女方
一
増山は佐野川万菊の藝に傾倒してゐる。國文科の學生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞臺に魅せられたからである。
高等學校の時分から増山は歌舞伎の
しかし當時から、増山はこの冷艶な人が、舞臺で放つ冷たい焔のやうなものを見てゐる。一般の觀客はおろか、新聞の劇評家たちも、それをはつきり指摘した人はゐない。ごく若い時分からこの人の舞臺に搖曳してゐた、雪を透かして見える炎の下萌えのやうなものを、指摘した人はゐない。そして今では、誰もがそれを自分の發見であるかのごとく言ひはやしてゐる。
佐野川万菊は今の世にめづらしい
たとへば「金閣寺」の雪姫などは、佐野川屋の當り役で、増山は一ト月興行に十日も通つた記憶があるが、何度重ねて見ても彼の陶酔はさめなかつた。あの狂言そのものに、佐野川万菊を象徴する凡てがある。凡ての要素がからまり合つてゐる。
「
といふ浄瑠璃のマクラ文句も、大道具のきらびやかさ、その櫻と瀧と金色燦然たる樓閣との對比も、舞臺にたえず不安を與へる瀧の暗い水音の太鼓の效果も、嗜虐的で好色な叛将松永大膳の蒼ざめた相貌も、旭に寫せば不動の尊體が現じ、夕日に向へば龍の形があらはれる名劍
増山はなかんづく、櫻の木に
佐野川屋の舞臺には、たしかに魔的な瞬間があつた。その美しい目はよく利いたので、花道から本舞臺を見込んだり、本舞臺から花道を見込んだり、あるひは「道成寺」でキッと鐘を見上げたりするときの目には、目づかひ一つで觀衆の全部に、情景が一變したかのやうな幻覺を起させることがよくあつた。「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の
ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞臺と、きらびやかな
お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。
「奧は豊かに音樂の、調子も秋の哀れなり」
お三輪が自分の破局へむかつて進んでゆくあの足取には、同じやうに戦慄的なものがあつた。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。そこでは苦悩と歡喜とが豪奢な西陣織の、暗い金絲の表と、明るい絲のあつまる裏面とのやうに、表裏をなしてゐたのである。
二
増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた。
しかし幻滅はなかなか訪れなかつた。万菊その人がそれを阻止してゐた。たとへば、「あやめぐさ」の訓へをひたすら守つて、「女方は樂屋にても、女方といふ心を持つべし。辨當なども人の見ぬかたへ向きて用意すべし」とある一條のとほり、時間がなくて客の前で辨當をとらねばならぬ時などは、「一寸失禮いたします」と斷つて、鏡臺のわきのはうへうつむいて、實に見事に、後ろ姿からさへ感づかせぬほど、手早く美しく食事をすました。
舞臺の万菊に魅せられたのは、増山は男であるから、あくまで女性美に魅せられたのであることはまちがひない。が、この魅惑が、樂屋の姿をまざまざと見たのちも崩れないといふのはふしぎである。云ふまでもなく万菊は、衣裳を脱いで裸かになる。繊細な體つきではあるけれど、紛れもない男の體である。その體で鏡臺にむかつて、肩まで白粉で塗りつぶしながら、客にしてゐる女らしい挨拶は氣味が惡いと云へないこともない。歌舞伎に親しんだ増山でさへはじめて樂屋をのぞいたときは、さういふ感を抱いたのだから、まして女方が氣味がわるいと云つて歌舞伎を毛嫌ひする一部の人などに、かういふところを見せたら何と言ふかわからない。
しかし増山は、衣裳を脱いだ万菊の裸體や、汗とりのガーゼの半襦袢一枚の姿を見ても、幻滅と云ふよりは、一種の安心を感じた。それは、それ自體としてグロテスクであるかもしれない。が、増山の感じた魅惑の正體、いはば魅惑の實質はそこにはなく、從つてそこでもつて彼の感じた魅惑が崩壊する危険はなかつた。万菊は衣裳を脱いでも、その裸體の下に、なほ幾重のあでやかな衣裳を、着てゐるのが透かし見られた。その裸體は假りの姿であつた。その内部には、あのやうな艶冶な舞臺姿に照應するものが、確實に身をひそめてゐる筈だつた。
増山は大役を演じて樂屋にかへつたときの佐野川屋が好きであつた。今演じてきた大役の感情のほてりが、まだ万菊の體一杯に残つてゐる。それは夕映えのやうでもあり、残月のやうでもある。古典劇の壮大な感情、われわれの日常生活とは何ら
ともあれ万菊は、たつた今、さうした壮大な感情の中に生きたのだ。舞臺の感情はいかなる觀客の感情をも凌駕してゐるから、それでこそ、万菊の舞臺姿は輝やきを發した。舞臺の全部の人物がさうだといへるかもしれない。しかし現代の役者のなかで、彼ほどさういふ日常から離れた舞臺上の感情を、眞率に生きてゐると見える人はなかつた。
「女方は色がもとなり。元より生れ付て美しき女方にても、取廻しを立派にせんとすれば色がさむべし。又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし。それゆゑ
常が大事。……さうだ、万菊の日常も、女の言葉と女の身のこなしが貫ぬいてゐた。舞臺の女方の役のほてりが、同じ假構の延長である日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えてゆく汀のやうな時、その時、もし万菊の日常が男であつたら、汀は斷絶して、夢と現實とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになつたであらう。假構の日常が假構の舞臺を支へてゐる。それこそ女方といふものだと増山は考へた。女方こそ、夢と現實との不倫の交はりから生れた子なのである。
三
老名優たちが
佐野川屋の紋を染め抜いたのれんを分けて、樂屋へ入つて行く者はふしぎな感じに襲はれる。この優雅な城郭の中には男はゐないのである。同じ一座の人間とはいへ、増山もそこへ入つてゆくときは異性であつた。彼は何かの用事で、肩でのれんを分けて、そこへ
増山は會社の用事で、レビューの女の子たちの、むつとするほど女くさい樂屋を訪ねたことがある。肌もあらはな娘が、動物園の獣のやうに、思ひ思ひの姿態をしてゐて、無關心にこちらをちらりと見る。しかしそこへ入つてゆく増山と女の子との間には、万菊の樂屋のやうな妙な異和感はない。増山にわざわざ自分は男だと、今更らしく思ひ直させるやうなものはない。
万菊の一門の者が、増山に格別の厚意を示したといふわけではない。むしろ蔭では、なまじ大學教育をうけた増山が、生意氣だとか、出すぎるとか、噂されてゐることを彼自身知つてゐる。時には増山の衒學が、鼻つまみになつてゐることも知つてゐる。この世界では技術を伴はない學問などは、三文の値打もないのである。
万菊が人にものをたのむときの、尤もそれは機嫌のよいときのことであるが、鏡臺から身を
「櫻木町(万菊は昔風に、踊りや長唄の師匠を、その住居の町の名で呼んだ)には、それぢやあ、あなたから申上げて頂戴。私からはどうも申上げにくいから」
と万菊が言つたのは、一番目の「
増山は、用があるからと呼ばれて、「八陣」の幕が閉まるのを樂屋で待つてゐた。鏡が忽ち緋いろに燃え上る。樂屋の入口いつぱいに
「櫻木町には……」云々といふとき、万菊は鏡に向つて、厚い紫縮緬の座蒲團に坐つて、鏡の中をまつすぐに見ながら言つた。壁際に坐つてゐる増山からは、万菊の衿足と、鏡の中のその雛衣の化粧をまだ落さぬ顔とが見えた。しかしその目は増山を見てゐず、自分の顔を正視してゐる。舞臺のほてりが、
正しく彼は、自分の今演じて來た
増山は、前にも云ふやうに、かうした自失の状態にある万菊を見るのが好きだつた。そこでほとんど目を細めてゐた。——万菊は突然増山のはうへ向き直り、今までの増山の注視に氣づきながらも、人に見られることには馴れた俳優の恬淡さで、用談のつづきを言つた。
「あそこの合の手が、あれぢやあ、どうしても足りませんわ。あの合の手で、いそいで動いて動けないことはありませんけれど、それぢやあねえ、あんまり風情がなくつて」
万菊は來月出す新作の舞踊劇の、清元の作曲のことを言つてゐるのである。
「増山さん、あなた、どう?」
「ええ、私もさう思ひます。『瀬戸の唐橋、暮れかぬる』の、あのあとの合の手でせう」
「ええ、暮れエかアぬウるウウウ」とうたつてから、万菊は問題の個所を、繊細な指先で調子をとりながら、口三味線で説明した。
「私が申しませう。櫻木町さんも、きつとわかつて下さると思ひますから」
「さうお願ひできます? いつもいつも、厄介なことばつかりお願ひして、本當に
増山は用談がすむといつもすぐ立上ることにしてゐる。
「私もお風呂へまゐりますから」
と万菊も立上つた。せまい樂屋の入口を、増山は身を退いて、万菊を先に通した。万菊は軽く
四
増山の属する劇團は、十一月、十二月、正月と、同じ劇場に居据ることになり、正月興行の演目が、早くから取沙汰された。その中に或る新劇作家の新作がとりあげられることになり、この作家は若さに似合はぬ見識家で、いろいろな條件を出し、増山は作家と俳優との間のみならず、劇場関係の重役との間をも、複雜な折衝を通じてつないでゆくことで多忙を極めた。増山はインテリであるといふので、さういふ役目にも狩り出されてゐたのである。
劇作家の出した條件の一つに、彼の信頼してゐる新劇の或る若い有能な演出家に、演出を擔當させるといふ一條があり、重役もそれを呑んだ。万菊は賛成したが、あまり乗氣ではなかつた。そしてその不安をかう打明けた。
「私なんか、よくわかりませんけれど、さういふ若い方が、歌舞伎をよく御存知ないで無鐵砲なことを仰言るとねえ」
万菊はもつと圓熟した、といふのは、もつと妥協的な年輩の演出家を望んでゐた。
新作は「とりかへばや物語」を典據にした平安朝物で現代語の脚本であつたが、重役はこの新作については
脚本が出來上り、配役が決定すると
スチームは暖かく、窓からさし入る日光はゆたかである。増山は打合せ會のときに一等幸福を感じる。それは旅行の相談に地圖をひろげて語り合ふやうなものである。どこからバスに乗りどこから歩くか、あのへんにはいい水があるか、
演出家の川崎は定刻に遅れた。増山は彼の演出した舞臺を見たことはないが、評判は聞き知つてゐる。抜擢されて、一年のうちに、イプセン物とアメリカ現代劇の二つを手掛け、その後者の演出で、某新聞社の演劇賞をとつた人である。
川崎以外のみんながすでに揃つてゐる。せつかちで有名な装置家はみんなの注文をきいて書きとるための大版のノートブックをすでにひろげて、鉛筆のキャップで空白の頁をしきりに叩いてゐる。
たうとう重役が噂話をはじめた。
「何しろ才能はあつても若い人だからねえ。俳優さんのはうでいたはつてやらなくちやいけませんよ」
そのときドアがノックされて、女給仕が、いらつしやいましたと言つた。
川崎はまぶしげな面持で入つてきて、いきなり、字で言へば金釘流といふやうなお辞儀をした。五尺七、八寸はあるらしい長身の男である。彫の深い、男らしい、しかし大そうな神經質な風貌をしてゐる。冬だといふのによれよれの
川崎はすすめられるままに上座に腰を下ろしたが、
事實、打合せ會に並んだ
一同が揃つたので、劇作家が臺本の梗概を話した。その中で万菊は、子役時代はさておき、おそらく生れてはじめて立役を演ずるのである。
万菊の役は、妹(實は兄)の役である。立役と云つても、實は立役の姿になるのは短かい大詰の
この臺本の面白味は、歌舞伎の女方の成立ちをおのづから諷したやうに出來てゐることで、尚侍が實は男であるといふのは万菊が實は男であるといふのと異らない。そればかりではない。眞女方の万菊がこの役を演ずるためには、男でありながら女方である彼が、その日常生活の操作を二重に重ねて、舞臺の上に展開せねばならない。本來の立役の演ずる辨天小僧の娘姿のやうな單純なものではない。そして万菊は、この役に大いに興味を抱いてゐた。
「万菊さんの役は全く女で行つていただいていいのです。終幕の姿も、女らしくて一向にかまひません」
とはじめて川崎が口を切つた。聲は朗らかで、さはやかにひびいた。
「さやうでございますか。さうさせていただけば樂ですけど」
「いや、樂ぢやありませんよ、決して」
と川崎は斷定的に言つた。かういふ風に力を入れるとき、彼の頬は
一座が少し白け、増山も思はず万菊のはうを見た。万菊は口に手の甲をあてて、
「では本讀みをいたします」
と劇作家は、安コップほどに厚い眼鏡の奥に二重に見える突き出た眼を、卓上の臺本の上に落した。
五
二三日してから、それぞれの俳優の體の空くひまを見つけて、抜き稽古がはじめられた。顔の揃ふ稽古は、今月の興行がをはつてからの數日間しかできないので、それまでに固めるべきところは、固めておかなくては間に合はない。
抜き稽古がはじまつてみると、果して川崎は、西洋人が紛れ込んで來たやうなものであることが、みんなにわかつてしまつた。川崎は歌舞伎のかの字も知らなかつた。そばで増山が歌舞伎の術語の一つ一つを説明してやらなければならない。かういふことから、川崎は大そう増山をたよりにするやうになつた。最初の抜き稽古のあと、川崎がいちはやく酒に誘つたのは増山である。
増山は一概に川崎の味方になつてはいけない自分の立場を知つてゐたが、彼の氣持はよくわかるやうな氣がした。この青年の理論は精密だつた。心の持ち方は清潔であり、萬事に青年らしく、その人柄が劇作家に愛される
十二月興行の千秋樂のあくる日から、いよいよ顔を揃へた立稽古がはじまつた。クリスマスの二日あとであつた。歳末の街のあわただしさは、劇場の窓々、樂屋の窓々からも感じられた。
四十疊の稽古場の窓ぎはに、粗末な机が置かれてゐる。窓を背にして、川崎と、いはば舞臺監督の役をつとめる作者部屋の増山の先輩の人とが坐る。増山は川崎のうしろに控へてゐる。俳優たちは壁ぎはに坐り、出番になると中央へ出てゆき、忘れたセリフを舞臺監督がつけるのである。
川崎と俳優たちの間にはしばしば火花が散つた。
「そこのところ、『河内へなと行つてしまひたい』といふセリフのところで、立上つて
「ここは、どうも、立上れないところですがね」
「何とかして立上つて下さい」
苦笑ひをしながら、川崎の顔は、みるみる
「立上れつて仰言つたつて無理ですな。かういふところは、じつと肚に
そこまで言はれると、川崎は、はげしい焦躁をあらはして、黙つてしまふ。
しかし万菊のときはちがつてゐた。川崎が坐れと言へば坐り、立てと言へば立つた。水の流れるやうに、川崎の言葉に從つた。万菊が、いかに氣の
万菊の第一場の
川崎は机に乗り出さんばかりにして稽古を凝視してゐる。長い髪が垂れてゐるのを拂はうともしない。腕組みしてゐるコーデュロイの背廣の肩先が怒つてゐる。
彼の右手には白い壁と窓がある。歳末大賣り出しのアドバルーンが朔風の吹きすさむ晴れた冬空にかかつてゐる、冬の硬い、白墨で書きなぐつたやうな雲がある。古いビルの屋上の小さな
そのさらに右手の壁ぎはに万菊が端坐してゐる。臺本を膝に置いて、着崩れのしない正しい衿元の利休鼠を見せてゐる。しかしここから見えるのは、万菊の正面の顔ではなく、ほとんど横顔である。目がいかにも
……増山は軽い戦慄を感じ、入らうとしてゐた稽古場に入りかねた。
六
増山はあとで万菊の樂屋へ呼ばれたが、くぐり馴れたのれんをくぐるとき、いつもとはちがつた感情の引つかかりがあつた。万菊はにこやかに紫の座蒲團の上で彼を迎へ、樂屋見舞の改進堂の菓子を彼にすすめた。
「今日の稽古はいかがでした?」
「はあ」
増山はこの質問におどろいた。万菊は決してこの種の質問をする人ではない。
「いかがでした?」
「あの調子なら巧く行くと思ひますが……」
「さうでせうか。川崎さんがあんまりやりにくさうでお氣の毒だわ。××屋さんも△△屋さんも、すこしかさにかかつた言ひ方をなさるもんだから、私、ひやひやして。……おわかりでせう。私、自分でかうしたいと思ふところも、川崎さんの仰言るとほりにして、私一人でも、川崎さんがなさりいいやうに、と思つてゐるのよ。だつて他の方々に、私から申上げるわけに行かないし、ふだんやかましい私が大人しくしてゐれば、他の方々も氣がつくだらうと思ひます。さうでもして、川崎さんを庇つてあげなければ、折角ああして、一生けんめいやつていらつしやるのに、ねえ」
増山は何の感情の波立ちもなしに、万菊のこの言葉をきいてゐた。万菊自身が、自分の戀をしてゐることに氣づいてゐないのかもしれなかつた。彼はあまりにも壮大な感情に馴らされてゐた。そして増山はといへば、万菊の中に結ぼほれた或る思ひは、いかにも万菊にふさはしくないやうに思はれた。増山が万菊のうちに期待したのは、もつとずつと透明な、ずつと人工的な、美的なものの感じ方ではなかつたか?
万菊はいつになくやや横坐りに坐つてゐた。なよやかな姿に一種のけだるさがあつた。鏡には七寶の花瓶に活けた深紅の寒菊の小さい密集した花々と、青々と剃り上げた万菊の衿足とが映つてゐた。
——舞臺稽古の前日になると、川崎の焦躁は、
大晦日の前の晩だといふのに、酒場は混雜してゐる。スタンドで一人で呑んでゐる川崎の顔は蒼く、酔へば酔ふほど蒼くなるたちである。入りしなにその蒼い顔を見た増山は、この青年からかけられてゐる自分の精神的負擔が、不當に重すぎるやうな氣がした。二人は別々の世界に住む人間だつたし、青年の混亂や悩みが、禮儀上、それほどこちらへまともにかかつて來られる
果して川崎は、心安立てに、増山を
とはいふものの、増山は、苦勞を知らない、あるひは苦勞の足りない人間に對する、一種の羨望を抱いてゐた。彼が歌舞伎の
「僕はもうすつかりいやになりましたよ。初日の幕があいたら、どこかへ雲隠れしたいくらゐだ。こんないやな氣持で舞臺稽古に臨むと思ふとたまらない。今度の仕事は僕のやつた中で一等ひどい仕事だと思ふ。もうこりごりだ。もう決して二度と、こんな別世界には跳び込まない」
「だつてそんなことは、はじめから大てい豫測がついてたんぢやないですか。新劇とはちがひますからね」
と増山は冷淡に出た。すると川崎は意外なことを言ひ出した。
「僕はなかんづく万菊さんがたまらないんだ。本當にいやだ。もう二度とあの人の演出はしたくない」
川崎は見えない敵を睨むやうに、煙草の煙が渦巻いてゐる酒場の低い天井を睨んだ。
「さうかなあ。私はあの人はよく
「どうしてです。あの人のどこがいいんです。僕は稽古中に、ごてて言ふことをきかなかつたり、いやに威嚇的に出たり、サボタージュをしたりする役者には、あんまり腹も立たないけれど、万菊さんは一體何です。あの人が一等僕を冷笑的に見てゐる。腹の底から非妥協的で、僕のことを物知らずの小僧ッ子だと決めてかかつてゐる。そりやああの人は、何から何まで僕の言ふとほりに動いてくれる。僕の言ふとほりになるのはあの人一人だ。それが又、腹が立つてたまらないんだ。『さうか。お前がさうしたいんならさうしてやらう。しかし舞臺には一切私は責任はもてないぞ』とあの人は無言のうちに、しよつちゆう僕に宣言してるやうなもんだ。あれ以上のサボタージュは考へられんよ。僕はあの人が一等腹黒いと思ふんだ」
増山は呆れてきいてゐたが、この青年に今眞相を打明けることは憚られた。眞相とは行かぬまでも、万菊が川崎にもつてゐる厚意を知らせるのも憚られた。生活感情のまるでちがふ世界へいきなり飛び込んで、感情の反應の仕方がわからなくなつてしまつた川崎は、それをきかされても、又ぞろそれを、万菊の策略ととるかもしれない。この青年の目は明るすぎて、理論には秀でてゐても、芝居の裏の暗い美的な魂をのぞくことはできなかつた。
七
年が明けて、曲りなりにも、初芝居の初日はあいた。
万菊は戀をしてゐた。その戀はまづ、目ざとい弟子たちの間で囁かれた。
たびたび樂屋へ出入りをしてゐる増山にも、これは
廊下をとほりすがりに、開けつ放しになつてゐる万菊の樂屋を、増山はのれん越しに一寸覗いてみることがある。出の合圖を待つばかりになつて、すでに舞臺姿になつた万菊が、鏡の前に坐つてゐる後ろ影を見ることがある。何か古代紫の衣裳の袖と、白粉を塗つたなだらかな肩が半ば露はれてゐるところと、漆黒にかがやく
さういふときの万菊は、孤獨な部屋で、一心に何かを紡いでゐる女のやうに見える。彼女は自分の戀を紡いでゐる。いつまでも、さうして放心したやうに紡いでゐるのである。
増山には直感でわかるのだが、この女方の戀の
増山は万菊が自分の戀を育てるために、舞臺の上のあの多くの壮大な感情から、進んで暗示をうけるだらうと疑はない。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞臺を豊かにしてゆくだらうが、万菊はさうではない。万菊が戀をする! その途端に、雪姫やお三輪や
それを思ふと、さすがに増山も只ならぬ思ひがした。増山が高等學校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞臺の万菊が官能を氷の炎にとぢこめ、いつも身一つで成就してゐたあの壮大な感情、……それを今万菊は
八
「とりかへばや物語」の世評はよかつた。初日になつたら雲隠れする筈の川崎は、毎日劇場に來てダメ出しをしたり、奈落をとほつて表と裏をしきりに往復したり、花道七三のスッポンの
新聞評が万菊を褒めたその日、増山はわざわざその新聞を川崎に見せたが、川崎は負けずぎらひの少年のやうに唇を引きしめて、
「みんな演技はお上手さ。しかし演出はなかつたのさ」
と吐き出すやうに言ふばかりであつた。
増山はもちろん、川崎のこんな
正月も七日のことである。増山は万菊の樂屋に呼ばれた。小さな鏡餅が鏡臺の横に、万菊の信心してゐるお
万菊は機嫌のよいときの常で、いろいろと菓子をすすめた。
「さつき川崎さんが見えましたわ」
「ええ、私も表で會ひました」
「まだいらつしやるでせうか」
「『とりかへばや』がすむまでは居るでせう」
「何か、あとお忙がしいやうなことを言つていらして?」
「いいえ、別に」
「それでしたら、一寸あなたにお願ひがあるんですけど」
増山はなるたけ事務的な面持で聴く用意をした。
「何でせうか」
「あの、今夜ね、今夜ハネたら……」——万菊の頬には、見る見る
「はあ」
「わるいわね。あなたにこんな用事をおねがひして」
「いや……いいんです」
そのとき万菊の目はぴたりと動きを
「ぢやあ、さう申し傳へてまゐりますから」
と増山はすぐ立上つた。
——表の廊下で、むかうから來る川崎にすぐぶつかつたのは、
増山は彼を廊下の片隅へ連れて行つて、万菊の意向を傳へた。
「今さら何の用があるんだらう。食事なんてをかしいな。今夜は暇だから、全然都合はいいけど」
「何か芝居の話だらう」
「チェッ、芝居の話か。もう澤山だな」
このとき増山に、舞臺でいつも見る
「君、食事に呼ばれたのがいい機會だから、歯に
「でも……」
「君にはそんな勇氣はないのかな」
この一言が青年の誇りを傷つけた。
「よし。それぢやさうしよう。いつかはつきりした對決の機會が來ることは覚悟してゐたんだ。招待はおうけするつて、傳へて下さい」
…………。
万菊は
「雪がふつてまゐりました」
と、いつも腰元をやる弟子が、大變事を報告するやうに駈けて來て、腰をかがめた。
「ひどい雪?」
万菊はモヂリの袖口を頬にあてた。
「いいえ、ほんのチラホラ」
「車のところまで傘がないとね」
「はい」
増山は樂屋口で見送り、
雪はコンクリートの暗い塀を背に、見えるか見えぬかといふほどふつてゐて、二三の雪片が樂屋口の
「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。
「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」
万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち
見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、
しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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