坑夫
一
涯しない蒼空から流れてくる春の日は、
池井鉱山二号
カンテラは絶え間なく石油臭い
日の輝く世界と全くかけ離れたそこには、外界で起る
彼は泥水で地肌もわからない程汚れた仕事衣を身に
彼の前には刳られた山の肉の断面が立つてゐる。赤黒い母岩を貫いて走つてゐる真白い筋のやうな、稍傾斜した硅石の脈の中には、オルフラマイトが石炭のやうに光つてゐた。真鍮色の硫化鉄や金色の銅、緑の鮮やかな孔雀石も
山はダイナマイトをかけられる毎に、大きな身体をもだえて苦しげに呻いた。が、石井にはその轟然とした凄まじい音響と共に、鉄のやうな堅岩も微塵に粉砕されるのが、日毎に味はふ限りない快感であつた。彼は又何万年とも知れぬ昔から、何物にも触れたことのない山の肉を、自分の持つ
彼はその時朝から三度目の
石井の切り出した
穴を刳り終つてから石井は、細長い
「もう午かな」と聞いた。
「まだ鈴は鳴らねえけど、もう午でやすべえ」と三吉は待ち設けたやうに答へた。三吉は早く此の暗い冷たい
石井は黙つてカンテラの焔をかざして、導火線に火を点けた。白い縄はシュッシュッと音をたてて、闇の中に赤い火花を散らして燃え込んでいつた。新らしい煙硝の臭が二人の鼻をついた。
「三吉出よう」と云つて石井は先きに立つた。暗いトンネルを二人は
二人が坑口を出てからダイナマイトは凄まじい音を立てて爆発した。肉を破られた山は苦しさうに大きな身体を震はせて、長く呻いた、前に
石井は坑口の傍の若草の上に転がつて、じつと響の行方を追つてゐたが、響がすつかり消えると彼の蒼白い頬に微かな笑が浮んだ。側に立つてゐる三吉に、
「今の
「又
「おれにつくのがいやなら止せ」と石井はすぐ険しい眉をびりつかせた。
「そうら何か云ふとぢき怒るだから、石井さんにつくのは
「野郎ツまだ」と石井が半ば身を起した時、三吉は身を
下の方の坑内からも、午の揚り爆発薬をかけた響がいくつも続いて起つた。が、響はやがて一つになつて、穏かな春の大気を震はせて蒼空の中に拡がり消えた。遠くの選鉱場で女達が唄ふ、かすかな選鉱節の絶え間に、石を砕く響がどすつどすつと断え断えに聞えて来る。水のやうに蒼く澄んだ空を、銀色の雲が静かに流れてゐた。彼は何となく薄ら眠くなつた。
麓の方で午を知らせる鈴がけたゝましく鳴つた。彼は眠りから覚めたやうに、やつと身を起して、丸太で足留をした山道を下つて行つた。
下の広場に、見張所と鉱量小舎が向き合つて立つてゐる傍の、みすぼらしい大工小舎が、坑夫の休み場とも大工の仕事場ともなつてゐた。彼が下つて行つた時、鉱量小舎の周りに坑夫等が多勢集まつてゐた。低い杉皮で蔽はれた屋根の下は人垣の影で薄暗くなつて、中はよく見えなかつた。同じやうに土で赤く汚れた着物を着て、尻当をぶら下げて、油煙で目鼻の黒くなつた坑夫等は、
「
石井は穏かに静まつた気を掻き乱されることを
一同の視線は鉱量台の前に集中してゐた。其処では飯場頭の萩田が、佐藤といふ若い坑夫の胸倉を捉へて、片手で続けさまに彼の
「やい手前は何だつてこんな生意気な真似をしたんだ、不足があるなら何故俺ん所へ云つて来ねえ、俺の面を踏み潰しやがつたな」
佐藤はまだやつと二十歳になつた位の、薄い眉の下に太い
石井は原因を知りたいと思つた。彼が腕を組んだまゝ仲間を押し分けて一番前に進み出ると、其処に立つてゐた野田といふ坑夫が、
「兄弟いいとこへ来た、小幡の野郎が余り判らねえ事をいふもんだから佐藤が怒つて横面を蹴飛したんだ、ところが今度は
野田の言ひ草を聞くと、石井は
「お前こそ止めてやんねえな、平常から小幡なんか遣つつけちまはなきや駄目だつて言つてたぢやねえか」と言つて冷笑した。野田は間の悪さうな顔して黙つて了つた。けれども萩田がまだ怒鳴り続けてゐるのをみると、何となく佐藤が気の毒になつた。腕を組んだまゝ仲間の群から離れた石井は二人の側に歩み寄つた。
「何だか知らねえけど兄貴、もういゝ加減にしてやれよ」と言つて、固く捉へてゐる萩田の腕に手をかけた。萩田は逆ひもせず素直に手を離して、
「兄弟、兎に角此奴を飯場に引張つて行つて呉れ、俺は見張へ行つて話をつけてすぐ行くから」と佐藤を石井に渡した。
「さあ俺と一緒に来ねえ」と言つて石井は佐藤を引いた。佐藤は黙つて小幡の顔を睨みつけてから石井の後に従つた。
事務員等は黙つて見てゐた。坑夫達は列を割つて通したが、二人が休み場の方へ道具を取りに行く後から、またぞろぞろ随いて来た。
「小幡の野郎が余り
「これで
「何だ、お前達そんなに佐藤が気の毒なら佐藤が怒つて小幡を蹴飛ばした時、何故皆して鉱量小舎でも踏み潰しちまはねえんだ」
鋭く光る眼を据ゑて言ひ放つた。坑夫達は黙つて二人から離れて行つた。
「お前誰かに
「うゝん、俺あ誰にも煽てられやしねえけれど、此の間から小幡の野郎が癪に触つて堪らなかつたんだ。今日だつて俺が五分あるつて鉱石を、野郎二分だつて
「さうか、そんならいゝけど、人を
「さ、道具を纏めたら
休み場の広い土間に、幾組か
「忘れ物あねえか」と石井が
「大丈夫だ」
二人は黙つて歩き出した。鉱量小舎の側を通る時「小幡の間抜ツ、
山裾を一つ廻つた沢の底に、坑夫長屋が立ち並んでゐた。
僅かに切り拓いた往還の向ふ側には、切り残されたひよろ長い杉の木が
長屋の前には軒並に大きな鳥籠が伏せてあつて、赤肌に毛の脱けた鋭い眼の
午後や夜中に入坑する、昼は用のない坑夫等が、
「今時分どうかしたのか」と訊ねた。
「俺あ下山だ」と言つた切り、佐藤はきつと口を結んでさつさと行き過ぎた。その様子が余り激しかつたので、誰も続いて訊く者は、なかつた。
煤け切つた薄暗い飯場にも一人者の坑夫や掘子が七八人、退屈相にごろごろしてゐた。誰も満足な着物なんか着てゐる者は一人もなく、中には素肌の上に垢光りのする
佐藤は飯場に入ると「えゝ畜生ツ」と
「
上り口近くにゐた山田といふ坑夫が、突つ立つてゐる佐藤の顔を見て尋ねた。それは蒼白く痩せた顔に、目ばかり大きい男だつた。
「小幡を蹴飛ばしたんで下山よ」と捨てるやうに言つた佐藤は、腰を下して
「石井の兄貴もか」
「俺は佐藤を引つ張つて来た丈けよ」と言つて石井は直ぐ下駄と手拭を持つて、前の
彼はバケツに水が溜るのを待つてざぶざぶ顔を洗つた。
佐藤が続いて来た時、彼は、
「飯場で飲むと
と小声で言つた。
「うん」とうなづいて佐藤は、先刻打たれたところを水で冷してゐた。
石井が着物を着換へてゐる中に佐藤は通ひを持つて用度係りへ行つた。其処には田舎の荒物屋のやうに雑然といろいろな品物が並べてある中に、太田といふ係員の爺さんが眼鏡越しに帳面を調べてゐた。佐藤は、
「おい、太田さん酒を一升」と通ひを前に
「昼間つから山遊びか」と爺さんはビールの壜に分けて酒をつぎながら言つた。
「俺あ今日で下山だ。酒も石井の名にしといてお呉れ、もう少しこの山にゐりやあ用度へも
「馬鹿、用度が何を知つてるい」太田は恐ろしさうにむきになつて言つた。
「酒が高えからよ、アハ丶丶」と佐藤は笑つて壜を持つて出た。
二人が各自に罎と缶詰を持つて飯場を出ると、上の方から帰つて来た萩田に出会つた。
「
「なあに、俺あ丁度見張りにゐたものだから、黙つてる訳にも行かねえで飛び出したのよ、お前にや気の毒だつたがまあ我慢しといてくれ」と優しく笑つた。
「兄貴、俺あ今日はこれで休むから届けを甘く頼むぜ。これから山へ行つて飲まうつてんだ。兄貴も行かねえか」と石井が言つた。
「表向きがあるからさうも行かねえや、見張りの山口が馬鹿に怒つて即刻下山させろなんて言つてやがるのを、吉田に頼んで一寸納めてもらつて、どんな様子だかと思つて見に来たんだ。晩にでもゆつくり別れをやるから、まあ、二人でやつてゝ呉れ」と言つて、萩田は又見張りの方へ上つて行つた。
飯場と長屋の間を抜けると、裏山へ登る道が若草の中に黒くついてゐる。右へ峠を登つて隣りの沢へ通ふ道は、若葉の中に消えてゐた。両側から迫つた山の中腹に咲いた山桜が、わけて目立つて真白く見えた。二人は黙つて険しい山道を登つて行つた。何処かにかくれて咲いてゐる草花の強い香が、時折二人の鼻を打つた。小鳥が頭の上をかすめて通つた。
頂上へ登つた時は二人とも汗ばんでゐた。赤味がかつた芽の
「あゝあ、
「俺あ何だか清々したやうな、
引つくら返つたまゝ佐藤が言つた。
「けちな事を言はねえで起きて飲めよ。お前は
石井は腰を下ろして懐ろから茶碗を出した。
西に廻つた春の陽は、西北に連る青葉に包まれた峰々を柔らかに照らしてゐた。遠い北国の高い山の頂きには、厚く残つた雪が金色に光つてゐた。所々低い山の間から紫色の煙りが立ち上るのは、其処にも人の住む村のあることを思はせた。
東の方はずつと展けて、麓の村や、石塚大山などいふ、酒と女のある小駅が霞んだ大気の底に沈んでゐる。遠く水戸の町らしく見える先きには、海が微かに光つてゐた。
佐藤もやつと起きた。二人は
「さ、一つ飲めよ」と茶碗を佐藤に渡してから、
「かうして山へ来て酒を飲んでると、不思議にいゝ心持になつて来るなあ。俺あ
佐藤はこんな優しい石井を見たのは初めてゞあつた。何処の山へ行つても喧嘩ばかりして直きに人を傷つける――此処にゐても、平素飯場にゐる時は、無暗に人を怒鳴りつけてゐても誰も恐ろしがつて逆らはないその人と、同じ人間とは思へなかつた。
「伯父御、今日は馬鹿に気の弱えことを言ふな、お前だつてまだ三十前の身体して、どうしたつて言ふんだ」
「さうぢやねえ、俺なんか何処へ行つたつて働く山なんかありやしねえ、皆けちな了見の奴ばかりだからな、もう駄目よ、だけど俺もお前位の時分にや随分よく浪人して歩いたもんだ、
「全くよ、俺ももう春先きになると、とてもじつとしてゐられなくなつてくるんだ。村の娘手合にでもからかひながら歩いてると、本当にいゝ気持だから―― 」
「もうそろそろ野州花も咲き出すから、足尾坑夫も巣立ちをする時分だなあ、初めの
「伯父御は女癖が悪いからなあ」と言つて強ひて笑つた。
「まあ、そんな事あどうでもいゝや、一つ唄でも唄つて山の神様でも驚かしてやらうぢやねえか」
石井は手を拍つて唄ひはじめた。
「俺あ一つ盆踊りをやる、伯父御、音頭取つてくれ」
佐藤はふらふらする足を踏みしめて立つた。
「よしつ、さあ唄ふぞ」と石井は、
「あゝ―― え――盆が来たかよ、こらしよツ」と大きな口を開いて目を細くして唄ひ出した。佐藤は両手を拍つたり振つたりして、若草に輪を描いて踊り廻つた。
春風は笑つて通つた。
騒ぎ疲れると二人は、草の中に子供のやうに転がつた。そして又冷たい酒を酌みかはした。酒に酔つて我れを忘れ、邪気のない戯れに胸の開いた二人はもう全く、優しい春の大気の中に溶け込んで了つてゐた。
夕暮になつた。陽は遠い西の山の影に落ちて、麓の村も野も森も深い
長屋の前には
「全く此の頃のやうに鉱石の買ひ方が
「あゝ、そんな心配かけちや済まねえ、俺あ山へ行つて石井の伯父御と飲んでたもんだから」と両手をつくと、ぐたりと坐つた。石井もそこに坐ると眼を据ゑて野田の顔を睨みつけた。酒に血走つたその眼には何か物狂はしいものが燃えてゐた。重く鋭いその光に出会ふと、野田は、はつといやな顔をした。
「おい野田の兄弟」と石井は
「なに、何だ石井の兄弟」と言つたが、野田の陰険な顔にはもう
「お前は随分よく喋舌つて人を
「だつて兄弟、話をしなけりや判らねえぢやねえか、此の頃の鉱量係が余り
「ぢやお前はこゝで何か愚痴をこぼしや、
「何も俺あ煽てたり見得で理屈なんか云やしねえ、只当り前の事を云つた丈けだ。兄弟も可笑しな事を云ふなあ」
「手前俺が知らねえと思つてそんな事を云ふんだろ、見張へ行つたつて飯場へ来たつて仲間の前だと労働者だの危険だのつて妙な漢語を使つて理屈を云やがつて、かげへ廻ると役人にペコペコお辞儀してゐるんぢやねえか、
「おい兄貴、二た股なんて余り馬鹿な事を云つてくれんな、いつ俺がそんな事をしたつて云ふんだ。お前は少し自分の癪にさはると云ひてえやうな事計り云つてるけれど、ダイを投げたり暴れたりしたんぢや何もかもお終ひぢやねえか、お前はぢきそんな無茶計り云ふからいけねえつて云ふんだ」
「なにが無茶だ、手前がお
「此んなに云はれたつて何うする事も出来ねえんだろ、口惜しくねえのか意気地なしツ」と石井は続けて罵つた。
「そんな、気狂の相手は俺あ御免だ」
「なにツ、気狂だ」と石井が飛びかゝらうとした時、佐藤が、
「伯父御よして呉れ、こゝで喧嘩されちや俺が皆に申訳がねえから止めてくれよ」と抱きついて止めた。
「此んな野郎がゐるから手前が小幡を
「今夜だけよしてくれ、え伯父御頼むからよ」
「兄貴、まあ佐藤が可哀想だから今夜はまあ我慢しろよ」と一同もやつと止めたので、
「畜生ツ覚えてやがれ」と野田を睨みつけて石井も坐つた。
「さ、おそくなるから早く
「俺はもう飲みたくねえから先に寝ら、佐藤、お前明日の朝早く
一同は急に陽気になつた。
二
翌朝、佐藤は空も未だ薄暗い中から起き出して旅支度を始めた。前の晩、酒が済んでから別れの礼を云つた時一同は、
「下山になつたつて構ふものか、二三日ゆつくり遊んでから発つたらいゝぢやないか」と言つたが、佐藤は、
「又
石井も早くから起きてゐた。佐藤の支度が終ると二人は、火の気のない炉のそばで冷たい朝飯を喰つた。
「別に餞別もやれねえから塩子まで送つて行かう。」と石井が云つた。
「いろんな心配をかけた上そんな事をして貰つちやすまねえから」佐藤は幾度も辞退した。
「もう起きちやつたものを、今から寝るわけにも行かねえだろ」と石井は仕事衣を着て
「ぢや伯父御、
「あゝいゝとも、あとでよく云つといてやる、さ行かう」と二人は飯場を出た。佐藤は着物や道具を入れた小さな行李を横に背負つて、片手に洋傘を持つてゐた。
未だ明け切らない暁の空には、夢のやうな薄月が残つてゐた。前の山も肌は真白な靄に包まれて梢の若葉だけ青く現はれてゐた。草鞋を履いた二人は足音も立てずに、黙つて見張所の方へ登つて行つた。なだらかな山腹に立ち並んだ、がらんとした選鉱小舎の中にも、朝靄はゆるく流れてゐた。上の方の平地に建てた見張所の杉皮で葺いた褐色の屋根の上には、隣村へ越える山の
「野郎口惜しかつたらうな」と云つて
「さうよ、あんな奴はうんと泣くやうな目に会はしてやる方がいゝんだ。だけどお前も何処へ行つたつて余り暴れると
「歩けなきや無理に押し歩く丈けよなあ伯父御、癪にさはる事を我慢して生きたつて仕様がねえや」
「まつたくだ、俺も自分よか若え者を見ると、俺見たいな不自由な目にあふといけねえと思つてつい意見じみた事は云ふけど、自分ぢやとても我慢が出来ねえんだ、どうせ仕合せだの楽な暮しだのつてもなあ俺たちと一緒に生れ合せてゐねえんだから、云ひてえ事でも云つて暴れてえだけ暴れてゞも暮さなきやあ埋め合せがつかねえのよ」
「さうだ、俺もうんと暴れて歩かれるだけ歩き廻つてやらうと思つてるんだ、伯父御もくすぶつてゐねえで歩き出せよ」
「何うせ歩き出さなきやならねえやうになるとは思つてるんだ。お前何処かへ落ちついたら手紙を寄越してくれ」
「あゝ落ちつきや直ぐ寄越すけどいつ落ちつくんだか判らねえや」
向き合つて並んだ真暗な坑口の前を抜けると、道は険しい山路になつた。じめじめ湿つた木立の下を佐藤は傘を力杖にして
嶺に登り切つた時、二人は胸を張つて二三度大きくいきを吸つた。麓の村の黒ずんだ茅屋根も黄ばんだ竹藪、青い麦畑が薄れ行く朝靄を透して足下に展けてゐた。村端れを流れる広い川の面には、煙のやうな濃い靄が立ち籠めてゐた。左の方に突き出てゐる高い峰の彼方に、大きな朝日が上り初めたのであらう。その山の裏側だけを黒く残して、空は俄に赤く輝き初めた。佐藤は二人が登つて来た麓の方を振り返つた。見張所や選鉱小舎の杉皮の屋根だけ見える傍に、硅石を敷きつめた黄色い道が長く続いて、坑内から出る水は細く光つて流れてゐた。佐藤は、
「もう此んな山あ用なしだ」と云つて身体を伸して背負つてた行李を
「さうよ帰つてくるやうな山ぢやねえや」と石井は吐きだすやうに言つた。
「こんだあ面白え山に
「面白え山なんてあるもんか、みんなそんな気で一生歩くんだけど、面白かつたなんて聞いた事がねえや、みんなつられたやうな夢を見て歩いてるんだ」
「さうとも限らねえぞ伯父御、大きな脈でも発見して見ねえ、一ぺんに旦那様だあはゝゝ」
「そんな気んなつて歩いてろよ、うふゝゝん」と二人とも笑つて了つた。
「ぢや俺あその気で行くとしよう、伯父御も大事に暮してくれ」佐藤は改まつて丁寧に頭を下げた。
「お前も大事に行きな」
「済まねえけど皆によろしく」と云ひ残して佐藤は朝露の
その日
「石井さんもう鈴が鳴りやんした」と云つた。
「
「兄弟、馬鹿に稼ぐなあ、俺あとても追附けねえぜ」と声をかけたので、石井はやつと仕事の手を止めた。仕事衣は汗に濡れてせまつた濃い眉根にも、蒼白い頬にも精一杯働き切つた疲れが現はれてゐた。
「飯場へ帰つたつてつまらねえもんだから、――あゝ、疲れちやつた」と言つて彼は道具を纏め始めた。
見張所の前には交代時にごたつく坑夫の列もゐなくなつてゐた。石井が判座帳をとりに行つた時、窓から顔を出した事務員が、
「おい馬鹿に稼ぐぢやないか」と笑ひ
「今日は少し忙がしかつたから、三吉にも分を付けてやつておくんなさい」と云つた。
「よし、後でつけといてやるから判座帳は置いて行け」と出しかけた紙を引き込ました。
「さうけえ」と三吉は
石井は、毎日同じやうに愚痴や泣言ばかり繰り返してる仲間達が、ごちやごちや集まつてゐる、埃つぽい騒々しい飯場へ帰るのが何よりもいやだつた。けれども、飯場より他に帰るべき家のない彼は、物憂げな顔をしてぐづぐづ歩き出した。彼は選鉱場を覗いて、女達にからかつて見た。
飯場の前の野天に建てた風呂場では先きに上つた坑夫等が、もう筋張つた身体を押し合つて、わいわい騒いでゐた。薄暗い部屋の中にも五六人して何か無駄話をしてゐたが、今朝発つた佐藤の事などは忘れたやうに、誰も口にする者はなかつた。石井は別れて行つた人の事を思つてゐるのは自分一人でゞもあるかと思ふと佗しくなつた。酒でも飲み合ふ時ばかり、親しく友達らしい事を云ふ、卑しい心の仲間が憎らしくなつた。彼は並んで喋舌つてゐる人達の顔をじろつと見廻した。その氷のやうな目に出会ふと誰も顔を
彼は遂に此の気色の悪い人々の間にゐる不快に堪へなくなつて飯場を出た。裏へ廻つて隣の沢へ通ふ道を登つて行つた。左に茂つてゐる深い木立を抜けると、そこには谷に臨んだ旧坑がある。それは佐竹時代とも烈公当時に掘つたとも云はれてゐる
彼は薄暗い木立を抜けてその旧坑の前まで来ると、ふと中を覗いて見た。けれどもそこには黒い冷たい闇より外には何もなかつた。洞の前は昔し切り出した岩片で平らにならされて、谷も半ば埋められてゐた。その石塊の積つた懸崖にも古びた灌木が生ひ茂つて、深い谷底を隠してゐた。四辺はたゞ静かであつた。名も知れない小鳥が思ひ出したやうにけたゝましく飛んだあとは、直ぐに圧しつけるやうな寂寥にかへつた。
西をむいた、なだらかな山腹を午後の日が照らしてゐた。彼はその柔らかな
彼の親も坑夫であつた。彼が何処かの山で生み落されてからも、生活に追はれて安住の地を得られない両親が、山から山へ
そのとき彼は初めて、自分が今まで見て来た寂しく荒れた山や村の生活の外に、そんな美しい華やかな世界のある事を知つたのであつた。彼の幼い心にも、底も見えない程暗く深い井戸のやうな坑内から、朽ちかゝつた
彼が十五の年であつた。彼の親は長い間吸ひ込んだ鉱毒や煙毒の為に坑夫
「坑夫なんかしてゐると長生が出来ねえから、手前は早く足を洗へよ」と云ひ残して、果てしない旅に出たが、半年程してから北国の山で死んだと云ふ知らせが来た。母親は新らしい亭主を持つて何処へ行つたかわからなくなつて了つた。
負け嫌ひだつた彼は、此の悲しい運命の訪づれにもめげる事なく、伸々と育つて行つた。細い少年の腕一つに己が身を支へて、山から山へ流浪もした。幼い時からその道に仕込まれた彼は、十七八の頃には、もう人に勝れた腕前の坑夫になつて、何処の山でも威張つて通れるやうになつた。若い血のそゝるがまゝに放浪もした。夢のやうな望を胸に描いて、何のこだはりもなく山を歩いて、気に向けば止まつて働き、飽けば又当てもない旅に出る。身軽な自由の生活は若い彼には楽しかつた。けれども時として何か物思ひに耽つた時などに、枯木の様に色も香もなく朽ち果てゝ行つた、父親のみじめな最期が胸に浮ぶと、自分の手で自分の命を削る様な職に従ふ果敢なさをつくづくと思ふのであつた。――そんな時に彼は、美しい都に生活する人々の幸福を思つた。――
秋から冬へかけて、冷酷な自然の力に放浪の自由を奪はれる労働者は、眠に入る蛇のやうに物憂い退屈な時を過さなければならなかつた。野山の木の葉が色づき初めて、山路においた霜柱が、やがて来る冬の烈しい寒さを思はせるやうな時であつた。彼は思ひ切つて、都へ生活を求めに出た。
都の街は彼が長い間、夢に描いてゐた程美しいものではなかつたが、初めて見る彼の目を驚かすには十分の力をもつてゐた。車馬の入り乱れる
弱々しい冬の日が、停車場の色のあせたペンキ塗りの上にしみつくやうに慄へてゐる、氷のやうな風の吹く朝、汽車賃のなくなつた彼は、煙を吐いて行く汽車を空しく眺めて、霜柱のたつた田舎道を力なく歩いて、いやな山へ帰つて行つた。
彼は著しく沈鬱に怒りつぽい人間になつて行つた。些細の賃金のいきさつにもよく事務員と争ふやうになつた。時には仲間の事まで買つて出た。そんな時の彼は自分の主張の
「坑夫だつて人間だ、石蓋を
或る年の事だつた。雪の深い北国の山に、見込みのある金の旧坑が発見された。山が売れるか成り立つかすれば、思ひ切つて礼をするからと云つた鉱主の言葉を
何百年か昔に掘つた人の精の残つてゐるやうな陰惨な旧坑を見廻るのが山番の彼の役だつた。深い旧坑の奥の
坑道の中に岩の落ちさうな場所があると、留木を当てゝ繕つた。寂しく冷たい仕事に手間取つて小舎に帰ると、
雪解の水に谷川の流れが増して、枯草の下に萌え出てる若芽の見られるやうになつた頃には、髯の生えた洋服姿の男や商人風の人達が、立ち替り鉱主と一緒に山を見に来た。彼は物慣れた様子でカンテラをさげて坑内を案内した。鉱量の豊富な
凄まじい冬の自然の圧迫に堪へ、昔の
その夜彼は
巧みにかはされた口惜さに彼は、
「やい狸野郎を出さねえか」と宿屋の中を暴れ廻つたが、その時既に来てゐた警官に押へられて了つた。彼が留置場から放免された頃には、鉱主はもうその町にはゐなかつた。彼の得た餓と寒さの報酬は直ぐに達磨茶屋の酒と女に消えて了つた。彼の胸に燃え初めてゐた反抗の火は、漸く強い焔になつた。
野州の山に大暴動の起つた時も、生れつきしなしなと機敏な身体を持つた彼は、暴動の主唱者よりも勇敢に闘つた。手から離れると直ぐ爆発する導火線の短いダイナマイトを投げつけ、家を焼き人を傷つけて、血と火の
けれ共彼が日蔭者の浪人になつて、山から山へこつそり隠れて使役を求めて渡り歩くやうになつた時、所々の山に散在してる彼の兄弟分や仲間達は彼を
彼は、自分が暴動の時に身を挺して働いたのは、その遣る瀬ない反抗心を満足させる為であつた事は能く知つてゐた。然し又それによつて仲間に多くの利益を与へられたとも信じてゐた。現に野州鉱の暴動が導火になつて、二三の山に同じ事が起つて以来何処の鉱山も暴動を恐れて、坑夫に対する態度の著しく変つたのは明らかな事実であるのに、今自分を恐れ
味方と思つてゐた人々に裏切られた孤独の寂しさは、彼の心を
警戒の手がゆるんで、彼も漸く職にありつけるやうになつてから、彼は住み込んだ山では必ず仲間の妻を犯した。その優しい顔と兇猛な性格と敏捷な身体はいつも巧みに利用された。僅かな事にも争へば直ぐに刃物で人を傷つけた。一二年の
重苦しい雲のやうな沈鬱の気が、時々彼をくるしめた。そんな時には
そこには憎らしい人の姿も声音もなく、温かい日の光が無言の歌をうたひながら、凡ての物を同じやうに育てゝゐる。空も地も草も木もその大きな調べの中にかすかな吐息をついてゐる。彼の心も優しい母に抱かれたやうに、静まり落ちついて行くのであつた。懐かしみや憐れみの優しい姿さへ、ふとその心に現はれたが、燃えたぎつてる激情に追ひ払はれて、すぐに影を消して了つた。
山蔭に日が沈んで、あたりが紫色に暮れかゝると急に肌寒くなつたので、彼は静に起き上つた。旧坑はもう入口から真暗になつて、闇の好きな
落ちついて歩んで行く彼の姿には、いつもの苛々しさも見えなかつた。
その夜であつた。彼は早くから隅の方で蒲団を被つてゐたが、中々眠りつけないので一人でじりじり
垢光りのした蒲団に柏餅にくるまつて寝てゐた彼の頭には、云ひ知れぬ寂しさがむくむくと拡がつた。いつもの様な苛ら立たしさが彼の心を襲つてきて、じつと寝てゐる事が出来なくなつた。彼は蒲団をはねて起きて見た。暗い
火の気の絶えた囲炉裡は大きな口をだらしなくぽかんと開けてゐた。
彼は此んな寂しい山奥で、甘い酒や美しい女に親しむ事もなく、危険の多い仕事に佗しい月日を送つて、中年になれば坑夫病にかゝつて、枯れ木のやうに朽ちて行く人達が、果敢ない身を不思議に思ひ思ふ事もなく、安閑と寝入つてる姿を見ると、片つ端から叩き起してやりたくなつた。然しそれは結局何にもならない事と思ふと、彼は又寂しさに堪へなくなつた。
じりじりと寄せてくる焦燥の念に彼はぢつとしてゐる事が出来なくなつた。立ち上つて寝衣の裾をまくつて、静に皆の枕元を通つた。疲れに深く寝入てる人々はそれに気のつくものもなかつた。外に出ると高山の春の夜は死のやうに暗く冷たく静まり返つてゐた。暗碧の空に
彼は誰か女のところへ行きたいと思つた。三の番に入つてる坑夫の名を思ひ浮べて見た時、その中に前高のゐる事を考へた。前高の妻のお芳は美しい女だつた。彼の身体には冒険者のやうな勇ましい血潮が湧き上つた。石ころの多い道を、静に音の立たないやうに探りながら歩いて前高の家の戸の隙から中を覗いた時、お芳は亭主が仕事に出たあとをまだごとごと片づけてゐた。彼は何となく這入りにくいので
彼は建附けの悪い戸をそつと開けて中に這入った。不意に目前に現はれた人影に驚いたお芳は慌てゝ声を揚げようとしたが、彼はすぐに
「今晩は」、と低い沈んだ声で言つてから、
「おつかねえかいお芳さん」と言ひながら突然その腕を女の首に捲いた。身をすくめた女の、柔かい慄へが彼の身体に伝はつた。彼の目は蛇のやうに光つて蒼白い頬には血の色が浮んだ。
「もう仕方がねえさ、なあ」と女の顔を覗き込んだ時、蒼白くなつた女の頬には冷たい涙が流れてゐた。その
三
夜中に帰る時彼は、
「さよなら、又来るよ」女の耳に囁いて接吻をした。飯場へ帰つて再びそつと冷たい蒲団に入つてからも彼はつひに眠れなかつた。薄白い眠に悩む中に夜が明けると、彼はすぐに仕事衣を着て飯場を出た。朝靄は村へ通ふ道の上を、山裾をめぐつて静かに流れて、
お芳ももう起きて家の前に出した石油缶で作つた
石井は側に寄つて、
「お早う」
と
見張所の土間の大きな囲炉裡には、積み上げた炭が赤くおこつて焔を立てゝるまはりを、三の番の坑夫が五六人して取り囲んで、濡れた仕事衣を乾かしてゐた。熱にふれた所だけ腹掛や股引から白い湯気が立つてゐる。空も地も闇の真夜中に、何百尺と深く掘り下げた坑底で、岩の目から雨のやうに
「兄弟、馬鹿に早いなあ」と云つた。
「一人者は早起きよ」石井はいつものやうに眉をひそめながら言つた。疲れ切つた人達は代る代る身体の向きをかへては温めてゐた。誰ももう口をきくのも
「石井は塩子から来る女でも張る気で早く来たんだらう」と笑ひながら言つた。
「お前さんこそ昨夜帰らねえから村で多勢待つてますぜ」と石井はなかなか負けてゐなかつた。三の番の者達は吉田の顔を見ると
「旦那上りにやすこし早いけど、濡れて寒くつて仕方がないから帰しておくんなさい」とせがむやうに言つた。
「毎日早く上つちや駄目だぞ」と言ひながら、吉田が
石井は前高の人の好い顔を見た時は、気の毒の思ひにも打たれた。がまた、
仕事場について鏨を持つて岩に
争闘や反抗の荒々しい日を送つて来た、彼の過去に恋はなかつた。彼の目に映る凡ての女は、折々身を焼くやうに起つてくる本能を満足させる道具であつた。只その
仕事から帰りしなにも彼は砕鉱場の入口に立つて中を覗いた。広い小舎の羽目に添つた四周には、土間に
「石井さあ、また見込みをつけに来たゞかね」鉱石を
「お前達がなまけるから、俺が監督に来てやつたのよ」と石井は背中の道具をゆすりながら云つた。
「石井さあに見込まれると、はあ助からねえぞ、若え者は皆な顔隠してろよ」と婆さんが云つたので、お芳は自分の事でも云はれたやうに身をすくめた。
「くそ婆あ、余計な事をいふな」石井は真顔になつて怒鳴つたが、そのとき鳥打帽子を頭の後に冠つて見廻りに来た事務員の安藤が、彼の後にそつと立つと肩を叩きながら、
「おい石井、こゝで女にからかつてちやいけないから、早く帰つて村へでも遊びに行けよ」と云つた。
石井は振返ると一寸間の悪さうな顔をしたが、
「だつてお前さん。遊びに行ける程稼がせねえんぢやありませんか」と云ひながらまたお芳の方を見た。監督の姿が見えると女達は又熱心に石を砕き始めたので、どしつどしつといふ響が強くなつて、お芳も下を向いて了つてゐた。
彼は心に微かな喜びを感じて飯場ヘ帰つて行つた。
山蔭に日がかくれると家の中は早くから薄暗くなるので坑夫等は往還に出て子供のやうな戯れに耽つてゐた。陽はまだ沈み切らないので空は明るく大気は暖かだつた。石井も長屋の前をぶらぶら往来してゐたが、ふと前高の家の前に立ち止まつて中を覗いてみた。夜を日にかへた
「これから晩飯か」と云ひながら石井は中へ這入つた。
「晩飯だか、朝飯だかよ」と前高はがつかりした声で言つた。向ふをむいて野菜を切つてゐたお芳は振りむきもしなかつた。石井が上り口に突つ立つてゐるので前高は、
「さあ上つて茶でも飲んでけよ」と火鉢の側ヘ薄い座蒲団を押しやつた。
家の中はもう暗くなつてゐた。石井は昨夜の事を思うてふと見やつたが、何にも知らない前高は下を向いて、鉄瓶の湯を急須に注いでゐたので、気軽くなつた彼は、
「どうだいこんだの仕事あ随分
「滴るつて兄弟、
「三の番は全くやだなあ」と思ひ出したやうに云つた。支度が出来るとお芳も上つて来て、
「石井さんは一の番でいゝねえ」と云ひながら膳ごしらへをしてゐた。
「おれたちや昼間だつて夜だつて同じ事よなあ兄弟」と石井は薄笑ひをして前高の顔を見た。
「人なんか何うだか知らねえけど、俺あ死ぬ程いやだ」と云つた勢のない声は、薄暗い部屋の中に消えて了ひさうだつた。お芳は
「さ俺もいつて飯を喰はう」と云つて石井は立ち上つた。
「一杯つきあつて行かねえか」と前高が止めたが、
「俺は飯場で
その夜も更けてから、彼は又お芳のところへ行つた。お芳はもう昨夜のやうに泣きもしなかつた。両隣の家とは羽目一重で
「俺あ真剣にお前が可愛いんだ。此んな事をしたつて怒つてくれんな」と云つた。お芳は黙つて石井の為すがまゝになつてゐた。
石井はお芳の事計り思ひ続けるやうになつた。初めて知つた恋は彼には苦しいものだつた。眠る間さへない隠れた歓楽に耽る夜が続いて、彼の顔には激しい疲れと衰への色が現はれた。然しその目や眉に踊つてゐたとげとげしい影は消えて何処かに優しさが浮んでゐた。――
坑夫の仕事時間が交替になる日の前夜だつた。いつものやうに
「なあお芳さん、
それは女には思ひがけない事だつた。お芳は聞いてる
「まあ――そんな怖い事が」とひつつるやうな声でやつと言つた。
「なあに、何にも
その時お芳は嵐のやうな恐怖に襲はれてゐた。寝てゐる事も出来なくなつたのでそつと起きて坐ると、蒲団の中に突伏しておろおろ泣いた。お芳の為に石井は懐かしい恋人ではないのであつた。物凄い力にひた圧しに圧しつけられて胸苦しい幾夜さかを過しはしたものゝ、憎くゝもない前高を捨てゝ逃げるやうな気にはなれなかつた。けれども、いやと云つたら一と
「なんとか云はねえか。えゝ黙つてなーいやだからか」と石井は又低い沈んだ声でさゝやいた。
「え、おい」と肩口を突かれたのでお芳は涙に濡れた、おどおどした目をあげたが、火のやうに燃えてゐる石井の目に出会ふと、直ぐに顔を伏せて了つた。
「かうしてゐたつて又会へるぢやないの、私にやそんな恐い事は出来ないもの」しばらくたつてから、震へ声でお芳はやつと言つた。女の卑怯たらしい言葉を聞くと、石井の怒は破裂しさうになつた。手足はびりびり慄へて、眉毛も
「お前も随分
「あゝあ、手前みたいな根性骨の腐つた女と心中したつて初まらねえや、かうやつてやらあ畜生ツ」起ち上りながらお芳の背中を力任せに蹴飛した。鞠のやうに転つたお芳はそのまゝ苦しさうに泣き続けてゐた。
「畜生ツ――此の位のこつちや――む――」突立つて唸りながら睨んでゐたが「覚えてろ」と云ひ捨てると土間に降りて外に出た。彼の頭の中は旋風の吹き廻るやうに掻き乱れてゐた。闇の中を吊り上つた眼を据ゑて睨みながら我むしやらに歩いて行つた。
真暗な
怒りの頂点に達した瞬間には、塵一つ惜しい物もないと思つた彼の心にも、やがて燃えさかる焔を消す水のやうに、云ひ知れぬ寂しさがさ惨んで行つた――彼は今日の夕方までもお芳が一緒に逃げると云つて呉れたなら、今夜の中にも支度して此の山を脱走しようと思つてゐた。お芳を伴れて歩く放浪の楽しさを胸に描いた丈けでも、その心は喜びに跳つてゐたのに ――美しい幻も残ることなく消えて了つた今は、たゞ遣る瀬ない寂寥と悲哀ばかりがその心を痛ました。出来る丈け多勢の人と争つて、身体が
夜明け近くまで狂人のやうになつてうろつき廻ってから、彼はやつと飯場に帰つたが、遂に一睡もしなかつた。朝起きた時彼の顔は凄い程青くなつてゐた。凹んだ眼は真赤に充血して、眉の上には抉つたやうに深い皺がよつてゐた。彼はその日からお芳に出会ふと、憎悪に充ちた目で射抜かうとするやうに烈しく睨みつけた。お芳は彼の鋭い眼を恐れた。遠くからでも彼の姿が見えると物影に身をかくすやうになつた。
四
みすぼらしい山桜の花が散つて、山の春はあわたゞしく過ぎて行つた。その晩春の名残を彩る
飯場にゐる若い者たちも、春の誘惑にたへないやうに暇を取つては当てもない旅に出て行つた。借金の多くある為に暇を取る事の出来ない者は、夜更けてから他人の着物を盗んで着て、そつと脱走する者もあつた。飯場にゐる者の頭数は殖えていつたが、その顔ぶれは余程変つた。夜になると彼等は暗い
お芳を失つてから彼の心の
日を浴びた大地が温みをもつて暖かい吐息をつくやうになると、森蔭や谷間にひそんでゐた、大きな青大将や精悍な
「兄弟俺に目を呉れよ」
「すまねえけど
などゝ云つては、まだ動いてる膽や、くり抜かれた可笑しく二つ並んで光つてる眼を呑んでゐた。皮は傷薬になると云つて誰かゞ大切に拾つていつた。彼は傍の岩に腰を下すと、まだ動いてゐるやうな肉を生のまゝむしやむしや噛り出した。或時東京から来た事務員が驚いて、
「石井、そんなものが
「こりやお前さん
「石井の兄弟は余り蝮ばかり喰ふもんだから、気が立つていけねえんだ」と坑夫等は噂してゐた。
晩春の沈鬱な日が続いた。空には鼠色の厚い雲が重く
彼の周囲にも屈託顔をした坑夫が七八人、ごろごろ寝てゐた。
「あゝあ、稼がにやならねえし、借金にやなるし全くいやになつちまふな、 ――脱走でもしなきややり切れねえや」を誰か生ぬるい声でつぶやくやうに言つた。
「まつたくよ、此の頃の銭にならねえつたらほんとにひどいな、そのくせ鉱石は随分出るんだけど」向き合つて寝てゐた男が、勢のない声で合槌を打つた。
「なあに、鉱主一人でうまくやつてるのよ、手前が儲けせえすりやいゝもんだから、岩が堅くなるのに間代を下げやがるし、鉱石は矢釜しい事ばかり云やがるしよ、癪にさはる事ばかりだ」
「ストライキでもやらねえかなあ」と誰か云つたので、皆が笑つた。石井はその時まで黙つてゐたが、
「おい皆なもう下らねえ愚痴は止せよ、俺あ聞いてる丈けでも頭が痛くなら、お前達や意気地なし野郎ばかりだから、ストライキでもやらねえかなあ、なんて人ばかり当てにしてやがら、――株つたかりがよく揃つてら」と大きな声で我鳴つた。
「だつて兄弟、お前にやつてくれつて頼みやしねえよ」と沈んだ声の男が言つた。
「俺に言はなくたつてよ、そんな事を言つてるまに三番
「何もお前、愚痴を云つたつて俺達の勝手ぢやねえか」
「いけねえツ、俺あ愚痴を聞くなあ大嫌ひだから止せつてんだ、それでも言ひたきや俺と喧嘩しろツ」と彼は突然起き上つた。しかし誰も相手になる者はなかつた。いやな顔をして苦笑しながら、
「まあいゝや、お前一人で威張つてろよ」と誰か云つたがそれきり皆黙つて了つた。やがて一人減り二人減りして皆何処へか出て行つて了つた。石井は、
「畜生ッ、面あみろ」と怒鳴つて又仰向けに転がつた。泣き出しさうな空が暮れて、灯の点く頃までも彼は身動きもせずに寝転んでゐた。出て行つた人達が帰つて来てからも、誰もいやな顔をして黙つてゐるので、そこにも重苦しい沈黙が漂つてゐた。
快く晴れた日であつた。仕事から上ると彼は直ぐ湯に這入つた。温い液体が毛孔にしみ込んで行くと、疲れた凝つた筋は伸びて、冷えて鬱結した血はゆるやかにめぐり始めた。湯から出ると彼は衣服を片手に下げて裸のまゝ、晩春の午後の陽を浴びて澄みちぎつた空を見上げた時、その心に微かな喜びが湧いて来た。――珍らしくも人懐かしい思ひ――彼は、誰かと笑ひ興じて話をしたくなつたが、萩田のゐない間は飯場にも長屋にも誰一人話相手はゐなかつた。
飯場に這入ると彼は棚の上から行李を下して、新しい銅山筒袖や腹掛や半袴衣を出して身に着けた。乾いた跣足足袋をはいて外に出ると彼は身も心も軽々と浮くやうに思つた。――下の村には甘い酒も白粉をつけた女もある――彼はそこに行かうと思つてゐた。
しばらくしてから彼は青葉に囲まれた山道を快さゝうに歩いてゐた。茅小舎から二三町下の岩の間から、此の山の銀明水と呼んでゐる綺麗な水が湧き出てゐる。潔癖な坑夫の女房達は四五町の道を通つてそこまで水を汲みに来るので、彼は道々、手桶に湛へた水の面に大きな草の葉を浮かばせて、重さうに提げて行く女に出会つた。
「重さうだな、さげてやらうか」と笑ひかけた。
「石井さんに頼むと後がおつかねえからね」と女達は笑つて行き過ぎた。
「ばかあ言ふねえ――あはゝゝ」と面白さうに彼も笑つてゐた。
凸凹した岩の間に灌木の生ひ茂つた崖道を過ぎると、そこには広々と続いた雑木林があつた。そのあたりは、両側に連る山も低くなつて遥かに隔たつてゐる為に、青葉の深い林の中にも明るい光が漲つてゐた。林のずつと奥からは山から来る小川のせゝらぐ音も聞えたが、年毎の洪水に拡げられた河原には若草が一杯に勢よく茂つてゐた。
彼は道端の細い竹を折つて無暗に振り廻して歩いた。蔓草の大きな葉が目につくと、力をこめて打つて見た。竹がひゆ—ツと鳴ると、葉は鋭い刃物で切られたやうにひらひらと落ちた。彼は又大きな声で唄ひ初めた。――林の奥に響く反響は彼と歩調を共にしてゐた――林の端れまでくると、蒼空の下に村へ越える峠の道が、青草の中に黒い線を引いてゐた。
その峠の頂きに登ると下の村はもう手に取るやうに見えた。左に小高い丘の上に建てられた事務所の白壁が、夕近い陽を浴びて光つてゐる。働きに来てゐる女達の冠つた白手拭もちらちら見えた。遠く福島境の連山も霞んだ大気の中に長く続いて、いぶしをかけた銀のやうに光る那珂川の流れは、遠くの森や野の間にそのゆるい姿を隠見させてゐた。
峠の下には此の界隈でたつた一軒の茶屋があつた。足袋はだしの彼はわざと入口から這入らずにそのわきの崖を下りて川に臨んだ座敷の方へ廻つて行つた。火鉢のはたに
「おやいらつしやい」と笑つて愛想よく迎へた。
石井が座敷に上ると遊んでゐた女達は三人とも出て来て彼の相手をした。肥つた丸顔の団子鼻の女の名はお金であつた。痩せた二人はお千代にお花と名前丈けは美しかつたが、どれも青ざれた生気のない顔をしてゐた。石井は平素と
「山から随分遊びに来るかい」と石井がきくと、
「えゝ毎晩大てい二三人――ね」とお金を見ながら云つた。
「ぢや随分兄弟分が多いわけだな」
「ふゝん」と笑つてからお千代が「だけどあなたはちつとも来ないわね、あの取立てのときちよいと来たんでしよ――あなた何んて云ふの――お名前は」と甘えるやうに云つた。
「来たくつたつて肝腎なものがなくちや来られねえぢやないか、俺あ石井つてのよ」
「あら、あなたが石井さん!」とお花が頓狂な声を出したので、皆な顔を見合せて笑つた。
「何が可笑しいんだ」と石井は妙な顔をした。
「だつて山から来る人だつて村の人だつてみんな石井さんて人は恐い人だつて云つてるわ」とお千代が云つた。
「なにおつかねえ人なもんか、こんな優しいぢやねえか」と石井はくすくす笑つた。
「ほんとねえ見たとこだけは」とお金は云ひかけてから「これからちよいちよい来て頂戴」と妙な目つきをした。
「それやお前可愛がつて呉れさへすりや」
「えゝえ、皆して命の続かない程可愛がつて上げてよ」とお花がまた大きな声で云つたので、みんなが笑つた。
日は静かに音もなく暮れていつた。
表の入口から客らしい声が聞えて、二階へ上る足音がしたので、目元の赤くなつたお千代とお花が起つて行つた。
「どら、邪魔になるといけねえから、俺けえるとしよう」と石井は支度を始めた。
「今夜泊つてつたつていゝんでしよ、ね」とお金は馴れ馴れしく止めた。が酔つた女のしどけない姿を見ると彼は何だかいやになつた。
「初めつから余り可愛がられると病みついていけねえから、まあ、勘定書を頼ま」
「うそ、お前さんきつとお千代さんがよかつたんだろ」と云ひながらお金は立つて行つた。書き付けを持つて来た時は石井はもう足袋を穿いて外に立つてゐた。
「ほんとにまた近い
「お前が一番可愛いんだよ」
「ほんとにうまい事を云ふよ此の人は」と背中を叩いて「ほんとにね、さよなら」
「あはゝゝ」と笑ひながら石井は崖を登つて往還に出た。
夏近い夜の大気はしんめりと暖かだつた。彼は、直ぐ山に帰るのも惜しいやうな気がしたので、村道をぶらぶら歩き初めた。少し行くと右側の崖は急に深くなつた。闇の漂ふ底の方には水の面に月の光が砕けてゐた。左は一段小高い畑が
村道の片側には駄菓子や酒を売る店もあつた。障子に明るく火影の射した店は次郎と云ふ百姓が、野良仕事の片手間に床屋を営む店であつた。次郎はまだその外におすがと云ふ六十近い婆さんの男妾までしてゐたが、四十近い頓間な顔に狐のやうな狡猾さを持つてる男であつた。
石井は平素から次郎を憎しみ卑しんでゐた。彼は男妾と云へば、強盗より醜いものと思つてゐた。いまその家の前まで来た時、彼はふと、障子にはめた硝子をすかして中を覗いて見た。広い土間には大きな明るい洋燈が吊してあつて、椅子は隅の藁束を積み上げた側に寄せであつた。婆さんが留守と見えて次郎は一人して膳に向つて、大きな茶碗を持つて晩飯を喰つてゐた。石井は、澁紙色をした間抜な顔で、締りのない口がばくばく動いてゐるのを、腰を屈めて何かを狙ふやうな形をしてヂジと眺めてゐたが、酒にそゝられた荒い血が激しく彼を衝き動かした。妙な意地悪い笑ひをその顔に浮べると、突然手を障子にかけて力一杯引き明けた。戸は凄まじい音を立てゝ走つた。明りは暗い道にさつと流れ出た。彼は土間に這入ると同時に、
「やい、次郎ツ」と鋭い声で怒鳴つた。熱心に飯を掻き込んでゐた次郎は身体をびくつとさせると、茶碗と箸を持つたまゝ機械のやうに突つ立つたが、入口の方をすかして見てから、やつと、
「なんだな、次郎に何か用ですけえ」と言つた。
「用だから呼んだんだ、俺の頭を刈れ」と石井は土間の中程へ進みながら、命令するやうに云つた。次郎の眼に石井の姿が
「
「生意気云ふな此の芋掘りの男妾め」と飛び付きさうな風を見せた。
「何いふだ此の命知らずが、俺の棒で片輪にでもされてえか」と茶碗と箸を叩きつけた。土間に当つた瀬戸物は滅茶滅茶に砕けて飛んだ。――寝呆けたやうな次郎の顔は蒼くなつて、額には
「人殺しだ――助けてくれよ――」と起きも得ないで次郎は太い悲鳴を揚げた。
石井は素早くはね起きて、
「人殺しだよ――」と怒鳴つて手足ばかりばたばたさせた。
「矢釜しい。此の男妾の畜生野郎、口惜しかつたら魂でも入れかへて仕返しに来い」と云つて、丁度子供が虫でも殺したやうに、唾をぱつと吐きかけてそのまゝ戸外に飛び出した。彼は山の方へ一散に走つた。月を浴びた影は地上に黒く
村と山の中頃まで来た時には、身の軽い彼も
「追つかけて来やがつたら、こいつに火をつけて投げりや百姓達は驚いて逃げ出すだらう」と思ふと安心してまた腰をおろした。
月は、果てしない空を静かに歩んでゐた。夜露にぬれた草の葉はしつとりと輝いてゐた。薄緑の明るい空に透して見える――峰一つ向ふには飯場のある――山の頂の毎日見つけた一本松は、くつきりと際立つて黒く見えた。大浪のやうに揺れてゐた心が静まつて行くと共に、彼は淡い寂しさと悲しみの中に沈んで行つた。
彼は日頃から嫌ひな次郎を切つた事を思ふと、胸に
「どうせ
胸の動悸が納まつて汗が冷えると、肌寒くなつたので、彼は起き上ると今度はゆつくり歩み出した。道端に生えた草も、薄明るい夜の空も、峰の松も、――今夜は
山に帰つて彼は真暗な納屋にそつと這入つた。そこには薪や漬物が乱雑に押込んであつた。血だらけの腹掛を脱ぐと、手さぐりで漬物樽の後にかくしてから、素裸になつて風呂場に行つた。幸に誰もゐなかつたが湯は垢と油汗でどろどろに臭くなつてゐた、彼が手足を洗つてゐる時下の方から人の来る気勢が段々近づいて来た。彼はきつと誰か村からあの騒ぎを知らせに来たのだと思つた。それは果して村にゐる掘子が二人、萩田のとこへ来たのであつた。掘子等は萩田を呼び出すと何かこそこそ立ち話をしてゐたが、直ぐにまた村の方へ駈けて帰つた。石井が湯から出ると萩田は、
「おい兄弟、ちよいと来てくれ」と自分の居間に呼び込んで膝近く坐らせて、
「お前また村で何かやつて来たな」と低い声で云つた。
「うん、俺あ次郎といざこざやつて
「何にもそんなに早く覚悟する事あねえさ、今掘子の話ぢや、何でも次郎の傷も深かなし、警察へも未だ届けてねえつて言ふから、俺これから行つて話をつけてくるけど―― 本当に兄弟、ちつと気をつけてくれよ――お前の事ぢや始終俺んところへ色んな事を云つてくる奴があるんだけど、お前の気は判つてゐるから鼻であしらつて追つ帰して、お前にや聞かせずにゐるんだからな」
「兄貴にや全く済まねえけど、こりやもう俺の病だな――まあ勘弁しといて呉れ、俺あ自分でも時々―― 苦しくつてやり切れなくなるんだ」
「まあ後でゆつくり話をするとしよう、兎に角俺が行つてくるまで、お前がこゝにゐて外の奴に聞えるとうるせえから、工藤の兄弟の家へ行つてゝくれ」と言つて、萩田は支度をして出て行つた。
雑木林の中には新緑の梢を洩れた月の光が、地上に淡くゆらいでゐた。細い立木の間には夜の靄がうつすらとめぐつてゐた。
「あゝあ、俺でさへ時々はいやになるんだからな」と彼はふと口走つた。実際彼も窮屈な
「下らない屁みたいな奴が百人ゐたつて何にもならないんだ、石井一人を助けておく方が余程いい」と思ふと、彼はまた足を早めて歩いた。
次郎の家の広い土間には、村の若い衆が多勢集まつて、寝てゐる怪我人とは別の事のやうに酒を飲んで、無暗に興奮した事をがやがや喋舌り合つてゐた。萩田のはひつて来た姿を見ると、皆ぴたつと黙つて目ばかり光らせた。枕元に坐つてゐたおすが婆さんは、萩田の顔を仇のやうに
「石井が暴れて飛んだ気の毒な目に遭はせたつてな、工合はどうだね」と萩田は上り口に股をかけながら底力のある声で言つた。
「
「どうも全く気の毒だつたよ、俺あ別に石井が
「俺とこぢやはあ、別に薬代をとらうたあ思はねえんだけど、それぢや折角でやんすから頂戴しときやす、こりやかへつてはあ」と押し戴く真似をした。萩田は土間の方へ向いて、
「村の衆にもとんだ騒ぎをさせて済みませんでした」と丁寧に挨拶をした。
「なあに
「さあ頭、なんにもねえけど一と口飲んでつておくんなんしよ」と婆さんは剥げかゝつた膳の上に徳利と肴をのせて出した。が、萩田は、
「おら、遅くなるといけねえから、又御馳走になりにくる」と辞退してから、
「ぢや折角大事に頼むよ」と云つて帰りかけた。婆さんや村人等は、
「どうもほんとに御苦労さまでやんした」と幾度も繰り返して言つた。
萩田が帰ると若い衆達は又酒を飲み初めて、怪我人の事などはまるで忘れたやうに夜更けまで騒いでゐた。
ほつと安心した萩田は、更けた夜の月を浴びながら気持よく山路を歩いて帰つた。
工藤の家にゐた石井をまた自分の居間に呼んで来て、村での事を話すと、彼は、
「兄貴にや心配ばかりかけてほんとに済まねえ、けど、金なんかやると奴等癖になら」とまだぶりぶり怒つてゐた。
「そんな事あどうでもいゝぢやねえか、それよかお前は自分の病に気をつけろよ、此の頃のお前は全くたゞぢやねえぜ」
「俺だつて兄貴、ちつとも怒りてえ事あないんだけど、ほんとに苦しくつて堪らなくなるんだ。誰の面を見ても癪にさはつてやり切れなくなるんだ、全く病気だなあ」と云つて石井は長く伸びた髪の毛をむしやむしや掴んだ。
「だから自分で
「芽が吹いたつてどうするもんか、俺にやちつとも面白かねえや、俺あ退屈でやり切れねえんだ――一体どうすりやいゝんだ――なあ兄貴――俺つまらなくつて手がつけられねえ」石井はその濃い眉を暗くさせた。
「何うせ人間は皆くたばつちまふんだから、大して面白い世の中ぢやないに違ひないけどよ――お前みたいに怒つて計りゐたつて仕方がねえぢやないか、それよか酒でも飲んだら面白く騒いで暮らせよ、え兄弟――」と同じやうな思ひに苦しんでゐる萩田はさうでも云ふより仕方がなかたつた。
「俺だつて今日は初めは気持がいゝもんだから村に行つて面白く遊んだのだけど、帰りに次郎の家の前まで行つたら――かう血が煮えくりかへるやうな気がしてよ――さうなると喧嘩でもしなきや、納まりがつかなくなるんだ、矢張り病気かなあ――あゝあゝ」と頭の後に両手を組んで嘆息した。
「
「俺が嬶あを持つたら、兄貴、
「それぢや世話も出来ねえなあ、はゝゝ」と萩田が笑ふと、
「嬶あでも貰つた夢でも見て寝てる方が安心だろ」と云つて石井も淋しく笑つたが、
「ぢや御免」と暗い部屋へ帰つて行つた。
翌朝、萩田は早くから起きて自分の居間の上り口に腰をかけて、表を見張つてゐた。前の塵だらけの道も
「一寸」と手まねきして飯場の後へ連れていつた。
「何だい、
「えゝ、石井の野郎がつまらない間違ひをやりやがつたもんで――」と萩田は頭を掻きながら云つた。
「僕も今朝聞いたんだよ、また山口がぐづぐづ云ふだらうと思つて道々考へながら来たんだけど――
「それに石井は平素から乱暴なので、見張で睨まれてゐるんですから、いゝ幸ひにやられやしないかと思つて心配してるんです。彼奴あ何しろ何処へ行つても嫌はれもんですから――あなたに頼んで何とか執成して貰ひたいと思つて実あ――」
「あゝいゝとも僕が出来る丈けの事はするよ、薬代をやつたつて、君が立て替へたのか」
「あんなもなあ、災難にあつたと思やいゝんですけど、何にしろ石井は私を頼つて来たんですし、知つての通りの男ですから、何卒一つ」と萩田はまた頭を下げた。
「やるだけやつて見るさ」と言つて吉田は萩田と別れて見張の方へ登つて行つた。
午頃になつて見張では、松板を打ちつけた
その夜、石井は萩田の居間へそつとはひつて、
「兄貴、ほんとに気を揉ませてすまなかつた」と手をついて礼を言つた。萩田は、
「俺よか吉田さんが馬鹿に心配してくれたんだ、序でがあつたら礼を云つといてくれ」と言つた。
「さうか、俺やまあこれからうんと稼いで早く借金を返さなきや」と独言のやうに云つた。
「けちな事を言ふな、それよかなるたけ下らねえ喧嘩なんかしないやうにしてくれよ」
「ふゝん」と頚をちゞめて「でも気がすまねえもんだから」と、どつちつかずの事を言つてゐた。
二三日過ぎて吉田が見張で宿直した晩であつた。晩くなつてから石井はそつと出て行つた。見張所の硝子は夜気にうるんで洋燈の
「どうしたんだ今頃」とけゞんな顔をして尋ねた。
「今晩は」と石井は改めて礼をしてから「こなひだは大変心配して貰つて済みませんでした」子供のやうにつかへ勝ちに云つた。
「なんだわざわざ礼に来たのか、僕あふだんから奴等があまり鉱主におべつかしたり、村の奴ばかり気にしてるのが癪にさはるから云つただけさ、――わざわざ来ることなんかありやしないのに」と云つてから「だけど石井、もうつまらない喧嘩なんか止せよ。立派なストライキでもやつた方がいゝぢやないか」とぢつと石井の顔を見つめた。
「吉田さんおらストライキぢやもうこりごりしたんですよ、今だつて何も命が惜しくていやなわけぢやないんだけど、あれをやる前だの最中にやさんざ人を
「ぢや当分、酒と喧嘩と
「その
「全くな、嬶でも取られるか、痛い目にでも会はされなきやはつきりしないやうな――僕が見てさへ歯がゆい奴が多いから、じれるのも無理はないけど―― 萩田は随分お前の事を思つてるから、余り心配させるな」と吉田はしみじみと云つた。
「俺もさうは思つてゐるんだけど、時々調子が狂ふんですね」と仕方なしに笑つてから「何うもお邪魔しました」と云つて静かに帰つて行つた。
「あゝあ」と吉田は両腕をぬつとあげて、大きな溜息をしてから外に出た。山の中腹に稲妻形につけた道を、鉱石箱を背負つて登り降りする掘子の持つたカンテラが、闇の中に狐火のやうにちらついてゐた。真黒な山に周囲をかこまれた空を仰ぐと、星ばかりいかめしく光つて――静まりかへつた夜の沈黙を、どこかの坑内でかけた
「まつたく癪にさはるな」と吉田はつぶやいたが見張の中へはひつてまた本を読んでゐた。
五
梅雨になつて、鼠色の空から雨は毎日根気よくじけじけ降つた。山の
暗い坑道から更に又井戸のやうに掘下げた
見張所の硝子戸がガタッと開いた音がした。待ちあぐんでゐた籤が出来たのかと、彼等の視線が、そこへ集まつたとこへ、吉田が首を出して、
「おい、みんなあ、洞敷は滴りがひどいから一円の本番で鉱石を買つてやるけど誰かはひらないかあ」と大きな声で怒鳴つた。坑夫等はがやがや云ひ始めた。
「之れから先き長く使ふ身体だ。をやしちまつちやつまらねえ」
「金より身体が大切よ」とぶつぶつ言ふばかりで誰も進んで出るものはなかつた。
「俺が這入りませう」石井は雨をよけるやうに首を伸して下を向いて、大股に窓の下まで飛ぶやうに走つた。
「たいそう慾張り始めたな」と吉田が笑ふと、
「薬代を返さなくちやならねえからね」と小声で言つてから「引立ては川上を押すかね、下ですかね」
「鉱石が多いから下の方を押してくれ」
「さう
「命知らずにや丁度よかんべえ」と小舎の中で誰かつぶやいた。みんな嘲笑ふやうな顔をして彼の後姿を見送つた。
坑内にはひつて二三間行くともう水はびちよびちよ滴つてゐた。進むにつれてそれは
坑口から半町程進むと、片側の岩壁へ桝のやうに大きく四角に切り込んだ所があつた。太い松丸太の柱が四本立つた中程から、冷たい光を放つ、鉄の捲き揚げハンドルが突き出てゐる――その下に、深い竪坑が真黒な大きな口を開けてゐた。――石井はカンテラをかざしてふと中を覗いて見てから、身を屈めて梯子につかまると、するすると降り初めた。
闇は一層濃くなつた。手に持つたカンテラの光が、濡れた梯子のこまを照らしてゐるばかりで、上も下もたゞ限りなく闇が続いてゐるやうだつた。途中で梯子の向きの変る所は、厚い松板が渡してあつた。彼はそこに立つてホッと息をつくと又下つて行つた。竪坑の底には岩を深く掘つた大きな
十歩と進まない中にづくづくに濡れて了つた腹掛や
彼は腹掛に手を入れて
その翌日から彼は、蔽ひをつけたカンテラをぶら下げて、素肌に腹掛け一つかけたゞけで、坑内にはひつて働いた。濡れ仏のやうに水に打たれても仕事に夢中になつてる間は、大した寒さを感じなかつたが一寸でも手を休めれば一時に冷えが身体に廻つて唇は紫色になつてがたがた慄へ出した。八時間の規定時間も午前中丈け働くのがやつとであつた。午後になると鍛冶屋場の
雨は毎日根気よく降り続いた。それは
丁度その時一輪車を押してゐた掘子が、打上げの下まで来ると変な音がして岩片が落ちて来るので、手前で止つて身をよけてゐる目の前の岩の上へ、ばしやつと大きな音をさせて宮沢の身体が落ちた。掘子は一輪車を握つてゐた両手をあげて
「大変だ――打上げから誰か落ちた――」と怒鳴りながら夢中で坑道を馳けて出た。その声を聞き付けた事務員や坑夫は慌てゝそこに集まつた。
宮沢の身体はもう滅茶々々に打ち壊れてゐた。坑道に落ちた時、身体の重み一杯叩きつけた為だらう、頭はぐしやぐしやに砕けて半分飛び出した眼は怨めしげに何か睨みつけてゐるやうだつた。
選鉱場で仕事をしてゐたお波は、悲しい報らせを聞くと夢中になつて駆けて来た。真暗な坑内でカンテラの裸火に照らされた、宮沢の怖ろしい死顔を見ると、水の流れてゐる坑道に泣き崩れて了つた。取り巻いてゐた人達もなだめる勇気もなくなつて、深い沈黙に耽つてゐた。その時後の方で、
「みんなこんな目に会つて
「お波さん、どうせ坑夫の
「あゝつまらねえこつた。――寒くつて堪らねえや、どら行つて温まらう」と言つて彼は一人でさつさと出て行つた。
「彼奴は全く狂人だな」と見送つてゐた山口が云つた。
「たゞぢやありませんとも」と後の方にゐた野田が出てきて、「さ、お波さん、泣いてたつてしやうがねえ、今俺達が担いでつてやるから、先へ行つて家でも片附けてゐな」と云つたので、お波はやつと起きて両手で顔を抑へて、暗い坑道をしよぼしよぼ出て行つた。
「さ、皆して担いで行かうや」と野田が言つた。皆気味悪さうに死骸に手をかけて、やつと持ち上げると唇の裂けて
「おい此の顔をどうかしろや、此奴を見てちや遣り切れねえや」と誰かゞ云つたので、野田が腰にはさんでゐた手拭を取つて顔にかけた。選鉱場の女達は泣きながら見送つてゐた。その日は終日山中が静かにしめり返つてゐた。
夕方になつてまたしよぼしよぼ降つてゐた。空は厚い雲に閉ぢられて、周囲を高い山でかこまれた長屋の中には、早くから夕暗が訪れた。平素は音もなく流れてゐた小河も、水量が増したので矢のやうに早く走る凄まじい音ばかり響いてゐた。
宮沢の死骸を横たへた狭い家の中には一杯人が集まつてゐた。喪心したお波は枕元へたゞぽかんと坐つてゐるばかりなので、飯場頭や、山中大当番だの長屋世話役が代つて世話をやいてゐた。遠い村の役場や駐在所に届けたり、医者を迎へる為に行く若い者は「どうせ今夜は泊りがけだ」と空を仰いでつぶやいた。
村の事務所からも髯の生えた所長が来て
「とりあへず香典と見舞金を」と包み金を出して帰ると間もなく、裏山の観音堂から、頭の禿げた坊主が来て経を
「あゝあ、
「だけど皆一度は死ぬのさ」と年老つた坑夫が云つた。諦めたやうなその声が皆に、寂しい物悲しい思ひを与へた。
けれども
飯場にゐる一人者の連中などは、自分の仲間が悲惨な死を遂げた事などは、てんで知らないやうな顔をしてゐた。夕方みんなが集まつて飯を食ふ時に誰かゞ、
「宮沢の兄弟も可哀さうになあ」と云つたら、
「死ぬ者貧乏よ、
「その時やそん時よ、そんな事を考へてた日にや、坑夫なんかできやしねえ」と太い声の男が云つた。
「生意気云つてやがら、意気地なしのくせに」石井は冷笑した。
「死人の事なんかいくら話したつてつまらねえや、さ、カブでもやらうや」と云ひ出した者があつたので、みんな洋燈の下に集まつて、夢中になつて花札をいぢり始めた。
翌日、午頃になつてやつと医者が来た。三里も離れた元木の町へ棺桶を買ひに出た若い者が二人して新しい桶を担いで帰つて来たのは
夜になつてから寂しい葬ひが宮沢の家を出た。真黒な闇の中に霧のやうな小雨が降つて、秋のやうな冷たい風が吹いてゐた。池井鉱山飯場だの山中大当番と書いた提灯を持つた者が、五六人先きに立つた後に、若い者に担がれた棺桶や見送の人が続いた。雨はそれらの人達のさした傘にも棺桶にも音もなく降りそゝいで、ひやりとする風が闇の中から吹いて来ては、附添ふ人々の
昼間から飯場で酒を飲んでゐた石井も、
「あゝあ、つまらねえな」と思はず大きな声で怒鳴つた。
「何がよ、兄弟」と側にゐた太つた男がきいた。
「だつてよ、考へて見ねえ、俺たちや何だつて此んな馬鹿げた苦しい目にばかり会はなきやならねえんだ、蒼くなつて働いてよ、間誤つきや岩に打つつぶされて、雨の降る晩に冷てえ土ん中に埋められちまふなんて……それが当りめえの事なのか、鉱主は毎日甘い酒を飲んで
「石井の兄貴なんか、そんな事を考へねえたつて、お波つ子んとこへでも行きやいゝぢやねえか」と若い坑夫がまぜつかへした。
「手前みたいな豚あ黙つて引込んでろツ」と突然傍によつて横面を力一杯擲りつけた。
「あツ」と顔を抑へたが「だつて兄貴が余り情ねえ事を云ふからよ」
「まだいやがんな、叩つ切るぞ」と眼を光らしたのでその男も黙つて了つた。石井の苛立たしさは容易に納まらなかつた。四辺に敷きちらけた汚れた蒲団や油染みた枕からたつ湿つぽい
「考へてたつて始まらねえや、村へでも遊びに行つてくべえ」と独言を言つて起き上ると手早く支度して外に出た。雨はまだ降つてゐた。ぬかつて滑り易い山道を探るやうにして彼は村の方へ下つて行つた。闇の中を歩きながら、彼は宮沢の棺も同じ此の道を通つた事を思つた。死んで担がれて行つた宮沢より、かうして女の
「どうだつて仕方がねえや、生れたが不仕合せなんだ」とつぶやいた。
茶屋にいつてからも彼は浮かない顔をして、無暗に酒を
「石井さん今夜はどうかしてるのね、心配事でもあるの」とお千代が訊ねた。
「みんなつまらねえんだ ――うんと酒を持つて来てくれ」と云つて、死人のやうに蒼くなつて倒れるまで飲み続けてゐた。
石井の村通ひはそれからしばらくつゞいた。人のいやがる
彼は、そのいまはしい脱れる事の出来ない死の手に抱かれる為に、身を苦しめて働いて疲れたり、怒つたり憎んだり慄へたりして、貧しく
梅雨明けに近くなつて蒸し暑い日が地を訪れた。空を厚く閉ぢこめた灰色の雲が裂けると、カツとした日の光が洩れて雲の切れ目が銀色に眩しく光つた。濡れた大地や山の青葉もきらきら輝いた。雲が閉ぢると四辺は急に暗くいきれるやうに暑くなつた。石井の頭は破れさうに痛み悩んだ。仕事が済むと直ぐに彼は村の茶屋に出掛けたが、酒はたゞ苦い水だつた。いくら飲んでも冷汗ばかり出て彼は少しも酔はなかつた。お世辞を云ふ女の声も耳元にガアガア空しく響くやうな気がして、彼はもう世界中に
梅雨が
その頃から山の鉱況は
石井は村へ遊びに行かなくなつてからも、飯場にゐる事は稀だつた。涼しい木蔭や風通しのいゝ岩蔭をあさつて、寂しい時を過してゐた。
二日目置きに一人位づゝ増していつた坑夫は遂に飯場から溢れさうになつた。夜になると柏餅になつて寝る者が、重なり合はない丈けに押しつまるので、
「あ! 畜生ツ苦しくつて寝られやしねえツ」とみんなして怒鳴り出した。
事務所では慌てゝ飯場の増設に取りかゝつた。職違ひの土方の群が来て、燃ゆるやうな日の光に
月末には地ならしの出来た端の方から、ガサツな家が建て始められた。大きな飯場を第一にして狭い長屋の骨組ばかり並んだのは、丁度
その時分から野田の家には彼の伯父分になる大沢と云ふ坑夫が来て泊り込んでゐた。大沢はすぐに使役願を出すでもなく、毎日酒を飲んではぶらぶら長屋中を遊び廻つてゐた。岩のやうに頑丈な体躯と、ぐりぐり光る目やいかつた鼻が、頓馬な猛獣を思はせるやうな男だつた。彼はいゝ機嫌に酔ふと長屋に出かけて誰をでも相手にして、
「俺あ今まで随分山あ歩いたけど、何処へ行つたつて喧嘩に負けた事あねえよ」と長々と腕自慢を述べ立てた。坑夫等は力の弱い野田が、飯場を持つたら心張棒にする気で呼んだのだらうと云つてゐた。そして誰が新飯場に廻されるかと、そんな事ばかり気を揉んで寄り合つては話してゐた。
石井は、野田が飯場頭にならうと大沢がどうならうとそんな事は何うでもいゝと思つてゐた。何うせ飯場に置かれた人間は、
暑い日は毎日続いた。晴れ渡つた真昼の空にはちかちかした光が漲つてゐた。焼けつくやうな日に照りつけられた草木の葉は、ぐんなりと白い葉裏を見せて萎れてゐた。
八月になつて山には一月遅れの盆が来た。若い坑夫や掘子達は三日間続く休みを早くから楽しんで云ひ暮してゐた。事務所では休みの
足尾にゐる頃山祭りのある毎に素人芝居の俳優になつた事のある野田は、昼間から多勢の若い坑夫を指図して舞台や観客席を作つてゐた。隣り合つた長屋の戸棚の段の間には厚板を渡して、縄で結へた丸太の欄も出来た。床板をはがして根太に渡した板は腰掛になつてゐた。 ――金弐拾円也、事務所より――を筆頭に鴨居に張り並べたびらが夕風に勢よく飜へる頃になつて、近くの村の百姓や娘達が見物に押し寄せて来て、長屋七八軒打ち抜いた小屋の中も直ぐ一杯になつて了つた。派手な浴衣や田舎縞の着物が揉み合つて、安白粉や油の香が漂ふ中に若い坑夫等が酒の廻つた顔を輝かして、娘達にからかつてゐた。他愛ない笑ひ声はそここゝから起つてゐた。村の事務所に帰る事の嫌ひな吉田の姿も桟敷の上に飯場頭や山中大当番と交つて見えた。
飯場や長屋から集めてきた洋燈が小屋の中に輝き初めると、巴三寅さんえと書いた古ぼけた幕の前に野田の姿が現はれた。黒絽の紋附の羽織を着て髪の毛を分けた彼は、坑夫のやうには見えなかつた。
「えゝ御見物の方様へ、
衣裳を持たない旅役者の女形は、坑夫の
二た幕目頃になつて、白い浴衣の上に紋附の薄羽織を着て、田舎医者の代診のやうななりをした石井が、ぐでぐでに酔つて小屋に来た。酒臭い息を吐きながら酔つた目を据ゑて何物かをあさるやうに見物の間をうろついてゐた。娘等は彼に見られるのを恐れるやうに身をひそめた。彼は隣村から選鉱に通つて来る色白で小肥りに太つたお新が、若い坑夫に囲まれてゐるのを見出すと、四辺の人を押し分けてその側に歩み寄つた。お新の隣に腰をかけてゐた男は怨めしげに彼の顔を見たが、その鋭い眼に出会ふとひよいと立つて振り向き勝ちに歩み去つた。彼はその空席に腰を下した。薄い浴衣を通して女の体温が伝はると汗はじとじと湧いても、彼は平気で快さを貪つてゐた。周りにゐた若い坑夫等も気むづかしい石井が来ては面白くないので
舞台では悪人の罠に陥入つた善良な若者が、死刑執行になる瞬間を演じてゐた。若者に扮した俳優は、横に長く引張つた二本の細引の間に首をはさんで立つたまゝ、身体を前後に揺すつてゐた。典獄が「ひとーつ」「ふたーつ」と数を読み上げて、それが百に達した時命は絶たれるのだと宣告した。――無智な観客の気分は可成り緊張して、心はまるで舞台に吸ひつけられてゐた。その時石井はお新に、
「暑いだらう」とさゝやいた。
お新はふだんから石井は山で一番恐ろしい人だといふ事を聞いてゐた。自分の隣に来られた時は、身内がすくむやうな気がして、胸はわくわく踊つてゐた。舞台よりも隣りにゐる石井にまるで心をとられて了つてゐた。初めは直ぐに外へ逃げようかとも思つたが、執念深い男に見込まれてはそれも叶はない事と思ふと、その心も挫けて了つた。諦めたやうに屈従してしまへば、恐怖に伴ふ快さも湧いてゐた。
「暑かないか」二度目にいつた声が耳に這入つた時は、男の腕がお新の背中を捲いてゐた。
「わしいもう暑くつて逆
「あれが済んだら外へ出よう、山は涼しいぜ」と石井が云つた。女は黙つて
舞台では典獄の読み上げる数が、九十九から百に移る刹那に、楽屋から死刑執行猶豫、死刑執行猶豫と叫びながら劇中の名探偵が司法大臣命令書の折紙を捧げるやうに突きつけて出て来た。若者は身体を揺する事を止めた。
見物はほつと息をついた。間もなく悪人は短銃で自殺して幕は引かれた。我れに返つた人達は急に暑さを感じた。扇子や
石井は、
「さ出よう」と促した。女は黙つて立つと彼の後に従つた。息詰るやうに熱い人いきれから免れて二人は小屋の外に出た。涼しい夜風が汗ばんだ肌へを快く吹いて通つた。石井は両手で胸をくつろげて、空を仰いでほーつと息をした。秋近くなつて深く海のやうに透き徹つた夜の空には、銀河が白く縦に流れてゐた。小屋から流れ出る光は外の闇をくつきりと
翌朝になつて書き入れ時を忙がしく廻る旅役者の群は、
その夜は諸国から寄り集つた坑夫等が、各自に生れ故郷の盆踊りをやると云つてゐたが、朝の間は皆な酒に浸つてゐた。音頭取が叩く為に用度から持つて来た醤油の空樽も飯場の前に放り出してあつた。午近くなると酒精の気は飯場にも長屋にも万遍なくしみ渡つて、はしやいだ人達の無揃な唄声や手拍子の響きが、門並に起つてゐた。飯場では若い坑夫等が盆踊りの予習をやり始めた。荒くれた大男が揃つて、太い毛脛を踏みしめて踊り廻る度に、黒く汚れた畳からむせつぽい煙のやうな埃が舞ひ上つた。
石井は前の晩酒を飲みすぎて感覚が
その日は別けて暑かつた。午近い残暑の空からたぎり落る、焔のやうな光が四辺をかつと照りつけてゐるので、木も石も水の面も燃ゆるやうな光りをちかちか放つてゐた。その光に打たれると、どろんとした彼の目はづきづき痛んで重い頭はぐらぐらと倒れさうになつた。彼は急いで飯場に這入ると入り口に腰を下して静かに休んでゐた。踊つてゐた人々も疲れたと見えて、ぐつたり坐つてだらだら流れる汗を拭きながら苦しさうにはつはつと息をついてゐた。日が頭の真上に来たので室の中は温室のやうに暑くなつた。みんなは裸になつて獣のやうにごろごろ寝ころんだ。長屋の人達も暑さにめげたと見えて歌の声も聞えなくなつた。
外には溶ろかすやうな熱い日が、杉皮の屋根や、硅石を敷いた往還の上に燃えてゐる。四方を高い山に遮ぎられた摺鉢の底のやうな此の沢合には、そよりとした風も来ないので、一としきり湯釜のやうな熱さになつた。草木の葉も息を止めたやうにぐんなりと萎れ返つて、不精な女達の捨てた塵埃が煮えてすえるやうな匂ひを絶えずたてゝゐた。――此の暑さを冒して家の外に出る人もないので、あたりは
石井は再び眠る気もないので、手拭を肩にして上り口に腰をかけたまゝ、ヂジと暑さと戦ひ堪へるやうに空しく表を見つめてゐた。浴衣を帯なしでばつとあふつた大沢が、酒臭い息をしながら這入つて来た。
「どうだ此の暑いのに、どこでもみんなよくねてるなあ、目玉も身体も溶けちまふだに」と怒鳴り散らしてから「石井の兄弟も退屈さうだな、一杯やらねえか」と云つた。
「暑くつてしやうがねえんだけど、少しなら
「俺あ行つて酒を持つて来るで」と大沢は足を返して外に出たが、やがて徳利をさげて来た。石井もその間に自分の箱膳を出して、帳場から
「さ、やるべえ」と二人はなるたけ風通しのよささうな所に向き合つて、飲み初めた。石井は初め二三杯飲む間は、爛れた内臓に悪くしみるやうにも思つたが、少し廻るとひそんでゐた酔も出て元気のいゝ顔になつた。
大沢は初めから酔つてゐた。それでも最初の中は二人とも、方々の山の噂などをして他愛なく笑つてゐたが、
「俺赤沢に居た時だつけよ、
「おい、もうよしてくれ、俺あ自分の喧嘩であきあきしてるんだから」と石井は堪らなくなつたので顔をしかめて手を振つた。折角話しかけた腰を折られて、大沢はむつとした顔をしたが、相手も
石井は
「おい石井の兄弟」と強く呼んだ。
「なんだ」と石井は顔をあげたが、二人の目は険しく光つてゐた。
「俺が甥つ子の野田もよ、近え
「俺いやだ」ときつぱり言つたので、大沢はぶるぶるつと身体を慄はせた。
「なにが ――なにがいやだ」とつめよせた。
「いやだから、いやだつてんだ――第一手前の云ひぐさが、一々癪にさはら、野田が頭になつたつて手前と俺と盃をするのに何になるんだ、下らねえ事を云ふな
「な、生意気云ふな二歳つ子のくせに、俺あ今まで盃しようつて弾かれた事なんかねえだ、――うぬ此の山で幅を利かしたつて、俺が来てからさうはさせねえだ」と腕をまくつて突張つて見せた。
「馬鹿つ」鋭い声と共に石井は立ち上りながら、右足を飛ばして大沢の胸を蹴つた。はずみを喰つた膳や徳利は、ガラガラ土間に転げ落ちた。倒れかゝつた身体をやつとさゝへて大沢は、
「やつたな野郎ツ」と叫びながら立つた。その時彼の眼に、横の羽目に立てかけてあつた支柱斧が映つた。半月形の刃先きは研ぎ上げたばかりのやうに、薄暗い中に蒼く光つてゐた。大沢は身を
「しやれた真似を」と云つた石井の手にも匕首が閃いてゐた。二人とも烈しく酔つてゐるので、自分ばかり確かり闘つてゐるやうに思つても、可笑しい程ふらついてゐた。二人はめちやめちやに獲物を振り廻した。石井がひよろけるやうに手元にくゞらうとした時、肩先をどしつと切られたが、それと同時に大沢の脇腹に匕首を突き通した。妙な
惨劇は咄嗟の間に行はれた。――その物音に最初に昼寝の夢を破られた男は、真赤な血の塊りの転がるのを見た――慌てゝ外に出ると両手をあげて、
「喧嘩だ――皆出ろよ――」と身を
「誰か手を貸してくれよ」と切なげに言つたので四五人してばたばたする手足を持つて、野田の家へ担ぎ込んだ。血はまだ糸をひくやうに滴つて行つた。石井はもう相手の見境がなくなつてゐた。誰かにしがみ附かうとしたのを
「うーむ」と苦しさうに呻いて手足をもがいた。
取巻いてゐた坑夫等の眼には惨忍な笑が浮んだ。――その中には女房を弄ばれた者もあつた。彼に怒罵されたり擲られて恨を忍んでゐた者もあつた。けれ共彼の心を知つてる者は一人もなかつた――誰か最初に、
「つらあ見ろ畜生ツ、余り威張りやがつたもんだからいゝ
吉田はその日も朝から長屋の下の用度係で、萩田や用度の書記を相手に酒を飲んでゐたが、その時飯場の掘子が慌たゞしく駈けて来た。
「かしら――石井さんが喧嘩して斬られたゞ――」と怒鳴つた。萩田は顔色をかへて盃を
二人の姿が遠くに見えると誰かゞ、
「かしらが来た。よせよせ」と云つたのでしやがんで介抱するやうな風をする者もあつた。
併し石井の死顔は、卑怯な人々の残忍な行為を明らかに物語つてゐた。ずたずたに裂けた浴衣は、血と泥に滲んで赤黒くなつてゐた。肩口のあたりには殊に濃い血が固まつてゐた。顔は目鼻の見分もつかない程でこぼこに紫色に腫れ上つて、ぶつ切れた所に滲んだ血がいやな色どりを見せてゐた。口惜しさうに固く結んだ口の端には汚い血汐がこびりついてゐた。
萩田はやつと馳けつけて、その恐ろしく浅ましい
「誰がこんな真似をしたんだ」と口惜しさうに怒鳴つたが、それに答へる者はなかつた。四辺に滴つた血汐は、焦げつくやうな日の力に乾きかけて薄黒くなつてゐた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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