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安井夫人

 「仲平(ちゆうへい)さんはえらくなりなさるだらう」と云ふ評判と同時に、「仲平さんは不男(ぶをとこ)だ」と云ふ蔭言(かげこと)が、淸武一郷(きよたけいちがう)に傳へられてゐる。

 仲平の父は日向國(ひうがのくに)宮崎郡(みやざきごほり)淸武村(きよたけむら)に二(たん)八畝()程の宅地があつて、そこに三(むね)の家を建てゝ住んでゐる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑(たはた)を持つてゐて、年來家で漢學を人の子弟に教へる(かたはら)、耕作を()めずにゐたのである。(しか)し仲平の父は、三十八の時江戸へ修行(しゆぎやう)に出て、中一年置いて、四十の時歸國してから、段々飫肥(おび)藩で任用せられるやうになつたので、今では田畑の大部分を小作人に作らせることにしてゐる。

 仲平は二男である。兄文治(ぶんぢ)が九つ、自分が六つの時、父は兄弟を殘して江戸へ立つたのである。父が江戸から歸つた後、兄弟の背丈が伸びてからは、二人共毎朝書物を懐中して畑打(はたうち)に出た。そして(よそ)の人が煙草休(たばこやすみ)をする間、二人は讀書に(ふけ)つた。

 父が始て藩の教授にせられた頃の事である。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打に通ふと、道で行き逢ふ人が、皆言ひ合せたやうに二人を見較べて、(つれ)があれば聨に何事をかさゝやいた。背の高い、色の白い、目鼻立の立派な兄文治と、背の低い、色の黑い、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合(ふつりあひ)一對(いつつゐ)に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡(はうさう)が、兄は輕く、弟は重く、弟は大痘痕(おほあばた)になつて、(あまつさ)へ右の目が(つぶ)れた。父も小さい時疱瘡をして片目になつてゐるのに、又仲平が同じ片羽(かたは)になつたのを思へば、「偶然」と云ふものも殘酷なものだと云ふ外はない。

 仲平は兄と一しよに步くのをつらく思つた。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足先に出、晩は少し居殘つて爲事(しごと)をして、一足遲れて歸つて見た。併し行き逢ふ人が自分の方を見て、聨とさゝやくことは()まなかつた。そればかりではない。兄と一しよに步く時よりも、行き逢ふ人の態度は餘程不遠慮になつて、さゝやく聲も常より高く、中には聲を掛けるものさへある。

「見い。けふは猿がひとりで行くぜ。」

「猿が本を讀むから妙だ。」

「なに。猿の方が猿引(さるひき)よりは()く讀むさうな。」

「お猿さん。けふは猿引はどうしましたな。」

 交通の狹い土地で、行き逢ふ人は大抵()り合つた中であつた。仲平はひとりで步いて見て、二つの發明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護の(もと)に立つてゐながら、それを悟らなかつたと云ふことである。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名(あだな)が附いてゐて、醜い自分が猿と云はれると同時に、兄までが猿引と云はれてゐると云ふことである。仲平は此發明を胸に(をさ)めて、誰にも話さなかつたが、その後は()ひて兄と離れ離れに田畑へ往反(わうへん)しようとはしなかつた。

 仲平に先だつて、體の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹(しのざきせうちく)の塾に通つてゐた時に死んだのである。仲平は二十一の春、金子(きんす)十兩を父の手から受け取つて淸武村を立つた。そして大阪土佐堀三丁目の藏屋敷(くらやしき)に著いて、長屋の一間(ひとま)を借りて自炊をしてゐた。儉約のために大豆を鹽と醤油とで煮て置いて、それを飯の(さい)にしたのを、藏屋敷では「仲平豆(ちゆうへいまめ)」と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは體が續くまいと氣遣つて、酒を飲むことを勸めると、仲平は素直に聽き()れて、毎日一合づつ酒を買つた。そして晩になると、その一合入の德利を紙撚(こより)で縛つて、行燈(あんどう)の火の上に()るして置く。そして燈火に向つて、篠崎の塾から借りて來た本を讀んでゐるうちに、半夜(はんや)(さだま)つた頃、燈火で尻をあぶられた德利の口から、蓬々(ほうほう)として蒸氣が立ち(のぼ)つて來る。仲平は(まき)()いて、德利の酒を(うま)さうに飲んで寢るのであつた。中一年置いて、二十三になつた時、故郷の兄文治が死んだ。學殖は弟に劣つてゐても、才氣の鋭い若者であつたのに、兎角(とかく)病氣で、たうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃音(ふいん)を得て、すぐに大阪を立つて歸つた。

 其後仲平は二十六で江戸に出て、古賀侗庵(こがとうあん)の門下に籍を置いて、昌平黌(しやうへいくわう)に入つた。後世の註疏(ちゆうそ)()らずに、直ちに經義(けいぎ)(きは)めようとする仲平がためには、古賀より松崎慊堂(まつざきかうだう)の方が(なつ)かしかつたが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかつたのである。痘痕(あばた)があつて、片目で、背の低い田舍(いなか)書生は、こゝでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかつた。それでも仲平は無頓著(むとんぢやく)に默り込んで、獨り讀書に(ふけ)つてゐた。坐右の柱に半折(はんせつ)に何やら書いて()つてあるのを、からかひに來た友達が讀んで見ると、「今は()(しのぶ)が岡の時鳥(ほとゝぎす)いつか雲井のよそに名告(なの)らむ」と書いてあつた。「や、えらい抱負ぢやぞ」と、友達は笑つて去つたが、腹の中では(やゝ)氣味惡くも思つた。これは十九の時漢學に全力を傾注するまで、國文をも少しばかり研究した名殘(なごり)で、わざと流儀(ちがひ)の和歌の眞似をして、同窓の揶揄(やゆ)(むく)いたのである。

 仲平はまだ江戸にゐるうちに、二十八で藩主の侍讀(じどく)にせられた。そして翌年藩主が歸國せられる時、供をして歸つた。

 今年の正月から淸武村(あざ)中野に藩の學問所が立つことになつて、工事の最中である。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁(さうしうをう)と、今年江戸から藩主の供をして歸つた、二十九になる仲平さんとが、父子共に講壇に立つ筈である。其時滄洲翁が息子によめを取らうと云ひ出した。併しこれは決して容易な問題ではない。

 江戸がへり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と評判する郷里の人達も、痘痕(あばた)があつて、片目で、背の低い男振(をとこぶり)を見ては、「仲平さんは不男だ」と蔭言を言はずには置かぬからである。

 

 滄洲翁は江戸までも修行に出た苦勞人である。(せがれ)仲平が學問修行も一通(ひととほり)出來て、來年は三十にならうと云ふ年になつたので、是非よめを取つて()りたいとは思ふが、(その)選擇のむづかしい事には十分氣が付いてゐる。

 背こそ仲平程低くないが、自分も痘痕があり、片目であつた翁は、異性に對する苦い經驗を()めてゐる。識らぬ少女と見合をして縁談を取り()めようなどと云ふことは自分にも不可能であつたから、自分と同じ缺陷があつて、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れてゐる。仲平のよめは早くから氣心を識り合つた娘の中から選び出す(ほか)ない。翁は自分の經驗からこんな事をも考へてゐる。それは若くて美しいと思はれた人も、暫く交際してゐて、智慧の足らぬのが暴露して見ると、其美貌はいつか忘れられてしまふ。又三十になり、四十になると、智慧の不足が顏にあらはれて、昔美しかつた人とは思はれぬやうになる。これとは反對に、顏貌(かほかたち)には(きず)があつても、才人だと、交際してゐるうちに、その醜さが忘れられる。又年を取るに從つて、才氣が眉目(みめ)をさへ美しくする。仲平なぞも只一つの黑い瞳をきらつかせて物を言ふ顏を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目(ひいきめ)ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識つた女をよめに貰つて遣りたい。翁はざつとかう考へた。

 翁は五節句や年忌に、互に顏を見合ふ親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思ひ浮べて見た。一番華やかで人の目に附くのは、十九になる八重(やへ)と云ふ娘で、これは父が定府(ぢやうふ)を勤めてゐて、江戸の女を妻に持つて生ませたのである。江戸風の化粧をして、江戸詞(えどことば)(つか)つて、母に踊をしこまれてゐる。これは貰はうとした所で來さうにもなく、又好ましくもない。(なり)が地味で、心の氣高(けだか)い、本も少しは讀むと云ふ娘はないかと思つて見ても、生憎(あいにく)さう云ふ(むき)女子(をなご)は一人もない。どれもどれも平凡(きは)まつた女子ばかりである。

 あちこち迷つた末に、翁の選擇はたうとう手近い川添(かはぞへ)の娘に落ちた。川添家は同じ淸武村の大字(おほあざ)今泉、小字(こあざ)岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の從妹(いとこ)が二人ある。妹娘の佐代(さよ)は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量好しと云ふ評判の子で、若者共の間では「岡の小町」と呼んでゐるさうである。どうも仲平とは不吊合(ふつりあひ)なやうに思はれる。姉娘の豐なら、もう二十(はたち)で、遲く取るよめとしては、年齡の懸隔(けんかく)太甚(はなはだ)しいと云ふ程ではない。豐の器量は十人竝である。性質にはこれと云つて立ち(まさ)つた所はないが、女にめづらしく快活で、心に思ふ(まゝ)を口に出して言ふ。その思ふ儘がいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面(おくめん)なしで困る」と云ふが、それが翁の氣に入つてゐる。

 翁はかう思ひ定めたが、さて此話を持ち込む手續に窮した。いつも翁に何か言はれると、(つゝし)んで(うけたまは)ると云ふ風になつてゐる少女等に、直接に言ふことは勿論出來ない。外舅(しうと)外姑(しうとめ)が亡くなつてからは、川添の家には卑屬(ひぞく)しかゐないから、翁がうかと言ひ出しては、先方で當惑するかも知れない。他人同士では、かう云ふ話を持ち出して、それが不調に終つた跡は、少くも暫くの間交際がこれ迄(どほり)に行かぬことが多い。親戚間であつて見れば、其邊に一層心を用ゐなくてはならない。

 こゝに仲平の姉で、長倉の御新造(ごしんぞ)と云はれてゐる人がある。翁はこれに意中を打ち明けた。「亡くなつた兄いさんのおよめになら、一も二もなく來たのでございませうが」と云ひ掛けて、御新造は少しためらつた。御新造はさう云ふ方角からはお豐さんを見てゐなかつたのである。併しお()(さま)に賴まれた上で考へて見れば、(ほか)に弟のよめに相應した娘も思ひ當らず、又お豐さんが不承知を言ふに極まってゐるとも思はれぬので、御新造はたうとう使者の役目を引き受けた。

 

 川添の家では雛祭(ひなまつり)の支度をしてゐた。奥の()へ色々な書附をした箱を一ぱい出し散らかして、其中からお豐さんが、内裏様(だいりさま)やら五人囃(ごにんばやし)やら、一つ(びと)つ取り出して、綿や吉野紙を()けて置き竝べてゐると、妹のお佐代さんがちよいちよい手を出す。「()いからわたしに任せてお(おき)」と、お豐さんは妹を叱つてゐた。

 そこの障子をあけて、長倉の御新造が顏を出した。手にはみやげに切らせて來た緋桃(ひもゝ)の枝を持つてゐる。「まあ、お忙しい最中でございますね。」

 お豐さんは尉姥(じよううば)の人形を出して、(はうき)と熊手とを人形の手に()してゐたが、其手を()めて桃の花を見た。「お内の桃はもうそんなに咲きましたか。こちらのはまだ(つぼみ)がずつと小さうございます。」「出掛(でかけ)に急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて來ました。澤山お(いけ)になるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ。」かう云つて御新造は桃の枝をわたした。

 お豐さんはそれを受け取つて、妹に「こゝは此儘(このまゝ)そつくりして置くのだよ」と云つて置いて、桃の枝を持つて勝手へ立つた。

 御新造は跡から附いて來た。

 お豐さんは臺所の棚から手桶を(おろ)して、それを持つて側の井戸端に出て、水を一釣瓶(ひとつるべ)汲み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにも甲斐々々(かひがひ)しい。使命を含んで來た御新造は、これならば弟のよめにしても早速役に立つだらうと思つて、微笑を禁じ得なかつた。下駄を脱ぎ棄てゝ臺所にあがつたお豐さんは、壁に()つてある竿の手拭で手を()いてゐる。其側へ御新造が()り寄つた。

「安井では仲平におよめを取ることになりました。」劈頭(へきとう)に御新造は主題を道破(だうは)した。

「まあ。どこから。」

「およめさんですか。」

「えゝ。」

「そのおよめさんは」と云ひさして、ぢつとお豐さんの顏を見つゝ、「あなた。」

 お豐さんは驚き(あき)れた顏をして默つてゐたが、暫くすると、其顏に(ゑみ)(たゝ)へられた。「(うそ)でせう。」

「本當です。わたしそのお話をしに來ました。これからお母あ様に申し上げようと思つてゐます。」

 お豐さんは手拭を放して、兩手をだらりと垂れて、御新造と向き合つて立つた。顏からは笑が消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だと思つてゐますが、御亭主にするのは(いや)でございます。」冷然として言ひ放つた。

 

 お豐さんの拒絶が餘り簡明に發表せられたので、長倉の御新造は話の跡を繼ぐ餘地を見出すことが出來なかつた。(しか)しこれ程の用事を帶びて來て、それを二人の娘の母親に話さずにも歸られぬと思つて、直談判(ぢきだんぱん)をして失敗した顛末(てんまつ)を、川添の御新造にざつと言つて置いて、ギヤマンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞(いとまごひ)をした。

 川添の御新造は仲平贔屓(びいき)だつたので、ひどく此縁談の不調を惜んで、お豐にしつかり言つて聞せて見たいから、安井家へは當人の輕率な返事を打ち明けずに置いてくれと賴んだ。そこでお豐さんの返事を以て復命することだけは、一時見合せようと、長倉の御新造が受け合つたが、どうもお豐さんが意を(ひるがへ)さうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお(すゝめ)にならぬやうに」と言ひ殘して()つて出た。

 長倉の御新造が川添の門を出て、道の二三丁も來たかと思ふ時、跡から川添に使はれてゐる下男(げなん)の音吉が驅けて來た。急に話したい事があるから、御苦勞ながら引き返して貰ひたいと云ふ口上を持つて來たのである。

 長倉の御新造は意外の(おもひ)をした。どうもお豐さんがさう急に意を(ひるがへ)したとは信ぜられない。何の話であらうか。かう思ひながら音吉と一しよに川添へ戻つて來た。

「お歸掛(かへりがけ)をわざわざお呼戻(よびもどし)いたして済みません。實は存じ寄らぬ事が出來まして。」待ち構へてゐた川添の御新造が、戻つて來た客の座に著かぬうちに云つた。

「はい。」長倉の御新造は女主人の顏をまもつてゐる。

「あの仲平さんの御縁談の事でございますね。わたくしは願うてもない好い先だと存じますので、お豐を呼んで話をいたして見ましたが、矢張まゐられぬと申します。さういたすとお佐代が姉に其話を聞きまして、わたくしの所へまゐつて、何か申しさうにいたして申さずにをりますのでございます。なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが參ることは出來ますまいかと申します。およめに往くと云ふことはどう云ふわけのものか、ろくに分からずに申すかと存じまして、色々聞いて見ましたが、あちらで貰うてさへ下さるなら自分は往きたいと、きつぱり申すのでございます。いかにも差出がましい事でございまして、あちらの思はくもいかゞとは存じますが、兎に角あなたに御相談申し上げたいと存じまして。」さも言ひにくさうな口吻(くちぶり)である。

 長倉の御新造は(いよいよ)意外の思をした。父は此話をする時、「お佐代は若過ぎる」と云つた。又「あまり別品(べつぴん)でなあ」とも云つた。併しお佐代さんを嫌つてゐるのでないことは、平生(へいぜい)から分かつてゐる。多分父は吊合(つりあひ)を考へて、年が()つてゐて、器量の十人竝なお豐さんをと望んだのであらう。それに若くて美しいお佐代さんが來れば、不足はあるまい。それにしても控目(ひかへめ)で無口なお佐代さんが()くそんな事を母親に云つたものだ。これは兎に角父にも弟にも話して見て、出來る事なら、お佐代さんの望通(のぞみどほり)にしたいものだと、長倉の御新造は思案してかう云つた。「まあ、さうでございますか。父はお豐さんをと申したのでございますが、わたくしがちよつと考へて見ますに、お佐代さんでは惡いとは申さぬだらうと存じます。早速あちらへまゐつて申して見ることにいたしませう。でもあの内氣(うちき)なお佐代さんが、好くあなたに(おつし)やつたものでございますね。」

「それでございます。わたくしも本當にびつくりいたしました。子供の思つてゐる事は何から何まで分かつてゐるやうに存じてゐましても、大違(おほちがひ)でございます。お父う様にお話下さいますなら、當人を呼びまして、こゝで一應聞いて見ることにいたしませう。」かう云つて母親は妹娘を呼んだ。

 お佐代はおそるおそる障子(しやうじ)をあけてはひつた。

 母親は云つた。「あの、さつきお前の云つた事だがね、仲平さんがお前のやうなものでも貰つて下さることになつたら、お前きつと()くのだね。」

 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と云つて、下げてゐた頭を一層低く下げた。

 

 長倉の御新造が意外だと思つたやうに、滄洲翁も意外だと思つた。(しか)し一番意外だと思つたのは壻殿(むこどの)の仲平であつた。それは皆怪訝(くわいが)すると共に喜んだ人達であるが、近所の若い男達は怪訝すると共に(そね)んだ。そして口々に「岡の小町が猿の所へ往く」と(うはさ)した。そのうち噂は淸武一郷に傳播(でんぱ)して、誰一人怪訝せぬものはなかつた。これは(よろこび)(そねみ)(まじ)らぬ只の怪訝であつた。

 婚禮は長倉夫婦の媒妁(ばいしやく)で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまで只美しいとばかり云はれて、人形同様に思はれてゐたお佐代さんは、(まゆ)を破つて出た()のやうに、その控目(ひかへめ)な、内氣な態度を脱却(だつきやく)して、多勢の若い書生達の出入(でいり)する家で、天晴(あつぱれ)地步を占めた夫人になりおほせた。

 十月に學問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵(しゆくえん)に親戚故舊が寄り集まつた時には、美しくて、しかもきつぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がつた。人に揶揄(からか)はれる世間のよめさんとは全く趣を(こと)にしてゐたのである。

 

 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子(すまこ)が生れた。中一年置いた年の七月には、藩の學校が飫肥(おび)(うつ)されることになつた。其次の年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振德堂の總裁にせられて、三十三になる仲平が其下で助教を勤めた。淸武の家は隣にゐた弓削(ゆげ)と云ふ人が住まふことになつて、安井家は飫肥の加茂に代地(だいち)を貰つた。

 仲平は三十五の時、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年歸つた。これがお佐代さんが稍長い留守に空閨(くうけい)を守つた始である。

 滄洲翁は中風(ちゆうぶう)で、六十九の時亡くなつた。仲平が二度目に江戸から歸つた翌年である。

 仲平は三十八の時三たび江戸に出で、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌(しやうへいくわう)斎長(さいちやう)になつた。次いで外櫻田(そとさくらだ)の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭(おほばんしよばんがしら)と云ふ役を命じた。其次の年に、仲平は一旦歸國して、間もなく江戸へ移住することになつた。今度はいづれ江戸に居所(ゐどころ)()まつたら、お佐代さんをも呼び迎へると云ふ約束をした。藩の役を()めて、塾を開いて人に教へる決心をしてゐたのである。

 此頃仲平の學殖は(やうや)く世間に認められて、親友にも鹽谷宕陰(しほのやたういん)のやうな立派な人が出來た。二人一しよに散步をすると、男振はどちらも惡くても、兎に角背の高い鹽谷が立派なので、「鹽谷一丈雲横腰(しほのやいちぢやう くもこしによこたはる)安井三尺草埋頭(やすいさんじやく くさかしらをうづむ)」などと(ひや)かされた。

 江戸に出てゐても、質素な仲平は極端な簡易生活をしてゐた。歸新參(かへりしんざん)で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷(せんだがや)にある藩の下邸(しもやしき)にゐて、其後外櫻田の上邸(かみやしき)にゐたり、増上寺境内の金地院(こんぢゐん)にゐたりしたが、いつも自炊(じすゐ)である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にゐたが、下邸に火事があつてから、始て五番町の賣居(うりすゑ)を二十九枚で買つた。

 お佐代さんを呼び迎へたのは、五番町から(かみ)二番町の借家に引き越してゐた時である。所謂(いはゆる)三計塾で、階下に三疊やら四疊半やらの間が二つ三つあつて、階上が斑竹山房(はんちくさんばう)匾額(へんがく)を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住する時、本國田野村字假屋(かりや)虎斑竹(こはんちく)を根こじにして來たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子に次いで、二女美保子、三女登梅子(とめこ)と、女の子ばかり三人出來たが、假初(かりそめ)(やまひ)のために、美保子が早く亡くなつたので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを聨れて、三計塾に遣つて來た。

 仲平夫婦は當時女中一人も使つてゐない。お佐代さんが飯炊(まゝたき)をして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛(ひうがなまり)が商人に通ぜぬので、用が辯ぜずにすごすご歸ることが多い。

 お佐代さんは形振(なりふり)に構はず働いてゐる。それでも「岡の小町」と云はれた昔の(おもかげ)はどこやらにある。此頃黑木孫右衛門と云ふものが仲平に逢ひに來た。()飫肥外浦(おびそとうら)の漁師であつたが、物産學に(くは)しいため、わざわざ召し出されて徒士(かち)になつた男である。お佐代さんが茶を()んで出して置いて、勝手へ下がつたのを見て狡獪(かうくわい)なやうな、滑稽(こつけい)なやうな顏をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。

「先生。只今のは御新造様でござりますか。」

「さやう。妻で。」恬然(てんぜん)として仲平は答へた。

「はあ。御新造様は學問をなさりましたか。」

「いゝや。學問と云ふ程の事はしてをりませぬ。」

「して見ますと、御新造様の方が先生の學問以上の御見識でござりますな。」

「なぜ。」

「でもあれ程の美人でお(いで)になつて、先生の夫人におなりなされた所を見ますと。」

 仲平は覺えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なやうな世辭を面白がつて、得意の笊棋(ざるご)の相手をさせて歸した。

 

 お佐代さんが國から出た年、仲平は小川町(をがはまち)に移り、翌年又牛込見附外(うしごめみつけそと)の家を買つた。値段は(わづか)十兩である。八疊の間に床の間と廻縁(まはりえん)とが付いてゐて、外に四疊半が一間、二疊が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八疊の間に机を据ゑて、周圍に書物を山のやうに積んで讀んでゐる。此頃は靈岸島(れいがんじま)鹿島屋淸兵衛(かしまやせいべゑ)が藏書を借り出して來るのである。一體仲平は博渉家(はくせふか)でありながら、藏書癖はない。質素で濫費(らんぴ)をせぬから、生計に困るやうな事はないが、十分に書物を買ふだけの金はない。書物は借りて()て、書き拔いては返してしまふ。大阪で篠崎の塾に通つたのも、篠崎に物を學ぶためではなくて、書物を借るためであつた。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであつた。此年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生れた。

 其次の年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方(おしあひかた)と云ふ役を命ぜられたが、目が惡いと云つてことわつた。薄暗い明りで本ばかり讀んでゐたので實際目が好くなかつたのである。

 其又次の年に、仲平は麻布(あざぶ)長坂裏通に移つた。牛込から古家を持つて來て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで觀風旅行をした。淺葱織色木綿(あさぎおりいろもめん)打裂羽織(ぶつさきばおり)裁附袴(たつつけはかま)で、腰に銀拵(ぎんごしらへ)の大小を()し、菅笠(すげがさ)(かぶ)草鞋(わらぢ)穿()くと云ふ支度(したく)である。旅から歸ると、三十一になるお佐代さんが始て男子を生んだ。後に「岡の小町」そつくりの美男になつて、今文尚書(きんぶんしやうしよ)二十九篇で天下を治めようと云つた才子の棟藏(とうざう)である。惜いことには、二十二になつた年の夏、暴瀉(ばうしや)で亡くなつた。

 中一年置いて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入つてゐて、番町袖振坂に轉居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。(しか)し乳が少いので、それを雜司谷(ざふしがや)名主方(なぬしかた)へ里子に遣つた。謙助は成長してから父に似た異相の男になつたが、後日安東益斎(あんどうえきさい)と名告つて、東金(とうがね)、千葉の二箇所で醫業をして、(かたはら)漢學を教へてゐるうちに、持前の肝積(かんしやく)のために、千葉で自殺した。年は二十八であつた。墓は千葉町大日寺(だいにちじ)にある。

 

 浦賀へ米艦が來て、天下多事の秋となつたのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五の時である。大儒(たいじゆ)息軒(そくけん)先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に卷き込まれようとして(わづか)(まぬか)れてゐた。

 飫肥藩(おびはん)では仲平を相談中(さうだんちゆう)と云ふ役にした。仲平は海防策を獻じた。これは四十九の時である。五十四の時藤田東湖と(まじは)つて、水戸景山公(みとけいざんこう)に知られた。五十五の時ペルリが浦賀に來たために、攘夷封港論(じやういほうかうろん)をした。此年藩政が氣に入らぬので辭職した。併し相談中を()められて、用人格と云ふものになつただけで、勤向(つとめむき)は前の通であつた。五十七の時蝦夷(えぞ)開拓論をした。六十三の時藩主に願つて隱居した。井伊閣老が櫻田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。

 家は五十一の時隼町(はやぶさちやう)に移り、翌年火災に()つて、燒殘(やけのこり)の土藏や建具を賣り拂つて番町に移り、五十九の時麹町(かうぢまち)善國寺谷(ぜんこくじだに)に移つた。邊務を談ぜないと云ふ事を書いて二階に張り出したのは、番町にゐた時である。

 

 お佐代さんは四十五の時に(やゝ)重い病氣をして直つたが、五十の歳暮(せいぼ)から又床に就いて、五十一になつた年の正月四日に亡くなつた。夫仲平が六十四になつた年である。跡には男子に、短い運命を持つた棟藏と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の(せがれ)田中鐵之助に()して不縁になり、次いで鹽谷(しほのや)の媒介で、肥前國(ひぜんのくに)島原産の志士中村貞太郞、假名(けみやう)北有馬太郞に()した須磨子と、病身な四女歌子との二人が殘つた。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お絲、小太郞の二人の子を聨れて安井家に歸つた。歌子は母が亡くなつてから七箇月目に、二十三歳で跡を追つて亡くなつた。

 お佐代さんはどう云ふ女であつたか。美しい(はだ)に粗服を(まと)つて、質素な仲平に仕へつゝ一生を終つた。飫肥吾田村(おびあがたむら)字星倉から二里(ばかり)小布瀬(こふせ)に、同宗(どうそう)の安井林平と云ふ人があつて、其妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと云つて、木綿縞(もめんじま)(あはせ)を一枚持つてゐる。恐らくはお佐代さんはめつたに絹物などは著なかつたのだらう。

 お佐代さんは夫に仕へて勞苦を辭せなかつた。そして其報酬には何物をも要求しなかつた。(たゞ)に服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅(ていたく)に居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも云はず、(うま)い物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。

 お佐代さんが奢侈(しやし)を解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出來ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹(てんたん)であつたとは、誰も信ずることが出來ない。お佐代さんには(たし)かに尋常でない望があつて、其望の前には一切の物が塵芥(ちりあくた)の如く卑しくなつてゐたのであらう。

 お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の榮達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定することは出來ない。併し()し商人が資本を(おろ)し財利を(はか)るやうに、お佐代さんが勞苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたのだと云ふなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出來ない。

 お佐代さんは必ずや未來に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目(めいもく)するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる餘裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の對象をば、或は何物ともしかと辯識してゐなかつたのではあるまいか。

 

 お佐代さんが亡くなつてから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。又二箇月目に德川將軍に謁見(えつけん)して、用人席にせられ、翌年兩番上席にせられた。仲平が直參(ぢきさん)になつたので、藩では謙助を召し出した。次いで謙助も昌平黌出役になつたので、藩の名跡(めいせき)は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女絲に、高橋圭三郞といふ(むこ)を取つて立てた。併し此夫婦は早く亡くなつた。後に須磨子の生んだ小太郞が繼いだのは此家である。仲平は六十六で陸奥塙(むつはなは)六萬三千九百石の代官にせられたが、病氣を申し立てゝ赴任(ふにん)せずに、小普請入(こぶしんいり)をした。

 住ひは六十五の時下谷徒士町(したやかちまち)に移り、六十七の時一時藩の上邸(かみやしき)に入つてゐて、麹町一丁目半藏門外の壕端(ほりばた)の家を買つて移つた。策士雲井龍雄と月見をした海嶽樓(かいがくろう)は、此家の二階である。

 

 幕府滅亡の餘波で、江戸の騒がしかつた年に、仲平は七十で表向(おもてむき)隱居した。間もなく海嶽樓は類燒したので、暫く藩の上邸や下邸に入つてゐて、市中の騒がしい最中に、王子在領家村(りやうけむら)の農高橋善兵衛が弟政吉の家に(ひそ)んだ。須磨子は三年前に飫肥(おび)へ往つたので、仲平の隱家(かくれが)へは天野家から來た謙助の妻淑子(よしこ)と、前年八月に淑子の生んだ千菊(せんぎく)とが附いて來た。産後體の惡かつた淑子は、隱家に來てから六箇月目に、十九で亡くなった。下總(しもふさ)にゐた夫には逢はずに死んだのである。

 仲平は隱家に冬までゐて、彦根藩の代々木邸に移つた。これは左傳輯釋(さでんしふしやく)を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で舊藩の櫻田邸に移り、七十三の時又土手三番町に移つた。

 仲平の亡くなつたのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出來た、十歳の孫千菊が家を繼いだ。千菊の夭折(えうせつ)した跡は小太郞の二男三郞が立てた。

附 録

一、事實

 明和四年丁亥(ひのとゐ)九月三日安井完(やすゐくわん)(うまる)日下部(くさかべ)姓。(あざな)子全。號滄洲(がうさうしう)。家在日向國宮崎郡淸武村中野。

 寛政八年朝淳(あさあつ)生。字子樸(しぼく)。又士禮。通稱文治。號淸渓(せいけい)

 十一年己未(つちのとひつじ)(かう)生於淸武村今泉岡川添氏之家。字仲平。以字稱(あざなをもつてしようす)。初號淸瀧(せいらう)(なかごろ)足軒。後息軒。又號半九陳人(はんくちんじん)葵心子(きしんし)

 文化元年甲子(きのえね)完至江戸。師事古屋昔陽(せきやう)。訪皆川淇園(きえん)于京都。

 三年丙寅(ひのえとら)四月完歸郷。

 四年丁卯(ひのとう)完爲藩治水使(くわん、はんのちすゐしとなる)

 九年壬申(みづのえさる)川添氏佐代生。

 十年癸酉(みづのととり)完爲教授。

 文政元年戊寅(つちのえとら)(まき)生。槇非安井氏血族(まきはやすゐうぢのけつぞくにあらず)。後千菊夭折。槇權爲戸主(まき、かりにこしゆとなる)

 二年己卯(つちのとう)衡至大阪。入篠崎小竹門。

 四年辛巳(かのとみ)朝淳歿。葬于淸武村文榮寺。衡歸郷。

 七年甲申(きのえさる)完兼料兵使(くわん、れうへいしをかぬ)。衡往江戸。入古賀侗(とうあん)門。(ついで)入昌平黌。

 九年丙戌(ひのえいぬ)衡爲侍讀。

 十年丁亥(ひのとゐ)衡歸郷。中野明教堂(なる)

 十一年戊子(つちのえね)須磨生。

 天保二年辛卯(かのとう)飫肥(おび)振德堂成。完爲總裁兼教授。衡助教。安井氏(うつる)飫肥加茂。

 三年壬辰(みづのえたつ)飫肥安國寺安井氏祖先墓(なる)

 四年癸巳(みづのとみ)衡至江戸。居外櫻田邸(そとさくらだのやしきにをる)

 五年甲午(きのえうま)衡歸郷。

 六年乙未(きのとひつじ)七月二十一日完卒(くわん、そつす)。年六十九。葬于飫肥太平山。是年登梅(とめ)生。

 七年丙申(ひのえさる)衡至江戸。居千駄谷邸。

 八年丁酉(ひのととり)衡入昌平黌。爲斎長(さいちやうとなる)。爲藩大番所番頭。後移外櫻田邸。又(しう)居芝金地院(しばこんぢゐんにしうきよす)

 九年戊戌(つちのえいぬ)衡歸郷。次徒江戸(ついでえどにうつる)。居千駄谷邸。冬移五番町。

 十年己亥(つちのとゐ)居上二番町。次移小川町。

 十一年庚子(かのえね)五月八日登梅(えうす)(わづかに)六歳。葬于高輪東禪寺。衡移牛籠(うしごめ)門外。是年歌生。

 十二年辛丑(かのとうし)衡任押合方(かう、をしあひかたににんず)以病辭(やまひをもつてじす)

 十三年壬寅(みづのえとら)移麻布長坂裏通。夏北遊。八月十九日朝隆生(あさたかうまる)字棟卿(あざなはとうけい)。通稱棟藏。

 弘化元年甲辰(きのえたつ)衡居外櫻田邸。次移番町袖振坂。十一月十日敏雄生。後名(のちのな)利雄。又(ます)。通稱謙吉。又謙助。號默斎(もくさい)

 四年丁未(ひのとひつじ)衡爲相談中。

 嘉永二年己酉(つちのととり)移隼町。

 三年庚戌(かのえいぬ)移番町。

 五年壬子(みづのえね)須磨嫁田中氏。後再嫁中村氏。

 六年癸丑(みづのとうし)衡罷相談中。爲用人格。

 安政四年丁巳(ひのとみ)絲生。是年移善國寺谷。

 五年戊午(つちのえうま)小太郞生。名朝康。號樸堂(ぼくだう)

 萬延元年庚申(かのえさる)請藩致仕(はんにちしをこふ)

 文久元年辛酉(かのととり)罷用人格。

 二年壬戌(みづのえいぬ)正月四日佐代卒。年五十一。葬于東禪寺。七月二十日衡被幕府召(ばくふにめさる)。八月四日歌歿。年二十三。九月十五日衡謁將軍。二十六日列用人席。

 三年癸亥(みづのとゐ)二月一日衡爲兩番上席。移下谷徒士町(かちまち)。六月十九日朝隆歿。年二十二。葬于駒籠龍光寺。

 元治元年甲子(きのえね)二月十日衡任陸奥塙(むつはなは)代官。八月以病辭。

 慶應元年乙丑(きのとうし)居外櫻田邸。次移半藏門外。九月須磨赴飫肥。居淸武村大久保平山。

 三年丁卯(ひのとう)七月飫肥太平山碑成。八月千菊生。

 明治元年戊辰(つちのえたつ)二月十七日衡請幕府致仕。居外櫻田邸。次移千駄谷邸。三月十三日徒足立郡領家村。四月謙助寓比企郡(ひきごほり)番匠村醫小室元長家。七月至下總國東金(しもふさのくにとうがね)。九月二十二日天野氏(よし)歿。年十九。葬于龍光寺。十一月徒代々木彦根藩邸。

 二年己巳(つちのとみ)八月居外櫻田邸。

 四年辛未(かのとひつじ)七月二日謙助自殺于下總。九月衡移土手三番町。

 九年丙子(ひのえね)九月二十三日衡卒。年七十八。葬于駒籠養源寺。

  右參取若山甲藏君息軒傳。現存金石文。安井小太郞君竝依知川敦(いちかはあつし)君書信。

二、東京竝其附近遺蹟

 駒籠養源寺。有安井息軒先生碑。明治十一年九月川田剛撰文。日下部東作書。

 有安井須磨子墓。明治十二年五月十九日享年五十一歳。

 有安井千菊墓。明治十六年一月一日享年十八歳。

 有安井槇子墓。明治二十一年十月六日享年七十一歳。

 有安井健一郞墓。明治二十四年九月二日。

 駒籠龍光寺。有安井朝淳之墓。文久三年六月十九日歿。享年二十有一。昌平黌教授安井衡誌。三浦汝檝(みうらじょしふ)書。

 有安井孺人天野(じゆじんあまの)墓。明治戊辰九月二十二日歿。享年十九歳。安井謙助妻。

  右大正三年三月一日往訪(ゆきとぶらふ)

 高輪東禪寺。有雪峰妙觀大姉墓。飫肥安井仲平妻川添氏佐代。享年五十一。文久二年壬戌(みづのえいぬ)正月四日。

 有桂月妙輝信女墓。飫肥安井仲平第四女歌。享年二十三。文久二壬戌(みづのえいぬ)年八月四日。

 有玉影善童女墓。日州飫肥安井仲平第三女。俗名登梅(とめ)。享年六歳。天保十一庚子(かのえね)年五月八日。

  右大正三年三月七日往訪。

 下總國千葉町大日寺。有安井敏雄墓。明治四年辛未(かのとひつじ)七月三日歿于下總千葉僑居(けうきよ)。息軒安井衡誌。

  右大正三年四月二十八日。依知川敦君往訪。

 

 

文京区立森鷗外記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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森 鷗外

モリ オウガイ
もり おうがい 小説家 1862(文久2)年~1922(大正11)年 島根県津和野生まれ。東京帝大医学部卒業後、陸軍軍医となり、ドイツ留学。軍医総監を経て帝室博物館長兼図書頭として生涯を終えた。公務の傍ら訳詩集『於母影』をかわきりに詩、戯曲、小説、評論および翻訳に健筆をふるい、晩年には『澁江抽斎』をはじめとする史伝への道も開いた。

掲載作は1914(大正3)年「太陽」初出。歴史小説より史伝への移行を予兆した平淡温厚の滋味掬すに足る逸品。