民主主義の原点 ──サイレント・マジョリティとマイノリティ──
サイレント・マジョリティ
サイレント・マイノリティという題で小文を書いたことがある。それは弱者の悲哀を分かれば分かるほど、彼等に共感し、強者に組み込まれたくないと思い、良心的中立を守る危険性について書いたものだった。その危険性を恐れて当時は発表されなかった。その後、塩野七生さんが同じ題で書かれたものが既にあるのを知った。発想に共通したところがあって何となく楽しかった。しかし内容は大分違うので今回少し書き直し、さらに書き加えてみた。
かつて、ニクソンは「私にはサイレント・マジョリティの支持がある」と言って胸を張った。「おとなしい大衆は向こう受けを狙った政治家やマスコミのようにうるさく騒ぎはしないが、冷静に真実を見抜いて、私のことを理解してくれている。」しかし、ニクソンは長くは持たなかった。私が知る限り、サイレント・マジョリティというのは民主主義社会では非常に稀な存在のように思う。政治権力や暴力が正義を無視してのさばるような社会では至る所にサイレント・マジョリティが存在している。これの存在が社会における不正義の存在の証明になることが殆どである。
映画では、マフィアや暴力団に売上げのお金をむしり取られるシ−ンがよく出てくる。取られる側の一般市民はサイレント・マジョリティである。富士フィルム、住友銀行など多くの企業で役員が撃たれたり、殺されたりした。誰もが一握りの総会屋か暴力団関係の殺し屋の仕業と思っているのに、警察に協力しない泣き寝入りの企業もサイレント・マジョリティ−である。会社内でも、ワンマン社長に何も言えない社員たちもサイレント・マジョリティではないだろうか。結局のところ、恐怖が支配する世界ではサイレント・マジョリティは生じやすい。まともな社会ではない。ニクソンは自分の国に民主主義が存在しないか、または、危うくなっているのを認めたようなものである。世界のマスコミで、このような観点から彼の発言を問題にした例を寡聞にして知らない。
日本の民主主義
日本は自由主義・民主主義社会であると言われてきたが、最近ようやく日本に民主主義など存在しないと発言する人が出てくるようになった。こういう発言が出来るようになったのは、昔より日本が少し民主化されたのか、または、我慢の限界を越えたので、危険を覚悟で発言したかのどちらであろうか。大江健三郎さんの文化勲章辞退に対する右翼の人々の脅迫を見ると後者のように思えて悲しい。私は、中国が唱える社会主義自由経済は日本をモデルにしたのかもしれないと思っていた。情報非公開、官僚主導の厳しい規制、中央集権、天下り(ほぼ)自由、役得(見つからない限り賄賂取り放題)、接待勝手など、官僚支配のためにどれひとつ欠けても困るものばかりである。これらについての他国のスキャンダルは日本の新聞、テレビに登場するが、日本のそれは情報非公開の悪用に守られて、とかげの尻尾きりで殆どが終っている。大物は白を切り通して、罪になるのはサイレント・マジョリティの中からスケ−プ・ゴ−トとして用意されていた雑魚ばかりである。マスコミの追及は(わざととしか思えないが)核心を外して、地団太を踏み、悲憤こう慨して、大見栄を切って見せるだけである。
中世の封建主義社会に根ざし、明治の帝国主義時代に強化された日本の部落的社会構造は本来民主主義になじまないものである。この社会構造を温存したまま、育てようとした民主主義は一種の部落間デモクラシ−であって、血の通った個人、個人の権利段階での民主主義の存在は部落毎にかなり異なる形態が続いて来た。基本的には、地方に行くほど、部落の首長や顔役が殆ど決定権を持っていて、彼等の民主的度合いにより部落内民主主義は左右されて来た場合が多い。勿論日本の民主主義的体制は勝ち取ったものでなく、与えられたものであるのも、非民主的要素を多く内包する原因であろう。
ここで一般部落民はサイレント・マジョリティであり、大多数の日本国民である。彼等は昔から「見ざる、聞かざる、言わざる。」が庶民の幸せと考え、自分たちの住む町内や家族の中だけの調和を第一にして来た。今それが、個を大事にするという民主主義の一面だけが取り上げられ、親もない、子もない、自分だけが頼り、自分だけが大切という考えが大威張りである。個の状態の人間が「見ざる、聞かざる、言わざる」であれば、精神的に不毛の社会となるのは必然である。ましてや、権力を握っている人たちが自分たちに都合の悪いことを国民の目や耳から隠蔽すれば、国民がいくら主権者と表向きおだてられても、真実でない情報に踊らされて、国の未来を決定する選挙で誤った判断をすることになる。このような恐ろしいことがいろいろな国で横行しているのは、民主主義がシステムとして未成熟で、権力の監視・制御対策が不完全だからである。
日本の官僚
政治家が政治改革を実行しようとするとき、必ず官僚たちの強力な反対にあって改革案が骨抜きになる。新聞にトップ官僚の発言として、「役所(官庁)は公器である、一大臣ごときに私物化されてはならない。」という記事があった。これなど日本の官僚が良識を失っている典型的な例である。何のために役所があるのかという質問に対して、「官僚は厳しい試験をパスして、選ばれたエリ−トであり、日本の将来について最も的確な判断が出来る指導者の集団である」とでも答えるのではないだろうか。あらゆる手を使って、選挙に勝ち、代議士となり、大臣を夢見る馬鹿な政治家に大切な日本の将来を好きなようにされてたまるかという考えも分からないではないが、これは官僚の本来の職分を越えた越権行為であり、民主主義に反する。この道理が無視され、官僚国家であることが日本の繁栄の必須条件のように思い上がっている節がある。官僚は何も生産しない。官僚が穀潰しにならないためには、日本を豊かにしようと働いている会社や人々の生産システムと安心して生活出来る社会機構の潤滑油となり、歯車にならなければならない。それなのに、国民を歯車のように扱い、自分たちは運転手(船長)であり、監督であると思い込んでいるように見える。日本が民主主義国として生まれ変ったとされた頃、公僕という言葉が屡々使われた。官僚は国民に仕えるから公僕なのであって、国民に仕えない官僚が支配し、私物化した官庁(役所)は公器では全くない。
確かに頼りない政治家たちばかりが出て来て、政治を自分たちの利益の道具に使っているだけなのを見ると情けない。しかし、官僚が利用しやすい馬鹿な政治家ばかり選ぶよう国民総白痴化を進めて来たのも官僚、特に文部省である。共産主義の脅威という口実を最大限利用して、批判精神の根を摘み取り、画一的教育の徹底を計り、国民全体の金太郎飴化に成功し、現在のおかしなおかしな日本を生んだのである。自社の55年体制の崩壊、小選挙区制度による政治改革など分かったような分からないようなキャッチフレ−ズが紙面を賑しているが、国民は皆白けている。誰を選んだって皆同じだから、棄権すると答える人が非常に多い。政治家までが自分自身の考えを育てることが出来なくなり、金太郎飴化したこと、強力な官僚機構の掌の上で踊らされていることを国民は感じているのであろう。これでは日本に存在するのは、現に多数の自治体での無投票当選、各党相乗り候補の擁立、最低投票率の更新に見られるように、サイレントより悪い無関心マジョリティばかりとなる。お上の言うことに逆らわず、低賃金で働き蜂であった間は日本の経済も誤魔化しが利いていたが、一部政治家と官僚によるバブル画策の失敗、それに伴う円高不況に対する無策ぶりは今までの官僚政治の晩鐘を示している。公器と称して自己保身を続けるならば、官僚はもはや日本の国の癌でしかない。
日本の経済政策における官僚の最大の誤算はインフレ型経済成長の見通しを誤ったことである。戦後日本の急激な経済成長は世界の驚異であった。その原動力になったのは日本人の勤勉性、教育の充実、均質的な国民性などによるように言われ、大多数の人が今でもそのような妄想にとらわれている。しかし最近日本人の労働効率は外国(特に先進国)と比較してむしろ低いという報告が見られるようになった。これは自分自身の体験からも同感である。それならば、日本の急成長はどうして出来たのであろうか。上記の理由にかなり負うところがあるのも事実であるが、最大の要因は開発途上国型インフレ経済にあったと言っても過言ではないであろう。それは貧しい生活レベルから始まり、低賃金かつ質の良い労働に支えられて、安くて良質の製品を提供することで、国際市場での競争力を確保することが出来た。非常に低い公定歩合は経済を活性化し、インフレを少しずつ進行させたが、日本の産業の発展は世界最大の貿易黒字国を実現した。その間日本政府の官僚主導による政策は農業を始めとする弱い産業の保護と輸出産業の強力な支援であった。さらに今問題になっている天下り先各種法人への国費の無駄使いにより、周知のように政府の借金は200兆円を越えた。
このような大きな借金も大蔵省の予測では大した問題にはならない筈であった。その理由は、多分こうであったと思われる。
1) | 大蔵省の上手な舵取りにより、日本の好景気の持続は可能である。これは税収の増加を見込ませる。景気活性 化のための多少の借金はどうにかなる。 |
2) | 低公定歩合、漸進的インフレにより、貨幣価値の低下が期待出来る。これは政府の借金の将来における実質的減少となる。 |
3) | バブル経済を大蔵省は内心歓迎していたと思われる。2)の条件における経済社会は企業に土地その他不動産取得の魅力を感じさせ、株のように投機的取引の対象となったことにより、生産性のような実質的価値とかけ離れた土地価格の高騰を招いた。これによる土地取引税、固定資産税の増収も期待されていた。 |
これで万事うまく行く筈で、200兆円の借金などインフレと税収増で簡単に解決の皮算用だったのだが、どこで狂ったのであろうか。その原因は、
1) | 貿易立国としての成功が同じようには続かないことを軽視していた節がある。何故ならば、日本の貿易黒字が増えれば増えるほど、日本円の国際的価値が上昇し、黒字が増え難くなる方向で為替レ−トが変化するのは自明の経済原則である。これが意味するものは、円高による輸入品の価格低下であり、インフレの抑制効果となる。 |
2) | 現在までの日本の貿易競争力を支えて来たのは、他の国で出来ないものではなく、他の国より安く、質の良いものを生産することにあった。これは低賃金と良質労働力が不可欠で、既にNIES諸国にその地位を奪われている。 |
3) | 大蔵省がインフレ・円安による経済発展、通産省が貿易立国(黒字増大)による産業育成、結果としての円高という両者が相容れない経済政策を取ったことによるひずみがもはや修復不可能になりつつある。 |
4) | その上、貿易黒字削減の方法として内需拡大を唱え、税金を使って公共投資を増やしたりと小手先の誤魔化しに終始した責任も看過してはならない。ドル安防止のための日銀のドル買いも含めて、将来国民の負担となる政府の借金を増やしただけで、貿易黒字は余り減ってはいない。貿易黒字が大きい限り、円高を防ぐことは出来ない。 |
200兆円以上の政府の金を貰って、日本の産業界が奇跡的発展を遂げたのは事実であり、自分たちの勤勉さと能力および官僚の知恵と手綱捌きのお蔭と言うのは全く現実を見ていない発言である。日本人は補助金依存体質にどっぷり漬かって、宴会、接待ゴルフ・麻雀まで仕事と称し、決して勤勉ではなかったことを知るべきである。楽あれば苦あり、国民は未来の苦しみを目隠しされ、幻に踊らされて来ただけである。
サイレント・マジョリティの意志の実現システム
どんなに頼りない、欲深い政治家でも国民が選んだのであるから、主権者の代理人である。国民の代表として、公正で、思慮深い代理人を選ぶシステムを作ることが一番の急務である。そして、公器であるべき官僚が正しく機能しているかどうかについて国会が常に注意しなければ、権力の代行者である官僚の中には、不心得者が出てくるのもやむを得ない。一般市民の意志がストレ−トに選挙に反映するならば、自分たち、ひいては自分たちを取り巻く社会、さらには全世界の平和や幸せに必要な人々が選ばれるであろう。この意志決定を妨害するものとして、一番目立つのは暴力、人間の弱点を利用した買収または類似の行為である。これらの犯罪を防止する手段としては、厳罰が絶対必要であるが、現行の法律は甘過ぎるとしか言いようがない。汚職などの疑いを持たれた政治家が「自分は公人であるから、私人である一般民間人と同じように扱われてはならない。(政治)活動に関連した部分は守秘の権利がある。」というたわごとで堂々と逃げ回っている。官僚も含め、政治家など公人には一般市民が持っているようなプライバシ−の権利はないと考えるべきである。例えば、愛人を持つのは男の甲斐性または男の魅力などと考えて、実行している政治家はそれが選挙民に知られて都合が悪いなら、始めから立候補を諦めざるをえないような情報公開法が絶対必要である。これは金銭の問題でも同じである。職務権限があるかないか、時効になっているかなど罪を免れる方法を裁判官みずからが探し回り、権力者に胡麻をするような裁判が続けば、国民は絶望し、日本は坂道を転がるように腐敗して行くであろう。大臣、国会議員は勿論、少なくとも各省庁の局長以上、市長・市議会議長レベル以上の公人は、事実により汚職などの疑惑が生じた場合、職務に関する完全情報公開を義務付けるべきである。
職務権限などは本当のまやかしである。裁判官の裁量でその範囲がいくらでも変えられるのではまともな法律ではない。A大臣がB大臣の職務権限事項で収賄し、B大臣がA大臣の管轄事項で収賄し、AとBが秘かに連係プレ−をする限り、職務権限外だから政治献金と見なすとなる。馬鹿げた話である。国会および行政府が決めることに関してすべて職務権限内と考えるべきである。公開出来ない収入はすべて収賄とするのである。政治家になってひと財産作るのが特に保守党系の政治家の常識みたいになっている。作れないやつは馬鹿で、次の選挙では落選する。何故なら選挙には莫大な金が要るからである。買収される、むしろ買収を要求する選挙民がいるから仕方がない。汚職紛いの集金は必要悪で、皆がよいと思ってはいないけれど、止めた人間が先ず負けてしまう。こんな土壌の中で小選挙区になれば買収がなくなると信じている人は救いようがない。オ−ル・オア・ナッシングの選挙戦では、捕まらない限りはどんな汚いことをしても当選しようと血眼になるだろう。外国に見られるように、相手を事故に見せて暗殺するぐらいのことは起きるのを覚悟した方がよい。
企業献金も諸悪の根源のひとつである。国会議員を選ぶ権利のあるのは国民である。国民一人一人のためになる人を選ぶのである。この選挙はどんな団体や外国の人に対しても独立で、彼等に左右されてはならない。あくまで個人の権利の行使であり、これが金や暴力に支配されることから腐敗が始まる。ましてや、企業も法人であり、選挙の結果によっては多大の被害を被るから、自己防衛のために自分に有利な政治家を応援するのは当然の権利であるという論理がある。これが虫のよい理屈であることは、法人に選挙権がないことで自明である。社員一人一人が自分の権利を生かすこと以上の影響を企業が選挙に与えてはならない。自由主義経済社会において、企業は利益追求を最重要の目的とする。少しでも他社より利益を上げるためには、生馬の目を抜くようなこともするのが普通である。この考え方は理想の政治が目指すものとは完全に異質である。政治は公正な企業間競争が守られるよう監視する立場にあり、国民全体の生活を公平に守るためにある。ある特定企業と政治家が自分たちの利益で結び付くことは、政治の浄化のために絶対いけない。
政治浄化の最大の決め手は、政治家になっても儲からない制度を完備することである。さらに政治献金の見返りを全く期待出来ないようにする。選挙民も政治家から一円も貰えないようにする。このような厳しい趣旨の政治活動法を制定し、これに反した人はすべて最低10年の公民権停止にするぐらいでなければ何も変わらない。現在までは、勝手連などの運動を除き、出したい人より出たい人が出てくるのが一般である。政治は出したい人が出てこない限りよくはならない。自分たちが本当に望む人を出すために、選挙民がお金を出すぐらい覚悟をしないで、政治がよくなるわけがない。自分たちのため働いてくれる人を選ぶのに、その人に金をせびるのは全くおかしな話である。個人献金制度を免税も含めて確立すれば、政府の無駄な出費もなくなる。政府が金を出すのは公開討論会、葉書とその印刷代、ポスタ−の費用、新聞広告などに限るべきである。
米国のように国会議員が政府の構成員になれなくするのも、大幅な憲法の改正が必要になるが、抜本的改革法である。立法府と行政府を完全に分離するのである。日本でも、現在の地方自治体は基本的にこの形態で機能しているのであるから、国レベルで難しいことではない。ただし、これまで屡々起きているような市長と市議会議長の馴合い・談合汚職などを不可能にし、両者の独立性を厳しく規定する法律が必要である。国会議員も汚職につながるような陳情を受けなくなり、気が楽になるし、国政の勉強の時間も増えるであろう。政府を選ぶ選挙が増えるが、国会議員の定数削減などでリストラを計ればよい。政府は国会の監視の下で、秘密のない国民へのサ−ヴィスが役割となる。
暴力の心配がなく、買収は損するだけという社会になれば、サイレント・マジョリティは自由で独立の精神により投票する。もはやサイレントである必要もない。身近の損得が絡まなくなれば、人は社会全体に目を向けるようになり、遠い将来のことも考えて行動するものである。そうなれば、皆が自分の存在理由や価値を自覚するようになり、最も自分を生かす生き方を考え、金や権力で仕事を選ばなくなり、夢や生き甲斐で人生が豊かになると確信している。
サイレント・マイノリティとは
(サイレント・マイノリティの定義)
サイレント・マジョリティに対して、サイレント・マイノリティは立場が本質的に異なる。確固とした信念や信仰を持たないがために、はっきりした意見がなく、結果としてサイレント・マイノリティである人々は同時にサイレント・マジョリティにも簡単になりうる訳で、この人々は論外とする。民主社会においても、多数決が支配するところでは、既に彼等は自己を家族を守るためにしばしばサイレントでなければならない。大多数の人々が決めたル−ルを我慢するか、メイフラワ−号に乗って新世界へと旅立つしかない。人類発展の歴史において最大多数の幸福のために犠牲になってきたのがサイレント・マイノリティである。この人たちは自分たちの幸せのためにもっと主張したいのに、それが出来ない。彼等の立場はとても弱く、自己主張が仕事や生活の上で命取りになることが多いからである。この場合、彼の意見が正しいかどうかはほとんど問題ではない。現在の体制に好ましくないかどうかで判断される。稀に好ましいとして採用された場合、彼はもはやマイノリティでもサイレントでもなくなる。体制内に新しく導入された新しい血であり、命であり、希望の星になることもある。しかし、一般にはサイレント・マイノリティというステ−タスは弱く、かつ不安定である。
民主社会におけるサイレント・マイノリティの存在理由・重要性
これまで述べてきたことから明らかなように、サイレント・マイノリティは社会的弱者の代名詞でもある。原因はいろいろあるが、社会からの一種のはみ出し者である。現存の体制に馴染まない存在であるものが多い。この異質のものをどこまで受け入れることが出来るかは、私たちの社会の活力と深い関係がある。歴史的に人類の社会が成熟(堕落)するに伴ない、その成長を支えて来た精神や理念は形骸化し、社会のシステムは柔軟性を失い硬直化し、成熟に伴って生じる新しい問題や危険に対処出来なくなり、文明の衰退・滅亡への道を辿って来たことはよく知られている。また、国の繁栄が偉大な独裁的指導者によった例も数多いが、この場合指導者の死が体制の崩壊を招き、新しい強力な指導者が出現しないと国の滅亡にもつながって来た。サイレント・マイノリティを抹殺し、国民全体を同じ色に塗り込めるのは国にとって自殺行為である。サイレント・マイノリティがサイレントを続けたいならそう出来るような自由な生き方や活動がどこまで出来るかどうかは、第一の社会の健全性の尺度である。このサイレント・マイノリティの保護は、為政者のみならず、一般国民の優しい思いやりが無ければ無理で、それには自覚的努力が必要である。
民主主義が保証するサイレント・マイノリティ−の権利
民主社会においてサイレントでなくなったスピ−キングまたはヴォ−カル・マジョリティ−は少数反対意見に謙虚に耳を傾け、自分たちの立場では知ることが困難な苦しみや悲しみを学ぶことにより将来の社会変化に幅広い予測、対策を立てることが出来るようになろう。しかし、社会的弱者や少数者がサイレントを続けるかぎり、彼等の知恵を活用することは出来ない。サイレント・マイノリティの不安や恐怖を取り除いて、安心して考えを公表するスピ−キング・マイノリティに変質させる以外ない。これは村八分が今もなお起きるような社会では非常に困難である。
自分が望んでサイレント・マイノリティを続ける人は論外としたが、望んでもいないのにやむなくサイレントを守らざるを得ない人がいるかぎり真の民主主義が存在しているとは言えない。民主主義の基本原則は多数決であると断言している政治家(屋?)が日本には多いが、これは誤解も甚だしい。民主主義は個人の権利から始まる。それは人が人として生きる権利の平等を基本とする。自分の生きる権利と同様に、他人の生きる権利を侵害してはならない。多数決によっても、この個人の尊厳を奪うことは民主主義の精神に反する。どんな少数者からでも、謂れなく人権を奪うような社会正義は存在しない。
この個人の集合体である社会または国家がその意志を決定する場合に、最終的手続きとして採用されているのが多数決であるが、多数決により個人の人権という民主主義の大原則を踏み躙るのは、単に多数による少数者への暴力であり、民主主義の破壊である。民主議会の原則は、たとえ反対党の提案であっても、これに耳を傾け、理があれば賛成する多数決でなければならない。民主主義が育った西欧で弁論術が重んじられたのも、この精神基盤によるので、日本の政治家の単なる口先だけのごまかしとは根本的に異なる。党議拘束で各議員の投票の自由を奪い、反するものは除名処分にするような政党は民主主義を云々する資格が無いと言ってよい。基本的大原則で一致した人々がひとつの政党を構成し、それ以外では問題に応じて自由に投票出来るのが理想である。自由主義民主主義の精神で集まった人々の中で、原発反対も賛成もあってよいのである。少数者の権利を尊重するのが民主主義の必須条件で、これが無視されている社会での小選挙区制は、民主主義の破壊に繋る恐れがある。
民主主義を標榜し、権利意識の強い米国でも、サイレント・マイノリティの権利主張は、多くの犠牲を伴わずには実現されなかったし、今でもリンチ的迫害を受けずに発言出来る場合は多いとは言えない。200年あまりの短い歴史の中で、米国の恥部とも言うべきマイノリティの悲劇は数多く報告されており、差別という言葉に異常な敏感さを示すのも、現在も人種的迫害が無くなっていない証拠である。多民族国家である米国という大国が、ひとつにまとまって、ばらばらにならないために、人種差別を廃し、民主主義を国是とすることが必然で、他に選択の余地は無かったと言える。人種のるつぼである米国で人種差別を完全に無くすのは、中国の「百年河清を待つ」に似ている。だからこそ、逆に平等の権利意識が強い国であるとも言える。国民の真の幸せを願って、先輩である米国の市民社会でまだ実現されていない民主主義を皆が力を合わせて日本で実現出来たならば、私は日本人であることを心から誇りに思うだろう。サイレント・マイノリティが我慢し切れなくなって、自殺行為的に発言するのではなく、社会の一員として安心して建設的発言をし、喜んで社会活動に参加するスピ−キング・マイノリティに変身するような真の民主主義社会に日本がなるよう心から祈る。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/05/22
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