煤煙(抄)
三十二
(前略)
「短刀なら、私が持つてゐますが。」
短刀! 要吉は右の腕が痙攣するやうに覚えて、
「此処に?」
「直ぐ
男は
「是非それにして、是非――私はそれが好い」と、女は急に子供の
「ぢや、私は何処で待つてゐませう?」
女は腫れぼつたい
「田端に?」
二人は落合ふ先を約束した。それから又電車に乗つて、上野山下まで来た。男は人力車を
「貴方の来るまで、私が耐へさせられる苦痛を
朋子は眼で
それを見送つたまゝ、要吉は二たび上野の停車場へ出て汽車で田端へ来た。
崖についた坂を上つて、道の二筋に分れる処に、一軒
午後一時になつた。前の家へ戻つて見たが、朋子は未だ来てゐない。何よりも考へるのが怖ろしいので、又引返して村の中へ這入つた。裏の菜畑の中に的を設けて、白髪の隠居と酒屋の御用聞きらしいのとが夢中になつて
何時の間にか、空がどんよりと曇つた。一歩二歩と村を出て、われにもなく駒込へ行く道を辿つた。この辺は一体につい
駒込避病院下の坂まで来て、一寸立停つたが、又
避病院の側の細い路を曲つて、板塀の尽きる所迄行つて見たが、又中途迄引返した。塀に添うて立てた往来安全の角燈の下に、長い間行き所のない人間のやうに佇んでゐた。
「燐寸をお呉れ。」
女の児は両手を離したまゝ、戸口に立つた人の顔をじろじろ眺めてゐる。
「燐寸をお呉れでないか」と、要吉は
つかつかと立つて薄汚れた手に燐寸を掴んで差出した。
「
「一銭お呉んな。」
要吉は
町の角に小さい稻荷堂がある。此処を曲れば、朋子の家に一町とはない。一寸足を留めたが、顔を見知られぬを幸ひに、その家の前まで行つて見ようかと云ふやうな心持になつた。二三歩足を移した時、そこの
朋子は男と顔を見合せたまゝ、側へ寄つて来て、「十時迄には
何やら酷く昂奮してるやうに見える。要吉は唯黙つて
男を待たせて置いて、平常着に変へて平気で自宅の用をしてゐる。要吉も変に思はずにはゐられない。が、一旦家へ戻つたら、そんなに
が、それにしても――要吉の考へは再び同じ所を
十時まで――それ迄は何処かに時間を消さなければならぬ。やがて追分へ出たが、今朝出た丸山の家も程遠くない。あの家にも六年近く棲んだ。
「二たびこの土を踏むことはあるまい」と、そんな思ひを味ひながら、街の上に立つて見渡した。
何と思つたか、要吉は青木堂へ寄つて、ウィスキイの大壜を
崖の家の二階へ上つて、障子を開けると、冬枯の樹の間から八州の平野が見渡される。窓の
「この日は二たび来ない。自分は取返しの出来ぬ一歩を踏み出した。」
こんな感じが
要吉はつと立上つて、薄暗くなつた部屋の中をぐるぐると廻り出した。そこへ女中が
やがて又女中が膳を持つて来た。づぶの
又一人となつた。死の覚悟して、ひとり火影に対する人の心持はこんなものだらうか。昔から死んだ人の心理を書いたものはない。あれば皆、死なない人の書いたものだ。自分は死なない人の空想を実現しようとしてゐる。死を決したから總ての物を捨てたのぢやない。死を決するために總ての物を捨てたのだ。何を捨ててもあの女の運命について、最も重大なものを我手に握りたいと思ふ。唯この思ひに、人間に許されざることを敢てしようと決心した。この決心は
が、併し――と、要吉の心は再びわれに反つた。此処迄出て来てから、なほ運命に依頼し、相手に依頼してゐる自分は、何といふ卑怯者ぞ。この上は只朋子が待遠しい。早く朋子が来て呉れれば可い――
九時を打つた。要吉は外套を
戸外の夜風が耳に附く。幾度か物音に驚いて立上つた。最後に一輌の
要吉が梯子段を駈け降りた時には、車夫が
二人は二階へ駈上つて、
朋子は終に親の家を棄てた。要吉は人の世に許されざる罪を犯した。あゝ、二人とも失はれた。
女は男の
「ぢやア直ぐに。未だ終列車には間に合ふ。」
朋子は
「山か、海か。」
要吉は声に力を込めて叫んだ。
「山」と女は一言答へた。
直ぐに切符売場へ行つて、西那須野駅行の切符を二枚買つた。
女はこの時既にブリッヂを渡つてゐた。要吉は後から走り着いた。車掌が二人を乗込ませて、
二人は車室の片隅に座を占めて、ほつと息を吐いた。二三の旅客は頭を擡げて此方を見遣つたが、何やら
汽車は武藏野へ出た。平野の暗闇を
その薄暗い洋燈の下に、殺す人と殺される人とは無言で相対した。女の顔は影に包まれて動かない。男は二たび殺されるものは女ぢやない、自分だと思つた。女が憎い、汽車はこの二人だけ乗せて暗闇の中へ突入つたまゝ、再び帰らないやうにも思はれる。
やがて大宮へ着く。要吉は女を促して汽車を出た。明日の朝汽車を待つて東北へ向ふ積りである。他に行くべき場所も手段も残されないやうに、此処で降りたのは何のためか分らない。二人は停車場を出て大通りを一町
要吉は女中が出て行くのを待兼ねたやうに、何か言出さうとして、
「二人とも失はれた。今夜は再び返らない」と、独言のやうに言つて見た。
「今夜ぢやない」と、女は自分の前を見詰めたまゝ「最初お手紙を頂いた時から、私は二たび取返されないと思つてゐた。」
要吉は思はず女の顔を見返した。何か言ひたいと思つても言ふことがない。少時して、
「お宅ぢやもう知れたらうか。」
「今夜は大丈夫でせう」と言つて、やゝ俯向き加減になつたが、「表の方から出ようとすると、一寸開けても門が鳴るやうになつてますから、裏から出たんです。夕方雨戸を自分で閉めて、わざと一枚だけ残して置いて──」
「それでお家の方の気が附かない?」
「えゝ、でも少し狭過ぎたから、それを開けるのに気が
男はうつそり女の額を見詰めた。この女の無教育な小娘らしい
「今日途中で逢つた時は、何をして
「彼岸だもんですから
それを聞くと、要吉は始めて女の家庭に面したやうな心持がして、何とも言はれなくなつた。
「一週間
かう言つて、少時考へてゐたが、「私はつひぞ子供なぞを抱いたことがない。それが子供にも分ると見えて、
女の話が眼の前に見える。要吉は胸をとゞろかせながら聴いてゐたが、「で、その姉さんと云ふは、
「姉は私と違つて、母に似て
「貴方には一人のお姉さんでしたね。」
「私が子供を抱いてると、姉が母の側へ行つて、私のこと、何だか
「その時は?」
「それだけで
そこへ宿の男が寝床を伸べに来て、
幾度頼んでも、ねつく同じ事を繰返してゐるので、
「ね、
「
男は思はず女の顔を見遣つた。何と思つてそんな真似をするのか。女はかうして一身を
「えゝ、それぢや私も起きてゐませう。」
春の宵ながら、夜深けては底冷えがして、曠野の一つ家の様に
「あれは、あの物は持出された?」と、男の方から訊く。
女は黙つて、左の手に懐を抑へて見せた。
「それぢや、この包みは?」
「先生からのお手紙が這入つてる。」
「最初からの?」
女は
「私、先生に済まないことをしました。」
「何を?」
「あの『死の勝利』を、日記だの、その外いろんな物を庭で焼棄てる時に、つい間違へて火の中へ抛り込んで仕舞ひましたから。」
要吉は再び女の顔を見詰めた。
「その方が好い」とは言つたが、何うも知らずして焼いたものとは思へない。星月夜の下に、女が半身を火影に照されながら、
「貴方は始終日記をつけてゐるのか。」
「えゝ」と、女は微かに点頭いたが、「私には本当に
「何故?」
「その位経つと、自分が書いたもののやうな気がしないから。」
朋子は急に黙つて仕舞つた。
今夜家を出る前に、女は手紙と一緒に焼くつもりで、久しく捨てて置いた日記を取出した。一枚づつはぐつて行く
日記の反古が白い灰になつたのを見済まして、女は筆を執つて二三行書下した。
我生涯の
三月二十一日夜 真鍋 朋
今一枚には
拝啓、我が最後の筆蹟に候。今日学校に行きませんと申せしは、実は死すとの事に候。願はくば君と共ならざるを許せ。君は知り給ふべし、われは決して恋のため人のために死するものに非ず、自己を貫かんがためなり、自己の
明治四十一年三月二十一日
宛名は王子の友にした。併し読ませるのは相手の男であつた。自分が息絶えて、男の心の中の記憶と化した後、この遺書を読んだとしたら、男の失望は何んなであらう。若し又光の薄い獄窓の下で読んだとしたら、恐らく悶え死なない者はあるまい。女は自分の死後になほ男の運命を支配する力を自覚して、唇を噛んだまゝ、片頬に
朋子は今その時の
「出ませう、早く此処を出ませう」と、俄に男の腕を掴んで飛立つやうにしたが、又うつとりと坐り直した。
わが生命を爆発させて、相手の生命を砕かうとする。男は女がそんな恐ろしい報復の手段を執つてゐようとは知る筈がない。
「何うしたのです、え。」
「いえ何うもしない」と言ひながら、朋子はぼんやり座敷の隅を見詰めた。
隣の
「あゝ」と、不意に遣瀬のない女の声がして、
「もう間に合はない」と明白に聞えた。
二人は思はず顔を見合せた。後はむにやむにやと
「お寒かアありませんか」と、やがて女は襟を掻合せながら言つた。
「えゝ」と、要吉も一寸女を見返したが、頭の中へ群がつて来る感想を掃ふやうに、「ね、
「小さい時分の?」
「二人が現在してゐることとは、
朋子は
「私のこれね」と襟に刺した
「五つの時から失くさないで持つてるんです。」
「そりや何です。」
「四葉の
「えゝ?」
「心迄も捧げるんだつて」と、一人で笑つた。
「私は知らない。で、それを?」
「父が
要吉はまじまじとその襟留を見詰めたまゝ、黙つて聞いてゐたが、女の言葉が途切れたので、
「それからもつと外に。」
「えゝ、姉はその時分から私に親切でしたが、私は矢張いけない
かう言つて、女は男の眼を避けるやうに、顔を
「
「今でも」と、要吉は息を詰めた。
「併し姉はもうそんな金絲雀のことなぞ忘れてゐませう。」
男は両手に女の両手を
遠方で一番鶏が啼く。
三十三
やがて宿でも起き出したと見えて、
「何うしたのでせう。
朋子も何やら落着かぬらしい。で、
「この儘立ちませうか」
「えゝ。」
二人は身仕度をして立上つた。
街には
停車場の
二人は又北に向つて行く。朝の
二人は
「これを着ては」と、要吉は手に持つてゐた女のコートを差出した。
「いえ、これで可いんです」と、朋子はそれを受取つて、「ぢや、かうしませう」と、言ひながら、二人の膝の上に
その下で二人は手を繋いだ。
何時の間には、客車の中へ朝日が射し出した。霜枯れた田圃の上に、煙の渦が影を落して、千疋の猿が狂ひ廻るやうに後へ後へと転がつて行く。要吉は
「何?」
「えゝ、唯。」
朋子の視線は前の男に注がれてゐた。
「こんな色、
「なに、単色だから?」
「えゝ、
女の髪には、濃いお
「あゝその
「これ?」と男の前へその手を突出して、「早く一対にして下さいな。」
要吉は
やがて宇都宮へ着く。その時迄鼾の音を立てて眠つてゐた商人体の男は、急に眼を開いて、大革鞄を提げながら、あたふたと降りて行つた。
やがて汽笛が鳴つて、列車はがたりと動き出した。今度は二人の外に乗客もない。汽車は平野の中を
何をしに行く。二人になると共に、一層厳しくそれが男の心に迫つた。女を殺しに行く。最初自分が「貴方なら殺せる」と口走つた時、女は一番自分に接近して来たやうに見えた。あの時から見ると、今は又ずつと離れて仕舞つた。終局に於て人間は矢張一人のものかも知れない。一人だ。が、一人だとすれば、この女とした約束を果すには、自分の女に求める力──愛の力に拠る外はない。併し
で、それが駄目だとすれば、後は只一種のエキスペリメントとして、藝術の徒の好奇心に
男は
「二人は」と、男は思はず口に出した、「二人は別々の事を考へてゐるのだらうか。」
「え」と、女は何やら解らなさうな顔をしたが、急に男の手頚を掴んで振りながら、「別々ぢやない別々ぢやない。」
「ふむ、別々では死ねない。」
二人は長い間無言をつゞけた。汽車は小さい停車場へ着く。
やがて又汽車の出るのを待つて、要吉は
朋子は一寸男を見返したまゝ返辞をしなかつた。男もその儘口を噤んだ。
幾つも同じやうな小さい停車場がつゞく。新に田舎者らしい三人の客が乗込んだ、要吉はぼんやりそんな人達の容子を眺めてゐたが、
「ねえ」と、女の方へ振向いて、「貴方は東北を旅行したことがあるか。」
「えゝ、一度平泉まで。」
「ぢや、衣川や高館の跡も見て来たんですね。」
女は
夏草やつはものどもが夢の跡。要吉は目の前に死後の長い時間と広い空間とを
うねうねと東北の野に向つて遠ざかり行く列車を見送りながら、二人は停車場を出た。別に行くべき処もない。
那須野は只ひろびろと霜枯れた草野がつゞく。一面に灌木の木の葉が赤く枯れて、所々に蒼い松の葉が交つた。行手の雪を被つた山脈から
一筋の街道が枯野の中を真直に走つた。上りだといふので、車夫は
原の真中で、朋子は俄に人力車を停めさせた。
「何うかした?」と、後の人力車に乗った要吉が訊く。
「いえ、只風が眼に沁みて痛いから。」
二台の人力車は又
山路は
日暮近く湯の宿に着いて、二階の新しい座敷に案内された。山国の朝夕寒く、大火鉢に炭火の青い炎を上げるのが懐かしい。二人はその側へ寄つて坐つたが、
要吉は黙つて朋子を見返つた。女は
「後にするから」と、断ると、
「それでは、直ぐ御膳を差上げます。」
白い円笠の
「私はこれ迄貴方の前で何度物を喰べたらう。あの時この時、殆ど数へられる。これからも何度喰べるか。」
朋子はたゞ下を向いてゐた。
やがて食事が終つた。長い廊下は
「一寸その手紙を見せて下さい。」
「え、これ?」
女は包を開いて手紙の束を男に渡した。
「随分ある」と、要吉は自分を
「尤もヂョールヂオは三年間に一人の女へ二百何本といふ手紙を書いた。」
「えゝ、でも私達はそれより烈しいことがあつた。一日に二本のことも。」
二人は洋燈の下に頭を寄せた。要吉はその中の一本を手当り任せに取つて中味を抜き出さうとしたが、
「何だか出して見るのが怖い。
「お止めなさい」と、女は引たくるやうに取上げた。
そこへ宿の主人が出て、茶代の礼を述べてから、宿帳を出して引退つた。要吉はそれを取上げて、
朋子も傍から見てゐたが、につと笑つたまゝ、何とも言はなかつた。又自分一人の中へ引込んで、相手の男のことも忘れたやうに見えた。要吉は
「湯へ入らうか」と、やがて男が堪へ兼ねたやうに口を開く。女はたゞ
「汽車の煙にも吹かれたから、一寸汗を流して置いた方が可い。」
「お留守番をしてますから、先づ行つてらして。」
「ぢや、後からね」と、男は立上つた。
「えゝ、
それを聞捨てたまゝ、手拭を下げて湯殿へ降りる。板の間に着物を脱いで、
要吉は片肘を槽の縁に託したまゝ、柱に掛けた
不意に湯殿の戸を開く音がして、われに返つた。誰やら這入つて来たらしい。
要吉は
座敷へ戻つて見ると、
やがで女も湯から上つて来た。髪を洗つたと見えて、ちゞれ毛が肩に波を打つてゐた。その足で
「ね、髪を束ねないで、その儘で居て下さい。」男が急に声を掛けた。
「え」と、朋子は振返つた。
「髪を垂れた方が美しい。」
女はつと立上つて男の側へ来た。男は女の背へ手を廻して抱へた。指が濡れた髪の毛の中へ這入る。
「早く、早くして。」
男はそれを握つたまゝ、思はずたじたじとなつた。この儘では――この儘では何うすることも出来ない。
「ねえ、貴方は」と、水に溺れる人のやうに、女の手を掴みながら、「貴方は私のために死に、私は貴方のために死ぬ。さう言つて下さい。私を愛すると、唯一言。」
その一言で自分は
「言へない、え、言へない?」
「その時迄、その時迄言へない。」
要吉は女を引起して、
男は女を抱へたまゝ、何とも言はれない苦悶を経験した。何故言へない、何故その一言がこの女には――が、言へぬものなら仕方がない。今更何と言つた所で、それが
かくて夜の白むまで、二人はこの姿勢の儘動かなかつた。それは人間の一生のやうに長たらしい、又人間の一生の様に短い夜であつた。
二人は又次の日の光を見た。
有明の
女は男の
「ね、又夜が明けた。」
女は動かない。
「今頃
「そんな、そんな事を言ひ出しちや厭だ。」
女は男の口を
「実はね」と、要吉は女の脊に手を掛けたまゝ、「夜が明けたらお宅へ電報を打つて、迎への人に来て貰はうと思つてゐた。その人達に貴方を渡して置いて、私は――矢張北を向いて、山越えに行ける所まで行かうと決心した。」
「そんな事をされちや耐らない」と、女は頭を上げて、手当り任せに
「その外に仕様ない」と投出すやうに言つた。「私は思ひ違ひをしてゐた。死ぬ時は、互に手を取つて、めそめそ泣き合つて、溶けて行くやうな心持にならなきや死ねない。私のために泣いて呉れる相手でなきや手は下せない。」
何か言ふだらうと思つて待つてゐたが、女は突伏したまゝ返辞をせぬ。又じろじろ女の耳の後ろを見守りながら、
「貴方は未だ私に対して敵意を持つてるんだ。」
「敵意?」と、声の下に呟く。
「敵意さ。昔から打解けたことのない――両性間の旧い
「さうぢやない。そんな事は十九日から解つてゐて呉れた筈だ――あの手紙を読んで呉れたら。」
「それぢや何故――」と、男は思はず腰を立てた。
不意に襖を開けて、下女が有明を下げに来た。二人はつと座を開いたが、顔を見合せたまゝ、
やがて女は想出したやうに、男の手を執つて揺振りながら、
「私は行く、先生の行らつしやる所まで行く。」
「樺太迄も?」と、男は女の顔を見返した。
「何処へでも。」
「死ぬ処まで。」
女は笑顔を見せて
要吉は何やら考へてゐたが、「ねえ、お宅では田端
女も一寸考へて見て、
「参ります、
「それぢや、あの晩の終列車で、二人が西那須野駅までの切符を買つて乗込んだことは、直に知れるわけだ。」
朋子も不安らしい容子をして聞いてゐたが、「早く立ちませう、早く。」
「さう、猶予してはゐられない。」
二人は立上つた。折柄戸を繰りに来た宿の男を急き立てて、あたふたと出立の用意をした。
三十四
朝飯の給仕に出た
二人は近辺を見物すると言ひ置いて、宿を出た。上の塩原迄は、
「もし、旦那
「でも、
「うむ、可いんだ。この辺を散歩してから勝手に宿を取るから、もう帰つても可いんだよ。」
「さうですか」と、車夫はしぶしぶ
町の出外れに、壊れかゝつた木の橋がある。二人は橋の袂に立つて、空車が帰つて行くのを見送つてゐたが、その影が見えなくなると、
麓の村迄は三里だといふ。二人は
空が晴れて、雪の積つた山の
谷合の平原はだんだん迫つて、やがて麓の小村へ着く。村外れの一軒家で、
「一寸休ませて貰ひますよ」と、縁鼻に腰を掛けたが、誰も応ずるものがない。家の中はがらんとして居る。
不図
「ねえ、一寸休ませて貰ひましたよ。」
「えゝッ」と、爺さんは頓狂な顔を上げた。眼の縁が赤く爛れてゐる。
「これはこれは、お出でなされや」と言ひながら、急須の茶を
「何うでせう、峠は未だ雪が深いでせうね」と、要吉は爺さんに眼を附けながら訊いた。
爺さんは耳が遠いらしい。要吉は声を大きくしても一度訊いて見た。
「あゝ、峠か」と、爺さんはきよとんとして、「峠の開くのは、さうぢや、月を越して十日も経つてからなう」と言ひながら、二たび囲炉裡の
その儘うつらうつらとしてゐたが、又急に眼を開いて、
「さうぢや。
「でも、戻つて来なけりや無事に越したのでせう。」
要吉は口を挿んだ。が、爺さんは矢張聞えないらしい。
「裏山が難所でな」と、独言のやうにつゞけた。「上り一里に下り三里、三里の下りが難所でな。それに
要吉は朋子と顔を見合せて点頭き合つた。雪崩れの下に葬られる──自然の手に身を
二人は
「立ちませう」と言出した。
一人も直に立つた。
要吉は
「爺さん、何うもお邪魔でした」と声を掛けた。
爺さんは眠つてゐるのか返辞をしない。その儘、其処を出ることにした。
二人は又目の前に山を見て急いだ。村を抜けて板橋を渡れば、直に山路へかゝる。本道は未だ人が通らない。炭焼小屋の在る処まで、抜路の方が却て道が開いてゐると聞くまゝ、山の麓から右へ折れて、谷川に随いて登る。山は浅いが、鳥も啼かぬ。雪の下行く谷水に添うて、炭焼の通路は枯木の中を縫うて走つた。
水の中の石を伝つて、背負梯子に炭俵を背負つた男が、むづむづと谷川を渡つて来た。二人は此方の岸に立つて待つてゐたが、その男は通りすがりに、被つた手拭を取つて、
「御免なされや」と挨拶した。
「炭焼小屋まで、
「さやうさ、もう五六町もあらうかな。つい其処ぢやいな」と言ひ捨てて、又のそのそと行く。
不図、女のリボンが水に落ちた。くるくると渦を巻いて、見る間に下の巌蔭へ隠れた。女はそれとも心附かない。
二人は又雪を踏んで登つた。谷間の行詰つた処に、二つ三つ炭焼小屋が見え出した。その前迄辿り着いて、小屋の中を覗き込むやうにした。土の中へ囲炉裡を切つて、自在鍵に煤びた茶釜も懸けてある。燃えさしの
要吉は入口に立つて、二三度声を掛けた。
「おゝ」と小屋の裏から炭焼の女房が出て来た。
「湯が一杯無心したい。」
「湯かいな」と、女房は無愛想な返辞をしながら、茶釜の湯を汲んで出した。
二人は小屋の前の丸太に腰を掛けた。樹の間を洩れる日影がちらちらして、茶碗に
上の
朋子もにつこりして、「何か遣りませうか。」
「さう。」
「でも、何にもありませんのね。」
「お
女は蟇口から銀貨を出して、子供に持たせようとした。
「お出でお出で、これを上げるから。」
子供は手を出さぬ。立上つて、側へ行かうとすると、わつと泣き出した。
「何を泣くんだよ、これを遣るとぢやに。」
さう言ひ言ひ、小屋の中から女房が駈け出して来て、遽てて子供の代りに受取つた。この女房が取上げて、汗臭い巾着にきりきり巻いて、何時迄も
日も傾かう。二人はやがて其処を立つた。本道へ出る路だと教へられたまゝ、小屋の裏から坂を登りかけたが、勾配の急な上に、未だ人の通つた跡もない。三町とは行かぬ間に、路が雪に埋もれて、何方へ続くとも分らなくなつた。
「おうい」と呼べば、やゝあつて、
「おゝ」と応へる。
本道へ出る路はと訊いたが、向うで何を言ふのか解らない。唯、左の方を指さすやうに見えたので、木の枝に縋つて、無闇に山の腹を
二人はしばらく雪の中に倒れてゐた。又起直つて歩み始めた。路の上は雪が平なので、道には迷はないが、一足毎に膝の上まで踏み込む。女はその足跡を辿つて随いて来た。一町に休み、百歩に休んだ。休むたんびにウィスキイを仰いで、僅に息を継ぐ。
山の腹を
到頭道は絶壁に消えた。要吉は手に持つた外套を雪の上に敷いて、その上に女を坐らせて置いて、懸崖の縁を伝ひながら、半町余り先迄路を求めに行つた。岩角に手を添へて
男の姿を見ると、朋子は立上つて二三歩近づく。男は頚を振つて留めた。二人は又元の所へ戻つて、外套の上へ倒れるやうに坐つたが、
やゝあつて、
「労れたの」と、男が訊く。
「いゝえ、先生こそ。」
女の顔には、
二人は長い接吻を交はした。
やがて、つと離れて、互に顔を見合せたが、又
空にはいやな雲が湧いて、おひおひ日影も薄くなつた。暮れるに間もあるまい。
二人は又よろよろと立上つた。一町ばかり後へ戻ると、土砂交りの雪に埋まつてよくは見分けられぬが、路は左へ折れて、坂の上へ続くやうにも見える。とかくして坂を登つた。山巓迄雪に蔽はれて、一木を留めぬ草山の腹を路らしいものが
日が落ちてから、急に肌寒うなつた。口の中は
路傍に一本取残されたやうな白樺が立つてゐる。兎に角その下迄辿り着かうとして、男は泳ぐやうにして前へ出たが、両足とも一時に雪の中へ踏込んだ。その儘ぐらぐらと眼が
「あゝ、ウィスキイを──」
女は前へ廻つて、掌から男の口にふくませた。要吉はしばらく横に倒れたまゝ物を言はない。
「何んなです、お心持は。」
男は
「もう好い。唯、動きたくない。」
雪の山は寂として暮れて行く。
二人は黙つて、黒い夜の色の襲ひ来るさまを眺めてゐた。
「手紙を焼きませう」と、女は意を決したやうな
要吉も
女は包を解いて、手紙の束を雪の上へ投出した。その上ヘウィスキイの残りを注ぐ。男は
要吉はそれを見詰めてゐた。眼を離さず見詰めてゐた。いよいよ黒い灰となつて仕舞つたのを見済まして、不図女をかへり見たが、自分の顔に泛んだ失望の色が自分の眼にも見えるやうな気がした。
俄に山巓からどつと風が落ちて来た。灰を飛ばし、雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人は
「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」
女は男の腕を掴んで、
「言つて、言つて。」
「私には──言へない。」
女は
つと
「何うするんです」と、突走るやうに訊く。
あなやと言ふ間もなく、要吉は谷間を
「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない。」
二人は顔を見合せたまゝ声を呑んだ。天上の風に吹き散らされて、雲間の星も右往左往に乱れて、見えた。女は又叫ぶ。
「歩きませう、もつと歩きませう。」
「うむ、歩きませう。」
二人は雪明りをたよりにして、風の中を行く。風のために雪が氷り始めたやうだ。只、その
二人は折重なつたまゝ動かなかつた。だんだん風の音も遠くなるらしい。要吉は腹の辺りから冷たい水が沁み込んで来るのを覚えながら、ついうとうとした。その後は何うなつたか知らない。
不図、誰かに喚び起されるやうな気がして眼を開いた。朋子が
女は急に男の手を持つて、同じ事を繰返した。
要吉は黙つて立上つた。見返れば、月天心に懸つて、遠方の山々は
二人は又立上つた。堅く氷つた雪を踏みしだきながら、山を登つて行く。
山巓も間近になつた。
だんだん月の光がぼんやりして、朝の光に変つて行く。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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