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かがみ

 女のすすり泣く声だろうか、押入れのあたりから聞えてくる。むずかる稚児(おさなご)をあやしているようにも思えるがさだかではない。宮倉は半ば夢うつつに、寝ぼけ眼をこすりながら闇を睨んだ。深夜も、およそ決まった時刻で、もうそんな夜が、幾日か続いていた。

 押入れの向うの隣部屋は、一ヶ月も前から、空室になったままである。そのさらに隣りは若い男の独り(ずま)いとあって、女や、稚児の声など、起るはずもなかった。

 翌日、そっと押入れを開けてみた。かび臭い匂いが鼻をつく。それもそのはずで、引越し以来、着古した衣類やら、小間物の類を押し込んだまま、滅多に開けたこともなかったのだ。

 埃まみれの鏡が、薄暗い奥の壁に、窮屈そうに貼りついているのが目に止った。その昔、死なれた女が残していったもので、かなりな時代物である。何でも祖母から受け継いだとかで、台箱の抽斗(ひきだし)に、いくつもの布玉が蔵ってあった。

 その女の名を、麻子という。彼女は髪を梳くと、抜け落ちたのを丹念に拾い集め、くるりと丸めて、箱鏡の小抽斗に蔵って置き、ほどよく溜まると、束ねて布切れで包み、掌に納まるくらいの布玉を作り、それに縫い針や待針を差しておくのが習いだった。和裁に、ことさらの趣味があったわけでもないが、幼くして母を()くし、祖母の膝元で育ったせいか、見よう見まねの手遊(てすさ)びが、いつとはなしに身についたようである。

 麻子が家の反対を押し切って、夜逃げ同然に宮倉の許に転がり込んで来たとき、彼女はその背にまるで赤子でも背負うように、この箱鏡を(くく)り付けていた。

「ばあちゃんと母さんの形見。嫁入り道具これだけだけど、堪忍してね」

 そう言って彼女は、ほろほろと泣いた。

 死なれた者への思いは、歳月に風化しながらも、心の片隅に消えがたいしこりを残していた。懐かしいような、忌々しいような思いがこみ上げてきて、押入れから板鏡を引き出す。台箱はどこにも見当たらなかった。たび重ねた転居で、いつとはなしに紛失していたようである。引越しといったところで、たかの知れた小荷物ていどの運搬に、紛れようもないはずだが、それでもその度に、身の回りのものが、何かしら失われていた。

 

 鏡は汚れを拭き取っても、しばらくは薄ぼんやりとくもっていた。長い間、闇に紛れていたせいか、いきなり白日に曝されて眩しいのか、戸惑いぎみである。それでも、外光を緩慢に吸い込みながら、じわじわと甦ってゆく。

 その鏡の中に、ふっと麻子の(かお)がうかぶ。覚えのある笑みが、やあ、お久しぶり、とでも言っているようだった。つりこまれて、宮倉も、やあ、と答えていた。

「お前は、昔のままだね」

「おかげさまで、年を取ること忘れましたから。あなたは、すっかり・・・・」

「それはそうだ。お前のぶんまで年取ってるからな」

「ごめんなさい――。我儘ついでに、お願いがあるの」

「何だね」

「わたしを、もうあんな暗い所に閉じ込めないでね。あなたの、おそばに居たいの――」

「そうか、それでか。夜な夜な夢枕に()ったのも・・・・」

 しかし麻子は、それきり返事もせぬまま、鏡から消えた。老いぼれた男の貌だけが映っていた。誰あろう己自身の顔だが、これが四十男の顔かと、宮倉は自分に呆れた。もっとも、ひごろ鏡など碌に覗いたこともなく、自分の顔がどんなだったか、忘れてもいた。麻子に逝かれて以来、(わだかま)るものをひたすら内に閉じ込めて、孤塁をかこち暮して来た日々を思えば、こんなところが相場だという気もする。にわかに目がかすみ、息遣いまで怪しくなる。ぜいぜいと吐く息が、鏡に触れて、白い輪を描いては掻き消す。そして遠い耳に、稚児の泣く声が聞こえた。姿は見えないが、幽かに鏡の中でこだましていた。宮倉は、思わずその児の名を呼んでいた。知らぬはずの名前なのに・・・・。

 

 麻子は、子を産み落とすなり、失神した。すぐ気を取戻したものの、朦朧とした中で、児に胸を預けたまま、三日後にはかなくなった。児は()えた母にも気づかないで、しばらくその乳房に吸いついていた。離そうとすると、(あらが)うように泣き喚いた。実際、萎えても乳は出ていたのだ。母親の執念だろうか、児を引き離されて、閉じた目に涙さえうかべていた。

 麻子の母が娘をすぐにも荼毘(だび)に付し、児と共に実家に持ち帰るというのを、せめて一晩だけでも一緒に過ごさせて欲しいと懇願し、その夜は、児を中に果敢(はか)無くなった麻子と添い寝をして明かした。

 夜更けてむずかりだした児を()くと、涙でぬれた顔をしきりに胸倉に押し付け、よだれにまみれた唇をもごもごさせる。何やら、母の乳房を(もと)める仕草である。不憫(ふびん)さに宮倉は思わず己が胸倉を掻き開くと、洗濯板に張り付いたが如き己が乳首を無理やりこそげ上げ、児の口に含ませてやった。そんなのにも児は必死に吸いついてくる。むず痒さとしたたかな痛みに、思わず身がすくんだ。

 男の奇異な振舞いにその母は呆れたていに、しばらく胡乱(うろん)な目を向けていたが、ふっと(おもて)を和らげると、「あなたより、マシでしょう」と呟き、男から児を掠め取り、襟元を掻きひろげた。空乳ながら、確かに男よりマシには違いないようで、老女の白い萎びた胸乳に張り付いた児の顔に、心なしか笑みがこぼれている。老女と乳呑児の絡まり(うずくま)った姿を、薄暗がりに見遣っていると、その昔、実母を喪くした麻子が、祖母の萎びた乳袋にしがみ付いている姿が、重ね合わせに髣髴としてくる。

 その翌日、荼毘に付した麻子の遺骨と共に、その児まで連れ去られた。児の名前も付けぬ間に――。

「あなたたちのままごと遊び、認めたわけじゃないんです。この子は、無かったものと思ってください」

 宮倉は返す言葉もなく、立ち去る老女を茫然と見送った。その背が階段口に消えかけたとき、慌てて「名前を・・・・」と声を弾ませていた。しかし、老女は、振り向きもしなかった。かなりしてから、「あとで報せます」と、物隔てた声が幽かに聞こえた。あるいは、宮倉の空耳だったか。後で・・・・が、いまだ音信(いんしん)もないのだ。

 麻子にはワケありの母に、宮倉も強くは抗えなかった。そもそもの捩れも、麻子とその母との確執から始まっている。その母は、麻子には伯母に当たり、養母だった。実母は未婚で麻子を生み、自殺をしている。相手の男は、誰とも判らない。

 幼時を祖母に育てられたせいか、伯母の養女になってもなかなか懐かず、成人すると共にその溝を深めていった。養女とは名ばかりで、ひたすら祖母の膝に縋って生きてきた。その積年の(わだかま)りが、祖母の死と、宮倉との一事で一気に噴出したのだ。

 あんな先も無い男と―その時、宮倉は失業中だった―どうしてもというなら、勝手になさい。あたしはもう知りませんから。あんたの母さんにも、ばあちゃんにも。と喚く養母の声を背に浴びながら、家を飛び出し、そのまま宮倉と所帯を持った。そんな麻子のいのちと引き換えに生れた片割れを、こともあろうに、確執の相手におめおめ奪い取られて、麻子に合わせる顔もない。いや、それどころか、本当は子を捨てたのだ。

 麻子と(つく)りかけていた城が唐突に崩壊して、その瓦礫の中に取り残された児を、どうやって養えばいいのか。考えただけで気も遠くなるほどだった。麻子の兄夫婦に子がなくて、その養女にするようなことを、母がちらっと漏らしていたのを思い出し、そいつに縋った。それならそのほうがいい。血だけが頼りの親より、養許(やしないもと)の確かな他人のほうが、児のためになる。他人とはいっても、からきし血の繋がりがないわけでもないのだし。そんな言い訳で、児とそして麻子への後ろめたさをごまかしていた。ともあれ、児を名無し草のまま、放棄したことにかわりもなかった。

 あれから十五年、児が無事なら、中学生のはずだ。乳呑児のおぼろ姿からは、想像もつきかねるが、在りし日の麻子に、仮象(おもかげ)を託すほかなさそうである。それにちょっぴり、(おの)が妹の中学生だった頃の姿も重ねてみたい。

 実家とは疎遠をかこって久しいが、その妹とは、細々ながらにパイプを繋いでおいた。たまさかの書信と、電話での手短かな遣り取りだけだが。二年ばかり前だったか、その妹がひょっこり陋屋(ろうおく)に顔を見せた。それ以前にも、時おり上京はしていたけれど、仄聞(ほのぎき)に耳にする仙人まがいの暮らし向きに、躊躇(ためら)いを覚えて、向けかけた足が鈍っていたという。

 がらんどうの部屋に妹は、一瞬、呆気(あっけ)にとられたふうだったが、何食わぬ()に窓辺に歩み寄り、軒の(ひしめ)く外を窺いながら、「何年ぶりかしら」と呟く。

「十五年、・・・・六年。麻子さんが喪くなるちょっと前だったから・・・・」

 その頃、妹はまだ独り身だった。宮倉が麻子と忍ぶ暮しを始めたとき、四面楚歌にもひとしかった二人を、祝福し励ましてくれたのは、この妹だけだった。安月給では、こんなものしか()げられないけどと言って、当時ではまだ珍しかった電気釜を、そっと置いていった。それも麻子には嬉しかったが、あたしに妹ができたのねと、妹の存在そのものを何にもまして歓んだ。確か、その麻子の瀕死のおりに、妹は結婚式を挙げていた。混乱のさなかのことで、祝いの詞ひとつ掛けてやれなかった。

 そのころ細身だった妹も、中年女の太り(じし)を窓辺にでんと構えて、ゆるがぬ風情である。

「おまえも、すっかりオバンになったな」

「それはそうですよ。手のかかるの三人も育てたんですから。・・・・そういう兄さんだって。身軽なはずなのにね」

「おれは、麻子のぶんまで、年取ってるからな」

「まだ麻子さんのこと・・・・それで、独りを通しているんですか」

「そういうわけでもないんだが・・・・」

 用事さなかの立寄りとみえ、妹は茶を一口しただけで腰を上げ、そしてつと思い起こしたように、

「子供に、会った?」

「いいや」

「会いたいと思わないの?」

「・・・・・・・・」

「そうか、いまさら会えた義理でもないか」

 背を向けたままそう呟いて、部屋をあとにした。

 妹は年なりに、小皺もシミも増えてはいたが、それでも昔ながらの美形はとどめていて、年増の臈長(ろうた)けた色香をただよわせていた。同じ美形ながら麻子が色香を、ひたすら内に包み込むタイプなら、妹は外に表出してやまぬ趣きだ。そのふたつをつき合わせ、あるいはないまぜながら、未見の娘の貌を思い描いた。

 

 宮倉は麻子の夢枕の言葉にしたがい、鏡をベッドの枕辺の欄に据付ける。おんぼろアパートの貧相な部屋に、それでも花がひとつ添えられた趣きではある。何しろベッド以外に家具らしきものなど、何もないのだから。それだって前の住人の置き捨てにしていったものなのだ。しかも病院の大部屋かなんかで使っている、あの武骨なしろものである。

 気ままな独り暮しに、転居もたび重ねて、身に(まと)っていたものをそのつど剥がしてゆくと、いつか裸身になって、それに不足もなかった。麻子の遺品も大方それとなく失せて、鏡の片割れだけがわずかに残っていた。

 鏡を枕辺に据えてから、押入れのあたりの夜泣きも鎮まったようである。

 そんなある夜、宮倉は夢うつつに頬を冷たい掌でそっと撫ぜられ、ぞくりとして目が醒めた。長髪をたらした女がおっ被さるように、寝顔を覗き込んでいる。ぎょっとし跳ね起き、闇に目を据えたが、それらしき人の気配もなかった。鏡を覗くと、窓辺の仄かな明かりを反射させて、わずかな面光りを見せているだけだった。しかし、闇に消えた女が、麻子だと判っている。麻子が死んだとき、長い髪を梳いてやった。萎えた白い顔に、白粉と紅を差してやった。そんな死化粧の(かんばせ)だった。

「おい、麻子、不意打ちはやめてくれ」

 宮倉は半ば夢うつつに、鏡の中の麻子に呟く。ベッドに(うずくま)り、しばらく鏡と向い合っていたが、やがてどろりとした眠りに()ちてゆく。

 あれは夢だったのか、それとも鏡の戯れだったのか。起きがけの珈琲を飲みながら、昨夜のことをぼんやり想い起こしていた。鏡をじっと見つめていると、透き通る水面の底にでも吸い込まれるようで、ぞくりとする。何だか急に薄気味悪くなって、押入れに(しま)おうとしたが、鏡はベッドと壁のわずかな隙間に嵌まり込んだなり、びくともしないのだ。それならベッドの位置を変えてやれと移動させると、枕辺の欄に貼り付いたなりついて来る。相手といっても、それが誰なのか、何なのかよく判らないのだが、その正体不明の何ものかの動静を窺いながら、すきあらばとベッドを毎日すこしずつ移動させているうちに、いつかベッドが部屋のど真ん中に鎮座していた。その枕辺の欄には、むろん鏡がぴったり貼り付いている。がらんとした部屋に、何とも奇妙な光景で、違和感がないでもなかったが、いまではすっかり馴染んでいる。

 ただ、鏡を上枕にするようになってから、妙に気だるくものぐさになった。小まめにしていた拭き掃除などすっかりやらなくなって、ベッドの周りは、紙屑やら脱ぎ捨てた下着がちらばって、足の踏み場もない。灰皿代わりのバケツは、煙草の吸殻がもりこぼれて、畳にこげまでできている。閉めっ放しの窓枠には、薄っすらと埃が積もり、硝子は煤けくもり、蜘蛛が糸を張っている。

 

 秋、といっても、訪れる者もない薄汚れた四十男の独居に、季節の移ろいなど、なきにひとしい。むさ苦しいといえば、年がら年中、梅雨期みたいなもの。うそ寒いといえば、冬ばかりで、かりにも春などありそうにない。まあ、ともあれ暦の上では、秋というか秋分も近く、そんな日の夜さり。鏡がぼっと明るみ、四十前後の女と、その娘であろうか、中学生ぐらいの子が並び映った。

 女は、髪を頭頂で二つに分け、後ろで丸く束ねている。麻子そっくりの古風な髪型で、貌もそれとなく似ていた。少女はその女の娘だろうか。似ているようないないような、ふたおやのどちらか一方だけに偏らぬことにこれ努めているかの如き顔立ちで、しかしというか、それ故にというか、親子には違いもなさそうだった。

 映像はすぐ消えてそれきりだったが、何日かしてその親娘に街中でぱったり出会ったのだ。もう()れも迫った頃で、女は買い物籠を片手に下げていた。細身の娘がぴったりと寄り添っている。長い髪を、赤いゴム輪で無造作に束ねていた。中学生にしては、ちょっと稚くも見える。

 反対側の舗道に立ち止って見やっていると、ふいに大型のトラックが二、三台立て続けに眼前を疾駆してゆく。再び車道が鎮まったとき、しかしすでに二人の姿はなかった。疾走する車に巻き込まれでもしたかのごとく唐突に掻き消えたのだ。宮倉はその虚しくなったあたりを、いっとき茫然と見やっていた。

 しばらくして、同じ道をやって来た野球帽の少年が、ふっとまた突然に消えた。今度は車の妨害もなく、真に眼前から消えたのだ。宮倉はあッと幽かな声を上げると同時に、車道に飛び出し、少年の消えたあたりに駆け寄る。車のけたたましい警笛が次々と背中に浴びせられた。民家の脇が半間ほどの路地になっていて、駆け抜けてゆく少年の後姿がちらっと見えた。その先が緩やかな坂道に通じていて、路地裏はその抜け道と見えた。せり上がった舗道の縁に、石段代わりの角材が備えてあった。どうやら少年は、その踏台の脇の窪地に、いきなり飛び降りたものと思われる。

 民家の甍越しに、坂道は蛇行しながら、ずるずる谷底になだれ込んでいる。表通りがかなりな高台だと判る。日頃から慣れ知ったはずの通りが、何だかふいに未踏の地にでも迷い込んだ気分だった。女たちも、その抜け道を通って、坂道に下りて行ったに違いないと、宮倉は思った。

 通りの五十メートルばかり手前が、三叉路になっていて、坂道の起点である。翌日の同じ時刻に、宮倉はそちらから廻って行き、抜け道の出口の反対側に立って、女たちを待ち伏せた。どうしてそんなことをするのか、自分でもよく判らない。何かに憑かれたように、足がそこに向いているのだ。

 思ったとおり二人はやって来た。昨日のように買い物籠を下げ、娘がへばりついている。二人は宮倉に気づいて、ほっと立ち止まったが、すぐまた歩を進めた。坂道を下りながら、ときおり娘のほうが振り返る。それを促す態に女は足を速める。そんな二人に宮倉は見蕩(みと)れたなり呆然と佇ちつくしていた。金縛りにでもなったみたいに、声も出なければ、足もうごかなかった。

 その翌日また出かけたが、女たちは現れなかった。さらに次の日、そしてまた次の日も・・・・。しかし、二人の姿を再び見ることはなかった。それでも宮倉は待ち伏せを続けた。何かに取憑かれているとしかいいようもなかった。事務所では退け時が近づくにつれそわそわし出し、終業のベルと同時に席を蹴り立ち、現場に駆けつける。そんなことが一週間も続けば、同僚の(いぶか)りも起こる。なにしろそれまでは、さしたる残務もないのに、持て余した独り身の捨て所に、ずるずる居残りばかりしていたのだから。

 老いらくの恋でもはじめましたか。

 いよいよ年貢の納め時というわけだ。

 それにしても、大変ですな。晩年の恋は凄まじいとか。思い込んだら、命がけみたいなところがあって・・・・。

 その昔、いちど失敗しているとも聞きますが。

 などと囁く同僚たちの声を、背に受け流して、世離れた迷界に、そそくさと紛れてゆく。

 

 すっかり日も短くなった。抜け道のとば口近くにしばらく立ちあぐねていると、いつかあたりは暗くなずみ、坂下の野面(のづら)を突っ切る道の街燈が、薄墨を流した宙に、淡く(またた)いている。坂道を下って野っ原のとば口に立つと、思いがけない闇の広がりが口を開けていた。はるか向うに、民家だか林だか見分けもつかぬ黒々とした連なりが、その広大な空間を取り囲むように横たわっている。道は野面の端を掠め、向いの丘の切り立ちの狭間(はざま)に延びている。

 宮倉は行方知れぬ道の果てに向って、ずるずると引き込まれていった。丘の切り立ちにさしかかったとき、背後に女の声を聞いた気がした。振り返ったが道に人の影もなかった。しばらくあたりを見廻し、古びたアパートの一つに目が留まる。恐ろしく長い建物で、まるで学校の校舎みたいだった。道から少し引っ込んだあたりで、背後の崖に貼りつくように建っている。窓辺はどこも暗く沈み、廃屋かと思っていると、一階の端の一つだけ軒燈が()いていて、その淡い光の下に、あの女が浴衣姿で佇んでいた。

 女は道路を突切り野っ原に駆け出す。宮倉は後を追った。しかし、なかなか女に追いつかない。それどころか、女の姿がだんだん小さくなってゆく。黄色い帯が、闇の中でひらひら舞う蝶のようだった。漆黒にちらちらするのを逃すまいと目を凝らし、走り続けた。行くほどに野面は限りなく広がってゆき、前方に横たわる黒い連なりが先へ先へと遠のいてゆくように思えた。

 どのくらい走ったのだろう。息が切れ足が(もつ)れ、へたり込んでしまった。夜露に濡れた(くさむら)にひっくり返り、天を仰いだ。瞬く星がはずむ息遣いに、ぐらぐら揺れた。

 ふと女が横に寝ているのに気づいた。が、最前からこうしてふたり居並んで寝転がっていた気もして、さして驚きもしなかった。麻子と馴初(なれそ)めの頃、よく夜陰の叢に寝そべり、星空を仰ぎ見ていたものだ。一言も口などきかないで、ただじっと、()と掌を握り、それだけで互いの思いは通じ合っていた。そっと女の手に触れた。恐ろしいほど冷たかった。というより、体温の無い手だ。屍と化した麻子のあの手の感触と同じだった。その手をぐいと握り、女の顔を覗き込む。月明りに蒼く冴えた顔は、目を伏せたまま微かな笑みをうかべている。死化粧をしてやった麻子の、あの(かんばせ)そっくりだった。

「また逢ってくれますね」

 唇の端を幽かにうごかし、女は頷く。

「子供にも、逢いたい・・・・」

 しかし女は、それには応えなかった。

 翌日、アパートの前に女の姿はなかった。軒燈も消えたままだ。子供のことなど持ち出して、女の機嫌を損ねてしまったか。しかし暗く静まり返った家内は、へんに空虚で、近く人の棲んでいた形跡もない。それでも宮倉はふっ切れぬまま、しばらくあたりをうろうろしていた。

 

 あれは闇の野っ原に迷い込んだ果ての、幻だったのか。道すがらに二人を見かけたのだって、何かの錯覚だったのかもしれない。ベッドに胡坐(あぐら)をかき、鏡を見据えながら、そんなことをぼんやり想い巡らせていると、かけ声も無くふいにドアーが開いて、あの女がすっと入って来た。寝間着姿で枕を小脇に抱え、いかにも慣れ知り顔だった。宮倉も、いつもながらの如く、飄然と迎え入れていた。

 女はベッドの上に正座し鏡に向かうと、束ねた髪をとき、長々と時間をかけて愛しむように梳いた。抜け落ちたのを、丸めて寝間着の袂に蔵い、もう一方の袂から口紅を出し、指の平で描く。やがて仰臥すると、瞬く間にすやすや寝入っていた。並んで横臥した宮倉も、誘われるようにまどろみに陥ちてゆく。そして二人は、夢の中で交わった。

 窓が白みかけると、いつか女は消えていた。虚ろになった寝床に、幽かな温もりが残っていて、そっと撫でてみると、夢の中でまみれた柔肌の感触が、掌に甦ってくるかのようだ。熱くなった己れがむっくと()ち、怒りに身を(しな)らせて、虚空を睨む。「麻子」と呻きごち、灼け撓った己れを、女の残り香の籠る虚ろに突き刺した。

「鏡を裸にしておくと、映した者の過去が消えてしまいますものね」

 と言いながら、女はむき出しの鏡に、持参の布切れを掛けた。紫地に矢絣の古めかしい物で、かって麻子が祖母から譲り受け、そのまま使っていたのによく似ている。というより、そのものだ。

「この鏡には、わたしの思いがいっぱい籠っているんです。それをあなたに忘れてもらいたくないの」

 髪を梳きながら、女はそうも言った。

 その髪は、束ねているとき、白いものもちらほらしていたのに、櫛目を通されて甦り、黒々と艶やかに耀く。小皺もシミもあった貌までが、若く生彩を放つ。いや、鏡は四十女を映しながら、在りし日の麻子を描いているのだった。

 女は櫛を懐紙に包み、袂に蔵う。その袂の中には挿し櫛、笄、鬢留め、白粉刷毛から鬢付け油まで、化粧の小道具一式ねじ込んである。それはそっくり麻子の鏡台の小抽斗(こひきだし)にあったものだ。

 その夜も女は、寝床に就くなり寝入ってしまった。宮倉は女の解き広げた髪の中に顔を埋め、幽かな寝息を耳にしながらまどろむ。

 夢の中。

「娘に会わせてくれ」

「会ってどうするんですか」

「どうもしないさ。ただ一目でいいんだ」

「それなら、もう会ってるじゃないですか。待ち伏せなんかしたりして・・・・」

「ひとこと、詫びたい」

「・・・・」

「なにしろ、名無し草のまま、捨ててしまったんだから」

「・・・・」

「いまさら悔んでもはじまらないことだが」

「あの子は、兄の実子になっているんですよ」

「だから、知り合いのおじさんとかいうことで・・・・」

「それで、どんな詫び言いうつもりです。あの子のこころ乱すようなことしないでください。さもなくても、むずかしい年頃なんですから」

「・・・・」

「お願いだから、そっとしておいて」

「それもそうだな。知らぬが仏ということもある。のこのこ顔出して、あらぬ疑惑の種をまき散らすこともないよな」

「そうですよ。わたしの二の舞はごめんですから」

「それはそうと、あの子、誰に似たのかな、おれのかけらも・・・・」

「へんなこと仰いますね。因縁でもつけるおつもり」

 ふっと女の顔がかきくもり、「わたし、帰らせていただきます」と怒り声にはき捨て、ベッドを(きし)ませ、部屋を飛び出す。隣の空き部屋のドアーが手荒く閉まり、廊下を震わせた。それきり女は姿を現さない。

 

 あれから宮倉は、女が現れるのを、じりじりしながら待ち続けた。その間、ただじっと待ちわびていたわけではない。鏡と向かい合い、鏡の奥の限り無い向こうから、女を引き出そうと、あるかぎりの精力を集中させて睨みすえていたのだ。が、いつも戦果を挙げるには到らなかった。至る前に、力尽きていた。野面のアパートに出向いたことも何度かあった。だが、そのつど、むなしく引き返していた。何故だか途中であの坂道を、見失ってしまうのだ。というか、坂道など何処にも無いのだ。行けども往けども、道はひたすらのっぺらぼうで、何処も彼処(かしこ)も平坦な碁盤の目が、果てしも無く張り巡らされているばかりだ。またある時は、到るところ坂道ばかりで、下った先は、廃棄工場の荒廃した跡地ばかりときて、足を棒にして行暮れる(てい)

 精も根も尽き果て、このところ二日ばかり、一歩も外に出ていない。ひたすら陋屋(ろうおく)に籠り、鬱々としている。会社も休み、昼日中から寝穢(いぎたな)くベッドに身を投げ、どろりとした眠りに(ほう)けていた。半分眠ったような醒めたようなまどろみに浸っていると、日の暮れたのにも気づかなかった。

 そんなまどろみの中で、女のぼそぼそ呟く声を、ぼんやり聞いていた。声は、耳元近くで発せられているようでもあり、布を掛けた鏡の内から、漏れ聞こえて来るようにも思えた。

 ――怒らないで聞いて下さいね。あの子、ほんとは誰の子か、判らないんです。だってあたし、覚えもないのに、突然、妊娠したんですもの。あなたに捨てられて、二年も経っていたかしら。それでも初めは、てっきりあなたのだとばかり思っていた。あのひとは何もかも変った人だったから、あたしの子宮の中で、二年間も眠り呆けていたんだって。とんだ置土産して呉れたものだと、嬉しいようなありがた迷惑のような、へんな気分でした。

 それがお隣のSさん、あなたもご存知の、あのぼんぼん学生、あの子、言うんですよ。それ、おれのだって。あたし、思わず噴出しちゃった。あんまり突飛ですもの。それにしても、冗談がきつ過ぎると、あたし怒りましたよ。すると彼、冗談なんかじゃねえ、本当のことだって、すごい剣幕。どもりながら()ず怖ず呟くのを聞いていると、あたし、恥ずかしさで体中が熱くなり、「やめて」って叫んでいた。うたた寝のあいだのことだって、言うんですもの。そう言われれば、あたし・・・・。覚えの無い体感まで甦ってくるようなの。

 あたしたち、いつもそうでしたものね。深夜が習いの逢瀬に、あたし待ち草臥れて、卓袱台(ちゃぶだい)に伏し、舟ばかり漕いでいた。そんなあたしを、あなたったら起しもしないで、いきなり抱いて、そして事だけ済ませると、いつの間にか消えていらっしゃる。半ば夢うつつに、あなたに抱かれている感じ。こんなの嫌だなと思いながら、正気のときには覚えたこともないふしぎな心地よさに、つい酔い痴れて・・・・。

 考えてみると、あたしたち、逢引しながら、ろくに口などききませんでしたね。無言で、夢うつつに抱き合っていただけ。そして、目が醒めるとあなたの姿はなく、交わった名残だけが、夢のように儚く漂っているばかり。あなたのお顔だって、見たような見なかったような・・・・。どんなお顔してたかしらと、瞼にうかべてみると、簾越しに透かし見るようで、ぼっとした(かたち)につかみどころもないありさま。すべては夢まばろしのこと。だから、捨てられても、それが現実とも思えず、卓袱台に伏してひたすら待ちわびていられたんです。あなたがSにすり替わっていたことにも気づかないで・・・・。

 いいえ、Sさんばかりじゃなかったんです。あの子のとこに出入りしていたお仲間の、MさんNさんにも抱かれていたんです。それじゃ誰のか判ったものではないのに、Sはおれのだおれのだって、言い張るんです。何故って、三人の中でいちばん回数が多かったから、ですって・・・・。あの子、学校で、統計学やっているものですから、何かっていうと、すぐ、確率論ふりまわすんです。

 あたし、思ったんです。これは誰のでもない、天から授かったものだ。あたしなどの与り知らぬ神の思召しによって、ただ、お腹を貸してあげただけなのだ。そうしてただ無事に生み(おお)せることがあたしのお勤め。でも、その子を産み落として、あたし、それだけで精一杯でした。何もかも、いのちまで、その子に注ぎ込んだんですもの。そんな麻子を、あなたは死なしてしまったんです。許すものですか、決して・・・・。

 

 女のすすり泣く声に、宮倉はまどろみから醒める。いつのまにかあの女が、枕を並べて臥せていたのだ。仄かな闇にぼっとうかぶ顔は、死化粧を(ほどこ)してやった、あの麻子の(かんばせ)だった。ベッドに半身を起し、その艶やかな黒髪を撫ぜ、()きかかえ、冷たい唇を吸った。そしてそこはかとない冷やかな体に、己れの体を重ねた。

 あれは麻子の屍と一夜を過ごしたときのことだ。ふっと、わけの判らない衝動に駆られて、冷たくなった(むくろ)を力任せに抱き締め、いつか交わっていた。そして己れの精のありったけを、萎えた麻子の躯に注いだ。死姦。あれは、夢だったのだろうか。いま、それと同じことを、この女にしている。しかし女は、幽かな寝息を立てながら、微笑をうかべ、ときには悦びの声さえ上げる。夢の中ででも交わっているようだった。あのときの麻子もこんな風だった。死んでいたにもかかわらず。

 宮倉は、女を揺り起し言った。

「娘を引き取って、親子三人で暮さないか」

「そうね、いつまでもあいつらの人質にしておくの、しゃくだものね」

 それきりまた女は、寝入ってしまった。

 朝、目覚めると、女の姿は、もうない。片寄せた寝床の空ろに、幽かながらいつもの名残りを留めていた。

 ベッドにだらしなく臥し、うつらうつらしていると、昼夜の見境も無くなって、深夜にぽっかり目を開け、そのくせ意識は朦朧たるありさまで、覚めているのだか、眠っているのだかよく判らない。そんな半覚醒の目に、ドアーを背にして、見知らぬ少女が茫と()っているのが映る。遥か昔の遠いおぼろな記憶に、あの女の娘だなと、ぼんやり思った。長い髪を二つに分けて、赤いゴム輪で止めている。どこか麻子にも、妹にも似ていた。少女は()れ合い顔に、ベッドの枕辺に歩み寄りひょいと鏡の蔽いを上げて、

「この中ですか、あたしの母さん」

 と呟くなり、さっとドアーの外に消えた。あッというまのことで、定かには判断もつきかねるが、外に出て行ったというより、室内のあらぬ空間に掻き消えたというべきか。いや、ひょっとしたら、鏡を覗いた瞬間、その中に吸い込まれてしまったのかもしれない。

 その翌日、宮倉はふらつく脚で、アパートを出る。何者かに誘われるように、あの女の野面のアパートを訪ねた。この前、足を棒にして捜しあぐねた野面道が、あっさり判った。それが思いがけない近間で、宮倉の衰弱した脚でも、難無く辿り着けた。が、アパートは何所(どこ)にも無い。周りは以前と寸分の違いも無いのに、アパートだけが存在しないのだ。いや、アパートのあった所に、赤レンガの洒落たビルが建っている。一目でマンションと判る建物で、かの古ぼけたアパートとは似ても似つかぬものだが、それも夜目のせいで、錯覚していたのだと思った。

 ロビーの奥の正面の壁に、郵便の集中受け箱がずらりと並んでいる。宮倉はあの女の名を追って目を走らせた。女の名前など知るはずもないのに。いや、無意識のうちに、麻子の名前を捜していたのだ。苗字(みょうじ)は未入籍のままだったから、実家の姓ということになるわけだが、それが何だったのか、俄かには思い出せなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。とにかく麻子という名前さえ見つかれば、それがたとえ赤の他人でもかまわない。その者に向って、「おい、麻子。もう何処へも行かないでくれ。おれから離れないでくれ」そう言うつもりだった。

 が、麻子の名前は何処にも無かった。郵便受けのおおかたは苗字ばかりで、これでは捜しようもない。それならと、(いぶか)る管理人を拝み倒し、住人の名簿を見せてもらった。七十のばあさんでも、小学生でも乳呑み児でもいい。とにかく、麻子という名前がほしかった。何かに憑かれたていに、あさこ、あさこと念仏唱えながら、夢中で名簿を繰った。しかし、やはり・・・・。宮倉はがっくり首を垂れ、マンションを出る。弱り身に張りが抜けて、よろよろとなる。千鳥足によろけては踏ん張りながら、それでも何とか己が陋屋に辿り着き、ベッドに倒れ込む。

 それきり宮倉は、起き上がれなかった。四肢を大の字に広げ、うつろな目を天井に向けて、幽かながらに息づいている。この一週間ばかり、物を口にしていなかった。食欲も無かった。ひもじ鳴りしていた腹も、いつか鎮まりことともしない。胃袋はそのはたらきを止めて、すっかり萎びてしまった。意識も薄れてゆくようで、体を、ちょっとうごかすのもしんどい。わずかに瞼だけが自由になった。上目遣いに枕辺の鏡を見やると、(おの)が萎びた体から、陽炎のようなものが立ち昇り、鏡の中に吸い込まれている。いま、おれの精が、鏡に吸い取られているのだと、宮倉は混濁する意識の裡でぼんやり思った。

――了――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/04/08

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武川 滋郎

ムカワ ジロウ
むかわ じろう 小説家 1937年 山梨県に生れる。

掲載作の初出は、1987(昭和62)年『女絵』(審美社刊)。

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