イーハトヴの氷霧
イーハトヴの氷霧
けさはじつにはじめての
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した
(一九二三、一一、二二)
冬と銀河ステーション
そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげろふや青いギリシャ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが
銀河ステーションの遠方シグナルも
けさはまつ
川はどんどん
みんなは
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた
あのにぎやかな土沢の冬の
( はんの木とまばゆい雲のアルコホル
あすこにやどりぎの黄金のゴールが
さめざめとしてひかつてもいい)
あヽ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり
( でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
( 窓のガラスの氷の羊歯は
だんだん白い湯気にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパーズまたはいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です
(一九二三、一二、一〇)
手帳より
この夜半おどろきさめ
耳をすまして西の階下を聴けば
ああまたあの児が咳しては泣きまた咳しては泣いて居ります
その母のしづかに教へなだめる声は
合間合間に絶えずきこえます
あの室は寒い室でございます
昼は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくぐり
昭和三年の十二月私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ
じぶんらはその暗い私の四月病んだ室へ入って行ったのです
そしてその二月あの子はあすこで生れました
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたりそんなことでは泣きませんでした
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
時には蕾ある枝もきったりいたしました
この九月の末私はふたたび
東京で病み
向ふで骨にならうと覚悟してゐましたが
こたびも父母の情けに帰って来れば
あの子は門に立って笑って迎へ
また階子からお久しぶりでごあんすと声をたえだえ叫びました
ああいま熱とあへぎのために
心をととのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがなぃもやと云ってねむってゐましたが
今夜はただただ咳き泣くばかりでございます
ああ大梵天王こよひはしたなくも
こころみだれてあなたに訴へ奉ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
ただかの病かの痛苦をば私にうつし賜はらんこと
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモマケズ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
月天子
私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
後わたくしはそこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
──ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおお
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は
心であるといふならば
また誤りであるやうに
(此の間数行空白)
しかればわたくしが
月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない
筆ヲトルヤマヅ道場観
奉請ヲ行ヒ所縁
仏意ニ
然ル後ニ全力
断ジテ教化ノ考タルベカラズ!
タダ純真ニ法楽スベシ
タノム所オノレガ小才ニ
タダ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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