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雪と足と(抄)

 死と生について

 

 奥羽線横手駅から下りの方向へ走る鉄路は短い鉄橋をこえてほどなく、次の後三年(ごさんねん)駅からさらに飯詰(いいずめ)駅へ全く一直線にのびていく。明治三十八年この鉄道が敷かれたとき、この飯詰駅の両側にある二つの町(一つは私の生まれた仙北郡六郷町)が路線の引っぱり合いをしてけりがつかず、当時の逓信省鉄道局は困ったあげく、両町の中間点と隣接駅とに定規をあててまっすぐに結んだということであった。ドアがあけっぱなしにされる真夏なら、列車最後尾のかなたに二本の黒線の残されていくのを機関車の直後のデッキに立っていても見ることができる。

 昭和二十三年三月なかば、私はその直線鉄路の上を歩いていた。残雪はまだ相当の厚みで両側にひろがり、しめっぽい雪が濃くなる夕闇に時おり季節はずれのふぶき模様をえがいて、私の目には鉄路がぐにゃぐにゃに曲がって見えた。少し歩いて立ちどまり、鉄路にさわってみたりしてまた歩き、かたわらの杉林の中ヘゴム長靴をずぶずぶぬからせてはいってみたり、頭はひとりごとでいっぱいであった。

「この木立ちの中にうずくまっていたら、何時間でこごえるだろうか。」「おれの小さな体は二本の線路の上にのるだろうか。」「待てよ、あの小さなホコラのある右手の小山へのぼって行って、いつまでも仰向けになっていたら、何も見えない夜空はかえってきれいだろうな……」

 その年の元日朝、満三十三歳の私と三十四歳の妻美江は九歳の長男鋼策、三歳の次女きらか、生後五十五日の三女あじあをつれて横手駅におりた。タブロイド版二頁建の週刊新聞「たいまつ」の創刊されたのは二月二日で、ついで同月十六日付の第二号、二十六日付の第三号、三月十四日付の第四号と生みの苦しみを続けた。私はまだ借家を横手に見つけることができず、両親の住む六郷町の実家から汽車で横手へ通って仕事をしていた。新聞を刷ってもらう秋田市の印刷所へ週に二、三回出かけるための定期券を持っていたから汽車賃がなかったわけでなく、列車ダイヤが乱れていたのでもなかった。歩きたいだけなら、横手から六郷へ通じる国道十三号を歩いて行けばよかった。

 鉄路に腰をおろして、雪の吹きすぎる音をきいていると、自分の胸のすきま風が一層意識された。何もかも張り合いがなかった。劇的な敗戦前後をふくむ東京での十数年の体験と、悲願のような決意とをこめたつもりの新聞ではあったが、あいそを言う者はあっても反響らしい反響は聞こえなかった。

 毎号二千部を印刷しても、むろん固定読者ゼロからの出発であった。一緒に働く復員兵士の竹谷幸吉君と私と家族とが新聞の束を抱えて雪道に戸別訪問し、一部三円で売りながら継続読者を開拓してまわった。これが着実な方法ではあるが、前号が半分もさばけないうちに次号をつくらねばならなかった。日刊新聞に折り込むなどしてまず大量にばらまき、存在を宣伝してから購読を勧誘する手を知らぬわけではなかったが、「タダのものはまじめに読まれない、まじめに読まれないものならはじめからつくらぬがよい。」というのが私の持論であった。

 窮したすえ鉄道弘済会の県内売店へ出すことにした。用紙不足時代で中央日刊紙は配給制みたいであったから、駅の売店などでは印刷物でさえあれば確かによく売れた。いのちの分身とも思いこんでいるものをそんな形で売りに出さねばならぬとは、私には屈辱のように思われた。

 紙面には、ダンビラをふりかざしたような文章が多かった。ためしに第一号から四号までの目ぼしい記事の骨子をぬいてみる。

「農村景気は下り坂だ。生産者米価をきめるパリティー計算にも矛盾がある。ぼやぼやしていると泣く日が近い。」

「東北が落伍して国の中の植民地と言われる状態におちいったのは、明治維新革命に落伍したことからはじまった。東北よ、百年前の過失をくりかえすまい。」

「アシダをはこうが(注・当時は芦田内閣だった)ワラジをはこうが、つまるところ国民がドレイ根性を捨てて本物の自由を自分の足でふまえない限り、国民のくらしはよくならない。アシダはヨシダ。」

「若い狂信的なインド教徒にピストルで射たれたガンジーさんは死に顔に微笑を浮かべていたという。インド民衆の真にめざめる日がきっとくると信じていたからであろう。しかしアジア諸国は苦悶に満ちている。ある中国人は〈勝利、勝利、勝って利あらず、和平、和平、和して平らかならず〉と痛嘆したそうだが、われわれ日本人はこのような情勢をどう考えているか。われわれは悶えているすべてのアジア人と力を合わせて、ガシジーさんの微笑を永遠のものにしようではないか。」

「泣く子と地頭に負けたのは、むかしの話だ。泣く子はあやそう。地頭はどうするか。おれたち平民こそが、ほんとの地頭だ。県知事のハンコをありがたがって営業免許書を神棚の次に飾っておくような官尊根性は叩き捨てよう。いまや〈民主化〉を民主化しなければならない。」

 農業恐慌がきざしていたがヤミ米景気の余恵にまだしびれていたイロリばたも、復金インフレと称された高物価・低収入の波にあえいでいた台所も、以上のような呼びかけには賛否どちらのこだまをも送り返してこなかった。無視されることは、非難される以上につらかった。

 カネも尽きていた。用意した創業資金は四万円あまりであったが、当時の物価は病態で、供出米価は石千七百円、公務員給与は月二千九百円べースに抑えられる反面、配給酒が一升百二円、市販の学帽二百円、ノート十円、配給の木綿一反四十円(当時のたいまつ記事による)という状態であった。横手の目抜き通りにある旧地主宅(横手町四日町中丁・二坂フク方)の二室を事務所に借り、電話を借り、印刷費を払い、一緒に働いてくれる人へ不十分とはいえ手当を出し、一家五人のメシをまかない……収入面は、原価二円の新聞に三円の定価をつけても捌かなければ逆に赤字となり、おまけに無広告新聞を意気ごんで発足したから行きづまるのは当然であった。どうしても一万円ないと五号、六号と出していけないところにきていた。

 一番かなしいショックは、青年層の無反応であった。青年は年齢に相応する時代感覚をもつ、ときめてかかった独断(たしかに独断であった)は、自分の母校であり石坂洋次郎氏も教師であった旧制横手中学の校門に新聞を持って立っていさえすれば、人口二万八千の町(横手が隣接二村を合併して市制をしいたのは昭和二十六年四月)の「最高学府」の若者たちは文化色あふれる新興新聞を争って手にするだろうという幻想さえうかんでいた。幻想をためしてみるのに、一時間で十分であった。

 農村経済の先行き不安を警告した記事に、農村の一青年は、「えんぎでもねえや」とそっぽを向き、老いたその父がかえって熱心に関心を示すという場面にも出くわしたが、それは昭和初年の農業恐慌を体験した者としない者とのちがいだと考えたのは、あながち見当ちがいではなかったろう。だが、もっとなまなましい眼前の事実、青年運動が戦後最初の奈落のような沈滞期——たとえば全県会員十五万と号した秋田県連合青年会が、民主団体に対する官公庁の援助を禁じた占領軍指令で事務局を県庁内から盛り場の撞球屋の裏二階ヘ移したとみるまもなく、全組織が空洞化していった、そんな崩壊に瀕していたことを私はまだ感じとれなかった。

 戦争による二重三重の束縛から解放された直後の青年たちは、お粗末なヤクザ芝居や異性と指先がふれ合うだけのダンスにそれだけで興奮したが、「二十歳からの参政権」にはもっと興奮した。選挙のあるたびに彼らは推薦・応援活動に夢中となり、自分らで「青年代表」をおし立てもした。青年に応援されて望みを達した非青年たちが青年の希望を裏切っただけでなく、「青年代表」の多くが食言、茶屋酒、楽屋裏の技術でたやすく老化していった。青年たちは、政治行為の一部にすぎない選挙運動のこの体験だけで、やけどした子が火を見たときのように政治そのものへ背を向けようとしていた。わが国初の革新政府と期待された片山哲内閣(昭和二十二年五月社会、民主、国協三党連立で成立し翌年二月予算編成に失敗して総辞職)の無為無策も、青年の失望に拍車をかけた。

 こんな状態にあった青年の胸のトビラを「死せるガンジーさんの微笑を永遠のものにしよう」といった呼びかけで開くことができたであろうか。

 ところが都会から十数年ぶりに帰郷した一人の元サラリーマンは、一カ月半に新聞を四回それも全く青くさいやり方で発行しただけのそいつは、思ったことが思った通りにならなかったといって、鉄道線路の上をぶらぶらしていやがる。そいつは、友人から相談を受けたりすると、「物ごとをやりとげるには、一番はじめと完成直前とが大事だ。もし準備した力が一〇なら五のところから始めたまえ。ラストスパートに一〇の力が必要だと判断したら一五の準備をしたまえ。」と口をすっぱくしてすすめたが、しかしそれはあれから十年以上もたってからのことだ。

 深刻づらを春雪になぶらせていたときの、そいつの魂胆は、まる見えだ。他人から単なる過失と思われそうなある方法をへっぴり腰で捜しているんだ。虚栄のたわむれだ。そうだよ、自殺なんてゼイタクだ。ほんとに死ぬ以外に行く先のない人間なら、とび込む力だって、薬を買うカネだってあるもんか。そんな力の残っているやつは、まだマシだ。ほら、待っていたものが、ゴウゴウと音をひびかせて挨拶しながらやってきたぞ! やってみろ!

 ここで一つの仮定を考えてみるのは、ムダであるまい。見当ちがいによるにせよ、思いあがりのむくいにせよ、すでに失意をおぼえてしまっているそいつが、もし失意の原因を自分の外側に求めていたら、たとえば人々が協力的でないとか大衆は要するに大愚でダメなんだとか、そんな原因の求め方をしていたら、そいつが轟々とやってきたものをやりすごしたかどうかは疑わしい。なぜなら、その瞬間のそいつの内部にあったものは失意だけであったからそれを外側に手放してしまったら、そいつにはもう何もなくなってフラフラしたにきまっているからである。土たん場の人間にとって、失意だろうと失恋だろうと病苦あるいは生活苦だろうと、あればないよりマシだ。それをおのれの内部に受けとめておれば、それが心棒になって、とにかく自分の足で立っていることはできる。

 ところで、深刻づらをしていたそいつのことだが、汽車が近づいたらひょいと飛びのいて、右手で思い切り自分の頬をつねり、それからせいいっぱい声を張り上げて「ばかやろうー」と怒鳴り、こんどはスタスタ歩いて行っちまいやがった。

 

 翌日、横手の事務所へ出かける私といっしょに、妻もふろ敷包みをせおって出かけた。そのとき妻にまだ二十数枚の着物があった(あとで知った)が、包まれていたものはその中の一番いいものであった。明治天皇の東北旅行の折に休み屋となったこともある家柄から一転没落の道をたどった義父が、せめてもの思いで娘に買い与えた裾模様の衣裳を手放させるのは、その娘の配偶者として顔を赤らめずにおれないことだった。しかし、それが一番カネ目のものであった。

 横手の商店街・栄通町(えいつうまち)のY店は現在は小デパート風に改築されたが、当時はノレンをぶら下げた呉服屋であった。妻はノレンをくぐっていき、私は数十メートル離れた街角で待っていた。三十分ほどしてノレンの外に出てきた妻は、私を見つけると、バンザイバンザイをした。雪どけの泥水をゴム長でバチャバチャさせながら走り寄ってくる妻は、「うれた、うれた、いちまんえんで、うれた」とうたっていた。私もいつのまにか、バンザイバンザイをしていた。

 このときのことを私たち夫婦はまるで忘れてしまったように口にしたことがなかったが、昨年夏ある来訪者があって問われるまま思い出の糸をたぐっているうち、私は声をつまらせながらこのときのことを話してしまった。妻は沈黙したままであったが、来訪者が帰っていくと、居ずまいを正すようにして私に言った。

「とうさん、あなたはあんな着物のことを持ち出さないとわたしに対する気持を語ることができないのですか。何です、着物を売ったことぐらい。……ユカタ二枚をかさね着して真冬を三度も越したでありませんか。忘れないで下さいよ、とうさん、わたしは幸福というものは自分の手でつかむものだと努力してきた女であることを……」

 そう言われて私は、晴れ着を売ってかちどきをあげるようにして走ってきた妻を見ながら、あの時ほとんど無意識のように一つの決意を自分の胸中に結晶させたことを思い出した。

「自分にどんな自由があろうと、どんな不自由がやってこようと、このおれに自殺する自由はない。いや、自殺は人間にとって決して自由なんかではないのだ。」

 創刊直後に幾層倍する精神上、経済上のつらさにその後一再ならず行きづまり、借金とりに顔をあわせることができなくて逃げるようにしたこともあるが、しかし〈死〉の中へ逃げようなんて気持は全くわかなかった。

「たいまつ」第二年目の秋だった。市内四日町通りの飲料缶詰問屋坂弁商店の前を自転車で通ったら、「たいまつさん、たいまつさん」と大声で呼びとめられた。わが一家は前年五月横手拘置所脇の市営木造アパートに引っ越して町の中に段々知り合いがふえていたが、坂弁商店は新聞記者のたまり場みたいになっていた。

 私を呼びとめたのは店のおんつぁ(弟さん)——といっても私より十歳年長で篤実の人であるが、私を叱りつけるようにして、机上の「たいまつ」を指さした。

「たいまつさんも、ひどいミスをすることがあるもんだ。ほら、ここだ、何です?……〈一粒の麦、地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし〉だって?……とんでもない、死ねばいつまでたっても一粒、死ないから実がなるんだよ。」

 私はたしかにキリストさんの言葉を、自分の文章に引例していた。しかし、ヨハネ伝第十二章二十四項と出所までもおぼえている有名な一句を書きちがえることがよもやあろうかと思ったが、何しろおんつぁの態度があまりに毅然として確信にみちているから、すっかりあわててしまった。急いでペダルをふんでクリスチャンの知人のところへ行って、聖書を見せてもらった。むろん、実のなるのは死ぬ粒の方だと書いていた。

 けれども私は、おんつぁの方が正しいと考えた。そうだ、われわれはもともと草奔(そうもう)の民だ。先祖伝来、数えきれないほどの圧政やケカチ(飢餓)の中でも「死んで花実(はなみ)が咲くものか」と鼻唄をうたいながら、雑草のように生きぬいてきた人民だ。キリストさん、お気の毒。

 

 小さな記事の重さ

 

 講演へ出かけるようになって、すぐある男を思いだした。マホメットである。彼はむらがる人々に「山を動かしてみせる」とタンカをきり、「山よ、こい!」と号令をかけたが、むろん号令は無効におわり、「では、わしが動いていこう」と山へ接近し、「どうだ、山が動いたろう」と言ったという。マホメットの論法は一つの詭弁だが、しかし自分が山へ近づけば山が近づいてきたのと効果はたしかに同じだと思った。

 肉体の疲労に明け暮れして文字を読むことすらおこたり勝ちな人々に、文字を書けとどうしてたやすく求めることができよう。投書がこないとうらんだことを、はずかしく思った。機会あるごとに村々をまわって人々に会い、「世の中にむかって何か言いたいことはありませんか」とたずねてメモをとり、それを文章になおし、相手に読んできかせ真意に合致しているかどうかを確かめ、そして「読者の声」として紙面に掲載した。これが呼び水となった利き目は大きく、やがてのせきれないほどの投書がくるようになった。読者の投稿は、無責任に書かれたものでない限り、一般記事をギセイにしても必ずのせる方針をとった。

 はじめて「講師」によばれたのは二十三年五月末、どしゃ降りの夜、場所は雄勝郡三輪村(現在は羽後町)貝沢部落であった。そこに住む農民高橋良蔵君は、当時から、現在もずっとすぐれた活動をつみかさねてきている。

 会場の部落会館は外からはお宮さんか物置小屋にみえる建物で、二十畳敷きほどの板の間に男女約五十人がつまっていた。電灯線がはいっていなかったので大ローソク二本を立てて、七時から十一時すぎまで時事問題を中心に語り合った。私は興奮していたようで、会のあと良蔵君宅で彼とフトンをならべてからもくらやみのなかで激しい雨脚を聞きながら更に三時間近くしゃべり合った。

 以来現在まで、太平のムードがふくらむとひまになり世相がけわしくなると引っぱりだこになり、講師としての自分の忙閑が時の動きに対する人心の流れを知るバロメーターにもなったが、平均して少なくも五日に一回の割で諸種の学習集会に参加してきたから、一千回以上になる。そして催しが私の希望通りになる場合はイスを使わずアグラをかいて車座になり、私が一時間半から二時間話したあとで自由懇談ともいうべきものを一時間から二時間もった。原型は貝沢部落での処女体験であった。

 私に求めるテーマは時事解説をはじめ、青年婦人運動、農村文化、教育などの分野にわたった。東京で社会部記者をしていた十年間に「せんせい」と呼ばれたのは二回おぼえているきりだが、いまは至るところでそう呼ばれはじめた。尻のあたりが何とこそばゆかったことか。じつは私の方が「生徒」であることを私は身にしみて知っていたし、だからこそ熱心に出かけた。聴き手に与えるものより聴き手から手に入れてくるものがずっと多かったし、いつくるかわからぬ依頼に応えるには絶えず時の動きに気をくばり、自分なりの解釈を深めておかねばならなかった。怠け防止の気つけ薬であった。おまけにこの触れ合いでたくさんの人と知り合い、良友を得た。

 私は平明な文章を心がけても、晦渋(かいじゅう)に流れるのをなおせなかった。しかし、字づらはわかりにくいけど読んでみると案外わかりやすいと言う人があったのは、胸にたまっていることを不特定の多数人にむかってまずコトバとして吐きだし、それを経てから文章にしたせいかも知れない。講演活動は多くの意味で打算にも合致することであった。

 謝礼? 謝礼は当初三百円、近ごろはたいてい三千円、十六年で十倍だから池田統計氏の「十年で二倍」の設計をはるかに上まわる。しかし私は、自分のこの十倍増は日本国総理大臣のおかげとは思っていない。私には、タダの場合もある。「予算がないのですが……」とはじめからことわって頼んでくる団体や、他人づきあいをしていない人の招きには必ず出かけた。聴衆が少ないときは多いときにもまして自然に熱がこもった。ほかの人が聴きにこないのに来た人は、はっきり何かを抱いてきた人にきまっているからである。

 あの救世軍運動は、教会堂の中にたった一人しかいなかった信者あいてに、講堂に信者があふれているのとかわらぬ声で説いたロンドンの無名の一牧師が母の母であったという。そのとき信者席にいた一人っきりの人が、のちに救世軍を創始したウィリアム・ブースであった。こんなえらい例には及ばないが、ごく少数だった聴衆から読者拡張の協力者や、すばらしい寄稿家のあらわれた例は少なくない。

 年に少なくとも三回以上定期便のように講師として出かける所が二十数カ所ある。こういう「お得意さん」は自然にできたかっこうだが、自分自身でもそうするように意識して努力した。しゃべりっぱなしではいけない。話しあったことを、一定の間隔をおいて必ず再検討してみよう。情勢判断にあやまりがあったら、なぜ誤ったか、適中したとしてもそれは自分らの考えたこと以外の条件によるものではなかったか、こうした点検を持続させないと講演なるものの効果はおおむね線香花火になると思ったからであった。

 この〈口でつくる新聞〉で折あるごとに私は二つのことをすすめた。

 一つは、一日四食励行、つまり一日一回必ず文字というメシをも食べることであった。書物でも新聞でも雑誌でもよし、とにかく一日最少三十分、いや十分だっていい、何か文字を読まないと忘れものをしたようで寝つかれないようなクセをつけようと、特に農村のかあさんたちにすすめた。スイッチをひねれば勝手に流れてくる流動食だけにたよっていると、判断力という背骨が退化してしまうと警告した。どうしても時間がないとか、疲れてダメだとか言う人には、「では便所へ行くときに必ず印刷物を持参して下さい。私もやっていますが、効果は大いにあります。」と私が大声を出すものだから「便所先生」と渾名をつけた人もあった。この渾名をつけたかあさんは、私に会うたびに「四食励行って、ホントにおこないがたしですネ。」と言う。

 すすめてきたもう一つは、世の中の小さなことに注意すること、新聞なら大きな見出しのものよりむしろ三行記事に必ず目を通して、そこから何かを感じとれる目を養っていこうということである。

 日本人ごのみの一句に「小異を捨てて大同団結をしよう」というのがある。ごらんなさい、そんな呼びかけで実現されたものはドロ沼合戦か果てを知らぬ内部分裂だけである。小さな差異でもそれを互いにいたわりあう態度だけが真の大同でも団結でも生むはずである。日本ではまだその実例にお目にかからないから「はずである」と言うしかない。

 ところで私はこの小記事重視論のおかげで「八卦見(はっけみ)の先生」という渾名もつけられた。

 昭和二十五午三月初旬、平鹿郡沼館町(現在は雄物川町)の婦人会総会によばれた。ここの婦人たちは、ほかにはあまり例がないが重箱持参で講演を聞きにきて、聞きおわると懇談会に移るならわしがあった。人数は二百人以上集まったが、関心の過半数は講師の歯の欠けた口よりお手元のいっぱいつまったものの方にあったようで、そんな空気に気乗りしなかったらしく私は何をしゃべったか忘れていた。

 同じ年の秋またそこの婦人集会によばれて出かけたら、かあさんたちは私の顔を見るなり、「ナント先生ダバ、えらいハッケミだ。ぴったりとあたったもんだ。」「あんまりあたりぐあいがよいから、もう一度きくべエということになった。」と言った。

 彼女らが口々に言うことを聞いて、私は忘れていたことを思いだした。前回の演題は「このごろの社会問題——あわせて新聞の読み方」であったから私は当然のことと例の小記事重視論を強調し、持参したその日の新聞を引例した。その日の小記事の一つは、いまでもたいてい毎月初旬の日刊紙にやはりたいていべタ組みでのる「アメリカの労働事情」であった。沼館の婦人たちに示した記事には「アメリカの失業者数が二月末現在で戦後最高の四百六十八万人に達した」とあった。べタ組み数行にすぎなかったこの記事のもつ重みを私は説明したのであった。

 資本主義社会で失業者の増大すなわち不景気の打開策を国内矛盾の解決に求めないで国外へ尻をもっていけば、戦争という名の大消費を激発しがちなこと、アメリカは世界経済に大きな影響力をもっており、アメリカの失業率が全就労者数の八%(当時は五百万人)に達すると不況の影響はきわめて危険な形で全世界に及ぶと言われていること、私のこんな説明を婦人たちが熱心に聞いていたかどうかはわからなかった。しかし、「太平洋戦争のちょうど四カ月前にもアメリカの失業者が五百六十万人にも達していた先例から判断すると、こんども四カ月後の六月末あたり、場所は目下の情勢からして朝鮮、そこがキナくさいですから気をつけていましょう。そして、真に世界をゆすぶるような出来事がはじめ新聞にあらわれるのは、たいてい三行記事だ、と言われることの意味をよく考えてみましょう。」と私が言ったことはおぼえていたらしい。やがて六月二十五日じっさい朝鮮半島に起こったことを警告する声は、三月初旬のわが国ジャーナリズムにはたしかに少なかった。そして私が二度目に沼館へよばれていったころのジャーナリズムでは、「手を先に出したのは南か北か」といった議論に興味がそそがれていたが、沼館の婦人たちはそういうことには関心を示さなかった。

 

 述べる順序が逆になったが、この小記事重視の態度は、新聞「たいまつ」編集の基本方針につながることであった。

 私は戦争中「大新聞」と俗に言われる職場で働いていて、新聞の読者と製作者との間に血のかよったパイプの欠けていることからくるむなしさを身にしみて味わった。自分の書いた文章が紙面に派手に扱われると、花形記者づらして自己満足するのだが、かんじんの読者大衆がそれを読んでどう思ったか思わないか、いや読んだか読まなかったかをすら確かめるすべがなかった。情勢が暗くなるにつれて、心の空洞はますます大きくなった。

 読者と記者との間にパイプの欠けていることからくるこの空洞を埋めるものは何か、私はそれを「小新聞」の中で確かめて築きたかった。このねがいを紙面製作の方針に移せば、次の二つのパイプ作業であった。

〈自分たちの身のまわりに日常起こっている小さな何でもないと見えるもの、それが市町村あるいは県の立場、もっと大きく国全体や世界という立場からみてどんな意味をもっているか、何も意味をもっていないのかパイプを通してみよう。〉

〈日々の諸新聞で報道される大きな出来事、遠い所での出来事、自分らとは縁もゆかりもないと思われるそうしたことが、じつは私たちの日常の生活、生産に深いつながりをもっているのではないか。もっているか、いないか、そこのところにパイプを通して確かめよう。〉

 これは平凡な形をした現象の中にこそ大切な本質があるという考えであった。しかし間断なく呼吸している空気の価値ですら思い忘れているのが通例の私たちにとって、平凡なものの真価を見ぬくことは至難のことであろう。どうしたらパイプの通った記事をうみだせるか。情報網を欠いた片イナカの小新聞社の手におえることなのか。とにかく、やってみるほかはなかった。

 米の強制供出と重い税金を嘆く農民の声を紙上に集録して農相に送り、つてを求めて獲得した農相の回答に対してもう一度農民の意見を紙上にまとめてみたりした。県出身代議士に党派を問わず、地方の実態に合致した国会通信を書いてもらって連載した。外国と文通をしている人たちに資料を提供してもらって、海外と東北の一角とを結んでどんな言葉が語られているかを紹介した。内外ニュースの週間ダイジェスト欄を設けもしたが、国内情勢と国外情勢の関連に特に気を配ったことはむろんであった。中央の各方同で働いている知人たちへ、地方の動向を念頭においた寄稿をたのみ、それを多面的に活用した。何かで「たいまつ」の存在を知って自発的に寄稿してくれた人たちもあった。その一人は内山完造さんで、この人の協力は亡くなる年(昭和三十四年)まで十年間かわらなかった。

 週刊「たいまつ」の特色を挙げるとすれば、ふつうの日刊紙なら三行記事で片づけてしまうような出来事をほり返してみる態度であったろう。その角度から最もしばしば取り上げたのは、自殺や心中であった。これらの事件を受けとめる新聞社の脳みそには分類表が用意されていて、「原因は病苦」「不義の清算」、あるいは「借金を苦にして」「厭世から」といった調子で片づけられる場合が多い。しかし、人ひとりがみずから生命を断つには、必ずそれ相応の背景があるはずだ。背景を十分にめくってみれば、実はわれわれが「殺人者」だったということだってあるだろう。

 横手で五十一歳の日雇人夫が病妻にホウチョウで切りつけてケガをさせたあと、そのホウチョウで自殺した事件があった。「原因は家庭不和」とされたが、ほり下げてみると、同家の二人の子がアルバイトで収入を得たばかりに生活保護法の適用を打ち切られ、おまけに所得税の賦課資料を出せと言われ、気の弱いその人は病妻を道づれに死のうとしたのが真相であった。庶民生活の実態に即した生活保護法の運用を求め、また税務署のしゃくし定規をえぐる紙上闘争を「たいまつ」はしつこく続けた。

 霧のごとくたちこめて毒ガスのごとく有害なものに、ウワサというものがある。後進社会の名物ともいえよう。その正体を追求してタブロイド版一頁のほとんど全部をそのことにあてるといったことも一再でなかった。たとえば中学二年の女生徒が夏休み中に堕胎したとのウワサが町じゅうに広まったことがあった。糸をたぐっていくと、彼女をねたんでいた同級生が、彼女が親類の家に数日宿泊したことをネタにいたずら半分のデマをまいた事実につきあたった。それを「アプレゲールは性的にルーズだ」との先入観をもつ大人たちが拡大撒布し、P・T・Aの内紛とからんで一段とあふられたことがわかった。この種の巷の気流を解剖することは「たいまつ」にとって、極限された狭い紙面をも惜し気なくつぎこむのに値いすることであった。

 創刊して半年たち、一年たつころから、「とにかく一風変わった新聞だ」「片イナカのマメ新聞のくせに天下国家を論じる」「弱い者に味方して強い者に立ち向かっていく新聞が出た」といった評価は一般的なものとなってぐんぐん広がっていった。「たいまつ」発行者がかつて屈辱をおぼえたあの駅売店売りが、タンポポの種子の飛び散るのと同じ作用でこのことに貢献したことは疑いなかった。

 無視されるという嘆きは、もう消えた。しかし、注視されるということはそれ以上にきびしくためされることであった。それは、奇怪な体験をすらもたらした。

 

 アメリカ人

 

 昭和二十四年のたしか六月はじめであった。私の不在中に大曲検察庁の三笠という人から「たいまつは廃刊されるかも知れない。気をつけたがよい。」と電話があったという。横手から二十数キロ北方の仙北部大曲町(現在は大曲市)にあった検察庁(といっても検事は一人きり)の三笠検事は「たいまつ」の読者であり、私は取材に行って前に一度会ってもいた。彼はのちに松川事件担当の検察陣に加わり、「三笠調書」でクローズアップされたが、若くて美男子型でいかにも才子という感じであった。

 私は「やっぱり、きたか……」という思いで、すぐ三笠検事へわけを聞きに出かけた。彼の言うには、「きのう用事があって秋田市の米軍情報機関へ行ったら、机の上に赤線をいっぱい引いたたいまつ新聞があり、それを見ながら三人のアメリカ人が相談をしていた。二人は、このローカル紙は好ましくない存在だと言い、一人は、この新聞はたしかに占領軍やアメリカを批判しすぎるが動機にヒューマニスティックなものがあるようだから少し様子を見ようと弁護していた。マークされていることを念頭においた方がよい。」とのことであった。好意から出た忠告の口調であったが、私は彼も相談に参加してきたのであり、「廃刊されたくないなら考え直せ」と言っているのだと受けとった。

 当時多くの日本国民は敗戦みやげの一つに言論の完全な自由があると思いこんでいたようだが、じつは一切の国内定期刊行物に占領軍検閲条令のしかれていることを、私は十分に知っていた。わずか七、八カ条から成ったその条令は、要するに占領軍の必要と威信にそむくどんな報道をも禁じたもので、違反防止のため校正刷りによる事前検閲もしくは発行と同時に刊行物を届け出る事後検閲のどちらかを受けねばならないとしていた。事後検閲だと、削除された記事をつないだりする面倒はなかったが、むくいはこわかった。占領軍の大きな怒りを買えば抜き打ちに廃刊させられるし、軽度の「注意」でも十回受けると自動的に廃刊させられると言われていた。すでに昭和二十一年の後半、私は名古屋の中京新聞(日刊、当初五万部半年後には八万部)へ手つだいに行って報道部門の責任を担当した際、六カ月間に例の「注意」を八回受けるという経験をしていた。

「たいまつ」を創刊したとき、私はポツダム宣言が「日本人を民族として奴隷化させる意図をもつものにあらず」と約束したことをそのまま信じる人間の常識に従って、どこへも何の届けもしなかった。だが第三号が出たとたん、G・H・Qから一通の封書を受け取った。

「貴殿ハ新聞ヲ発行シテイルガ同封ノゴトキ条令ノアルコトヲ知ラナカッタノカ。以後発行ノ都度毎号三部ヲ発行後五日以内ニ当方へ到着スルヨウ郵送セヨ。モシ郵送ノ途中ニ紛失等ノ事故ガアッテモ責任ハ発行者ノ側ニアル。」

 英文に和訳をそえたこの文書を読んだとき、これじゃ新聞を抱いて郵便袋の中へはいって行かなきゃいかんじゃないか、と笑ったものだった。

〈自分のお足で歩いてごらん〉にはじまったマメ新聞が、〈マメ新聞のくせに天下国家を論じる〉といった世評を受けるに至ったその具体的な内容は、一口にいえば民族独立論であった。民族の独立達成は問題の頂上であると共にふもとであり、独立のないところでは「民主主義」も「平和」も「文化国家」その他なんであれ、とどのつまりは徒花(あだばな)にすぎないという叫びであった。筆鋒は日本人おのれ自身の内部にこびりついている一種のドレイ根性にするどく向けられたが、同時に占領軍ないしアメリカのやり方に対しても腹一杯の批判を加えた。

 私は昭和十七年日本軍がジャワ島に上陸した三月から十二月にかけて従軍特派員として日本軍政の表と裏をじかに見た。その体験に照らしてG・H・Qのやり方を見るとき、自分を勝利者と思いこんでいるものの手口、職業軍人なるものの発想は、何とまあ洋の東西を問わずよく似ていることかと何度もつぶやかずにおれなかった。勝利者としての使命観あるいは敗北者に対する同情心に動かされている限りにおいて、彼らは「解放者」であり得ても、それはそれまでのことだ。彼らの欠点は、勝った自分の流儀を敗者の社会へもちこむことは敗者に対する大きな恵与だと思いこんでいることであった。もっと救いがたい過失は、彼らを動かすものはしょせん彼らの属する社会集団の冷酷な政治的・経済的要求であって、その前に出れば彼らの「善意」なんか吹けば飛んでしまうものであることをしばしば忘れていることであった。

 私は日本軍が南方で実行した軍政とアメリカ軍が日本で実行しつつあった軍政との間に、さほどの質的なへだたりを認めることはできなかった。もし差異をあげれば、日本軍のやり方は粗暴で浮気でどこかトンマであったのにひきかえ、アメリカ軍のやり方は一見スマートで組織的でそれだけ陰険であるということであった。G・H・Q科学局に就職した一友人が、「日本の産業復興のためなら場所を選んでおれない気持で外国人の中のポストにすわってみたが、三カ月でやめた。彼らは口では、日本人の創意と努力を尊重して日本の工業再建に協力すると言いながら、近代工業のアキレス腱というべき硫酸を完全に自己の管理下におき、口とは逆に活殺自在のコントロールをしている。そんなやり方を見てしまった以上、もう彼らのパンを食うわけにはいかなくなったのだ。」と手紙を書いてよこしたとき、私は、さもありなん、とうなずいた。だから占領政策やアメリカのやり方を論議する自分のペンには相当に毒気のあることを自分で知っていた。いつか何かの形で応報があるだろうと、覚悟する備えになっていた。

 大曲検察庁から帰社した私は、待っていた社員たち(当初からの竹谷君のほか同じく軍隊生活の経験をもつ二十二、三歳の湯川君、川越君、それに女学校を出たばかりの事務担当の佐藤君を合わせて四人になっていた)に、三笠検事からきいたことを伝え、次のようにつけ加えた。

「廃刊命令はくるかも知れない。しかし占領軍の検閲条令はわれわれがすぐ別の新しい新聞を出すことは止めることができない。もし〈たいまつ〉をやめさせられたら、すぐ次の新聞をはじめよう。題号は〈くらやみ〉……それとも〈まっくら〉にしようかな……。」

 青年たちは、少し緊張した顔に微笑を浮かべていた。私たちは、しかし新しい新聞をはじめなくてすんだ。廃刊命令は結局こなかった。警告がましい「注意」すら言ってこなかった。言うまでもあるまいが、これは「たいまつ」が論調や取材方針を変えたり、弱めたりした代償では毛頭なかった。それどころか、日本の言論報道機関が「民主的自由」のガウンの下で手錠をはめられている事実を、ささやかな体験にせよ、じかに味わい知ったことによって、真実の完全な自由の獲得、これが日本の基本課題であるとする私たちの気持は一層かきたてられた。

 そのことは単なる認識の問題ではなく、事実の問題であり、生活の問題でもあった。昭和二十四年にはいるとデフレ政策による不景気風は吹きつのり、総数二十六万人にのぼる行政整理、団体等規制令によるアカ狩りなどのあらしが加わった。吉田内閣はこれを「日本再建のためやむを得ない荒療治」と説明した。しかし国民の反応は、当時の流行語をもってすれば「ギョッ」「アジャパー」であった。なぜなら、これら一連の政策は、ドッジ、シャウプ、ローガンらアメリカの使者たちが来日して「勧告」した円のドル従属、大衆課税の強化、耐乏輸出主義、そのための低賃金・低米価政策、そしてこれに抵抗する労働運動弾圧の方針を日本政府がウのみにしたものであることを、新聞を読める人間ならだれでも知っていたからである。

 この年の夏、いまなお謎のとけていない下山、三鷹、松川事件が続発したのだが、下山定則国鉄総裁が何者かに拉致された七月五日(偶然の一致だが)たいまつ新聞社は午後七時から横手南小学校で民自、民主、社会、共産党四党の国会議員クラスによる立会討論会を催していた。「日本再建の眼目をどこにおくか——第三次吉田内閣の施策と労働攻勢を中心として」というテーマであった。会場は千五、六百人しかはいらない雨天体操場であったが、じっさいに集まった聴衆は、警察の推計では四千人、天井の(はり)にまで鈴生りとなり、場外の黒山の人々のためにも大型拡声機を急に取りつけねばならぬ有様であった。

 この夜の論戦で社共両党代表は「政府はアメリカの指令に盲従したデフレ政策で勤労者に耐乏をしいている。」と攻撃し、「国家予算すら日本人だけでは組めないような自主性なき売国内閣こそが日本再建のガンだ。」と非難した。民主党代表は「吉田内閣が国民の不信を買うのは当然だが、国民も占領統治下にあることを忘れてはならない。」と微温的な態度であった。民自党代表の代議士は「わが吉田内閣は歴代内閣のやれなかった行政整理と経済九原則(昭和二十三年十二月米政府がマッカーサーを通じて日本政府に出した指令で日本経済のドル圏への組み入れと軍事化を内容とした)遂行の大任をおわされたので世の不評を買っているが、日本復興のため断じて遂行する。」と開きなおった。秋田県選出のこの民自党代議士は個人としては温厚な人として知られていたが、聴衆は騒然といきりたって「それでも日本人か」と質問の矢をこの人に集中し、散会後も数十人が目の色を変えてつめよったので、この人は夜の町をハダシで数百メートル先の知人宅まで逃げたという一幕もあった。

 三時間に及ぶこの討論会を司会した私は、散会後とはいえ、弁士の一人をハダシで逃走させねばならなかった不手際を恥じたが、同時に、場内にうずまいたもののきびしさに胸打たれた。それは生活苦に対する不満の爆発にとどまらず、自由でありたいとする本然の欲求、民族に加えられた汚辱への怒り、主権奪回を求める鯨波にほかならなかったのではないか。討論会の模様を報じた「たいまつ」(七月九日付第六六号)の同じ紙面に私は「愛国心の革命的な再発見」と題した文章を書いた。

 地方社会の一隅にすらこのように燃え上がっていたものが、あえなく挫折したのはなぜか? あの真夏の奇怪な三事件の社会的意味と効果は、この疑問符に答える角度からも検討されねばならぬものであった。「労働者の陰謀」というしつようなプロパガンダに包まれたこの三事件が日本からうばったものは、数人の日本人の生命だけではなかった。

 それにしても、アメリカの対日政策が昭和二十四年にはいって従属強要の面をむきだしにしてきたのは、なぜであったろうか。それは中国における人民解放軍の急進撃(四月二十四日南京入城)やソ連の原子力開発の成功(九月にトルーマンはソ連の原爆実験を確認したと声明)で東西両陣営の力関係が根本的に変化しつつあることを知ったアメりカが、東洋の小さな四つの島を反共・反中ソのトリデとして公然と自分の足で踏み固めようとしたからであった。そして、このことと関連しこの情勢を背景として日本の講和問題が日程にのぼってくることは、地方の一小新聞社の触覚でも感知できることであった。「たいまつ」は十一月十二日付の紙上ではじめて講和問題をとり上げ、日本のいわゆる「大新聞」がこの問題について日本の政府と国民がどんな考えを持っているかを報道することにきわめて消極的であると非難し、次の三つのことを主張した。

(一)講和条約案は日本の国民投票に付され、日本国民の総意を反映して締結されるべきである。われわれは喜んで忠実に履行できる講和条約を望むからである。

(二)アメリカは講和条約と同時に別個の軍事協定を結んで、講和後も米軍を日本に駐留させるとの情報があるが、不可解千万だ。そんなたくらみに、われわれは真っ正面から反対する。

(三)日本は「連合国」と戦ったのだから講和も連合国全体との間になされねばならない。もしソ連などを除外した単独講和になるなら、それによって生じる一切の責任は日本側ではなく「連合国」側にあることをはっきりさせておかねばならない。

 

 翌二十五年にはいると、対日講和問題はいわゆる単独講和の線で、アメリカ政府から公然の議題として持ち出された。日本人のだれもがここで態度の表明を迫られ、これを分岐として別個のグループに組み分けられていくようであった。

「たいまつ」は言うまでもなく、全面講和の路線を主張し続けた。敗戦日本が自国の安全をはかりつつ人類全体の進歩に貢献できる道は、他の何を失っても憲法第九条の示す道をひたすらにつき進む以外にないこと、交戦した連合国から特定の国家とくに中国を除外して講和条約を結ぶことは常道はずれであって、日本の今後の進路を致命的にゆがめるにちがいないこと——この判断は「たいまつ」にとって、本能的な絶叫のようなものであった。

 ところで、講和問題の登場したころから、地方新聞に対するG・H・Qのサービス(?)は目に見えてよくなった。前々から郵送してきていた各種の宣伝刊行物の量がふえた。「アメリカの国内事情」「アメリカの立場」といったタイトルづきのそれら印刷物には「転載自由」のハンコが押されていたが、しかしその「自由」を行使したくなるような内容にはお目にかからなかった。

 仙台市にある「東北地方民間情報教育局」からアメリカ人が「指導」と称してわざわざ片イナカの小新聞社にまでやってくるようにもなった。必ず二人一組でやってきたそれらアメリカ人は「たいまつ」の記事については何一つ言わず、経営状態を根ほり葉ほりたずね、次のように言った。

「新聞はもうけなければならない。もうけないと読者へのサービスもできない。もうけるには、アメリカの新聞のように、収入の七〇%以上を広告料でまかなうようにしないといけない。広告をたくさんとりなさい。どうです、アメリカへ視察に行ってみたいと思いませんか。」

 もうけて読者にサービスできることは私たちも欲したが、それは外国視察でかなえられることではなかった。「視て察」せねばならぬ課題は眼前にあった。タテ六センチ、ヨコ四センチの一コマ五百円の広告(この基準料金は昭和三十九年のいまも同じだ!)を出すのにさえ簡単には首をタテにふらぬ地方商工業の貧しさがあった。まして地方の小新聞といえばゴロツキのたぐいか、ボスの手先と思われがちな不幸な伝統の中で、新聞広告というものを広告主と新聞社との互恵のビジネスにかえていくための悪戦苦闘があった。これらの実情は、あの「指導」者たちにわかってもらえるとは思えなかった。説明する気にもなれなかった。

 たいまつ新聞社は二十五年十一月事務所を市内大町の元旅館(横手町大町下丁九七大石方)に移し、結局そこに三十六年八月まで居ついたのであるが、この事務所に移ったころからアメリカ人は仙台からではなく秋田市所在の情報機関からくるようになり、回数はひんぱんになった。中央の産業界には朝鮮戦争による特需景気、巷には「夜来香(イエライシャン)」の甘い旋律が流れたが、労働組合にはレッド・パージが激浪のようにひろがり、そして「たいまつ」紙上には映画「長崎の鐘」をみた子どもたちの痛切なうったえや、農地改革五年にして自作農制度のむしばまれていく実態や、朝鮮から一切の外国軍隊は手をひけという主張などが掲載されていた。

 私たちの事務所は旧旅館の前部階下の十二坪で半分は畳敷き半分は板敷きになっていたが、土足を禁じていた。招かざる異邦人は何の予告もなしにジープをのりつけ、土足のまま上がってきた。それは彼らのお国ぶりであろうとがまんしたが、神経をいらいらさせられたのは彼らの来訪の真意をつかめないことであった。

 彼らは、広告をたくさんとれというような「指導」はもうしなかった。情報集めを意図していると思われるような質問もしなかった。あるときは私を「ドライブにつれていこう」とほとんど強制的にジープに乗せた。郊外へ出るとジープはすごいスピードを出した。イナカのでこぼこ道で車体はひどくゆれた。私はジャワでくらしたとき時速百キロから百二十キロで自動車旅行をしたことがあったから、スピードにはおどろかなかった。しかし彼らが日本の悪路上でなぜ快速のドライブを楽しもうとするのかわからなかった。そして、いま車外へころがり落ちたら命がないかもしれないと思った瞬間、自分の顔がおのずとこわばっていくのをおぼえた。そのとき、火災発生を知らせるサイレンがけたたましく聞えてきた。青い目をしたスピード狂は、そこでハンドルをきりかえて市内へ戻った。横手駅からほど近いところで住家二棟が燃えており、ジープはそこへ行き、私はそこで下車した。

 別の機会に二人のアメリカ人はまた私をジープにのせ、こんどは小料理店へつれていった。そして「若返り」という名の地酒一升をもちだして「コレデモノンデ、ワカガエリマショウ」とあざやかな日本語で言った。私はびっくりした。彼らは日本へきたばかりで日本語はよくわからないと言っていたから、それまで私は彼らとの対話にむりして英語を使っていた。私は外国語を教える学校にまなんだが、まなんだのはスペイン語とフランス語だけで、英語を正規に学習したのは旧制中学でとまっていたから、下手くそなのを自分で承知していた。それなのに彼らが「日本へ来て英語らしい英語の発音をはじめてきいた。」などと見えすいたお世辞を言ったりするのをヘンに思っていたが、彼らが日本語を十分にしゃべれるのをかくしていたことを知って、むかむかして「君たちは一体何ものだ?」と詰問した。

「私は元陸軍中尉、彼は元軍曹、戦場からアメリカ本国へ帰って、二年間特別の学校で日本にくるための訓練を受けました。ですから東北のことばも少し話せます。」

 アメリカ人はわざわざ東北のナマリを二つ三つ自慢げに披露してみせたが、言い方はじつに淡泊でおどけた調子ですらあった。

 私は尊王攘夷式の排外論者ではなかったが、しかし、「アメリカの帝国主義は敵だがアメリカの人民は友だ」といった風に気分を使いわけられる器用な人間でもなかった。彼らの度かさなる来訪が、高度の善意をもって解釈して「日本人に少しでもアメリカに対し好意をもってもらうため」にあるとしても、それはジャパニーズ・ワインを飲みかわしたりすることでは望めないことだと一言っておかねばならなかった。

「アメリカのおとなと日本のおとなとは、戦場の中で相まみえた。互いに傷を受けた。この傷は決して簡単にはなおらないであろう。簡単になおったふりをすれば、かえって悪い病気のもとになるであろう。もし期待をかけるとすれば、それは傷を受けていない子どもたちのほかにはない。世界じゅうの子どもたちは、彼ら自身で手をつないで新しい世界をつくるために努力するであろう。私には小学生の男の子やその下に女の子もあるが、彼らがどこの国の人々ともすなおに仲良くなれる日本人となることを私はねがっている。」

 ペテンにかけられた怒りと一種の疑念をおさえて、私としては最も紳士的に彼らの態度にクギをさしたつもりであった。しかるに、元中尉は一層軽口の調子で、こう受けこたえた。

「それはいい考え、たいへんすばらしい考えです。私にも男の子があって秋田市へつれてきています。あなたの息子と私の息子は、きっと仲のよい友だちになれるでしょう。クリスマスは近い。クリスマスには、きっと息子さんといっしょに、私のホームへきて下さい。おまねきします。」

 元中尉のアメリカ人は言葉通りに、クリスマスの一週間前に招待状を送ってきた。しかしその手紙の封筒の裏には聞いたこともない日本人の女の名前が書いてあり、中の便箋の文字は明らかに日本人の手によるものでそれに元中尉のサインがあったが、おしまいに次のことわり書きがあった。

「あなたがたが私どもを訪問することは、何人にも告げないようにして下さい。」

 この手紙を読んだとき、まるで不吉なものにかこまれたように私の顔から血の気がひいていった。何と言いあらわせばよいであろうか、ねらわれて抜きさしのならない境地にはまったようであった。私はこの手紙を妻にだけ見せた。妻も読みおわってあおい顔をした。いやなら理由をかまえて行かねばすむはずのことであったが、「子ども同士は仲良くすることをねがう。」と言ったいわば大義名分を逆手にとられて突きつけられたかたちで、行かないのはひどく卑怯なふるまいのようにも思えた。

 数日続いた私の迷いは、クリスマスの二日前、突然のニュースで消えた。元中尉のアメリカ人は死んだ。彼は日本海岸の本荘方面へ視察に出かけ、夜日本人の警察官とジープに同乗して秋田市へ戻る途中、ジープがあまり深くない川に落ちこんだ。日本人はずぶぬれになって岸へはい上がり、アメリカ人は車内で溺れ死んだという。この新聞記事を読んだとき、正直に言うが、私は思わず「助かった」と声にだした。

 以後、アメリカ人のたいまつ新聞社訪問は絶えた。検閲用の新聞郵送は、当て先が途中から仙台の情報局へ変更されていたが、二十六年九月サンフラシシスコで平和条約に調印がおこなわれてほどなく、「以後郵送ニ及バズ」とのハガキがきて、おわりとなった。

 

 おれはこれだ

 

 本書の読者ことに未知未見の方々のために、ここでこれまでの歩みを概括して述べておくことが便宜であろうと考えたのであるが、困ったことに過去は解きがたく入りくんだ結び目のようでもあれば、キリのない単調な一本の線のようでもあり、要領よくたぐって示すことはむずかしい。

 私個人の胸中に意識されている「たいまつ」には、まだ炎がない。年数をかさねたいまも当初同様、灰にうずもれて〈やがて炎を……〉の願望をだいたままの一粒の火種である。だが外側からながめた目には、火花を散らして燃えさかった時期がすでにあり、火心一本に細ってそれすら消えかかったと見えた時期もあろう。現象としては否定できない起伏であった。この起伏に従って区分すれば、過去十六年余はおおよそ三期にわけられる。

 第一期は、創刊の昭和二十三年からサンフランシスコ講和の二十六年にわたる四年間——言うならば無我夢中の時期であった。地方社会なかんずく農民の実相に近づこうと努めながら青年運動、婦人運動、文化運動とある程度密接なつながりをもつことができた。私自身は既往の蓄積をふりかざすようにして、こわいもの知らずに書き、歩きまわった。変化のとぼしい地方社会にとって「たいまつ」は一つの新風ではあったろう。すなおに共感した人たちはあったが数は限られ、多くの人たちの反応は好奇か反感もしくは無視、いずれにせよ自分の外側に吹いている〈風〉として受けとっていたであろう。

 第二期は「たいまつ」と血肉のつながりで秋田県南部に「平和の戦列」という平和運動のうまれた二十七年から、この組織の代表委員の立場で私が衆院選をたたかった三十年に至る四年間——「たいまつ」は革新勢力の自主的な機関紙とも言うべき立場で激しく自己表現した。

 ここまでの八年間に編集部門で八人、営業部門で九人の青年が私と一緒に働いた。彼らのほとんどは二年ないし五年在勤し、その間にきたえ高めたそれぞれの個性、力量をもってより広い活動の場へ飛び立っていった。それが私の願いでもあった。地元の人々が、たいまつ新聞社を「たいまつ学校」と別称したのはそんな事情によるものであったろう。

 第三期は、三十一年から現在に至る八年余——「学校」という形容に対応させれば「家族時代」である。三十一年以後に引き続き在社したのは印刷部門の佐々木君だけで新たに参加したのは編集の斎藤君一人きり、彼はまるで押しかけ女房のようにして押しかけ入社したのであった。小さな孤城にたてこもるかたちで、新聞の命脈を支えてきた。

 

 歩みを概括してみて、世間の評判なるものと当事者の内奥とのズレについて私見を言わずにおれなくなった。

 前期の八年は「たいまつ」が隆々と燃えひろがっていった時期と、世間の目にはうつったであろう。「おさかんですね」「たいへんな活気ですね」といった言葉を、私は数えきれないほど聞いた。そして当然のこと、最近の八年余は寒々とした沈潜または衰運の姿として多くの目にうつったにちがいない。私に面とむかって言ったのは二人きりだが、その二人は「たいまつは消えそうだね」と冷笑した。私は無言で、微笑した。

 旧債の攻撃に包囲されて手も足も出ず、やがて社員は一人もいなくなり、家族経営の一員である子どもたちが雪の中にも新聞をかじかむ手でくばり歩き、不精ひげをはやした貧相な四十男が不なれな手つきで組み上げた版コ(活字を大組みしたものを私たちは、そう呼んだ)を印刷機にかけてもらうため自転車の荷台にのせて運んでいく有様をみた目が、みじめな判定を下したからとて否定できることでなかった。しかし、もし私の内奥に踏み固められたものがあったとすれば、まさにこの時期、この姿の中においてであった。苦闘のうちに何かが満ちてくる思い、それがあったから、冷たい笑いにほほえみをかえすことができた。「こころに少しでもゆたかさをおぼえたとすれば、それはこの数年来です。」とわが子らも、妻も述懐で一致している。

 紙面に関する評判ですら製作当事者のうなずくかたちであらわれたことは、まれであった。月の経常的な収入が五万円をこすことは年に数回しかない微小企業の経験が、一般の事情にもあてはまるかどうかは見当のつかないことだが、世評と当事者の思いとのズレは時にこっけいですらあった。より良い紙面をつくろう、新機軸を出そうと励まし合って努めても、さっぱり手ごたえがない。製作者たちがくたびれてしまって「ああ、出来そこないの紙面をまたつくってしまった。読者にすまない。」とがっくり首をたれているころになって、「すばらしい紙面ですね。このごろはがんばっていますね。」などと会う人ごとに言われる、といった経験が一再でなかった。「たいまつ」の場合、世間の評価と当事者の評価とには、たいてい最短六カ月のズレがあった。

 これは世評なるものはふつう緩慢に生まれるものであって、しかも一度うまれてしまうと世評が世評をしばるという、ありふれた現象なのかも知れない。が、赤面しながら苦笑を余儀なくされるような体験をかさねていく当事者は、それによって何かを考えるはずである。

 自分で不思議だが、私は世間の評判なるものに、他人のことでも自分の場合でも全く反応がにぶってしまった。一方では読者個々の反応にまで神経質すぎるほど気をつかい続けていながら、そして妻が「大衆の目はきびしい」と口ぐせに言うのに一度も異論をとなえたことはないくせに、しかも半面では世評なるものを受けつけず、時にはそれにつかみかかっていきたい衝動すらおぼえるのは矛盾だが、それを矛盾だと思えないのが不思議なのである。世評に対するいわば不信の心理は、次のような内心のさけびである。

「この地上に、このおれは一人きりだ。煮られても焼かれても、おれはこれだ、という生き方しか一つの生命にはないのだ。人間一人が一生にやれることは、一つっきりなのだ。だからこそ、多くの人々と支え合って生きていかねばならない。多くの人々と支え合いたいなら、なおさらカッキリと自分の足で直立することだ。」

 自分に言いきかせるだけでなく、他人にむかっても、講演などのさい下手な引例だが、「ごらんなさい。曲がりもせず寄りかかりもせず、一本々々まっすぐに自立している柱が集まって支え合ってこそ、屋根の重さにも耐えぬいて人間を守れるではありませんか。」と呼びかけ続けてきた一念である。

 けれども外界とのズレを意識したこの〈おのれ〉が、日々の外界とのふれ合いで、ものの動きを正しくみつめていくには、どうすればよいのか。思いまどったとき、いつもあざやかに思い出したのは、青年時代に読んだナデジダ・クルプスカヤの一句であった。

 労働者あいての夜学校の教師だった彼女は一八九三年(明治二十六年)の秋、ペテルスブルグのあるサークルでウラディミル・イリッチという二十三歳の青年に出会った。この新参メンバーの話を聞いたサークルの人たちは「だれもが彼の人柄と意見をもっとくわしく知りたがった」と彼女は追憶しているが、それを最も熱望した人は、だれでもない、その青年すなわちレーニンの生涯の同志となり妻となった彼女自身であったろう。自分より一つ年下の、地方から出てきたばかりの若者に、なぜ彼女はつよく心をひかれたか。夫の死後に著した「思い出」という本の中で、クルプスカヤはこう告白しているのである。

「彼は、現象を具体的な環境の中で、かつ発展するものとしてつかまえました。」

 言ってみれば、これは事象認識の原則であり初歩だ。けれども〈おのれ〉自身が渦中にある歴史の中で、現象をナマの環境においてとらえ、万物を変化し発展するものとしてみつめていくことは、決してたやすいことではあるまい。たやすいなら、固定観念や先入観あるいは偏見ゆえに人間の個々同士、集団同士がどうして性懲りもなく繰り返して互いに傷つけあうのか。これはしょせん〈おのれ〉というものが薄れつつある地上のたそがれであろうか。〈おのれ〉が、なければ〈おまえ〉もないから〈握手〉もない。

 

「たいまつ」は第三年目あたりから、発行部数千七百前後(うち県外二百)で固定状態にはいった。それは、広がりながら固まっていったのであった。読者の六割強は農民であるが、平鹿(ひらが)雄勝(おがち)仙北(せんぽく)西部の秋田県南三地区のどこの村にもどこの部落にも、たとえ人数は少なかろうと必ず読者がいる状態になった。社員たちの並々ならぬ奮闘の成果であったが、新聞自身の波紋による自発的な購読申し込みも少なからずあった。そして一種の固定状態にはいったら、もうさほどふえもせず減りもせず、減ればその分だけどこからか申し込みがあらわれ、手を広げて購読を勧誘してもいつのまにか元の線にもどる状態が続いた。自律作用が働いているみたいであった。

 刊行物発行者のだれであれ、発行部数の増加を喜ばぬはずはない。私も、購読申し込みのハガキを一通受け取っただけで一日じゅう心が明るかった。けれど購読の中止を通告されても、そのことではしょげなかった。時には「減るなら減ってみろ。どこまで減るか見てやろう。」と人が聞けば不貞腐れと思われそうな言葉を心でつぶやいた。私に、一つの持論があったからである。

「客観的ニュース」を大衆に提供する、と称する職場に働いた経験から、私は一つの断定を抱いた。——「客観なんでありやしない。実在するものは主観だけだ。客観は仮標である。主観が深まり澄むにつれて普遍性をましてゆくのだ。」

 日本の新聞は、自分を言論機関とよぶことをやめ報道機関とよびはじめたときから、その歴史的職能を投げ捨て(主張を失って何の役割を歴史に対して果たせるか)商品以下のものとなり、(商品ではないと言って実は商品だから商品以下だ)果ては見ずてん女郎にまでなり下がった(軍閥がのさばれば軍閥にだかれ、官僚がのさばれば官僚と野合し、黒船がのさばれば黒船にくらがえする、まさしく見ずして転ぶ振舞いでないか)というのが、私の判断であった、日本の新聞が栄えようと望むなら、まず必要なことは読者拡張の競争でなく、むしろ読者縮少の競争だというのが、私の処方箋であった。

 読者百万の新聞がもし二百万の読者を持てば、より希薄な公約数で商品性の維持をはかるほかなく、まっ先に個性を薄められるのはその〈主張〉であろう。商業ジャーナリズムの、当然の成り行きである。逆に読者が局限されるにつれて、求められる公約数は密度を増し、個性をより大胆に表現できる可能性がつよまる。世界第一の新聞と言われるロンドン・タイムズは発行部数が少なく(現在約二十六万部)十万部を割ったこともあるという。発行部数が少なくても常に世界の良識を代表したのは新聞界の偉観とされるが、半面の真実は発行部数が少ないからこそ常に良識をつらぬき得たということであろう。少なくも、ロンドン・タイムズの「良識」は、ナベカマやアトラクション行事で誘いこんで「一カ月でもいいから読んで下さい。」などとは口が腐っても言わなかった良識に裏づけられていることは疑い得ない。

「たいまつ」の場合、精一杯の努力をして二千部という線がその個性、能力、対象地域による限界であり可能性である、と思われた。この線を破るには「たいまつ」自体が質的に成長すると同時に世の中も変わっていくこと、すなわち社会変革の進行過程でこれと結合しながら「たいまつ」が成長していくことだと考えた。八方美人の売らんかな主義によっても拡大の可能性はあるが、それが必要ならその前に「たいまつ」はみずから消えてしまうにきまっていた。

 ふり返ってみると昭和二十七、八年ごろから、作為しての読者拡張工作はほとんどやってこない。人手がそこまでのびなかったこともあるが、来る人はもちろん心から喜び迎えるが去る人は追わないとの態度であった。いかにすればより多くの人に読まれるかを望む前に、求める人には必ず読まれ、読む人と作る者との間にいかにすれば血をかよわすことができるかに執念がそそがれた。「たいまつ」を続けて三カ月読んでくれる人はたいてい熱心な固定読者となったが、ことわる人は一カ月を待たずことわった。強烈な個性ゆえに愛読され、それゆえに嫌悪されることは明白であった。これら二つの反応は同じ比重で受けとめられ、同じように大切にされねばならないものであった。〈無限〉にむかっていどむバネは、限界を痛切に味わい知ることの中から、そこからこそ生まれてくるようであった。

 こんにち日本じゅうのローカル紙は三千数百種と言われる。中には、たくさんの部数を発行しているものもあろうが、多くは一千部を上下する発行量にとどまっているのでなかろうか。だが、もし、「なあんだ、一千部の新聞か」と軽蔑するなら、その人はジャーナリズムの生態を知らない。一千部を持続する定期刊行物は軽視できない一つの力、たしかに一つの威力である。

 政治運動のさかんだった横手のローカル紙の系譜は、六十年前にさかのぼる。経営者には現在なお保守陣営の大御所とされている人や無産者運動の闘士もあった。その現存者たちに「あなたが新聞を経営したとき何部発行していましたか」とたずねたら、答は全く符合していた。「最高八百部、安定線は五百から六百部、ほぼ八世帯に一部の割であった。」——人口二万四千六百、戸数四千三百(昭和初年の統計による)の町で、こうであった。

 現在わが国日刊新聞の総発行部数は二千八百万で三・四六戸に一部の割合(朝日年鑑三十九年版による)というが、併読の処遇をまぬがれないローカル紙の頒布率が約八戸に一部の割であるのは現在も大差のないことであろう。そして「一枚の新聞は少なくも六人に読まれる」とは、経験からして私たちでも確言できることだ。従って一千部の新聞は六千人の目とむすびあう存在であり、一戸に愛読されることは八戸との関連でその中から一人の支持者を得たことを意味する。つまり完全に一千戸に支えられる新聞は、それが読まれることによって、もしくは読まれないことによって、人口およそ五万の社会集団と有形無形の作用を交流していると言えるのだ。

 ローカル紙の一部にダニ的な存在のあることは否定できないが、地の塩であろうと苦労している良心的なものの少なくないことも事実である。近来マス・コミへの絶望からいわゆるミニ・コミを注視する動きがあるそうだが、便宜的角度からでなくもっとていねいにローカル紙の機能を見きわめて、社会的な支えの強まることを願わずにおれない。

「たいまつ」が人口およそ三十万の背景地帯の到る所に砂をまいたように読者を持ち得たことは、何よりの強味であった。年間継続または年に数回の広告を出してくれる広告主を百五十軒獲得できたのも、紙面の影響力に比例してのことであったろう。

 だが強味が同時に弱味であるのが人間社会の通例である。それは微小企業にとって一段とつらいマイナスであった。第一、購読料の集金が思うにまかせなかった。購読料は月額で発行当初が十二円、二十三年八月から十五円、二十四年三月から二十円、二十六年六月から三十円、そして二十九年五月から十年後の現在まで四十円であるが、毎月の経常的な収入率はせいぜい五、六割しか予定できなかった。まんべんなく集金に出かけられなかったからである。私たちの〈足〉は春夏秋は自転車、冬は文字通り足であるから、行動半径が制約される。集金のため一千数百戸を戸別訪問していると、新聞づくりができない。遠隔地ヘバスで出かけると、集金額よりバス代が高くつきかねない、といった実情であった。むろん部落ごとの一括購読、一括集金の方式などをこころみたが、こうした方式のうまくいく所はごく限られた。常連の広告主が百五十軒といっても基準料金が安いから(安くないと出してもらえない業態だから)、特別の時季、行事のときは広告収入が五、六万円になるが、普通の月は三万円台どまり、加えてかんじんの購読料収入が前述の有様であったから、行きづまるのは当然であった。

 カべをどこかで破らねばにっちもさっちも行かない状態に、第百号発行(二十五年四月八日)のころからはまりこんだ。私たちのえらんだ打開策は、新聞の生産費を軽減し合わせて新聞と関連する仕事で財政面を補強するねらいで自家印刷の設備をすることであった。ねっしんな読者の支援をえて法人組織の印刷所(株式の一般公募額は五十万円)を設け、活字は朝日新聞社が活字の型式をきりかえたのを機会に同社の好意で旧式活字をゆずり受け、こうして二十六年四月二日付の第百五十号からこまかい新聞活字による「たいまつ」が登場した。

 だが、印刷所は発足当初から不遇であった。新聞社の事務所に借りていた所は元旅館で、階上には幾人かの下宿人がいた。そこにバタンバタン音を出す印刷機をすえつけられるのは困る、とことわられた。印刷所にあてるべき別の建物を探さねばならなかったが、せっかく見つけたかっこうの所は前日に契約ずみであったという不運もあり、建物を買うにも建てるにも資金が切れていた。やむなく新聞の事務所に活字棚をならベ、文選と植字だけをそこで自分たちでやり、刷るのはよそに頼むという方法をとるほかなかった。私たちの企図はいびつなものとならないわけにはいかなかった。すべては経営者である私に経営能力がとぼしいためのつまずきであった。よく言われる「一つの仕事をやるのに、だれでもたいがい八、九割まではやるが、最後の一割をやりおわせる者は少ない」との一句が、痛いほどわが胸につき刺さった。

 微小企業に内在する苦痛は、自家印刷の態勢にふみ切ってもさほど軽くならなかったが、しかしそうしなかったら、どんなに歯を食いしばっても、一、二年以内に挫折してしまっていたであろう。思うに、窮地の中での一歩、たとい一歩でもそこで前へ踏み出すか否かはほどなく十歩、百歩のちがいとなるのでなかろうか。もしその一歩を攻撃とよぶなら、やはり「攻撃は最良の防禦」でなかろうか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/12/01

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むの たけじ

ムノ タケジ
むの たけじ 評論家・ジャーナリスト 1915(大正4)年秋田県六郷町に生まれる。東京外国語学校スペイン語科卒後、報知新聞社をへて昭和15年、朝日新聞社に移る。昭和20年敗戦の日に新聞人としての戦争責任をとる形で退社。昭和23年、郷里の横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。以後昭和44年同紙が休刊するまで主幹として真の新聞の有るべき姿を求め活動を展開した。

掲載作は文藝春秋新社刊『雪と足と』(昭和39年)より4編を採録した。小さな記事から世界を読み解き、また占領当時地方にまで及んだ検閲の状況など、平易な語り口だが、その言葉は重い。

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