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戦争と人間(抄)

 〈教育〉 スパルタの巻

 

 人間の歴史は争いの歴史である。史書をひもといてみれば、ほとんどのぺージが争いの記述で埋まっているのを見出すだろう。なぜ人間はこうも争わねばならないのであろうか。争うことが人間の本性であるゆえか。それとも人間が強者と弱者に分れているためか。集団で暮すことを強いられている人間は、どんな状況にあっても利害を異にするようになるせいか。

 いったい、人間の社会から争いというものがなくなる日がくるのだろうか。残念ながら私には、それは空しい期待に終るように思えてならない。詩人シラーは悲願をこめて「すべての人間がきょうだいになるだろう」とうたった。べートーヴェンはその詩を「第九交響曲」につくりあげた。しかし、それからでさえ、人間の争いはいよいよ激しくなるばかりだった。未曾有の世界大戦につづいて、さらに未曾有の第二次世界大戦が地球を荒廃させた。それにもこりず、人びとは相変らず戦争の恐怖から逃れられずにいる。

 だれもが戦争のおそろしさを知っている。戦争の愚劣さを理解している。戦争の無意味さを痛感している。にもかかわらず、戦争の不安は消えることがない。その不安が現代の軍備拡張競争の停止を拒んでいるのだ。不安は人びとを争いの鎮静へ向わせるより、反対に、いよいよ争いを高める状況へと駈り立てている。恐怖を克服する最も有効で手っ取り早い手段は、恐怖を相手に転嫁することだからである。"恐怖の均衡" とは、よく言ったものだ。

 この不条理! それをイギリスの科学ジャーナリスト、N・コールダーはこう言っている。

 

 ──危機、危機とわれわれが公言すること自体、本当の危機を高めてしまうことになるのかもしれない。なぜなら、核戦争というものは、絶対に避けられないと誰かが思い込むことによってひき起こされるものだからである。

   (N・コールダー『核戦争の悪夢』服部学・坪井主税訳)

 

 そう、戦争は恐怖が生みだすものだ。自分がやっつけられはしまいかという不安、おのれの生存が脅かされていると思い込む恐怖心、そうした不安や恐怖心が相手の実体を冷静に見きわめる余裕を失わせ、一転して攻撃心へと転化させるのである。前記のコールダーは「敗北に対する恐怖心が、核戦争に対する恐怖心を凌ぐようになってきている」現代の実情を最も危険な兆候とみなしている。恐怖心とはそのようなものなのだ。それを個人の次元でいうなら自殺がいい例であろう。自殺とは敗北に対する恐怖が死の恐怖を上回ったときに行われる。

 だとするなら、争いを取り除く最も賢明な手段は、人間の心にひそむ恐怖心を和らげ、できることなら追放することである。だが、そんなことができるだろうか。個々の人間に力の優劣があるかぎり、能力の差異が認められるかぎり、人びとの心から劣等感や敗北感を(ぬぐ)い去るわけにゆかず、それがしだいに高ずれば、やがて恐怖心へと凝結し、ついには攻撃心へと変質する。そうなれば、最早、理性の声は魂の奥底には届かない。そして、このような過程は、個人のみならず、一定の社会集団、民族、国家……すべてに貫徹しているように思われる。核戦争を防止する何より有効な手段は "恐怖の均衡" にあるとする論がそれをよく語っていよう。恐怖は取り除くことができないから、せめて恐怖を均等に分ち合うことで攻撃を抑止する、というわけである。

 けれど、恐怖といった心的状態は、けっして正確に計量し得るものではない。だから、いつなんどき、その均衡が破れるのか、だれも予測できない。はたして、恐怖が均衡しているのかどうかでさえ、さだかではないのだ。そしてその均衡が失われたとき、いや、失われたと、どちら側かが思いこんだとき、戦争が起った。戦争とは、つねにこのように不条理なものであり、影におびえ、影に反撃するという形で展開されてきたのである。

 というと、戦争の原因を、あまりにも心理的な要因に帰しているように思われるかもしれない。しかし、いかなる戦争といえども、戦おうとする人間の意志なしには起りえない。戦争を起すのはあくまで人間であり、たとえどのような兵器が開発されようと、人間の決意がすべてをきめるのだ。だとすれば、戦争の原因はやはり人間の心といってもいいのではあるまいか。

 むろん、人間の心は変り得る。古代人と現代人とでは、価値観も、判断力も、心情もかなりちがっている。したがって、人びとの心から恐怖心や攻撃心を除去することによって、恒久の平和を確立するという可能性が皆無とはいえないかもしれない。しかし、おなじ現代人であっても、国により、民族によってその信条や価値観は依然としてへだたっており、さらに教育によってさまざまな人間がつくられつつある。かつてアメリカの言語学者S・I・ハヤカワはこう書いた。

 

 ――もし「正義」という言葉がアメリカ最高裁判所の九人の判事に、全く同じ意味を持つなら、つねに全員一致の判決が下されるはずである。もし「正義」という語がトルーマンにもスターリンにも同じ意味を持つなら、それこそおどろくべきことだ。

   (S・I・ハヤカワ『思想と行動における言語』大久保忠利訳)

 

「正義」という概念でさえそうなら、概念以前の不安や恐怖といった情緒が、どうして等質であり得ようか。だから、戦争の危機はけっしてなくなってはいないのである。現代に至ってもなお、そのような "恐怖の均衡" に戦争の抑止を托そうとしている実情が何よりそれを語っていよう。

 戦争の第一原因(カウサ・プリマ)が人間の心にあるとしたなら、それを地球上から追放する最終的な手段は、きわめて迂遠な道と思われようが、やはり「教育」に頼る以外にあるまい。だが、その教育も、人間が人間にほどこすものである。全人類がおなじ価値観をもって、おなじ教育を試み、人びとの心から恐怖心や攻撃性を取り除くことに成功するなら、争いの根は断たれよう。しかし、教育は科学や技術と同様、両刃の剣である。なぜなら、これまでの戦争の多くが、じつは教育の "成果" だったからである。人間の心に恐怖を植えつける教育もある。敵愾心(てきがいしん)をあおり立てる教育も行われてきた。憎しみを助長させ、攻撃心を養い、他を侮蔑する教育――人間がこれまでにやってきたのは、むしろそのような教育だったといってもいいほどだ。その代表がスパルタだった。

 

 紀元前十一世紀ごろ、ギリシア民族のひとつであるドーリア人――彼らはヘラクレスの子孫と称していた――が北からペロポネソス半島へ南下し、半島南部のラコニア平野に定着した。むろん、そこには先住のアカイア人その他の民族がいたのだが、ドーリア人は腕力でエウロタス河畔の土地を占拠し、ここに独自のポリス(都市国家)をつくりあげた。これがスパルタである。

 しかし、スパルタが世に知られるような "スパルタ式" になったのは、ラコニア平野の西にそそり立つタイゲトス山脈の向う側に住みついていたメッセニアを征服した前八世紀、もっと厳密にいうなら、征服されたメッセニア人が起した反乱を鎮圧した前七世紀からである。これを第一次、第二次メッセニア=スパルタ戦争というが、この戦争がスパルタを「スパルタ」にしたのだ。

 メッセニア人はスパルタ人とおなじギリシア人だったのだが、スパルタは彼らを征服してヘイロタイ(ヘロット)、すなわち農奴とし、さらに先住のギリシア人を周辺に追いやってペリオイコイ(辺地に住む者)とした。後者のほうは荒れ地ながらも自分の土地を持ち、また商工業に従事することもできたが、むろん参政権などなく、前者に至ってはまったくの奴隷でスパルタ人のために耕作し労働するというひどい階層(カースト)におとされたのである。その社会はインドになぞらえるなら、クシャトリヤ(武人階級)、バイシャ(商・工・農民)とシュードラ(隷属民)の三階層から構成されていたといってもよかろう。だが、スパルタの特質をきめたのは、スパルタ人がヘイロタイやペリオイコイよりも、数においてずっと少なかったという実情だった。そこで彼らはつねにヘイロタイの反乱やペリオイコイの造反に目を光らせていなければならなかった。目を光らせる――それは別言すれば、いっも脅かされているということである。スパルタ人の優越感は「劣等者」に対する恐怖心に支えられていたのだ。

 だからヘイロタイの反乱がおこり、その鎮圧に手を焼いた前七世紀末のメッセニア=スパルタ戦争以後、スパルタは世にも不思議な国制を敷くことになる。その独特の制度は「リュクルゴス」という政治家がつくりあげたとされているが、果たして「リュクルゴス」なる人物が実在したのかどうか確証は何もない。多くの伝説がそうであるように、彼にすべてが仮託されたのであろう。が、いずれにせよきわめて特異な社会制度が「リュクルゴス」(それを複数の代名詞と考えてもよい)によって創設されたことは事実であり、その制度についてはプルタルコスがくわしく記述している(プルタルコス『対比列伝』所収「リュクルゴス伝」清水昭次訳)。

 プルタルコスは、この立法者について「議論の余地のないことは一つもない」としながらも、「彼」の業績について、かなり詳細に列挙している。それによると、「リュクルゴス」が断行した最も重要な改革は二十八人から成る「長老制」で、これによりスパルタは王権(スパルタは二人王制だった)の無際限な拡大を抑止し、他方、民主政が暴走しないようにチェックしたという。

 第二は土地改革、すなわち土地の再配分である。スパルタが何より怖れたのは不均等ということだった。というのは、不均等こそ不満を生み、不満がいつ攻撃に転化するかしれないからである。そこで「リュクルゴス」は国にとって最も危険なのは富と貧困だと考えた。富は傲慢と羨望と贅沢と悪意を呼び寄せ、貧困は国の重荷となる。で、彼はスパルタの土地を均等に分割してスパルタ人に与え、辺地の民ペリオイコイに対しても彼らの住む土地を公平に分けた。これによってスパルタは自分たちの社会はもとより、ペリオイコイの反目、不満から生じるであろう争いの根を断とうとしたのであった。だが、ヘイロタイは相変らずの逆境にとどめおかれた。しかも、前記のように彼らは数において圧倒的に多かった。ヘイロタイに有無をいわせぬようにするためには、あくまで断乎たる力を誇示しつづけねばならない。いわゆる「スパルタ教育」はそこから考え出されたのである。

 その教育の目的は、スパルタの社会を軍隊のような組織と規律を持った共同体(コミユーン)にすることだった。そのための人間をつくりあげるのは教育理念である。掲げられた理念とは、「不平等と不均等を完全に除」き、贅沢を敵とみなし、名誉を重んじ、勇気と忍耐とを養い、すべてを国のために捧げて自分を空しくすること、であった。

 そこでまず、物欲や貪欲を根絶するために金貨や銀貨を無効なものとし、かわりに鉄の貨幣を使用するようにした。その鉄の貨幣たるや、やたらに大きく、おもく、それでいてわずかな価値しかないというしろものだった。プルタルコスによれば、そのような貨幣は、「一○ムナの支払いに、家の中の大きな倉と二頭立てで運ぶ車を必要とした」という。一○ムナとは一○○○ドラクメで、その重さは一五〇〇キログラムもあったようだ。とうぜん、「隠すこともできず、所持していても羨しがられず、(わざと品質を悪くしてあるので=引用者)粉々に砕いても利益がない」ということになる。こんなものを誰が盗んだり、賄賂に取ったり、だまし取ったり、奪い取ったりするだろうか」というしだいである。こうして、スパルタからたちまち不正が姿を消したという。

 つぎに「リュクルゴス」が考えだした "賢明な" 政策は「共同食事(フイデイテイア)」制度である。いわば全社会的な給食だ。といっても、その費用は各自の負担で、十五人が一組になって共同のテーブルにつくわけである。こうすれば、だれもが、それこそ "ひとつ釜のめしを食う" ことになり、美食は放逐される。そのような大人たちの会食に少年たちも連れて行かれ、そこで節制と会話術、政治論を学ばされた。

 子供たちのしつけや教育については、あまりにも有名である。子供は親たちのものではない。すべての子供は国のものである。そこで子供が生れると「レスケー」と呼ばれる場所に子供を連れて行き、ここで部族員のうちの最年長者たちの審査を受けねばならない。そして合格すれば育てるように命じられ、もしその子が虚弱であればタイゲトス山の「アポテタイ」という洞穴へ投げ捨てられた。

 さいわい、育てることを命じられたとしても、育て方は親の自由にはならず、七歳になると「少年隊」に編入されて共同生活をせねばならなかった。「少年隊」は年齢別に編成されており、上級の隊員が下級の隊員をきびしくしつけ、鍛錬は年とともに苛酷なものになっていく。「髪の毛をすっかり剃ってはだしで歩み、たいていは裸で遊ぶことに慣れさせた。十二歳になると彼らはもう下着なしで生活し、一年間に一枚の上着を与えられるだけで、身体がかさかさになっても沐浴や塗油することは許されなかった」とプルタルコスは述べている。

 奇妙なことに、盗みを働かせるというのも教育実習のひとつだった。先輩たちは年少の者に食物の盗みを命じ、もしつかまると、激しく罰した。その罰とは盗みに対する罰ではなく、へまをやったことへの懲戒だった。それは将来、敵を攻撃するときの訓練だからである。少女たちも少年と変りなかった。かなりの年齢に達しても娘たちは全裸で競走、格闘、槍投げなどの競技を若者たちの前でやらされた。娘が裸になることは何ら恥ずべきことではなく、それは男と同等の自尊心と、簡素、健康、を目的とする徳育なのだった。

 子供は親のものではなく、国のものなのであるから、とうぜん結婚の様相も変ってくる。いい子供をもうけるためには、いい子種を宿さなければならない。そこで夫は妻に自分よりよい相手が見つかればその男を歓待し、その男が妻に生ませた子を自分の子とすることが許されていた。嫉妬などというものは恥ずべきものとされたのである。こうしてスパルタ人は鍛えあげられ、勝利、しからずんば死、という勇敢な戦士に仕立てられた。それを実証したのが、ペルシアとの決戦場になったあのテルモピュライの "砕" である。詩人シモニデスはこううたった。

 

旅人よ

行きてラケダイモンの人々に告げよ

我ら命に服してここに眠る、 と。

 

 ラケダイモンとはスパルタの地のことである。

 そして国内においては、彼らを脅かすメッセニアのヘイロタイの不穏分子と思われるものに対して、あたかも戦争の実習のように殺人団、テロ集団が組織されて殺害をこととした。

 

 考えれば考えるほど、スパルタは矛盾そのものであった。いったい、彼らは何のためにこのような軍国的社会をつくりあげたのか。それは繰り返していうなら、メッセニアの反乱を怖れたためであった。その心配がうすらいだとき、こんどは他のポリス、なかんずくデロス同盟の盟主アテネの進攻や撹乱(かくらん)に不安を抱いたためであった。スパルタはペロポネソス同盟の主の地位を確保していたが、不思議なことに、それほどの武力を結集しながら、あえてペロポネソス半島を出ようとはしなかった。スパルタの軍国主義は、スパルタ大帝国を形成しようという帝国主義的な戦略を目的としたのではなく、もっぱら敵に敗れまいとする自己中心的な「保守」に終始したのである。ギリシアの他のポリスとくらべて、スパルタほど保守的な国はなかったといってもいい。

 だからスパルタは他国への旅行を制限し、他国からの入国も容易に認めなかった。スパルタという特別な社会が他国の文化によって "汚染" されることを怖れたからである。「外国人を近づけないでおくことは、禁止などをしないでも、むずかしくはなかった。彼らはきっとできるだけ(すみ)やかに立ち去ったろうし、来る用のない者は来はしなかったであろうから」とブルクハルトはいっている(ブルクハルト『ギリシヤ文化史』新関良三訳)。スパルタはその軍国社会を保持するために、"鉄のカーテン" をめぐらせていたのだ。

 争いを防ぐために平等、均等をめざし、富と貧困を追放するというスパルタの理念そのものは、たしかに注目に値しよう。だが、そのために試みられたさまざまな施策、とくにその教育は、あくまでスパルタという社会の保全に仕えたにすぎなかった。ブルクハルトはそれを「盲目的な主我主義」とみなす。そこには徹頭徹尾、普遍的な観念、すべての人間に共通する人間性への視点が欠落していた。こうして、スパルタ人はスパルタ以外に生きてゆくことができなくなった。スパルタが滅亡したのは、まさしくそのような自己中心的な閉じられた社会だったからである。そして、彼らの教育理念が、じつは他に敗れまいとする不安と恐怖から生みだされたものであったゆえにほかならない。

 争いを鎮めるために考えだされた教育が軍国主義をつくりあげ、その軍国主義が他国との争いの種をまく――スパルタの存在理由(レゾンデートル)はそれを身をもって実証したことにある。このようなスパルタのアンチテーゼがアテネであったことは、あらためていうまでもなかろう。

 

 

 〈責任〉 子供たちに未来を

 

 世界を旅して、私はいくつ古戦場にたたずんだことか。ただ、風だけが吹き抜けてゆく戦跡で、いまさらのように胸に深く刻まれたのは、名状しがたい思い、強いて言葉にすれば、「(むな)しさ」であった。

 人間が極限の力をふりしぼるのは、戦場においてである。そこには生か死かの二者択一しかないからだ。これまで、どれほどおびただしい血が戦場で流されたことか。もし、人類が戦いで流しつづけた血潮をドラム缶につめて並べたなら、その数、その距離はどれくらいになるのだろう。しかも、その血が何をもたらしたというのか。

 それが人間の歴史をつくってきたのだ、といえるのかもしれない。けれど、一滴たりと血を流さずとも、人間は別様に歴史を形成できたはずではないか。もっとすばらしい、歴史を。だが、こうした思いは、おそらく感傷にすぎまい。あやまちの繰りかえしこそ人類史だからである。こうでしかありえなかった――それが歴史というものだ。人間の歴史とは、もしかすると、「空しさ」の証明以外の何物でもないのではあるまいか。古戦場がそれを黙示する。だから『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ最も心ゆさぶられる句は、その空しさをうたった一句なのである。

 

  夏草や(つはもの)どもが夢の跡

 

 私が訪ねたどの古戦場でも、歳月が兵どもの夢の跡を弔っていた。野の草をゆり動かして。

 

 いったい、人間の社会から争いというものがなくなる日がくるのだろうか、と私は本稿の最初に問うた。そして、残念ながら私には、それが空しい期待に終るように思えてならない、と答えた。その答をここで訂正するつもりは、さらさらない。なぜなら、争いは人間の、いや動物すべてをひっくるめた生物の宿命だからである。

 なぜ、争いが宿命なのか。そんな性格をだれが生物に課したのか。それはわからない。だが、そのような(ごう)を与えられた以上、人間は「(なんじ)(さが)のつたなきを泣く」か、そうした業を何らかの形で克服する以外にあるまい。克服とまでゆかなくとも、せめて統御し、抑制する(すべ)を学ぶ必要があろう。しかし、そのためには、まず、争いの本質、闘争の由来、戦争の意味を冷静にかえりみねばならない。争いの解決は、何といっても、争いの原因をつきとめることだからである。

「戦いは万物の父であり、万物の王である」とギリシアの哲人ヘラクレイトスはいった。「平和とは、ふたつの戦争のあいだに与えられただまし合いの時期だ」とビアスは『悪魔の辞典』に記した。魯迅もこう書いている。

 

 ――平和というものは人間世界に存在しない。平和と呼ばれているのは、戦争の終ったあと、まだ戦争の始まらないときをいうにすぎない。

 

 戦争についてのこうした箴言(しんげん)をあげてゆけば、まだいくらもあろう。が、どの言葉にもそのなかに自嘲がこめられており、そこから深い吐息がきこえてくるように思える。「平和とは息子が父親を埋葬することであり、戦争とは父親が息子を埋葬することだ」と皮肉をこめて "定義" したのはフランシス・べーコンである。キケロは「どのような正義の戦いであろうと、戦争より平和を取る」といった。が、タキトゥスは「堕落した平和は戦争よりも悪い」といっている。では、いったい、戦争と平和とは、どのような関係にあるのか。

 中国人はこの宇宙の基本的な性格を二元的なものとしてとらえた。むろん、その窮極の原理は「太極」、あるいは「太一(たいいつ)」と名づけられる絶対者であるが、そのなかには「気」がこもっており、「気」が動くとそれはたちまち陰・陽の二気に分れる。そして、万物はこの陰陽という二原理によって構成されると見るのである。中国の思考の根源には「(えき)」の思想が据えられているが、「易」とは「変化」の意味である。万物は不断に変転する。それは陰陽二気の状態が変るからなのだ。陰がきわまれば陽となり、陽がきわまれば陰となる。そのような陰陽の状態は「消息」と呼ばれる。

 こうした中国の宇宙像のなかに、鋭い洞察がこめられているように私には思えてならない。なぜなら、自然現象はもとより、人間の精神領域に至るまで、そのような二元的な構図が看取できるからである。すなわち、プラスとマイナスである。ニュートンの運動第三法則、作用と反作用の法則がそれを端的に証していよう。人間の心理においては愛と憎とがそれを雄弁に語っていまいか。

 

 人はなぜ争うのか。争わずにいられないのか。ドイツの社会学者ジンメルはつぎのような答を出している。彼はいう。

 

 ――宇宙が一つの形式をもつためには、「愛情と憎悪」、すなわち、牽引力と反発力とを必要とするように、社会もまた、一定の形態に達するためには、調和と不調和、結合と競争、好意と悪意との、なにほどかの量的な関係を必要とする。(ジンメル『闘争の社会学』堀喜望・居安正訳)

 

 つまり、闘争とは、一見逆説的に思えるが、じつは統一への力だというのだ。別言すれば、争いや敵意、反撥や憎悪があればこそ、人間の社会は社会たり得るのであって、それがなければ社会的な結合はありえないと見るのである。なぜなら、そうした緊張がなければ、人間の集団は無関心におおわれてしまうからである。

 彼はその最もわかりやすい形として夫婦をあげ、争いがあるから夫婦なのだと説明している。

 ジンメルのこうした考え方は、正―反―合というあの弁証法の図式と見てもいいだろう。対立するものがあればこそ、それが止揚(アウフヘーベン)されて統一に達するという弁証法の論理である。むろん、だからといって、短絡的に戦争は必要だということにはならない。反撥から争い、争いから闘争、闘争から戦争へと至る道は直結しているわけではけっしてないからだ。争いはさまざまな形を取り得る。たとえば競争という、あるいは妥協という、あるいは取引きという、またはたんなる反対という数多くの段階があるのだ。戦争はその最後の切り札にすぎないのである。

 多様な争いの形、動物学者もそれを「生」の基本的な構図として観察し、記録し、分析している。たとえばコンラート・ローレンツは魚、鳥、哺乳類といろいろな動物の行動を研究し、きわめて示唆に富む多くの報告を発表した。

 弱肉強食というのは動物の世界の(おきて)であることは、だれもが知っている。しかし、どんな動物も自分の生命を維持するのに、あるいは "家族" が要求するもの以上に餌となる他の動物を殺しはしないことも、いまや常識となっている。それにしても、捕食が生存のための闘争であることはたしかだ。が、ローレンツは、そうした食うための戦いではなく、むしろ、同類の個体間に見られる激しい敵意、衝動的な攻撃、狂暴な闘争が何を意味するのかを観察しつづけた。

 動物の世界では捕食をはじめ、異種間に闘争がくりひろげられると一般に思われているが、そうではなく、むしろ同類のあいだですさまじい敵意と攻撃が見られる。そこでローレンツは、「類は類をもって集まらない」という原理をそこに見た。彼が最初に不思議に思ったのは、サンゴ礁に棲む魚たちが、どうしてポスターのように鮮やかな色や模様を持っているのだろう、ということだった。何のためにこれらの魚たちは、かくも多彩なのか。

 むろん、無意味であるわけがない。それにはそれなりのいわれがあるはずだ。「その色彩を養い育てたのは、どのような種族保存の働きであろうか」というのが、ローレンツの疑問であり、設問だった。そこで彼はできるだけ鮮やかなサンゴ礁魚を何種類か水槽に飼って観察し始めた。

 ところが、すぐにわかったことは、同じ種類のものを二匹以上飼っておくのがまったく、不可能であるということだった。「同種のものを数匹入れておいたところ、やがて、あばれまわって戦ったすえ、いちばん強いのがただ一匹生き残った」のである(ローレンツ『攻撃悪の自然誌』日高敏隆・久保和彦訳)

 しかし、奇妙なことに、色や模様のちがう魚は、いくら鮮明な色を身につけていても攻撃を受けることがなく、いっしょに暮している。ただし、その魚も、「これはこれでまた、かならず一匹ずつ」という次第であった。そこから彼は「類は類をもって集まらない」ことを発見したのだが、いったい、それは何を意味するのか。よくいわれることだが、"近親憎悪" なのだろうか。

 しかし、水槽とちがって、広い海ではそれが「血を見ないやり方で実現されている」。攻撃を受けた魚は遠くまで逃げることができ、追うほうも、けっして深追いをしないからである。つまり、同類個体間の闘争とは、要するに縄ばり争いなのである。では、なぜ動物はそれほどまでにして縄ばりにこだわり、ある領域を独占しようとするのか。むろん、自分の生命を維持するために一定の場所を確保する必要があるからである。そうでないと、餌は欠乏してしまう。しかし、これは必ずしもエゴイズムとはかぎらない。自分さえよければ、仲間はどうなろうとかまわないといった自己中心主義と見るべきではない。もしそうなら、その個体は生きつづけられても、種は絶滅してしまいかねないであろう。仲間への激しい攻撃は、一見そう思えても、じつは種の保存のためのやむを得ざる「悪」なのである。

 ローレンツは、それをこう述べている。

 

 ――(もし同類の個体を攻撃しなければ=引用者)与えられた住み場が、ある所では同種の動物の密度が高すぎて食物の源をすべて食い尽され、みなが飢えに悩まされているのに、ほかの所は手もつけられずにいるといった危険があるのだ。この危険を封じるいちばんかんたんな手だては、同じ種の動物は互いに相手を寄せつけないというやり方だ。これこそ、あからさまな言い方だが、種内攻撃の種を保つ働きのうちもっとも重要なものなのである。 (同前)

 

 ここから、あの謎、定住性のサンゴ礁魚がなぜポスターのように目立って鮮やかな色や模様を身につけているのか、という謎は解けてくる。それは「相手が自分と同じ種類であることを識別するための信号」なのだ。別言すれば、その色彩、紋様は、「オレに近づくな!」の合図を送っているのである。「近づくと、ひどい目にあうぞ!」という威嚇であるといってもいい。けれど、デザインが異れば、関心の外となる。類を異にすれば、とうぜん、餌もちがってくるからである。

 

 フランチャイズとは市民権、参政権、選挙権、あるいは特許を意味する言葉だが、プロ野球などではホームグラウンドの意にも使われる。フランチャイズとは俗ないい方をすれば「縄ばり」である。つまり、縄ばりを確保してこそ、そして縄ばりのなかでこそ、いっさいの権利は発生するのである。したがって、動物の生存にとって何より重要なのは自分の権利を主張できる縄ばりを持つことといってよい。その縄ばりはサンゴ礁魚が互いに殺し合いを演じてまで確保しようとする水槽の小さな世界から、人間の住居、都市、さらには国家、主権の及ぶ領土に至るまで、本質的には少しも変らぬ生存の構図をはっきり示しているといってよかろう。

 だから、争いというものは、まずこの縄ばりと密接に関係している。小鳥のさえずりはまるで平和の声のようにきこえるが、これとて縄ばり宣言以外のなにものでもない。そのさえずりによって同類の他の鳥がそこへ近づかないかぎり平和は保たれる。この意味で鳥の声は平和を守るための信号ともいえよう。このように、鳥のさえずりひとつ取っても、争いと平和とは一体となっていると見ることができる。

 では、人間の場合はどうなのか。イギリスの精神医学者A・ストーは、人間とて同様だとつぎのように述べている。

 

 ――他の動物と同様、人間も過密現象にはひどく反応する。文明が進むと、人々が都市に包みこまれるようになっても、必ずしも食物の不足をきたすというわけではないが、かつて個人個人の間またグループ間の間隔をあけるのに役立った攻撃性の痕跡を追うことはたぶん可能である。都市に住むわれわれのようなものは、都市化の避けられない結果と思われる密集といったものに、あるていど順応することを学んだ。しかしより密集させられると、お互いに容易に立腹しやすくなるものである。多くの人々が都市生活でいらいらし疲れ果てるのはたぶんこのためであろう。

      (ストー『人間の攻撃心』高橋哲郎訳)

 

 むろん、人間は都市という "檻" に押しこめられても、水槽に入れられたサンゴ礁魚のように殺し合うことはしない。だが、それは遠い祖先から受けついできた本能的な攻撃衝動が、反撥、敵意、憎しみ、嫌悪といった心理の領域に閉じこめられているにすぎず、また、その衝動が競争、その結果の順位、威信といった形で一応解消されているだけなのである。

 おなじことは国という単位についてもいえるし、それらの国々の集合体である地球そのものに関しても考えられよう。だからストーはこう警告するのだ。

 

 ――核兵器の発明以来、人々が彼ら自身や彼らの敵を絶滅することなしに競争し闘争する方法を見つけることが、今までより以上に必須なことになっている。

 

 では、どうしたらいいのか。人間の平均寿命は延び、世界の人口は急激にふくれあがって、すでに六十億を越えた。、巨大都市は急増しており、しかもその過密ぶりはもう限度を突破している。にもかかわらず、都市人口はふえつづけ、二十一世紀には二千万、三千万の都市がいくつも見られるようになるとの見通しだ。とすれば、人間の攻撃衝動は解消されるどころか、爆発寸前の危機状況にまで追いこまれることになろう。水槽はいまや満杯なのである。

 だれもがすぐ思いつくのは、そうした危険な攻撃衝動を理性的動物(ホモ・サピエンス)である人間の心のなかから追い出してしまおう、ということであろう。楽観的な人たちは、げんに教育、教化によって人間を優しい動物につくりかえることができると考えているようだ。

 だが、ローレンツはこう答える。

 

 ――わたしが理屈の上では可能だが到底推薦しがたいと思うのは、攻撃性を優生学的に滅ぼしてしまおうとする試みだ。種内攻撃性は人間の熱狂という反応の中にかくれている。これは危険なものにはちがいないが、最高の人間的目的を達するためには測り知れないほど役に立っている〈からである〉。(同前)

 

 最高の人間的目的とは何か。ローレンツによれば、人間の行為のきわめて重要な部分は、多かれ少なかれ攻撃性を動機としているのだという。したがって、人間から攻撃性という牙を抜きとってしまうと、ほとんどの努力、創造力、問題解決力、いや、そればかりか人にしか与えられていない大切な能力、「笑い」までが消え失せてしまうというのである。つまり、人間はそれこそ腑抜けになってしまうのだ。

 同じことをストーも強調している。彼はバートランド・ラッセルの所論を批判しつつ、こう述べている。

 

 ――われわれはすべて、バートランド・ラッセルの情熱的な戦争嫌いと、政治家に戦争の愚かさを説得する努力に共感するにちがいない。しかし、彼が欠乏と戦争の恐怖がなくなることで創造性が高まると考えたのは、たしかに単純素朴である。……ラッセルが心に描いている「栄光と喜び」の安全な世界では、創造力が栄えるよりもむしろ衰亡しそうである。(同前)

 

 しかし、誤解すべきではない。ローレンツにしても、ストーにしても、だから戦争はやむをえない、必要悪だ、といっているのではけっしてない。いずれの論者も、攻撃性というものが生存の基本構図であり、それを抹殺することは、同時に生存のエネルギーを喪失させることだと指摘しているのである。

 動物の場合には、その攻撃性による闘争が自然の秩序を保っている。つまり、抑制の仕組がちゃんと準備されている。動物の牙、肉食鳥の鋭い(くちばし)、これらはどれも強力な武器である。が、彼らはそれをけっしてむやみに使用しない。その武器に見合った抑制が働くからである。ところが――とローレンツは憂える。人間は武器をつぎつぎに開発することによって、そうした自然の秩序、本能的な抑制を破ってしまった、と。

 そこに現代の人間のこの上ない危機があるのである。それに加えて、逃げ場がないという地球の状況も危機にいっそうの拍車をかけている。広い海ではサンゴ礁魚は仲間を深追いして死に至らしめることは、けっしてない。縄ばりは他にいくらでも見つけることができるし、弱いほうは徹底的に逃げおおせるからである。しかし、いまや五十億を越えた地球上の人間社会は、まさしく水槽のようになってしまった。過密は攻撃衝動をいよいよ高め、しかも、べつの縄ばりをさがそうにも、さがしようがないのだ。人間はまったく逃げ場を失ってしまったのである。

 だとすれば、破滅を防ぐ唯一の手だてはほかに考えられない。ローレンツもストーも、異口同音に力説しているように、人間の攻撃性を他のもっと建設的なものへと転化させることである。フロイトの用語を使うなら攻撃心を「昇華(しょうか)」させることだ。そして、攻撃、闘争を、実りある競争へと変質させねばならないのである。芸術の創造へ、科学の探究へ、スポーツの振興へ、祭り、その他の儀式へ、その道はいくつも考えられよう。

 

 世界各地の古戦場にたたずんで、耳もとに鳴る風の音をききながら、私はあらためて劇場と競技場こそが戦跡となる日を夢みたのであった。空しさをかみしめつつ。

 

 

 あとがきにかえて――永遠の平和のために

 

 歴史には加速度がついている。二十世紀の後半から今世紀にかけて、その変化の速度はいよいよ増しているように思われる。世界史的な事件がつぎつぎに起こり、地球の様相はあっという間に変わってしまった。極言するなら、昨日の世界は、もう、今日の世界ではなくなっているのだ。

 それは科学技術の急激な発展と無関係ではあるまい。ことに、一瞬のうちに多量の情報が世界をかけめぐるようになれば、それと向かい合う人間の心性も、とうぜん変化する。すべてがつぎつぎに過去へ塗り込められていく状況のなかで、人びとは最早、過去を振り返る余裕すら失ってしまったかの観がある。それほど日々に刻まれる歴史の舞台は急転しつづけているのだ。降る雪をながめ「明治は遠くなりにけり」と述懐した俳人がいたが、いまや「きのうは遠くなりにけり」というのが偽らざる実感ではあるまいか。私自身、つくづくそう思う。

 

 戦争というものについての、この一連の省察を私が書き始めた一九八○年代の半ば、時計の針はたしか、一、二分前をさしていた。その「時計」とは、科学者たちが核戦争の危機を示すために、比喩的に設定した "警報装置" である。世界の情勢を分析し、現在、人類がどれほど危険な瀬戸際に追いつめられているか、それを「時計」であらわそうというわけである。

 人間は身近な脅威には敏感に反応するが、大局的な状況判断となると、意外に無頓着に見過ごしてしまう。だからその状況がだれにでも実感として受け取れるように、そのような「時計」が考案されたのだった。いまでは、それさえ遠い記憶となってしまったように思われるが、そのころ、地球はたしかに危機一髪の様相を呈していた。ある科学ジャーナリストは、核戦争による大量虐殺の危険が年ごとに高まっており、その危険を人類が一九九〇年までに回避しうるかどうかさえ、あやしくなっている、と警告していた(N・コールダー『核戦争の悪夢』)。

 一九八五年には法律家グループが組織した「核戦争に関する国際法廷」なるものがロンドンで開かれ、近年の兵器開発と戦略は「いつの日にか核戦争の発生を事実上、不可避としている」という暫定的結論をくだした。果たして人類は無事に二十一世紀を迎えることができるのだろうか、世紀末の気分が漂っていた当時、私は暗澹(あんたん)たる気分におちいらざるをえなかった。

 この狭い地球上で、なぜ、人間はたがいに助けあい、仲良く、平和に暮らしていけないのだろう。どうして人類は歴史を戦争という愚行で性懲(しょうこ)りもなく綴ってきたのか。この地上から戦争を永久に追放することはできないものか。おそらく、だれもが抱く素朴な、しかしそれだけに根源的な疑問を私はあらためて何度も胸中に問うた。そして、新しい世紀を迎えても、それに対する解答はとうてい得られないだろうという悲観的な思いを拭い去ることができなかった。

 じっさい、遠い昔から今日まで、この問題についての論議は数多く繰り返されてきた。そのなかには傾聴すべき答えがなかったわけではない。けれど、多くは期待をこめた、反省にすぎず、そのような反省をよそに、戦争は相も変わらず後を絶たなかった。そのあげく、いまなお私たちは戦争の脅威から逃れられずにいる。

 しかし、それだからこそ私たちは、戦争はなぜ起こるのか、人間に戦争という破壊行為をやめさせる決定的な策はあるのか、という問いを放棄するわけにはいかないのである。戦争を防ぐ唯一の手だては、つねにその問いを発しつづけること以外に考えられないからだ。とすれば、これまで、さんざん論じられてきたその問題をだれもが考え、その答えを試みる義務があろう。そう思って、私は本稿を書き始めたのであった。

「戦争」という怪物を退治するためには、この怪物が身につけているさまざまな性格や要素を、できるだけ多くの視点から、あらためてながめてみることが必要である。端的にいうなら、戦争とは何なのか、人間はなぜ戦争をするのか、それを繰り返し振り返ってみることだ。そこで、私は戦争の要因と思われるものを、ひとつひとつ取りあげ、歴史にその "臨床例" を求めて、私なりに解明を試みたのである。もし、なんらかのヒントを、たとえわずかなりとも、このなかから読みとっていただけるなら、私の目的はそれだけで充分果たされたことになろう。

 

 本稿を一冊にまとめた一九八八年からわずか十五年。この短時日のあいだにも世界は激変した。その画期をなしたのは、何といっても一九八九年であろう。東欧に民主化の嵐が吹きすさび、ベルリンを東西に分けていた「壁」が崩壊する。旧ソ連はそれ以前からゴルバチョフの登場によって体制が変質しつつあったが、これを機に一挙に瓦解した。激しく対立していた二大陣営の一方が "自滅" したのである。米ソ冷戦の時代はここに終わり、世界はアメリカ一極となる。

 ヨーロッパにも "地殻変動" が起こりつつあった。一九九二年、オランダのマーストリヒトで結ばれた条約により、長いあいだの夢であった欧州統合が一気に加速され、EU(ヨーロツパ連合)が結成されたのだ。その後、EUは拡大をつづけ、統一通貨ユーロが、いまやドルに対抗する基軸通貨の地位をうかがうまでになっている。

 こうした世界情勢の転機が、フランス革命からちょうど二百年目にあたっていたのも、私には象徴的な歴史的展開のように思われる。パリの民衆が武装蜂起してバスティーユ監獄を襲い、それをきっかけにフランス全土に騒乱が及んで、フランス革命が始まったのは二百年前の一七八九年だった。人権と民主主義を掲げたこの革命が国境を越え、ひろく世界に影響を及ぼして歴史の転換点になったことはいうまでもない。しかも、この年、独立を勝ち取ったアメリカ合衆国ではジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれているのだ。

 そのアメリカが、いまや、地球に君臨する「帝国」のような存在になりつつある。世界はかつてのパックス・ロマーナ(ローマによる平和)とおなじような、いや、それを地球規模に拡大した構図でパックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)をつくりだしている。グローバリゼーションという名のもとに押し進められているアメリカ的価値観の普遍化が、何よりその実情を雄弁に語っていよう。このような状況下では、戦争、同時に平和も、とうぜん変質していく。「平和」は「安全」と同義語になり、戦争はその安全を保障するための権利であり義務とさえ化したのである。

 あまりにも圧倒的軍事力を背景とした超大国が出現すれば、それに立ち向かおうとする「愚」を、あえて冒そうとする諸国の為政者はいない。表面的に異議を唱えることはできても、結局は同調せざるを得ない。となれば、戦争は国家対国家というこれまでの枠を外れ、新たに非国家的な組織へと移る。超大国の支配は、国際テロ集団という "見えない敵" をつくりだした。アメリカの旅客機を使ってニューヨークの貿易センタービルを直撃し、崩壊させた二〇〇一年の九・一一事件がその象徴であり、それへの報復としてアメリカが強行したアフガン、イラクに対する攻撃は、現代の戦争がいかなるものであるかを、テレビの、画像でまざまざと見せつけた。ここへきて戦争は性格を一変させた。そして、そのような新しい戦争を出現させたのも、米・ソという超大国が "恐怖の均衡" を保つために争って開発した核、ミサイルを初めとするハイテク兵器、大量破壊兵器だった。かくして世界はいよいよ、不気味な明日に向かって加速し始めている。二十一世紀は「恐怖の世紀」になろうとしているのだ。

 このような現実のなかで、多くの国は無力感におおわれているかに見える。いまさら何を論じても始まらない、といった風潮さえうかがえる。だが、私たちは、だからこそ、と考え直すべきであろう。いまいちど、戦争の、そして平和の実体を見きわめる必要がある、と。

 世界を変えたフランス革命が始まってから六年後の一七九五年、七十一歳になっていたドイツの哲学者カントは『永遠の平和のために』という著作を世に問うた。戦争に明け暮れていた当時のヨーロッパで「永遠の平和」を説くことは、およそ現実離れした夢想のように思われていたようだ。いや、世界が前記のような実情にある今日では、ますますそう思われているのではあるまいか。

 というわけで、カントは『永遠の平和のために』という著作のタイトルを初めから「諷刺的な標題」とことわっている。ただし、その諷刺が「人間そのものに対するものなのか、それとも、戦争に飽くことを知らぬ国の元首に向かってのものか、そんな甘い夢を見ている哲学者についてなのか」を読者の判断にゆだねているのであるが。そのうえで、カントは自分の意見がけっして机上の空論でないことを証するために、彼一流の厳密な論理で、歴史的、現実的、具体的にその可能性を検討し、提言していく。

 人間のありのままの姿というのは、平和ではなく、むしろ戦争状態である――カントはここから出発し、だからこそ人間はそのような自然の状態から脱して平和を求めるべきなのだ、と説く。そして、人間をそうしむけるのも、じつは「自然の意図」にほかならない、と考える。つまり、戦争とは自然が人間にくだした(むち)なのであり、それによって人間が、平和を希求し、その実現へ向かって努力するようにしむける「自然の摂理」だ、というのである。

 では、人間はそのために何をなすべきなのか。彼は具体的に九つの条項をあげて論じているが、その条項のなかには現代につながる重要な指摘がふくまれている。たとえば、「いかなる国も他の独立国を奪ってはならない」「どんな国も他国の体制や統治に対して暴力で干渉すべきではない」「常備軍は段階的に全廃すべきである」、そして、永遠の平和を確保するために「自由な諸国家の連合制度を設けるべきだ」といった提案である。諸国家の連合という提言は、のちの国際連盟、現在の国際連合の実現を予見したものといえよう。

 さらにカントは最終的に世界国家(世界の統一政府)を心に描いていたが、それは強大な一国の支配によって普遍化――現代ふうにいうならグローバル化――を押し進めることではなく、あくまで多様な国家の自由な連合であるべきことを強調している。そして、国家間の紛争解決にあたっては、絶対に戦争を手段としてはならない、と力説した。これなどは日本の平和憲法を予告しているといっていいだろう。

 

 カントの死後二百年。彼の平和論をよそに戦争は相変わらずつづき、二十世紀に至っては、二度にわたる世界大戦まで引きおこした。その後も「冷戦」が緊張を高め、ようやくそれをくぐり抜けて迎えた二十一世紀は、またもや「戦争の世紀」になろうとしている。カントの提唱した諸国連合が実現したかに思われた第一次大戦後の「国際連盟」は効なくして終わり、第二次大戦の反省から生まれた規在の「国際連合」も、いまや危機に瀕している。カントに代表される啓蒙的、理性的な平和理念は、「正義」を掲げて世界秩序の "保安官" を自任する超大国アメリカによって「古いヨーロッパ」と一蹴され、その圧倒的軍事力の前に、世界は同調するか、坐視するか、妥協をはかりつつ異議を申し立てるか、一挙にテロという蛮行に走るか、ほかにほとんどなす術を見出せぬ始末である。カントの言う「自然の鞭」はますますきびしくなっているのではあるまいか。

 そうであれば、なおのこと、私たちは「戦争」とは何か、「平和」とはいかなるものなのか、を問いつづける「義務」があろう。二十一世紀の運命をきりひらく新たな「意志」をもって。

   二○○三年 初夏   森本哲郎

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/08/25

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森本 哲郎

モリモト テツロウ
もりもと てつろう 評論家 1925年 東京に生まれる。

掲載作は、1988(昭和63)年11月に文藝春秋より刊行の『戦争と人間』に加筆修正された、2003(平成15)年7月刊「PHP文庫」版より、初章と終章および跋文を抄録した。

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