お蔦は札の辻の友達の家へ遊びに行つて、彼の方はもうお子さんが二人あるの、大変に老けて見えるの、お内儀さん染みて、意気な丸髷に前掛なんぞ掛けて被入るの、此度弥々例の光子さんもお極りなすつたんですつて。子爵とかで、学校の校友会の此の春の時には、馬車でお乗り込みなすつたとか云ふ、大分は友達の噂で持ち切つて、サイダや葛餅を食べて帰りには、夕日が強く薄紫の日傘で遮へ切つても、傾けた襟の辺りは何となく暑かつた。
お天気の続いた町は、砂埃に煽られて、後毛を掻き上げる度びにザラザラと気味悪く思はれる。水を撒いてる家が多かつた。而してお了ひには、
「貴女は何が不足で然うやつて被入るかと思つてよ、随分佳いお家からお望みだと云ふぢやありませんか、私なんか考へたら申分が無いやうに思ふんだけれど、」と何日か一遍それを云はふと思つて居た事を、漸つと云つ了つたと云ふ風で、扣目な女は夫れ丈云ふと黙つて了つた。 お蔦は屹度、何日かは此の女の口から、斯う云ふ言葉を聞かされるだらふと予期しゐた事に、今急にバツタリと出逢したやうな気がして、一寸返事に詰つたが、品の佳い若奥様らしい、大きな丸髷と紅いてがらとに目をやり乍ら、
「何故でせう、」とつけもないやうに、其の癖其の返辞とも聞かれるやうな言葉を故意とはぐらかすやうな調子で云つた。
「だつて慾を云つたら際限が無いでせう」 と其の女は真面目に云つた。其様に慾張りに思はれてゐるのかしら、と可笑しくも思ふし、口惜しくも考へた。其様事を胸の内で繰り返し乍ら、何の気なしに、出て来た友達の家をもう一度振り向いて見た。
此の頃のお蔦の心にある考へが、丁度其の女の口から聞いた事で、一層煽り立てられるやうに思つた事があつた。それは女優になつた同級の女の噂で、お蔦は一々其の様子を想像してみた。華派な友禅のやうな縮緬の単衣、鬘下地、名を染め抜いた手拭、仮りにも自分達が思はなかつた、眉迄落してゐると云ふ。而して其の女は自分の職業を何よりも楽しいもので、其上に気楽だと云つた、其の女の口から俳優をさん付けにすると云ふ事さへお蔦には耳新らしく聞えた。もう一生お嫁になんぞ嫁かないのよ。又行く気も出ないわ。朝から晩迄一人の人の機嫌許りは取つて居られやしないんですもの。と云ふ言葉や、華派な藝人生活の有様を、歴々と思ひ浮べて、自分の胸も、何だか一緒に乱れて行くやうに思はれた。それに競べて、自分はまあ何と云ふ暮し方をして居るんだらふ、母とても、姉とても、自分の心を不知ずに、只人より云つて来る縁談を受け次いで、好いの悪いのと取沙汰をして居るのが、聞くさへ辛く思はれてならない。母に奈何して自分の心が分つて堪るものか、と云ふやうな考へが始終胸に湧く。お蔦とは三十も違ふ母には、年が十五も違ふ事や、再婚と云ふ事は何とも思はれなかつた。学生時代の放蕩も、先妻の藝妓だつた事も、家の名誉と、結婚と云ふ美しい字に包んで了つて、今更ら新らしいやうな貌をして、写真迄寄越して、母を迷はせる男の心が憎らしかつた。自分は好いとも悪いとも云はず、母が何の位迄仲人口に乗るかを見て居たいやうな気もした。母の心は、二つ違ひの去年卒業した妹の養子を迎へる為めとは、云はずとも分る。
お蔦は俯向き勝に、人の軒を歩いて居たが、軈て山内へ来て電車にのつた。車が日比谷を通る時、何々会御連中と正面に沢山貼り出してある劇場の横手に、幾台か乘り捨てゝあつた馬車や車の内で、其の女が乘ると云ふ、草色に塗つた車が殊にお蔦の注意を集めた。彼の建物の中で、曾て自分が遊んだ一人が、其の人とは思はれないやうな変り方で、花形として薄紫に紅に、裝を凝らして、 幾多の人の賞讃を買ひ、 幾多の若い女の嫉みの的となつて居るかと思ふと、的もない幽かな嫉ましい気に馳られた。自分の目の前の、会社員らしい若い人が、得意らしく夕刊を買つて相場欄を見て居たが、軈てポケツトから蟇口を出したり入れたりした揚句、皺だらけの紙幣を延し乍ら渡して、回数券を買つたのが、其のカラーやカフスの汚れと一緒に、平常より一層貧乏臭くお蔦の目に映つた。
駿河台下で降車て、紅梅町の家へ帰ると、丁度行水が済んだ許しの妹は、珍らしく島田に結つて、藤色のやうな絞りの浴衣で、昨日買つて来たきりぎりすに新らしい胡瓜を入れてやつて居た。伊予簾も捲き上げて、冷たい風は思ひの儘座敷を行き抜けて、其の傍に釣るした岐阜提灯の水色に秋草を描いたのを乱してゐた。
「母さまは。」
「今御_よ。」
と低い小さい声で妹は云ふ。妹と並んで虫が今にも鳴くかと立つて居ると、今日は白粉も塗けたらしく、仄かに其の匂ひがした。お蔦は故意と傍を向くやうにする妹の貌を、意地悪く凝乎と見詰めた。
「島田が好く出来てね 。」
「変でせう、見つともないと思つたけれど、母さんが結へ結へと仰在るから。」
「結構ぢやありませんか、束髪より余程いゝわ、それに若く見えるし、せいぜい十七位よ。」と染々云つた。細面に中高な貌が、這麼髪には好く映つて、今夜許しは妹が綺麗に見えた。
お蔦は自分の汗ばんだのも忘れて、柱に倚りかかつて、手持無沙汰に、水を遣つたコツプを持つた儘俯向いてる妹を、しげしげ髪から爪先迄見てゐた。好くお蔦が白粉を塗けてゞもゐると、三つ違の姉のおゑんが、何とも云はずに凝然と見て居る事が度々あつたが、それを何の事とも気が付かずに居た。殊にいさかひでもした後は猶更らみた。只さへ大きい目をみはつて、掌であごを支へて、笑貌一つせず、 心の内の思ひと云ふ思ひを、皆んな目へ移して了つたやうな、鋭い見方をされると、屹度彼の娘は白粉を彼麼風に塗ける、彼麼紅のさし方をする、と思はれやしまいかと可厭だつた。それでも見て居乍ら、時には、
「綺麗になつた事、」と打捨るやうな云ひ方をして、自分も貌を洗ひに行く事などもある。それが今妹の貌を故無く染々見る役になつたかと、妙に心淋しかつた。それでも自分が決つして醜くなつたのではない。妹がそろそろ人の目に立つやうな年になつたのだらふとは考へるけれど、妹を見る目に険しい光りがなければいゝがと、自分乍ら危ぶまれた。
「あつ姉さんから御手紙が来てゝよ。」と妹はいゝ事を思ひ出したやうに立つて行つた。まだ其の後付きには何の嬌態もなかつた。妹に手渡たされた姉の手紙を見ない内から、今日友達の家へなんぞ行かずに、姉の方へ行けば好かつたと直ぐに後悔した。すると成る可く薄暗くした六畳に寐てゐる姉の蒼白い貌と、大儀そうな体を思ふにつけ、父もなく母もなく親身と云へば只一人の姉と云ふ事さへ、今日は妙に胸をふさがれるやうな心がする。初め姉さんに子供が出来たと聞いた時、今迄は白蓮のやうに美しいもの、気高いものと思つてゐた姉さんが、急に地に落ちて了つたやうに思はれて、自分が泣いても追付かないやうな、手の内の玉を兄さんからもぎとられたやうで、兄さんが如何にも残酷なやうに思はれてならなかつた。薄い光りの元で、薄墨で書いた手紙を読み終ると、其の儘懐中に入れて、何を見るともなく凝乎としてゐた。提灯の紅い房が二つ三つくるくると廻つた。
「姉さん行水は、」
「まだ。」
「そう、今あいてるわ。」
「まア後でもよくつてよ、それよりか染ちやん之でも食べようよ。」と袂の重みで思ひ出した、借りて来た紅い塩_に、壽と絞りで白く染め抜いた手帛沙をほどくと、ワツプルと桃山を包んだ紙をあけた。
先刻迄はまだ薄明く思はれたのが、もう何処にも明るい影は見出せなくなつて、直ぐ目の前の植込みも、一々吉野紙を通した朧ろげな灯でなければ見えない程になつた。提灯の廻る度びに、思ひ出したやうに桔竹草の紅いのが、二三本明瞭と現はれる。而して其暑苦しいやうな、其の癖幽かな匂ひが折々した。
表の方ではもう新内を流して来たのが、話をしながら時々申訳のやうに、高音を引いたり、一を打つたりして、その下駄音迄聞えて来る。お蔦には、何だか此の新内の流しが、妙に心の底に迄染み渡るやうに思はれる。段々と遠く、目に見えない糸でも引いてゆくやうに、幽かに幽かにはては消えるともなく、何日の間にか消えて了ふこの音を聞く度びに、遣る瀬ないやうな思ひに悩まされた。見もしらぬ、 思ひもしらぬ、遠い人の世が恋しいやうな、気に迫まられる事が度々あつた。そう云ふ時にはよく徳兵衛の上を思つた。徳兵衛とは何日か見た宮戸座の曾根崎心中の中の人であつた。去年の十月、友達と二人でお揃ひの下駄を買ひに、雨の降るのに浅草迄行つた。平常の人込みに引更へて、雨のふる日は、仲見世から観音さまへかけて、真の用のある人しか通らない程だつた。二人は云ひ合したやうに観音さまの方へ行つた。雨で殊に羽色が艶々しくなつた鳩が、誰も豆を撒きてがないので、お堂に上つたり、雨のかゝらない処に塊つて居たのが、お蔦が豆を投ると一時にバツと寄つて、重なるやうにお蔦のぐるりを囲んだのが、今でも目に残つた。
「昨日は九月のお節句だつたのね。」
「そう、奈何して。」
「だつて這麼に沢山豆菊が上つてゐますもの、之を持つて来ては此処に上つて居るのと取り替へて行くんでせう。」と友達は教へた。お線香の絶え絶えになつてゐる傍には、萎れかゝつた豆菊が何本となく上つてゐた。道に捨てゝあるのもあつた。気紛れに芝居の看板を見て、二人は入る気になつた。入るとすぐにもう此度は二番目ですと教へられて、行き慣れない芝居に、妙にせかせかと落ち着かない心持で、絶えず見てゐた。華やかな舞台に、元禄の若衆姿の徳兵衛と、その頃の遊女風のお初との恋は、美しい色彩にいろどられて、お蔦は只お初徳兵衛の為めに泣いた。出てからも舞台の事ばかかり考へられて、気の抜けた人のやうになつて、雨のぬかるむ道を宅へと急いだ。
それから見た忠兵衛より、治兵衛より一番初じめに見た徳兵衛に心を動かされた。お蔦の心は華美な元禄姿の徳兵衛の上によく行つた。自分もお初のやうに扮つて出て見たい——と思はないでもなかつた。それを思ふと夢のやうな美しい幻が浮かぶ。自分の行先が急に明るく、広くズツと前に拡けたやうに思はれた。種々の事を考へ乍ら妹と一緒に食べたワツフルには、何の味もなく、只口を動かしゐると云ふより外には何でもなかつた。
不意にキリキリと頭の上の蟲籠でないた。
「あら鳴いた」と二人一時に云つて目を見合すとほゝ笑んだ。
仲見世のどら焼が食べたい、と、この前行つた時に姉さんが云つたのを思ひ出して、お蔦は浅草迄行つた。それを買ふと、又両側の凉しそうな品を並べた簪屋や、畫双紙やの前では少し宛足を悠るめて歩いた。向ふから、細かい破れ格子の浴衣に、狭い白博多の帯をわざと小さく貝の口に結んだ、姿のいゝ此処等の藝妓が、下駄と傘とを贅沢なのにして、七つ許りの子の手を引いて、
「お人形さんが好いの、」と云ひ乍ら店の方へ行つた。
丹塗りの薬師堂の傍には、人が多勢立つてゐて、其の間から途断れ途断れに尺八の追分が聞えてゐた。大分何日も居る老人の盲目だらふと見ないで過ぎて、今は何をしてゐるだらふと又看板を見た。此糸蘭蝶とあつたので、又妹を誘つて、女中と三人で来よう、其の方が母も快く出して呉れるから。
谷中の姉さんの家へ着いた頃は、暑い日もやゝ蔭が出来てゐた頃だつた。電車に乗つて近道を取つて来たものゝ、大きな包を持つては可成難儀に思はれた。洗つたやうな格子戸を啓けて、穿物一つない三和土の内に立つて声を懸けやうと思つたが、森として丸で人気もないやうに思はれるので、其儘案内も待たずに、ズンズン姉の寝てゐる部屋に入つた。
「姉さんお休み、」と声を懸けて、葭戸をソツと開けると、ペタリと姉の傍に寄つて座つた。枕元を少し離れて、屏風で暗くしてあるへやに、おゑんは麻の掛布団の上に片手を出して、スヤスヤ寝入つて居たが、目覚とくパチツとその黒目勝な目を開けると、莞爾した。洗髪を一寸束ねた儘の髪は、ピンと一緒に悠く解けて、括り枕から畳へ迄流れてゐた。
「好く来たわね、手紙が届いて、」
「えゝ昨日、だから来たのよ、淋しいでせう。」
「 あゝ。」と頷くと心細そうな目をして、一寸手で泪を拭いた。何彼につけて神経の昂ぶつてゐる姉は、誰かしら傍に居なければ寂しいのと、種々不快な事を思ひ廻すので堪らないと書いて寄越した。直ぐ目の前に被さるやうな枝を延ばした百日紅は、その毒々しい迄に紅い花を、照り返す夕日に晒して、血を見るやうに思はせた。
「暑苦しい花ね、色を見てもうんざりして了ふ。」と 姉さんは首を振り乍ら云ふ。次の間との北の境は、レースが掛けてあつて、それから絶えず冷たい風が流れ込むでゐた。
「兄さんは、」
「まだ帰らないの。」
「ぢやア余計淋しいわね。」と云ふと何となく可笑しくなつて笑つた。隣りがお寺になつてゐて、一人の女中が昼寝でもしてゐるのか、物の音一つしなかつた。兄さんが好きで庭も半分は畑のやうになつてゐて、丈の高い唐黍や胡瓜や藤豆や、外に西洋の豆らしい紅い花も蔓に咲いて居た。
「どら焼を買つて来てよ、それから之も。」
お蔦は途中で目に止つた、藍色の地に荒い格子が_で出てゐる浴衣を出した。
「私が縫ふから着て見て頂だい、屹度好く似合つてよ。」
「意気だことねえ。私には似合ふかしら、」
「普通よ、姉さんは意気が好きぢやありませんか。」
容貌自慢の姉は透き通るやうな歯をみせた。それでも平常程奇麗には見えなかつた。眉と目との間が奈何も何日ものやうに鮮かとは思はれない、暗い影がかゝつてゐるやうに思はれる。
「今夜は泊つてもいゝの、」
「えゝ二三日はいゝのよ、だから御馳走をしませうね、何でも食べたいと思つて被入いらつしやるものをこしらへてよ。」
夕ごはん後は盆燈籠に火を入れて、兄さんと二人は姉さんの枕元に座つた。兄さんは蚊遣りの烟がよく出ないのを気にしてゐた。
「蔦ちやん、此度私が死ぬかもしれないから宅ぢや盆燈籠を今から点けてるのさ、早いでせう。」と笑談らしく厭味を云つた。
「厭な、でも奇麗でいゝぢやありませんか。」
「だから兄さんは好きなのさ、私が厭だつてのに奇麗だつちや点けてるの、」沢山おつけなさいと云つた風に兄を見て云つた。不意と今迄些少も気が付かなかつた、紅入り友禅だの、紅なしだのゝメリンスの一つ身が、生モスの裏がついて、四五枚姉さんの裾の辺に重ねてあつた。レースのついた涎掛けさへ置いてある。お蔦は生れる子は兄さんに似ても、姉さんに似ても、器量好しだと思つた。兄さんは姉さんの薬壜の下になつた紙切れをとると、お蔦の前に出して、
「蔦ちやん、子供の名を先日二人して考へたんですがね、此の中で何れがいゝでせう。」
紙には、謙一、道之助、時雄、富美、鈴、雅子と書いてあつた。
「雅子がいゝわ。」
「然うですか、僕は男なら道之助、女なら富美子と極めてるんだがなア。」
「道之助は可厭よ、安つぽくつて、謙一の方が好いわ。」と姉さんが横から出て、
「ねえ。もし男の子だつたら何を買つて被下るの、ダイヤの指輪? ダイヤでも安過ぎるわ。」
「そうさね、 ルビー位にして置くさ。」
「おや然う? ならもう沢山、頂戴しませんよ、馬鹿馬鹿しい、あの女の時は何を買つて、鳥渡、ダイヤぢやなかつたわね。」と真気になつて姉さんは笑つてる兄さんの顔を睨むやうにして云つた。其の目にはもう泪が溜つてゐる。此様詰らない事にでも、一々嫉んだり、妬んだりして、兄さんの四五年前にした道楽を云つちや、今初じまつたやうに泣いてゐる姉さんを如何にも詰らなく思はれて仕方が無い。
「僕は一寸其処等を散歩して来よう、何かいゝものがあつたらお土産を持つて来ますよ。」と兄さんは莨を噛へたなりで、帯を巻き返し乍ら出て行つた。
野分みたいな風の吹き方で、可成広い庭を風が自由に往来した。どんより曇つた空は、雲が蔽ひ被さるように低く、草でも木でも靡き倒しでもするやうな強い風が、高い木の上を渡る時は恐ろしいやうに思はれた。椽側に出てみると真暗で、一間先も光の届かない処は只暗かつた。燈籠の火が屡々消えた。
「其様処に立つて居ないで此方へお入りよ。」とお蔦を坐らせると、まじまじ薄笑ひしながら 、
「あの方は奈何して、断つたの、」
「否。あのまんま、」と堅くなつた。
「ぢやァ断りも奈何もしない、母さんには奈何しても思ひ切れないのかしら、余程此度のには御執心とみえるわね、だけど止した方が好くつてよ、良人の話ぢやね、学生の時分にある女と関係して、その女が何かの事で剃刀で死ん了つたんだつて、それを聞いてから可厭になつ了つたわ。 之はだめだと思つてね、でも一寸聞きがいゝから誰でも迷はされてよ。だけど之は止した方がよくつてよ、而してもつと外のいゝ処にするといゝわ、私が目つけて上げてよ。」と無雑作に、其の癖妹の為めを思ふやうな口吻で云ふ。
「其様事は奈何だつていゝのよ、私にはまだ何とも仰在らないし、仰在つた処で大丈夫よ。」其様事で迷はされやしません、と云つ了ひたいやうな力強いやうな云ひ方をした。姉さんも初じめは賛成して置き乍らと少しは可笑しくもある。
「良人でも心配してるのよ。実はね友達で貴女を是非つて人があるの、知つてるでせう。何日かお月見の晩に来た人、枝豆が莫迦に好きだつて貴女大変に笑つた、あの人よ、奈何? 私達はいゝと思ふのよ。」
「そう、」
「まア冷淡ね。」
「えゝ。」
「何故?」と聞き返した時は、もう少し気色を損じてゐるのが見えた。
「私、」とお蔦は云ひ淀んだが、思ひ切つて、
「女優にならふかと思ふのよ。」と早口に云つて了つて、訳もなく顔を紅くした。
「まア蔦ちやんが——」と呆れたやうな目をした姉の口許には、ありありと冷笑の影が見えた。其顔で女優、ときゝ返して遣りたい程に、妹の心が生意気に思はれる。何故無言つて自分の云ふなりにならないんだらふ。自分は妹の為め許し思つて遣つてゐるのに。
「結構ね。」と云つた許りで、心の不愉快さは蔭そうとしても、顔にも態度にもつひ顕はれた。
「私もう遠から決心してたの、只何日お話しようかとそれ許り考へてたのよ。」と妹は目眩しい物でも避けるやうに、姉の目から顔を避け乍ら頼むやうに云つた。
「ぢやア遠からなの、」
「えゝ。」
「そんなら何故もつと早く云はなかつたの、其様事は知らないから私しや貴女の為許し思つて、良人にも頼んだし、良人から他家にも貴女の事を頼みまはつたり、極が悪いわね、今更ら止すとも云へまいぢやありませんか。」と口をついて出た。
「えゝ全くそれは済まなかったのよ、申上げやうと思つてゝも遂ひ云ふ機がなかつたもんですから、ねえ、姉さんさへ賛成して下されば私誰が何と云つてもいゝわ、奈何でせう。」と縋るやうに云つた。徳兵衛の様子を思ひ浮べて、何だか楽しいやうな気がした。姉には見せたくないもので、又見たとて決つして面白いものではないと思つた。
「貴女は彼の女のやうになりたいの、」と姉は少なからず侮蔑の口調で云つた。其の癖、もし妹の名が高くなつたら甚麼だらふとも考へてみた、何故か妹に其様名を上げて貰ひたくない、矢張り私と同じやうに家を持つべきだと思つた時、其様子は奈何にも取り付き端のない程冷たいものだつた。
「私としては決つして賛成をする事は出来ないわ、又良人でもそれは大反対よ、もう一度考へ直したら、」
「えゝ、」と素直に首肯いたが、姉さんにはもう話すまい、譬へ云つても、おゑんの心と自分の心とには遠い隔りが出来てゐる、姉には良人や家の方が、自分より遥かに貴いものになつてゐるのだから。只その前に一度云つて置けば、姉へ対しての義理は済んだやうなものだと諦らめた。
「貴女が其様事を思ひ立つても、私は決つして止めやしないけれども、何しろもつとよく考へてね、之が他人でもなら面白い事だと云つて賛成もするけれど、妹が俳優になると云ふと一寸いゝ気持はしないはね、奈何しても止めたくなるよ、それが又思ひ通りにそうスラスラ行くものか奈何かも考へなければね。」と何処迄も思ひ切らせないでは置かないと云ふ調子で云つた。
「誰でも自分の思つた事の半分も行かないものよ。私だつてどんなにかいゝ心算で此家へ来たか分りやしない。」ともう笑ひ乍ら、何日の間にか自分の方に話を引張つて、
「来る時は大した考へで来たものよ。」
「でもそうそうは行かないものね、でも貴女はまだ体が極つてゐないし、好き自由で、未来は長し何うにでもなれるわ。私はもう奈何しようにも今更らならないでせう。だからせめて未来のいい話でも聞かなくちや、時々良人に未来の話をして呉れつて頼むのさ。」
「そんな時には兄さんは何と御在つて。」
「女なんぞに云つたつて分りやしないつて、云やしないわ、だからもう聞かないの。考へるとね、何の為めに斯うやつてゐるかと思つてよ。之から未来だつて奈何成行くものか、考へたくもないわ。今丈で沢山なやうな気がしてよ。」
蒼白い貌は、疲れが出たらしく薄紅くなつて、捨鉢に云つた口許には、失望の色が読まれる。お蔦は何と云つて慰めていゝか、その言葉に困つた。此の儘姉さんと一緒に、大きな声を出して泣きたい、泣いたら姉さんの失望の幾分かゞ洗はれて了ふかと思はれるから。
「蔦ちやんはいゝわ」とつくづく自由な妹を羨むやうな口吻をした。
「だつて姉さんは奇麗だから羨やましいわ。」
つひ日頃の思が口に出た。おゑんは只笑つて居たが、それでも嬉しさは隠されなかつた。姉さんの慰めは姉さんの貌だらふ。着物が特別好きなのも、髪の結び方の難しいのも、皆んな姉さんの美貌がさせるんだらふと思つた。風の間、間に、畑の方でガチヤガチヤが喧しく鳴き立てるのが耳につく。誰が離したんだらふ。
「おゑん、奇麗だらふ、蔦ちゃんみて下さい。」
散歩から帰つた兄さんが、ギヤマンに入れた金魚を姉さんの目の前にさしつけるやうにして見せた。真紅なのや、白い斑の入つたのが、青い藻に絡んで、大きく光つて見えた。
翌る日は昨夜の風にも似ず、雨もふらずによく照つた。その代り砂は一日椽に舞ひ上つて、気持悪く思はせた。姉さんは今日は少し気分が好いと云つて、夕方行水を使ふと起きてみた。而して椽側で爪を切つてゐるお蔦に、
「夜る爪を切ると親の死に目に逢はないとさ、およしなさいよ、」と笑つてとめた。姉さんが妙な事を云ふと思つて返事もせずにゐると、おゑんはそれには一向頓着せず、
「昨夜は七夕さまだつたつてね、今日は明瞭と見えるよ天の川が、来てごらん。」と坐つて柱に倚りかゝつて上を見上げた。お蔦も立つて柱に掴まつて上を見た。檄き散らしたやうに、蒼く澄み切つた空一面に、小さく輝いてゐる紅や青の星の間に、それかと思ふ銀河が、白くづうつと西の方迄続いて空を横切つて居た。