碧眼
王子の眼は海のように青かった。神が生まれ変わったのだと人々は噂した。王には他に男子はなかった。王は宝玉のように王子をいとおしんだ。
南海の竜と呼ばれた偉大な王だった。王も兵たちも、騎馬が得意だった。海から攻め上って高原地帯を平らげた。そのあたりは群小国がひしめいて、争いが絶えなかった。王の出現で高原に平和がもたらされた。人々は王を称えた。
陽が照りつけていた。馬の毛が汗で濡れていた。王子の額からも汗が滴り落ちた。剣が鳴った。腕に心地好い手応えがあった。二度、三度と剣を打ち合わせて、手綱を引いた。馬が旋回し、相手の剣が空を切った。回り込んだ王子の剣が、鎧をとらえた。
「法施王子、お見事でございます。まるでお若い頃の王のようで……」
兜を上げて大臣が言った。かつては騎兵の隊長として、王とともに闘った勇士だった。年はとっていたが、肉体も、技も、衰えていなかった。剣を打ち合わせると、気持ちが緊まった。だがいまは、自分の技倆が相手を凌いでいることを、王子は感じた。
「いや、まだだ。父には敵わない」
王子は呟いた。
子供の頃、父と騎兵隊長が剣を打ち合わせて鍛錬しているのを見たことがあった。父の鋭い剣の動きと、巧みな手綱さばきは、若い隊長を圧倒していた。兵たちの中では並ぶもののない技倆をもった隊長が、王に追われ、息を切らしていた。
父の全身から、熱気が溢れ出していた。鎧と衣の下で筋肉が躍動するのが、幼い王子にも見てとれた。いつまで見ていても、見飽きることのない眺めだった。その美しい勇者が自分の父であることが、誇らしかった。
いつか父のようになれるのだろうか、と王子は思った。目が眩むようだった。父に勝ちたいとは思わなかったが、自分が世継ぎの太子だということは幼心にも自覚していた。
王子は成長した。武術も馬術も、同じ年頃の若者にはひけをとらなかった。技の巧みさでは国内に並ぶ者のない、かつての騎馬隊長とも互角以上に渡り合える。だが幼い日に瞼の奥に灼きつけられた父の勇姿と比べれば、いまの自分はあまりにも未熟だ。
王子と大臣の鍛錬を
「草刈童子……」
王子は少年に声をかけた。
「おまえの父と、このわたしと、どちらが強いと思う」
少年は大臣の長男で、年は若いが、すでに騎馬隊の一員として活躍していた。
「もちろん太子です」
胸を張って少年は答えた。
「それでは、十年前のおまえの父と、いまのわたしとでは、どうだ」
「それは……」
少年は頬を紅くして言いよどんだ。
「同じか。それともおまえの父の方が強いか」
王子が重ねて問いかけた。
「同じくらいだと存じます」
王子は微笑を浮かべた。その十年前の騎兵隊長よりも、王は遙かに強かったのだ。
恒河の北に攻め込んだ王が、騎兵とともに凱旋した。歩兵、車兵、象兵が続いて帰還した。王国の歴史にもかつてない大勝利だった。王城の門の前で、王子は父を迎えた。王は騎乗のまま中庭に進んだ。宴の準備が調っていた。中庭の一郭に
「太子よ。おまえに報告したいことが二つある」
王子を見据えて、王は言った。
「一つは領地のことだ。恒河の北から雪山の麓に至る広大な草原はことごとくわが領地となった。北方の守りに新たな城を築いた。巨大な王国が誕生したのだ。その国土はやがておまえが継ぐことになる。責を果たすために叡智を研き、武術を鍛えておけ」
そこまで話した時、王の視線が、わずかに揺らいだようだった。父がそのような様子を見せたことは、これまでにはなかった。王子は不審に思いながら、父の次の言葉を待ち受けた。
「もう一つ、話すべきことがある。おまえの母が亡くなってから、永く妃をもたなかったが、やがておまえが独立する日も近い。それゆえ新たな妻を娶っても許されるだろう。北方で、わたしは素晴らしい女と出会った。妻として迎えたいと思う」
王の表情には、微かな困惑が感じられた。王子は初めて、父の老いを、そこに感じた。王が手を挙げ、王城の門を指し示した。王子は振り返った。門の外に、車兵と象兵が到着していた。
兵たちが幕のかかった輿を担いで中庭に入場した。空は晴れていた。陽は西に傾き、輿と兵たちの影が、石畳の上に長く伸びていた。
輿が下ろされ、幕が払われた。
鮮血のような紅い布をまとった若い女が、軽やかな身のこなしで石畳の上に立った。西陽を浴びて、女の全身が炎のように照り輝いていた。王子は息をのんだ。鋭い眼差しが、こちらに向けられていた。ふっくらとした頬は少女のようなあどけなさだったが、視線には奇妙な敵意が感じられた。
敵意に怯えたわけではない。その不可解な眼差しの強さが、王子の胸をとらえた。この少女が、自分の母になるのか。
王が言った。
「太子よ。これがわたしの妻だ」
王子は女の顔を見つめた。女も王子を見ていた。足もとが揺らぐような気がした。女の眼差しを恐れるように、王子は先に目を伏せ、恭しく頭を下げた。
森の端で、王子は馬から下りた。樹木の陰に倒れ込んで、息をついていた。遅れて駆けつけた草刈童子が、馬から跳び下りて大声をかけた。
「太子、いかがなさいました」
「少し疲れただけだ」
と王子は答えた。
童子は無言で、王子の傍らに控えていた。王子は下草の上に仰向けになっていた。木々の梢の間から、青空が見えた。梢の先が白く光っていた。
「これは何の病だろう」
王子は呟いた。
「少し前までは、恐れるものなど何もなかった。まだ王には及ばないが、世継ぎとしてわたしに代わるべき者はいない。わたしはせいいっぱいの鍛錬を続けたつもりだ」
「臣下も民も、太子を
童子が囁いた。王子は鼻先で嗤った。
「わたしの眼が青いからか。父は戦に長け、部下の信望も篤い。いったいわたしに何の取り柄がある。わたしは戦に出たことがない。騎馬も、剣も、王城の中で鍛錬しただけだ。草刈童子、年下のおまえでさえ、遠征に加わって闘ったことがあるというのに……」
話しながら、王子は別のことを考えていた。考えるというより、夢のような断片が脳裏を駆け抜けていくのを、ただぼんやりと眺めていた。
父の姿が浮かんだ。それから、母となった女の姿が浮かんだ。同じ王宮で暮らしているので、女の姿を見かけることは多かった。中庭で王の愛妾たちと遊んでいたり、水浴びしたりしているさまを、遠くから眺めることもあった。王子が剣の鍛錬をしている時、ふと視線を感じて振り向くと、女の姿が目に入ることもあった。
女の視線は、鋭く、粘りつくようで、王子の胸を揺り動かした。
「太子は王のただ一人の王子です。王が大切にされるのも仕方のないことです」
草刈童子の声が聞こえた。確かにそのとおりだ。王が遠征に出る度に、自分は首都の護りとして、王城に残された。気持ちは
「わたしは、王の
「太子の他に、誰が王になれましょう」
王子は立ち上がった。全身に重い疲労があった。このような疲れを感じたことはなかった。あの女が現れる以前には……。
「何の病だろう」
もう一度、王子は胸のうちで呟いた。
王子は城外のマンゴー園にいた。泉が湧き、木々が茂っていた。城外とはいえ領地内だから、ふだんは愛妾たちの声で賑わうこともあった。だがその日は園は静まりかえっていた。王子は泉のほとりで身を休めていた。
「太子……」
声が聞こえた。王子は答えずに、泉の水面を眺めていた。誰の声かはわかっていた。足音がして、甘い香りが王子の鼻腔を満たした。囁きが耳元で響いた。
「あなたと二人きりでお話しできる時を待っておりました」
王子は黙っていた。身動きができなかった。
「一目見た時から、太子をお慕い申しておりました」
響きと同時に、息が頬にかかった。王子は思わず、女の方に顔を向けた。白い頬と、黒い瞳があった。頬は媚びるような微笑を浮かべ、瞳は燃えるような眼差しでこちらを見つめていた。
「その青い眼……」
女の紅い唇が蝶の翅の
「あなたの眼がほしい」
息苦しさを覚えて、王子は目を逸らせた。大きく息をつき、やっとのことで声を絞り出した。
「あなたは、父の妃です。わたしの母です」
「母が子を慕って、なぜいけないのですか。たとえおのれの
女の手が、王子の首に絡んだ。
「わたしを太子の妻にしてください」
女の唇が、王子の頬を這った。王子は顔を背け、女の手を振りほどいて逃れた。
かんだかい笑い声が聞こえた。
振り向くと、まとっていた布がはだけて、女の胸があらわになっていた。形のよい乳房が揺れていた。女は勝ち誇ったような笑いを浮かべた。
「あなたは、わたしのもの……」
女は半裸の体をなげかけ、王子の胸に顔を埋めた。王子は女の肩に手をかけた。女の体を突き除けようとしたのか、それとも背中に手を回そうとしたのか、自分でもわからなかった。
囁きが聞こえた。
「王はわたしには気を許しておいでです。機をみて飲み物に毒を入れましょう。父上はお年です。いずれは亡くなる運命にあるのです」
王子の目の前に、父の姿が浮かんだ。馬上で剣を振るっている若き日の父の姿だった。父の雄々しい姿を幼い王子は涙ぐむような思いで眺めていた。その時、王子の胸を満たしていた、誇りと憧れが、
王子は女の肩をつかみ、突き放した。
「父を裏切ることはできない」
言い捨てると、王子は身を翻し、マンゴー園の奥に向かって、駆け出し始めた。
王妃が泉のそばで憩っている時、王子が言い寄って不義を迫ったという噂が、王宮に広まっていた。
王子は弁明しなかった。人々の多くは、王子の潔白を信じた。何よりもその透きとおった碧眼を見れば、王子の正しさは明らかだと人々は考えた。だが王宮の中心にいる人々は、王妃に味方した。国師も、兵の司も、大臣たちも、王妃の言いなりになっていた。ただ草刈童子の父の大臣だけは、王子は信じ、流言に惑わされることがないようにと、王を諫めた。
ある日、王子は王に召喚された。王宮の広間に赴いた王子は、王座の前に立って父の顔を見据えた。傍らには、王妃が控えていた。
父は困惑した様子を見せていた。しばらく会わないうちに、ひどく年老いたように感じられた。
「噂はおまえの耳にも届いているだろう」
低い声で王は言った。王子は黙っていた。
「わたしは妃に
王子は、女の方に視線を向けた。女は憎悪に燃えた眼で、王子を睨んでいた。その鋭い眼差しが、胸のうちにしみいるようだった。
「何もございません」
王子は答えた。泉のほとりにいたのは、女と自分の二人だけだった。噂を流したのも、おそらくは女だ。どのように弁明しようと、潔白を証すことはできない。父が、自分を信じるか、女を信じるか、どちらかだ。
王子は王を見据えた。王も、王子を見つめていた。幼児の頃から、こうやって幾度、王と向かい合ったことだろう。
「おまえはわたしの息子だ」
王は言った。言葉の調子に、昔日の王の威厳が戻ったようだった。
「おまえのことは、赤子の頃から知っている。おまえは聡明で、
深い皺が刻まれた王の顔に、若き日の精悍な表情が、ほんの一瞬、駆け抜けた。懐かしさを覚えて、王子は言った。
「わたしも、父上を誇りに思っています」
王はにわかに表情を歪め、悲しげな顔つきになった。
「太子よ、わたしはおまえを信じたい。だが、おまえの潔白を認めれば、わたしは妃を傷つけることになる。おまえは妃が虚偽を申し立てていると言うつもりか」
王子は黙っていた。母を非難することはできなかった。王は肩で息をつき、うろたえた様子を見せていた。
王は老いたのだ、と王子は胸のうちで呟いた。
若き日の王は、疾風怒濤のごとく敵を攻め、一気に凌駕した。決断が早かった。その鋭い決断力は、滅ぼされた小国の民でさえ賞賛した。いささかの迷いもなく力で圧倒するそのさまは、神を思わせた。迷いがあれば、人の業と見なされ、批判の隙を与える。王の決断には隙がなかった。
幼い頃に見た父は、すでに広大な王国の領主になっていた。南海の竜と呼ばれ、騎兵を駆って海から攻め上った当時の王の姿を、王子は自分の目で見たわけではない。だが王の偉業は、伝説となり、歌になって称えられていた。
その伝説の王は、年老い、決断力を失っていた。雪山の麓に城を築き、地の果てまで領地を広げて、野望が衰えたのか。
あるいは妻を娶って、気持ちが弛んだのか。
「太子よ。おまえの言葉が聞きたい。非はおまえにあるのか、それとも妃にあるのか」
王は弱々しい声で言った。
王子は哀しみを覚えた。自分が責められたからではない。父の老いと衰えが、ただ哀しかった。
「わたしは何も申しません。ただ王宮を去ることをお許しください」
きっぱりとした口調で王子がそう言うと、王は力なく肩を落とした。
王子の目の前に、過ぎし日の武術大会の光景が想い浮かんだ。十年に一度、成人式を兼ねて開かれる若者の競技会だった。その年齢に達した王子も、大会に参加した。若者たちは相手が王子でも怯まなかった。むしろ王子に勝てば武勇の誉れが高まることを知っていた。だが王子に敵う相手はいなかった。王子の勝利が決まると、王は誇らしげに王座から下り、王子の肩を抱いた。そして賞として、柄に宝玉を嵌め込んだ小刀を差し出した。その時の悦びと威厳に満ちた王の顔が、懐かしく想い起こされた。
あの眩いばかりに輝いていた偉大な王にも、老いが忍び寄っているのだ。
こみあげてくるものを抑えながら、王子は一礼して広間を辞した。
王子は北方の城に派遣されることになった。冬には雪の降る辺境の地だった。周囲の山岳地帯にはいまだ王国に従わない蛮族も多かった。王子は最も親しい友である草刈童子と、わずかな騎兵を連れて、旅立った。父から賜った小刀と、母の形見の琴だけを携えていた。
臣下の多くは王と王妃の目を恐れて、見送りにも出なかった。童子の父の大臣だけが王城の門にいた。門の外には、王子を慕う多くの民が集まり、悲しみと怒りの声を洩らしながら、涙とともに去りゆく王子の後ろ姿を見守った。王子の青い眼も、涙で潤んでいた。
王子は一度も振り返らなかった。集まった民の間を抜け、草原に出た時、ふと王子は背後に視線を感じた。誰かがこちらをじっと見つめている。おそらくは王宮の高窓から。父なのか、それとも……。
「急ごう」
王子は草刈童子に声をかけ、馬に鞭を振るった。
長い旅の末に、王子は最北端の城に着いた。粗末な城で、周囲の土地も荒れていた。だが彼方には雪を戴いた山々が見えた。空気は肌が緊まるほどに冷たく澄んでいた。王子の心は和み、全身に力が甦った。王子は童子を伴って、荒れ地や山岳地帯を騎馬で駆け回った。
「草刈童子、わたしは生き返った気がする」
王子は囁いた。童子は嬉しげに王子の顔を見ていた。
「騎馬隊を作ろう。この地の若者たちに、技を教えるのだ」
王子は自分の体内に、父の血が流れていることを感じた。辺境の地に立った時、さらに遠くへ行きたいという思いが、潮のように沸き立つのを覚えた。若き日の父も、このような思いで、海から高原を目指したのではなかったか。
王子と草刈童子は、領地内を走り回って若者を集めた。若い王子の姿は、民の心をとらえた。聡明で心の優しい物腰と、美しい顔、そして海のように青い眼。城の周囲だけでなく、遠くの領地からも、続々と若者が結集した。さらには境界の外部の蛮族の中からも、王子を慕って馳せ参じる若者が相次いだ。王子は若者たちに、馬術と剣術を教えた。集団で敵と闘う数々の戦法も教えた。若者たちは隊長となった草刈童子の号令で、まるで一つの生き物のように、整然と動き回った。王子の軍団は、恒河一帯にその名を轟かせた。
王子が騎馬軍団を組織し、父の王に対し
謀反の罪は死に値する。だがわが子に死を命じるのは父として忍びない。両眼を抉って使者に遣わし改悛の証しとせよ。勅書にはそのように認められていた。
書面を広げたまま、王子は茫然と佇んでいた。傍らに控えていた草刈童子が、不審げに王子の顔を覗き込んだ。王子は無言で勅書を童子に手渡した。
「これは王の書面ではありません」
怒りに昂った声で童子は言った。その発案が王のものでないことは、王子にも判った。老いた王は、判断力を失い、女の言うがままになっているのだろう。あのマンゴー園の泉のほとりで妃が囁きかけた言葉が、耳もとをかすめすぎる。
「あなたの眼が欲しい……」
これが自分の宿命なのか。王子は目を閉じた。女の姿を見た時から、こうなることがわかっていた気がした。自分の身をいたわるつもりはない。ただ王の老いが、哀しかった。
「王の筆跡だ。印も押してある」
王子が呟くと、草刈童子が顔を寄せ、囁きかけた。
「闘いましょう」
すでに童子は軍団の若者たちとともに、戦の準備を進めていた。王子は童子から逃れるように、城の高窓に歩み寄った。
「父とは闘えない」
王子は窓の外を見た。雪山の山並みが、陽を浴びて白く光っていた。
王子は雪山の雪を集めるように、草刈童子に命じた。やがて大きな筥いっぱいの雪が集められた。王子は人を払い、一人で沐浴して身を浄めた。それから草刈童子を呼んで言った。
「今日からは、おまえが城の主だ」
王子は小刀を差し出した。父から賜った、柄に宝玉を嵌め込んだ小刀だった。
「わたしは父の
「そのようなことが、どうしてわたしにできましょう」
草刈童子は声を顫わせた。
「おまえではなくて、他に誰が務めを果たせよう」
王子は童子の手に小刀を握らせ、寝台の上に横たわった。童子は慟哭しながら小刀を掲げて王子の傍らに立った。
宝玉のように澄んだ碧眼は、雪をつめた筥に収納され、王と女のもとに届けられた。ほどなく王は世を去り、国内に反乱を起こす者が相次いで、長い戦乱があった。北方の小さな城から討って出た草刈童子の騎馬軍団が、やがて王国を統治することになる。王妃の行方は知れなかった。臣下や兵たちも散りぢりになっていた。多くの民も去り、新たな民に替わっていた。かつて法施と呼ばれた青い眼の王子がいたことなど、人々は忘れてしまった。いまは王となった草刈童子だけが、王子の美しい姿を胸の奥にとどめていた。
眼を失えば、ただ闇ばかりがあるものと思っていた。そうではなかった。王子は眩いばかりの光の中にいた。光はさまざまな綾を織りなすように揺れ動いた。水の飛沫のようにも、濃い霧のようにも見えた。霧はやがて、何かの形を浮かび上がらせた。それは一頭の白い鹿だった。おそらくは鹿の中の王なのだろう。巨大な体躯は堂々として、象よりも虎よりも威厳があった。鹿の体は、陽を浴びると黄金色に輝いた。迷路のように絡み合った角は銀の光を放った。鹿は静かに、王子を見つめていた。
城を出る時、王子は頭巾を被り、母の形見の琴だけを携えていた。騎馬や剣の鍛錬をした若き日に、王子は戯れに琴を奏でたことがあった。何にでも秀でていなければ気のすまぬ傲慢さから、戸外の鍛錬が終わると琴を手放さず、やがては名手と謳われるようになった。技が上達するのは愉しかったが、自分の琴の音色に心を打たれたことはなかった。幼い頃、母が奏でた琴の音色が、微かに耳に残っている。その響きに近づきたいとは思わなかった。その響きだけを心にとめておけばよかった。
旅の慰めに、王子は再び琴を奏でるようになった。技は指が覚えていた。王子は不思議な思いに打たれた。自分の奏でる琴の響きが、胸の奥にしみとおる。母が奏でた響きが、手の先から湧き出すようだった。霧の中で、王子は琴を奏でた。琴の音が全身に響き、目の前の白い霧が虹のような光芒を放って揺れている。
王子は町から町へ、琴を弾きながら
いつの頃からだろうか。絶えず王子の傍らにいて、手をひき、世話をする者がいた。声は出さない。ただ小さな息づかいが聞こえた。その者がそばにいると、甘い香りが漂ってくるようだった。姿も見えず、声も聞こえなかったが、小さなやわらかな手に触れると、女と知れた。
その誰とも知れぬ女に手をひかれて、王子は諸国を巡り、琴を奏で続けた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/07/07
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