二都物語
BARAN
テヘランの街は砂漠の中にあった
雨は神様が仕掛けた如雨露みたいにレンガの家を疎らな樹木を
人のこころにもシャワーをかけて去った細くありがたく乾いた街角まちかどを
改装ビルの工事現場で伯父さんの手伝いをしつつ青年は秘かに
賃金を空き缶に貯めていた
薬師丸ひろ子にあい似たし少女が男の子に変装しておじいさんと仕事にありついてきた
セメント作りの作業は力仕事であった
ある日それとなく気づいた青年は少女を周りからかばうようになる
男女の戒律が他国よりも格段に厳しいイスラームの世界では全てが無償の行為に留まる
生活も自然も厳しい中で 難民であることを隠して働いているのである
BARANとは雨のペルシャ語とか
突然にアフガンに居る兄が殺されたという電報が届く
地雷に片足を奪われた父や幼い妹等を少女が河石を運んだりした日当で支えていたのだ
少女は官憲の手入れで来れなくなった
少女の家を探すうちにそれらの事を知る
青年が貯めていたお金を全部村で会った少女を知るおじさんに託したら
その金を持って彼自身が帰国してしまった
二人は一度も口をきくことは無かった
一方的な思いだけが残った(禁じられている)
その時、河の近くで青年は少女の髪留めを拾った
彼はそれを石のうえに置いて帰った
(彼らがもう二度と逢う日も無いことが我々には解かっている)
(返歌)
BARANは雨なるペルシャ語 薬師丸ひろ子にあい似し少女が主演
“Mr.Duke”(新・貴公子)を観て (drama)
お手の物の大財閥の
階層の隔たりから来る大いなるGAPにさもありなんサタィヤーや滑稽がかもし出される
それが笑いのうちにも人と世相を痛烈に切る
明らかにこれまでの韓国ドラマからの成熟ぶりを覗かせてもいる
(ここではヒロインは白血病にも罹らず交通事故にも遭わないから偉い)
その代わりにどちらにもワルが居てギャング団として暴れまわる
いわばピカレスク風大ロマンの全6巻は痛快なパロディ劇ともなっているのだ
これまでの余りにも現実離れした悲劇を逆にパロディ化した一大活劇した訳である(彼の国の国技)
そこに病や事故による嘘くさい大展開を抑えた今回の批評の眼があるし構想の巧みな工夫も見られる。
嶋本昭三、77歳(現代美術家)
瓶ごとの絵の具壁にぶっつけ その勢いが描くのだと 嶋本昭三
魚拓ならぬ女拓と言えば (おみならが惜しげもなく裸体に墨を)
高々とクレーンに吊られて瓶を投ぐ 「百年後には完成されるだろう」
目、鼻、口、頭どこでもがキャンパスだねと、Lococoが画く昭三の上
「他人の為ないことをやれ」先ずニューヨークから評価の声が上がりぬ
牛の鼻取り
苗代の田にお昼の弁当を持って行くのが子供達の日課だ
日中の居間を暗くするほど梢をひろげる裏山の朴の葉でくるんで
きなこのご飯は朴葉の香りにぷんぷんして熱い
五月、水を一杯田圃に張って
牛の鼻取りをする 小学五年のぼく
祖父母と叔父叔母等もみな健在だった母方の大家族の黄金時代
村外れの岬の鼻から清水を大きな薬罐でエッチラオッチラ運んでくれば十円もらえた
山から薪を背負う運び賃が一回三十円の頃だ
標高三百メートルぐらいの半島の山あいの麓
八ヶ川が銀河みたいにくねって日本海へ
その間に散在する村里や稲田のひろがりが私の田舎
少年は隣り町のある山の向こうばかり眺めていた
みなし児は早く大人になって 自分で稼げる都会に出たいと思った
一日も早く家を出て、独りで自由に生きたいと願った
二都物語
天は輝いていたきみの上に
宮は凍っていた極彩色の反りで
(1)
*(思い出はどこまでも美しくあらねばならない)
2001年の正月、金浦空港まできみは出迎えてくれた
二人で王宮に詣でた
(きみは今頃どうしているのか)
今日も新宿駅から大久保通りの方角へ歩きだしていた
まるで当時の二人に返ったみたいに 憑いて行く影法師
高層のアパルトマンできみの家族に歓待された日
(きみは今頃どうしているのか)
*
クァク・ジェヨン監督の映画のチョン・ジヒョンみたいに、
俺をグイグイきみが
新宿二丁目あたりを引っ張り歩いて行ったっけが
(あの『猟奇的な彼女』、そして『僕の彼女を紹介
します』の二作品さながらにだ)
男のくせに 一度チマチョゴリが着てみたいなア
彼の透明な絹地の肌えにこそ
(ああ、俺は列島人から半島人になるuuu)
(2)
「アンニョンハセヨ」と、彼女
「今日は」と、俺
「クレソ」と、彼女
「それが何うした」と、俺
「アラッソ」と、彼女
「わかったよ」と、俺
「コマオヨー」と、彼女が言うと
゛Thank you!゛俺も負けずに言い返す
*(幕引き)は次の通りに)
9月11日に何が起こったか なんて糞喰らえ
(CIAの陰謀だぜ全く)
ブッシュがプッシュして(アフガニスタンへ、イラクへ、イランもか)
oilを求めて゛死の商人゛共奴が
*
ホン・サンスの映画には予め放り出された若者の愛が
絶望はあっても、希望など全く無い
すべてが実存のあわれなる肉体やら、sexやら、
会話やら無駄な羅列へ 酒や美食と共に屋台の上に
(私は『気まぐれな唇』や『豚が井戸に落ちた日』
などのcinema話をしているのだ)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/02/21
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