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山の手の子

 お屋敷の子と生れた悲哀(かなしみ)を、泌み々々と知り()めたのは何時(いつ)からであつたらう。

 一日(ひとひ)一日と限り無き喜悦(よろこび)に満ちた世界に近付いて行くのだと、未来を待つた少年の若々しい心も、時の進行(すゝみ)に連れて何時かしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日に、身も魂も投出して追憶の甘き(うれひ)(ふけ)()いと云ふ果敢無(はかな)慰籍(なぐさめ)を弄ぶやうになつてから、私は私に何時も()う尋ねるのであつた。

 山の手の高台もやがて尽きやうと云ふだらだら坂を丁度登り切つた角屋敷の黒門の中に生れた私は、幼き日の自分を其黒門と切離して想起(おもひおこ)すことは出来無い。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んで居るやうに、牢獄のやうな大きな構造(かまへ)の家が(いか)めかしい塀を連ねて、何処の家でも広く取囲んだ庭には鬱蒼と茂つた樹木の間に春は梅、桜、桃、(あんず)が咲揃つて、風の吹く日には何処の家の梢から散るのか見も知らぬ種々の花が庭に散り敷いた。そればかりではない、もう二十年も前に其の丘を去つた私の幼い心にも深く泌み込んで忘れられないのは、寂然(ひつそり)した屋敷々々から、花の頃月の宵などには申合せたやうに単調な(ものう)い、古びた琴の音が洩れ聞えて淋しい涙を誘ふのであつた。私は斯うした丘の上に生れた。静寂(しづか)な重苦しい陰鬱な此の丘の(はづ)れから狭いだらだら坂を下ると、カラリと四囲(あたり)の空気は変つてせゝこましい、軒の低い家ばかりの場末の町が帯のやうに繁華な下町の真中へと続いて居た。

 今も静に眼を閉て昔を描けば、坂の両側の小さな、つゝましやかな商家がとびとびながらも瞭然(はつきり)と浮んで来る。赤々と禿(はげ)た、肥つた(おやぢ)が丸い鉄火鉢(かねひばち)膝子(ひざつこ)のやうに抱いて、(ねむ)た相に店番をして居た唐物屋(たうぶつや)は、長崎屋と云つた。其頃の人々には未だ見馴れなかつた西洋の帽子や、肩掛や、リボンや、種々の派手な色彩を掛連ねた店は子供の眼には(むし)ろ不可思儀に映つた。其店で私は、動物、植物或は又滑稽(おどけ)人形の絵を切つて湯に浮かせ、つぶつぶと紙面に汗をかくのを待つて白紙に押付けると、其の獣や花や人の絵が奇麗に映る西洋押絵と云ふものを買ひに行つた。

『坊ちやん。今度はメリケンから上等舶来の押絵が参りましたよ。』

 と禿頭は玻璃棚(がらすだな)からクルクルと巻いたのを出しては店先に拡げた。子供には想像も付かない遠い遠いメリケンから海を渡つて来た奇妙な慰藉(なぐさめ)品を私は()んなに憧憬を以て見たらう。油絵で見る様な天使が大きな白鳥と遊んで居る(あり)(あら)ゆる美しい花鳥を集めた異国を想像して()んなに(なつ)かしみ(こが)れたらう。実際在来(ありきたり)の独楽、凧、太鼓、そんな物に(あい)た御屋敷の子は珍物好(めづらしいものずき)の心から烈しい異国趣味に陥つて何でも上等舶来と云はれなければ喜ばなかつた。長崎屋の筋向(すじむかひ)玩具屋(おもちやや)の、私はいゝ花客(おとくい)だつた。洋刀(サアベル)喇叭(ラッパ)、鉄砲を肩に、腰にした坊ちやんの勇しい姿を坂下の子等は()んなに羨しく(ねたま)しく見送つたらう。何時だつたか父母が旅中御祖母様(おばあさま)と御留守居の御褒美に西洋木馬を買つて頂いたのも其の家であつた。白斑の大きな木馬の鞍の上に小さい主人が、両足を蹈張(ふんば)つて跨がると、白い房々した(たてがみ)を動かして馬は前後に揺れるのだつた。

『マア。玩具にまで何両と云ふ品が出来るのですかねえ、今時の子供は幸福(しあはせ)ですねえ。』

 と御祖母様はニコニコして見てゐらつしやつた。玩具屋の側を次第に下つて行くと坂の下には絵双紙屋が在つた。此の店には千代紙を買ひに行く、私の姉のお河童(かつぱ)さんの姿も屡々見えた。芳年(よしとし)の三十六怪選の勇しくも物恐ろしい妖怪変化の絵や、三枚続の武者絵に、乳母や女中に手を曳かれた坊ちやんの足は幾度もその前で動かなくなつた。就中(なかにも)忘れられないのは古い錦絵で、誰の筆か滝夜叉姫の一枚絵。私が誕生日の祝物(いはひもの)に何が(ほし)いと聞かれて、(あれ)と答へたので散歩がてらに父に連れられて行つた時『之は売物では御座いません』と六ケしい顔の亭主が云つてから亭主を憎いと思ふよりも一層姫の美しい姿絵が懐しくなつた。其他其処らには呉服屋、陶器屋(せとものや)、葉茶屋、なぞあつたやうだが私はそれらに付て懐しい何の思ひ出も無い。坂下も(また)絵双紙屋の側の熊野神社。それと向合つた柳の木に軒燈の隠れた小さな煙草屋の外は矢張り記憶から消えて了つたけれども其の小さな煙草屋の玻璃棚が並べられて、僅に板敷を残した店先に、私の幼かつた姿が瞭然(はつきり)と佇むのである。

 

 私の生れた黒門の内は、家も庭もしめじめと暗かつた。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒い樹木の茂りが家を隠して居た。可成(かなり)広い庭も、大木が造る影に全体(すつかり)苔蒸して日中も夜のやうだつた。それでも流石(さすが)に春は植込の花の木が思ひがけない庭の隅々にも咲いたけれど、やがて五月雨の頃にでもならうものなら絶間もなく降る雨はしとしと苔に泌みて一日や二日からりと晴ても乾く事ではなく、だゝつ広い家の踏めばぶよぶよと海のやうに思はれる室々の畳の上に蛞蝓(なめくじ)の落て()ふやうなことも多かつた。物心つく頃から私は此の陰気な家を嫌つた。そして時たま乳母の脊に負はれて黒門を出る機会(をり)があると坂下のカラカラに乾き切つた往来で、独楽廻しやメンコをする町の子を見て、自分も乳母の手を離れて、あんなに多勢の友達と一緒に遊び度いと思ふ心を強くするのみであつた。乳母は、

『町つ子とお遊びになつてはいけません』

 と痩せた蒼白い顔を殊更真面目にして(いまし)めた。何故といふ事は無しに私は町つ子と遊んでは不可(いけ)ないものだと思つて居る程幼なかつた。其頃私は毎晩母の(ふところ)に抱かれて、竹取の翁が見付た小さいお姫様や、継母にいぢめられる可哀さうな落窪のお話を他人事(ひとごと)とは思はずに身にしみて、時には涙を(なが)して聞きながら何時かしら寝入るのであつたが或晩から私は乳母に添寝されるやうになつた。

『もう直き赤さんがお生れになると、新様はお兄いさんにお(なり)になるのですから、お母様に甘つたれてゐらつしやつていけません。』

 と云ひ聞かされて、私は小さい赤坊(あかんぼ)の兄になるのを嬉しくは思つたが母の懐に別れなければならない事の悲さに涙ぐまれて冷い乳母の胸に顔を押当てた。

 間もなく母は寝所を出ない身となつた。家内の者は何かしら気忙(きぜわ)しさうに、物言ひも声を潜めるやうになり相手をして呉れる事もなくなつた。私の乳母さへも年役に、若い女のともすれば騒ぎたがるのを叱りながら、そわそわ立働いて居て私をば顧る事が少くなつた。出産の準備(したく)に混乱した家の中で私は孤独(ひとり)つくづく淋しいと思つた。お祖母様のお気に(いり)で夜も廊下続きの隠居所に寝る姉も、其頃習ひ初めた琴を弾く事さへ止められて、一人で人形を抱へては、遊び相手を(ほし)がつて常は疳癪を恐れて避けて居る弟をもお祖母様の傍に呼んで飯事(まゝごと)の旦那様にするのであつたが、それも直きと私の方で(あき)が来てふとしたことから腕白が出ては姉を泣かすのでお祖母様や乳母に叱られる種となつた。腕白盛(いたづらざかり)の坊ちやんは『静にしてゐらつしやい』と云はれて人気の少ない、室の片隅に手遊品を並べても少時(しばらく)経つと厭になつて忙しい人々に相手を求めるので『ちつとお庭にでも出てお遊びなさい』と家の内から追ひ立てられる。

 黒土の上に透間も無い苔は木立の間に形ばかり付いて居た小道をも埋めて踏めばじとじとと音も無く水の湧出る小暗い庭は、話に聞いた種々の恐ろしい物の住家のやうに思はれ、自由に遊び廻る気にはなれないので(たるき)近い処で(つま)らなくすくむで居た。けれども次第に馴れて来ると未だ見ぬ庭の木立の奥が何となく心を引くので、恐々(こわごわ)ながらも幾年か箒目も入らずに朽敗した落葉を踏んでは、未知の国土を探究する冒険家のやうに、不安と好奇心で日に日に少しづゝ繁つた枝を(くゞ)り々々奥深く進入るやうになつた。手入をしない古庭は植物の朽た匂ひが充て居た。数知れぬ羽虫は到る所に影のやうに飛で居た。森閑とした木下闇(こしたやみ)に枯葉を踏む自分の足音が幾度か耳を(おびやか)した。蜘蛛の巣に顔を包まれては土蜘蛛の精を思ひ出して逃げかへつた。(しか)()うして踏馴た道を知らず知らずに造つて私は遂に我家の庭の奥底を究めたのであつた。暗緑のしめつぽい木立を抜けると、カラリと晴た日を充分(いつぱい)に受けて、其処はまばらに結つた竹垣も何時か倒れては居たが垣の外は打立てたやうな崖で、眼の下には坂下の町の屋根が遠く迄昼の光の中に連つて居る。その果てに品川の海が真蒼(まつさを)に輝いて居た。今迄思ひもかけなかつた眼新しい、広い景色を自分一人の力で見出した嬉しさに私は雨さへ降らなければ毎日一度は必ず崖の上に小さい姿を現はすやうになつた。そして(なれ)るに従つて日一日と何かしら珍らしい物を発見した。熊野神社の大鳥居も見えた。三吉座(みよしざ)といふ小芝居の白壁に幾筋かの贔負幟(ひいきのぼり)が風に吹かれて居るのを、一様に黒い屋根の間に見出した時は殊に嬉しかつた。芝居好の車夫の藤次郎が父の役所の休日には私の守をしながら、

乳母(ばあや)には秘密(ないしよ)ですぜ。』

 と云つては肩車に乗せて其の三吉座の立見に連れて行く。父母と共に行く歌舞伎座や新富座の緋毛氈の美しい桟敷とは、打つて変つて薄暗い鉄格子の中から人の頭を越して覗いたケレン沢山(だくさん)の小芝居の舞台は子供の目には(かへ)つて不思議に面白かつた。殊に大向ふと云はず土間も桟敷も一斉に贔負々々(ひいきひいき)の名を呼び立て、()しか敵役(かたきやく)でも出やうものなら熱誠を籠めた怒罵の声が場内に充満(いつぱい)になる不秩序な賑やかさが心も躍るやうに思はせたのに違ひない。私は藤次郎の云ふまゝに乳母には隠れて度々連れて行つて貰つたものだつた。静寂な木立を後にして崖の上に立て居ると芝居の内部の鳴物の音が瞭然(はつきり)と耳に響くやうに思はれて()の坂下の賑はひの中に飛で行き度い程一人ぼつちの自分がうら淋しく思はれた。

 

 それは確に早春の事であつた。日毎に一人で訪づれる崖には一夜の(うち)に著しく延びて緑を増す雑草の中に見る限りいたいた草の花が咲いて居た。其草の中にスクスクと抜出た虎杖(すかんぽ)を取る為に崖下に打続く裏長屋の子供等が、嶮しい崖の草の中をがさがさあさつて居た。小汚ない服装(なり)をした鼻垂しではあつたが犬のやうに軽快な身のこなしで、群を作つて放肆(ほしひまゝ)に遊び廻つて居るのが遊相手の無い私には()んなに懐しくも羨しく思はれたらう。足の下を覗くやうに崖端へ出て、自分が一人ぼつちで立つて居る事を子供等に知つて貰ひ度いと思つたが此方から声を(かけ)る程の勇気もなかつた。全く違つた国を見るやうに一挙一動の掛放れた彼等と、自分も同じやうに振舞ひ度いと思つて手の届く所に生へて居る虎杖(すかんぽ)を力充分(いつぱい)やつと抜いて、子供達のするやうに青い柔い茎を噛んでも見た。しくしくと冷め度い(すつぱ)い草の汁が虫歯の虚孔(うろ)に泌み入つた。

 斯うした果敢(はか)ない子供心の遣瀬(やるせ)なさを感じながら日毎同じ場所に立つ御屋敷の子の白いエプロンを掛けた小さい姿を、やがて長屋の子等が崖下から認めた迄には、如何(どう)にかして、自分の存在を彼等に知らせやうとする瓦を積んでは崩すやうな取り止めも無い謀略(はかりごと)が幼い胸中に幾度か徒事(あだ)(めぐ)らされたのであつたが遂々(とうとう)何の手段(てだて)をも自分からする事なく或日崖下の子の一人が私を見付てくれたが偶然上を見た子が意外な場所に佇む私を見るとさも吃驚(びつくり)したやうな顔をして仲間の者にひそひそ私語(さゝや)く気配だつた。かさかさ草の中を潜つて居た。子供の顔は人馴ぬ獣のやうに疑深い眼付で一様に私を仰ぎ見た。

 其の翌日。もう長屋の子と友達になつたやうな気がして、何日(いつ)もよりも勇んで私は崖に立つて侍って居た。やがてがやがや列を作つてやつて来た子供達も私の姿を見て怪しまなかつた。

『坊ちやん、お遊びな。』

 と軽く節を付けて昨日私を見付けた子が馴々しく呼んだ。私は何と答へていゝのか解らなかつた。『町つ子と遊んではいけません。』と云つた乳母の言葉を想起して何か大きな悪い事をしてしまつたやうに心を痛めた。それでも、

『坊ちやんお出でよ。』

 と気軽に呼ぶ子供に誘はれて、つい一言二言(ひとことふたこと)は口返へしをするやうになつたが悪戯子(いたづらつこ)も、流石(さすが)に高い崖を(よぢ)登つて来る事は出来ないので大きな声で呼び交すより詮方(しかた)が無かつた。

 此様(こん)な日が続いた或日、崖上の私を初めて発見した魚屋の金ちやんは表門から町へ出て来いと云ふ智恵を私に与へた。暫時は不安心に思ひ迷つたが遊び度い一心から産婆や看護婦にまじつて乳母も女中達も産所に足を運んで居る最中を私の小さな姿は黒門を忍び出たのである。(かつ)て一度も人手を離れて家の外を歩いた事の無かつた私は、烈しい車馬の往来が(あぶな)つかしくて、折角出た門の柱に噛り付いて不可思議な世間の活動を臆病な眼で見て居るのであつた。

 (うらゝか)な春の昼は、勢よく坂を馳下(はせくだ)つて行く(くるま)の輪があげる軽塵にも知られた。目まぐるしい坂下の町を(しばらく)眺めて居ると天から地から満ち溢れた日光の中を影法師のやうな一隊が横町から現はれて坂を上つて来た。

『坊ちやんお遊びな。』

 と遠くから声を揃へて迎へに来た町つ子を近々と見た時私は思はず門内に馳込(かけこ)んで了つた。汚ならしい着物の、埃まみれの顔の、眼ばかり光る鼻垂(はなたら)しは手々(てんで)に棒切を持つて居た。

『坊ちやん、お出でな皆で遊ぶからよ。』

 中では一番年増(としかさ)の金ちやんは尻切草履を引ずつて門柱に手を掛けながら扉の(かげ)にかくれて恐々(こわごわ)覗いて居る私を誘つた。坊ちやんの小さい姿は町つ子の群に取巻かれて坂を下つた。

 

 間も無く私は兄になつた。其の当座の混雑は、私をして自由に町つ子となる機会を与へた。或は邪魔者の居ない方がかゝる折には結句いゝと思つて家の者は知つても黙つて居たのかも知れない。

 比較的に気の弱いお屋敷の子は荒々しい町つ子に混つて(ひけ)を取らないで遊ぶ事は出来なかつたが彼らは物珍しがつて私をばちやほやする。私は又何をしても(かな)ひそうもない喧嘩早い子供達を恐いとは思ひつゝも窮屈な陰気な家に居るよりも誰に咎められる事も無く気儘に土の上を馳廻るのが面白くて、遊びに疲れた別れ際に『明日もきつとお出で』と云はれるまゝに日毎に其の群に加つた。

 私達の遊び場となつたのは熊野神社の境内と柳屋と云ふ烟草屋(たばこや)の店先とであつた。柳屋の店には何時でも若い娘が坐つて居た。何と云ふ名だつたか忘れてしまつたけれども色白の肥つた優しい女だつた。私は柳屋の娘と云ふと黄縞に黒襟で赤い帯を(ねん)が年中して居たやうに印象されて居る。弟の(せい)ちやんは私が一番の仲よしで町ツ子の群の中では小ざつぱりした服装をして居た。そして私と清ちやんが年も背丈も誰よりも小さかつた。柳屋の姉弟にはお母さんが無く病身のお父さんが、何時でも奥で咳をして居た。店先には夏と限らずに椽台が出してあつたもので、私達ばかりか近所の店の息子や小僧が面白づくの烟草をふかしながら騒いで居た。

彼奴等(あいつら)は清ちやんの姉さんを張りに来てやがるんだよ』

 と云ふ金ちやんの言葉の意味は解らぬながらも私は娘の為に心を(わづら)はした。けれども果敢(はか)ない私の思ひ出の中心となるのは此の柳屋の娘ではなかつた。

 

 都もやがて高台の花は風も無いのに散尽す頃であつた。或日私は何時もの通り黒門を出て坂を小走りに馳下(かけくだ)つた。其日に限つて私より先には誰も出て来て居ないので、私は暫く待つ積りで柳屋の椽台に腰かけた。店番の人も見えなかつたが程も無く清ちやんが奥から馳出して来る。続いて清ちやんの姉さんも出て来て、

『オヤ、坊ちやん一人ツきり』

 と云ひながら私の傍に坐つた。派出な着物を着て桜の花簪をさして居た。私の頬にすれずれの顔には白粉が濃かつた。

『今日は皆遊びに来ないのかい』

『エヽ、町内の御花見で皆で向島に行くの。だから坊ちやんは又明日遊びにお出で』

 娘は(さと)すやうに私の顔を覗き込んだ。

 間もなく『今日は』と(あだ)つぽい声を先にして横町から町内の人達だらう、若衆(わかいしゆ)や娘がまじつて金ちやんも鉄公も千吉も今日は泥の付かない着物を着て出て来た。三味線を担いだ男も居た。

『アラ、今丁度出掛けやうと思つて居た処なの。如何(どう)もわざわざ誘つて頂いて済みません』

 清ちやんの姉さんはいそいそと立上つた。私は人々に顔を見られるのが気まりが悪くてまじまじして居た。

『どうも扮装(おつくり)に手間がとれまして困ります。サア出掛けやうぢやあがあせんか』

 と赤い手拭を四角に畳んで禿頭に載せたぢゞいが瓢軽(ひようきん)な声を出したので皆一度に吹出した。

『厭な小父(をじ)さんねえ』

 と柳屋の娘は袂を振上て一寸睨んだ。

 どやどやと歩き出す人々にまじつた娘は『明日お出で』と云つて私を振向いた。

『坊ちやんは行かないのかい、一緒にお出でよ』

 と金ちやんが叫んだけれども誰も何とも云つて(くれ)る人は無かつた。私は埃を上げてさんざめかして行く後姿を淋しく見送つて居ると、人々の一番後に残つて、柳屋の娘と何か私語(さゝや)き合つて居た、先刻(さつき)『今日は』と真先に立つて来た娘がしげしげと私を振かへつて見て居たが小戻(こもどり)して不意に私を抱き上げて何も云はないで頬ずりした。驚いて見上る私を蓮葉に眼で笑つて其のまゝ清ちやんの姉さんと手を引合つて人々の(あと)を追つて行つた。それが金ちやんの姉のお鶴だと云ふ事は後で知つたが紫と白の派出な手綱染の着物の裾を端折(はしよ)ツて紅の長襦袢がすらりとした長い脛に絡んで居た。銀杏返(いてふがへし)に大きな桜の花簪は清ちやんの姉さんとお揃ひで襟には色染の桜の手拭を結んで居た姿は深く眼に残つた。私は一人悄然と町内のお花見の連中が春の町を(ねつ)て行く後姿が、町角に消える迄立尽したがそれも見えなくなると俄に取残された悲しさに胸が迫つて来て思はず涙が浮んで来た。

 多数者の中で人々と共に喜び共に狂ふ事も出来ない淋しい孤独の生活を送る私の一生は御屋敷の子と生れた事実から切離す事の出来無い運命であつたのだ。小さな坊ちやんの姿は一人花見連とは反対に坂を登つて、やがて恨めしい黒門の中に吸はれた。

 

 (めづら)しい玩具も五日十日とたつ(うち)には投出されたまゝ顧られなくなるやうに最初の中こそ『坊ちやん坊ちやん』と(はや)し立てた子供も、やがて烟草屋の店先の柳の葉も延び切つた頃には全く私に飽て了つて坊ちやんは最早大将としての尊敬は失はれて金ちやんの手下の一人に過ぎなかつた。

『何んでえ弱虫』

 斯う云つて肱を張つて突かゝつて来る鼻垂しに逆らふ丈の力も味方も無かつた。けれども矢張毎日のやうに遊び仲間を求めて町へ出たのは小さい妹の為に家中の愛を奪はれ、乳母をさへも奪はれたが為に家を嫌つたよりもお鶴と云つた魚屋の娘に逢ひ度いためであつた。

 子供の眼には自分より年上の人、殊に女の年齢は全く測る事が出来ない。お鶴も柳屋の娘も私には唯娘であつたとばかりで其年頃を明確(はつきり)と云ふ事は思ひも及ばない事に属して居る。お鶴は烟草屋の柳の陰の椽台の女主人公であつた。色の蒼白い背丈の割合に顔の小さい女で私は今、そのすらりとした後姿を見せて蓮葉に日和下駄を鳴らして行くお鶴と、物を云はない時でも底深く漂ふ水のやうな涼しい眼を持つたお鶴とを殊更瞭然と想ひ出す事が出来る。

 きらきらと暑い初夏の日がだらだら坂の上から真直に流れた往来は下駄の歯がよく冴えて響く。日に幾度となく撤水車が町角から現はれては、商家の軒下迄も濡して行くが、見る間に又乾き切つて白埃になつて了ふ。酒屋の軒には燕の子が嘴を揃へて巣に啼いた。氷屋が砂漠の緑地のやうに僅に涼しく眺められる。一日一日と道行く人の着物が白くなつて行くと柳屋の椽台は愈々賑やかになつた。派手な浴衣のお鶴も、街に影の落る頃きつと横町から姿を見せるのであつた。『今日は』と遠くから声を掛けて若衆の中でも構はずに割込んで腰を下した。

『坊ちやん。此処にゐらつしやい』

 とお鶴は何時も私をば其膝に抱いて後から頬ずりしながら話の中心になつて居た。私はもう汗みづくになつて熊野神社の鳥居を廻つて鬼ごつこをする金ちやんに従つて行かうとはしないで、よくは解らぬながらも椽台の話を聞いて居た。勿論話は近所の噂で符徴まじりのものだつた。『お安くないね』『御馳走さま』と云ふやうな言葉を小耳に挟んで帰つて、乳母に叱られた事もあつた。若い娘の軽い口から三吉座(みよしざ)の評判も屡々出た。お鶴は口癖のやうに、

『死んだと思つたお富たあ……お釈迦様でも気がつくめえ』

 と一寸澄ましてやる声色は『ヨウヨウ梅ちやんそつくり』と云ふ若者達の囃す中で聞かされて私も時たま人の居ない庭の中などでは小声ながら同じ文句を繰返した。尾上梅之助と云ふ若い役者が三吉座を覗く場末の町の娘子(むすめつこ)をしてどんなにか胸を躍らせたものであつたらう。藤次郎の背に乗つた私は、『色男』『女殺し』と云ふ若者のわめきにまじる『いゝわねえ』『奇麗ねえ』と、感激に息も出来ない娘達の吐息のやうな私語(さゝやき)を聞き洩さなかつた。私も何時(いつ)も奇麗な男になる梅之助が好きだつたけれど余りにお鶴がほめる時は微かに反感を(いだ)いた。

平生(ふだん)着馴た振袖から、髷も島田に由井ケ浜、女に化けて美人局(つゝもたせ)………。ねえ坊ちやん、梅之助が一番でせう』

 と云つてお鶴は例のやうに頬を付ける。私は人前の気恥かしさに、

『梅之助なんか厭だい』

 と云ふのだつた。実際連中は、お鶴が何時も私を抱いて居るので面白づくによく戯弄(からか)つた。

『お鶴さんは坊ちやんに惚れてるよ』

 私は何かしら真赤になつてお鶴の膝を抜出やうとするとお鶴は故意(わざ)と力を入れて抱締める。

左様(さう)ですねえ。私の旦那様だもの。皆焼いてるんだよ』

『嘘だい嘘だい』

 足をばたばたやりながら擦付ける頬を打たうとする、その手を取つてお鶴は『チユツ』と音をさせて唇で吸ふ。

『アヽア、私は坊ちやんに嫌はれて了つた』

 さも落胆(がつかり)したやうに云ふのであつた。

 やがて今日も坂上にのみ残つて薄明(うすらあかり)も坂下から次第に暮初(くれそ)めると誰からともなく口々に、

『夕焼小焼明日(あした)天気になあれ』

 と子供等は歌ひながら彼処此処(かしここゝ)の横町や露路に遊び疲れた足を物の匂ひの漂ふ家路へと夕餉(ゆふげ)の為めに散つて行く。

『お土産(みやげ)三つで気が済んだ』

 と背中をどやして逃出す素早い奴を追掛けてお鶴も『明日又お出で』と云つて、別れ際に今日の終りの頬擦をして横町へ曲つて行く。

 私は何時も父母の前にキチンと坐つて、食膳に着くのにさへ掟のある、堅苦しい家に帰るのが何だか心細く、遠ざかり行く子供の声を果敢(はか)ない別れのやうに聞きながら一人で坂を上つて黒門を這入つた。夕暮は遠い空の雲にさへ取止(とりとめ)もない(おもひ)を走らせてしつとりと心もうちしめり訳もなく涙ぐまれる悲しい癖をば幼い時から私は持つて居た。

 玄関を這入ると古びた家の匂ひがプンと鼻を衝く。駄々広い家の真中に掛かる燈火の光の薄らぐ隅々には壁虫が死絶えるやうな低い声で啼く。家内を歩く足音が水底のやうに冷めたく心の中へも響いて聞える。世間では最も楽しい時と聞く晩餐時さへ(いか)めしい父に習つて行儀よく笑声を聞くこともなく終了(おしまひ)になつて了ふ、音楽の無い家の佗しさは又私の心であつた。お祖母様や乳母や誰彼に聞かされたお化の話は総て我家にあつた出来事ではないかと夜は何時でも微かな物音にさえ(おび)え易かつた。自然と私は朝を待つた。町つ子の気儘な生活を羨んだ。

 

 カラリと晴れた青空の下に物皆が動いて居る町へ出ると蘇生(よみがへ)つたやうに胸が躍つて全身の血が勢よく廻る。早くも街には夏が(みなぎ)つて白く輝く夏帽子が坂の上、下へと汗を拭き拭き消えて行く、殊更暑い日中を(えら)んで菅笠を被つた金魚屋が『目高、金魚』と焼付くやうな人の耳に、涼しい水音を偲ばせる売声を競ふ後からだらりと白く乾いた舌を垂して犬がさも肉体を持余したやうについて行く。夏が来た夏が来た。其の夏の熊野神社の祭礼も忘れられない思ひ出の一頁を占めねばならぬ。

 町内の表通りの家の軒には何処も揃ひの提灯を出したが屋根と屋根との打続く坂下は奇麗に花々しく見えるのに、塀と塀とは続いても隣の家の物音さへ聞えない坂上は大きな屋敷門に提灯の配合(うつり)が悪く、反つて墓場のやうに淋しかつた。そればかりか私の家なぞは祭と云つても別段何をするのでもないのに引替て商家では稼業を休んでまでも店先に金屏風を立廻し、緋毛氈を敷き、曲りくねつた遠州流の生花を飾つて客を待つ。娘達も平生とは見違へる様に奇麗に着飾つて何かにつけてはれがましく仰山な声を上げる。若衆子供は夫々揃の浴衣で威勢よく馳廻る。ワツシヨウ、ワツシヨウ、ワツシヨウと神輿(みこし)を担ぐ声はたゞさへ汗ばんだ町中の大路小路に暑苦しく聞える。斯う云ふ時に日頃町内から憎まれて居たり、祝儀の心附が少なかつたりした家は思はぬ返報(しかへし)をされるものだつた。坂上の屋敷へも鉄棒でガチヤン、ガチヤンと地面を打つて脅す奴を真先に何れも酒気を吐いてワツシヨイ、ワツシヨイと神輿を担ぎ込む。それをば、もう来る頃と待て居て若干(いくらか)祝儀を出すと又ワツシヨウ、ワツシヨウと温和(おとなし)く引上て行くが何時(いつ)の祭の時だつたかお隣の大竹さんでは心付(こゝろづけ)が少ないと云ふので神輿の先棒で板塀を滅茶々々に衝破られた事があつたのを、我家も同じ目に逢はされはしないかと限りなき恐怖を以て私は玄関の障子を細目にあけながら乳母の袖の下に隠れて恐々(こわごわ)神輿が黒門の外の明るい町へと引上て行くのを覗いたものだつた。子供連も手々(てんで)に樽神輿を担ぎ廻つて喧嘩の花を咲かせる。(そろひ)の浴衣に黄色く染めた麻糸に鈴を付けた(たすき)をして、真新しい手拭を向ふ鉢巻にし、白足袋の足にまでも汗を流してヤツチヨウ、ヤツチヨウと馳出すと背中の鈴がチヤラチヤラ

鳴つた。女中に手を曳れて人込(ひとごみ)におどおどしながら町の片端を平生(ふだん)服装(みなり)で賑はひを見物するお屋敷の子は、金ちやんや清ちやんの汗みづくになつて飛廻る姿をどんなに羨しくも悲しくも見送つたらう。

 やがて祭が終つても柳屋の店先はお祭の話ばかりだつた。向ふ横町の樽神輿と衝突した子供達の功名談を(ねたま)しい程勇ましいと思つた。若衆の間に評判される踊屋台にお鶴が出たと云ふ事は限りなく美しいものに憧るゝ私の心を喜ばせたと共に自分がそれを見なかつた口惜しさもいかばかり深いものであつたらう。けれども私は直ぐさも我が羨望の時だつた絵双紙屋の店先の滝夜叉姫の一枚絵をお鶴と結び付てしまつた。お鶴の膝に抱れながら私は聞いた。

『お鶴さんは踊屋台に出て何をしたの』

(なん)だつたらう。(あて)て御覧』

『滝夜叉かい』

『エヽ何故』

『だつて滝夜叉が一番いゝんだもの』

 お鶴は嬉しさうに笑つて又頬擦をするのだつた。真実(ほんと)にお鶴が滝夜叉姫になつたのか如何(どう)か。私の云ふまゝに、良い加減に左様だと答へたものなのか私は知らないが、古い錦絵の滝夜叉姫と踊屋台に立つたお鶴とは全く同一(おなじ)だつたやうに思はれて、踊屋台を見なかつたにも拘はらず二十年後の今もなほ私はまざまざと美しい絵にしてそれを幻に見る事が出来る。

 

 土用の(うち)は海近い南の浜辺で暮した。一時として静まらぬ海の不思議が既に子供心を奪つて了つたので私は物欲い心持ちを知らずに過ぎた。けれども海岸の防風林にも無情(つれな)い風が日に日に吹きつのり別荘町も淋しくなる八月の末には都ヘ帰らなければならなかつた。帰つた当座は住馴た我家も何だか物珍しく思はれたが夏の緑に常よりも一層暗くなつた室の中に大人のやうにぐつたりと昼寝する辛棒も出来ないので私は又久し振で町をおとづれた。木蔭の少ない町中(まちなか)は瓦屋根にキラキラと残暑が光つて亀裂の出来た往来は通魔(とほりま)のした後のやうに時々一人として行人の影を止めないで森閑として了ふ。柳屋の店先に立つた私を迎へたのは、店棚の陰に白い団扇を手にして坐つて居た清ちやんの姉さん一人だつた。

『マア暫振(しばらくぶ)りねえ。何処へ行つて居らしつたの。其様(そんな)に日に焼けて』

 娘はニコニコして私を店に腰掛けさせ団扇で煽ぎながら話掛けた。

『誰も居ないのかい。清ちやんも』

『エヽ。今しがた皆で蝉を取るつて崖へ行つたやうですよ』

『誰も来ないのかなあ』

 (つま)らなさうに私は繰返して云つた。

『誰もつて誰さ。アヽ解つた。坊ちやんの仲よしのお鶴さんでせう。坊ちやんはお鶴さんでなくつちやいけないんだねえ。私ともちつと仲よしにおなりな』

 娘は面白さうに笑つた。

 夕食の(あと)家内の者は団扇を手に椽端で涼んで居る中、こつそりと私は未だ明い町へ抜出した。早くも燈火のついた柳屋の店先にはもう二三人若者が集つて居た。子供達は私を珍らしがつて種々と海辺の話を聞きたがつたがそれにも飽ると餓鬼大将の金ちやんを真先に清ちやん迄も口を揃へて、

『お尻の用心御用心』

 とお互同志で着物の裾を(めく)り合つてキヤツキヤツと悪戯(わるふざけ)を始めたが了ひには止め度がなくなつてお使にやられる通りすがりの見も知らぬ子のお尻を捲つてピチヤピチヤと平手で叩いて泣かせる、若者は面白づくに()しかける。私は店先に腰かけて黙つて見て居たが小さな女の子までも同じ憂目に逢つてワアツと泣いて行くのを可哀さうに思つた。

 間もなく町は灯になつて見る間にあはたゞしく日が沈めば何処からともなく暮初(くれそめ)て坂の上のほんのり片明りした空に星がチロリチロリと現はれて烟草屋の柳に涼しい風の渡る夏の夜となる。

『お尻の用心御用心』

 と調子付いた子供の声は益々高くなつてゆく。

『オイオイ彼処(あすこ)へ来たのはお鶴ちやんだらう』

 斯う云つた若者の一人は清ちやんの姉さんが止めるのも聞かずに、面白がる仲間にやれやれと云はれて子供達に命令(いひつ)けた。

『誰でもいゝからお鶴ちやんの着物を捲つたら氷水をおごるぜ』

 流石に金ちやんは姉の事とて承知しなかつたが車屋の鉄公はゲラゲラ笑ひながら電信柱の後に隠れる。私は息を殺してお鶴の為に胸を波打たせた。夜目に際立つて白い浴衣のすらりとした姿をチラチラと店灯に浮上らせてお鶴は何時(いつ)もの通り蓮葉に日和下駄をカラコロと鳴してやつて来る。やり過して地びたを這つて後へ廻つた鉄公の手がお鶴の裾にかゝつたかと思ふと紅が(ひるがへ)つて高く捲れた着物から真白な脛が見えた。同時に振返つたお鶴は鉄公の頭をピシヤピシヤと平手でひつぱたいてクルリと(きびす)をかへすと元来た方へカラコロとやがて横町の闇に消えてしまつた。気を呑まれた若者は白けた顔を見合せてをかしくもなく笑つた。私は強い味方を持てる気強さと滝夜叉のやうに凄い程美しい我がお鶴を堪らなく嬉しく懐しく思つたのであつたが待設けた人には逢はれぬ本意(ほい)なさに未だ崩れない集りを抜けて帰つた。

 暗闇の多い坂上の屋敷町は、私をして若い女や子供が一人で夜歩きすると何処からか出て来て生血を吸ふと云ふ野衾(のぶすま)の話を想起させた。その話をして聞かせた乳母の里でも村一番の美しい娘が人に逢ひ度いとて闇夜に家を抜出して鎮守の森で待つて居る内に野衾に血を吸れて冷めたくなつて居たさうだ。氷を踏むやうな自分の足音が冷え初めた夜の町に冴え渡るのを心細く聞くにつけ野衾が今にも出やしないかとビクビクしながら、一人で夜歩きをした事をつくづく悔いたのであつた。覆ひかゝつた葉柳に蒼澄んだ瓦斯燈(がすとう)がうすぼんやりと照して居る我家の黒門は、固くしまつて扉に打つた鉄鋲(てつびやう)が魔物のやうに睨んで居た。私は重い潜戸(くゞりど)を如何して這入る事が出来たのだつたらう。明い玄関の格子戸から家の内へ馳込むと中の間から飛んで出て来た乳母は(しつか)りと私を抱き締めた。

『新様貴方はマア何処に今頃迄遊んでゐらつしやつたのです』

 あれ程云つて置くのに何故町へ出るのかと幾度か繰返して云ひ聞かせた後、

『もう二度と町つ子なんかとお遊びになるんぢやありません乳母(ばあや)がお母様に叱られ升』

 と(わた)しの涙を誘ふやうに掻口説(かきくど)くので、何時も私が云ふ事をきかないと『もう乳母(ばあや)は里へ帰つてしまひます』と云ふのが真実(ほんと)になりはしないかと思はれて知らず知らずホロリとして来たが、

『新次や新次や』

 と奥で呼んでゐらつしやるお母様のお声の方に私は馳出して行つた。

 

 御屋敷の子と生れた悲哀(かなしさ)は泌々と刻まれた。

『卑しい町の子と遊ぶと、何時の間にか自分も卑い者になつて了つてお父様のやうな偉い人にはなれません。これからはお母様の云ふ事を聞いてお家でお遊びなさい。それでも町の子と遊び度いなら町の子にしてしまひ升』

 と云ふ母の(いましめ)(おごそ)かに聞かされてから私は又掟の中に囚はれて居なければならなかつた。(しばらく)は宅中に玩具箱をひつくり返して、数を尽して並べても『真田三代記』や『甲越軍談』の絵本を幼い手ぶりで彩つても、陰鬱な家の空気は遊び度い盛りの坊ちやんを長く捕へては居られない。私は又雑草をわけ木立の中を犬のやうに潜つて崖端へ出て見はるかす町々の賑ひに果敢なく憧憬れる子となつた。

『何故御屋敷の坊ちやんは町つ子と遊んではいけないのだらう』

 斯う自分に尋ねて見たが如何しても解らなかつた。後年、此の時分の、解き難い謎を抱いて青空を流れる雲の行衛を見守つた遣瀬(やるせ)ない心持が、水のやうに湧き出して私は物の哀れを知初(しりそ)めると云ふ少年の頃に手飼の金糸雀(カナリヤ)の籠の戸をあけて折柄の秋の底迄も藍を湛えた青空に二羽の小鳥を放してやつた事がある。

 

 崖に射す日光は日に日に弱つて油を(こが)すやうだつた蝉の音も次第に消えて行くと夏もやがて暮初めて草土手を吹く風はいとゞ堪へ難く悲哀(かなしみ)を誘ふ。烈しかつた丈に逝く夏は肉体の疲れからも(かへ)つて身に泌みて惜まれる。木の葉も凋落する寂蓼の秋が迫るに連れて癒し難き傷手(いたで)に冷え冷えと風の泌むやうに何とも解らないながらも、幼心に行きて帰らぬものゝうら悲しさを私は泌々と知つたやうに思はれる。斯うして秋を迎へた私は果敢なくお鶴と別れなければならなかつた。

 或日私は崖下の子供達の声に誘はれて母の誡を破つて柳屋の店先の椽台に母よりも懐しかつたお鶴の膝に抱かれた。

『何故此頃はちつとも来なかつたの。私が嫌になつたんだよ憎らしいねえ。』

 と柔かい頬を寄せ、

『私もう坊ちやんに嫌はれて(つま)らないから芸者の子になつて了ふんだ。』

 と云つたお鶴の言葉はどんなに私を驚かしたらう。遠い下町の、華やかな淫らな街に売られて行くのを出世のやうに思つて面白さうに嬉しさうにお鶴の話すのを私はどんなに悲しく聞いたらう。然しそれも今は忘れやうとしても忘れる事の出来ない懐しい思ひ出となつて了つた。

 お鶴は既に、明日にも、買はれて行く可き家に連れて行かれる身であつた。其処は鉄道馬車に乗つて三時間もかゝつて行く隅田川の辺りで一町内全体(すつかり)芸者屋で、芸者の子になると美味物(おいしいもの)が食べられて、奇麗な着物は着たいほうだい、踊を踊つたり、三味線を弾いたりして毎日賑やかに遊んで居られるのだとお鶴は云つた。

『私もいゝ芸者になるから坊ちやんも早く偉い人になつて沢山(どつさり)お金を持つて私を買ひに来ておくれ。』

 お鶴は明日の日の幸福を(かた)く信じて疑はない顔をして云つた。平生よりも一層はしやいで苦の無い声でよく笑つた。

『今度遊びに行つていゝかい。』

 と私が云つたのを、

『子供の癖に芸者が買へるかい。』

 と囃し立てた子供連にまじつてお鶴のはれた声も笑つた。そして何時もよりも早く帰へると云ひ出して別れ際に、

『私を忘れちや厭だよ、きつと偉い人になつて遊びに来ておくれ。』

 と幾度か頬擦をした結局(あげく)野衾(のぶすま)のやうに私の頬を強く強く吸つた。『あばよ』

 と云つて蓮葉にカラコロと歩いて行く姿が瞭然(はつきり)と私に残つた。

 悄然と黒門の内に帰つた私は二度とお鶴に逢ふ時が無かつた。忘れる事の出来ないお鶴に就いて私の追想は余り屡々繰返へされたので、もう幼かつた当時の私の心持を其の儘に記す事は出来ないであらう。私は長じた後の日に彩つた記憶だと知りながら、お鶴に別れた夕暮の私を懐しいものとして忘れない。

『お鶴は行つて了ふのだ。』

 と思ふと眼が霞んで何も見えなくなつて、今迄にお鶴が私語(さゝや)いた断々(きれぎれ)の言葉や、未だ残つて居る頬擦や接吻(くちづけ)(あたゝか)さ柔かさも総て涙の中に溶けて行つて私に残るものは悲哀(かなしみ)ばかりかと思はれる。堪へやうとしても洗ふ涙を(まぎ)らす為めに庭へ出て崖端に立つた。『お鶴の家は何処だらう』傾く日ざしが僅に残る、一様に黒い長屋造りの場末の町とて如何してそれが見分けられやう。悲哀(かなしみ)に満ちた胸を抱いて放肆(ほしいまゝ)に町へも出られない掟と誡めとに縛られる御屋敷の子は明日にもお鶴が売られて行く遠い下町に限りも知らず憧がれた。『子供には買へないと云ふ芸者になるお鶴と一日も早く大人になつて遊び度い。』

 見る見る落日の薄明(うすらあかり)も名残なく消えて行けば、

『蛙が鳴いたから帰へろ帰へろ』

 と子供の顔も黄昏(たそが)れて水底のやうに初秋の夕霧が流れ渡る町々にチラチラと灯がともると何処かで三味線の音が微かに聞こえ出した。ポツンポツンと絶え絶えに崖の上迄も通ふ音色を私は如何してもお鶴が弾くのだと思はないでは居られなかつた。そして何だか其の絃に身も魂も誘はれて行くやうにいとせめて遣瀬ない思ひが小さな胸に充分(いつぱい)になつた。『お鶴は行つて了ふのだ』『一人ぼつちになつて了ふのだ』とうら悲しさに迫り来る夜の闇の中に泣湿(なきぬ)れて立つて居た。

 ふと私は木立を越した家の方で『新様新様』と呼ぶ女中の声に気が付くと始めて闇に取巻かれうなだれて佇む自分を見出して夜の恐怖に襲はれた。息も出来ないで夢中に木立を抜けた私は椽側から座敷へ馳上(かけのぼ)ると突然(いきなり)端近に坐つて居た母の懐にひしと縋つて声も惜しまずに泣いた。涙が尽きるまで泣いた。

 あゝ思ひ出の(なつ)かしさよ。大人になつて、偉い人になつて、沢山(どつさり)お金を持つて遊びに行くと誓つた私は御屋敷の子の悲哀(かなしみ)を抱いて掟られ(いまし)められ僅に過し日を顧みて慰むのみである。お鶴は何処に居るのか知らないが過し日の果敢なき美しき追想に私はお鶴に別れた夕暮、母の懐に縋つて涙を流した心持をば、悲しくも懐かしくも嬉しき思ひ出として二十歳(はたち)の今日も泌み泌みと味ふことが出来るのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/11/11

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水上 瀧太郎

ミナカミ タキタロウ
みなかみ たきたろう 小説家・実業家 1887~1940 東京の山の手に生まれる。文学者としてまた財界の人として活躍し、1925(大正14)年「三田文学」復刊に尽力、その精神的支柱と呼ばれた。

「三田文学」1911(明治44)年7月号初出の掲載作は「阿部省三」の名で発表され、第1作品集『処女作』に収録の際「処女作」と改題されていたが、此処では初出に従う。

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