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役者幸四郎の俳遊俳談

目次

 歌舞伎役者と俳句

雪の日や雪のせりふを口ずさむ

()れ蓮の動くを見てもせりふかな

 この句は高浜虚子の薫陶を受けた、母方の祖父、初代中村吉右衛門が詠んだものです。

 この句を最初に目にしたのは私が中学生のころですが、粋だなと思ったくらいであまりしっくりきませんでした。

 後年、父の松本白鸚(はくおう)(八代目幸四郎)が危篤になったとき、私は大阪で舞台をつとめていたので、舞台を終えてから飛行機で深夜東京へ帰り、翌朝大阪へとって返すといったことが十日ばかり続きました。それからとうとう父が亡くなり、その晩はしみじみ悲しみにひたる暇もなく、翌日の一番機に乗りました。

 前夜は明け方近くまで弔問者が絶えず、涙を流す折も逸するあわただしさでしたが、たった一人で飛行機の座席に座り、ふと窓の外に目をやると、真っ白な雲海を突き抜けて雪を頂いた富士の頂上が見え、そのとき富士山の絵を描くことが好きだった父の姿が脳裏に浮かびました。父が描く富士にそっくりだったのです。その富士が眼前に大きく迫ってきて私の前をすっと横切ったんですね。ああ、これが父の別れなんだな、親父らしい別れの仕方だな、と思いながら過ぎゆく富士の頂を見ているうちに、それまでこらえていた涙がどっと溢れてきました。ハンカチで涙を拭って外を見ると、もうあたり一面は雲海で富士山の影はありませんでした。

 そのとき不意に「雪の日や……」の一句が口をついて出てきました。そして「雪」を「親の死」に置き換えても当てはまると思ったのです。つまり雪の日だろうと、風の日だろうと、親が亡くなった日だろうと、舞台の上でせりふを言っているのが役者なんだ、と。

 あの時、たまたま演じていたのが四十七士の討ち入りの大高源吾の役で、雪の日の雪のせりふがあったのです。そんなことから祖父の二句が契機となって自分も役者幸四郎として俳句を作ってみようという気になりました。

 江戸時代から歌舞伎役者はみな俳名を持ち、俳句を嗜みとしていました。そもそもの始まりは初代団十郎の七夕の当たり狂言「巡逢恋七夕(めぐりあふこひのたなばた)」を祝って大坂の俳人・才麿が牽牛にちなんで「才牛」の俳名を贈ったことによるといいます。梅幸、訥升、家橘などの藝名は俳名から出たものです。祖父の場合も先人達の嗜みに(なら)って興のおもむくままに句を詠んだのだと思います。私の俳名は錦升ですが、文化文政期の五代目幸四郎が最初のようです。

 役者というのは、いろいろな役柄を通して幾通りもの人の生き方を演じ分けます。役者が俳句を作るということは、そういう日常と切り離して考えることはできません。役者の人生そのものが句になるんだな、ということを祖父の句にあらためて教えられたような気がします。

 初めての句

ベゴニアを植ゑて涼しきテラスかな

 これは私が初めて作った句で、亡き母(正子)が、添削してくれました。新婚の小さなアパートの十二階に妻と二人で住んでいたときにたまたまその階にテラスがあったんです。テラスは何もなく、殺風景だったので自分でレンガの花壇をこしらえ、そこにべゴニアを植えたんですね。そのときに作った句がこれなんです。二十六、七歳のころのことです。

 福田恆存氏の言葉に、「人間は感情が最も高揚しているときは、皆演技をしている」というのがあります。それが喜びであれ、悲しみであれ、人間が最高に激しているときに発する言葉というのは、非常に芝居がかっているはずだという説なんですね。私も小さいながらひとつの家庭を持ち、人生の第一歩を踏み出し、アパートの十二階から下に広がる風景を見渡し、風ともいえない涼しい空気が頬を触っていったときに、こんな些細なことにも満ち足りることのできる新婚の夫という役を演じてしまっていたのかもしれません。

 もっともこの句を作る少しまえに啄木、朔太郎と続けて詩人の役を舞台で演じていて、歌や詩を口ずさむことが多かったことから、自分も何か言葉を使って表現したいという気持ちがずっとあって、それも俳句を作る下地になっていたのではないかとも思うのです。

 句を作るようになってからというものは、他の人の句にも目がいくようになりました。高浜(虚子)先生、星野立子さんは別として、久保田万太郎さんの「時計屋の時計春の夜どれがほんと」や寺山修司氏の「枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや」などは面白い句だと思います。

 山頭火の「まつすぐな道でさみしい」「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」「春風のちよいと茶店が出来ました」などは好きな句です。彼の作品の一部を自分流に書き換えるということもしました。例えば「怒るな、しゃべるな、むさぼるな、ゆっくり歩け、しっかり歩け」という一節の中の「しゃべるな」を「嘆くな」に変えてみたり……。(句集内見出し)「銃後」の巻頭文を書き換えて「天我を殺さずして藝を演らしむ我生きて藝を演らむ我自らのまことなる藝を」としてみたりして自分で楽しんでいました。

 この時期にふっと浮かんだ句があります。

ぼたん雪降るを眺める隆子かわいい

 次女の隆子(女優の松たか子)がまだほんの子供だったころ、初めてぼたん雪を見たらしくて、窓辺にペしゃっと鳶足(とんびあし)のお座りをして口をぽかんと開けたまま、上から降ってくる大きな雪を「どこから降ってくるんだろう」という顔をして見ていたんで、それを句にしたんです。

 こうしてみると、私の好きな句というのは、ただ大自然を前に、ああ美しい、身も心も洗われた、というようなものよりも、風景の中に血の通った人間がいて、その心の機微に触れ、自分の気持ちが微妙に揺れ動くさまを捉えて作る句のほうにあるようです。

 Haiku has everything

 外国で句が浮かぶときというのは、むしろ文字を並べ換えながら句を詠むという感じより、絵を描くような心境です。つぎに挙げるニューヨークの句もそうです。情景に出あってその時の自分の心理状態を素直に、絵に描き表したという感じです。

ほのぼのと明けゆく冬のニューヨーク

凍て空に黒くそびゆる摩天楼

朝やけに浮かびし冬のマンハッタン

 一九九〇年、イギリスで「王様と私」というミュージカルに出演したときのことですが、その公演中に、何十年ぶりという大雪の日がありました。劇場まで行ったんですが、雪で公演が中止になってしまって、しばらく待った後にたまたま来たタクシーに楽屋口から乗ったんですね。するとそのタクシーの運転手さんが、「あなたはここの劇場で王様をやっている役者じゃないか」と言うんです。「そうだ」と答えると、「僕は昨日見たよ、とても感激した」とその運転手さんが言ってくれた。そんなやり取りをしながら雪の中、ようやくホテルまで着いて料金を払おうとすると、「いらない、とてもよかったからいらないよ」と手をふってすうっと走り去ってしまいました。

 こういう話なんかも、私にとっては一つの句なんですね。俳句的な状況世界、とでもいいましょうか……。私にとっての句は、必ずしも五・七・五の言葉で表現しなくても、人生の中の体験した感動そのものが私にとって句なんです。

憂ひ顔の騎士の祈りに星しとど

夢の騎士見上ぐる空にあげ雲雀

(いさぎよ)き汗の奈落に花一輪

 もう一つの話は、私が二十七歳のときニューヨークで「ラ・マンチャの男」を演じたときのことです。本場ブロードウェーの役者と一緒に二時間半に及ぶミュージカル。しかも英語の台詞で歌って踊ってというので、舞台を終えると本当に疲れ切ってしまって、夜寝ると翌日の午後四時近くまで全く目が覚めないというありさまでした。その「ラ・マンチャの男」の千秋楽の日、ドン・キホーテが見果てぬ夢を見ながら力なくポツリポツリ呟いて死んでゆく、最後のシーン。そのときふと見ると、一番前に座っている青い目の初老のご婦人が、私の英語の台詞に涙を流しているではありませんか。やがてハンドバッグから白いハンカチを取り出して、目頭を押さえているんです。薄暗い客席の中で、そのハンカチがちょうど白い光の玉のように私の目に入ってきました。

 その光景を見たときに、それまでの苦しかったことつらかったことがこみ上げてきて、その瞬間、ハンカチの白い光の中へ自分の身も心もすうっと吸い込まれていくような気がしました。

 そのとき、私はブロードウェーへ自分が来たのは、日本の歌舞伎役者が英語で芝居をしてみせて驚かせようとか、そんな次元のことではなくて、この身も心も観客の感動という白い光の玉の中へ吸い込まれていく、この瞬間を味わうために、来たんだな、役者というのはそういう瞬間を感じるために毎日芝居しているんだな、と思いました。それが句にこそ詠んでいませんが、私にとっては一つの句、俳句的な心象風景なのです。La Mancha has everything!というように、俳句というのは、叶った夢も見果てぬ夢もすべてを含み持っているすごいものだと思います。

 「アマデウス」のこと

凍空にサリエーリの慟哭フォルテシモ

「アマデウス」は、何十年に一度生まれるかという英国劇界の才人ピーター・シェーファーによる今世紀の傑作戯曲で、今のモーツァルトブームの火付け役になったものです。

「アマデウス」は、天才音楽家モーツァルトに激しい嫉妬を抱くサリエーリという同時代に生きた音楽家が、とうとう彼を毒殺してしまった(?)という設定なんですね。これはたまたま音楽家同士の話ですが、あらゆるジャンルの世界に置き換えられる刺激的な作品です。たとえばモーツァルトがヨーゼフ皇帝に自分が作曲したオペラの感想を求めると、「一晩で聴く音楽にしては少し音符が多すぎる」といわれるシーンがあります。すると彼は「多すぎも少なすぎもしません。この曲に必要なだけの音符です」と少しも動じない。これは何事にも共通すると思うんです。芝居でいえば、やりすぎでもやらなさすぎでもない、その芝居に必要なだけの藝の量というものがあると思うし、絵や彫刻でも、また俳句でも同じようなことがいえると思います。棋士の米長邦雄さんも「アマデウス」のせりふ、ひとつひとつが自分の棋士としての軌跡にだぶってくる、とおっしゃっていました。

 それまでこつこつ血の出るような努力を重ねてきたサリエーリの眼前に、突如放し飼いの狂犬のようなモーツァルトが現れて、引っかき回す。ただそれだけならまだしも、彼の指の先が綾なす音楽が、とにかく素晴らしい。サリエーリが彼の音楽の素晴らしさを分からなければ、まだよかったのですが、それを聞きわける耳を持っていたというのも、この悲劇の始まりになる。この辺のことはサリエーリならずとも、私たち役者の世界では、いつも味わわされていることなんです。ある時は自分をサリエーリと思ったり、またある時は、もしかしたら自分は人からモーツァルトと思われているのではないかと思ったり……。

 私の祖父の初代吉右衛門と六代目菊五郎は、大正から昭和にかけて、菊吉時代という歌舞伎の黄金時代を築きました。二人は大変なライバルで、エピソードもいろいろあります。菊五郎(ろくだいめ)は祖父と同じ舞台に出ているとき、しかも大事な出の前に、たばこをふかしながら、「今日は大観(横山)と青邨(前田)をつれて、鰻を食いにいく」と両画伯を呼び捨てにして、聞こえよがしにいったので、祖父は実に(いや)な気がしたと日記に書いています。菊五郎は名門の上に、天才肌でしたが、祖父は芝居茶屋の息子で、家柄もなく毎日それこそ真剣勝負で舞台に立っていたという感じですから、モーツァルトとサリエーリを彷彿とさせるものがありますね。今にして思うと二人ともお互いそれぞれの中に、モーツァルトとサリエーリの両面を感じあっていたのではないでしょうか。

サリエーリを勤め終へたり冬の月

 玉堂先生と祖父

 母方の祖父・初代中村吉右衛門は私の母がその一人娘であったため、それこそ目に入れても痛くない、というほど母をかわいがっていたようです。したがってその総領息子である私に対する盲目的なまでのかわいがりようはそれは大変なものでした。

 私が二つ三つのころ、一家を挙げて日光のお寺へ疎開していたことがありますが、戦中のことであまり芝居もなく祖父も、たぶん暇だったのでしょう。初孫の私はいいようにそのおもちゃにされていたようです。たとえば裏山へ行って薪を拾ったついでにひょいと思いついて、その薪を束ねて私に背負わせ、本をもたせて二宮金次郎の銅像を気取らせて眺めたり、あるいはまさかり担いだ金太郎にみせたり、五月の節句には紙で兜を折って私にかぶらせ、写真をとったりしています。きっと祖父だの母だのが大騒ぎをしていろいろ指図をしたのでしょうが、そこは私も役者の卵でありますから、その要望を聞いたりして思い入れよろしくポーズを取り、さぞ当時の一家の無聊を慰めるお役に立っていたことでしょう。

 祖父吉右衛門という人は、普段は筒袖の地味な服装(なり)をして黒縁の丸眼鏡という、一見俳人ふうのスタイルを好んでいました。いつもふところには句帳をいれて高浜虚子先生を大崇拝していました。洋画家の安井曾太郎先生とか日本画家の安田靫彦、川合玉堂両先生ともよくお会いしていたようです。玉堂先生とは、牛込の若宮町にいたころのご近所同士で親しいお付き合いがありました。実はこの「俳遊俳談」の写真を撮ってくださっている大倉舜二さんは、玉堂先生のお孫さんですが、まだ赤ん坊だった私を、少しお兄さんの舜二さんがある日お()りをしてくれて、「ご褒美におじいちゃんの吉右衛門さんから飴玉をもらったよ」と舜二さんから聞いたことがあります。『中村吉右衛門日記』によると、昭和十九年七月、「武州御嶽山の山中にお向こうの」玉堂先生を訪ね、

瀬の音は遠くなりけりまめまはし

 と詠み、「この時局にいよいよ我ら一家もいざという時の用心にと、貸家を頼みおきし故……」とあり、同年十一月には「昨日川合先生より又々美事なる柿を頂く」とあって、

頂きし柿神前に光り居り

 という句を添えています。

 玉堂先生から祖父に宛てた巻紙のお手紙は欄間額に仕立てられて、今も私に伝えられておりますが、塀越しのかえでの一枝が紅葉しているさまが描き添えてある素敵なものです。文面はどうやら祖父への新居祝いらしい。玉堂先生の画風は、色も線も柔らかで暖かで、そのお人柄が偲ばれますが、そこにちらりと洒脱さがのぞくところがいかにもいい。それにたぶん、俳諧的な洒落たお付き合いがあってこそ通じる先生のおどけの挨拶なのでしょう、祖父への宛て名書きの下に何と「お玉」と署名なさっているのでした。

 修善寺新井旅館のこと

 子供のころ、修善寺温泉へよく行きました。

 宿は必ず新井でした。というのは当時の新井の御主人(相原寛太郎さん)が母方の祖父(初代吉右衛門)の大の御贔屓(ごひいき)でしたから、祖父母や母たちも自然にそちらへ足が向いたのでしょう。

 相原さんは藝術一般を深く愛された方だそうで、文人や絵かきさん……紅葉、露伴、鏡花、虚子、それに大観、玉堂、紫紅、古径、青邨、龍子、御舟といった方々がよくここを訪れ、のちに祖父が安田靫彦さんと親交を結ぶに至ったのも、相原さんを通してだった、と聞いています。相原さんは祖父より十歳上で、もともと九代目団十郎を崇拝していたのですが、そのあとを継ぐ者として祖父に着目し、熱心に肩入れしてくださる有り難いパトロンだったそうです。

 祖父の日記にもしばしば相原さんが登場。

〈元来此処の主人は、支那の歴史家でもあり、南画家でもあり、学者であるので、変り者で東京にも一寸ない御方で、芝居が好きで……余は兄と思っている〉

 そして、「娘(母・正子)もいる、染五郎(父・白鸚)もいる、賑やかなこと」と祖父は御満悦で、

〈新井兄と話すと、飯も忘れて話込むので、娘は又はじまったという様な顔をして、行ってしまう。……向うもお喋舌りで余もお喋舌りで、終いには二人共に喋舌り疲れてがっかりして寝てしまうことが度々である〉

 祖父が心から新井の宿を楽しんでいた様子がわかって、ほほえましくなります。

 まだ洒落っ気のあった相原さんは、宿に着いた祖父を迎えるのに、庭の泉水にかかった太鼓橋の向こうから、掛け軸の入った桐箱を小脇にかいこみ(これは祖父の当たり役『馬盥(ばだらい)』の光秀が流浪のころ、客をもてなすために売った妻の切髪を春永(信長)から満座の中で与えられ、侮辱されての無念の引っ込みの形ですが)、ツンテレテッテチトトトン、ヨーイッ、と下座(げざ)囃子を口ずさみながら、こちらに意気揚々と登場してくるのです。祖父が嬉しそうにしていた姿が目に浮かびます。こうして毎日のように、鉄斎、大観と、代わる代わる蔵幅を掛けかえてくださっていたようです。

 あのころの新井の浴衣は、白地に墨色の市松模様で、これがなかなか洒落たセンスでした。今は変わってしまってちょっと残念。

 食事どきになると、襷がけの女中さんがトントントンと、速からず遅からずのいい足取りでおいしい料理を運んでくる。だんだん夕闇が迫って、池に部屋部屋の灯りが映り、夏ならひぐらしの声が聞こえたりして、やがてかすかな手拍子の音に混じってさんざめきが聞こえてくる。これらすべてが新井の宿の雰囲気をかもし出す効果音なのでした。

 祖父は安田靫彦先生のデザインによる天平風呂がお気に入りで早朝からよく入っていたようです。雷が大嫌いで、ゴロゴロと音がするとむやみに部屋を取り換えてもらうようなわがままも許されていたようですが、入浴中ではそうもいかなくて、こんな句があります。

稲妻や天平風呂の丸柱

 また、宿に近い梅林の祖父の句碑には、

鶯の鳴くがまゝなるわらび狩

 とあり、次の句には祖父の得意が思われて、幸せな気分になります。

我句碑を人に問はれて梅の花

 虚子先生のこと

 私の初舞台は戦後間もない昭和二十一年(一九四六)五月、東劇『助六』外郎売(ういろううり)の子で、そのときの名前は松本金太郎(きんたろう)でした。その初舞台を祝って虚子先生が句を贈ってくださり、それは祖父(初代吉右衛門)の楽屋の床の間に大切に掛けてあったようです。

幼きを助け二木の老桜   虚子

 というもので、老桜にたとえられているのは父方の祖父(七代目幸四郎)と母方の祖父(初代吉右衛門)です。幸四郎の祖父はそのとき七十五歳ですが、あの長丁場の助六役を元気につとめ、吉右衛門の祖父は敵役の髭の意休(いきゅう)につきあいました。そのときの揚巻(あげまき)菊五郎(ろくだいめ)の小父さんでしたから、思えば豪華絢爛、ずいぶんぜいたくな初舞台を踏ませていただいたものだと思います。

 祖父が虚子門下であり、虚子先生の句会にもたびたび出席していたことはかなり知られているようです。秀山(しゅうざん)という俳号を持ってはいたのですが、運座のときに自作の句を抜かれて読み上げられると、嬉しそうに「吉右衛門」と名乗っていたそうで、歳時記にもかなりの祖父の句が載っています。

 虚子先生に祖父がどういうわけで知遇を得ましたのか、詳しいことは今となってはよくわかりませんが、『虚子自伝』の中に興味深い(くだり)を見つけました。

 それによるとまず虚子夫人と修善寺の話でふれさせていただいた新井の大奥さんとが仲のいいクラスメートであったとのこと。その学校がちょっと変わっていて、駿河台のニコライ堂に付属している神学校で、その学校を卒業するとすぐ、新井の一人娘であった相原つるさんは日本橋の待合、藤村に見習いにやらされる。そこのおかみが祖父のご贔屓で、おかみは吉右衛門やおつるさんを引き連れてお詣りなどによく出かけた。まだ「子供あがり」の感じの祖父をおつるさんは「(きっ)ちゃん」と呼び、祖父はおつるさんを「新井のねえさん」と呼んだそうです。そういうわけで、修業を終えたおつるさんが新井旅館に戻ってから、祖父を親友の夫である虚子先生に引き合わせた、というわけでした。

 とにかく、祖父の虚子先生への傾倒ぶりは大変なものだったらしく、『日記』によく虚子先生や俳句のことが出てきます。

 祖父が亡くなったのは昭和二十九年(一九五四)、私が十二歳の時でしたから、祖父が私に俳句の話を持ち出すことなどはありませんでした。しかし祖父の長女である私の母は、祖父ゆずりでかなり句ごころがあったらしく、

菊人形少し似てゐる吉右衛門   正子(せいこ)

 などは、菊人形の句の中でも出色の句と、先日作家の丸谷才一先生に褒めていただき、また大岡信先生の朝日新聞名コラム「折々のうた」でもこの句を取り上げていただきました。

 母から私が聞いた話では、母がまだ五つ、六つのころ、次のような句を作ったそうです。

富士の色むらさき青や赤や白   正子(せいこ)

 祖父はきっと幼い娘の才能に驚喜乱舞したのでしょう。すぐに虚子先生に嬉しそうにご報告したのだと思います。すると日ごろ客観写生を主張なさるホトトギスの主宰は感心して、こうおっしゃったということです。

「うーん、とてもいい句だが、季題がないねえ。夏の富士……とすればいいとも言えるが、富士の色……のままでもいいのかもしれない」

 浅草は俳句の故郷

 浅草へは子供のころはよく来たものですが、近ごろは少し足が遠のいています。久しぶりに来てみると、やっぱり景色は変わったな、と思うし、なんとなく浅草特有の風情が乏しくなっていて寂しい気がしました。

 しかし変わらないものもあって、仲見世の川さき屋さん、ひょうたん屋さん、弁天山の美家古寿司や並木の藪に寄って、いかにも下町の人らしい気っぷのよさに接すると、ああ、まだ浅草はたしかにあった、とその存在を認めることになるのです。

 川さき屋さんはおもちゃ屋さんで、子供のころ母や祖母と立ち寄ると、ずいぶんいろんなおもちゃを気前よくくださったものなので、あのころ浅草へ行くのがとても楽しみでした。なぜそういうおつきあいなのか、今度初めて話を伺いましたが、何でも川さき屋さんの先々代あたりに腕のいい髪結いさんがいて、母方の祖母が髪を結ってもらっていたその御縁らしいのですが、とにかく長い長い因縁だというお話でした。

 美家古寿司は、当主のお父さんが久保田万太郎先生の俳句のお弟子だったそうで、とにかく俳句は毎日作らなくては駄目、というおいいつけをいまも忠実に守るいいお弟子だそうです。

 久保田先生の句碑は観音様のすぐ右手にありますが、拝見するたびに実にいい句だなと思います。

竹馬やいろはにほへとちりぢりに   万太郎

 少年時代への郷愁を誘われる句ですね。

 三社様の裏手には被官(ひかん)様というお稲荷さんがありますが、私が小さいころ母が大病をしたことがあって、子供ごころに被官様におねがいすればきっと治ると思いこみ、願かけをしたことがありました。そのとき母は全快したので、今度は第二の母とも思っていたばあや(ばあばあと呼んでいました)が重病になったときも被官様におねがいしました。私が二十二のときで、大阪で『王様と私』に出演が決まり、後ろ髪を引かれる思いで東京を離れましたが、途中でばあやは危篤になり、何回か夜間飛行(当時のムーンライト)で病院と大阪とを往復したものでした。何回目のときか、「キツネが座ってる……」と、うわ言を言っていましたので、これは被官様のお狐様が守ってくださるのかと有り難く思ったのですが、とうとう千秋楽の日の夜、私の帰りを待っていたように「お疲れさま」と言ってすぐに最後の息を引き取りました。

 思えばあのころはよく観音様へ除夜詣に出かけたものでした。

 祖父の句に、

女房も同じ氏子や除夜詣

 というのがあり、浅草への除夜詣はわが家の昔からのしきたりだったのでしょう。

 いまも忘れない母の姿は、この除夜詣の記憶に結びつくものです。ある年の大晦日、母は観音様の本堂に上って真正面の最前列に進み出ると、襟巻きとコートを外して腕にかけ、長い間、じっと立って、一心不乱に祈り続けているのでした。何をあんなにおねがいすることがあったのだろうと思うほど、それは長いこと、両手をあわせておりました。おそらく自分のねがいごとは何一つ入ってなかったろうと思います。あの神々しいまでにスックと立った後ろ姿が、純粋な心で神と正面から対峙していたことを物語っていたからでした。

 久保田万太郎先生のこと

 父白鸚が文学座と合同で『明智光秀』に出演(東横ホール)したときは、父一人が褒められる形になって、新劇のほうの気勢があまり上がりませんでした。

 その千秋楽の日、森蘭丸役の私が下手(しもて)の袖で出番を待っていると、久保田先生がスリッパを突っかけてトントントンと階段を下りていらっしゃいました。でっぷりした体躯に三つ揃いの背広姿で、手を胸のあたりに軽く組み、鼻眼鏡からのぞきこむように信長役の芥川比呂志さんに声を掛けます。

「どーだい? 歌舞伎は。……ね、たいしたことないだろ?」

 つまり、芥川さんをそれとなく慰めて、気を楽にさせてやろうとなさったのだと思います。粋な励まし方でした。

 その後、テレビドラマ『十三夜』(樋口一葉原作)に私が出演したときの演出は久保田先生でした。私がまだ染五郎だった時分です。

 歌舞伎の助六物の中に『根元(こんげん)助六』という芝居がありますが、この演出をなさったのも久保田先生でした。この助六は、実は五郎時致(ときむね)という荒事っぽい素朴さがなくてはならない、とおっしゃったことが印象的でした。

荒事の桜和事の柳かな   万太郎

 という句は、まさに言い得て妙。私が役者のせいで余計に深く共感させられるのかもしれませんが。

 ところで、私には先生の人間的な一面にふれたと思える思い出があります。それは、横須賀線の電車の中で、晩年の先生が少し酔って恋人の三隅一子さんと肩を寄せ合うように乗っておられたお姿です。そのときの三隅さんは、お年を召しても身綺麗な方だなという印象でした。久保田先生の年譜によると、六十八歳のときに不仲だった妻と別居して愛人と隠栖、その五年後の年の暮れに三隅一子急逝、とあって、私は赤坂福吉町にあったそのお宅に、弔問に伺った憶えがあります。通夜の客を避け、書斎に一人こもって火鉢をかかえている七十三歳の老人が、シクシクとまるで少年のように嗚咽(おえつ)している眺めは、二十歳の私にはとても衝撃的でした。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   万太郎

 この句は先生の絶筆の句のように思われているようですが、恋人を失っていよいよ孤独の深みに陥り、また深酒をなさるようになった結果の句だということです。

 しかし翌年の五月六日、美食家の先生は赤貝を喉につまらせて窒息死なさってしまう。恋人のあとを追うように……。

 今思うと、先生は大人とか、老人とか、少年とかいう枠組みにあてはまらない、もっと自由な存在だった気がします。最後まで青春だった、と言えるかもしれない。こういう心を私もずっと持ち続けていたいものです。

時計屋の時計春の夜どれがほんと   万太郎

 早稲田大学

 私が早稲田を受験することは、否も応もなく母によって決められていて、もし落ちたら大学へ行かずに役者に専念する、というのが母の考えでした。蛮カラで書生っぽ気質のある早稲田の校風が何となく父白鸚の藝風と相通じるところがあって、母はそれで一途に早稲田と思い定めたのでしょう。

 合格すると、父はことのほか喜んで、お祝いとして銀座和光で選んでくれた置き時計が、いまもまだ動いています。

 先日、久しぶりに早稲田界隈を歩いてみましたら、私の入学式を控えて母と買った角帽の店がそのままありましたし、お昼になるとよく通った三朝庵という蕎麦屋さんもちゃんとあって、とてもなつかしかった……。思わず店へ入ると、気っぷのいいおかみさんが昔のままの感じで元気に立ち働いていて、急に学生時代に戻った気分になりました。ついでに茶房というコーヒーの店を探したのですが、これは見つからなくて残念。あの店はステンドグラスの窓越しの光で昼間はいつも薄暗く、ジャズのLPレコードが二六時中かかっていましたっけ。

 私は結局在学中に役者の仕事がどんどん忙しくなり、二年で中退してしまったのですが、出来ることならあんなに楽しかった学生生活をもっと満喫したかった、と思います。

 ところで十何年か前(一九八二年)、早稲田大学創立百年記念行事として、私の弁慶、弟(吉右衛門)の富樫(とがし)で『勧進帳』を上演したことがありました。これが大隈講堂で歌舞伎を上演する最初の公演と伺って、ちょっと意外な気がしたものです。上演に先立って、舞台中央に立ち、講堂の内部をじっと見渡してみると、ブロードウェーのマーティンベック劇場に初めて立ったときの気分に似て、ここの建物自体が何てノスタルジックな素敵な場所だろう、という感動が静かにわき上がりました。つまり内部に派手さがなく、演ぜられる物がより際立つように、じつにいい具合に出来ている講堂だと思う。この空間には、シェークスピアがきっとよく似合うでしょう。

 その昔、坪内逍遙先生は、紫の風呂敷包みをおもむろに開き、シェークスピアの原書を取り出して、講義をなさったと聞きました。とても優雅な時間がそこに流れたような気がします。学生たちは、知識として学ぶというよりも、むしろ心のぜいたくとしてそれを享受していたのでしょう。羨ましい限りです。

 シェークスピアと私とは縁が深く、まず『ハムレット』、それから近くは『リア王』『オセロー』を演じて、今度はいよいよ『マクベス』に挑むことになりました。これでシェークスピアの四大悲劇をすべて演じることになります。

 先日、母校を訪ねた折に演劇博物館へも立ち寄ってみましたが、建物の壁に書かれた Totus Mundus Agit Historionem(全世界は劇場なり)の文字に改めて衝撃を受けました。

 早稲田大学はこんなにも演劇と密接なつながりを持った大学だったわけですね。

 母が一にも二にもただ早稲田、と決めていた理由が、いまごろになってやっとわかりかけたような気がします。

 若宮町界隈

 私が生まれたのは神楽坂(東京・新宿区)すぐ近く、若宮町(わかみやちょう)というところです。いや、袋町ではなかったか、と言われたこともありますが、母方の祖父初代吉右衛門に「若宮町!」という掛け声が掛かった時代もあったとかで、多分間違いないと思います。大向こう(三階席)から役者に掛ける掛け声は、普通は高麗屋など、いわゆる屋号で掛けるのですが、それをもっと凝ろうとすると、役者の住んでいる町の名前で掛けることがあるんです。美男で名高い十五代目羽左衛門のおじさんが「明舟町(あけふねちょう)」、先代の梅幸おじさんが「永田町」、松緑の叔父が「弁慶橋」といった具合で、松緑の叔父などはそう呼ばれたいばっかりに一所懸命弁慶橋(赤坂)に地所を見つけた、と聞いたことがありました。

 若宮町には若宮八幡宮があって、祖父がそこで娘(私の母)の安産祈願をした、と『吉右衛門日記』に書いてあったと思います。祖父はとても信心深い人で、その表現の仕方が実にていねいというのか、ちょっとオーバーな感じのある人だったので、神社の境内で土下座をしてしまうのだそうです。すると供をしているお弟子たちも右へならえをしなくてはならず、すると袴に泥がついて非常に困った、と古いお弟子の吉十郎という人が嘆いていたことがありました。「とにかく旦那(祖父のこと)は袴を何枚も持っていらっしゃるからいいけれど、われわれは一張羅なんですからねぇ」と言って。

 それで、若宮町にいた時分の私の記憶はあまりないのですが、そのころお向かいが川合玉堂先生のお宅で、そのお孫さんがカメラマンの大倉舜二さんなわけですが、彼は私よりいくつかお兄さんなので、私の赤ん坊時代の愉快な情景を明確に頭の中でシャッターを押し、のちに私に話してくれた。だから今ではまるでそれが自分自身の記憶のように思える、なつかしい思い出があるのです。

 ある日、舜二さんがふと見ると路上に乳母車が止めてあり、まわりに何人か小さい子供が集まっている。近寄って見ると、乳母車の中の子供(私)が「ウェーン、ウェーン」と泣いて見せ、それにつられてまわりの子供が「ウェーン、ウェーン」と泣く。中の子供はなかなかそれが気に入らず、なおも「ウェーン、ウェーン」と見本を示していたというんです。「生まれながらに、いかにも役者なんだねえ。年上の子供に泣き方を教えるとは……」と、大倉さんは呆れ顔で褒めてくれるんですが……。

 ところで、私の母は初代吉右衛門の一人娘で、病弱だったせいで真綿にくるまれるようにして大事に育てられたのですが、四つか五つのころに染五郎時代の父(白鸚)を好きになり、十四、五で結婚したい(父と母は十三違い)、と言い出して祖父に大目玉を頂戴したそうです。しかし、意志を曲げず、結婚して必ず男の子を二人生んで一人を播磨屋の跡継ぎにするから、と宣言し、その通りにしてしまった、といいますから、何ともはや、すごい人だと思います。

 実際に、祖父は娘婿(白鸚)とは口をきいたそうですが、母とは男の子が二人生まれるまでほとんど口をきいてくれなかった、ということです。

 祖父は若宮八幡宮に土下座をして、何と言ってお願いをしていたのでしょうか……。

 その時分の母の句があります。何となくほっとしているような感じで微笑ましい。

朝東風(あさこち)や吾子には少し強けれど   正子

秋の日は吾子の(おもて)に強かりし    〃

 京都のこと

さみだれの墨染(ごろも)濡らしをり

老僧のころもの真下草萌ゆる

良寛にすみれたんぽぽれんげ草

 この三句は、映画『良寛』の撮影のために久々に京都に滞在して詠んだ句です。

 京都はとても好きなところで、小さいころから幾度となく訪れています。小学校のときの修学旅行も奈良京都でした。そんな子供でも仕事の都合があって、日程を途中で切り上げ、京都駅から夜行列車の「つばめ」に乗って一人寂しく帰って行ったという、ちょっと切ない思い出もあります。

 初めて京都へ来たのはもっと小さいころ。母方の祖父初代吉右衛門が『盛綱陣屋』の盛綱で私が小四郎をつとめた子役のころだったと思います。

 祖父は、本当に京都が好きな人だったらしく、京都を詠んだ句がかなりあります。

顔見世の楽屋入まで清水に

冬ざれや四條をわたる楽屋入

京が好きこのさみだれの音が好き

 祖父は京都へ来ると、祇園のお茶屋「吉つや」さんが長い間の御贔屓さんで、何十年も変わらずそこへ滞在しては芝居へ通っていたようです。祖父の寝泊まりしていた部屋は二階。浜さんというそのころからの住み込みさんが祖父の世話係なんですが、いつもピリピリと神経質で疳筋を立てていた祖父が怖くて、呼吸(いき)をつめてそっと布団を敷いたものです、という話は、今聞いてもいかにもの感じだなあ、と思いますね。

 私の父先代幸四郎(自鸚)も、夏になると『忠臣蔵』とか『花の生涯』とかの映画に出るためによく京都へ来たものでした。やはり吉つやさんにご厄介になることが多く、夏休みに入ると私と弟が父を訪ねて、吉つやさんの玄関先に入るなりお座敷に行く前、浴衣で遊びに来ていた舞妓さんと新聞紙を丸めて立ち廻りを始めたり、そのまま裸足で庭にまわったりして父に叱られたことがありました。

 父はその日の撮影がすむと祇園のトップフードという喫茶店で藝妓さんたちとまず一服するんですが、そういうところに私が行くと、チョコレートサンデーでもクリームパフェでも何でも好きなものを食べさせてくれて、でも子供はそこでおしまい。父はいずこともなく消えてしまって、私はバイバイさせられたものでした。

 あのころの祇園はまだのどかで、道で石蹴りをして遊んだりしていると、眠そうな売り声の金魚屋さんが通ったり、氷屋さんがリヤカーを引いてきて粗い目の鋸で氷をみごとに切るのを眺めたりしたものです。日が落ちればお茶屋さんの軒先の縁台で夕涼みをして、これからお座敷へ出かける藝妓さんや舞妓さんの後ろ姿に見とれたり、今のネオンがいっぱいの祇園に比べると夢のような世界でした。

 とは言っても京都へ来ると今でも心がゆったりして、優雅な気分になれるのは、長い伝統の底力でしょうか。南座へ出たり、映画やテレビの撮影のために京都へ来るのは、私の楽しみのひとつです。来ればたいてい吉つやさんをお訪ねする。ここへ来て、祖父の俳句の貼り混ぜの屛風とか鏑木(清方)先生や、大橋月皎(げっこう)さんの絵に祖父が俳句を書き添えた掛け物とか、父の描いた親子狸の絵とかを眺めるたびに、自分の家の伝統をひしひしと感じ取る。そういう場所はここのほかちょっとないかもしれません。

 とぼけた顔の親子狸の絵が掛けてあるのは一階の玄関ですが、その脇の廊下を渡った奥にこぢんまりとした部屋があります。寒い寒い冬の京都のその部屋で、私は父から相撲場(『双蝶々曲輪日記(ふたつてふてふくるわにつき)』)の放駒長吉(はなれごまちょうきち)の役を厳しく稽古してもらいました。あの舞台はおかげさまで戸板康二先生に褒めていただきましたが、その同じ部屋で、私は息子の染五郎に同じ役を教えました。あのときの父の真剣な眼差しがありありと思い浮かんだものでした。

 奥入瀬渓谷をゆく

 父(白鸚)があるとき鎌倉雪ノ下の家の茶の間で、「奥入瀬(おいらせ)へ行ってみたいな」とつぶやいたことがありました。壮年期の働きざかりの父がそういうのんびりした旅に出られるはずもなく、多分母はにっこりうなずいただけですませたように思います。私にはその情景がずっと胸の底に残っていました。

 思えば両親とも鎌倉という土地が好きでした。頼朝が好きだったからかもしれません。頼朝の妻の政子が夏に雪が見たいと言い出して、白絹を雪に見立てて山一面に張りめぐらせたという絹張山の縁起など、私も好きな話です。北鎌倉から移った雪ノ下の家の縁先から、この山がよく眺められました。

 父も母も、江戸時代になる少し前の室町・鎌倉、あの野性的な感じを残した武家の美学が気に入っていたように思います。江戸に入って何となくゾロッと軟弱な世の中になりましたが、金蒔絵の杯で酒を汲み交わすより、白木の三方の上の土器(かわらけ)に酒を注いで、縁から月や山を眺めていたい、と思うような父でした。

 その父が生前望みながらついに果たせなかった奥入瀬渓谷への旅を、今回ふと思い立ったのでしたが、来てみて父の気持ちがよくわかった気がします。ぶなやかつらの幹の太さ、木々の豊かさ、苔のきれいさ、清冽な川の流れ。とにかく風景のスケールが大きくて、空気が清浄で、すがすがしい。しぶきを上げて光る七滝に見とれながら歩いて行くと、父はきっとこういう滝が見たかったのかな、という気になる。今にして思うと、父は日本人のかつて持っていた(いさぎよ)さみたいなものが好きでした。執着心とかねちっこさからはおよそ無縁の所にいたと思う。

 暮れなずむころ、ホテルのラウンジから、十和田湖の水面(みなも)に小雨が打ちつけているような鉛色のモノトーンの風景を眺めていると、いかにも父の好みに合いそうな景色だと思えてきます。父は明治生まれで、昔の日本人にも徹し切れず、かと言って現代とも妥協し切れない、日本人としてのこだわりを残しつつもそれを少しずつ失くしていかなければならない時代の人でした。プロセスを歩んでいるときって、人間はつらいものだと思います。失くすか持つか、わかるかわからないか、出来るか出来ないか……その途中にいるときがつらい。藝の道も同じことで、このつらさ、いつまで続くのかなあ、と思うことがある。

 奥入瀬のこの清らかな空気の中にいると、風や光から、お前はどういう生き方をしてきたのか、と問いかけられたような気がしてくる。けれどもそれが煩わしいことではなく、いっそ心地よいことだったのが意外でした。父も母も、こういう気持ちを味わいたかったのだろうと思います。

 両親とも既にこの世になく、特に父とはただの一度もじっくり話し合ったことがなくて、いつも断片的に言葉を交わし合ったという印象しかありません。しかし、父と一緒のいい思いや、楽しい思いが持てたかどうかは、回数によるものなんかじゃない、と思う。恋人でも夫婦でも親子でも、たとえ一回でもそういう瞬間が持てればそれでいい。芝居も同じで、一生のうち一度でもそういう気持ちになれたとしたら大満足、そういう気がします。

 奥入瀬の静かで生命力のあふれる緑の中にいて、とても慰められる一瞬が持てた。満ち足りて車に戻ろうとすると、そのとき初めて強い日射しが洩れてあたりが輝いて見え、それが父の微笑のように見えたのでした。

 「マクベス」のことなど

 シェークスピアの「マクベス」を演じて、四大悲劇のタイトルロールすべてを完結したということで話題になりましたが、これは結果的にそうなっただけで別にそれが目的だったわけではありません。たまたまそうなるような素晴らしいスタッフとの出会いが、そのときどきにあったからだと思います。

 自分の前に巨大な山のように立ちはだかる演劇というものに対峙しながら、これは苦しくつらい作業だけれども、いっそそれが心地よいとさえ思います。そして何十年間も、歌舞伎と現代劇という水と油のような二つの演劇にどっぷりつかりこんで、最近少しわかりかけたことがある。でもそれは演劇理論ではなく、役者が身体で感じ取ったものなんです。

 その一つは、耳を磨く、()を磨く、ということ。いい台詞を言おうとすると、いったいに声量とか、腹式呼吸とか、発声とかに気を取られがちですが、私はいつごろからか、音は耳から入るものだ、ということを切実に感じました。それに関連して、台詞はしゃべっている時よりも、しゃべってないときの方が難しい、ということにも思い至ったのでした。台本通りの同じ台詞を言っていながら、十人が十人全部違って聞こえるのは、じつは何も言ってないところの()がすべて異なるからだと思うのです。つまり、言い出すまでの間、台詞のテンポ、言ったあとの余韻、相手の台詞を受ける間合い……。このセンスを磨かないと藝の奥深いところはのぞけない。私が尊敬する東西の役者たちに共通して言えることは、このことを無意識に把握しているんじゃないかな、と、そんな気がしてしまう。

 もう一つは、芝居の原点に立ち戻って考えるということ。「マクベス」の演出家デヴィッド・ルヴォーさんは、芝居作りの途次、しばしば「シェークスピアはこう言ってます」と言いました。その結果、ノーカット休憩なしで二時間十五分。ここにすべてを凝縮し、われわれはぐいぐい観客を引っ張り、圧倒する舞台に挑むことになるわけですが、この新進気鋭の演劇人であるルヴォーさんが、何か問題点があると必ず原点に戻って考えておられることに感心しました。

 しかしそれは、私が歌舞伎を演じるときにも共通して言えることなのです。シェークスピアの台詞が一見短絡的でつながりがなくても、無理して辻褄を合わさずそこは役者の力量で言いこなしてくれないと困る、とルヴォーさんは注文を出しましたが、南北や黙阿弥の台詞にもしばしば飛躍が見られます。それを今ふうにわかりやすく改訂したりするよりも、原本に当たってじっと考えると、その台詞にこめられたその人物の心のゆれが立ち上って見えてくるような気がします。

 これまでにさまざまなジャンルの素晴らしい演劇人に出会って、いろんなことを感じ取りましたが、すべての演劇は根底では共通しているな、という思いが近ごろ強くなりました。

 青森側と函館側から掘り進める青函トンネルがどこかで抜け通るように、いつかはそうなりたい。そのときが私の藝の見極め……何十年か芝居をしてきた一応の解答なのかな、と思うのです。

 麹町の家

 若宮町から渋谷へ、そして次に私たち一家が移ったのは、麹町でした。私はそこで最も多感な少年時代を過ごしました。

 先日、ふと思い立って麹町へ行ってみたのですが、曖昧な記憶をたどりながら車を走らせると、周囲はすっかり変わってしまっている中にポツンと一軒だけ、元の私たちの家がたしかにそこにありました。なつかしさがこみ上げてきて、今はよそ様のお宅だというのに、つい庭先をのぞきこんだりしましたが、おかげで少年の日のある情景がまざまざと脳裏によみがえったのでした。

 それは、庭で、「一人野球」に興じる私の姿です。あの家の塀の外には街灯が立っていて、夕暮れになるとポッと灯がともるのですが、そんな時間になるまで、夢中になって一人遊びをしていたのです。つまり、

「ピッチャー投げました。あ、打ちました、打ちました。一塁、セーフ!」

 と、たった一人で自分の実況中継をしながら、球を投げたり打ったり走ったり……と、そんなことにかなり長時間を費やしていたわけで、それをまた弟の吉右衛門が二階のテラスからじっと眺めていて、

「ああ、兄貴も寂しい人だな」

 と呟いたとかで、今思えば笑ってしまう話ですが、あのころ私たちの家は互いに一人で、妹もポツンと一人でいたような気がします。

 というのも、母は普通世間一般のおふくろとかお母さんとかいうイメージとはまったくかけ離れた、実に毅然とした完璧主義者で、人間は年を重ねるとどこかに濁りやくもりが生じるものですが、母は亡くなるまでそういうことのない人でした。たとえて言えば皮膚が透けて中の血管が見えるような危なっかしいまでに純粋な生涯を終えた人でした。そういう人が母親として家の中にいたのですから子供にとってはそれが重荷で……。互いに一人でポツンといた、というわけです。

 母は長い髪をクルクルと後ろで巻いてピンで止め、お化粧もほとんどせずに、いつもちょっと地味めなものを着て、小さめの足袋をこごんでキュッと力をこめてはいていました。

 私たち兄弟が十代のころの木の芽会という勉強芝居の公演のときは、ほとんど母が教えてくれた。義太夫からせりふ回しから完璧に出来る人で、ダメ出しをしてそこをやって見せてくれるときのうまさたるや、もう啞然とするばかり。この人が男だったら大変な名優になっていただろうし、そうなるとわれわれ兄弟はどこに生まれていたのだろう……。

 父白鸚に一貫して惚れ抜いた母は、父を亡くしてからはますます潔癖な自分の生き方を徹底して貫き通しました。美的でないものやいい加減さを本能的に好まない人でしたから、間に合わせとか妥協をせずに、まずいものなら食べないでいる、という主義でした。

 生来病弱でしたから、晩年は養生をして自分をだましだまし長生きをするよりも、小唄の松派を興して家元となり、薫風曲(くんぷうきょく)の工夫に明け暮れて寂しさに耐えてきらめく一瞬の松正子であることに、母は自分の人生を賭けたのでしょう。そう思います。

亡き(つま)の手のぬくもりの懐しく   正子

見る人もなく白藤の盛りかな     〃

 歌舞伎役者として

 歌舞伎というのは、「待つ演劇」ではないかと近ごろ思うようになりました。物ごころつかない子供のころに初舞台を踏み、子役時代、中途半端な少年期、それからやっと若手と呼ばれて、まだまだ一人前になるのは程遠い。そしていつの間にか私も五十代に入り、これからは残念ながら肉体的には衰えてゆく、というのが自然のなりゆきですが、しかしただ衰えてゆくだけではあまりに悲しい。それを凌駕するものこそ藝力––藝の力である、と思うのです。

 また、お客様にとっても歌舞伎は「待つ演劇」なのではないでしょうか。若手のころからふと気に留めた役者が、途中伸び悩んだり、意外によくなったりするのを、一喜一憂なさりながら、その役者が円熟の境地に達するのを願って待ち、やがて枯れてゆく、その枯れた時さえも楽しもうとしてくださる。書で言えば、楷書から行書、草書になって、最後には墨色のにじみや、かすれまでを面白がり、楽しんでくださろうとする……。それが本当のご贔屓、という気がします。

 近ごろの私は、歌舞伎の大役を演じるに当たって、歌舞伎のことは歌舞伎にきけ、ということを実行しています。この役を生かすにはどうしたら一番いいですか? とじっと耳を澄ましていると何か答えが返ってくる。このごろだんだん答えがはっきり聞こえてくるようになりました。こうやってほしいんだ、とわかってくるんです。

 たとえば、『桜姫東文章(さくらひめあづまぶんしよう)』(鶴屋南北)の清玄(せいげん)が稚児白菊丸と心中し、自分は生き残る。その幕切れに「これも前世の因縁か」と単に因果を嘆く弱い男ではなく、破戒僧として肚をくくり、運命に立ち向かってやろうと、数珠をプツッと切る。そういう能動的な清玄として私は演じよう、と思い至るわけです。歌舞伎を変革しようとするのではなく、本来の、よりよい姿にして演じたいと願っています。

 さて、これからの歌舞伎への私の夢はといえば、歌舞伎は古い形のまま厳然と在るほうがいい、ということです。音響や照明技術やあらゆる舞台機構を駆使して見せるのが大歌舞伎ではなく、生身の役者が生の声で台詞を言い、額に汗して動いて見せるのが歌舞伎、役者も揃い、藝も揃い、そこに時の流れがあって、待ってくださるお客様がいる、それが本当の大歌舞伎だと思います。

 そして大舞台の幕を一人で切るときに、大星由良之助なり、駒形茂兵衛なり、それらしくはやれるとしても、本当にその人物になってるか、なってないか、それが究極だと思うのです。

 ゆえに役者は、藝力を信じて生きてゆくしかない。これが役者のすべてでしょう。役者も一応、ありきたりの人間としての幸せを求めはしますが、それが藝力を求めることを超えたら、役者は失格だと思う。父白鸚は、「一生に一回、これという芝居が出来れば、おれはいい」と言っていました。私もそうだと思います。

 藝力を求めて生きることはつらく苦しいけれど、それがいっそまた心地よいことでもある、というのが役者なのだと思います。

 (つけたり)・父幸四郎(先代白鸚)との対話

 祖父七代目・松本幸四郎

染五郎(当代幸四郎) まず、おじいさんの話から。

幸四郎(先代・父) おやじのいちばん印象に残っていること、さあねえ……。こっちなんて、もう母親は三人も死んじゃってるから、親といったら、おやじより印象に残ってないよね。

 だいいちあれだよ、君たちとは違って、こっちは学校へいっていて芝居をしてなかったからね。それに、まあ役者みんなの悩みだと思うが、ほら家にいるときが少なかった。つまり、家庭というものがなかった。それを、おやじは気にしてたんだね。

 まあよく世間の人たちはさ、先代(先々代)の幸四郎って人は、子供たち(先代市川団十郎、先代尾上松緑)を手離し、他人のもとで修業させたというけれども、確かに結果としてはそうなってるけど、実はおやじの理想ってえのは、まあ息子たちみなに嫁をもたせて、子供を、孫を、という大家族主義だったらしいね。雄大なる家族主義だったんだね。

染五郎 じゃあ、むしろ無理に子供を手離すんじゃなくて、大きな意味でのファミリー・コンツェルンをつくろうと思ったのかしら。

幸四郎 まあ、そういう気持もあったろうね。しかし、それが全然反対になったわけだよね。みんな夫婦になれば離れちゃう、あげくの果てが、よそに修業にいっちゃって、そこにそれぞれ居ついてしまった。

染五郎 そうすると、おやじ三兄弟をそれぞれ他人にあずけたのは、祖父が自分からあずけたってことになってるけど?……。

幸四郎 ううん、そうじゃない、そうじゃない。

染五郎 そうじゃなしに息子たちのほうから……。

幸四郎 うん、そうだよ。いろいろ原因はあるが……、それはやっぱり……母親がいないってことが大きかったね。

染五郎 そんなことはじめて聞いたな。

幸四郎 感情的にいえば、まあ、つまり……家出だよ。(笑)

染五郎 なるほど。

幸四郎 息子たちがさ、不良ならばさ、みーんな家を飛び出していた。ところが、おやじは若いときとても苦労してたろ、だから自分の息子には苦労させたくないってね……。

 事実ぼくは食うに困ったことはなかった。そのかわり、俺は借金も残さないけれど、遺産も残さないという主義なんだよ……。そういうおやじだった。

 ふり返ってみれば、われわれ息子が、まあ平凡だったんだね。平凡だったから、うまくいったのかもしれない。人間、ときには平々凡々ということの意味を、じっくり味わってみる必要があるね。考えてみれば、人間が生まれて死ぬなんてことも、その平々凡々の中に入るかもしれないしね。

染五郎 ふーん。

幸四郎 そのおやじも、若いころはかんしゃくもちだったんだよ。ただ、おやじらしいのはいつも手もとに、そのさ、怒ったときに投げつけるための湯呑があったんだよ。その六兵衛(=作の湯呑)をね……それを投げつけるんだ。かならず六兵衛なんだ……。六兵衛なら割れないからね。(笑)

 それから、もう一つはね、本棚があってさ、その中の本がきちーんと整頓されて並んでたそうだよ。うん。

 まあ、晩年は汚ない家でも平気で住んでたし、着物だってなんだって、かまわず着てたけど、若いときは本当にきちんとしていたそうだよ。それにおやじは、どうも外国へいきたかったらしいんだね。外国のものを随分集め、それからー、ハイカラな洋服を着てた。おまけに、台詞も克明に覚えたらしい。

 晩年は台詞をちっとも覚えなかったけど(笑)……。まあ、つまりうちのおやじは、若いときと晩年とはたいへんなかわりようであったということさ……。

 だから、若いときの気持が残っていて、自分たちの子供のことを考えると、母親が三人も死んじゃって苦労をしている、けれども子供に対して責任みたいなものを感じて、晩年はあんな好々爺みたいになったのかもしれない。

染五郎 なるほどね……。

 名優の子に名優なし……

染五郎 話はかわるけど、「名優の子供に名優なし」ってなこというじゃない、これについてはどう?

幸四郎 これはね、ぼくはそらあ、たまたまそういう天才があらわれればそうかもしれないけれど、ある血のつながりがあればね、かならず名優の子は名優であって、サラブレッドの子はサラブレッドであって、ぼくはかまわないと思うんだよ。それが当然だと思うんだよ。ま、それはたまたまできの悪いのができるかもしれないけどさ。(笑)

 しかし、それは仕方のないことであって、やはりサラブレッドの子はサラブレッドの子であることでいいと思う。

 たとえば、現代劇やなにかと違って歌舞伎はね、ぼくに対しておやじはそういうことを望んでいたし、ぼくなんぞも、君に対してそれを考えていたからね。

 だから、ぼくはぼくだけの論でいけば、親となった以上は、自分のことだけでなく、やっぱりね、自分の親なりね、自分の子供のことまで考えなくちゃいけないということだ。仕事の意味でだよ。

 家族とか恋人とかってことはさておいて、仕事の意味ではさ、やっぱり自分の親はこういうことをやってた、自分の子はこういうことってことの関連性がなかったら、成功しないね。とくに藝人てえのは自分だけだろ、自分のことしか考えないのが藝人だろ。

染五郎 ……。

幸四郎 しかし、それだけの考えだったら、藝人としてはおろか、人間として一人前じゃあないよ。藝人も人間だから、そうだと思うな、そういうことは。自分から踏み出さなきゃうそだろ。

染五郎 うんうん。

幸四郎 うちのおやじがはたしてそんなところまで考えていたかどうかわからないけれど……。でも、結果として考えてたようなことになったじゃないか。(笑)

 新しがり屋の血統

染五郎 じゃあ、今度は少しおやじの仕事の話を、なんでもいいから、ざっくばらんに……。

幸四郎 そういわれても、たくさんあって……。

 そう、たとえばぼくが新劇の人たちとやる(昭和三十二年、文学座との『明智光秀』公演)(昭和三十五年、日本初のプロデューサー・システムによるシェークスピアの『オセロ』)とか、ぼくが(竹本)綱太夫さんとやる(昭和三十四年『日向島』試演)ということはね、つまり世間を喜ばせてやろうとか、びっくりさせてやろうとかいうこととは、実は正反対なんだよ。もう地味で、地道で、コツコツやったことのほうが、世間の人はびっくりするんだね。『明智光秀』も『オセロ』も『日向島』も、やったときはみんなとてもびっくりしたけど、三つともよく考えれば地味な仕事だよ。

 これはね、それだけ世間の人も十人十色……ということだね。藝能人のほうだって、たとえば、週刊誌でスキャンダルを売って世間を驚かしてやろうという藝人と、そうでない、なるたけ自分の本業をコツコツやっていて、それを発表したら、やれ新しいの進歩的だのといわれる俳優と、ぼくの場合は、幸か不幸かまさに後者のほうだね。(笑)

 自分じゃもうね、なんていうか義太夫の古典味を追求しようとかさ、新劇の中の新しいものを吸収しようとかという、クソまじめなことをやっていることが、世間の人は進歩的だとかなんだとかね……。非常におおげさにとられるんだね。

 つまり、地味にコツコツやった仕事が、逆に新しいととられる。ぼくの場合、往々にしてそんなことが多かった。

染五郎 うーん。

幸四郎 それに、うちのおやじも若いとき、その進歩的というやつでさ。九代目・団十郎が『高時』をやったときに、鹿島清兵衛じゃないけども、あのほら、マグネシウム、その時分まだ、あんまりなかったんだよね。それを使って、パパッとやっていなびかりを考案して、自分が天井裏に上がってやったんだって。ちょうど鹿島さんが写真技術をはじめてやったその時分にだよ。だから、おやじもそんな新しがり屋なところがあったんだよね。

染五郎 うん。

幸四郎 なあーんか、そういうところは家の系統だね。

 だから、君がミュージカルやったり、現代劇をやったり、なんてえことはわが先祖に原因なきにしもあらずだよ。(笑)

 団十郎(くだいめ)のことなど

染五郎 では次に、あまり知られてないことを……。たとえば、お祖父さん(七代目幸四郎)は『勧進帳』の弁慶をたくさんやったでしょ?

幸四郎 うん。

染五郎 あれをいちばん最初に、お祖父さんが九代目・団十郎に習ったのは?

幸四郎 団十郎って人はお弟子なんかには、そんなに教えないんだよ。つまり、昔の教え方ってえのは、歌舞伎にかぎらずそういうところがあるわけだよ。手を取って教えないんだよ。

染五郎 ふうーん。

幸四郎 だから、ぼくだって大森彦七や弁慶だって、そんなに教わりゃあーしないよ。つまり、見て覚えろってんだね。つまり日常から油断してちゃいけないってわけさ。

 だから、うちのおやじは団十郎に手を取って教えられたわけじゃないんだよ……。つまり、話に聞くとね、新蔵って人がいたんだよ、目の悪いね、市川新蔵だよ。この人に教わったんだ。

染五郎 ほー。

幸四郎 だから、教え方も今のように、ぐあいのいい教え方じゃなくて、よくいえば厳しく、悪くいえば意地の悪い教え方なんだ。

 たとえば、新蔵って人が毛剃九右衛門やって、おやじが宗七をやったわけだよね。そうすると、舞台の上で「ダイコンがダイコンが……」っていうわけだよね。しかし舞台の上だし、相手は先輩だし、なにもいえない。だから舞台が終わって、楽屋風呂の中で顔を合わせたとき、くやしくて、この新蔵殺しちまおうかって思ったことがあったそうだよ。

染五郎 ほー。

幸四郎 ところが、まあ、この新蔵って人が、それがまあ、いろいろ記録にも残っているように、上手も上手……。

 さすが九代目・団十郎も一目おいていたそうだ。あるとき、新蔵が目が悪いからね、稽古場で寝てたんだ。その時分の稽古場って、今と違って九代目・団十郎、五代目・菊五郎なんてのが、ピシッとすわってさ、それこそ息を詰めたような稽古場だったけれども、その稽古場ですら、こうやって横になってても、団十郎がニヤニヤ笑って新蔵にはなんにもいわなかったってくらいな、つまり腕がたって藝の信用があったわけだね。

 だから、その新蔵に、おやじはいろんなことを教わったらしいよ。

 昔はそういう名優のかげに、名優以上の腕をもった影武者が何人もいたんだね。

染五郎 今はいない……?

幸四郎 うん……まあ、いないな……。

染五郎 ふーん。

幸四郎 団十郎って人はね、そりゃあまあ御曹子たちには、踊りやなんかを指導したってことは残ってるけども、お弟子さんそのものになんぞ、なーんにも教えなかった。「見て覚えろ」と。

 その「見て覚えろ」っていうのは「俺が教えると、俺のとおりになっちゃう、悪いクセまでまねるからだ」と……。

「人間てものは、師匠の悪いとこが似て、いいとこをとらない。俺が教えりゃなおさら俺の悪いとこを教わっちゃうから、それじゃ藝というものは……いかん。やっぱり、自分のいいとこ出さなくちゃいかん」と……。

 だから、弁慶だってあれだよ、団十郎の舞台を後見なんかして、見て覚えたってくらいだよ。

染五郎 そういう話は、昔の伝承の厳しさと同時に、なにか封建性みたいなものを感じるね。

幸四郎 うん。だからうちのおやじの弁慶ってのは、団十郎の弁慶ってわけじゃないね。やっぱり七代目・幸四郎の弁慶ってわけさ。でも、そんな風にされたおかげで、ほら、結局自分の弁慶をつくったし、幸四郎の歌舞伎がつくれたじゃないか。

染五郎 なるほどね。

幸四郎 だから、こっちは四天王に出たり、後見に出たり、富樫に出たりしてさ、おやじを見てるけどもさ、何百回、何千回やったって、唯の一回として同じことをやっちゃいないよ。あれは、昔の名優たちの学ぶべきとこだね。

染五郎 うん。

幸四郎 だから、おやじなんか七〇になっても、八〇になってもだよ、「この次の弁慶はこうしよう」なんていってたからね。

染五郎 ふーん。

幸四郎 まあ、そういうところは、……なんていうかな、おやじのいいところだね。年とってからは身体が動かなくなっちゃって、ふだんはまえにもいったように、どうしようもない好々爺になっちゃったけど、舞台となると、たとえ千数百回もやった弁慶でさえ、そのたびに「こうやろう」と自分で工夫してたね。七〇いくつかのおじいさんがだよ……。

染五郎 ふーん。

幸四郎 だから、「幸四郎の弁慶はまたかの関だ」って悪口いわれたよ。しかし、われわれそばにいる者からみれば、そのたびに、こうやって工夫してやってるってわかるから、なにか新しい発見があったし、また、それを見る観客の中にも、何人かははじめておやじの弁慶を見る人もいるわけだからね。

染五郎 なるほど。

幸四郎 だからまあ、そういうところは学ぶべきとこだしさ、それはまあ、普通の人にはわかんないし、またわかる必要もないわけさ。たとえば、われわれにしたところで、一つの芝居をやるのに、随分苦労してる、しかしその苦労は自分だけですればいいし、自分で納得のゆく努力を一生懸命すればいいのであって、人に苦労してますなんて、まちがってもいっちゃあいけないね。

 団十郎(くだいめ)とその弟子たち

染五郎 それから、その新蔵って人ね、その人と七代目の話をもう少し……

幸四郎 九代目・団十郎のお弟子はね、いちばん上が前の中車でね。これはまあ、途中からきた人だけれども、この中車より下なんだよ新蔵がね。

染五郎 うんうん。

幸四郎 昔は封建的だから、位置が下だからさ、うちのおやじなんか団十郎の乗る人力車を引いてさ、その車をひっくり返しちゃって団十郎が怒っちゃって(笑)……てなこともあったね。

 それから、たとえば、団十郎が『高時』をやると、振付けの面で団十郎といっしょに"天狗の舞"なんてのを考えるわけさ。あの"天狗の舞"だってさ、今でこそなんでもないけどさ、ま、一種のダンスのステップみたいなことだよね、そういうものを考えるときに、新蔵だとか、うちのおやじなんかが出てきたわけだよ。つまり、一つのものをよくするために、そういう風にして"天狗の舞"を作りながら、一方では、例のマグネシウムのいなびかりの工夫をしたりさ……。そういうことをして協力したわけだね。

染五郎 うーん。

幸四郎 だから君、団十郎の偉大さってものはさ、その弟子、中車だとか、幸四郎だとか、新蔵だとか、それから左団次だとか、これみんな弟子だからね、その弟子がたいへんなものだったことにもよるわけさ。

 そのまた孫弟子みたいなのが、初代・吉右衛門だとか、六代目・菊五郎だとかみたいになるんだからさ。

 団十郎も偉大だったけど、その弟子もすぐれていたわけさ。

 またそういう弟子ができたというところが、団十郎という人の値打ちであったといえばいえらあね。

 団十郎(くだいめ)を崇拝していた祖父

染五郎 おじいさんは団十郎のことを話すとき、どういう風に……?

幸四郎 だからね、ぼくたちが子供のとき、つまり築地に家があったそのときは、もう団十郎はいないよね。三升さん(十代目・団十郎)がいたわけだよ。団十郎の娘がこの人の奥さんなわけね。「ご新造、ご新造」っていってね。

 お正月にはそういう名前でね、こうお弟子が鏡餅一つずつ上げるわけだよね。ま、いちばん上が左団次、それから中車、子団次とかたくさんいるよね。そうすると、うちのおやじなんか市川じゃなかったからね、松本幸四郎だったから。

 ま、特別の名前だったわけだ……。

 そうするとね君、家へ上がるだろ、そうすると座敷にはすわらないで、廊下にすわるんだよ。

染五郎 ほー。

幸四郎 幸四郎になっちゃってもだよ。ご新造さんだとか、三升さんは長火鉢のところにちゃーんとすわってるわけだ。あれは何畳ぐらいの部屋かな、八畳ぐらいの部屋だな。

 まず廊下にすわってあいさつするんだよ、ね。そうするとご新造さんが「染(五郎)さん」……その時分は染さんといってたからね。だんだん年を取ってきたら藤間さんていうようになったけど……。

「染さん、お入り」っていうと入るんだよ、座敷へ。

染五郎 へえー。(笑)

幸四郎 でも、なにも言葉は交わさない。

 君、その時分の幸四郎ったらたいへんなもんだよ。帝劇だろうが歌舞伎座だろうが座頭(ざがしら)だったからね。その座頭をやってた人でも、九代目・団十郎にやっかいになったお弟子だということで、その、廊下であいさつするわけさ。おやじが廊下じゃ、そばについていた息子の俺なんざ君……門の外だよ。(笑)

 それで、「こっちへお入んなさい」っていわれると入っていくわけだ。で、座布団は敷かないよ。絶対に……。

 なんてんだろうね、そういう義理堅いっていうか、心から崇拝してたね。おやじが染五郎時代には君、染五郎と、まえの十五代目・羽左衛門、つまり家橘だね、これはもうその人気なんてえものはたいへんなもので、それこそ、人死にがするってくらいのものだった。その染五郎、羽左衛門の家橘とまえの歌右衛門さんの福助と、ま、この三人があの時代の大スターだったけど、そのときに団十郎にやっかいになったという恩があったんだね。だからもうその恩義が、浸み込んじゃって……。

染五郎 じゃあ、七代目が団十郎の話をするときは、神様のことを話すみたいだった?

幸四郎 本当に尊敬してたね。しかしそれは自分のためにもなるわけだ。つまり、前にも話したが、団十郎って人は手を取って教えるようなことはしない。それはなんのためだ。「自分たちの力を出すためだ。そして自分の弁慶を、自分の歌舞伎をつくるためだ。だから、俺はお前たちにそんな手を取って教えるような甘っちょろいことはしない。自分で勉強しろ」ということなんだな。

 父の夢

染五部 では最後に将来の夢を……。

幸四郎 うーん、ぼくの夢……? 自分の劇場をこしらえちゃうことかな。金がないから、ま、しようがないけどね(笑)……。

 それから、もう一つは君たちのことだよね。君たちももうある程度、歌舞伎は"木の芽会"なり、ぼくといっしょにやってるから、それができるけども、そうでない他の芝居も、ある程度軌道に乗ってきたし、ま、相手役の女形なんか……。

染五郎 やっぱり、相手役ってのは必要かな?

幸四郎 女形の場合さ、うん、女優でないときね。ま、そいつが、これちょいとうちの子供たちにないから。たまたまそこは、いいのが生まれてくれりゃあさ、いけるなってのが出てきてくれりゃあ……。しかし、こいつは歌舞伎の場合だからね。

 しかし、その目星もついてるから……。

染五郎 それだけ……。

幸四郎 うん……ま、御殿をこしらえようとも、勲章をもらおうとも思わないし……。

染五郎 でも、そういうものはさ、勲章とか御殿てのはさ、仕事した後で、それの反動みたいに。つまり、よく働きゃあ、オーバー・ギャラが出るみたいなね、そういうものじゃないの?

幸四郎 そうだろうね……。(笑)

染五郎 だから、そういうもの以前にやる仕事のほうが、やっぱり……。

幸四郎 そう、それは先にやらなくちゃ……。

染五郎 それだけ?

幸四郎 そんな程度だね。(笑)

染五郎 ぼくのほうはその百倍ぐらいある。

幸四郎 そりゃ若いんだもの。(笑)

 そんなこというけど、君、グルッと回りゃあね、役者なんて消えてなくなるもんだよ。絵だとか彫刻とは違うからさ。そりゃあもう消えて……。

 そんな心細いことをいってちゃ困るけれどもさ、消えてなくなるものであって、いいものだと、ぼくは思うな。これ残られたら困るんじゃないかな。

染五郎 そうすると、結局、単的にいうと、役者ってのは生きてる観客の心の中に生きつづけなきゃあいけないってこと?

幸四郎 そうでなくちゃあいけないな。……。まあ、ぼくはそう思う。

染五郎 そうすると、やっぱり仕事の数は多いほうがいいのかな……しなけりゃあいけない?

幸四郎 いや、数、必要ないな。

染五郎 必要ない?

幸四郎 ぼくは一生のうちに、これと思うようなもの一つか二つやったらそれでいいんだよ。そりゃたくさんできりゃしあわせだけどもさ。

 結局、人のやらない仕事をやったってのは、そりゃ記録には残らないし、消えてなくなっちゃってるけども、それを見たお客の心の中に生きているし、それになりよりも、自分自身の体の中にたたき込んで、そして自分でわかっていること、こいつが、何にもまして素晴しいことだね。

 それで、これからはさらに残る仕事、つまり、自分の今までやってきた仕事の仕上げをしていくわけだよ。今までのは前進するためにやってきた仕事だった……、しかし、これからは残る仕事を一つやるということだね。

染五郎 うん。

幸四郎 でも、今までの自分でやってきた仕事……。成功したものもあれば失敗したものもあったけど、けっして自分のマイナスになってるとは思ってないよ。

 話は少しとぶけども、歌舞伎劇についていえば、ぼくは最近になってそう思ったけれど、歌舞伎を駄目にするのは、歌舞伎関係者の怠惰や甘えであるとね……。つまり、いってみれば、歌舞伎を滅ぼすものは、歌舞伎の当事者ではなかろうかって……。いわゆる歌舞伎通といわれる人、そういう歌舞伎にごく身近にいる者が、歌舞伎をつまらなくしているのかもしれない。かえって君、今の若い人たち、全然歌舞伎に縁のないような人たちのほうが、将来の歌舞伎をささえるなにかをもっているかもしれないな……。ぼくはそういう若い人たちに、夢を託している。

染五郎 してみると、ぼくは歌舞伎の当事者で、しかも、新しいものに目を向けている若者であり……。

幸四郎 そうさ。責任重大だぞ! なにをかくそうぼくは君に夢を託しているんだから……。(笑)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/11/24

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松本 幸四郎

マツモト コウシロウ
まつもと こうしろう 歌舞伎役者 九代目幸四郎 屋号高麗屋。1942年 東京都新宿区生まれ。藝術院賞・坪内逍遙賞受賞。

掲載作は、『松本幸四郎の俳遊俳談』(1998年、朝日新聞社、写真・大倉舜二)所載の随筆全16編。冒頭一文の中から「役者幸四郎の」の述懐をえて総題にあてた。ちなみに著者の俳名は錦升。「付」に市川染五郎名義『ひとり言』(1969年、文化出版局)所載の「父幸四郎(先代)との対話」をあわせとった。電子文藝館には夫人の藤間紀子氏の『高麗屋の女房』、娘の松たか子氏の『松のひとりごと』も掲載させていただいている。

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