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雄鶏『オサムの朝』より

 修は背中で躍るランドセルを片手で押さえながら畔道を懸命に走った。ランドセルの中の鉛筆箱がかたこととくぐもった音をたてていた。麦の畑を(よぎ)って走る線路に目をやった。

 銀色の日射しが青々とした麦畑一面に降り注いでいた。南からの風がまだ穂のない麦の葉を揺らし、眩ゆい波紋を作って拡がっていく。

「まだ来ねえ」

 修は左手の雑木林を窺った。線路はその雑木林のところで、ゆるく右にカーブしながら坂を下り、こんもりと茂った鎮守の森に消えている。機関車はまだ駅を出ていない。

「おーい、オサムぅ。待っててくれよぅ」

 だいぶ後ろの方からテツオの甲高(かんだか)い叫び声が聞こえた。修は振り返らず走り続けた。細い畔道はところどころ泥でぬかっていて柔らかく、足をとられそうだった。ズック靴はすっかり泥にまみれていた。しっぱねがズボンの尻の部分にまで上がっていた。

 畔道が終り、ようやく線路の土手に出た。修は息を切らせながら、左手の森を見た。機関車の姿は見えなかった。

 修はランドセルを下し、線路脇の草地に放り出した。テツオが畔道をころがるように走ってくる。

 修はレールに屈みこみ、膝をついて片方の耳を押しあてた。鉄錆の臭いが鼻孔を刺戟した。ひんやりとした感触が頬に当った。耳を澄ました。かすかに透き通った響きの、鼓動のような音が聞こえた。

 砂利に足を滑らせ、ころびそうになりながら、テツオが走りこんだ。テツオは修の傍らに腹這いになり、レールに耳を当てた。テツオは修と顔を見合わせた。

「聞えっけ?」

「来るぞ」

 修は頭をもたげ、鎮守の森の方角に目をやった。線路がくねくねと曲り、陽炎の中にゆらめいていた。

「駅を発車したんだ」

「ほんとだぁ」

 テツオはレールに耳を押しつけたまま、目をくりくりと動かした。修はもう一度、レールに耳をつけた。前よりも線路を伝わってくる音がはっきりと聞える。

「持って来たか」

「持ってねえんだ。忘れてきた」

「チッ。ぼくの半分わけてやるよ」

「悪かんべ、そんじゃ」

「いいよ」

 修は上衣のポケットを探り、数本の釘を取り出した。大工箱から盗んできた釘だった。テツオの掌と自分の掌にかわるがわる数えながら置いた。テツオは上衣の袖で鼻をすすった。袖口はこびりついた鼻汁の跡でてかてかになっていた。

ごじゃっぺ(インチキ)じゃなかんべな?」

「ごじゃっぺじゃないよ。(つとむ)兄ちゃんが教えてくれたんだ。東京じゃ、電車に釘をひかせるんだって。そうすっと釘が磁石になるんだ」

「オサムの兄ちゃんがいうんなら、ごじゃっぺじゃなかんべ」

 テツオは納得した面持ちでうなずいた。

 兄の勉は修より五歳年上で、同じO町の小学校の六年生だった。勉たちは都会からの転校生ということで、なにかにつけいじめられていた。それでも、勉は都会のことについてよく知っていたので、みんなから一目置かれていたのだ。

 修たちがO町に引っ越して来たのは三年前のことだった。東京の家が戦災で焼け出されたため、O町に住む母親の姉夫婦を頼って越して来たのだ。もっとも修がまだ四歳の頃のことで、修には東京での生活の記憶はまったくといっていいほどなかった。

 O町は栃木県北、那須高原のはずれに位置するひなびた旧城下町だった。かつては旧白河街道の道筋に当る宿場町として栄えていた。ところが、江戸時代末期、O藩は会津藩や東北列藩と歩調を合せて、薩長の官軍に非協力的であったため、明治新政府はその報復として国有鉄道を敷く際に、旧街道筋のO町から四、五キロ西にはずれた隣りのN町を通したとのことだった。O町の住民たちが鉄道に無知だったため、敷くのに反対したということもあったらしい。

 いずれにしても、東北線から外れたO町は過疎の町になり、一方の東北線が通るN町は塩原温泉の玄関町という地の利もあって飛躍的に発展した。

 N町からO町を通り、さらに奥の八溝山系の麓に近いK町まで、私鉄の東野鉄道が敷かれたのは明治も終る頃だった。O町から東京へ出るためには、東野鉄道でN町に行き、東北線に乗り換えねばならなかった。

 修はこの東野鉄道が大好きだった。東野鉄道は単線で、一日の本数も数える程しかなかった。修には広々した麦畑や田圃の中を、唸りをあげて突っ走る気動車や蒸気機関車は憧れの乗り物だった。修はまだ東野鉄道に二、三度しか乗ったことがなかった。だから、早く大人になりたかった。大人になれば毎日、東野鉄道に乗ってどこかに出かけられるからだ。

「おい、やっぱ、蒸気機関車だ」

 森の高い梢越しに黒い煙が立ち昇るのが見えた。修は手に持った釘をレールの上に急いで並べはじめた。テツオも一緒に並べだした。

「オサム、なんで釘が電車にひかれると磁石になんだべ?」

「知んね。兄ちゃんが知ってっかもしんね」

「蒸気機関車じゃだめじゃなかんべか」

「なんで?」

「なんでって、電車ってのは電気で走っぺ。だから、磁石になんだんべ?」

「分かんね。まずやってみっぺよ。機関車にひかせてみれば、分かっぺ」

 修はそういいながら鎮守の森の方を見た。機関車の黒い車体が森の陰から現われた。長い煙突から、もくもくと黒い煙を吹き上げている。

 蒸気機関車といっても東野鉄道のそれはかなりの旧式で、D51やC58といったスマートな蒸気機関車とは縁遠いシロモノだった。明治初期に日本で初めて新橋ー横浜間を“岡蒸気”と呼ばれる蒸気機関車が走ったが、その面影を残したような機関車である。煙突は異様に長く、排煙口にはスス取りの金網が張ってあった。駆動輪は二輪しかなく、燃料は石炭でなく、木材だった。引いている車両も通常、客車が二輌に貨車二輌程度で、馬力が少ないためにそれ以上の車輌を引っぱっても走れそうになかった。

 少しでも坂に差しかかると、蒸気機関車はあえぎだし、一生懸命、黒い煙や白い蒸気を吐きながら走った。その音が、修には「なんだ坂、こんな坂」という掛け声に聞えるのだった。そんな時、汽車の速度は大人が早足で歩くぐらいに落ち、修たちが走っても容易に追いつくことができた。

 修とテツオは釘をレールに並べ終えると、麦畑に下りて待った。蒸気機関車は姿を現わしてからも、なかなか近付いて来なかった。

 修はテツオと一緒に草地に坐り、蒸気機関車が走ってくる様子をうっとりと眺めていた。近付いて来ると、修たちは蒸気機関車の音に合わせて、「なんだ坂、こんな坂」「なんだ坂、こんな坂」と大声で囃したてた。

 蒸気機関車は轟音を残して、修たちの前をゆっくりと走り過ぎた。修とテツオはすぐさま線路に駈け上がった。

「あれまあ、ぺっしゃんこになってらあ」

 テツオは真っ平らになった釘を手にとった。修も自分の分の釘を急いでかき集めた。テツオは平らになった釘を互いに近付けたり離したりした。

「どうだっぺ?」

「……やっぱ、だめだ」

 修は首を傾げた。掌の上の釘は互いに近付けても、ぴくりとも動かなかった。修は頭をかいた。テツオが慰め顔で、

「こんど、気動車でやってみっぺ」といった。

「うん。そうすっか」

「そんなら、このまま釘を置いといてみっぺ。明日までには気動車が何回もひいてぐからよ」

 修はテツオの提案に一も二もなく賛成した。二人はまた競うように潰れた釘をレールの上に並べた。

 二人は並べ終えると、「家まで競争だ」と叫び、畔道に駈けこんだ。修は放り出しておいたランドセルを拾う分だけ遅れて、テツオの後を追った。

 畔道から家の前を通る農道に出てからも、修はテツオに追いつけなかった。

 テツオは修の家の前まで来ると、立ち止まった。修はようやくテツオに追いついた。二人は肩で息をしながら、笑い合った。

「また明日、遊んべ」

「うん。また明日」

 修はテツオと手を振って別れ、家に通じる小道に走りこんだ。庭先で餌をついばんでいた鶏たちが、コココッと鳴きながら道をあけた。

「ただいま、タロー」

 雌鶏たちを従えるようにして花壇の土を足で掘り起こしていた白レグホンの鶏に叫んだ。タローは飼っている鶏たちの中で一番体格のいい雄鶏だった。

 タローは赤いトサカをぴくっと動かし、修を見つけると、羽をばたつかせながら花壇から飛び出した。

「やめろ、タロー。後で遊んでやるから」

 修は両手で頭を抱え、玄関に駈けた。タローは羽を大きく拡げ、修の背中に飛びついた。

「痛っ、痛いってば。よせ、タロー」

 タローは修のランドセルの上に乗り、修の頭をくちばしで突っついた。

「やめろってば、このバカタロー」

 手を振り、タローを追い払った。タローは勝ち誇ったようにコーッコーッと叫びながら、羽を拡げて庭先に飛び降りた。抜けた羽毛が宙に舞い上がった。今度は修がタローを追いかけた。タローは羽をばたつかせて逃げ回った。途中で身を翻して、玄関の引き戸を開け、家の中に駆けこみ勢いよく戸を閉めた。

「ただいまーッ」

 上がり(がまち)にランドセルを放り出した。靴を脱ごうとして躰を硬直させた。玄関の土間に古びた兵隊靴がそろえてあった。薄暗い六畳間に見知らぬ男の痩せこけた背中が見えた。男は正座したまま、修の方を振り向いた。

 修は男の顔を見て馬だと思った。男の顔は異様に長く、不自然に目が大きく目蓋(まぶた)が脹れ上がっていた。まるで泣いているように口元を歪めている。だが、よく見ると男の口には歯並びのいい歯が覗いており、それで男は笑っているのだと分かった。

 男と向き合う格好で父の行雄が胡坐をかいて坐っていた。父はちらりと修に目をやったが、何もいわず煙草を吸っていた。

「お帰り、オサム。遅かったね」

 母の声がして、台所から手拭いを姉さんかぶりにした母の姿が現われた。修は土間に突っ立ったまま母を見上げた。母は手拭いを頭からはずし、しきりに目を拭った。目が赤く潤んでいた。そんな母を見るのは初めてだった。

「さ、オサム、挨拶おし。弥太郎おじさんが無事に帰ってらしたんだよ。シベリアからね」

「シベリア?」

「そう。シベリアって、寒くて遠くて、食物もない酷いところだったそうよ」

 修はまじまじと馬面の男を眺めた。シベリアがどこかは知らなかったが、母の口振りから察してともかく大変な所なのだろうと思った。修はちょこんと頭を下げた。

義姉(ねえ)さん、この子がオサム君かい」

「ええ。そうですよ。弥太郎さんが出征している間に生まれた子でね。きかん坊で元気がよすぎて困ってるんですよ」

 弥太郎おじさんは口を開けたまま、「あーあー」と何度もうなずいた。弥太郎おじさんは身をよじって後ろを向いているのがつらくなったのか、大儀そうに畳に片手をついた。よれよれになった長袖のシャツがめくれ、骨に皮がこびりついたような痩せ細った腕があらわになった。

 骸骨の腕みたいだと修は身震いした。学校の理科室に立っている骸骨を思い浮かべたのだった。弥太郎おじさんはふあふあと空気がもれるような音をたてて笑った。

「さっ、オサム。外で遊んどいで。さっきみたいに騒がしくしちゃだめよ」

「だってタローがかかってくるんだ」

「本当に仕様がない鶏だよ。卵一つ生みやしないで、ただ餌ばっかり食べて、まるで働こうとしないんだから」

 母は声を荒げて父の方に目をやった。

「仕方ないだろ、ありゃ雄鶏なんだから」

 父は仏頂面で卓袱台に出ているザルに手を伸ばし、サツマイモの山から、一本を選んで皮を剥いた。母はとげのある口調で追い討ちをかけた。

「穀潰しの雄鶏でも役に立つ時は役に立つもんですよ」

「そりゃ、おれへのあてつけか」

 父は面白くなさそうに下を向きながらイモを齧った。弥太郎おじさんは困ったような顔をし、鳥の足のような指でサツマイモを一本取り上げ、修の方へ差し出した。

「ほれ、これ、どうだ」

「腹減った。母ちゃん」修は弥太郎おじさんから目をそらし、母に手を出した。

 母は何かいいかけたが、思い直した様子で台所に入った。すぐに、新聞紙にイモを包みながら戻って来た。修はホカホカにふかしたイモを受け取った。

「さっ、行っといで」

「タローとジョンの分は?」

「それだけ。人間さまが食べていくのがやっとなのに、どうして鶏や犬の分まであるというの」

 母は顔をしかめて首を横に振った。修はあきらめ、弥太郎おじさんを見た。弥太郎おじさんは歯茎を剥き出しにした口を開けたまま、まだイモを突き出していた。

「おれ、いらね」

 修は踵を返して、玄関の戸を開け、外に飛び出した。母の呼ぶ声がした。聞えない振りをして、隣りの村上さんの家に向かって走った。村上さんの家は修の家の横手にあるなだらかな山の上にあった。

「タローッ」

 走りながら、野菜畑で土を足で掻き掻き餌を探しているタローを呼んだ。タローは修の声にきっと頭を上げ、羽をばたつかせながら修の方に突進して来る。近くにいた雌鶏たちが逃げまどって散った。

「タロー、休戦だ、休戦。イモ、分けてやっからよう」

 修は立ち止まり、イモを千切ってタローの方に放った。タローは一瞬、飛び上がったが、イモには目もくれず、修に突っかかって来た。

「やめろ。やめろってば、このバカ」

 慌てて坂の小道を駆け登った。坂の上で盛んにジョンの吠える声がした。修の声を聞きつけて吠えだしたのだ。

 ジョンは修の躰よりも倍ぐらい大きなシェパードだった。ジョンは村上さんの家の庭にある杉の根元に鎖で繋がれていた。タローは坂の途中まで、修の尻や背に飛びついてはくちばしで突っついていたが、急に追うのを止めた。タローはしっかり自分の領界を心得ていた。坂の途中からはジョンの領界なのを知っているのだった。

 ようやく坂の上に着くとタローに小石を投げた。タローは小石に驚いて飛びのいたが、逃げなかった。修はタローにアッカンベーをした。ズボンを膝まで下げ、坂の下に向って立小便をした。タローは片足で立ったり、きょときょと首を動かしながら、しばらく修の様子を窺っていたが、やがて胸を張り意気揚揚と雌鶏たちのいる所に戻って行った。

「あのバカタローが」

 身震いをした小便を切り、ズボンをたくし上げた。ジョンは太い鉄の鎖をピンと張り、後ろ脚で立ちながら、修を迎えた。ジョンの背丈はゆうに大人の丈ほどはある。

「よし、よし。ジョン、おまえはタローよっか、何十倍も何百倍も利巧だ」

 新聞紙の包みからイモを取り出し、半分に折って差し出した。ジョンは鎖をつけたまま、跳ね回り、走り回っていたが、すぐに修の手許にやって来ると、イモに一口で食いついた。ジョンはろくにイモを噛みもせずごくりと呑みこんで、また修の手許に目をこらし、尻尾をしきりに振った。

「おまえも腹減ってんのか。おまえの腹は底なしだかんな」

 修は口に入れかけていた残りの半分のイモを、さらに半分にして宙に放り上げた。ジョンは大声で吠え、落ちてくるイモのかけらを一呑みで食べた。修は、その間に残りのイモを自分の口に押し込んだ。食べ終ったジョンはまた長い舌をたらし、もの欲しげに修を見つめた。

「もうねえよ。ほら何もねえ」

 修は口をもぐもぐさせながら、くしゃくしゃに丸めた新聞紙を拡げて見せた。ジョンは鼻を鳴らしながら紙を嗅いだ。

修坊(しゅうぼう)、帰ったんか」

 ジョンはその声に嬉しそうな吠え声をたてて鎖を引っぱった。鎖は杉の皮を削ってじゃらじゃらと音をたてる。修は顔を上げた。網のついた竿を肩にかついだ村上の爺さまが頬を崩していた。

「爺さま、ジョンが腹空かしてっぞ」

「いつものことだんべ。犬はいいんだ。一日二食食べれば十分なんだ」

「なんで?」

「腹いっぱい食わせっと犬は馬鹿になんだ。寝てばっかいて、魚泥棒を見ても吠えなくなんだ。そうすっと番犬の意味がなかんべ」

 ジョンはうなずくように吠えた。爺さまはよしよしとジョンの頭を叩いた。爺さまは胸まで被うゴム長ズボンをはいていた。

「魚、()るんけ?」

「ああ、何尾かな。晩飯のおかずだ。マスたちに餌をやんねばなんねしな」

「おれも行ぐべ。手伝っていいか」

「いいとも。来たらよかんべ」

 爺さまは修の家とは反対側の坂の小道を下りはじめた。山の向う側には、沢の水をせき止めて造った養魚場があった。養魚場は森に囲まれて静まりかえっていた。いくつもに仕切られた養魚池には澄んだ清水がなみなみとたたえられ、青空を映していた。ニジマスの黒々とした魚影が群をなして動いている。時折、銀色の腹をきらめかせたマスが尾で水を叩いてはね上がった。そのたびに見事な同心円の波紋が幾重にもなって拡がった。

 村上の爺さまは養魚場の管理人だった。丸坊主の頭は短い白髪でびっしりと被われていた。爺さまは独り者で、番犬のジョンと暮らしていた。

「ジョン、おまえは大人しく待ってろ。あとで勉兄ちゃんが帰って来たら、運動に連れていってやっから」

 ジョンは駄々っ子のように甲高い吠え声をたて、鎖を千切らんばかりに跳びはねた。修は爺さまの先に立って九十九(つづら)折りの小道を下りて行った。

 爺さまと修は養魚池に下りると小屋からバケツに入れたサナギの餌を運び出した。修はサナギの放つむせかえるような悪臭に吐き気を覚えたが、息を止め、ひしゃくにサナギを掬っては養魚池の水面に放った。たちまち水面が盛り上がるように、ニジマスたちが集まって来た。銀色のウロコが太陽の光にきらめいた。修は餌を撒くのも忘れて大群のむらがる様に見とれた。

「修坊、早よう撒けや」

 いつの間にか爺さまは網の付いた竿を池の水に浸け、マスが集まるのを待ち受けていた。修は気を取り直し、サナギを何度もひしゃくに掬い上げては、水面に撒いた。マスたちがひと固まりになって集まった。頃合いを見計らい、爺さまの竿が一閃した。爺さまはゆっくりと網を池の端に引き揚げた。十尾以上のマスが網の中ではね回っていた。

「お客が来てるんだべ。母ちゃんに、これ持っていけや」

 爺さまは空のバケツに何尾かのマスをあけた。バケツの中でマスたちが元気のいい音をたてていた。

「ありがと」修はバケツを覗いた。

「父ちゃん、絵さ、描いてっか」

「知んね」修は首を振った。

「絵描きは大変だんべなあ。いまどき絵を描いたって買ってくれる人なんかなかんべかんな。おまえも母ちゃんに苦労かけねで、だいじにせんとバチが当るべ、修坊」

「分かってら」

 修はバケツを持ち上げてよろめいた。山の上でジョンが修の家の方角に向って嬉しそうに吠えはじめた。

「あ、兄ちゃんだ。きっと兄ちゃんが学校から帰って来たんだ」

 修にはジョンの鳴き方で分かるのだった。爺さまはにこやかな笑みを浮べ、修に代わってサナギを池に撒きだした。水面が沸き立つように揺れ、水音が池を囲む森の木立に響き渡った。

 その夜、隣りのアトリエの部屋で大人たちは夜更けになっても話し合っていた。勉兄ちゃんは布団にもぐりこむとすぐに規則正しい寝息をたてていた。修は大人たちの気配に耳を澄ました。時々、母の嗚咽(おえつ)する声や激しく父をののしる声が聞えた。それをとりなすような弥太郎おじさんや父の声がしていたが、やがて、それも分からなくなった。修はいつの間にか、深い睡りの世界に引きずりこまれていた。

 

 一週間が何ごともなく過ぎていった。

 勉兄ちゃんや大人たちの話から、弥太郎おじさんと父が兄弟にもかかわらず、まったく似ていないのは、血のつながっていない義理の兄弟だからだと分かった。

 父は赤ん坊の時に、後継(あとつぎ)のなかった城山家に養子としてもらわれた。その後に誕生したのが弟の弥太郎おじさんだった。弥太郎おじさんは戦争が始まって間もなく出征し、満洲(現中国東北部)に渡った。敗戦の際にソ連軍に降伏し、シベリアに抑留されていたのだった。何年間も消息がなかったので、父も母も弥太郎おじさんは死んだものと思っていたところ、先の引揚船でようやく帰国したのだ。

 長くてつらい抑留生活の間に弥太郎おじさんは栄養失調にかかっていた。帰国後、東京に戻る前に、兄である父の許に無事な姿を見せに立ち寄ったのである。

 もっとも修にとっては、そんなことはどうでもいいことだった。三日も寝起きを共にするうちに、修は弥太郎おじさんのことが気にならなくなっていた。ただ骸骨のように痩せた躰付きはまだ気持ちが悪かったので、おじさんにあまり近付かなかった。弥太郎おじさんの方は、さかんに修に声をかけたが、修は逃げるように外に遊びに出て、昼間はほとんど家に戻ることがなかった。

 修はテツオと一緒に学校から帰る途中、以前線路に並べておいた釘のことを思い出した。二人は急いで線路に駆けつけたが、釘はちりぢりばらばらになっていた。二人は砂利の中を探し回り、ようやく何本かの平らになった釘を見つけ出した。だが、一本として磁石になった釘はなかった。

「どうしてだっぺ?」テツオが(いぶか)った。

「気動車や蒸気機関車じゃだめかもしんね。やっぱ電気で走る電車でないとな」

「気動車は電気で走っているんでねえのか?」

「バカこけ。気動車は気動車だんべ。あれはガソリンで走っているそうだぞ」

 修は腹立ちまぎれに釘を麦畑に投げた。テツオも力一杯釘を放り投げた。

 二人ともがっかりしたが、またいつものように駆けっこ競争をはじめると、すっかり釘のことなどわすれてしまった。

 家の前に着くと修はテツオと大声で「また明日」をいい合って別れた。家の庭先に入る時、いったんタローの姿がないのを確かめてから、一目散に玄関に走りこんだ。「ただいまーッ」と叫びながら、ランドセルを放り出した。六畳間にもアトリエの板の間にも、弥太郎おじさんの姿はなかった。いつも居る父の姿も見当らない。

「母ちゃん、父ちゃんとおじさんは?」

「父さんは町に買物に出かけた。弥太郎おじさんはその辺を散歩しているはずだわ。オサム、悪いけど弥太郎おじさんを探して来て」

「なんで」修は口を尖らせた。

「お茶でも飲みませんかって、そういうのよ」

「おれ、テツオん()へ遊びに行く約束なんだけどな」

「いいこと、弥太郎おじさんと父さんは、一緒に明日東京へ帰るのよ」

 母は台所から顔も出さずにいった。いつになく明るい陽気な声だった。

「なんで、父ちゃんも行くんだ?」

「田舎でブラブラしていてもしかたないでしょ。父さんも今度は東京に帰ってしっかり働いてくれるっていうのよ」

「ふーん」

 父が働いている姿を見た覚えがなかった。修の父はいつも安楽椅子に坐り、煙草をくゆらせているか、居眠りをしていた。一家の働きは母が一身に背負っていた。母は早朝、修たちが起きないようなまだ暗いうちに家を出た。小柄な母の躰と同じくらいに大きな篭をかついで農家から野菜の買い出しをし、町に行商に出掛けるのだった。行商は昼過ぎまでには終り、修や兄の勉が学校から帰る前には家に戻って、家事に精を出していた。

「今晩は、母さん、腕によりをかけて大御馳走を作るからね。楽しみにしてな。腹一杯、栄養をつけて父さんや弥太郎おじさんに働いてもらわなくっちゃね」

 修は舌なめずりをした。台所から包丁の音が響いてくる。

「本当だな、母ちゃん」

「母ちゃんが嘘ついたことがあったかい?」

「分かった。おれ、おじさん、呼びに行ってくる」

 玄関の引き戸をそろそろと開け、タローがいないのを確かめてから、外に出た。ジョンの吠え声が聞えた。修は坂の小道に向って、息もつかずに走った。庭にいた雌鶏たちが悲鳴をあげて逃げた。

 坂道を途中まで駆け上がり、一息ついた。修はタローが追いかけて来ないのが不満だった。いつだってタローは修を見ると、追いかけて来た。今日に限ってどこかに隠れたまま姿を見せないのだ。

 修は「タロー、タローッ」と呼びながら坂の途中から庭を見渡した。台所の陰の立ち木に白い物が吊してあるのに気がついた。

 それは白い大きな鳥だった。両羽を力なく拡げ、頭を下にして枝にぶら下っている。修は坂を下り、恐る恐る足音を忍ばせて鳥に近付いた。

 近付くにつれ、心臓の鼓動が速くなるのを覚えた。逆さまに吊されていたのはタローだった。長く伸びきった喉元には、切り傷がぱっくりと口を開いていた。足元の地面には黒々と血だまりができていた。何匹もの蝿が傷口や血の跡にたかっている。

 タローはかすかにくちばしを開け、目を閉じていた。喉元の切り傷からは血が流れ出た跡がついていた。誇らし気な赤いトサカが灰白色に変わっていた。タローの体は風がそよぐたびに、力なくゆらゆらと揺れた。

 そっとタローに手を伸ばした。まだタローの体は生温かかった。修は声も出せずに立ちすくんだ。

「オサム、さっ、どいてどいて」

 いつの間にか台所の戸口から出て来た母が、タローを吊した木に近付き、手早く脚の紐を解いてタローの死体を手に下げた。母はタローの体を庭に用意したまな板に載せ、首に出刃包丁を叩き下した。切れたタローの頭が地面にころがった。

 修は固唾(かたず)を呑んで、母の手許を見つめていた。母は首なしになったタローの体を金だらいの湯につけ、手荒く毛を抜きはじめた。

「いまに旨い鳥肉を食べさせてやるからね。楽しみにして、待っているんだよ」

 母は修に笑いかけ、見る間に毛をむしり取っていった。たちまち地面に抜いた羽毛の固まりがたまっていく。タローの体からは、薄桃色の鳥肌が見えてきた。

「おれの……タロー……」修は喉がからからに乾いた。

「ああ、役立たずのにくったらしい雄鶏だったけど、こうしてやれば立派に役に立つのよ。父さんの門出のお祝いね。おまえも、これで鶏から突っつかれることもなくなるし、すべてが万々歳だよ」

 母は鼻歌混じりに毛をむしり続けた。やがて首なしのタローは丸裸にされてしまった。

 修はがむしゃらに走りだした。母が修を呼んだ。耳を貸さなかった。坂を登り切ると、ジョンの所に駆け寄った。ジョンが嬉々として吠えながら、修に飛びついた。

 修はジョンの前で激しく反吐(へど)を吐いた。胃が空っぽになっても、吐き続けた。ジョンが喜んで修の吐いた物を食べていた。

 

 その夜、修は熱を出し、夕食も食べずに寝込んでしまった。襖越しに勉兄ちゃんや大人たちが笑い合い、楽しげに酒をくみ交わしながら、鍋を突っつく気配が夜遅くまで伝わってきた。

 うつらうつらしながら、母が「オサムはまだ子供だねえ。父さんがいなくなると知ってなにも食わずに寝てしまうなんてねえ」と話すのを聞いていた。

 夜明け近く、雄鶏が刻を告げる声を聞いたような気がして目を覚ました。修は枕に頭をつけたまま耳を澄ました。タローの声は二度と聞えなかった。

 寝床をそっと抜け出し、玄関から外に出た。東の空はまだ白みはじめたばかりだった。寝巻の前をすぼめ、歯をガチガチいわせて外の気配を窺った。

 やがて汽笛が聞え、朝の一番列車が通る音が聞えた。蒸気機関車が朝もやの中を、白煙をあげて走るのが見えた。なんだ坂。こんな坂。修は震えながら機関車の音に合わせて呟いた。

(第一話 終り)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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森 詠

モリ エイ
もり えい 作家 1941年 東京都に生まれる。『オサムの朝』により坪田譲治文学賞。

掲載作は『オサムの朝』より巻頭の一編。

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