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橋のむこうに

 夕方の電車はいくらか混みはじめていた。軽い震動が、吊革でバランスをとっている彰子の内部にも響く。心までが振幅をくり返していた。耳も頬も妙に熱い。             

「兄貴が肝臓癌であす手術をするんだ」

 松野真也が開いている写真展の会場で、さっき聞いた重い口調が耳の底にこもっている。

 真也の末娘の結婚披露宴で、久しぶりに克巳に逢ったのはほんの数ヶ月前だった。白髪が多くなったくらいで、そのときは体力の衰えなど微塵も感じられなかった。むしろ、ゆったりと全身を包みこむような眼差しが胸の奥に埋もれていた火を掻き起こし、その後もしばらく彰子の気持ちを火照らせていた。

〈あの時どうして〉

 その日から何度も湧きあがっていた問いが、また彰子の胸の奥から這い上がってくる。

 披露宴が終わり、ホテルの玄関口でタクシーを待っていたとき、克巳はにこやかに彰子に握手を求めた。まだ列席者が大勢いる中での情のある仕草だった。克巳の手は思いのほかに柔らかく、けれども冷んやりとしていて快かった。彼は来春定年を迎えるのだと言い、「体を大事にね」と、もう会えなくなりでもするように、握っていた手に静かに力を加えた。心臓を掴まれるほどの激しさはなかったが、忘れ物をしっかり手渡しているとでもいうような熱っぽさがこもっていた。

 彰子にも渡しておかなければ心残りな想いがある。胸が潤んだ。見上げると、彰子に視線を留めたまま、克巳の笑顔がもうひとつ深くなった。しかし彰子は、さりげなく微笑んだだけで車に乗り込んだのだった。

 彰子は思いを切り替えるように、右腕に掛けていたハンドバッグをゆっくりと持ち直した。

 電車は鉄橋を渡りはじめた。反響する音が頭の芯を走る。ふいに、目の前に大きな真紅の太陽が写った。夕陽の空は彰子の背後にあるのに、前面の窓がそれを写しているのだ。夕暮れの空は画布となって川一杯にひろがり、電車の震動に合わせて車窓に弾む陽がしみるように赤い。川下に架かっている長い橋を、赤い太陽はまるでスキップをしながら渡っているようだ。

 長いポニーテールの髪をおどらせて、少女の彰子が堤防の上をスキップしてゆく。その横を中学生の克巳が自転車で走り過ぎる。待ってえ。彰子が手をふりながら駆け出す。振り返りもせずに、克巳がどんどん遠ざかる。

 幻影を追っているうちに、夕陽は見えなくなった。鉄橋を渡り切った電車の両側にはびっしりと家が並び、重なりあった屋根が車窓をすべっている。彰子は、遠のいてゆく向こう岸の景色を振り返った。高くそびえているマンションの窓にいくつかの灯がともっている。それが心に染みる。

「私からって、お花を持っていってくれない」

 写真展の終わり次第、札幌まで見舞いに行くという真也に、彰子は、かすみ草をたっぷり使ってと特に注文した。どうして、と真也は聞き返した。

「かすみ草って引き立て役として添えられているだけだけれど、あの白い小花のむれって妙に心に染みるのよね。体の悪いときには目に優しいと思うわ」

 彰子の遠い風景の中で、その花が揺れている。

 小学一年生のころ川へ出かけ、彰子は足を滑らせてずぶ濡れになったことがある。泣きじゃくる彰子を克巳が背負い、靴をぶらさげた真也がおどけながら歩いた。服は軽く絞っただけなので克巳のシャツを濡らし、体を押しつけている彰子に彼の体温がとりわけ熱く伝わってきた。克巳は六年生でも大柄なほうだったが、家までの十分あまりを何度も立ち止まったり、彰子を揺すりあげたりした。息を切らしているのを知っていたのに、泣きやんだら下ろされてしまいそうで、彰子は出なくなった声を掻き出しながらしゃくりあげていた。そのとき、どこかの庭にいっぱいのかすみ草を見たような気がする。その印象が現実であったかどうかはわからないのに、記憶の中では背負われていたあの日と結びついているのだ。

 克巳と真也は隣の松野家の兄弟だった。五歳の開きがあり、腹違いでもあるためか克巳は年齢にしては静かで考え深く、ひどく大人びていた。目もとがいつも笑みを含んでいて、哀しいことも怒りもその中に包み込まれていたと、彰子は最近になって思っている。

 真也は腕白だったが克巳にだけは従順で、じゃれたり甘えたりしてまとわりついていた。それを受けとめる克巳の胸も背中も頼もしかった。彰子には優しい姉と気の弱い弟がいるだけだったから、兄がいるということが羨ましくて、幼稚園から一緒だった真也とともに克巳を共有している気になっていた。

 高校も同じだった真也はその後彰子の同級生と結婚し、彰子も嫁いで、それぞれ東京近郊に住むようになってからは、ずっと親交がつづいている。身内のような関わりの中で、克巳の存在も影のように傍らにあった。

 その影がすうっと遠のく。

「定年を機に、あそこを引き払って郊外に移ろうと思っているんですよ」

 握手をしながら克巳はそう言った。

「だって、建て替えてからいくらも経っていないじゃありませんか」

「ここ一、二年で急に開けましたからね、かえって住みにくくなったんですよ」

 彼の掌圧に胸を熱くしながら、しかし彰子は、知りすぎていた風景が、縮小されながら急速に視界の奥へ後退ってゆく感覚にうろたえた。そこには、そこでしか出会えない青春とそれを引きずってきた時間が息づいている。

〈私はあのとき、彼の手の中に想いを完結させないことで、遠ざかる風景を引き止めようとしたのだろうか〉

 彰子は吊革を握っている手に力をこめた。

 

 乗り換え駅で大勢が入れ替わり、空席が目立つようになった。彰子が腰を下ろした席の前には、高校生らしい男女が肩を抱き合って座っている。二人が背にしている車窓のむこうに、むらさきの混じった朱色の雲が空を染めていた。ところどころから黄色っぽい淡い光がはみだすように滲んでいる。その表面に濃い藍色の雲が寄ってきてしだいに空を埋めてゆく。真也の写真展で見た何枚かの風景がそこに重なる。とりわけ、画面の隅に一羽の鳥を配した夕空の構図が彰子の意識を占める。はるか彼方になだれていく鱗雲を見送っている鳥の黒い静止は、彰子の中の化石を見ているようだった。

 暗くなりかけた庭先で火と向かい合っている背中がよみがえる。姉の玲子が手紙やノートを破いては炎の中に投げ入れていた。細すぎる撫で肩が力なく見えた。数日後には嫁いでゆく姉への彰子の感傷が、ふいにその肩に覆いかぶさった。

 幼いころからお転婆すぎる彰子をおろおろと気づかい、どこかを擦りむけば玲子はすぐに薬を塗ってくれた。家事の手伝いもほとんど一人でこなし、母の前では彰子も共にしたように取りつくろってくれた。日常になりすぎていたことが、初めて彰子の中で形となって拡大された。その姉がいなくなる。なにかを伝えなければ。彰子は、姉の消えそうな背へむけて言葉をさがした。

 思いもよらないひと言が口をついて出た。

「ほんとは、克にいさんと結婚してくれたらよかったのに」

 一瞬、玲子の表情がこわ張った。横顔を掃くように炎が揺らいでいた。紙を火に放ることも忘れて一点を見つめている。彰子はどう対処しようもないほどに胸をつかれた。それを取りつくろうためにまた言葉をさぐる。

「お姉さん、好きだったんでしょう。言えばよかったのに」

 突然、玲子の肩が大きく揺れて吠えるような声がほとばしった。顔を覆った両手からとめどなく嗚咽がもれ、手も頬も涙でぐしょぐしょになった。人前ではけっして泣き顔を見せたことのない姉だった。頭の中も心も真っ白になったまま、彰子はそこに蹲って動けなくなった。影絵のような玲子の黒い後ろ姿だけが意識を占めていた。

 カーテンを細めに開けて、玲子が明け切らない窓の外を一心に見つめていたこともあった。ベッドから伸び上がって、彰子もそっとカーテンに隙間を作った。大きな荷物を背負って、登山に出かける克巳の姿が見えた。背中のリュックサックには、蛙の付いたお守りがぶら下がっているはずだった。旅行先で玲子が買ってきたのを無理に貰って、彰子が克巳にあげたのだった。「蛙はね、無事に帰る、の祈りの意味なのよ」と玲子の言葉を口にはしたが、彰子は姉が買ってきたものだとは言わなかった。

 玲子と一緒の部屋からは道を曲がるまでが見通せる。克巳が見えなくなるまで玲子はそこに立っていた。彰子の気配には全く気づかず、無心に祈りつづけているように見えた。しかし彰子は、それを夢の中のこととして気持ちの外におしやっていたのだった。

 高校、大学とつづけていた山歩きに、克巳は就職してからも時間をみつけてはよく出かけていた。最初のころは、山小屋で書いた葉書が彰子と真也にその一、その二として届いた。山を下りてから投函する便りはたいてい克巳が帰宅してから配達されたので、二枚を突き合わせて読む内容は彼の解説つきで楽しかった。

 それも真也が東京の大学に入るまでで、その後は、山で撮った写真を持って訪れる克巳を囲んでの、家族ぐるみの娯しみになった。社会人としての落ち着きが頼もしくなっていく克巳が、彰子には息苦しいほど眩しくなっていたころだった。

 ときどき克巳の熱い視線を電流のように感じることはあったが、それが玲子へなのか自分へ向けられているのか確かめることを怖れて、彰子はわざと顔を上げなかった。玲子は博多人形を思わせる整った目鼻立ちが人の口にのぼるほどだったし、家庭的な雰囲気がだれからも好感をもたれていた。よそではそれが自慢な彰子だったが、それは自分の減点をかぞえる反射鏡でもあった。

 ある日玲子が帰宅するなり、電車で克巳と一緒になったと嬉しそうに言ったことがある。そのとき彰子は、上気した姉の頬に平手打ちでもするように、思わず声のトーンをあげて言った。

「混んでいるときってさ、兄貴と一緒だとがっちりガードしてくれるから頼もしいものね。でも、服に口紅が付かないかと気もつかうけどさ」

 その後、玲子はそれらしい気配を見せなくなった。

 彰子は一度、夏のラッシュ時に克巳と電車に乗り合わせた時のことが忘れられないでいたのだった。勤め先の近い姉にはその機会がもっと多いはずである。だからよけい、背を庇ってくれた克巳の手の感触は彰子だけのものであってほしかった。彰子は殊更、兄貴に甘えるポーズをとることで克巳には気持ちの揺らぎを隠し、玲子には克巳との親しさを強調してみせることで立ちはだかったのだった。

 嫁いだ玲子はほどなく双子の男の子を出産し、子供のくり返す入退院に心労の絶えない日々を過ごすようになった。

 そのころ彰子は、真っ直ぐにとどく克巳の眼差しの気迫に搦めとられそうになりながら、今度は、姉の慟哭の残像に引き戻されていた。彰子は当時付き合っていたボーイフレンドの存在を、克巳に大げさに話したり相談をもちかけたりすることで、二人の間に高い垣根を作ったのだった。

 

 電車が終点に着くと、始発駅でもあるそこはホームも構内も混み合っていた。通路の壁に背を凭せ、床に腰を落としてパンを齧っている高校生たちがいる。濃厚に抱き合っている男女を、エアポケットのように人むれがよけて通る。欲しいものを欲しいときに人目もはばからず貪る若者たちが、彰子にはひどくうら寂しく見えた。視角の隅に彼らの姿をすべらせながら、彰子は出口へ急いだ。

 下りエスカレータが、彰子を夕暮れのほの暗さの中に吸い込んでゆく。頭の頂点から、体中の生気が脱けていくようだ。克巳が結婚することになったときの、全身が萎えていくようだった頼りなさに似ていた。

 克巳が上司の世話で妻を迎えるころ、彰子には交際していたボーイフレンドとの別れがあった。そのことに感傷的な寂しさはあったが、克巳の結婚は、立っている地表がとめどなく崩れていくほどの衝撃だった。体勢を立て直そうとすればするほど、胸に掘られる空しさは深くなり、そこから吹き上げてくる風がいつまでも止まなかった。その風が、今また体の芯を這い上がってくる。

 いなくなってはいや。がんばって、がんばって。拳で胸をたたくように、彰子は呟きをくり返しながら足を早めた。家に近いスーパーマーケットの店先に、とりどりの花や鉢を並べて花舗の灯がひときわ明るい。立ち止まって、彰子は片隅にまとめてあるかすみ草をみつめた。

 

 留守の間にファックスが二通とどいていた。それをテーブルに置いて、買ってきた花を仏壇の姑に供え、かすみ草だけを部屋に飾った。わずか二本だが、ひろがりのある小枝に花の量感がたっぷりとしている。傍らのソファーに深く腰をおろし、彰子はファックスに目を通した。

 一通は単身赴任中の夫からで、あす本社の会議に出るので遅くなるが夜は家に帰るという。

〈まだ正式ではないが、次の異動で戻れることになると思う〉と書き添えてあり、これが連絡の本命であるらしい。娘の香苗が結婚するまでの五ヶ月を、一緒に暮らせる嬉しさが強い筆跡から伝わってくる。彰子にとって、制約の多くなる日々への鬱陶しさはあるものの、寡黙な舅に対する気づまりは、夫がいればいくらか中和されるだろう。

 もう一枚はその舅からだった。温泉地の近くにある保養センター〈ゆかりの里〉に行って一週間である。初めてひと月の予定で出かけたのだが、いままでの二回と同じ滞在期間がすぎて里心がついたのかも知れない。彰子はすこし気持ちを重くして、一字一字が正座でもしているような文字に視線をすえた。

〈木彫りをはじめた。至急作業衣を届けられたし。庄平〉

 素っ気ない文章から気短さがのぞいていた。人と接することを最近とみに嫌っていて、今までは持参した書籍を読んでくるだけの庄平だった。今回、自分から行くと言いだしたことさえ、彰子には信じられなかった。

 ともかくも、待ったなしの人である。明日はすぐに行かなければ。彰子は急き立てられるように庄平の部屋に入った。任地に一人で行くことの多かった夫よりも、その両親と暮らした年月のほうが長かったのだと、彰子は身についている条件反射に苦笑する。

 庄平の部屋はすみずみにまで清潔感があり、夫の一人暮らしとは対照的である。日頃から庄平は、見える範囲の掃除と、出してよこす洗濯ものはさせるが、それ以外のことには決して彰子の手を借りようとはしない。一年あまり前に亡くなった姑が動けた間は、落とした箸さえ拾わなかったのに、その変貌ぶりと隠れていた整理能力に彰子は目をみはった。

 彰子は部屋に入るとすぐにサンルームの境の障子を開け、そこにも灯をつけた。書斎ふうに使っているので、和室よりも庄平の存在感が漂う。机の上には、姑と庄平の不器用に並んだ写真が飾ってある。初めて九州へ夫婦旅行をしたときのもので、姑の笑顔がまだ若々しい。

 姑に見られているような緊張感をかすかにおぼえながら、彰子は、和室の隅にある小箪笥にゆっくりと手をかけた。上の段から順に開けてみると、奇麗に畳んだシャツやトレーナーが取り出しやすいように縦に並べて入れてある。肌着類や靴下も、引き出しの中に空き箱を使って分類されている。最下段には、思いがけなく姑の衣類が収められていた。姑の死後しばらくして形見分けをしたり、施設に寄付したりの他は、行李や茶箱にいれて押し入れに片付けておいたはずである。庄平ばかりの物の中に、姑のセーターやブラウスがいきなり生きているような顔をみせたのだ。

 見覚えのある一枚一枚に触れてみると、恨みも無くはなかった歳月が、懐かしさだけを掬いあげてよみがえる。彰子の手がしみだらけのエプロンで止まった。一年ちかくをベッドから離れることのできなかった姑が、食事のたびに胸に当てていたものである。黄色い小花模様が気に入っていた。それだけに汚れが目立っている。衣類を整理するとき捨てるほうにまとめたのだが、庄平はいつのまにか抜き出しておいたものらしい。最後のころを思い出すと、食事に時間のかかる姑はいつもこのエプロンをしていたし、傍らの椅子から庄平は片時も離れず、そのくせ叱言ばかり言っていた。

 だがいま、庄平のうちを大きく穿っていた寂寥が、あらためてそこから滲んでくるようだ。おなじ気配が、彰子の記憶の遠いあたりから忍びよってくる。それを振り払うように、わざと忙しなく動きまわって庄平の衣服を整えた。

 台所に戻ってからも、背中に庄平の部屋で感じた寒さがこびりついている。そのことに拘りながら、彰子は、久しぶりに香苗が連れてくる婚約者のための、夕食の準備に集中しようとした。

 ビールに合うつまみや烏賊と野菜のマリネサラダを作り、揚げ物は顔を見てからするように下拵えだけをして付け合わせを刻みはじめた。新鮮なキャベツの切り口を小気味よく包丁がすべり、まな板にリズミカルな音をひびかせる。いつもは快いその音が彰子を落ち着かなくさせた。

〈あの時も……〉

 ふとわいた呟きが意識の中から去らない。彰子は刻みかけのキャベツをそのままにして、食卓の椅子に腰をおろした。まな板に鳴るひびきが止むこともなくなおも周りに満ちてくる。彰子はその中に埋もれそうになり、目を閉じた。そして、読み残しの本のページから栞を引き抜きでもするように、あの時を思った。

 

 両親が弟の勤務地で同居することになったとき、彰子は久しぶりに札幌の実家を訪れた。嫁いでから八年、里帰りは三度目のことである。二人の子供は姑に頼んでの、束の間の名残の旅だった。

 隣の松野家では、克巳の妻が病死してまだ半年も経っていなかった。家全体が寒々としていて、小学生の兄弟があげる大きな声はそれをいっそう際立てた。克巳にも生気がなく、その視線の焦点は久しぶりに会った彰子のどこにも結ばれなかった。なにを話しかけても、応えは彰子を素通りしてどこかに消えてしまう。日ごろよく親の様子を見に来ている玲子だけが、いまはまるで克巳の姉のように、歯切れのよい口調で元気づけていた。

 玲子は、ひ弱な双子の体調や世話にめげるどころか、下に二人の子も産み、車の運転もこなして信じられないほど活動的になっていた。夫の両親との同居暮らしで自分を抑えることに慣らされた彰子とは、性格が入れ代わったようだと母が驚くほどだった。

 明日は帰るという日の午後、父と母は彰子の婚家への土産の思惑があるらしく、玲子の運転する車で出かけていった。静かすぎる家は彰子を不安にする。

 彰子は二階のかつての自分の部屋の窓辺に立ってみた。松野家の裏庭が見える。克巳が学生のころ、自転車を置く場所が決まっていた。そこへ入ってくるとき、克巳は独特のリズムで鈴を鳴らした。彰子は誘われて立ち上がり必ず外を覗いた。とおい日々がそこから際限もなく立ち上がってくる。

 冷たいものが頬にあたった。残暑がつづき、開けてある窓から雨が吹き込みはじめていた。急に暗くなってきた視界に松野家の洗濯物がひるがえっているのが目についた。昼過ぎに、二人の男の子と祖父母が出掛けるのに会ったが、日曜日だから克巳はいるはずだった。けれども出てくる様子はない。

 彰子は松野家との境の裏木戸をくぐり、干してあるものを竿からいっ気にはずして縁先に走った。はやくも雨が横なぐりに降りだしていた。縁側の戸も、部屋の窓も開けはなったままである。あわてて中に駆け込み、戸を閉めてまわった。

 克巳は居間のソファーでうたた寝をしていた。声を掛けると、一度は薄目を開けるが直ぐにまた瞼を合わせる。閉じたままの小刻みな瞬きは、深い眠りのなかにいるようでも、まして安らぎを得ているようでもない。克巳の意識が、得体のしれない錘によってぐいぐいと底深く引きずりこまれてでもいるようだ。そこは、克巳とその妻の、彰子の知らない歳月で埋めつくされている。

 彰子の胸の奥から火花が弾けながら突き上げてきた。思い切り揺さぶって、彰子の知っている克巳に出会いたかった。彰子はそっと床に膝を付いた。

 しだいに激しくなる雨は窓ガラスを滂沱と洗い、外の景色をうるませる。部屋には息苦しいほどの静けさが積もり、現実から隔絶されている感覚が彰子をつつんでいった。彰子はむしゃぶりつくように克巳の両腕をつかんだ。

「どうしたのよ。しっかりしなきゃ駄目じゃないの」

 克巳を揺らしながら、声にも手にも力がこもる。周りがぼんやりして、彰子には克巳しか見えなくなった。体中から炎がたちのぼってくる。と、ふいに台所から胡瓜の小口切りでもしているような軽やかなひびきが伝わってきた。高くはげしく、主婦の自信にみちた包丁のリズムである。

 反射的に立ち上がり二三歩台所に行きかけたが、確かめるまでもなく、家の中には彰子のほかは克巳しかいない。耳を澄ますともう音は消えていたが、部屋の空気はかすかに波だっていた。彰子は大きく息を吐き出し、そっとソファーの端に腰を下ろした。

 このおなじ部屋で、危うく自分をとり落としそうになった日がかげろうのように立ちのぼる。

 克巳が室蘭へ転勤することになり、若夫婦があす出発するという日曜の夕方、彰子は餞別を届けに行くという母と松野家を訪れた。お茶の稽古から帰ったばかりで、肌襦袢がじっとり汗ばんでいた。それを理由に行きしぶると、

「お二人が戻ってくるころは、あなただって居ないかもしれないのよ。小さいときから可愛がってもらったんですもの、ご挨拶はきちんとしなければ。けじめですよ」

 と、母は有無を言わせなかった。

 嫁いで十ヶ月たらずの松野家の新妻は、姑の指図に素直に従っているものの歯がゆいくらいおっとりとしていた。日ごろから姑は、おとなしいだけと彼女を評し、「彰さんはきびきびしていてほんとに気持ちがいいわ」とよく口にしていた。ひそかな優越感でその言葉を引き寄せながらも、目立ちはじめた母体を庇っての立ち居の初々しさから、彰子はつい目を逸らしてしまうのだった。母は彼女をしきりに羨み、しだいに彰子への結婚願望の言葉が多くなっていった。

 母はそのころ彰子に勧めていた縁談の、見合いの日取りまで口にしてしまう。

「あら、彰さんにはいい人がいるんじゃなかったの。ねえ、克巳」

 同意を促す母親の視線がとどくより早く、克巳の鋭い眼差しがひたと彰子に当てられた。瞳を捉えられたまま、彰子は頬をこわ張らせた。

 彰子は、その頃まだ克巳の前では別れた彼を存在させていたのだった。土曜日の勤め帰りに、彼とデートする夕方までのつなぎと称して、克巳を喫茶店につき合わさせたことが何度かある。克巳がよく立ち寄る繁華街の書店で偶然を装ってのことだった。隣に住みながらすっかり隔たってしまった関わりを、わずかでも手にしてみたかったのだ。そのくせ向かい合うと、彰子はわざともう居ない彼のことばかり話題にした。新しく築きつつある克巳の家庭の匂いなど感じたくなかったし、相変わらず老成した対応をする穏やかな表情を引きむしってもやりたかった。あるいは、いない彼の存在を借りて、抑えていた克巳への想いをぶつけていたのかもしれない。

 彰子の嘘をなじる克巳の目は、強い光をおびていた。そこから火の矢が放たれ胸につき刺さる。全身が灼けそうだった。お茶くらいで納まらない喉の渇きと、克巳の凝視からのがれるために、彰子は台所にいる彼の妻に水を頼んだ。

 克巳の妻は一杯の水にさえ手間どる。やっと運んできたのは、立ち上がった母や見送る人たちの後から、彰子が部屋を出ようとしたときだった。受けとってこころもち膝を付き、たっぷりと口に含んだ。水の冷たさが喉から胸へといっ気に流れ、体中にひろがる。ひと息ついてもう一度味わい、コップをテーブルに置こうとした。すると誰もいないはずの部屋で、背後からすばやくそれを奪う手があった。振り返ると、克巳が彰子を見つめたまま残りを勢いよく飲み干し、震えるほど強くコップを握りしめた。氷片がかすかに鳴り、透明なガラスに彰子の唇の跡が紅い。筋が青く浮き立つほどの克巳の握力で、ガラスがこなごなに砕けそうだった。その手で、彰子の心臓も引き絞られる。心臓から血が溢れ出る。克巳の手からも血が滴る。眠っている克巳の前で時間の境界が溶け、彰子の意識が朱の色に染まった。

 彰子は、体を放りだすように克巳に覆いかぶさっていた。胸に頬を押しつけると、克巳の鼓動が強いリズムで伝わってくる。彰子の皮膚が溶けそうなほど熱い。すこし身じろぎをして一瞬なにかを確かめるようだった克巳の手が、すぐに柔らかく彰子の背に回された。じわっと力が入るかと思うと、すべるように肩を腕を這う。抱きしめる感触に次第に情がこもってきた。大事に、この上なくいとおしんでいる。あまりにもしぜんなその動きは、しかし、彰子の裡にたぎっている熱さとはどこか違和感があった。

〈夢とうつつの間で、今この人が抱いているのはわたしではない〉

 衝撃が彰子を貫いた。長いあいだ抱えてきたさまざまな抑鬱が、出口を見つけたかのように弾ける。幼い日に戻って、しっかり克己を感じていたかった。判って、わたしよ、彰子よ。

 克巳の胸からかすかにひびきが湧き出した。まぎれもなくみじん切りでもしているような音だった。それはしだいに高まりながら、部屋中の空気を粉々にして増幅し、彰子のまわりで渦となった。ひびきの粒子は針をふくんで絶え間なく全身にあたる。

 息苦しさに、彰子は昂ぶりを貼り付けたまま、克巳から自らを引きはがした。すると克巳は急に身を起こし、驚いたように彰子を見上げた。この幾日かではじめて、彰子と認める意思の感じられる目だった。きらりと表情のある眼差しで、なにかを話しかけながら彰子の手首をつかんで引き寄せた。反動で克巳の懐に倒れこんだ。

 瞬間、二人を目がけて稲妻が部屋を横切った。鋭い閃光は刃を思わせた。かつての日、克巳の妻もたよりないほどの穏やかさの奥で、夫と彰子に女の直感を突き立てていたのだろうか。雷鳴がとどろき、部屋に充満している包丁のひびきと混じりあって、現実との境を厚くしていく。なにか語りかけてくる克己の声が彰子にはもうとどかなかった。

 その後何年かたって克巳の再婚を知らされたときも、女の子ができたと聞いたときも、彰子には薄い幕ごしのできごとのように手ごたえがなかった。女の子の〈あきほ〉という名が心に残るようになったのは、真也の話題によくのぼったためだった。

「なにしろあの家ではじめての女の子だろ、みんなが奪い合いで可愛がっているよ」

 あきちゃん、あきさん。はるかな日に克巳によって聞き慣れていた彰子の呼び名が、遠くで点っている心の灯となった。闇の中で赤く消えずにいる炊飯器の保温灯のように、ほんのりと温かい。夫もその両親も、子供たちに倣ってそのころはもう、彰子をママとかお母さんとしか呼ばなくなっていたのだった。

 

 ゆるやかなカーブの坂道を下りてきたバスが、速度を落とさずに停留所を素通りしていった。彰子は、走って荒くなった息をはずませながら、傍らの木に凭りかかってバスを見送る。腕時計を見ると、来たときに確かめておいた発車時刻にはまだ三分あった。国道に出る手前の林にまぎれて、彰子の姿は運転手の目に入らなかったらしい。

 彰子は木の幹に背をあずけたまま、今しがた出てきたばかりの建物を振り返った。木立ちのつづく百メートルほど奥に、黒く塗った木材と白壁の取り合わせが落ち着いた感じの、〈ゆかりの里〉の玄関が見える。

 香苗の車で送ってきた一週間前は、庄平は個室だったはずなのに、この日彰子は職員に二人部屋に案内された。二台のベッドの間にそれぞれの整理戸棚が並び、真ん中に籐椅子とテーブルのセットが置かれている。狭い部屋に、庄平が他人と一緒に暮らすなど想像もできないことだった。

 同室の人は前に来たときから木彫りを始めており、それが庄平の気持ちを誘ったらしい。稚拙ながら、猫や亀とわかる小さな作品が隣の戸棚の上に飾られていた。小動物のとぼけた味が、会ったことのない制作者の風貌を思い描かせる。

 職員の話では、二人は〈ゆかりの里〉の裏手の川を下った所にある、木立ちに囲まれた古い屋敷を作業場にしているという。無人のまま荒廃がめだつようになった一年ばかり前から、その家の老いた姉弟が戻ってきた。知的障害のある弟が木彫り細工に専念し、姉がその世話をしている。かなりの腕だが、人に教える余裕は精神的にも時間的にもなく、センターでは刃物を使えない二人のために、場所と材料の余りを提供しているらしかった。

「篠田さんのあんな生き生きした顔、はじめてですよ」

 前から釣りや陶芸などしきりに勧めていた職員は、手柄でもたてたように話した。

 庄平は手のひらほどの小さな作品を、ハンカチを畳んで座布団がわりにして、戸棚の上に載せていた。傍らにどんぐりと松ぼっくりを添えてある。四角い木切れの中には顔の輪郭が刻まれ、目鼻口があるべきところにあるからそれと認識できるていどである。荒削りな鑿づかいは、思わず手がすべったらしい傷やいびつさをはっきり見せていた。なにごとにも完璧主義の庄平が、たどたどしい作品をこんなにも大切にしていることに、彰子は可笑しさを噛みこらえた。

 彰子は椅子に座り、一人しみじみ手にとって眺めた。細い目は伏せているとも閉じているとも見えるが、庄平としては、瞼をあけて中に瞳を彫るむずかしさを避けたにちがいない。鼻には下書きの鉛筆のあとは残っているものの、高さをだすほど削りこんではいないし、口はやや開けぎみである。

 飽くことなく向き合っているうちに、彰子の胸の奥がじいんと熱くなってきた。未完成な木彫りから姑の表情が滲んできたのだ。気性の強さに泣かされたこともあった姑だったが、この素朴な愛らしさは、庄平のもっとも懐かしい記憶の中にあるのだろうか。

彰子はしんとした心の底で、時間も距離も越えて架かっている橋を見つめた。そこを自在に渡るひとの想いがある。

 いくら待っても、庄平は戻ってこなかった。今日は会って帰りたい気持ちで腰を上げかねていたのだが、バスは一時間に一本しかないことを確かめてある。夜はひさしぶりに夫が帰ってくることを思って、彰子はやっと立ち上がった。持ってきた衣類を椅子の上に載せ、ひと言メッセージを書いてその紙片を木彫りの顔の横に置いた。彰子は、なんとなく木の実を手に受け、両手で囲うようになぞってみた。心が柔らかくなる感触だった。

 国道へ向かって歩きながら、彰子の視線は木の実をさがして知らず知らずに林の地面をすべっていた。それを拾う少年のような庄平が眼裏にある。庄平が鑿を使って一心に削っているのは、長い歳月に全身を覆ってしまった厚い壁なのだろうか。バスの近づくのに気づいて駆け出すまで、彰子はそんな感慨にひたっていたのだった。

 遠ざかるバスを目で追いながら、彰子は停留所にしばらく佇んでいた。〈ゆかりの里〉のためにだけバス乗り場があると思われるこの辺りには、人家も人通りもなくタクシーが通るという望みもない。駅までは歩いて三十分はかかる。さて、と見上げた空に陽がおおきく傾いていた。日中の暖かさがうそのように、十月の風はひんやりとしている。

 ひとつ先の停留所あたりには、いくらか人家がかたまっていた。店らしい看板も見える。椅子くらいあるかもしれない。彰子はそこでバスを待つことにした。

 古びた雑貨店の前の自動販売機からウーロン茶を買い、喉をうるおした。ほっとして広げた視野に、寺らしい屋根をのぞかせた木立ちが見える。

 無事だったろうか。予定通りなら、克巳の手術は終わっているはずである。無影灯のあかりが広がる。医師たちの動きが緊迫感を浮き立たせる。だが手術台の克巳が見えない。彰子に不安が湧きあがった。一日の忙しい行動の底に沈めていた気がかりが、動かしがたく彰子の胸を締めつけてくる。彰子は寺への細い道をひと足ひと足踏みしめた。ガンバレ、ガンバレ、彰子の呟きにエコーがかかる。

 喉がかれるほど克己を応援したことがあった。克巳の高校恒例の雪戦会のときである。グランドに高く築いた雪の城壁を、男子生徒が紅白に分かれて攻めあうのだ。克巳は、わずかな傾斜をつけただけの固く凍らせた絶壁を、仲間たちと懸命によじ登る。城の上からは絶え間なく雪玉が投げつけられた。克巳はなんど転落してもすぐに雪壁にはりついた。上半身はだかの皮膚は、寒さのためか昂揚のためか赤くなっていた。克巳の名を叫ぶ彰子の声は見物のだれよりも大きかった。応えるように、克巳はときには人の頭まで踏み越えて頂上をめざした。日ごろの遠慮がちで穏やかな克巳の奥にある激しさに、彰子は身震いしていっそう声を張り上げた。

 寺というより一坪ほどの御堂が、五段の階段と回廊までついて木立ちの中にひっそりとあった。あまり人が参っている様子もなく、寂れた感じで鎮まりかえっている。正面には粗い木製の格子戸が閉まっており、さらに内側にすすけた障子がはまっている。把手の穴から賽銭をいれ、中を覗くと、仏像が胸もとで印を結んでいる手の部分だけが見えた。それが、彰子の胸にも結ばれる。彰子は御堂の鈴を何度も鳴らした。掠れた音がいつまでも耳の底にこもった。

 御堂の前庭に縁の崩れた小さな池があり、傍らにほどよい木株があった。腰をおろすと、一日中立ちつくしていたかのようにどっと疲れがぬけてゆく。

 池はただの水たまりのように濁り、たくさんの木の葉や紙くずを浮かべていた。だが、傷みの著しい御堂が神々しいほどの気配で映り、水底の世界から浮きあがってでもいるようだ。木立ちの影が逆しまに沈んでいる。ときどき魚らしい影が水中をすべってゆく。ふくらんだスナック菓子の袋が生き物の存在感でただよい、水面を雲がゆっくり渡っていった。あの世もこの世も、美も穢れもことごとく呑みこんだように池は静もり、彰子の意識が解けて吸い込まれてゆく。

 木立ちの奥から背の高い老人が近づいてくる。白いワイシャツの袖をたくしあげ、両手になにか大事そうに抱えていた。そのためか細い体躯を前屈みに歩いている。ゆっくりと池の縁をまわり、彰子の脇をよそ見もせずに通りすぎて裏手に進んだ。

 御堂の裏手には大きめの築山といった小山があり、古い巨木が主のように立っている。そこへ向かって行く老人の足どりはおぼつかなかった。

「これを……、鳥を葬ってやらんと。ばあさんの身代わりなんだから……」

 微かな呟きが、老人の後ろ姿から聴こえる。体型が似ているわけでもないのに、ふと庄平がその背に重なった。彰子は引き寄せられるように立ち上がり、あとを追っていた。小山からぬうっと生えている樹の幹に大きな空洞ができている。老人の白い姿がそこに吸い込まれた。彰子もおそるおそる首を伸べてみた。清んだ冷気が全身に染み渡る。いままでに体験したことのない冷たさだった。一瞬、墓の底を連想してひるんだが、体のほうはなんの抵抗もなく中へ惹き込まれていた。

 両手を土の感触の壁に這わせながらそろそろと進む。中は思いのほかに深いようだ。真っ暗闇なのに、老人の白いワイシャツがおぼろに道筋を誘っている。やがて白い影は克巳を意識させてゆらゆらと漂う。上がったり下がったり躓いたり、道はいくつも折れ曲がっていた。中をめぐっているうちに湿気が足ににじんできて滑りそうになる。危うくなにかに掴まった。するとそこから紐状のものが無数にのびてきて、全身に巻きつき絡まる。木の根の筋らしかった。振りほどいてもくぐり抜けても、後からあとからまとわりついてくる。いつ終わるとも知れなかった。足を浸す湿りと汗で体が重い。

 どれくらいの葛藤であったのか、身も心も萎えそうになったとき、急な上りになり固いものに足がかかった。手をいっぱいに伸ばして太い根につかまり、足に力を籠めて蹴上げた。ふいに、眼を射すほどの光が彰子を貫き、思い切り大気につつまれた。

 池の面が夕日の輝きを照り返し、雲間を裂いてきた光が斜めに水底へつき刺さっていた。

 

 克巳の手術が成功し、経過もいいと真也から電話があったのは、彼が札幌から帰ってきたその夜だった。

「俺が行ったとき、ちょうど集中治療室から戻ってきたところでさ、こんなに早いとはみんな思わなかったんだ」

 真也の声がはればれとしている。家族にかこまれての克巳の様子を話す真也は、いつもよりさらに饒舌だった。

「兄貴ね、もう一度生まれたみたいだなんて言うんだ。麻酔の切れるときはすごかったらしいよ」

 真也は自分の体験でも話すように熱をこめた。

 それはわずかに開いている意識の窓とでもいうのか、克巳はテレビの画面とも思える画像を見ていた。原色にちかい映像が遠のいたり近づいたりしているうちに、一定の距離と白黒のイメージが定着する。そこに無数の蛇があらわれた。ぬめりのある細長いからだをくねらせ、絡ませながら蠢いている。それを克巳は客観的に見ているのに、感覚では克巳自身が蛇のせめぎあいのただ中にいた。克巳は懸命にそれをふりほどく。だが執拗なまでに体から離れない。あえぎながら手にしている刃物をふるう。蛇はつぎつぎに新手が現れては克巳を締めつける。息の苦しさ。体の重さ。力をぬいたらすべてが終わりだと叱咤しながら、克巳は戦いつづける。

「おふくろの腹の中でも、赤ん坊だって足掻きながら生まれる苦しみを味わっているのかもしれないな、なんて言っていたよ」

 克巳のもう一度の誕生だと彰子も思った。早くに実母を亡くしたことも、二人の子を残して妻に先立たれたことも、あとの関わりを穏やかにするために、どれほど本音を抑制したことだろう。これまで克巳を縛ってきたものをやっと断ち切り、ほんとうの自分に出会えたのかもしれない。

 彰子は、庄平の部屋にあった未熟な木彫りの顔を思い出していた。

「あの花ね、彰さんからだって言い忘れてしまったんだ。ごめん。こんど電話のときに伝えておくよ」

「いいわよ、届けてくれさえしたんなら」

 克巳と家族の喜びの語らいを前に、言いそびれている真也がむしろ可笑しかった。

「でも変なこと言うんだぜ。俺が行ったのは一般病棟に戻ってきたときだろ……」

 なのに、かすみ草を見て克巳は、

「ああ、この花だったんだ。ずっと側で揺れていたのは」

 と、目を細めて言ったのだという。

彰子は大きく息を吸い込み、握りしめていた受話器に、もうひとつの手をそえた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/11/16

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宮田 智恵子

ミヤタ チエコ
みやた ちえこ 小説家 1932年 北海道旭川市に生まれる。日本随筆家協会賞。

掲載作は、「かつら」2001(平成13)年4号初出、2002(平成14)年11月菁柿堂刊『橋のむこうに』に収録。

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