身上話
「御勉強。」
障子の外から、小聲で云ふのである。
「誰だ。音をさせないで
「わたくし。」
障子が二三寸開いて、貧血な顏の切目の長い目が覗く。微笑んでゐる口の薄赤い唇の奥から、眞つ白い細く揃つた齒がかゞやく。
「なんだ。誰かと思つたら、花か。もう手紙の代筆は眞平だ。」
「あら。いくらの事だつて、毎日手紙を出しはしませんわ。」
「毎日出すとも、一時間に一本づゝ出すともするが好い。
「ひどい事を
「一遍で澤山だ。」
「そんなにお厭なの。」
「厭も好きもないのだ。まあ、這入つて障子をしめて貰ひたいものだな。こなひだぢゆうのやうに暑い時は好いが、もうそろそろ寒くなつたのに、そこから覗いてゐられては
「さあ、這入りました。」
ついと這入つて、片膝衝いて障子を締める。
輪の太い銀杏返しに、
浪の音がする。涼しくはなつても、まだ夏なので、暮れてから暫くは、雨戸も締めてないのである。
花は机の向うに來て据わつた。
「又電氣を低くして
「この儘にして置けば好いのに、毎日天井の處まで吊るし上げるもんだから、日が暮れれば
「はいはい。さやうなら、あしたからは足で
「蹴爪衝きやあそゝつかしいのだ。泊つてゐる奴が皆なまけものだから、電燈といふものは天井に吊るし上げて置くものだと思つてゐるのだ。卸さなくちやあ、横文字の本なんぞは讀まりやあしない。」
「えゝえゝ。お客様もなまけもので、わたくし共もなまけものでございますよ。」「なまけものだとも。辻村に遣る手紙の事ばかし考へてゐるのだ。」
「おや、名前なんぞを覺えておしまひなすつて、まあ、いやだ。」
「覺えなくつて。なんでも覺える。お前なんぞには分からないが、
「英語なんぞおよしなさいよ。ねえ、あなた、けふは遣りませんけど、又そのうち書いて下さいますでせうね。男の手でなくちやあ、遣られないのですから。」
「いやだ。」
「なぜでせう。」右の手の
「なぜだといふのか。書かない理由が聞きたいといふのだな。うん。言つて聞せよう。先づ僕の書いた手紙が辻村辰五郞といふ奴、失敬、辻村辰五郞といふ先生の處へ行くのだな。そこでその辰五郞先生がそれを讀む。讀むと、何か考へるのだな。僕は先生を知らないから、何を考へるか分からない。併し手紙を出したお前の事を考へる丈は
「まあ、あなたは餘つ程苦勞性だわ。そんなに先きの先きまで考へた日には、わたくしなんぞ、とつくの昔死んでしまはなくちやあなりませんわ。」
「さうかなあ。女の事を丸で知らないもんだから、餘計な心配をするかも知れないよ。」
「嘘ばつかし。いろいろおありなさるでせう。」
「なに、あるものか。第一色になるにはどんな工合でなるもんだか、知らないのだ。お前が辻村さんと深くなつた時の事が聞きたいものだな。」
「いやですわ。馬鹿らしいですもの。」
「いやかなあ。いやなら爲方がない。話して聞せれば、手紙は幾らでも書いて遣るのだがな。」
「あら。書いて下すつて。そんなら話しますわ。」
「現金な奴だなあ。」
がらがらと雨戸を繰り出す音がする。無遠慮に、忙しさうに繰る。みしみしといふ足音が、圭一の部屋の近所まで聞えて來る。いつもの
花は急に立つて、部屋の入口の片隅に茶道具の置いてある處に行つて、茶碗をがちやがちや云はせる。
「もうお湯がありませんわ。一寸行つて持つて參ります。」
特別に大きい聲をしたのである。
火鉢に掛けてあつた湯沸かしを持つて、障子を手荒く開けて、梯をばたばた降りて行つた。
圭一は机の上に開けてあつた洋書の讀みさしたペエジに
暑い盛りに大原には來たので、洋服の外には
一夏潮風に吹かれて、褐色になつた顏に、樂しげな微笑を浮べてゐる。
圭一は生活の上には殆どピユリタンだと云つても好い。併し美しい女と話をするのは愉快である。殊に其女が面白い、何等かの疑問を持つてゐると思ふと、一層愉快である。
大原に來てゐる間に、奥さんやお孃さんを大勢見た。併し目に留まつたのは、女中の花である。料理屋を兼ねた、此宿屋には、二三日前まで西洋人が泊つてゐて、花は其部屋の受持であつたので、折々廊下で出合ふとき、一寸笑つて會釋をする位な事であつた。
その時から此女の蒼白い顏の目口の間に、人世の苦痛を嘗めた痕が深く刻まれてゐるやうなのが目に留まつてゐた。それで西洋人が立つた跡で、自分の部屋へ花が來るやうになつたのを喜んだ。
それからは終始花を觀察してゐる。
初め圭一は花の顏の表情を見て、餘程怜悧な女だと思つてゐた。段々心易くなつて話をして見るのに、さうでもないらしい。大分お人好しの處がある。美しい、締まつた顏が、其持主を實際より賢さうに見せるのである。
花は東京生れだと云つてゐる。詞にも
圭一は花がどんな事を話すだらうと思つて、別に何故といふでもなく、其話が早く聞きたいやうな心持がしてゐる。そして花は本當の事を云ふだらうか、嘘を衝くだらうかと、獨りで心に問うて見る。圭一は女に就いての經驗はないが、頗る鋭敏な觸角を持つてゐて、いつの間にか、女は嘘を衝くものだといふ、動かすべからざる鐵案を成就してゐる。花も嘘を衝くには違ひない。併しどれ丈嘘を衝くだらうか。嘘と誠との比例がどんなだらうか。その嘘がどんな嘘だらうかなどゝ思ふのである。
雨戸を締めてから外はひつそりとして、鈍い、低い海の音に、淸い、高い蟲の聲が交つて聞える。
梯に足音がする。優しい、輕い音である。靑い脈の浮いてゐる、白い素足の、据わつたとき背後から見ると、踵と指の腹と指の根とが、板の間の土埃で薄墨色に染まつてゐるのを思ひ出す。
圭一の心臟が跳る。不意に來られたさつきとは違つて、花が次第に近づくと共に、鼓動は劇しくなるのである。戀だらうか。なに、戀なものか。これは期待の興奮だと、圭一は自ら説明した。
「お靜かですこと。」
聲と一しよに、こん度は障子をすうと開ける。廊下に置いた
「獨りで騒ぎやうもないからな。」
「今に下が賑かになりますわ。五番へ藝者が來ましたの。」
花の詞が切れないうちに、
持て來た茶を、圭一は左の肘を机に衝いた儘で受け取つて、一口飲んで下に置いた。そして目で笑ひながら、そこに据わつた花の顏を見た。
「さあ聞かう。一體茶を飲ませて貰つたばかりでは、
「惚けなもんですか。本當に地味なお話でございますの。わたくし本當に恥かしいわ。」
「幾つになる。」
「女に年なんぞを聞くのはハイカラでないといふぢやございませんか。」
「
「あんな事を。なんにしろ、もう四十より五十の方へ、近いのですから。」
「ふん。そんならまあ、色の淺黑い、苦味走つたといふ風の男だらう。矢つ張ここで心易くなつたのかい。」
「えゝ。さうでございますの。わたくし思ひ切つてしやべつてしまひますわ。」「それが好い。それが好い。」
「あの初めの内は只當り前より善く氣を附けてくれたり、ちよいとした
「うん。そりやあさうしたものだらう。それから段々可哀くなつたのだな。」
「あら、いやな。默つて聞いて入らつしやいよ。本當に思つて見れば不思議でございますわ。いつでしたか、ふいと喧嘩をいたしましてね、何時だらうと云つて時計を出して見てゐるのを、わたくし引つたくつて疊の上へはふつて遣りましたの。さうすると硝子がこはれて針が一本折れたぢやあございませんか。わたくしびつくり致したのを、悔やしいから知らぬ顏でゐますと、辻村さんはそれを拾つて見て、大さうおこつた様子で、こんなになつては、もう役に立ちやあしないと云つて、行きなり庭へはふつてしまひましたの。それが不斷いやになる程大事にしてゐる
「うん。なる程ロシアなんぞも戰爭をして、ひどい目に逢はせてから、中が好くなつたのだからな。」
「そんな事を。あなた
「あゝ。御免だ、御免だ。僕は交つ返した積りぢやないのだ。眞面目にさう思つたのだ。」
花はにつこりした。三味線のがちやがちやいふ音に大勢の笑聲が交つて聞える。
「ぢやあ話しますわ。」
「ひどく恩に
「そりやあ少しは恩に被て下すつても
「別品を二人も占領してゐるなんて、ひどい奴だな。」
「全くわたくしのやうなものを、なんだつて世話をして置くのだらうと思ひましたの。それから去年のお正月には、二日の晩に一寸來てから、一週間ばかりも音沙汰なしでゐるでせう。わたくしいろんな事が氣になつて、お正月らしい心持はしませんでしたの。十日の日でした。前の日から雪が降つて大さう寒いのに、母が來ましたからお
その時の事が
「ひどい目に逢つたものだなあ」と、圭一は慰めるやうに云つた。
「それから歸つて見ますと、母は心配して歸らずにゐたもんですから、いろいろ相談しましたの。なんにしろ、いつ辻村さんが歸るか聞いて見るのが肝心だといふので、母が會社の人に聞き合せてくれましたが、早くて一年だと申しますの。夏頃までぼんやりして暮してゐましたが、手紙は來ず、ひどい面倒を見て、横文字の上書きをして貰つて、手紙を遣つても、返事も來ないうちに、お金は段々なくなりますの。この
「そこで辻村さんはいつ歸つたのだい。」
「先月歸りましたの。」
「それからまだ逢はないのかい。」
「ええ。なんと云つて遣つても來ませんの。行つて見ようかとも思ひますが、來てくれない位なら、行つたつて駄目かとも思ふもんですから。」
翡翠の
下の
「お花さん」と大聲に、
花は圭一の目を搜すやうにちよいと見た。そして「いやになつちまひますわ」と云つて、ついと起つて部屋を出た。
圭一は暫く跡を見送つて、何か考へてゐた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/07/07