最初へ

蒼穹の手

      1

 金属に似た冴えを持つ青空に、一本の橋が懸かっている。細い、銀色の橋だ。大きく弧を描いてせりあがり、虚空の奥で頂点に達したその先は――見えない。

 ゴニウ・アゾは前方を仰ぎ、ついで後方を顧みた。人間がようやくふたり並んで歩けるくらいの幅の橋は、後方にも落ち込んでいる。

 それだけであった。

 深い溜息の濃さの空に、きらめく橋が渡るばかりで、ゴニウはその三分の一にさしかかった位置に立っているのだ。

 よろめいてはいけない、と、ゴニウは思った。ここで進むかしりぞくか、どちらかを選ばなければならない。いずれにせよ、ひとたび平衡を失なって落下すれば、それまでである。落下は今の〝流れ〟の終末を意味しているが、ひょっとすると〝流れ〟の終りなどではなく、彼の本物の死が来るのかも知れなかった。彼に突然与えられたこの設定は、なまの露出状態なのかも分らないのである。

 ゴニウは数秒間ゆっくりと呼吸をした。脳裏に、ずっと前地下から階段をあがって来て、切り取られた真青な空を目に焼きつけたときの記憶が、急速に通過して行った。

 進むもしりぞくも自由である。

 が……後退をおのれに許してはならないのだ、と、彼は思った。あえて苛酷な環境をみずからに課するために、マイナス3の準置を求めたのではなかったか? この細い銀色の橋を登って行った頂点の、そのかなたにもまだ橋がつづいているのか、それとも断絶しているのかは不明だが、よしんば途中で消えているにせよ、そのときはそのときで、引き返せばいいのである。

 彼は、橋を登りはじめた。階段状になっていて、その両側は高さ三十センチほどの側壁だ。あとは無辺際の、遠くになるほど濃色の宙なのである。身をかがめ、側壁に手をかけて進んだ。

 楽な作業ではなかった。心を平静に保ち、全身のバランスをとりつつ、一歩一歩とあがって行くのだ。そのこと自体も苦しいが、それ以上につらいのが、現在自分のしているこの行為に何の目的もなく、意味もないことであった。とりあえず橋の中央の頂点に達するという直接的な目的はあるが、それが全体として何になるのか、いっさい不明なのである。だが耐えねばならぬ、と、彼はみずからにいい聞かせた。何の意味もないこの行為を、おのれの意志だけでつづけているうちに、自分は何かをつかめるかも知れない。悟るときがあるかも知れない。そして、これは、今のこの状況という問題だけではなく、自分が進んで求めているやりかたを象徴しているのもたしかである。何の意義も見出せない、あるいは誰も見出す必要さえ考えようとしない中にあって、そこにはきっと何かが存在している、何かの意味があると信じつづけ、その結果こんな生きかたを選んだ彼ゴニウの立場を、端的に示しているとも見做せるのであった。

待て。

 彼は、揺れる身体を支え、動きをとめて、位置を安定させた。ここで.必要以上の思索に耽ってはならない。今は行動のときなのである。思索の時間はまたいずれ与えられるであろう。それに……彼は、たとえ思考停止のうちに行動していても、それがあとでものを考えるさいの貴重な材料となることを、これまでの体験で学んでいた。

 一歩一歩の蓄積は、彼を少しずつ高みに持ちあげ、彼は巨大な円弧橋の、その頂点に達していた。

この先は、降下である。

 しかし、頂点を越えるや否や、橋は階段ではなくなっていた。色は銀色……これまでと同様の銀色だが、そこからは三十センチの側壁を持つ、すべすべした面になっているのだ。青い宙の、はるかな谷底へと落下するすべり台であった。

 このすべり台に身をゆだねるか、それとも登って来た階段をくだるか……どちらかに決めねばならぬ。

 彼はためらわず、足先から全身を、つるつるした面へ移した。

 彼はすべりはじめた。すべるというよりは、これはあきらかな落下である。胸の底が冷え、凝固し、重いかたまりとなったとき、彼の身体は襲って来る風に逆らって、ぐいぐいとスピードを増していた。兇暴な高速。狼狽と恐怖のうちから、居直りの気分が生れ、大きくなった。どこかねじれた安心立命……だが、それも長くはつづかなかった。突き飛ばされるのにも似た猛烈な速度によって、摩擦熱が発生したのだ。それはあっという間に尻から背中へとひろがり、さらに高温になり、炎さながらの灼熱と化した。

彼はわめいた。

 わめいているはずであった。彼はそうしているつもりだったが、ごうごうと鳴る風にすべてけし飛んでいたようである。このままでは焼け尽きるぞ、焼けて――。

 直滑降だった橋は、そのとき、大きくカーブした。

 おのれの身体が片方の側壁に押しつけられ、押しつけられたまま横にずれ、外へ外へと移動するのを、彼は感じた。その側壁も、もうない。彼は虚空にほうり出された。ゆるやかな上昇と、静止。すぐさま落下がはじまった。加速……加速……加速。もう息をしていることも出来ない。目をあけるのも不可能だ。彼は石となって落ちながら、それでもまだ、こういう自分が何者で、何のために存在しているのか、考えようとしていた。

 ふと目を開くと、音楽が流れている。きちんと整頓された、あまり大きくない部屋に、数名の男女がいた。飲みもののグラスを手にして立ち話をしたり、立体画集のページをひるがえしたりしている。椅子にふかぶかと腰かけたゴニウの前には、ひとりの女がやはりゆったりとすわって、こちらをみつめているのだった。

 と、すると、今しがたの世界は〝流れ〟のひとつだったのだな、と、ゴニウは思った。あれが露出状態だったのなら、自分はもう生きてはいないはずだ。あれだけの高さから落ちれば、確実に死んでいたであろう。本物の死のあとには何の幻覚も与えられず、無に還ってしまう、と、彼は教えられている。だからあれは〝流れ〟だったのだ。いうまでもなく、その確率のほうが圧倒的に高かったのだが……。〝流れ〟は無数に存在するのに反し、露出状態はただひとつしかないからである。それは分っていたけれども、彼は、さっきのが〝流れ〟であったことを、感謝したい気持ちになった。あのまま死んでいては……何ひとつ自分の納得出来ないままで死んでいては……とても死にきれなかったであろう。生きてまだ挑戦出来る自分が、うれしかったのだ。

「退屈?」

 目の前にいる女が問いかけた。「少し居眠りしていたようね。別の〝流れ〟にいたの?」

 彼はもちろんその女を知っていた。セナタワ・ルだ。ただ、なぜ知っているかといわれても、すぐには答えられなかったろう。セナタワ・ルとは、いつかどこかの〝流れ〟で出会っているのだ。それも一度や二度ではないかも分らない。ひょっとしたらこの〝流れ〟でないのかも知れないが、このシーンは、彼にはおぼえがなかった。セナタワ・ルにとっては、この〝流れ〟は彼が居眠りする前からつづいているのであろうけれども、彼のほうには関係のないことである。記憶や事実とはそういうものなのだ。従って主観的な時間も同様である。あらゆる主観的時間が切り離され、重複し、平行し、無関係で……脈絡などありはしないのであった。

「ああ。別の〝流れ〟にいた。そこでへまをして、おしまいになったのさ」

 彼は答えた。

「そう」

 セナタワ・ルは頷いて、バッグから白い小さな箱を出し、彼にすすめる。

 彼にはそれがナボナであることが分っていた。経験したおぼえもなく、見るのもはじめてだったが、分ることは分っていたのだ。この〝流れ〟が彼にひとりでに教えてくれたのだった。

「ありがとう」

 彼はいい、箱を受け取って、中の白い粉末をてのひらに少々出した。それを舐めると、上等の刃物のような苦い味がした。

「そんなにちびちびじゃなく……もっとたくさんやらなきゃ」

 と、セナタワ・ル。

「そうかね」

 彼は、はじめよりはかなり多量のナボナを取り、一度に口に入れた。

 一拍か二拍置いて、視野に霧がかかりはじめた。霧はみるみるうちに渦を巻き、赤やピンクや音色を帯びて、山のかたちをとったり奔流や滝になったり、大都会の遠景に変貌したりする。やがて、それらの中に何人かの男女が出現して、飛んだり跳ねたりを開始した。

 幻想である。

 ナボナが生み出す幻想なのだ。

 こういう〝流れ〟の中にいる人々が、なぜわざわざ幻想を欲するのだろう、と、彼は思った。ここはどちらかといえは健康な、安全かつ快適な〝流れ〟なのだ。こういう〝流れ〟に浸っていながら、そして、〝流れ〟そのものがもともと幻想であるのを知っていながら、さらに幻想を求めるというのは、どういうことだ? 

 しかし、彼には、もうその答えは分っていた。

 これは幻想は幻想でも、まことに軽い平和なものであった。要するに淡い刺激に過ぎない。そしてそれより重要なのは、ナボナを服用している当人に、これが幻想だと分っていることである。その程度の無害はたのしみなのであった。もうひとつ、考えられることがある。それは、この〝流れ〟にいる人々にとって、ここが本当に〝流れ〟なのかどうか、やはり確信を持てず、ひょっとすると露出状態にあるのではなかろうかとの不安が存在しているせいであろう。そんな中でのナボナの作用は、これは間違いなく幻想で、決して露出状態ではないとの安心感を得るわけである。きっとそういう事情から、ここの〝流れ〟の連中はナボナを愛用しているのに違いない。

 ――と、そんな想念を追っているうちに、ナボナの効力はすでに尽き果てていた。彼は先刻と同様、セナタワ・ルと対面しているばかりである。

「あまりたのしまなかったみたいね。立ちあがったり手を振りまわしたりしなかったのはもちろんのこと、表情さえろくに変らなかったもの」

 セナタワ・ルがいった。

「まあね」

 彼は応じる。

「と、すると、ゴニウ・アゾ。あなたがきつい準置に登録しているとの噂は、事実なのね?」

 と、セナタワ・ル。「今、どのへんにしているのよ」

「マイナス3」

「マイナス……3?」

「そう」

「どうして?」

 セナタワ・ルは、不審げである。「どうしてそんなにきつい準置に入ったの? 何かの罰で?」

「いいや。自分から求めて、ね」

「分らないな」

 セナタワ・ルは、ゆるゆると首を左右に振った。「人間なら、より快適な準置を求めるのが当然でしょ? そりゃプラス6とか7とかの、あまり高過ぎる快適度を求めるのは考えものよ。たいていはどんな刺激にも鈍くなって、自失人間になり、ぶくぶくふとってじきに死んでしまうから。中にはそうならずに生き抜く者もいるわね。わたしはプラス8まで行ってもまだ神経質だった男を知っているけど、それだって結局は駄目だったわ。自失人間になる代りに性格破産に至ったの。自殺しちゃった。次から次へと交代する〝流れ〟の中で、何度も何度も何度も自殺し、とうとう露出状態と出くわすのに成功したのね。わたしなんか、じきに環境に満足してものを考えなくなりそうだから、少しきついめにしているけど、それでもやっとプラス1でしょう? マイナスなんて、考えられないわ。何のためにマイナスの、それも3なんて登録をしたのよ? あなた、マゾヒスト?」

「そうかも知れない」

「そうは見えないけど」

「じゃ、そうじゃないのさ」

 ゴニウは肩をすくめた。「とにかく、これはそういう性質の問題じゃないんだ」

「わたしに説明してくれる気、ある?」

「いいとも。もっとも、いつぼくが急に他の〝流れ〟に投げ込まれるか知れないから、そのつもりで。マイナスも3のあたりになって来ると、整合性が減少してね。ひとつの〝流れ〟にそう長くはいられないし、ある特定の〝流れ〟をふるさとのようにたびたび舞い戻るということもなくなるんだ」  

「構わないわ。あなたが別の〝流れ〟に行っちゃっても、わたしの前のあなたは説明をつづけるでしょう。あなたは、はじめてくれさえすればいいのよ。じゃない?」

「これは、おおきに、そうだった」

 彼は、また肩をすくめる。「とはいうものの、こんな話をしたって、どうなるものでもないんだが……」

「聞いているわ」

 セナタワ・ルがうながした。

「ああ。――つまり、そもそもは、われわれが現在のような社会の中にあるということからなんだ」

「…………」

「われわれは、人間として生れたおかげで、生きるための努力をせずに済む。準置の階等によって入手の容易さには差があるものの、生活必需品はひとりでに供与される。その準置の階等だって自分で選べるんだからね。いってみれば完全自動化社会だ。そしてわれわれは、それを別段不思議には思わない。われわれの肉体が食物を消化するのと同じょうに、そんなことはひとりでに行なわれるので、気にかける必要はないというわけだ」

「そうよね。学習テキストに出て来たわ」

「しかも、われわれが得られる生のかたちは、ただひとつではない」

 彼はつづけた。「人間一個人の生涯がただの一回である事実が動かせない以上、その一回を複数にするほかないのだ。そこでわれわれには、基本の露出状態のほかに、幻想世界が与えられた。露出状態と区別のつかぬちゃんとした世界だ。この幻想世界はふたつや三つではない。五つでも六つでも……本人が望むなら不特定多数でも……自由に得られる。この幻想は本人の自意識だけでなく、他人のそれとも連結し連動しているから、個人個人の時間の流れは他人と何の共通性もなくなる反面、お互いのつながりはちゃんと保持される。このことについても、われわれは何も不思議に思わない。生れたときからそうで馴れているし、それが当り前だからだ」

「それも学習テキストの記載事項ね。そこまでは分るけど、退屈は退屈」

「手はじめに、そのことをいっておかなければ、話がやりにくかったんだよ」

「そう? で?」

「そんなわけで、今のわれわれには、露出状態と幻想の区別はつかない。共に等価で……幻想もまた現実なのだ。露出状態にただひとつ特殊性が残っているとしたら、それは、そこでの死が本物の死だということぐらいだろう。が……それだって、たいていの人間は露出状態でではなく、どこかの〝流れ〟という幻想の中で死んで行くのだから、ふつうは大して意味を持たない。言葉を換えれば、今のぼくたちには自分の体験するどの世界が露出状態か分らず、露出状態もひとつの幻想、ひとつの〝流れ〟としてしか認知されていないのさ」

「それは、考えたことがあるわ」

「と、そういう中にあって、ぼくたちは、自分の好む準置を求め、その準置におのれを登録することが出来る。どの準置に登録するのも自由。いつ変更するのも自由。プラス度が高いほど快適で享楽的で、マイナス度が高いほどつらくてみじめで……しかし、その快適や苦痛は、一様ではない。与えられる〝流れ〟の全平均がそうなるので、結構バラツキがあるのだけれども……要は、自分が駄目になるほど高い快楽は求めず、生きる意欲を失なうほどつらい世界にも行かない――それがコツだとされている。いや、こんなことは常識以前の問題さ。分っているよ」

何かいおうとするセナタワ・ルをさえぎって、彼は喋った。「こうして考えて来ると、なるほどわれわれは生存を保障されて、しかも自由だ。だがね、ひっくり返して見直すとどうなる? われわれの自由とは準置を決めるだけ……それだけで生かされているとはいえないかな」

「ふむ。いいたいことは分るけど……それはぜいたくじゃないの?」

「そんな風に思うのは、きみがプラス域にいるからじゃないか?」

「それはこのさい、関係ないでしょう」

「ぼくは、あると信じる」

「わたしは信じない」

「いいさ。じゃ、その件は引っ込めよう」

 彼は折れた。「ともあれ、ぼくがいいたかったのは、では、こういう状況下にあるわれわれは何か、ということなんだな。われわれは何のためにこうして生きているのか……こういう今のような生は、いったい何なのか――ということなんだよ」

「…………」

「われわれはいつの間にか生を享け、それぞれなりに生きて、死ぬ。これは何のためなんだ? われわれ何のために存在しているんだ? われわれが存在する意味は何だ?」

「…………」

「だからなんだ」

 彼は低くいった。「それを知るためには、自分を追いつめなきゃならない。考えざるを得ないような、ぎりぎりの場へおのれを持って行かなきゃならないんだ。つらい、きびしい状況下で、いやでも考えなければならないように……とことんまで自分に圧力をかけるべきだ。だからこそ、ぼくは、マイナスlからマイナス2、そしてマイナス3へと、自分の準置を移して来た。こうすることで、自分や他の人たちが何のために存在しているのか、何かの手がかりを見つけ得るかも知れないと思う。のんびりした心では、快楽に酔っている心では、そうした思考は生れては来ない。自分を崖っぷちに追いつめ、苦しみ、もがく中から現われるであろう曙光、そいつをつかまなければならない。必要とあれば、ぼくはこれ以上の、マイナス4にでもマイナス5にでも進むつもりだよ」

 彼は喋り終え、一応話し切ったことに満足して、つけ加えた。

「いや、これは大演説だったなあ。ともあれ……これが答えだ。きみの質問に対する、ぼくの返事というわけさ」

「…………」

 セナタワ・ルは、しばらく彼の顔を注視していた。

 それからいった。

「ひとりよがりだわ」

「え?」

「それを考えてどうするの?」

「とは?」

「それを考えることに、何か意義があるの?」

 セナタワ・ルは微笑する。「わたしだってそれに似たことを考えなかったわけじゃないわ。でもね、考えて結論を出したところで、どうなるというの? その結論が正しいという保証はあるの? それを他の人たちに伝えて廻るの?かりに、よ、かりにあなたが、何かの結論を得たとするわね。あなたは当然それを正しいと信じ、他人に伝えようとするでしょう。でも、それでどうなるの? 何かが変るの? 何かおこるの? 何もはじめと変りゃしないわ。それより、誰もあなたの結論に耳をかそうとしないでしょう。みんな、自分なりに生きるだけで精一杯だから、あなたのいっていることを聞くひまなんて、ないのよ。いえ、その前に……あなたが結論に達し得るかどうかさえ、疑問じゃないかしら。自分を苦しめたら何かが分るというのは、わたしにいわせれば迷妄よ。それを迷妄と思わずに、わざわざマイナスの準置に身を置いて頑張るなんて……やっぱり、ひとりよがりだわ」

「そうだろうか? ぼくは――」

「それはまあ、あなたが自分の主義でしていることだから、わたしにはどうこうはいえないけど……せっかくの一生を、わざわざつらい目をして――」

 ここで、セナタワ・ルの声は聞えなくなった。同時に、彼は目の前の光景が一瞬またたいて元に戻ったような感覚におちいった。

〝流れ〟が別のものになったのだ。

 今、眼前にあるのは、もう、これまでの〝流れ〟ではない。見た目には同じようであっても、違うものなのである。彼はあたらしい〝流れ〟にほうり込まれたのであった。

 そして今度の〝流れ〟が、それまでのものよりも平和でおだやかであることは、まず期待出来なかった。平均化の法則が働いているので……彼の準置からすれば、より快適になるどころか、同等さえ無理であるはずだ。確率を考えれば、急転直下、またもやきびしい状況に直面するはずである。

 事実、その通りであった。

 彼の視野にあるセナタワ・ルも、部屋の男女も、しだいに細く、斜めになって行く。部屋そのものが歪み、ひしゃげて行くのであった。彼自身はというと、これは馬鹿馬鹿しいまでに元のままなので……じっとしていると変形しぺっちゃんこになる部屋に押し潰されるのは間違いないのである。

 彼は、もうだいぶ低くなった天井の下、這って戸口をめざした。手に触れるものはみな紙きれさながらに薄っぺらくなっている。セナタワ・ルも同じ一枚の紙片で……進みつつ手で押しのけると、ふわりと宙に舞いあがり、横になった。それが床に落ち着くまで待っているいわれはないし、そんな余裕もない。彼は這いつづけ、変形した戸口の前に来ると両手を突き出して、ぶつかった。歪んだ戸は割れて飛び、彼は外へころがり出るのに成功した。

 重く曇った空があり、ひしゃげて行く家が何百何千何万と並んでいる。彼が道路に突っ立ったとき、それらの家はみな地面へと押し潰され、地面に化した。もう家の痕跡なんてどこにもない。あるのは曇天と、草一本生えていない裸の丘陵地帯ばかりである。彼は周囲の風景を確認すると、歩きだした。

       2

 ゴニウ・アゾは駈けていた。

 ひとりでではない。

 右にも左にも、前後にも、雑多な人々が走っている。みな一方をめざして、手を天に向け、わめきながら走るのだ。その一員として彼も走るほかないのであった。立ちどまれば突き倒され、突き倒されれば、人々の足に踏みつけられて、もだえつつ死ぬであろう。死にたくなければ走るしかなかった。へたばろうと苦しかろうと、駈けるだけなのだ。

 だが、まだやめはしないぞ――と、彼は思う。

 マイナス3の準置ではついに何も得られなかったゆえに、彼はマイナス4に入った。マイナス4であれは、この程度のつらさは当然である。

 彼は走る。

 うしろの人に突かれ、前にぶち当りそうになり……それでも足を動かしつづける。たしかにこれは苦痛であった。苦痛を少しでも他に転嫁するために、彼はほかの人たちにならって手を前や上に突き出したり、絶叫したりした。

 息が、少し荒くなっている。少しどころではなく、もう、はあはあ、ほうほうなのだ。従って叫び声も、ああああ、おうおうにしかならない。

「みんな、もっと速度をあげられんのかね」

 横で声がした。

 見ると、シュノ・クナである。陽気な表情でわっせい、わっせいと呼ばわりつつ、両腕を振って走っていた。

 こいつとは、いつ、どこで会ったっけな――と、彼は考えたが、そして、一度ではなく何度も出会っていたはずなのに、どうしても思い出せなかった。また、思い出したところで大して意味もない男だ、という想念もあった。

「走るのはいいねえ。楽しいねえ。なあ、ゴニウ・アゾ」

 シュノ・クナは彼に話しかける。

 彼は返事をしなかった。

 それよりも、走らなければならない。どうやら体力は尽きはじめようとしているのを自覚していたけれども、踏み殺されないためには、走らなければならない。

「わっしょい、わっしょい」

 他の人々の喚声や怒号や泣き声にまじって、シュノ・クナが相変らずのんきそうにどなるのが聞えている。

 シュノ・クナは、現在どの準置にあるのだろう、と、彼は思った。あの男は、わざわざマイナスいくつかの準置を選ぶようなタイプの人間ではなかったはずだ。おぼろげな記憶は彼にそう教えている。それなのにこんな〝流れ〟の中にいるのは、ここがシュノ・クナの多くの〝流れ〟のうち、もっともつらい場面――バラツキの一番大きなところに当たるのかも知れない。いや……そうでもないかも分らないぞ。あいつにとっては、ここが快楽を得る〝流れ〟のひとつだとの可能性もあるのだ。ひとりひとりの人間によって、快楽や苦痛はことなるのだから、それはあり得ることだ。しかも、長い時間いればひどくつらい環境でも、ほんのしばらくとどまるときには気楽な遊びとしか感じられないものだ。あいつには、ここがお遊びの場なのかも……。

 彼の推測を裏付けるように、シュノ・クナの声はいつの間にか聞えなくなっていた。

 走れ!

 走れ!

 ああああ。

 おうおう。

 はっ、はっ、はっ、と、息を乱して、人間大群のひとりの彼は駈ける。

「倒れるのも、ひとつのやりかただよ」

 うしろからいう者があった。

 シュノ・クナの声ではない。

 彼は振り向いた。

 褐色の平べったい顔があった。にっと笑うと、黄色い歯が見えた。

 彼はその人間を知らなかった。

 知っている人間が変貌して別の〝流れ〟で出て来ることは、ままある。が、その場合でも人物概念は共通しているから、すぐに判別出来るのだ。

 これは、初めての人物概念であった。

「倒れたら踏まれる。何千何万人に踏まれたら死ぬ」

 その平べったい顔の、もう老人といったほうがいい男は、彼に話しかけた。「死ぬのは苦痛だよ。苦痛を求めるならそれもまたいいのではないのかね。これが露出状態で本物の死だとしても……さ」

「…………」

 彼は前方に向き直った。いつまでも後方を見ているのは不可能だったのだ。走らなければならないからだ。

「倒れるのも……あんたが求めている道への……ひとつのやりかただよ」

 声は、ぶつぶつと後方から流れて来る。

 まるで、彼の身の上や考えかたについて何かを知っているような口調だ。

 こいつはたしかに何か知っているのだ。

 彼はそう思ったが、ゆっくり喋り合える状況ではなかった。また、その男のいうように、走るのをやめて倒れ、倒れて踏み殺される決心はつかなかった。

 彼は走りつづける。

 ああ、ああ。

 はっ、はっ、はっ。

 おうおう。

 はっはっはっ。

 目がくらんで来た。足も重い。

 走れ!

 走れ!

 ゴニウは、膝頭を抱えていた手を外した。

 彼は、薄く水がたまった上に腰をおろしていたのだ。

 全身、固くて、急に寒さが背筋を駈け抜けて行った。

 しずくを垂らしながら、立ちあがる。

 薄暗かった。

 天井は低く、何の照明もない。外からの鈍い光で、どうやらあたりを見て取れる程度なのだが……金属材の柱が何本も、低い天井を支えているようだ。

天井からは、至るところ、ピチャン、ピチャン、と、水がしたたり落ちている。

 音はそれだけではない。連続した、白い音ともいうべきひびきが、耳鳴りにも似て聞えていた。しばらく耳をすますうちに、彼は、それが雨の音らしいと見当をつけた。それもかなり強い雨のようである。彼は雨降りの中の、どこか知らないが金属材をやたらに組み合わせた構築物の内部にいるのであった。

 寒い。

 彼はまた身を震わせて、かたん、かたん、と靴を鳴らしつつ、光が入って来るほうへと歩きだした。

床はじきにおしまいになった。金属の柱と柱の間のむこうは、壁も何もなく、突然宙になっている。ただもうわけもなく降りしきる雨滴の宙であった。

 ここは一階ではないようだ。

 と、すれば、下へくだる階段があるかも知れない。一階に出たあとどうするのか、自分でもまだ考えてはいなかったが、ここでじっとしている気にはなれなかった。

 きびすを返そうとして、彼は何かにつまずいた。

 身をかがめると、死体である。

 水たまりの中に、うつ伏せになっているのだ。

 彼は死体に手をかけて、仰向けにした。目を見開いたままのその顔を、彼は知っていた。この人物概念は……レゲ・サである。数多くの人間と出会い、交渉を持ったりたたかったり、あるいは取り引きをしたり憎み合ったりしながら、次々と忘れ去って行く中で、なぜレゲ・サをよく覚えていたかといえば、その人物概念が特徴的で個性的であるにもかかわらず、会うたびに男であったり女であったりしたからである。と、いうより、性が変っていても、人物概念がきわめてはっきりしていたため、すぐにレゲ・サだと分ったのであった。

 そのレゲ・サがここで死んでいる。

 もちろん、死体があったからといって、レゲ・サが死んだとは断定出来ない。この死体はこの〝流れ〟の中にあるだけで、別の〝流れ〟でまたレゲ・サが登場して来ることもあり得るのだ。

 だから問題は、ここにレゲ・サが死んでいるということではない。レゲ・サであろうと誰であろうと構わないが、この〝流れ〟には死体が配置されているという事実が大切なのである。

 そういえば……と、彼は想起した。自分でもあまり明確に意識しないようになっているが、彼はまた準置を進めて、マイナス5まで来ているのであった。マイナス5での〝流れ〟を彼はすでにいくつも経験しているけれども、これまでのところ、いずれもが冷え冷えとした設定で、滅多に人と会わなかった。

 今度もそうなのだろうか。

「おーい」

 彼は、衝動的に、暗く天井の低い内部へと呼びかけた。声は、おい、おう、お、と、何回か反響して……何の返事もなかった。

 いや。

 そうでもない。

 奥のほうから、何か聞えて来る。人間の声のようだ。あるいはそれは先刻から聞えていたのに気づかなかったのか……今の彼の声に応じて発せられたのか……彼にはどちらとも判断がつかなかった。

もっとも、しばらく待ってもその声の調子は不変であった。歌を唄っているような感じで、こちらへ来る気配もないのである。 

 彼はそちらへと進みだした。水をびちゃびちゃと跳ね散らし、靴を鳴らして、一歩ごとに暗くなる内部へと、歩いて行った。

 金属柱の間を抜けてだいぶ進むと、行く手がぼんやりとあかるくなって来る。

 黄色い光球がひとつ、天井からぶらさがっていた。光球のあかりは遠くへ届かず、ために洞穴を思わせる。その光の中に、ひとりの人物がいて、何かをばらまきながら、低い声で唄っているのだ。

 ホレ ヨウヨウ ヤ

 ヨレ ヒョウヒョウ ア

 ホレ ヨウヨウ ヨウ

 ホレ ヨウヨウ ヤ

 ヨレ ヨレ ヨレヨウ

 左腕にかかえた容器から、きらきら光るものを右手でつかみ出し、ぱらぱら、ばらばらと……種まきに似た動作である。

 その人物は、そんなに若くはなかった。さりとて老人でもない。背が低く、髪を長く伸ばし、目が鋭い。

 彼が近づいたのを認めたらしく、その人物は動きをやめて、こっちへ顔を向けた。

 その瞬間、彼は了解した。

 この人物概念には、覚えがある。

 この前……そう、人々と一緒に走っていたときに出会った、あの老人なのだ。彼に、倒れるのもひとつのやりかただといった、あの男なのだ。顔かたちや年格好は違っていたが、間違えようがなかった。

「…………」

 男はこっちをみつめていたが、別に感動のない口調で、いった。

「だいぶ近づいたな、あんた。もうすぐだな」

 彼は、この前の疑念がまた湧きおこるのをおぼえた。この人物は、やはり自分について何かを知っているのだ。

 彼は問うた。

「あなたは誰です? ぼくに関して何を知っているのです?」

「私はダキ・ウレさ」

 男は答えた。「ダキ・ウレということにしておこう。何でもいいのだから」

「…………」

「あんたについては、何もいえない。今は何もいえないよ」

 男はそういうと、再び右手を容器に突っ込み、中の光るものを、ゆっくりと歩きつつ、ばらまきはじめた。

 彼はそれ以上何もいえず、男の動作を眺めていた。

 男がまいているのは、どうやら透明な物体で……それが床の水たまりに落ちると、じきに溶けてしまうのである。

「それは……氷ですか?」

 彼は、思わずたずねた。

 ダキ・ウレと名乗った男は、動作をやめずに顔だけ向け、応じた。

「そう。氷。氷をまくと溶けて、また氷になって生えて来る」

「…………」

 不条理な話だ、と、彼は思った。まあここの〝流れ〟ではそういうこともあり得るのかも知れないが……氷が生えて来たからといって、それが何になるのだろう。

「考えることはないよ」

 ダキ・ウレと称する男は、彼の心理を見すかしたように笑った。笑うと、真黒な歯だった。「考えたからすべてが分るというのは……錯覚だ。何もかもを考えることで解明しようとするのは、無駄だ」

「…………」

「下へ行くのなら、もう少し先に階段がある。そこから降りなさい。おっつけ、雨もあがるだろうし」

 それだけ告げると、男はあとは彼に見向きもせず、氷をまくことをつづけた。唄いながらである。

 ホレ ヨウヨウ ヤ

 ヨレ ヒョウヒョウ ア

 ホレ ヨウヨウ ヨウ

 ホレ ヨウヨウ ヤ

 ヨレ ヨレ ヨレヨウ

 彼は目を開き、そばにあったロープを反射的につかんだ。彼の足は数本のパイプを組み合わせた上に危なっかしく乗っており、すべれば全身がその間から抜け落ちてしまうのである。

 これは……ゴンドラであった。何本かのパイプで組みあげた粗末なゴンドラなのだ。ゴンドラは幾条ものロープにつながり、ロープは上に伸びて――大きな球と連絡していた。

 気球だ。

 彼は気球のゴンドラにいる。

周囲は、すべて紺碧であった。空だった。下方をそっと見やったが、そこは紺色ではなく薄い灰色で、しかし、何も認めることは出来ない。虚空のまっただ中に気球は浮いているのである。

 では、これがマイナス6に入って最初の〝流れ〟なのか? これがマイナス6の手はじめなのか?

 彼は遠くを見廻していた視線を近くに戻し――—声にならぬ衝撃を受けた。

 そこの、ゴンドラの、彼とは反対側の位置に、ひとりの少年が出現していたのである。

 少年?

 いや。

 少年のようだが……身体つきはたしかにそうだが……顔は年齢不詳であった。

 が、相手の目を見ているうちに、彼には、それが誰であるか分った。

 ダキ・ウレである。

 ダキ・ウレということにしておこう、といった、あの人物なのだ。

「とうとう来たか」

ダキ・ウレは口を開いた。「昔と違って近頃は、ここまで来る者はだいぶ増えたが、それでもまだしょっちゅうというわけは行かない。そうか。あんたも、とうとうやって来たか」

「…………」

 彼には、当然ながら、相手が何をいっているのやら、見当もつかなかった。

「あんたは、何も苦労しなくてものんきに生きて行ける社会にあって、それにあきたらず、自分の存在理由を求めて、苦行をおのれに強いたわけだ」

 ダキ・ウレはいう。「そして準置をマイナスの方向へどんどん押し進めて、ここまで来た。あんたみたいなことをやろうとする者はすくなくないが、一般には、マイナス6に来る前に挫折する。それほど人間は強くないのでな」

「あなたは……何者です? ぼくに何をいおうとしているんです?」

 彼はいった。

「まあ待て」

 ダキ・ウレは笑った。笑うと……その歯は透明だった。

 透明な歯なんて、彼は見たことはおろか、想像したこともなかった。

「まあ待て」

 ダキ・ウレは繰り返す。「時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり聞きなさい」

「…………」

「考えてみれば、人間は、自分たちがなぜ存在しているかの問題と、長い間、直面せずに済んで来た」

 ダキ・ウレはいう。「それを本気で考えようとした者は、いなかったわけじゃない。たくさんいた。いたが……個人として生きることのほうが急務で、それはあとで考えても済むことだった。だから全体としてはそれをおのれに問いかけることをせず、その問題を避けて来たといえる」

「…………」

「けれども人間は、しだいに、生きるためにそれほどつらい目をしなくてもいいように、自分たちの社会を作りあげて来た。紆余曲折はあったものの、今では、食うために労力をついやす必要はなくなっている。のみならず、本来一個だった人生を、幻想の〝流れ〟をいくつも持つという方法で、変化に富むものにした。本当なら、今こそ、自分たちがなぜ存在しているかの根本問題と直面していいときなのだ。しかし……直面しなければならなくなった時代――現在が来てしまうと、大多数は思考を放棄してしまっている。そんなことは考えず、達成された、与えられた環境をたのしむばかりなのだ」

「…………」

「そういうときに、しかし、やはりあんたのような人間もいる。あんただけではないし……これからは、いよいよ多くなるだろう。結局は考えなければならない問題なのだからな。あんたは無数の幻想の中から、おのれにつらいものを集中的にあてがうことで、それに耐え、そのことで考え、そこから何か得ようとした。そういうことだ」

 そこまで喋ってから、ダキ・ウレは、また透明な歯を見せた。

 風がどっと吹いて来て、彼はいよいよ強くロープを握りしめねばならなかった。

 それなのに、ダキ・ウレは、何もつかまずにゴンドラのふちにもたれている。平気なのであった。

「あんたはマイナス6の準置まで進みながら何を考えていたかな?」

 ダキ・ウレは、話を再開した。「自分たちの存在理由を知るために、そのとっかかりとして、この社会、この世界がどうなっているか……何もかもが完全に露出状態になったら、どういうものが見られるか……どういうことになっているか、そいつをまずつかもうとしたんじゃないのかな?」

「それもありますね。いや、それが最初でしょう。そこから知らなければ、何も分りはしないのですから」

 彼が答えると、ダキ・ウレは不思議な表情になった。

「そうだろうね」

 ダキ・ウレは頷く。「そして、それをすでに誰かが……たとえば私が見た……あるいは知っていたとしたら……どうかね?」

「見た? 本当に見たんですか?」

「さあ、どうかな」

 ダキ・ウレは微笑した。「ま、かりに、こんな風に考えてみないか? 人間たちは無数の幻想を錯綜させつつ、生きている。お互いの幻想世界の〝流れ〟が相互に連携し、共通のものとなって、その中で好みの準置を選んでいる。これは当然、自動機構がそれをコントロ−ルしているのだ。人間たちによって徐々に作りあげられ、そのうちにひとりでに進化し、人間たちのために奉仕する自動機構が……これは現実的にも象徴的にも、そういう巨大なシステムがあるおかげだ。そういう露出状態は、多くの〝流れ〟の中にあって、滅多に姿を見せない。見せないが、あることはたしかなのだ。そうだろう?」

「そうですね」

「ここで、そのシステムのほうから眺めればどうだろうね」

 と、ダキ・ウレ。「システムはすべての人間の幻想をないまぜにし、配給し、給食している。端的にいえば、全人間の幻想を、無数の幻想を、自分自身の幻想として、夢見ているともいえるだろう。複雑で、バラエティに富んだ、巨大な、長期にわたる夢だ」「…………」

 彼には、はじめて出くわす発想だった。だから黙って聞くほかなかった。

「そして、ときどき、幻想の〝流れ〟のたのしみに背を向けて、自分や自分たちの存在理由をつきとめようとする人間が現われ、システムがなるべく人間に最適な幻想を与えようとしているにもかかわらず、きつい、つらい〝流れ〟をわざわざ求めて、行きつくところまで来る」

 ダキ・ウレはつづけた。「システムはなぜそんなことを求める人間がいるのか、虚をつかれ、違和感を抱く。いいかえれば、夢をむさぼっているシステムが、その大きな夢からさめかけるのだ。そういう人間達は、機構全体をめざめさせる者として作用する。その数が増えれば、やがて本当に目をさますだろう。ゴニウ・アゾ、あんたは、そういう使者のひとりとして作用したんだ」

「ぼくが?」

 彼は反問した。

「そう」

ダキ・ウレは頷いた。「それがつまり、あんたや……ひいては人間たちの存在理由という考えかたも成り立つね。あんた自身にとっては不本意だろうし、あんたにはあんたの解答があるだろう。それは別にあるのかも知れない。それともそんなものは、結局得られないのかも知れない。そんな人間側の問題は問題として……別に、あんたたちの役目はあるんだよ」

「待って下さい。それは、仮定の話じゃないんですか?」

「どうかな? どうとでも考えてくれたらいい」

「あなた、何者です?」

「私か」

 ダキ・ウレは、透明な歯を見せ、何の支えもなしにパイプの上に立った。「私は、この青空の……青空が象徴するシステムの、その手かも知れないな。蒼穹の手、あるいは指として……あんたのような人と接触するため、生み出されたと考えてくれてもいいよ。所詮、ここもまた、〝流れ〟のひとつなんだ。そういう存在があってもおかしくないじゃないか」

「…………」

 彼は考えた。考えざるを得なかった。ダキ・ウレのいったことは、彼が求めていたものとは違う。彼は彼自身のため、人間のために自己の存在の理由を探しつづけて来たのであった。他の何かのために存在するという意識は全くなかった。人間として、人間のために万物が存在するという発想は肯定しても、人間が何か他者のために存在するという思考はないのであった。ましてその他者が、人間自身の生み出したものであるとは……異様な感覚であった。

 それはそれ、これはこれだ、と、彼は考えた。当面はそういうことにしておこう。自分は自分で考えよう。それでいいではないか。

 だが。

 不意に、彼の心の中に、ダキ・ウレのいったことが起きあがって来た。人間たちの幻想の〝流れ〟全体を支えている機構、そのシステムが眠っていて、夢を見ていて……自分がその目をさまさせる作用をするというのは……。

「教えてくれませんか」

 彼はいった。「機構全体がめざめたら……めざめたあとは、どうなるんです?何がおこるんです? 人間たちは、どうなるんです? 人間は、人間でなくなると……?」

「どうかな」

 ダキ・ウレは静かに答えた。「それは、あんたたちが自分で考える問題だよ。システムの手である私には、関係のないことさ」

「しかし――」

 いいかけて、彼は口をつぐんだ。

 そこには、もう、ダキ・ウレの姿はなかった。出現したときと同様、何の予告もなく消えてしまったのだ。

 彼はロープを握りしめて、ダキ・ウレがいた空間を凝視した。

 ゴンドラの外は、ただ紺碧である。どっぷりと濃い――空そのものである。びょうびょうと風が吹き渡り、八方に何もない虚空に過ぎない。

 彼を乗せた気球は、その蒼天の中を、揺れながら、上へ上へと昇って行くのであった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/12/27

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

眉村 卓

マユムラ タク
まゆむら たく 小説家 1934年 大阪府に生まれる。『消滅の光輪』により泉鏡花文学賞。

著者自薦の掲載作は、「SFマガジン」1981(昭和56)年2月号に初出。同年、短編集『遙かに照らせ』(徳間書店刊)に収録された。

著者のその他の作品