進化説を骨子とせる新科学の上より見れば、道徳観念は原人が社会を組織する必要上発生せし思想の習性たること明かなり、而して其道徳観念の一たる羞恥の感の如きも、生存競争の一事象より起りしものたること論なき所とす、裸体にして恥ざりしは原始時代の常態にあらずや、後世の政治家は其道徳観念を維持せんがため、普及せしめんがために法律を制定し、今は公然の猥褻行為を禁じ、猥褻物品の販売陳列を禁ずれども、享保七年十一月迄は春画の出版を許し、明治五年十一月迄は猥褻行為を罰するの法律は無かりしなり
抑も猥褻と云ふこと果して醜陋なりや否やと云ふに、これ人類存続上の最大必要事物にして、毫も恥づべき事、恥づべき物に非ず、然るに之を猥褻と目するに至りしは、原人時代に於ける生存競争上の習慣、即ち掠奪防禦の必要上より出でたる秘密行為の習慣が道徳観念に変化せしなり、故に猥褻とは人道の大本を客観したる事にして、生殖の機関、性慾の遂行そのものは神聖と称すべきなり、夫婦の同衾は道徳法律の禁ずる所にあらず、只之を客観的に露出し客観的に描きて公表すること初めて猥褻たるなり
茲に述べんと欲するは、俗文学と猥褻との関係なるが、啻に俗文学のみならず、社会百般の事物は概ね性慾事物即ち猥褻に起因するものなり、人間の身体が所謂猥褻の行為によつて生出せると同様、人間の精神は所謂色気によつて活動し、其精神の発作たる政治、宗教、文学、美術等、悉く猥褻に起因するものと断言して憚らざるなり
政治
先づ政治の起原を説かん、抑も社会とは団結的生活を云ひ、其団結的生活は生存競争上の必要より生じたる事なり、語を換へて云へば、自然淘汰の結果が社会を形成するに至りしなり、而して其社会の民衆を統御する政治は、超越せる剛勇者、即ち優勝者の圧制執行と云ふ点もあれど、要するに共益によつて成立せしものなり、其政治は原始時代に於ける人々の衣食住を安全ならしむると云ふよりも、尚一層烈強の事由たりしは、男女関係の問題なりとす、即ち分業協力といふ夫婦関係を馴致せし径路は、性慾上の暴挙たる掠奪婚を制止し、次は種族生存に不利なる雑婚を禁ずるに至りしものにて、政治の本源は食物争奪の為めに起る挌闘よりも、其数の最も多かりし婦女掠奪の為めに起る挌闘を防止すること、即ち男女間の性慾を牽制せしにありと見るべし
宗教
宗教の起原は生殖器崇拝にありしこと今や殆ど論なき所たるべし、陰陽和合、万物生々の原力は神なりと信じて男根の模形物を道路の分岐点(即ち股間に似たる所)に祭りたること後の道祖神にて知るべし
道祖神を古代にては久奈止の神と云へり、久奈は男根の義なり(女陰はアタ)鶺鴒をニハクナブリと云ふ、庭にて男根を振る鳥との意なり
個人主唱の宗教は、人文稍発達したる後世の事なり、生殖器崇拝は自然に起りし宗教の本源にして、又偶像崇拝の率先たり、道祖神の変体と目さるゝ後世の大聖歓喜天に二股大根を供ふるも亦女陰を供ふるの意なり、春宮と称し、子宮と称するが如きも皆生殖器崇拝の余習と見ざるべからず
文学
文学の起源も亦猥褻にあり、歴史は「みとのまぐはひ」「交接教鳥」に初まり、『古事記』『日本書紀』の所載は今日訳して公表し難き所多々あるにあらずや、和歌は素盞烏尊の「八雲たつ出雲八重垣妻ごめに」を濫觴として恋歌を和歌の生命とせり、『萬葉集』所載の恋歌を今日の俗語に訳すれば其淫靡聞くに堪へざるものあり、国文亦然り、小説の祖たる『竹取物語』は娘一人に婿八人の醜態を描けるもの、古草子『伊勢物語』は「昔男ありけり」の助倍談、『源氏物語』は好色の媒書なりと古人既に評せり、随筆本たる『徒然草』は「色好まざらん男は玉の巵底なきが如し」と云へる艶法師の作なり、此外『風葉集』に引ける古物語本百数十種は、只その外題のみを見るも春画目録に均しきものならずや
われ恥かしき物語 ちゞに砕くる物語 ゆるさぬなかの物語 忍ぶもぢずり物語 妻恋かぬる物語 夢の通ひ路物語 二世の友物語
美術
絵画は生殖器の図としてのしこし山或は草鞋蟲の如きものを描きしに初まることは、古今東西の絵心なき児童が白壁又は便所の壁に怪しきものを描けるにても知るべし、彫刻も亦木材或は石材にて道祖の神体を刻せしに初まるなり、後世の考古学者が雷槌と称して珍重する石棒の如き物も、原人の包茎時代に於ける石神本体なるべし、舞踊の起原も男女のドチ狂ひに初まること、今日尚行はるる盆踊り又は西洋ダンスを見て推知すべし
斯くの如く、政治、宗教、文学、美術、等の起原は猥褻にありとすれば、其軟派文学、俗文学の起源も亦猥褻ならざるを得ざるべし、俗文学とは何ぞや、曰く、戯曲、小説、滑稽、雑俳等これなり
浄瑠璃
浄瑠璃の祖と云へるは、小野お通の作『浄瑠璃十二段草子』なり、此物語は源義経が舎那王丸と云ひし十五の春、奥州に下る途次、三州矢矧の長者の家に宿り、其家の一人娘浄瑠璃姫に通じたる色事、所謂濡れに濡れたる言の葉を十二段に書き綴りたるものなり、当時のお国歌舞妓亦淫靡の節多し、元和偃武の後も尚戦乱の余習として、剛壮を主とせる岡清兵衛の金平本の如きもの一時盛んに行はれたれども、これに代わりしは東洋のセキスピーヤ浄瑠璃中興の祖たる巣林子近松門左衛門なり、文学者某は「巣林子の作は絢爛高潔なれども後輩たる竹田出雲、並木宗輔、近松半二、西澤一風等は淫靡猥褻の作のみ」と云ひたれども、其巣林子の作『堀川波の鼓』には下女の部屋に夜這する醜状を描き『冥途の飛脚』には「そんなら私はお湯わかいて腰湯して待ちます」と云ひ『関八州繋駒』には御殿女中の裸相撲を描き「脇へずつと外れては手負烏見るやうで凄しかろと吹き出す」など猥褻至極のものも数多し
仮名草子
仮名草子の最も古き版本たる元和版の『秋の夜長物語』『鳥部山物語』、寛永版の『若道物語』、承応版の『犬つれづれ』等は悉く男色の淫猥本にして、後の好色本(浮世草紙)は皆これに倣へるなり
落語本
落語本の祖は安楽庵策伝の『醒睡笑』よりも古き『昨日は今日の物語』なり、此落語本全篇の過半は猥褻談にして、今日若し其一節にても抜載する者あらば、直ちに発売禁止の処分を受くべきものなり、其後の『鹿の巻筆』より『噺の尻馬』に至る凡そ数百種の落語本は悉く皆淫靡の極を尽せるものなり
浮世草紙
浮世草紙は一名好色本と云ふ、其開祖は井原西鶴にして、天和二年の『好色一代男』を筆頭とす、「消した所が恋の初まり」、世之助は五十四歳迄に三千七百四十二人の女を犯し、其六十歳の時には床の責め道具を船に満載して女護島に渡りしと云ふなど、全篇色気に酔はされてウンザリする物語なり、『好色二代男』『好色三代男』亦これに劣らず、『好色一代女』『好色五人女』は世之助に負けざる淫乱婦人、外に『男色大鑑』等のケッ作あり、これに続いて吉田半兵衛、石川流宣、都の錦、西沢よし、北條団水等、元禄の未までに二百余種の好色本を著はし、錦文流、奥村政信、八文字屋自笑、江島其碩等の亜流者亦安永までに三百余種の好色本を著はして世に公刊せり、明治の小説大家尾崎紅葉は西鶴崇拝の巨擘たり、小杉天外亦其尻甜りなり
享保七年十一月、徳川幕府は好色本禁止の令を下したれども、社会の要求は其禁令を無視せしめて止まず、宝暦の平賀源内は『痿陰隠逸伝』『長枕褥合戦』等の著を公刊せり
洒落本
一名蒟蒻本と称す、遊里に於ける売女蕩児の淫猥物語、享保の『両巴巵言』宝暦の『異素六帖』明和の『遊子方言』天明の『吉原楊子』寛政の『仕懸文庫』『辰巳婦言』等、享和までに三四百種の公刊あり、主たる著者は山東京伝、十返舎一九の徒なり、是れ皆誨淫の書なりしが、当時著者及び版元の罰せらるゝ者続出せしがため終に閉塞し、これに代りしは人情本なり
人情本
人情本は文政二年の一九作『峯の初花』を初めとして傾城明烏の艶物数種出で、続いて為永春水の『春色梅暦』『春色辰巳の園』『春色恵の花』等二百余種あり、いづれも春画を去ること遠からざる淫書なり
川柳本
これも亦猥褻が其主要を占むるなり、安永五年の公刊本『滑稽末摘花』四冊全篇数百千句、悉く皆猥褻の句ならざるなし、川柳子の取材も亦色気、即ち末番にありしこと之を見て知らる
吉原本
吉原本と云へるもの寛文後に百四五十種あり、遊里研究家の重宝なれども、是亦悉く淫書の部類なり
此外、俗謡の起原も猥褻なり、俚諺の起原も猥褻なり、地口、物は付、冠付と云へる事も亦其起原は猥褻にありしこと古刊本にて知り得たり、只其例證を茲に挙ぐることを憚るのみなり
荷田春満は元禄の頃に於て、中世以降の歌道が専ら淫靡に流るゝを慨し、之を矯正せんと欲して生涯恋歌を作らざりしと云ふ、又曲亭馬琴は寛政の頃に於て、蒟蒻本の如き誨淫の書は我ものするを好まずとて終身其著なかりしと云ふこれ超世的の見識として感賞すべき逸事なり、両者その和歌の本源、戯作の本源、共に色気猥褻にありし事を知らざるに非ざるべし、世の進歩と云ひ、文明と云ふ径路の上より云へば、右の如き見識の人々ありて、社会の道徳観念を発達せしめ、趣味性を向上せしめ、其道徳観念終に法律制裁と成り、法律制裁あるがために又道徳観念を一層強からしめたる結果、今日の純潔高雅なる醇化の美域に達し得たるなり、起原猥褻なるが故に永久其猥褻を主とすべしと云ふは、文化の何たるを解せざる蛮的思想にして、人間の身体は所謂猥褻の行為によつて生出せしものなるが故に、人間は日夜公然猥褻の行為をなすべしと云ふに均しき愚論なり、予は只其起原の概路を述べて、学者の研究、政治、宗教、美術家等の参考に資せんと欲するのみ
要は原始時代に於ける百事の起原は悉く自然の発作として天真爛漫、毫も虚偽なきものたりしが故に、後の政治家たり宗教家たり文学家たり美術家たる人々は、其本源に顧みて、現今の如く表面の虚飾にのみ苦心して、其内実は猥褻以上の醜陋事態あることなく、正直に露骨に、虚偽を避け形式を避けて、俯仰天地に恥ざる、所謂ザツクバランの態度に出でられん事を望むにあり
本篇は予が大正四年(1915)四月二十三日、大阪文藝同攻会の講演会にて「俗文学と猥褻」と題して口述したる事の大意なり