を立てて床に落ちさうであつた。
「今度はこの小父さんだ。君も、アンドレ、お附き合ひに手を出し給へ。――なるほど小父さんの手の方がずつと大きいですね。そしてずつと形が悪い。そら。小父さんもちつとも痛くないつて笑つてゐるでせう」
心の柔かい気さく者のジローは隧道に入つた列車の乗客のやうに、ますます声を大きくした。
「さあ、二人とも痛くないのならば、お嬢さんにもきつと痛くないに違ひない。今度こそお嬢さんの番だ。もう少し奥へ入つて、その黒い板の前に立つて」
欄干を擦り寄るやうにして、娘は横歩きにやつと乾板の前に立つた。娘は眼を精一杯に大きく見開き、当てもなく正面の扉を視つめてゐた。娘の膝には遊び事のをりの傷痕があり、靴下には目立たぬやうに母親の苦心した継ぎがあつた。――電燈が消えた。と、小さい肋骨が何の謎も持たずに、単純に、明瞭にそこに映つてゐた。ジローはこの影像の肋骨に眼鏡を擦りつけんばかりにして、検査しはじめた。
「ふむ、ふむ。――奥さん御覧下さい。これが肺尖といふところです。鎖骨、肺部、これが横隔膜。この動いてゐるのが心臓です。おや、お嬢さん、まだ恐がつてゐますね。心臓の動悸のうつり方でちやんと分りますよ」
図星を刺されたといふ工合で、ジローの指差した処には薄黒い袋が奇妙な形に激しく揺れてゐた。
「なるほど、此処のところですね、御近所のお医者さんが注意したといふのは。――そら、細かい網目のやうなものが少し黒くなつて、モヤモヤと散つてゐるでせう。――石灰化してゐる部分が多いから、このモヤモヤの皆が皆、いま悪くなつてゐる場所といふのではありません。ありませんが、しかし、これは滋養剤を第一に飲んで戴くとして、当分の間一週に一度づつお連れを願ひませうか。奥さんのお務めの終つた後で結構。私の表向きの診察時間の済んだところでお待ちしますから。――よろしい!」
ジローの合図で写真を二枚撮る音が起つた。しかし暗闇のなかでジッドは、娘のばかりではない母親の、ジローの、助手の、そして自分自身の肋骨を感じた。動いてゐる心臓を感じた。五つの動物性をありありと感じた。それらの肋骨は寒帯の木のやうに、枝をしつかり張つて少しづつでも伸びようとして居り、心臓は日光の透らない深海の魚類のやうに忍耐強く喘いでゐた。
この瞬間、ジッドの生命は他の四つの生命に不思議な親しみを感じた。種族を感じた。「仲間」を感じた。
この小説家らしい想像が彼をしばらく無言にした。――彼がエルアフイに教へて、それゆゑにエルアフイが砂漠の中で全身をもつて傲慢になつたといふ同じ理由のために、ジッドはその何分かの間巴里のランブラン街の「共同」立物のなかで、すぐ横に立つてゐる混血児の細君にも増して市民らしく謙虚になつてゐた。
電燈のぼんやりした照り返しを受けて、彼は娘の骨を眼のあたり見せられたエルアフイの細君が恐怖のあまり十字を切るのを見かけた。しかしそれは聖母マリアへであつた。彼の守護神の――永遠回帰の動物力へではなかつた。
明るくなつた時に、ジローは急いで涙を拭いた痕のあるエルアフイの細君と、肩で息をしてやうやく耐へてゐた娘とを陽気に見廻した。黒い幕を晴れ晴れしくあけると、ジローの三階の窓からはモンソウ公園の植木が裏葉を返して、アンリ・ルッソオの繪のやうに素朴であつた。……