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ヘボン 維新前夜の日本へ

「生麦事件」を診た人

 

 1862年9月14日(文久二年八月二十一日)、武蔵国橘樹(たちばな)郡の街道で、外国人殺傷事件がおこった。かなり詳しく残されている当事者たちの証言を要約すると、次のようになる。

 昼ごろ四人のイギリス人が横浜を出発して、東海道を川崎方面へ向った。ハード商会横浜駐在員ウッドソープ・クラーク、その友人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従妹で香港から遊びに来ていた二十二歳のミセス・ボロディール、上海の商人リチャードソンは、馬で六郷川まで行って川崎大師を見物しようと出かけたのであった。

 生麦村にさしかかると、大名行列の露払いらしい数人の侍とすれちがった。彼らが、道の脇へ寄れと身ぶりで示したので、四人は端に寄って馬を進めたのだが、やがて武装した何百人もの侍が街道幅一ぱいになってあらわれると、四騎は行列内にたぐりこまれた状態になった。

 うろたえるうち、大名の乗物らしい立派な駕籠が迫って来た。駕籠脇の大男がいきなり刀を抜いて叫んだと思うと、先頭のリチャードソンが袈裟がけに深々と一太刀浴びせられた。マーシャルもクラークも夢中で馬首をめぐらし、女性を先に立てて、もと来た方向へ逃げたが、侍たちが追いすがって来て、肩や背に斬りつけた。男二人は神奈川青木村まで駆けて、アメリカ領事館のある本覚寺にとびこんだ。ボロディールは半狂乱でこれに気付かず、さらに横浜まで突っ走った。マーシャルは気を失って落馬し、警護の役人に寺内へかつぎこまれた。

 本覚寺が騒然としたのは言うまでもない。奉行所へ、運上所へと、早馬がとび、使いが八方へ駆け出して行く。領事は、沖の軍艦に変事出来(しゅったい)を知らせるため、最も高い松の梢に星条旗を逆さに掲げ、合図の空砲をうたせた。

 本覚寺から次々と役人が走り出すのを見て、近くの田畠で働いていた里人も、家へ駆戻った。役人の一人は、坂道をかけおり、畠を横切って、成仏寺に住むアメリカ人の医者を呼びに走る。やがて成仏寺近辺の人々は、平素ものしずかなその医師が、馬腹を蹴って飛び出してゆく姿を見て、

「ヘボン先生が、怪我人の手当てに呼ばれたのだ」

と噂した。

 ヘボンは、この日午前中いっぱいを机にむかってすごし、同じ寺に住む親友S・R・ブラウン牧師らと歓談しているところを、領事の急報で呼出されたのであった。本覚寺へ駆けつけると、二人の男が血みどろのまま寝かされていた。一人は肩を骨に達するまで、他方は背と脇を数ケ所斬られていて、出血がひどい。

 ヘボンが止血鉗子で出血をとめ、傷口を縫合している間に、イギリス領事 H・ヴァイス、公使代理E・J・ニールらが到着、英艦セント号から武装した水兵もランチで繰り出した。英公使 R・オルコックは休暇で帰国中であったが、フランス公使D・ベルクールが六騎の護衛兵を急派、自らも駆けつける。

 帰って来ないリチャードソンを探しに、人々は残暑のきびしい東海道へ、次々と走り出て行く。噂を聞いた各国の商人たちも、コルトやアダムズの拳銃を手に、義勇軍を結成するのだと色めき立っていた。結局、二十八歳の英公使館付書記官W・ウィリスが、生麦村の路傍にリチャードソンの死体を発見、遺体は全身に傷を負い、咽喉にとどめを刺されていた。

 英海軍陸戦隊が本覚寺の周辺に並び、英米仏蘭露、駐留五ケ国の外交官と居留地の商人との間で議論が沸騰した。ヴァイスやジャーディン・マゼソン商会のガワーらを中心に「大名行列を追討すべきだ」との興奮した声が一斉にあがったが、ニールが鎮撫に努め、仏公使がその慎重策に賛成、外交交渉に一任という線を取りきめた時には、もう空が白みかけていた。そのころ、港にはイギリスの旗艦ユリアラス号が砲艦を従えて入ってくるのが見られた。

 行列の主が薩摩藩主の後見島津久光だと聞くに及んで、ヘボンは、事態の容易ならぬことを悟らずにいられなかった。薩摩の実権を握る久光は、公武合体運動の中心人物として、外国人の間でも注目を集めていた。彼がこの五月に入京して国難打開に当ると称し、京の寺田屋事変をおさえたり、六月に勅使を奉じて江戸へ向ったりしたことは、ヘボンたちにも聞えている。

 幕府は勅使の帰洛に際し、外国人の通行を禁じ、外出を注意する布告を発していたが、その日付けは八月二十二日となっており、前日に神奈川を通る島津に関しては、特に明確な指示は出していなかった。むろんそれでも「シマヅ」が通るという噂は拡まっていて、後日クラークが述懐したところによると、「今日のピクニックは中止したほうがいい」と四人に忠告した者もあった。しかし四人は「幕府の認めた遊歩日に、条約で定めた遊歩範囲を歩くのだから、不都合はあるまい」と判断して出発したのだった。

 この薩摩藩の一行には、勅使を擁しての往路でも、ちょうど同じあたりで騎馬の外国人に「行列先を汚された」という不快な記憶があった。江戸表で幕政改革を進言し、公武合体を説いたのに対し、幕府の重臣らは煮えきらぬ態度を示し、また、京都で長州藩が攘夷決行と条約破棄を叫ぶという挙に出たため、これに張り合うべく急ぎ帰洛せねばならず、じりじりと照りつける炎天下を、薩摩武士たちは苛立ち、(はや)りながら急いでいたのである。

 当時十八歳の鉄砲組徒士(かち)久木村利久は、供頭(ともがしら)当番奈良原喜左衛門が抜刀するのを目にし、供頭非番海江田信義(かいえだのぶよし)が「無礼者」と叫ぶのを聞いて、反射的に斬ってしまったと、のちに告白している。彼はお咎めを覚悟していたところ、主君からお褒めにあずかり、金子(きんす)を賜った。

 神奈川奉行は、事件を江戸へ急報する一方、若菜三男三郎(みおさぶろう)に命じ、行列を追いかけて、宿場にとどまらせるよう沙汰した。事件のあと、薩摩藩は神奈川泊りの予定を保土ヶ谷宿に変更、誠忠組の快挙とばかり、昂揚した海江田・奈良原らは、外国人とさらに一戦を交えることも辞さない勢いであった。

 史上「生麦事件」とよばれるこの出来事の顛末は、当時来日したばかりの十九歳の英公使(つき)書記官アーネスト・サトウも、回顧録『一外交官の見た明治維新』に詳しく記している。彼は、外交官として最初に遭遇したこの「野蛮きわまる殺戮」と、以後も報復・賠償問題などにかかわって、長くつきあうことになる。

 サトウは1862年9月7日横浜に上陸したのだが、翌日すぐ成仏寺を訪れて、日本語彙を蒐集して「辞書(レキシコン)」の編纂に熱中しているヘボンと、会話書を執筆中のブラウンとに会い、以来、寺に通ってブラウンから日本語を習っていた。

 事件当日、救急の知らせにヘボンを呼びに走ったのは、警護のため米領事館に詰めていた神奈川奉行所の定役人(じょうやくにん)であった。奉行所や運上所(うんじょうしょ)で、同僚たちがつねづねヘボンのことを温厚な名医であると評定(ひょうじょう)するのを聞いていたので、彼は不測の事件に直面して、すぐヘボンの顔を思い浮かべたのであろう。英公使館には英人医師ジェンキンズがいたし、事実遅れて馳せ参じているのだが、役人たちがまず「ヘボン先生を」と言いあわせたうらには、ヘボンがすでに在日外国人の中で群を抜いて人望を得ていたこと、医者として敬愛されていたことが考えられる。

 神奈川運上所に付属する役人官舎内で「西洋の君子」という仇名(あだな)がヘボンにつけられていたことを、官舎に住み込んでいた翻訳(がた)の山内六三郎(提雲、のちの鹿児島県知事)などが語っている。駐英大使となった伯爵林董(ただす)が、後年明治学院で行った講演や、また思い出を綴った手紙にも、その(かん)の様子はうかがえる。

 

 運上所詰めの役人が集って、話が港の外人居住者の事に及ぶと、「君子とはヘボンのような人のことだ」と博士が引合いに出された。当時外国人は一般に侵略者と考えられていたのに、ヘボン博士がこうした名称で呼ばれたのは、すでに彼の接した日本人の尊敬を得ていた証とすることができる。(プリンストン大学蔵、林からグリフィス宛)

 

 一八五九年、ヘボン神奈川に上陸

 

 生麦事件が起った当時、ヘボンは四十七歳、来日後二年と十一ケ月を経ていた。ヘボンが到着した安政六年(1859)は、井伊大老による安政の大獄で、国中が粛清にふるえ上っている最中だった。ヘボン入港の日にも、国事犯が抜身槍の警吏に囲まれて、東海道を護送されていたのである。上陸の六日前には橋本左内が江戸で獄死、(らい)三樹三郎も小塚原で処刑(安政六年十月七日}されている。さらに二十日後には吉田松陰が処刑された。

 一方、江戸で死者一万人を出したという安政の大地震(マグニチュード6・9)以後、安政年間は異常なほど地震が多く、ヘボンも月に二回平均の地震に驚き、四十五秒揺れたなどと記している。その上コレラが猖獗(しょうけつ)をきわめ、対策がわからず蔓延するにまかせるばかりである。はじめ「インド霍乱(かくらん)」と名付けられたこの病気は、突然発病してあっけなく死ぬので、やがて「コロリ」と呼ばれるようになる。なにかと変事が続くため、これは国ぐるみの天罰を蒙っているのだと人々はおびえるのであった。

 それに加え、各地で凶作と米価騰貴のために、農民の暴動、打ちこわし、強訴が続発している。人々は動揺し、黒船渡来以後ろくなことはないと、災厄を「開国」と結びつけて考えはじめていった。学者や藩主の建白書が出たり、幕府の条約締結を批判する声がささやかれ始めたのも、この頃からである。安政年間に何百種と売り出された地震図の一枚刷りのうち、とりわけ「鯰絵(なまずえ)」が人気を集め、多色刷木版になって売れ続けたが、これも次第に政道批判の諷刺画となっていった。

 天下の風雲を案じたのは、京や江戸の識者ばかりではなかった。紀州藩校講官の妻川合小梅は、安政六年の日記に「いづれよういならざる時節也。(中略)いともいともはかなく恐ろしき時節とは成ぬ。長命をもいのらず只無事のみいのる也」と記し、地震・悪病・異国船の来航・内乱の兆を列挙している(『小梅日記』八月二十八日)。この頃、一揆や暴動は、一年間で二百件に及んだ。

 まして、突然上からの命令で貿易港として開かれた横浜・神奈川が紛乱をきわめたのは、想像にあまる。日米間の十数回にわたる条約談判で、一旦神奈川ときめられた開港地が、東海道の宿場に近いため、紛糾の種となりかねないと気付いた幕府の懸念から、米公使ハリスの香港旅行中に、対岸の寒村横浜村とすりかえられていたことも、混乱をより増大させることになった。ハリスは違約をなじり、神奈川奉行の懇請に憤慨して、自分は横浜村には決して足を踏み入れぬ、と態度を硬化させた。

 六月に着任した領事も、ハリスの意を受けて、奉行の用意した横浜領事館を拒み、神奈川青木村の本覚寺に入ったわけで、日本側もアメリカ側も、開港事務は緒についたばかり、民間の渡航者を受入れる準備など、まだ何もできていない。

 こうした事情を知らずに上陸したヘボン夫妻は、戸惑わざるを得なかった。住居を見つけるまでの苦労をヘボンが述懐している。

 

 私が初めて日本に足を踏入れた時にはドウでござりましたか。僅か漁師百姓が居たばかりでした。(中略)私は神奈川駐剳の領事の所へ行きました。領事は開港場の頭に相談致すから二日程待ってくれと申しました。そこで毎日々々領事館に行きました。ついては自分はドコに居ってよいかというに、神奈川にある三つの寺の一つを選べということで、その一つを選んで、そこに住居したのでござります。(明治二十五年十月十五日、指路(しろ)教会でのヘボン講演。石本三十郎訳)

 

 三つの寺というのがどれか今は知るよしもないが、ともかく大箱に入ったヘボンの荷物は五日めに陸揚げされた。神奈川の寺が、片端から外国人用に明け渡された気前のよさは、ハリスも驚いたほどであった。内外人の衝突を恐れた幕府の、応急処置である。

 ヘボン医師、すなわちジェームズ・カーティス・ヘプバーンが、神奈川に入港したのは十月十八日(陰暦九月二十三日)のことであった。ヘプバーンというスコットランド系の姓を、彼はテノールのよく響く声でへバーンと発音していたという。当時の日本人はその発音をうまくまねられず、「ヘボン」と訛って呼んだ。呼ばれた本人は、いやがるでも訂正するでもなく、素直に受け入れ、自から「ヘボンでござります」と名乗り、時には「平文」と漢字で署名もした。写真で見ると、固く結んだ唇のあたりに強情一徹の気がただよい、時に狷介(けんかい)さを見せる彼の、率直で気さくな一面であろう。

 ヘボン来日当時、神奈川奉行所は、出先機関として横浜村の浜に運上所(うんじょうしょ)を設け、外交事務と税関の業務にあたらせていた。運上所は、現在県庁のある場所だが、当時は白洲の先がすぐ海、役人たちは戸部の奉行所まで入江を横切って行き来していた。陸路は崖や八丁(なわて)などの沼地にはばまれて、使いものにならなかったのである。

 ヘボンも、横浜の運上所に頼めば領事の所へ行けと言われ、小舟で領事館のある神奈川の本覚寺へ行けば奉行に頼んでおくと言われ、夜は沖の船に泊って、うろうろしたのだが、実際、奉行所や運上所にとって、安政六年は、てんてこ舞の混乱期であった。まず第一に、大獄の直撃を受けて、海防係の岩瀬忠震・永井尚志・川路聖謨などの能吏が左遷免職され、「外交ノ困難ソノ処理ニ当ル官吏ナキ有様」となっていたこと。第二に、貨幣両替問題の手落ちから、粗悪な洋銀(シルバーダラ)(メキシコドル)を、良質金銀の日本貨幣と交換に来る士官や水兵が列を作ることであった。

 列国の軍艦が入港すると、税関吏たちは色を失い「上下(かなへ)ノ湧ク如ク、盆卜大晦日ノ落合ヒタル状況」を現出した。

 一方、アメリカ領事も、まるで両替が目的で上陸したかのように、小判を求めて殺到する人々、「ヨーロッパの掃溜」と酷評された流れ者や山師たちの入国に、うんざりしていた。この頃まだ白人の来日は珍しく、その数少い白人も、荒々しい船乗りや東洋ずれした商人で、酒を飲んで乱暴したり、新開の廓に入り浸っていて、よからぬ噂が多い。ヘボンのような教養ありげな紳士が、上品な淑女を伴って、しかも永住を希望するというのは、意外でもあり、歓迎すべきことであった。

「わが合衆国の陣営にドクターをお迎えするのは嬉しい。英公使館には医師が来たし、第一、公使自身が外科医上りだから……」

 両手を拡げてよろこぶ領事に、ヘボンはすげなく言った。

「欧米人の診察はしない。自分の医術は日本人のみを対象とする。日本へ来たのは、キリストの愛をひろめるためで、薬代も診察料もいっさいとらない施療を行う。欧米人を診るのは筋ちがいの行為だから出来かねる」

 領事は呆れて、注意せずにはいられなかった。

「キリスト教に触れては困る。この国ではいまだに邪教として禁じているので、口にするさえ危険である。宗教関係でにらまれると、後が面倒だ」

 ヘボンは、禁教令については領事より遥かに詳しく知っていた。やがて誤解は解け、信教の自由が得られるにちがいないことを説き、日本語習得のための教師を斡旋してくれと頼んだ。商取引しか頭になかった領事には、予期せぬ要求だった。言葉の学習どころか、日常生活を確保することが先決であり、それにはまず中国人従僕を雇うがよかろう。自分もそうしているし、欧米人のすべてが彼らを通じて衣食を賄っている。今、日本人を探すのはとても無理だから、英語のできる中国人を世話しよう――商人である領事はそう説明した。

 実際のところ、安政年間には、ヘボン夫妻のようにフロックコートやドレスの白人はまだ港に見かけられず、「南京(ナンキン)さん」と呼ばれる弁髪の中国人が殆んどだった。ことに「買弁(コンプラドール)」と称する仲買人は、商才にたけ、片言ながら英語を喋り、日本人とは漢字で筆談し、欧米人と日本人の間の橋渡しをして小回りがきくので重宝がられていた。彼らに従ってきた召使いも、欧米人の気質をよくのみこんで働いた。

 領事の助言に対し、ヘボンは頑固に首を振って拒んだ。

(シン)国人を使うのでなく、日本に住む以上は、最初から日本人と起居を共にし、日本の習慣になじみ、言葉を覚えるべきだ」

 そして、クラッカーなど耐久食を持ってきたから、食糧なら当面大丈夫、日本人を雇うまでの不自由は覚悟の上だと言って動じなかった。ヘボン自身も、当時を回顧しておかしそうに語っている。

「領事がその時言いますには、あなたは一種異なる種類の人である、と申しました。………」(指路教会での前記講演)

 この男なら、実際クラッカーをかじって何日も過ごしかねない、と領事は思ったらしく、公使館付医官として奉行所に紹介し、通訳ジョセフ・彦(浜田彦蔵)を走らせて、住居と召使いを探させた。かつて遠州灘で遭難し、アメリカ船に救われて米国市民権を得て帰ったという彦は、臨時の住いとして成仏寺を交渉し、苦労して料理人・従僕・門番を見つけてきた。

 

 領事ドール氏は、奉行に頼んで、私たちのために住居を世話してくれました。私はこの広い家を住み心地よく改造し、大小八部屋を作りました。間切りは、この国特有のスライド・スクリーン「ふすま」で仕切ります。(W・ラウリー宛。1859年10月20日)

 

 ヘボン関係の資料としては、彼自身がアメリカヘこまめに書き送った書簡がある。在日三十三年間に、ヘボンの属する長老教会のラウリ一博士父子ら数人にあてて書かれたもの(高谷道男編『The Letters of Dr.J.C.Hepburn』『ヘボン書簡集』)と、弟スレ一ターあての私的な手紙(同氏編『ヘボンの手紙』)とである。弟あてのものは1942年に至って、ふしぎな因縁で、スレ一ターの孫ドーリー・ヘプバーン女史が大切に保存していたことがわかり、彼女の亡くなる少し前に高谷道男氏に贈られた。本書に引用したヘボンの手紙は、すべて高谷氏編の書に依っている。

 

 召使いのうち、料理人は調理中肌ぬぎになるという点で少々ヘボンの気にいらぬものの、三人はすぐ夫妻と馴染んだ。この三人とは別に、成仏寺に通った裁縫師の談話が「横浜貿易新報」に載っている。

 

 安政六年夏のこと、本陣鈴木会所から、宿内(しゅくうち)の仕立屋仲間に、職人一名成仏寺へ差出せとお達しがありました。(中略)異人といえば畜生と同様に心得、異人の息がかかると病むとか(いぬ)が吠えるとか愚にもつかぬことを申し、騒いでおりました当時ですから、誰一人行ってみようという者がない。

『何程貰ったって詞は通ぜず、鈍間(とんま)をすれば靴で蹴りとばされるというから堪らねェ』と尻込みするばかりで、どうしても行く者がありません。ところが会所からは矢の催促。このうえ愚図愚図すれば仲間一同がお叱り。どんなお咎めをうけるかも測れないというので抽籤(くじ)にて定めようと、まるで人身御供(ひとみごくう)というさわぎでした。(「横浜貿易新報」連載「開港側面史」から)

 

 職人の名は浅間町の沢野辰五郎と記されている。

 この当時、まだ日本人の間には外国人に対する恐怖心が強く、公使ハリスさえ小姓(ボーイ)さがしに苦労した。総領事時代、ハリスは一両二分という高給で雑用係を求めたが、一人も応じる者がない。奉行所の若菜は、まさか異人が憎まれている事実を打明けるわけにもいかず、「近辺の者は出稼ぎに出ている」とか「通いでないと無理だ」などと言って時をかせいだが、ついに二人扶持四石二斗を上乗せし、武士の子を半強制的に連れていった。

 成仏寺の裁縫師も同様の強要を受けたのだが、「その時私は齢は若し何ぞ変った事をとの野心もあり、それでは行って見ましょうと、七百文の賃銭を切出して……内心ビクビクもので成仏寺へ乗込みました」と言っている。

 この人は程なく異人観を改め、「ブラオ(原文のまま)ン氏でもヘボン先生でも、鬼と思ったらまるで仏さまです」と喜んで、その後十八年間通い続け、やがて日本の洋裁屋第一号として皇族のドレスなどを手がけるに至ったという。

 通いで一日に七百文というのは、人足の労賃が百五十文、大工三百文という当時の相場に照らして、法外の好遇である。成仏寺には、在中国の宣教師が訪ねて来ては泊って行くようになっていたし、ブラウンの妻エリザベスは、結核で体が弱く目も悪かったから、夫にミシンかけを禁じられ、ふとんやシーツを縫う通い職人を求めたのであった。ただし、エリザベスの来日は安政六年十二月以降と思われるので、老職人の記憶には時間のズレがあるかもしれない。

 通いの職人たちは、ヘボン、ブラウン両家族に、こうして心をひらいていった。長い航海に疲れた海軍の士官たちも、この両家の雰囲気に浸りたがり、競って寺を訪れた。

 

 地球の反対側へ

 

 長い間の鎖国を解いて、緊迫と混迷の真只中にある日本へ、危険を承知で乗り込んで来るからには、ヘボンの意気ごみは尋常のものではなかったと思われる。

 1858年(安政五)、ハリスは十数回めの談判のあと、下田で汽船ミシシッピー号や軍艦ポウハタン号の乗組員と情報を交換している。そのためか、日米修好通商条約の締結以前に、アメリカ本国では条約調印間近との見込みを立てて、早くもプロテスタントの各教派が、日本への宣教活動の準備を始めた。

 また、中国駐在のアメリカンボード宣教師 S・W・ウィリアムズ、監督教会の E・W・サイル、ダッチリフォームド教会のH・ウッドらは、日本に宣教の可能性があるかどうか探るため、長崎に寄港した。ウィリアムズは1853年(嘉永六)ペリー艦隊の通訳として、日本に上陸した経験があり、その折、吉田松陰と言葉を交したほど日本語を身につけていた。

 ウィリアムズら三人の、宣教開始を要請する手紙は、1858年秋に長崎沖から発信されたが、これとは別に、ウィリアムズはもっと早く、単独で同じ趣旨の書簡を送っていた。ニューヨークの長老教会海外伝道本部でその手紙が披露された時の様子を、ヘボンは次のように記している。

 

 ウィリアムズ氏の書簡は、日本に宣教を開始することをすすめ、しかも最初に派遣さるべき宣教師は医師であることを要請してきたのです。アレキサンダー神学博士がその手紙を読み上げました。ラウリー神学博士がそのあと日本宣教志望の私の手紙を、委員会に提示したのです。委員会はそれを採択し満場一致で私の申出を受諾したのです。(弟への手紙。1858年1月15日)

 

 委員会が、条約実施より早く、宣教開始と日本にミッションを開設することを決議した時、すでにヘボン医師の渡航意志は確かなものとなっていて、一月六日付けで願書も提出されていたのである。

 S・W・ウィリアムズの他にも、宣教を促す声はあがっていた。例えばポーツマス号の一士官は、日本海上から、キリスト教機関紙に次のような文を寄せている。

 

 ……おそらく宣教師は日本到着後、その地で英語習得を熱望する日本人を見いだすにちがいない。学校もすぐ開設できるだろう。福音の真理に関してこれを伝える方法は“蛇のごとく(さと)かるべきこと”である。日本語学習に長年月を要することゆえ、来日者は七月初旬に到着するよう要望する。中国語の素養ある人物なら、なお利するところ多かろう。あくまで見識と信仰心厚き人物を選ぶべきこと、言うまでもない。(「Spirit Of Mission」1857年10月3日)

 

 また外国奉行たちを説得するのに業を煮やし、時には脅したり癇癪をおこして火入れを投げたりしたハリスも、篤信の一信徒として、日本宣教の着手を切望する一文を寄せた。

 

 日本伝道の成否は、ひとえに最初の宣教者の人物や態度にかかっている。その人が慎重かつ意志堅固で、判断力、自制力ある人なら、好結果をもたらすことは疑いなしと思われる。彼は日本語を習うことによって容易に日本人に近付くことができる。学校を興し英語を教え、貧民を救済するが如きは伝道の為、最も有益な働きとなるであろう。

 

 ヘボンの志願書を紹介したウォルター・ラウリー一家は、長老教会海外伝道本部の主事として、また友人として、ヘボン一家とは家族ぐるみの交際をしていた。彼ら親子は、ヘボンを生涯励まし見守って行くことになる。ラウリーが委員会の席上、ヘボンの信仰と人格を保証し、医師である上に廈門(アモイ)に住んで中国語を研究したという経歴をあげたのは言うまでもない。

 ウィリアムズやハリスがあげた条件の全てを備えた人材は、探してもなかなか得られるわけではないのに、まさにそれとぴったりの人物が渡航を志願していたのだから、委員たちが喜んだのも無理はなかった。

 1858年7月29日(安政五年六月十九日)、神奈川沖に停泊中の米艦ポウハタン号上に祝砲がとどろき、ハリスと全権(外国奉行)岩瀬肥後守・井上信濃守とが日米修好通商条約に調印した頃、ヘボンは自分の病院を、ラウリ一博士の紹介した医師に一万ドルで譲る約束をしてしまっていた。ついで二つの別荘と邸宅など一切の財産を処分している。

 出発は、五九年四月下旬。武州久良岐(くらき)郡の僻地にあって、民家百戸、半農半漁の横浜村が、将軍家御領地に指定された五月、ヘボン夫妻はすでにサンチョ・パンサ号で大西洋に出ており、船上生活を送っていた。日米修好通商条約にもとづいて、日本全国にも貿易港についての布令が公示され、開港が実現した七月一日(安政六年六月二日)には、彼はインド洋上で日本語習得に余念がなかった。そして十月の到着となる。

 それにしても「地球の反対側にある日本」へ、状況も確かめず、こんなにも性急に出発してくるとは……。いったいなにがヘボンを日本に呼び寄せたのであろうか。

 

 ヘボンの生い立ち

 

 カーティスが、名実ともに恵まれたヘプバーン家の長男として生れたのは、1815年3月13日、ペンシルヴェニア州ミルトンにおいてであった。スコットランド系の、長老教会(プレズビテリアン)に属する敬虔なキリスト教徒の家系である。ヘプバーン家にはカーティスのあとに弟一人妹六人が育ち、男の子二人はとりわけ仲が良かった。弟スレ一ターは、兄と同じプリンストン大学を出て、後にニューヨーク州で長老教会の牧師となり、兄が日本へ移ってからも、よき相談相手として文通を続けた。

 ヘボンが生れた1810年代のアメリカは、エネルギーに満ちた時代であった。彼が学齢に達した頃、合衆国は独立当時の二倍の領土を持ち、すばらしい勢いで、西へ西へと発展を続けていた。石油が出る、金鉱が見つかる。人間、努力さえすれば、神は豊かな資源をもって報いて下さるのだ。ジャーナリストのオサリヴァンが唱えた「マニフェスト・ディスティニー」(神意のもとの膨張進行)という都合のよい合い言葉のもと、国民総意の西漸(せいぜん)運動、領土拡張志向はとどまるところを知らぬかに見えた。

 父は判事で、古風な町ミルトンの名士、母は教会の婦人会長という環境に育ったカーティスは、成績もよく、品行方正の科学好きな少年だった。蒸気船、蒸気機関車、電信等々、新しい発明発見が、みるみる世の中をかえていく時代である。少年たちが発明発見物語に強く心を動かされるのは当然で、とりわけ恵まれた環境にあり頭のいいカーティス少年が、科学者になろうと志したのは、ごく自然の成りゆきであった。

 折しも、アメリカの中国市場への進出が始まり、東洋貿易が順調に発展するにつれて、各プロテスタント教会は中国への伝道に力を注ぐようになる。国としての基礎が固まり、人々がほっと一安心したしるしのように、期せずして各地の小さな教会や集団から、「東洋のために祈ろう」という声があがった。

 中国やインドに初めて足を踏み入れた若い宣教師やその妻たちが、疫病に倒れ迫害を受けながら、キリストの福音を伝えるため苦闘を重ねる様子は、以前から記録されていたが、東洋への伝道はカーティスの成長期を通じて年ごとに盛んとなり、アメリカ各地で「無知蒙昧の人々を啓蒙しよう」という講演や寄付金集めが行われた。教会での礼拝や説教から、また、母の地域活動を通じて、こうした情報は少年の心に影響を与えずにはおかなかった。後日ヘボンは、少年時代をふりかえって、母が購読していた雑誌「ミッショナリ・ヘラルド」などの海外伝道の記事を、いつも興味深く読んだものだと述べている。

 十六歳でプリンストン大学に編入学した頃、カーティスは、語学を重んじすぎる学校の方針に不満を訴えるほど科学に打込んでいた。たまたま学長が交替して、ラテン語の時間がふえ、物理や化学の実験時間が減ったことに抗議し、学長室に呼ばれて説諭を受ける。新しい学長は、何を学ぶにも語学力が基礎となることを説いた。負けずぎらいの少年はこれを聞いて、「言葉」に挑戦する意欲をかきたてられたようだ。このことが、カーティスの生涯を言葉と結びつけ、彼の隠れた天分を引き出したとも言えよう。この頃から、彼はラテン語やギリシャ語を学びはじめた。

 ところが1831年、アメリカ東部にコレラが流行し、プリンストン大学は閉鎖、カーティスは学業を途中で打切られた形のまま、卒業を迎えるという事態に至った。満ち足りぬ思いでペンシルヴェニア大学の医科に入りなおした彼は、さらなる向学心を燃やし、医師になる決心をする。ペンシルヴェニア大学の医学は、当時アメリカの先端を行く水準で、教授陣、設備ともすぐれていたのである。カーティスの几帳面かつ細心で、粘りづよい長所をいかせる仕事として、医師は最適の職業と思われた。

 1834年の冬、講義を受けていた彼の胸に、この医学を活かして、東洋で働こうとの意欲が湧きおこったという。そして東洋移住の心組みは日を追って強く、具体的なものとなっていった。

 だが、東洋行きの話をきり出すと、父はまっこうから反対した。最愛の長男には、自分と同様、地位や名誉が約束されているのだ。孝行息子は、父の怒りを買ってまで東洋行きを強行する勇気がない。信仰厚い母も、愛する息子のこととなると、話はまた別だった。それ以上争うこともできず、カーティスは、ノリスタウンの病院でおとなしく働いていた。

 

 その時、クララ・リート嬢が南部からやってきた。彼女はわたしと共に海外へ行きたいようだったから、1840年10月、ノースカロライナのラファイエットヴィルで挙式、そうそうにシャムへ出帆の計画を立てた。(グリフィス宛書簡。1881年3月16日)

 

 クララ・メリー・リートは、南部の名門リート家の娘である。人名辞典などを見ると、彼女の何代か前に、清教徒(ピューリタン)の信仰心に強く同情し、英国教会のビショップス・コートの書記という地位を捨ててアメリカ大陸に移住したプロテスタントの指導者、ウィリアム・リート(1613~1683)がいる。祖先の血は、クララにも引き継がれていたのだろうか。彼女は、従兄の経営する学校に応援を頼まれ、ほんのちょっと手伝いに行ったノリスタウンで、海外宣教を志す青年医師カーティスと知りあうや、彼を理解し力づけたばかりか、実行への引き金をひいて、出発に踏み切らせたのである。

 カーティスは、当時全盛の捕鯨船に目をつけ、船医として同乗することを計画し、ボストンで東洋行きの捕鯨船を探しては、乗船を交渉した。1841年3月、小さな帆船ポトマック号が、彼の申し入れに応じ、ともかく東洋へ行きたいという漠然とした計画が俄かに現実のものとなった時、新妻クララは身ごもっていた。体の変調に気づかなかったのか、無謀な乗船であったが、二人の心逸りがうかがえる。

 出帆は三月十五日、新婦の父と、長老教会主事のW・ラウリーとが見送った。乗組員十七名の小さい捕鯨船で大洋を渡るのだから、妊娠中のクララは船酔いに苦しみ通し、九十日間というもの、鯨油臭い船室を一歩も出られず、ベッドで展転としたあげく、初めての子を早産でなくしてしまった。五月十三日、夫妻は初児を水葬に附し、六月十五日、クララは初めて甲板に出た。ヘボンは若々しい筆致で、気負った航海のさまを克明に日記に記している。

 七月十二日、シンガポールまで来ると、英国と(シン)との戦闘のため、これより東へは()けぬと言われた。廈門(アモイ)寧波(ニンポー)方面を攻撃する東インド艦隊の主力は、シンガポールを根城にして、続々と出撃しているという。欽差大臣林則徐が英船の積んできた阿片(あへん)銷燬(しょうき)処分したことから、英軍が阿片の賠償と貿易条件の改善を求めて、攻撃に出たのであった。

 この戦いは1842年、南京条約締結まで続く。世にいう阿片戦争である。ヘボンは中国が鎖国を解かれ欧米の干渉を受けて、近代へ一歩踏み出す姿を、目の当りに見たのであった。

 夫妻はシンガポールに1843年の夏まで留ったが、ここで生涯の協力者となるS・R・ブラウン(1810~1880)にめぐり合う。ブラウンは、当時マカオのモリソン記念学校の教師として、中国の青年にキリスト教をひろめていたのであった。

 もう一つ、後半生を日本語訳聖書に捧げることになるヘボンにとって、見落すことのできない大きな出会いが、ここにあった。シンガポールの海外伝道協会印刷所で見つけた、和装本仮綴じの奇妙な小冊子、日本語訳「ヨハネによる福音書」である。これはマカオの英国貿易監督庁首席通訳官で、プロシャ人宣教師カール・F・A・ギュツラフ(1803~1851)が、漂流日本人から習った日本語をもとにし、先師メドハーストの日本語語彙集を参考として、当時の日常語で綴った、試訳福音書ともいうべきものである。縦十インチ横八インチ、唐紙六十丁(百二十ページ)木版刷りの粗末なその小冊子は、ヘボンの心をすっかりとらえてしまった。

 茶色の表紙を開くと扉の中央に「約翰福音之伝」(「約翰」はヨハネ)、右下に「新嘉坡堅夏書院蔵板」、左下に「善德纂」とある(「新嘉坡」はシンガポール、「善德」はギュツラフの中国名)。本文はすべて日本のカタカナで書かれている。その冒頭部分は次の通りである。

 

   ヨアンネスノタヨリヨロコビ

 ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。

 

「福音」を「タヨリヨロコビ」と訳したこの小冊子の文字は、むろんヘボンには読めないが、ブラウンは訳者ギュツラフをよく知っていた。ブラウンの勤めるモリソン学校というのは、創立者がギュツラフ夫人なのである。ブラウンは、モリソン夫妻が精力的に中国への啓蒙と伝道を進めている状況と共に、訳業の苦心についてもヘボンに詳しく話した。ただし阿片戦争たけなわのこの時、ギュツラフ当人は英政府の通訳として、舟山島方面に派遣されていた。

 ブラウンはまた、S・W・ウィリアムズと親しく、彼の家に寄宿する間柄でもあり、1837年、モリソン号に漂流民を乗せて江戸湾まで行き、砲撃を受けて逃げ帰った顛末を詳しく当事者の口から聞かされていた。音吉、岩吉、久吉と名のる三人の漂流日本人とも会っている。ブラウンからそれらの経緯を聞き、この訳業が成り立った事情を知るにつれ、ヘボンの胸中に深い感動がひろがっていったのである。

 

 ギユツラフ訳「約翰福音之伝」については、近年多くのすぐれた研究が発表されたが、以下簡単にその成立をたどってみる。

 発端となったのは、1832年、尾張の国知多郡小野浦郷の米廻船(こめかいせん)が難破漂流し、生存者三人がカナダに漂着、ハドソン毛皮会社の英人船長に救われた事件である。彼らは1834年、ロンドン経由でマカオに送られ、ギュツラフの所に保護された。マカオへ送られて来るまでの日々に、漂流民たちはいくらか片言の英語をおぼえていたらしい。その片言と手まねを頼りに、ギュツラフは日本語を彼らから引出そうと努力し、さらにそれを用いて日本語でキリストの教えを綴ろうと試みた。1835年12月のことである。

 このギュツラフという人は、中国プロテスタント伝道の先駆者となったロバート・モリソン(1782~1834)やメドハースト(1796~1857)の志を継ぎ、かねてから中国各地を遍歴して中国語を習得研究し、マカオに住んで布教を続けながら、日本語への意欲をもやしていた。1832年(天保三年)琉球まで行って空しく引き返した経験を持つ彼からすれば、日本人を預かるのは、日本語へのまたとない糸口を与えられたに等しかった。

 彼は、ヤソの教えに触れては、帰国後どんな咎があるかと恐れる日本人三人をなだめすかして福音書を読ませ、日本語で喋らせたあげく、それらの日本語を綴りあわせて「約翰福音之伝」と「約翰第一書」以下「第三書」(ヨハネの手紙)までを仕上げた。そして漂流民を送り届ける機会に、これを日本人の手に渡そうと考え、シンガポールのアメリカンボード印刷所(ABCFM)に依頼して、千五百部を木版で刷ったのであった。

 漂流民の日本送還には、中国貿易の大商社オリファント商会のC・W・キング(1809~1845)が一肌脱ぐことになった。熱心なキリスト教徒であるキングは人道上、また、日本に通商を促す好機という意味からも、この計画に肩入れし、かねてから尊敬する東洋伝道の英雄モリソンの名をつけた持ち船で日本へ行くことを決定、自らも乗船したのであった。

 だが、モリソン号による送還は失敗に終った。船が浦賀沖に達した1837年7月31日(天保八年六月二十九日)幕府は「無二念打払令」を適用して、野比浜から砲撃を加えたからである。砲台から撃ち出す百匁弾が船の甲板に落ちるに及んで、一同は漂流民引渡しを諦め、鹿児島へ向った。その薩摩でも大砲と小銃の射撃を受け、モリソン号はマカオへ退去せざるを得なかった。

 ギュツラフの執念も空しく、日本語訳「約翰福音之伝」はその後長らく死蔵されることになり、1859年、ヘボンによって日本へ運ばれるのを待たねばならなかった。ギュツラフもまた遂に日本の土を踏むことなく、1851年に香港で死ぬ運命にあった。

 阿片戦争下の1841年、二十六歳のヘボンは、この小冊子一部を印刷所から譲りうけて、ニューヨークの長老教会海外伝道本部に送りこんだ。表紙には、ヘボンがブラウンから聞いた成立事情を要約し、ペンで解説を書きこんだ付箋が貼りつけてある。

「難船日本人の助けによりギュツラフ博士によって日本語に翻訳されたヨハネ福音書。1839 or 1840,シンガポールABCFMの印刷所で木版印刷された」

 阿片戦争は、1842年8月、清の敗北に終り、香港が割譲され、広東・上海・廈門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)の五港が開かれた。ヘボンは十月の初めマカオに寄り、ウィリアムズの家に泊ったあと北へ向ったが、暴風雨で進めず、香港に上陸するなど艱難の末、廈門に住むことになった。ここのコロンス島にアメリカンボードの宣教医が施療と伝道を行っていたからである。ヘボンはこれを手伝い、翌年到着したカミング医師の片腕として、廈門に病院を作るべく、骨身を削って夢中で働くうち一年が経過し、1844年4月、息子のサムエルが生れた。

 ヘボンは医療奉仕のかたわら中国語を学び、この地方の語彙を蒐集して辞書編纂を夢みていた。言葉への意欲は盛んで、語彙集の原稿は少しずつ進んでいたが、クララがマラリアにかかり、マカオに転地しても効果なく、ついに夫妻は中国暮らしを打ち切って、1845年11月、パナマ号で本国へ引き揚げねばならなかった。九分どおり完成していた中国語語彙の原稿は、その後ニューヨークで失われてしまったという。

 ヘボンは廈門時代については多くを語らず、「中国生活の中絶も振返ってみれば、神が日本行きのための試練としてお与えになったものと考えられる」(ラウリーあて書簡)と記している程度だが、阿片戦争後の中国の状況を考えると、それはまさしく「試練」であったに違いない。ただ、ヘボン兄弟の友人であるブリッジマンが、カルバートソンの中国語聖書の編訳を手伝っており、彼の伝える聖書訳の苦心談などが、後日、日本語訳聖書に取り組むことになるヘボンに、何らかの影響を与えたと推測することはできるであろう。

 

 モリソン号事件と日本開国

 

 日本人漂流民を送還するためのモリソン号日本寄港計画は、民間のオリファント商会による私的な行動であったが、実行者キングが「モリソン号訪日」として「東洋伝道報」(オリファント商会編)にその経緯を報告し、S・W・ウィリアムズが自ら編集する「中国叢報」(チャイニーズ・レポジトリー)(在華プロテスタント機関紙)に体験談を書いて世に訴えた結果、予想以上の反響を呼んだ。米国政府は、日本の排他主義を「人道的な善意の行動をさえ許さぬ態度」と激しく攻撃し(『アメリカ史』)、日本の開国を強く迫ってゆくことになる。

 この頃のアメリカは、太平洋横断航路の実現を切望していた。アメリカにとって、中国は魅力ある綿製品市場であり、中国への綿輸送のための航海には、途中の寄港地が是非とも必要であった。日本を寄港地として確保できれば、中国市場でイギリスを蹴おとすことも可能と思われたのである。

 もう一つ、アメリカが日本開国を望んだ理由として、捕鯨問題が挙げられる。大西洋の鯨を捕りすぎ、新漁場を求めていた捕鯨業者たちは、鯨群を追って日本近海に出没するようになっていた。1840年代のアメリカ側資料によると、オホーツク海から南洋諸島にかけての捕鯨船は、年間四百にものぼる。1846年にハワイ近海で操業した捕鯨船は五百に達した。日本周辺の太平洋にも二百隻以上が接近、日本各地の|遠見(とおみ)番所が確認したものだけでも相当の数が記録され、松前藩は年間八十隻の「紅毛人捕鯨船」を見ているし、金華山沖では鯨の大群を追って出没する捕鯨船を二、三十隻まで数えたと伝えられている。

 ヘボンと同世代の人で、自ら太平洋を捕鯨船で駆けめぐつたハーマン・メルヴィルが書いている。

 

「幾重にも閉された国の日本が外人をむかえることがあり得るとすれば、その功名を負うべきものは捕鯨船のほかにはない」(『白鯨』第二十四章、阿部知二訳)

 

 アメリカの開拓魂は「神の造り給いし最も大いなる生き物」(『白鯨』)を追って大洋を旅する勇壮な生業(なりわい)「捕鯨」を高く評価しており、最盛期には年間一万トンの収穫を見ている。

 鎖国中の日本は、海図の類を一切国外に出さない上、外国船が測量のために接近すると砲撃を加え、坐礁しても食糧や水を与えることもしない。日本近海で遭難した場合は惨憺たるもので、救助されても言葉が通じないのはもちろん、日本側の取り扱い方は、彼らにとって驚くばかりひどいものと感じられた。

 保護された外国船員はすべて長崎に送られて、オランダ商船に託されるのだが、習慣のちがい、食生活の相違から、船員たちの多くが、不当な冷遇を受けたと本国に報告した。また、焦って逃走を企てたため牢に入れられた者もあれば、牢内で精神に異常をきたし、自殺をはかった者もいる。

 本国へはそれらが何倍にも誇張されて伝わるから、全員が囚人扱いを受け、日本の役人に虐待されたかのような印象を与えてしまう。一方、米捕鯨船に助けられた日本漁民の場合は、たとえばジョン万次郎のように、学校教育まで受けさせたりしているのである。

 十一代アメリカ大統領ポークは、開国勧告を試みるべく、1845年、米海軍東インド艦隊司令官ビッドル代将を日本へ向けて派遣した。ビッドルは軍艦二隻を率い、江戸湾に投錨して十日間居すわったが、鎖国の国是を楯に追い払われて退去した。しかし米海軍の軍人たちは、ロシアやイギリスが虎視眈々と日本近辺をねらっている点を米国務省に注意し「武力を行使してでも開国を迫らねばならぬ」と強調するのだった。

 さらに1848年、オランダ商館から捕鯨船ラゴダ号乗組員救助の要請を受け、長崎に急行した東インド艦隊のグリン中佐は、こんな素晴しい港を見逃す手はない、今こそ艦隊を派遣すべき時だと本国に訴えた。アメリカ合衆国は難破船員を保護し、捕鯨の便宜をはかり、貿易港を確保すべく、強硬に日本に申入れなければならぬ。さもないと、他国に先を越されてしまうだろう。現に、日本の北方からはロシアが度々交渉を求めてきており、南方にはイギリス、フランスが来航している。この頃ではデンマーク船が姿を見せたというではないか……。

 ワシントンの国務省からケネディ海軍長官に宛てた1852年11月5日付の文書中に、このラゴダ号事件にも触れた、次のような文章が残されている。

 

 1846年にわが捕鯨船ローレンス号・ラゴダ号が難破して日本に漂着し、乗組員は捕えられて、非常に野蛮な待遇を受け(ローレンス号の場合は一年半の監禁)、長崎のオランダ館長によって辛うじて命を全うした。(中略)自国の海岸に漂着した人々を救済する義務は、法律で定められたものではなく、また、他国民に履行を要求する権利を与えるものではない。しかしもし、ある国民が、常習的かつ組織的に、救助の義務を無視するばかりでなく、不幸な人々をあたかも凶悪な罪人である如く扱うのならば、そのような国民は人類共通の敵と見なしても不当ではないであろう。

 

 国務長官代理コンラッドは厳しく日本を攻撃し、アメリカの蒸気力による航海の発達、太平洋岸地域の獲得とゴールドラッシュにも触れた後で、「国民は洋上に膨張進行(マニフェスト)し、東洋と交渉を望んでいる」「海洋を航行する合衆国民を保護するため、もはや猶予は許されない」と断言し、ついに十三代大統領フィルモアが、マシュー・カルブレス・ペリー提督に日本遠征を命じたのであった。

 合衆国政府が、主として経済上の見地から、鎖国日本の門戸を開くべく駒を進めている時、キリスト者としての立場から、日本の開港を望んで冷静に行動を開始した人物がいる。モリソン号に同乗した若い宣教師S・W・ウィリアムズであった。1833年から中国にあって月刊「中国叢報」(チャイニーズ・レポジトリー)や「中国総論」の編集刊行に当っていた彼は、砲撃を受けた一部始終を「中国叢報」に連載(1837年9月号~12月号)した。当時二十五歳の柔軟で聡明な見解はペリーの目にとまり、ウィリアムズは日本遠征の通訳官に任命され、日本の土を踏む初めてのアメリカ人宣教師となるのだが、彼は次のように書いている。

 

 日本政府が、武力を行使してまで、外敵を寄せつけまいと鎖国体制を固め、偏見と人間嫌いを硬化させた経過を調べるのは無駄ではない。失敗したからといって努力を止めてはいけない。もし成功していたら、我々は日本のために尽してやる方法を見失ったままに終るであろう。そう考えて、我々は日本に愛想を尽かすことなく、もう一度試みてみよう。(要約)

 

 四十歳をすぎて、ペリーと共に日本に上陸し、神奈川条約の通訳を無事に勤めた彼は、その後も日本への関心と理解を抱き続け、1858年、軍艦ミネソタに便乗して長崎を訪れる。そして中国駐在の E・W・サイル、ミネソタ号付宣教師H・ウッドと、日本開国の見通しについてじっくり相談をかわし、本国へ伝道を奨めることになる。

 中国への施療伝道を志し、マカオでウィリアムズの家にしばらく泊ったというヘボンが「中国叢報」の記事を読んだのは、ほぼ疑いのないところである。ヘボンが|廈門(アモイ)で中国語(福建地方語)を集めていた1843年から45年にかけては、ウィリアムズも中国語(広東地方語)を集めて辞典編纂を計画し、同じく45年に一旦帰米している。

 

 ニューヨークからの脱出

 

 ヘボンのアモイにおける宣教と医療の計画は、家族を守るために挫折せざるを得なかった。夫妻がニューヨークに着いたのは1846年3月15日、彼は三十一歳を迎え、廈門で生れたサムエルはやがて二歳、片言を喋るまでに成長していた。親きょうだいは喜びの涙で三人を迎え、四十二番街に小さな医院が用意された。

 ヘボンにとっては余儀なく始まった都会生活であったが、サムエルの下に次々と三人の男児が生れ、賑やかで幸福な家庭が営まれた。クララは、日曜日に女友達を集めてミシンで衣類を縫い、貧しい子供のため教会に寄付したあと、お茶の会を楽しむ。時にはこうした集りでヘボンがフルートを吹いた。

 誠実な人柄が信頼されて患者は増え、1840年代後半、コレラが流行すると、彼のとった処置と予防が際立っていたということで、忽ちニューヨークでも一、二の大病院長となってしまった。あまりの繁昌に、自分の時間というものが持てないばかりか、子供が病気しても、すぐには手当てできないほどの忙しさで、十年のうちに、五歳、二歳、一歳の可愛いさかりを、たて続けに失う悲しみを味わっている。

 末っ子のカーティーが生後一年で赤痢に躍った時、彼は病児を転地避暑させたものの、診に行く時間がとれず、数日後にやっと駆けつけたが、手遅れだった。相つぐ我が子の夭折に、彼は「悪しき都会」を呪わずにいられぬ思いであった(弟への手紙。1855年8月)。

 経済的にはすばらしく発展したが、一方、合理主義の社会風潮に押流されそうな都会生活に、彼は幻滅を感じていた。そんな時、日本開国近しの報は、彼にとって、胸に渦まく霧を払いのける一陣の清風と感じられた。おそらくヘボンのような清教徒気質(ピューリタニズム)の濃い環境に育った人にとって、ニューヨークに象徴される都市生活への嫌悪感は強かったにちがいない。だが、それをヘボンの日本行きの動機と見ることはさし控えよう。彼は弟あてに(1859年2月3日付書簡)、日本行きは決して感情的な動機によるものではない、都会からの逃避でもないと強調しているからである。両親をはじめ世間の人々は、自分が一時的な高揚にかられて日本への渡航を決心したように受取って、福音を伝える使命感を理解してくれない――これがヘボンの悲しみであった。

 ヘボンは日本への渡航を前に、1841年に自分がシンガポールから寄付したギュツラフ編訳「約翰福音之伝」を下付してほしいと、あらためて長老教会海外伝道本部へ申請した。

 編訳者ギュツラフが果せずに終った日本宣教を、今自分が実行するのだという自負とともに、当時の感動の記念でもある小冊子を、自ら胸に抱いて上陸し、ひいては日本語研究の資料ともしたいというのが、願い出の理由である。

 教会は快く要求に応じ、ヘボンは、当時彼自身が貼り付けた解説の紙もそのままの小冊子を、十八年ぶりに手にしたのであった。日本へ向う船中での手紙に、次のような一節が見える。

 

 長い航海中、ギュツラフ氏のヨハネ福音之伝は非常に有益でありました。ですから今は日本字を読むのに苦労しません。かなり満足できる程度に訳すこともできるようになりました。これの持参を許して下さったことに感謝を禁じえません。(W・ラウリー宛。1859年7月19日)

第一章 了
 

新潮選書・望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』は、以下

 第二章 洋医ヘボン  第三章 攘夷の時代  第四章 和英語林集成を読む 第五章 聖書を日本語に  第六章 長すぎた旅 と続く。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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望月 洋子

モチヅキ ヨウコ
もちづき ようこ 作家 1931年 大阪市に生まれる。

掲載作は、1987(昭和62)年4月新潮社刊(新潮選書)『ヘボンの生涯と日本語』(讀賣文学賞)の第一章である。言うまでもない、ヘボン式ローマ字の創始者としても知られる。