最初へ

殺意の造型(ヘア)

     1

 

 事件はもののはずみで起きた。中野区本町四丁目の、地下鉄新中野駅に近い理容店、『バーバー・ニューホープ』では、朝から客がたてこんでいた。

 昨日の月曜が店が休みだったせいもあるが、なによりも、店主の井沢松吉(いざわまつよし)が仕事熱心で、腕がよく、常に時代に即応したファッションを研究しているので、特に若い客から圧倒的な人気を集めている。

 店員たちにも腕のいいのを集めている。毎年開かれる全国理容技術選手権大会にも、激戦の地区予選を勝ち抜いて、常に選手を送っている。

 この業界で、仕事が雑な店を、タタキ、丁寧な所を、ナデツケと呼ぶが、その意味ではニューホープは店主の経営姿勢が全従業員に徹底して、きわめつきのナデツケであった。

 ところがその朝は、どうしたわけか、いきなり客の一人が悲鳴をあげた。

「痛っ、痛いよきみ、シャンプーが目に()みたよ。もう少し静かにやってくれたまえ」

「あっ、申しわけありません。つい、手に力が入りまして」

 インターンらしい若い理容師が、慌てて詫びた。ニューホープでは洗面台が少し離れた場所にあるために、洗髪の客にいちいち理容椅子から往復してもらわなければならない。

 井沢は、客が立たずに洗髪できるように、椅子の前に折りたためる「前流し式」の洗面設備を組み込もうと考えているが、工事に日数がかかるために、なかなか取りかかれないでいる。

「すぐお洗いいたしますから、どうぞ洗面台の方へ」

 理容師は恐縮して客の手を取った。

 客は頭にいっぱいシャンプーをつけたまま椅子から立ち上がった。目に沁みるとみえて、つむったままである。洗面台へ行く前に、あらかじめシャンプーを振りかけ、ひととおりマッサージをしておくのだが、若い理容師の手につい力が入りすぎて、シャンプーが客の目の中へ入ったのだ。

「こちらでございます」

 理容師は(なら)材のフローリングボード張りの(フロア)の上を客を誘導した。技術室の床の上にはいま刈ったばかりの客の髪が落ちている。それをインターンがこまめに掃き集めていく。

 その理容師の担当(アテンド)した客は、洗面台から最も遠い待合室寄りのいちばん端の椅子にいた。椅子は鏡の前に十台ほど並んでいて、全部(ふさ)がっていた。客がそのちょうど真中へんの椅子のあたりへ来たとき、足元が滑った。

 客は、大きな音をたてて床の上に転倒した。悲鳴は倒れた客からではなく、べつのところから発生した。

「た、大変だ!」

 悲鳴と同時にだれかが叫んだ。その声が動転している。客にアテンドしていた他の理容師や、待合室の客たちが、何事かと視線を集める。しかし彼らの注目したところは、倒れた客である。視点が誤っていた。

 転倒した客の最寄りの椅子を担当していた理容師が、「医者、医者を、呼んでくれ」とおろおろ声で叫んだので、ようやく彼らは視線の向きを変えて愕然とした。

 その理容師の白衣の胸のあたりが血飛沫(しぶき)で真赤に染まっている。ブルブル震える手に握られたレザーの刃も赤い。血の色は、白衣と強いコントラストをなして、ひときわ凄惨に映った。

 その場に居合せた人間は、ようやくなにが起ったのかを悟った。

 洗面台に向った客が転倒したはずみに、近くにいた理容師に突き当ったのである。折悪しくその理容師は、べつの客の顔のどこかをあたっていたために、いきなり加えられた不自然な外力に手元を狂わされて、レザーで客を傷つけてしまったのだ。

 血潮がポタポタと床の上にしたたり落ちた。よほど深く傷つけたらしい。

「傷口をタオルで押えて、早く救急車を呼ぶんだ!」

 店主の井沢が、動転している店員たちに向って、ようやく適切な指示を下した。

 はずみというものは恐ろしいものであった。救急病院へかつぎこまれたその客は、頸動脈(けいどうみゃく)を傷つけられていて、間もなく出血多量で死んでしまった。彼の血液型が特殊であったために輸血が間に合わなかったことも、不運であった。

 死んだ客は、中央区日本橋にある商品取引所仲買人、日邦商品株式会社、営業第三課長の仲谷正之(なかたにまさゆき)という男で、近くのマンションに住んでいる。会社ではなかなかの凄腕として定評があったが、久しぶりの休日に、ヒゲをあたりにやって来てこの奇禍(きか)に遭ったものである。

 仲谷には子供はなく、家族は銀座でもとホステスをやっていたという、十も年下の若い妻がいるだけである。

 仕事が忙しくて、つい妻を放っておくことが多いので、浮気をされないためにたまの休日には、精いっぱいサービスをするのだと、その朝もニューホープの店員に語っていた。

 細君がヒゲを痛がるので、サービスする前にあたりに来たのだと、上機嫌で言った直後に、理容師のカミソリが滑って、頸動脈を断ち切られてしまったのだ。

 病院から連絡を受けて駆けつけて来た仲谷夫人は、夫の変り果てた姿を見て、自分が殺されかかったような大形な悲鳴を上げて、夫の体にすがりついた。

 しかしだれを怨むこともできない。交通事故のように加害者の責任を追及することもできない。もののはずみで起きた事故であり、だれにも悪意はなかった。

 どこへも尻をもって行きようのない、夫人にとってはまことに不運としか言いようのない事故であった。

 

     2

 

「本当に悪意はなかったか?」

 ふと疑惑をもったのは、この事故を小耳にはさんだ所轄署の捜一係の宮下介山(みやしたかいざん)刑事である。古風な名前だが、だれも正確に呼ぶ者はいない。ほとんどの場合「スケさん」で通っている。

 彼は、客が滑って転んだはずみに、ぶつかった理容師の手が滑って、客の頸動脈を切ったということが、どうもうまくできすぎているようにおもったのだ。

「スケさん、なにを考えてるんだ?」

 同僚の犬塚(いぬづか)刑事がたずねた。

「なあワンちゃん、あのニューホープとかいう床屋の事件だがな」

 犬塚は、通称ワンちゃんで通っている。

「ああ、理容師の手が滑って、客が首を切られたとかいう」

 犬塚も、その事件を知っていた。「滑って転んだはずみに、あたっていた手が滑って切られた」という原因と結果の間にワンクッションもツークッションも置かれた特異な事故として、印象されていたのであろう。

「あの事件になにか臭いところでもあるのかい?」

 犬塚の顔が、宮下の方へ向けられた。

「いや、特に臭いというほどじゃないんだが、死んだ床屋の客の職業にちょっとひっかかるんだ」

「たしか株屋だったな」

「株屋じゃないよ。商品取引所の仲買人(ブローカー)だ」

「同じようなもんだろ」

「似てるようで、ちがうんだ」

「どうちがうんだい?」

「取引の対象が株ではなくて、小豆とか綿花とか乾繭(まゆ)などの一定の商品に限られるんだ。まあこういう商品を売ったり買ったりするわけだが、実物を取引するのではなく、売買契約だけ先に結んでおいて、現品の受け渡しは将来の一定のときに行なう。しかし我々一般の人間は直接売買できないので、ブローカーに必ず委託する。

 あとは株とだいたい同じ仕組で、各自の思惑で売ったり買ったりするわけだが、商品が対象だから、株のように自由譲渡性がない。値段が下ったからといって、小豆や綿花の現物を受け取って、株のように値上りするまで手元に暖めておくことができない。まあ株よりもはるかに危険な相場だとおもってまちがいない」

「詳しいんだな」

 強力犯専門の一係刑事にしては珍しい知識であった。

「ぼくの遠縁に、商品相場に手を出して素っ裸になってしまった人間がいるんでね」

「ははん、するとこの商品取引のブローカーという商売は、人から怨まれやすいってわけだな」

 さすがに犬塚はのみこみが早い。

「そうなんだ。死んだ仲谷は、なかなか凄腕のブローカーだったらしい。もし、床屋か、転んだ客が、仲谷にひっかかったことがあるとしたらどうだ?」

「スケさん!」

 犬塚の顔が緊張していた。彼にも宮下の考えていることがよくわかったのである。かりに転んだ客をAとし、理容師をBとするなら、ABどちらに殺意があっても、仲谷を殺すことは可能なのである。

 しかしもしこれが事故に見せかけた殺人であったとすれば、犯人の頭脳には並々ならぬものがある。

 Aは憎い仲谷を理容店で見出して、故意に転倒を装って、Bにぶつかった。あるいはBはかねがね仲谷を殺すチャンスをうかがっていたところ、折よくAが転倒してぶつかってくれた。そのときAからBの身体(からだ)に加えられた力は大したことはなかったが、いかにもそのはずみによってカミソリをもつ手が滑ったように、仲谷の頸動脈をブツリと断ち切った。

 このいずれの場合においても、犯人の故意を認定することは不可能である。

 AとBが共犯の場合は、さらに巧妙になる。

 ──うまく考えやがったな──

 二人の刑事は顔を見合せてうなずき合った。彼らの鋭敏な嗅覚(きゅうかく)は、このなにげない事故に犯罪の臭いをしきりに嗅いでいたのである。

「ひとつ転んだ客と、床屋を洗ってみようとおもうんだが」

「スケさん、おれも手伝うよ」

 ちょうど担当している事件のなかったことが、彼らの行動を機敏にした。

 

     3

 

 捜査の結果、意外な事実がわかった。それはA、つまり滑って転んだ客の妻が、仲谷の誇大勧誘にひっかかって、夫に内証で三百万円相当の株券や社債を渡していた。元金を全部巻き上げられたうえに、百万円近い赤字負債を請求されたために、夫に言うに言われず、おもいあまってガス自殺を試み、未遂に終った事実が浮かんできたのである。しかも住居が仲谷と同じマンションの中であった。

 Aの名前は岡村重男(おかむらしげお)、職業はDデパートの家具売場のカウンター係長である。年齢は三十五で、死んだ仲谷とほぼ同年輩であった。いかにも実直そうな男である。

 刑事が任意の取調べに行くと、彼は悪びれずに、

「やはり、お見えになりましたね。私も、もののはずみとは言え、死んだのが仲谷と知って疑われてもしかたがないとおもいましたよ。実際、私は、あいつを殺してもあきたりないくらいにおもっていました。死んだのは、天罰です。少しも可哀想だとはおもっていません。しかしあれはあくまでももののはずみです。だいいち私は仲谷があのとき、同じ店に理髪に来ていることも知らなかったのですから。仲谷があの椅子に寝そべって、ヒゲをあたっていたなんて、夢にもおもいません。本当に偶然です。だから天罰だと言うんです」

 岡村は予期していたとおりのことを言った。ベテランの接客業者として言葉づかいはていねいだが、多年一つの仕事ひとすじにたたき上げてきた人間の芯の強さが感じられた。これ以上、無理押ししても、なにも得られないことがわかった。

 同じころ、犬塚刑事はニューホープの理容師、深尾順造(ふかおじゅんぞう)の身辺を当っていた。だが深尾と仲谷の間にはいかなるつながりもなかった。

 強いてつながりと言えば、仲谷が深尾の理容技術を気に入り、必ず彼を指名したことである。もっともそれは仲谷だけのことではない。深尾はニューホープでも、ピカ一の存在で、全国理容技術選手権大会に毎年出場して、総合各部において上位入賞している腕の持ち主である。

 深尾の夢は総合チャンピオンを獲得することにあった。それだけに彼を指名する客は多いのである。

 要するに、仲谷と深尾は『頭の毛だけのつながり』であった。

 しかし犬塚は未練げに、岡村が転倒して、深尾にぶつかったときの様子を詳しく聞いた。

「刑事さん、なにか疑ってるんですか?」

 まだ二十代の若い理容師は、感情を隠さなかった。いかにも自分の腕に誇りをもった生一本の性格に見える。

「あのことではもうさんざん取調べを受けましたよ。もういいかげんにかんべんしてください。本当に避けようがなかったんです。ここでこうやって仲谷さんの喉をあたっているときに、レザーを握った腕に、凄い力でぶつかってこられたんですから」

 ちょうど店に客が絶えたときで、彼はそのときの様子を実演してみせながら、憤懣(ふんまん)やるかたない口調でまくしたてた。彼にとっては、まことに災難としか言いようのない事件であったろう。こんなことで、輝かしい実績に汚点をつけられてはたまらない。早く忘れたいと願っているときに、またぞろ刑事がやって来て、根掘り葉掘り聞くものだから、つい感情を()きだしにするのも無理はなかった。

「べつになにを疑ってるわけではありません。とにかく一人の人間が死んでいるので、できるだけ詳しく前後の状況を調べているのです。ごめいわくはわかりますが、協力してください」

 犬塚はできるだけ下手にでた。結局、深尾には怪しいところはなにもなかった。彼が仲谷に怨みを含むような事情は、いっさい発見されなかった。

 深尾に過失もない。仲谷の頸動脈に加えられた切断力は、彼の意志でもなければ過失でもない。突然、外部から加えられた力を、“伝導”しただけにすぎない。

 それはまったく物理的な力であって、そこに法的な責任を見つけることはできなかった。目撃者の証言や、現場における関係者の位置にも、不審の点はなかった。

 宮下は次に、岡村の妻を当ることにした。彼女は自殺未遂を起こしてから、子供を連れて、神奈川県のM市にある実家(さと)に帰っていた。体の療養の意味もあったが、そんな事件を起こしてしまったので、岡村といっしょにいるのが辛くなったのであろう。

 岡村の妻の静枝は、体の芯を抜き取られたような生気のない表情をしていた。いまだに事件のショックから立ち直れないでいる様子である。ガスの後遺症も残っているらしい。

「死んだのが、仲谷だと知ったとき、正直に言うと、主人が()ったのかとおもいました。でもよく考えると、主人はとても、人を殺せるような人間ではないのです。一口に言うならば、勤めと貯金だけしか興味のない人なのです。小さな旅行に出かけるにも、入念に予定をたてて、それでも旅館は本当に取れたのか、汽車は不通になっていないかなどとおっかなびっくりに出かけて行きます。理髪店でたまたま仲谷を見かけて、カッとなって行動を起こすような人では、絶対にありません。それくらいなら、その前にも仲谷と何度も出会ったことがあるのですから、そのときになにかしたはずです」

 静枝は、夫を性格の上から弁護した。しかしそれは妻が夫を庇うという様子ではなく、あんな男に大それた殺人などできるはずがないという軽蔑がこめられていた。

 岡村夫婦は、仲谷から単に財産を巻き上げられただけではなく、夫婦の愛情も壊されたのである。

「奥さんが仲谷から受けた被害を、詳しく話してもらえませんか」

 宮下は、そろりとさぐりの歩を進めた。

「どうせ調べればわかることですからお話ししますわ。あの手合いの悪辣(あくらつ)な方法を少しでも大勢の人に話して、同じような被害にかからないようにするためにも──」

 静枝は、改めて騙された怒りをおもいだしたように、表情をひきしめて、語りはじめた。それによると──

 仲谷が初めて岡村の家を訪れたのは、八ヵ月ほど前のことである。そのとき岡村は勤めに出て留守であり、応接したのは、静枝だった。後にしておもえば、仲谷は故意に岡村の留守を狙ってやって来たらしい。

 家が同じマンションにあって、顔は知っていたので、むげに追い返すわけにもいかない。家の中に入れたのが、不運のはじまりであった。

「奥さんにとてもいいお話をもってまいりました」

 仲谷はにこやかに言って、美麗なパンフレットを差し出した。そこには「財産を()やす法」とか、「コンピューター時代にマッチした最高の利殖法」などと、麗々しく刷られている。

「なんでしょう、これは?」

 と静枝が不審のおももちで目を上げると、仲谷は顔が触れ合うばかりに身を乗りだして、商品取引について熱心に説明をした。

「ね、奥さん、これでおわかりいただけたでしょう。商品取引がどんなに儲かるかということが。まず月三割は絶対ですよ。まさにこれこそ、現代感覚にピタリの高能率利殖法です。しかも元本保証も同様ですから、安全です。奥様方にも安心して投資していただけるのです」

 静枝が仲谷の熱弁に圧倒されて黙っていると、彼はますます、かさにかかって、

「二階の小林さんの奥さん、いまヨーロッパ旅行をされてるでしょう。実はあの費用も私がお勧めした相場で儲けたものなんです。それから、六階の清水さん、車を買われたでしょう。あの人も私に一任してしこたま儲けたんですよ。その他このマンションの中にも宝船に乗った方が大勢おります。ご主人のお留守の間に財産が二倍にも三倍にもなってしまう。

 普通甘い話にはインチキが多いのですが、私どもの会社はこのパンフレットにもありますように、日本橋にこんな大きな本社ビルを構えております。全国にも支店網をめぐらせています。絶対倒産するようなことはありませんし、常にお客様の身になって最高の利殖を手がけております」

 中谷がもう一度改めて静枝の手に押しつけたパンフレットには、いかにも近代的な高層ビルが、美しい彩色を施されて刷りこまれている。

「どうです、奥さん。ひとつ私を信用なさって、投資してみませんか。ご近所のよしみに私も奮発して、大いに儲けさせてあげますよ」

 仲谷のあまりの熱弁に、静枝がつい、「どのくらいのお金が要りますの?」と聞いたのがいけなかった。

 そのような質問をすることは、すでに自ら外堀を埋めたようなものである。仲谷はここぞとばかり、

「べつに現金でなくともよろしいのです。株券などの有価証券でもけっこうですよ。どこのお宅でも、なかなかキャッシュは遊ばせておりませんからね。株券を使えば、株と合わせて二重の利殖が図れます。いまどき、どこのお宅でも株の五十万や百万はありますからねえ」

「株なら三百万ほどありますけど」

 静枝はうっかり口をすべらせた。株のない家は、いかにも水準以下の生活をしているかのような仲谷の誘導に、見栄を張りやすい女心が乗せられてしまったのである。

 現金でもっていると、貨幣価値が下って損をするばかりなので、利回りのいい株や社債に、預金の大部分を最近、換えたばかりであった。

 それだけ貯めるのに、十年ほどかかったのである。サラリーマンの給料の中から、いちおうの生活をした後に、貯金をしていくのは、驚くほど時間がかかるものである。この三百万には岡村夫婦の汗と忍耐がこめられていた。

「ああそれだけあったら、たちまち一千万になりますよ。まず一年、早ければ半年で、一千万円もってきてあげましょう」

「半年で!」

 静枝は目をみはった。三百万貯めるのに十年かかったのだ。それが七百万を半年から一年で殖やせるという。夢のような話だった。

「嘘じゃありませんよ。雪ダルマと同じ理屈で、元が大きくなればなるほど体積(かさ)の増えるのが早いのです。特にいま相場が上げに入ってますから、チャンスですよ。最初は値動きの少ない人絹からはじめれば、手がたいでしょう。どうです、奥さん、私を信用して、ちょっと株券を預けてみませんか。大丈夫です。絶対に悪いようにはいたしません。こんなことはまずないでしょうが、最悪の場合も、私が元本は保証しますよ。課長の私が会杜の名にかけて保証するのですから、絶対に安全です。奥さんのような美しい隣人の信用を失いたくありませんからね」

 仲谷は、熱心に勧誘すると同時に、静枝の女心を巧妙にくすぐった。

「──そのとき仲谷があまりしつこく勧めるので、つい三十万円相当の株券を担保として渡してしまったのです。それが私の地獄への入会金になってしまいましたわ」

 静枝の頬がわずかに紅潮した、自分のあさはかさを恥じたのか、あるいは仲谷に対する怒りをよみがえらせたのであろうか。

「一週間すると仲谷はまた訪れて来て、あの三十万で人絹を買ったが、今度は少し大きく儲けるためにカンケンをやってみないかと言いました」

「カンケン?」

乾繭(まゆ)のことです。私はこの前、マユは値動きが激しいと聞いたばかりなので、急に不安になって、そんなに大きく利を抜く必要はないから止めたいと言うと、仲谷はいま止めたら乗りかかった宝船から下りるようなものだ。せっかく足をかけたのだから、もう少し欲をだして大きく儲けろと食い下ってきました。前回、夫に内証で株券を渡しており、そろそろ夫の帰宅時間も迫っていたので、仲谷の要求どおり、さらに五十万円分の株券を渡しました。それから先はおきまりの転落コースです。仲谷は最初三十万ほど儲かったと言ってきましたが、間もなく、相場が少し下って来たので、こういう場合はさらに買い下っておくと、難平(ナンピン)と言って損失が少なくなるからとさらに金を出すように要求しました。

 私は今度こそ恐くなって、少しぐらいの損をだしてもがまんするから、もう清算したいと言いますと、急に仲谷は態度を変えて、いまさら止められたら、私の立場がない。絶対に大丈夫だから自分に一任してくれと、まるで脅迫するように言うのです。彼は私が主人に内証で株を出した足元につけこんでいました。このようにして、結局、私はわずか二ヵ月あまりのうちに三百万円の株券を全部仲谷に吸い取られてしまったのです。

 それでも相場は下る一方で、追い証という証拠金の追加を次々に上乗せされて、ついに百万近い赤字を出してしまいました。私はもうどうしていいかわからず、仲谷の会社へ訴えに行きましたが、相手にされませんでした。べつに彼のやったことは詐欺ではなく、すべてを一任されて売買したのであるから、損をしたからといって彼に責任はない。むしろ追い証の赤字を払わないと、私のほうが訴えられるぞと逆におどされる始末です。

 私はべつになにも悪いことをしたわけでもないのに、仲谷はそれからますます強圧的になって、主人に知られたくなかったら、いまのうちに穴を埋めておくことだ、なにあのくらいの損は、相場が盛り返せばすぐに取り返せると言って、私の指環やらネツクレスなども取っていってしまいました。

 しかし傷は大きくなるばかりで、主人に言うに言われず、おもいあまってとうとう私は、自殺をしようとしたのです。仲谷には、あれ以来会っておりません」

 静枝は、長い告白を終った。話し終えるころには、また以前の感情の脱けた無気力な顔に戻っていた。

「静枝さん、もう一つだけ、いやなことをうかがいますが、仲谷はあなたの身体を(もと)めなかったですか?」

 宮下がおもいきってたずねると、静枝は自棄的な笑いをもらしながら、

「ご想像に任せますわ」と答えて、

「でもこれだけは申し上げられるとおもいます。私が仲谷に犯されようが犯されまいが、岡村にはもう関係のないことなのです」

「それはどういうことですか?」

「私たちは間もなく離婚するでしょう。岡村の心はとうに私から離れていました。彼は会杜のエレベーターガールとずっと前からデキていたのです」

 それは初耳であった。もしそうだとすれば、岡村の仲谷に対する動機はかなりうすめられる。

「その……岡村さんとエレベーターガールとの関係は、いつごろからのものですか?」

「正確なところはわかりませんけど、だいたい一年ぐらい前から素振りがおかしくなりましたから、そのころからだとおもいます」

 一年来の関係だとすれば、岡村が仲谷をもののはずみで刺したことの中に、「妻を奪われた?」怨みの入る余地はなかったであろう。

 

     4

 

 静枝のもとを辞して、電車に乗ると、にわかに疲労が発した。それは徒労感と言ってもよかった。

「なあワンちゃん、どうおもう?」

 空席がないまま、吊皮にぶら下って、宮下はイキの合った同僚に聞いた。坐れないので、余計に疲れが助長される。

「うん、どうも岡村を犯人にするのは無理のようだね」

 犬塚もガックリした顔をしていた。

「やっぱり事故だったのか」

「まあ女房が騙されて、財産を残らず(むし)り取られてしまったんだからいちおうの動機はある。しかし故意を証明することは不可能だよ。それに岡村はとっくに新しい女ができていたんだから、女房の(あだ)を討つ必要はないんだ」

「十年間爪に火をともすようにして貯めた虎の子を取られちゃったんだぜ」

「だからと言って、それがすぐに殺人に結びつくとはかぎらないだろう。人を殺すという決意は、並大抵のものじゃない。それにな、改めて考えてみると、岡村の計画的行為とするには、他にも無理があるんだ」

「どんな無理が?」

「調べたところによると、床屋には岡村のほうが二十分ほど早く来てるんだ」

「…………」

「彼は仲谷が後から床屋へ来ることを知らなかったはずだ」

「仲谷が入って来たのを見て、急に殺意を起こしたんじゃないのか?」

「ニューホープの店内を見ると、岡村の椅子が入口からいちばん離れた場所にあり、仲谷の椅子は真中へんだ。岡村のところから仲谷の入って来る姿は見えない」

「洗髪に立ったとき、仲谷を見つけたとしたら?」

「それが見えないんだ。あのときの関係者の位置を確かめてみると、理容師は岡村に背を向けて、仲谷のヒゲをあたっていたそうだ。つまり、仲谷の顔は理容師のかげに隠れて見えない」

「鏡に映ったということは?」

「その可能性はほとんどないね。いいか、床屋でヒゲをあたるときは、全身をシーツで被われて、顔はクリームの泡だらけにされる。椅子は水平に伸ばされるので、客の顔は、鏡に最も映りにくい角度になる。一方、洗面台へ向かう岡村も頭をシャンプーだらけにされている。そんな人間がまわりをキョロキョロ見まわしながら歩いて、ふと憎い人物の面影の断片を鏡の端に認めて、一瞬の間に殺意をかため、あの巧妙なワンクッションおいた殺人の実行ができるとおもうかい」

「…………」

「巧妙な犯罪であればあるほど、相手をよく確かめてからするものだ。もしあれがハプニングの殺意だとすれば、人まちがいをする危険が大きい。計画的な犯行だとするには、岡村のほうが先にニューホープヘ来たことがうなずけない。かりに何らかの方法で、あの日仲谷が散髪に来ることを知っていたとしても、岡村が洗髪に立つとき、仲谷がヒゲを剃っているとはかぎらないんだ。もしバリカンで頭を刈っているところであれば、どんなにはずみで強くぶつかっても、喉を切るわけにはいくまい」

 犬塚に理論的に問い詰められて、宮下は反駁に窮した。

「かりに、仲谷をあたっていた理容師が共犯だとしても、この無理を克服できないんだ。ニューホープでは、手順(コース)が散髪──洗髪──ヒゲ剃り──仕上げになっているそうだが、岡村のほうのコースまで支配できないからな。共犯が仲谷のヒゲを剃っているとき、岡村がうまい具合に洗髪に立ってくれるという保証はない」

「ワンちゃん、ちょっと待ってくれ」

 黙って犬塚の言葉を聞いていた宮下が急に大きな声をだした。周囲の乗客がびっくりした目を向ける。

「ニューホープの散髪の手順は、最初が散髪で、次が洗髪、そしてヒゲ剃りだったな」

「うん、それがどうかしたかい?」

「ニューホープには岡村のほうが二十分先に行ったんだろう?」

「そうだ」

「すると岡村の手順がおかしなことにならないか。岡村が先なら、後から来た仲谷は、散髪か、あるいは同じ洗髪にかかる段階で、ヒゲを剃っているはずがないだろう」

「あ、そうか!」

 犬塚もここで重大な矛盾に気がついた。

「考えられるのは、仲谷にあたった理容師が仕事が早くて、岡村を追い抜いたか、あるいは岡村の理容師が故意に遅れさせたかのどちらかだ」

「スケさん、それは重大な発見だぞ」

 犬塚も、ようやく宮下の言葉の示唆する意味の重大さを悟った。かりに仲谷の理容師が故意に手順を速めても、ヒゲ剃りのとき岡村がうまいこと洗髪に立って転倒してくれる保証はまったくない。

 それに反して、岡村の理容師が手順に加えた作為は、行為に大きな主導性をあたえるのだ。ここで注目しなければならないことは、その理容師が、岡村を洗面台へ誘導したという事実である。

 彼は、仲谷側の手順とにらみ合せて、自分の手順を操作し、仲谷がヒゲ剃りに入ったときに、岡村を洗面台へ連れて行く。そして仲谷のそばへ来たとき、岡村にちょっとした力を加えて転倒させることができたかもしれないのだ。ここに「第三の容疑者」が登場したのである。

 いままで、仲谷に直接、間接の打撃を加えた理容師と、岡村の二人に注意を吸いつけられていたが、岡村に付いた理容師も、大いに怪しい位置にいる。むしろ彼が、最も自然にこの「もののはずみ」を作為的に引き起こせる位置にいたのである。

「岡村の理容師も調べる必要があるな」

 二人の刑事は、長い模索の末にようやくはっきりした道を見つけたような顔をした。げんきんなもので、もう疲労感はどこにもなかった。

 

     5

 

 岡村に付いた理容師は国家試験を通って、免許を取ったばかりの沢本義也(さわもとよしや)という男であった。手順に関する疑問は、店主の井沢が、普通は散髪(カッティング)──洗髪(シャンプー)──ヒゲ剃り(シェービング)──仕上げ(フィニッシュ)の順で行なうが、各椅子の進行状況や洗面台の回転をにらみ合わせて、シャンプーとシェービングの順序を逆転することもあるということであった。

 しかしこのことによって、沢本の疑惑は少しも薄れない。彼の計算によって、手順を逆にして、仲谷のヒゲ剃りに岡村の洗髪を合わすことができるからである。

 二人の刑事は密かに沢本の身辺を洗った。そして驚くべき事実をつかんだのである。

 沢本と、死んだ仲谷の妻、あけみとは、関係があった。仲谷家の隣に住んでいる金棒引き夫人から聞きだしたことであるが、沢本が、仲谷の留守宅へ何度か忍びこんで来たのを目撃したということである。ニューホープの定休日は月曜日だ。金棒引き夫人が沢本を見た日は、すべて月曜日であった。

 さらに当日、沢本が岡村の目にシャンプーを入れてしまった事実が浮かんだ。つまり岡村は突然視力を失なっていたのだ。

 沢本が故意にシャンプーを岡村の目に入れて、視力を奪い、仲谷のそばで突き倒したという疑いはさらに濃くなったのである。

 沢本はニューホープの近くのアパートに間借りしている。店の終業後訪ねて行くと、刑事の姿を見ただけで沢本は青くなって、震えはじめた。

「仲谷夫人と関係があったことを認めるな」

 宮下が言うと、沢本は泣きだした。

「泣くことはない。関係があったんだろ」

 沢本の態度を見れば、その答えはすでに必要がない。

「すると、おまえが故意にやったのか?」

「故意に、何をですか?」

 沢本は体を震わせながらも怪訝(けげん)なおももちをした。

「故意に岡村の目にシャンプーを入れて仲谷のそばへ誘導して、突き倒した……」

「け、刑事さん」

 沢本はあえいだ。あまり途方もないことを言いだされたので、言葉がつづかないといった様子である。蒼白の頬に血の色がさしてきた。

「そ、そんな疑いで来たのですか?」

「なんの疑いで来たとおもったんだ」

「ぼくは仲谷さんの奥さんとのことで、訴えられたのかとおもって……ぼくはいつも奥さんから脅迫されていたんです。いま関係を止めれば、ぼくから強姦されたと訴えてやるって。仲谷さんが亡くなられたので、しばらく奥さんのところへ行くのを控えていたものですから、てっきり訴えられたとおもったんです」

 問答を重ねているうちに、宮下と犬塚は次第に気抜けしてきた。沢本は、長い間つづけた情事の後に、強姦が成立すると本気で考えていた様子である。

 しかも女から脅迫されながら戦々兢々と情事を重ねてきて、刑事の姿にそれが()れたかと全身で震え上がるような男が、巧妙な完全犯罪を行なえるものかはなはだ疑問におもえてきたのである。

「あのとき仲谷のほうが遅く店に来ていながら岡村の手順が遅くなったのは、故意にきみが仕事を遅くしたからではないのかね?」

 宮下はやや語調を柔らげて誘導した。この手順の謎が説明されないかぎり、沢本の容疑は、完全に消えたことにならない。行為の主導権は、あくまでも彼が握っている。

 後から来店した仲谷の姿に、沢本は故意に岡村の手順を遅らせる。彼の操作いかんで、いくらでも『仲谷のヒゲ剃り』に『岡村の洗髪』を合わせることができるのだ。

 それを合わせることのできる人間が、この巧妙な犯罪(とはまだ確定していないが)の主体になれるのである。

「私は遅くなんかしませんよ。だいたい、カッティングから仕上げ(フィニッシュ)まで、一時間で、あんまり変わるものじゃありません。(タタキ)にやる気ならいくらでも早くやれますけど、うちは評判のナデツケですから」

 沢本は、刑事が手順のことを聞いた意味がよくわからないらしい。だから答えが矛盾している。

「ナデツケなら、いくらでも遅くできるんじゃあないのかね?」

 宮下が早速その矛盾を指摘した。指摘しながらも彼は、沢本の鈍さに容疑をほとんど捨てかけている。

「そんなに遅れさせることはできませんよ。特にカッティングやシャンプーの時間なんて、だれがやってもだいたいきまってますからね。長髪のお客の中には、ものすごくうるさい人がいて、時間を食うことがありますが、岡村さんはごく普通のスタンダード・カットであまりうるさいことを言わない方でしたから」

「それでは、どうして、きみが岡村を洗髪するとき、遅れて来た仲谷がヒゲを剃っていたのかね?」

「ああ、それは、仲谷さんが、いきなりシェービングからはじめたからですよ」

「シェービングから? 最初からヒゲを剃ることがあるのかい?」

 宮下の目に怪訝の色がこもった。

 理髪をする場合、どこの店でも、まずカッティングからはじめるのが普通である。

 二人の刑事も、最初にヒゲを剃られた経験はなかった。

「ヒゲ剃りだけにいらしたんですよ」

 沢本はこともなげに答えた。なるほどヒゲ剃りだけに来たのなら、遅く来た仲谷が、岡村の手順を追い越したわけも納得できる。

 ヒゲなど自分で剃ればよいとおもうが、おしゃれな人間や、無精者は、理容店で剃ってもらうのであろう。沢本はシェービングだけの客もけっこう多いのだとつけ加えた。

「結局、無駄骨だったな」

 刑事はがっくりして、沢本の家を出た。念のために岡村が転倒したときだれかに突き飛ばされたようなことはなかったかとたずねたが、彼はきっぱりとそのようなことはないと答えた。

「理容店客頸動脈切断事件」は、やはりもののはずみであった。そのはずみに犯罪の臭いを嗅いで、宮下たちは動きまわったのであるが、結局徒労でしかなかった。

 調査するうちに関係者の間に複雑なつながりが浮かび上るにおよんで、一時は緊張したが、それも偶然であったのだ。

 そのうちに管轄区域内で、暴力団同士の殺傷事件が発生した。刑事は釈然としない気持のまま、本来の捜査に携わらざるを得なかった。

 

     6

 

 例の事件から半年たった。宮下はあの事件で何度かニューホープに通ううちに、いつの間にかその店の固定客になってしまった。

 髪型(ヘア・ファッション)にうきみをやつす年齢はすぎていたし、もともと、おしゃれには無関心なほうだったが、ニューホープの清潔なところが気に入ったのである。

 ニューホープヘ行っても、特に指名するわけではない。要するにさっぱり刈ってくれればだれでもよかったのだが、沢本にしてみれば、自分を探りに来ているものとおもったらしい。間もなくべつの店へ替ってしまった。あるいは心に(やま)しいところがあって、逃げ出したと意地悪く考えられないでもなかったが、さすがに沢本の移転先まで追及して行くことは控えた。

 刑事とは言え、そこまでやるのは行過ぎである。もともと犯罪の疑いはきわめてうすいのである。

 半年後、深尾順造が全国大会で総合チャンピオンになった。

 これは「ファッションと繁栄への挑戦」をテーマに、全国地区予選を勝ち抜いてきたえり抜きの出場選手八十九名に、第一部デザインパーマ、第二部メンズ・ファッションウイッグ、第三部ヘアダイと各部門別に技を競わせ、各部門上位入賞者十二名の中から、トータル・ファッションの最終審査を行なって、最高点を得た者にあたえられる、文字どおり『日本一の理容師』の栄冠である。

 このためニューホープでは、一日臨時休業をして、深尾のチャンピオン獲得を祝った。

 この話を宮下は犬塚にした。

「大したものらしいよ。パリヘ招待された上に、賞金が五十万円出て、トロフィだの優勝カップがもらえるということだよ。これからはもったいなくて、うっかりヒゲもあたってもらえない」

「我々にはチャンピオンは必要ないよ。きれいさっぱり髪を刈ってくれれば、だれだっていいんだ」

「そんなことを言うと、理容師(とこや)が怒るぞ」

「どうせ髪の毛なんてすぐにのびちゃうんだから、だれに刈ってもらったって、同じだよ」

「髪の毛なんて言うなよ。ヘア・ファッションて言うそうだ。最近の理容は、単なる散髪の域から脱して、芸術になっているそうだ」

「芸術ねえ」

 宮下は犬塚と雑談しながら、深尾順造の、いかにも自意識の強そうな顔をおもいだした。あれはまさしく“芸術家”の顔だとおもった。

 作品が他人の髪の上に造型されるという特殊性はあっても、絵や音楽や彫刻のように、自分なりの美を表現したことには、変りないのだ。

 このときふと宮下の目が光った。

「おい、ワンちゃん!」

「どうかしたのか?」

 犬塚は、あまり興味のない目を向けた。要するにだれがチャンピオンになろうと関係のない世界の出来事なのである。いたずらに徒労の苦い記憶しかない事件は、早く忘れるにこしたことはない。

「仲谷はヒゲだけをあたってもらいに、ニューホープヘ行って、チャンピオンの深尾を指名したというのか?」

「あ、そうか」

 犬塚もようやく、宮下の指摘した矛盾に気がついた。そのときには、まだチャンピオンではなかったにしても、それほどの腕をもつ深尾をわざわざヒゲ剃りだけのために指名したのはおかしいとおもったのだ。

「しかし、自分の顧客だったら、たとえヒゲ剃りでも自分で担当するんじゃないのか」

「まあそうかもしれないが、床屋の見習いのことを“下ゾリ”と呼ぶように、ヒゲ剃りだけのためにわざわざチャンピオンを指名したというのは、不自然だとおもわないか」

「しかしなあスケさん、たとえそれが不自然だとしても、どうにもならないだろう。たとえヒゲ剃りだろうと、フケ取りだろうと、客から要求されればやるだろうし、もし深尾に仲谷に対する殺意があったとしても、どうやってそれを証明するんだ。だいいち深尾には動機がまったくないんだぜ」

「そう言われると、一言もないんだが……」

「なあスケさん」

 ここで犬塚は少し身を乗りだして、

「もうあの事件は忘れろよ。あんたは少しあの事件にこだわりすぎるぞ。あのことはもう終ったんだ。もののはずみだよ。それ以外のなにものでもない。忘れるんだ。おれたちには、もっと重大な事件がいくらでもある」

 犬塚は終止符を打つように言った。だがそれは、自分自身の宙ぶらりんの気持に対して打ったピリオドでもあることが、多年コンビを組んで働いた宮下にはよくわかった。

 チャンピオンを取ると間もなく、深尾はニューホープを辞めて、銀座の一流理容店へ移った。高給でスカウトされたということである。

「せっかくチャンピオンを出したのに、よそへ行かれてしまってはなんにもならないね」

 宮下は久しぶりにニューホープヘ来て、店主の井沢に調髪してもらいながら言った。

「いや、深尾のためには、そのほうがいいんですよ」

 井沢は、達観した口調で、

「腕を磨くには、所詮うちの店では限度がありますからね。チャンピオンを出したということだけで、店の名誉になります」

「そうは言っても、せっかく育てたものをね」

「なあにまた新しいチャンピオンを育てまさあ。深尾には一途なところがありましてね、たとえチャンピオンにならなくとも、うちの店では無理でした。ここではあいつが可哀想だ」

「それはどういうわけかね?」

 店主の言葉に微妙な含みがあるように聞こえたので、宮下はたずねた。

「深尾は自分が仕上げたヘアにホレこむところがありました。またそうであったからチャンピオンになれたんだとおもいますがね。自分が造り上げた作品を自分のものだとおもいこんでしまう。それがお客さんの頭の上にあるということを忘れてしまうんです。彼にとって、ヘアはお客の頭から離れて、一つの独立した作品に見えるんですな。だから、自分でも会心の作だとおもうようなヘアができると、お客さんにくどいほど、そのヘアを大切にしてくれという。おしゃれのお客にそのような会心作ができれば、理容師の言うとおり大切にしてくれるんですが、調髪だけに来たお客にとっては、ただうるさいだけなんです」

「髪なんて、すぐにのびてしまうし、風呂で洗えばどんなカッコイイ髪もそれまでだからな」

「そうなんですよ。だからあっしは理容をゲージツと考えちゃいけないと若い者に言うんですよ。多少ゲージツ的なところがあったとしても、音楽や絵とはちがう。ゲージツのように内から井戸水のように湧きだして創ったものではなくって、お客の注文によって造るんだということを忘れるなってね。ところが、深尾はちがうふうに考えていた。ヘアもゲージツだと言うんです。ヘアそれ自体に心があるとか、人格があるとか、難しいことを言って、気に入ったヘアが仕上がると、お客にそのヘアを壊さないようにいちいち注文をつける。

 だから自分の創ったヘアが乱暴にされているのを見ると、ひどく怒りましたよ。ゲージツのボークだってね、しかしそんなこと言ったって、このへんの客にはわかりゃしません。このへんでは客はヘアをデザインに来るのではなくて、カットに来るんです。

 だから銀座のほうがいいんですよ。なんてったってあすこは、日本のモードの中心だ。客もヘアのゲージツ性を認めてくれまさあ」

 井沢の言葉を聞いている間に、宮下の頭の中で発酵してくるものがあった。

「親父さん」

 彼はその発酵度を確かめるべく、井沢に(たず)ねた。

「深尾が、死んだ仲谷という客に、その芸術的な作品を創ったことがあったかね」

「ああ、そう言えば……」

 店主はなにかをおもいだした目をした。

「あの仲谷さんの頭の鉢は、深尾の気に入りの形でしてね、よくいい作品ができたと言ってましたよ。いい作品というものは、モデルが大切でしてね、モデルが悪いと、どんなに腕がよくとも、いい作品はできないんですよ。そう言えば、深尾は、旦那の頭の形もいいと言ってましたな。一度やってみたいと言ってましたが、まさか警察の旦那にパーマをかけたり、毛を染めたりするわけにはいきませんからな」

「ところで、仲谷は深尾の作品を大切にしていたかね?」

「それがね、あの旦那もおかしな人でね、やれウェーブをだせの、えり足に内巻きのカールをつけろのとうるさいくせに、後の手入れが悪いんですよ。無精なんですねえ。ヒゲを剃るのも面倒くさいと見えて、よく来ましたけど、そんなとき深尾の丹精こめたヘアは、浮浪者(ルンペン)のようにくしゃくしゃになっていました。深尾は、顧客だからがまんしてましたけど、よくくやし涙を浮かべてましたよ」

 井沢の言葉とともに、宮下は椅子の上に起き上がった。遂に彼は深尾の動機を突き止めたのである。井沢はちょうど仕上げにかかっていた。

「旦那、もうちょいですよ」

「もういいよ、有難う」

 宮下はそそくさと金をはらって、店を飛び出した。興奮のあまり、椅子の上に同じ姿勢を固定させているのに耐えられなくなったのである。

 深尾は一種の偏執狂(パラノイア)であろう。熱中的な芸術家に多いタイプで、自己の権利や価値観を冒されたとき、あらゆるものを犠牲にしても戦う。極端な執着性格でもある。

 彼はすでに単なる理容師ではなかった。客の要望にしたがって、客の頭の形に最も合うように、流れにムラなく、のびた毛を刈っていく調髪師ではなかった。

 やむにやまれぬ内なる創作欲をほとばしらせて、作品を創造する芸術家だったのだ。もし芸術家が自分の精魂こめた作品を冒涜(ぼうとく)されたら、どうするか?

 そこに殺意が生じたとしても不思議はない。ヘアは芸術たり得るのである。発表するメディアが他人の頭という特殊性はあっても、それは一個の独立した作品としての価値をもつのだ。ヘアは生きており、独自の心をもっている。

 髪の生理的伸長に伴って消滅するという宿命を負っている作品だけに、作者の作品に寄せる愛情は大きく切実なものがあるだろう。

 ここに深尾の動機があったのだ。たかが髪の毛という一般の認識と、理容師自体の卑下が、深尾の動機を隠してしまった。

 だが、芸術家の深尾にしてみれば、自己の作品を冒涜しつづける仲谷に対して、密かに僧しみを堆積させていたにちがいない。

 それがあの日──もののはずみで岡村が転倒して、深尾のカミソリを握った腕にぶつかった。ふいに加えられた外力によって抑えに抑えていた憎しみが殺意となってほとばしった。そして岡村から伝えられた力に彼本来の力を加えて、ブツリと──仲谷の喉を断ち切ったのだ。

 ──とうとうつかんだぞ、やつの動機を──

 だがその興奮はすぐに冷やされた。

〈しかしどうやって、やつの殺意を証明するんだ。岡村の力に、深尾の力を加えたというが、そんな“合成力”をどうやって区別するんだね?

 なるほど芸術作品の冒涜か、確かに動機になるかもしれない。しかし髪の毛を検事や裁判官が果して芸術作品として認めるかな。頭のかたい、ヘアモードなんかとはおよそ縁のない彼らには、要するに髪の毛であって、芸術とは認めないだろうね〉

 犬塚の醒めた声が、宮下のせっかくの着眼に冷や水をかけていた。

「殺意の証明か」

 ──おれも相当のパラノイアだな──

 と宮下は目を宙に据えて苦笑した。閑でもない体で、犯罪でもない(ふる)い事故をいまだに追いかけている。刑事の執念より、パラノイアとしか言いようがない。

 だが、宮下はいまさら引き返すには深入りしすぎていた。ここまで来た以上、事件が犯罪であれ、単なる事故であれ、見きわめないことには、どうにも自分自身が納得できなかった。そしてそれはまさしくパラノイアの徴候であった。彼はついに戦慄的な証明方法を考えついたのである。

 

     7

 

「スケさん、そのカミノケはどうしたんだ?」

 署へ出勤すると、一同が目をみはった。それもそのはず、いつもはさりげないスタンダード・カットをしている宮下が、まるで若いテレビタレントのように、パーマをかけ、もみあげを長くし、ウェーブやらカールやらをつけて、いわゆるいま流行の“イッツアーベン”(都会的に洗練された)のヘアスタイルをしているのである。

 およそ刑事のヘアではなかった。

「カミノケなんて言わないでもらいたいね、これがいま最もナウなヘアなんだ。現代的なフィーリングがあるだろう」

 宮下はニヤニヤしたが、突然そんなヘアスタイルにした理由は説明しない。彼は、深尾の殺意を証明するために、ついに自分の体を、使うことを考えついたのである。

 宮下の推測によれば、深尾は自分の造型したヘアに芸術的な執着をもつパラノイアである。己の作品を冒涜する者は、絶対に許せない。

 だから彼の殺意を証明するためには、かつて仲谷がしたことと同じことを繰り返してみればよいとおもいついた。

 幸か不幸か、深尾は宮下の頭の形を気に入っていたようであった。ニューホープの店主から聞いたことだが、一度宮下の頭を“素材(モデル)”にしたいと言っていたそうである。

 それならば素材にさせてやろう。めったにできない傑作を自分の頭の上に創造させて、それをめちゃめちゃに冒涜してやるのだ。

 もし深尾が仲谷を殺したのであれば、自分に対しても、同様の反応をしめすはずである。その反応を捉えれば、殺意の証明ができる。

 こうして、宮下は深尾が移った銀座の理容店『バーバー・ロイヤル』へ追いかけていって、深尾を指名したのである。

 深尾は、突然現われた宮下の姿に、警戒の色を浮かべたが、宮下が、

「チャンピオンおめでとう。ぼくもヘアには関心があってね、前から一度きみにやってもらいたいとおもっていたんだ。でも職業がら、気恥ずかしくてなかなか言いだせなかったんだよ。きみがチャンピオンになったと聞いて、ぜひやってもらいたくてやって来たんだ」

 とまことしやかに言うと、深尾は自尊心を大いにくすぐられたらしく、たちまち上機嫌になった。

「ぼくも以前から、刑事さんのヘアをやらせてもらいたいとおもっていたんです。顔面分割というのがありましてね、眉間(みけん)水平線と鼻下水平線で分割して、はえぎわからまゆ、鼻、あごさきまでに三等分して、口と鼻とあごさきの約三分の一にあるというのが、美しい顔のプロポーションですが、刑事さんはまさに理想的なんですよ。ぼくに任せてくれれば、きっとすばらしい造型をしてみせますよ」

 と目を輝かした。こうして宮下は、深尾の固定客になったのである。

 深尾がホレこんだ顔のプロポーションに、彼が腕を揮ったので、宮下の頭は、抜群のイッツアーベンになって、仲間たちを驚かせた。

 だがこれは宮下にしてみれば、命懸けの仕事であった。深尾の殺意を証明するためには、彼がはっきりと殺意を露わしたときを捉えなければならない。

 相手が殺意を露わすということは、こちらが殺されるかもしれない危険性があるということである。

 一瞬相手の殺意の実行を阻止するのが遅れれば、仲谷同様、頸動脈を断ち切られてしまうし、早すぎれば、殺意を証明できない。

 文字どおり、自分の体を張った、危険な人体実験であった。この命懸けの実験が、表面上、最もモダーンなヘアスタイルによって装われていたのは皮肉である。

 費用の上からも、宮下はかなり無理をしなければならなかった。

 任意の調べ、それも宮下が個人的にのめりこんでしまった“道楽捜査”なので、費用は全部自分で負担しなければならない。

 乏しい刑事の給料で、天下のシャレ者の集まる銀座の理容店へ通うのは、苦しかった。町の普通の理容店で頭を刈れば、精々千円ですむところを、ワンコース五千円くらい取られる。

 その上深尾は、頭だけでなく、トータル・ファッションの時代だからと言って、服装や靴にまでうるさい注文をつけるのである。

「理容は頭だけという感覚を捨てなければなりません。一分の隙もないトータル・ファッションに支えられてこそ、本物のヘアの造型ができるんです」

 深尾は、刑事の乏しい懐中も知らず、勝手な熱を吹いた。

 通いはじめて三回めに深尾は、

「旦那、このヘアは大切にしてください。ぼくでも、一年に一回か二回しかできない作品ですよ」

 フィニッシュしてからも、熱っぽい目を宮下の髪に当てていた。宮下はその目を見てハッとなった。それは完全に陶酔した目である。宮下の髪を見ていながら、それを越えたなにかを見ていた。

 それは完成した作品に見惚(みと)れる芸術家の目であった。でき得るなら、宮下を、正確には彼の頭に造型された作品を、いつまでも手元に留めておきたい様子である。

「旦那、写真を撮らせてください」

 深尾はカメラをもってくると、あらゆる角度からシャッターを押した後、ようやく解放してくれた。

 宮下はそのとき、彼の創作意欲を満足させてやるために、こちらから高い金をはらって素材になってやっていることが馬鹿らしくなった。

 だが、“証明”のためには、どうしてもやらなければならないことだった。

 二日後、宮下はふたたびバーバー・ロイヤルヘ出かけた。深尾が丹精こめたヘアを故意に雀の巣のようにかき乱し、その上からごていねいに砂埃(すなぼこり)をかけ、さらに蜘蛛の巣をひっかけた。

 深尾の一年に一作か二作の傑作は、砂漠を何十キロも行進した後、大掃除をしたような見るも無惨なありさまとなった。

 彼はその頭で、深尾を指名した。深尾は一目見るなり、顔色を変えた。「旦那、なんです! その頭は」 探尾は目をひきつらせて、ぶるぶる震えた。宮下はそれには取り合わず、

「洗髪とヒゲ剃りを頼む」と言った。

 深尾はしばらくその場に立ちすくんで、宮下をにらんでいたが、やがて、無言で椅子を指し示すと、レザーを研磨しはじめた。「火傷(やけど)しそうな熱い蒸しタオルを顔に押し当てられ、やがて取り除けられると、いかにも切れそうなレザーを構えた深尾が、おもいつめた目をして宮下をにらみつけていた。レザーが顔に当てられる。薄い切れ刃が皮膚を撫でる感触とともに、悪寒が背すじを走った。「もっと喉をのばしてください。剃りにくくてしかたがない」

 深尾は突慳貪(つっけんどん)に言った。総頸動脈の上を研ぎすまされた刃がすっと流れていった。

 ──やられるかな?──

 宮下はいつでも反応できるように姿勢を硬くしていた。緊張のあまり、脇の下や握りしめた(こぶし)があぶら汗をかいている。

 切れ刃は何度か頸動脈の上を往復した。執拗にその上だけを撫でているような気がする。

 ──いま切りつけられたら、防ぎようがない──

 宮下は血潮のほとばしる自分の首筋を想像した。首がダランと横に崩れ落ちて、薄皮一枚で辛うじてつながっている。床の血だまりがみるみる大きくなっていく。

〈たすけてくれ!〉

 いまにも叫びそうになった。簡単に、自分の体を使って、実験しようと考えていたが、この恐怖を計算に入れておかなかった。もう人体実験などという馬鹿な真似は止めよう。体の奥の方から震えが湧いてきた。そのときレザーが首筋にピタリと止った。

「旦那、洗髪します」深尾は、レザーを鏡の前に置いて言った。全身の弛緩(しかん)と同時に、汗がどっと噴き出てきた。

 その日は、何事も起きなかった。深尾は不機嫌に黙りこくっていたが、結局宮下が予期したようなことはなにもしなかった。

 その後、宮下は何事もなかったように、ロイヤルヘ通った。深尾も以前と同様にアテンドした。

 体の芯まで冷やされたような恐怖は、喉元すぎればの(たとえ)どおりに、忘れた。宮下の偏執がかった刑事の根性が、その恐怖を吸収したと言ってもよかった。

 その後宮下は何度か同じことを繰り返した。深尾は怒ったが、最初のときのように激しい反応は示さなくなった。

 深尾にしても、宮下のようないいモデルを失いたくないらしい。深尾の口ぶりから察すると、来年度の全国大会に宮下にモデルになってもらいたい下心があるようであった。

 そのためにも、多少腹の立つことはあっても、ぐっと胸の内に抑えているようであった。

 宮下は、それを爆発させるために執拗に挑発を繰り返した。彼の心理も奇妙に推移していた。最初の意図は深尾の殺意を証明するためであったが、最近は、いつ頸動脈に突き立てられるかわからないレザーの下に身を横たえることに、自虐的(マゾヒスティック)な喜びを感じるようになった。

 自分でもそれを異常だとおもう。しかしそこには命を賭けたスリルと、自傷行為特有の暗い不健康な、それ故に激しい、麻薬のような陶酔があった。

 彼の偏執的な刑事根性が、マゾヒスティックな喜悦と化合して、中毒の症状を強めていた。彼は、深尾のレザーの下に、首筋をのばすとき、射精すらするようになった。ロイヤルヘ通う回数が増えてきた。ヘア・カットではなく、ヘア・デザインなので、どんなに繁く通っても、不自然ではない。

 通う都度、宮下は、前回の深尾の作品(ヘア)をめちゃめちゃにして行った。深尾はそのたびに胸の奥に憎悪を堆積させた。

 奇妙な関係が二人の間に結ばれてきた。イキの合った作者とモデルという関係が醸成されると同時に、憎しみ(作者の)が大きくなるのである。

 そのくせ、深尾は、この絶好のモデルを失いたくない。最近では深尾は店主に知られないように宮下の料金を割引いてやったり、あるいは(ただ)にしてやっている。

 信頼と憎悪が複合して、彼らの絆となっていた。

 

     8

 

「旦那、このヘアは、私のいままでの作品の中で最高のものです。他のものはどんなにしてもかまわない。でもこれだけは大切にしてください。おそらくこれから一生かけてもこれを越える作品はつくれないでしょう。これを全国大会にぶつければ、確実に優勝します」

 深尾の許へ通いはじめてからそろそろ一年になろうというとき、彼は一生に一度という作品を造型した。

「わかった。今度は大切にするよ」

「お願いします。できれば旦那の首を切り取って保存したいくらいなんだ」

「おいおい冗談じゃないよ。首を取られちゃかなわない」

 宮下は苦笑したが、深尾の顔を見て、笑いを引っこめた。深尾の顔は真剣そのものであった。

 ──こいつ本気でいるぞ──

 とおもったとき、宮下は背筋に戦慄を覚えた。

 翌日、宮下はそのヘアをめちゃめちゃに壊して、ロイヤルヘ来た。単に壊しただけでなく、アパートの手摺りに落ちていた雀のフンをこびりつかせた。『雀の巣』を表象するためである。

 その破壊されたヘアを深尾の前に晒すと、激怒するかとおもった彼は意外に冷静に、

「やっぱり壊しましたね。もう旦那の意地悪には馴れましたよ。いくら壊していいですよ。ヘアは永遠です。一度つくった作品は、私の心の中に生きています」

 と言って、むごたらしく壊された宮下の髪に櫛を入れはじめた。

「シェービングも頼むよ」

 宮下は言った。熱い蒸しタオルをあてがわれる。やがてそれが取り除かれると、視野の中に深尾がレザーを構えて立っていた。

 頬からあごにかけて、鋭い刃の滑り落ちる感触、戦慄と悪寒が背筋を貫いて、宮下は射精しそうになった。危うくそれをこらえたとき、

「首筋をのばしてください」

 と深尾が言った。剃りやすいように無防備にのばした宮下の頸動脈の上を、刃の先端がさりげなく通りすぎた。流れるような深尾の手並みは、皮膚表面の弾力と調和して、刃先による圧迫感をほとんど受けない。

 レザーの切れ刃を構成する斜角部の厚さ〇・二ミリメートルの鋼の弾力は、ヒゲの切削抵抗によって弾性変形し、規則正しい振動を伝えてくる。

 よどみのないレザーの動きが、ふと止まった。

「旦那」

 深尾が呼んだ。ふと向けた目と目が合った。深尾の目の中に凶悪な光が走った。ハッとして、身を起こそうとした瞬間、頸動脈の上に止まっていたレザーに強い力が加えられた。

 ゴリッとかたいものを切るような音がした。宮下は、それが自分の頸動脈を切った音だとは気がつかなかった。彼を覗きこんだ深尾の白衣に血飛沫(しぶき)が飛んだ。目に沁みるような白の繊維を、真紅の飛沫(ひまつ)が鮮烈に切り抜いた。「ヘアは永遠だ」

 深尾の目はすでに常人のものではなかった。さらに手に力が加えられた。レザーの下でゴリッゴリッと音がした。

 ──深尾順造、とうとう貴様の殺意を証明したぞ──

 宮下は勝ち誇って言ったつもりだが、声にならず、動脈からゴボゴボと血の泡を噴き出させただけであった。意識が遠のく寸前、キーンという快感が背筋を貫いて、彼はおびただしい射精をした。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/01/31

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

森村 誠一

モリムラ セイイチ
もりむら せいいち 小説家 1933年 埼玉県熊谷市生まれ。昭和44年、ホテルを舞台にした「高層の死角」で江戸川乱歩賞受賞。

掲載作は「小説新潮」(昭和47年11月号)初出。

著者のその他の作品