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ラ氏の笛

       一

 

 横浜外人居留地の近くに生れ、又、其処で成育した事が何よりの理由となつて、私は支那人、印度人、時には埃及(エジプト)人などとさヘ、深い友誼を取り交した経験を持つてゐる。そして彼れ等の一人一人が私に示した幾つかの逸事は、何れも温い記憶となつて、今尚ほ私の胸底に生き残り、為す事もない病臥の身(それが現在に於ける私の運命)ヘ向つて、限りない慰めの源を提供するのである。

 

 時は大正×年、秋の初め、場所はB全科病院の長い廊下であつた。当時の私は副院長の下に働く臨時雇ひの助手であり、面前に立つ私の友は若い印度人(アリヤン)で、極く小さい貿易商の事務員、ラオチャンド氏であつた。

 彼れの汗で濡れた広い額は丁度雨上りの庭土のやうに、暗い光りで輝き、濃い眉毛に密接した奥深い眼は、物体の形よりも、(むし)()だその影だけを見つめてゐるやうに、(もの)()であつた。彼れの鼻は以前にも増して、(けは)しく尖り、木で造つたかと思はれる程に堅い印象を私に與へた。一ケ月以前迄、彼れが小指にはめて居たニッケルの指環──鷲の頭が彫つてある──は、今や彼れの薬指へと移つてゐた。この事実は彼れが最近、()れ程急激な速度で、痩せ初めたかを、明らかに証拠立ててゐた。

 その日、彼れは私の紹介によつて、病院の三等室へ––それも特別の割引きで––入院する事に決めて貰つたのである。

 彼れは感謝の意を表すため、言葉を口走るよりも先に、大層慌てて私へ握手したが、その掌は一種不快な温さで、不用意な私を痛く驚かした。

「体温が恐らく三十八度五分位……」と、私は心の内でさヘ、尚ほ(ども)りながら呟いた。

 

       二

 

 その翌晩、長い時間にわたつて、停電があつた。

 私は思ひ立つて、蝋燭に火をつけ、不幸な患者、ラオチャンドの室––この室一つ丈けが病室から孤立してゐた、それも道理で、一時は其処が布団部屋にあてられてゐた事もあつたのだが––を見舞つてやらうと決心した。

 私は夜の九時を報ずる遠い大時計の音を幽かに聴き入りつゝ、蝋燭の燈を消さぬやう、出来るだけ静かに、階段を踏み下つて行かうとした。そして、上からじつと下方の闇を窺つた時、何かしら自分の行く先が、泥水に満ちた深い谷間のやうに思はれるので、自然と足の進みを躊躇せしめた。

 然し、私は遂にその谷間の最下へと達した。そして、閉ざされた室の扉を静かに開いて内部へ這入つた時、私の予期は不意に其処で破壊された、といふのは、一つの人影も、白いべッドの上には見出せなかつたからである。

「ミスタ、ラオチャンド……」と、私は自分をも不快にさせる程な反響を持つた声で、呼んで見た。

 答へは極く低声に、ベッドの向う側から湧き起つた––全く湯気の如く落ち着いた調子で、下方から浮き上つて来た。私は直ぐその方向へ回つて見た。そして、更に新らしい驚きで、自分を戦慄せしめた。(当時、私は若い新参者で、未だ、病院内の一切の事に無経験だつたから、精神は白紙のやうに傷き易く、印象は墨の斑点のやうに明瞭であつた。)

 外でもない、友人ラオチャンドは板の間へ一杯に青色のシャツを敷き広げ、その上へ蔽ひかぶさつて、二銭銅貨五個分程の血を、丁度シャツの背筋の所へ吐いて居たのである。

 彼れは哀訴の心を籠めた眼差しで、私を下から見上げ、次に、鼻孔へ迄も回つた血液を口中へと戻すため、鼻をすゝつた。

 四つ這ひになつた彼の長い身体、白い靴下の穴からのぞく、薄黒い足の裏、血に染つて赤くなつた大きい門歯、苦痛の涙に濡れた長い睫毛(まつげ)––それら全体は、より所もない孤独の感じで、細かく波打つてゐる如くであつた。

 

       三

 

 翌朝は殊に(うらゝ)かな晴天であつた。

 私は廊下に(みな)ぎる輝かしい光線の為めに、眼球の表面を刺激された挙句、網膜に(まだ)らが出来たやうな不快な感じを抱いて、再びラオチャンドの室へと這入つて行つた。

 彼れの頬はやつれはてて、風で乾いた泥のやうに、色沢(いろつや)を失ひ、彼れの眼は空虚の中に尚ほ何者かを探し求める如き冷い光を見せてゐた。

 と、彼れは私の口を大きい指で指さしつゝ、

「何か話して……」と、嘆願した。

 この一語は疑ひもなく、彼れの心中の寂寥(せきりよう)を暗示してゐるものに他ならなかつた。私は先づその一事に心を打たれた。そして全く結果といふものを考慮に入れる暇もなく、自然と次の如き意味を、整はぬ英語で口走つた。

 ––病んでゐる事は不幸である。然し、健康なものが悉く幸福であらうか。私は今の先、一人の工夫(こうふ)が余りな生活難のため、発作的に気を取り乱し、丁度其処へ走つて来たトラックの車輪の下へ(わざ)と手を差し込んで、レールを(まないた)に、四本の指を断ち切つて了つたのを見た。その各々の指からは一尺づつの高さに血がほとばしつた。彼れは、今、病院の外科室で治療を受けてゐる。不幸な者が決しで貴兄一人でない事を知つたならば、貴兄は何んなに日毎を気軽く過し得るだらう。何故なら、「不幸」も数多(あまた)集まれば、何かしら強力なものとなるのだから。––

 以上の言葉を聞いたラオチャンドは(には)かに声を隠して泣いた。その事は彼れの病気に大きい支障を来すおそれがあるので、私は慌てて口をつぐみ、あまり斟酌(しんしやく)なく話し込んだ事を此の上もなく後悔した。私は何うかして彼れの愁傷を取り消したいと願ひながら、当惑した眼を彼れの枕元へと落した時、半ば広げられた鼠色の風呂敷の中に、不図(ふと)一枚の絵画と一本の日本風な横笛とを発見した。絵画は稍々(やゝ)原始的な石版刷りで、恐らくインドラといふ神の図であつた。笛は幾らか寸の足りぬ安価相な出来で、その末端に、素人細工らしい赤銅の鎖が付けてあつた。

 所在なさに、私はその笛を取り上げ、そして、言ふ事がない為めに、却つて(わざ)と何かしらを口走つた––

「早くお治りなさい、この笛を吹いて、楽しめるやうに……」

 言ひ遅れたが、彼れは誠に巧みな笛吹きで、主に印度の古調を、日本の竹から響き出させる事が出来た。

 

       四

 

 その後、ラ氏の感情は好い諦めのために鎮められて、最早(もはや)、人の前で、涙を見せるやうな事もなくなつた。その替り、何かしら何時も人を冷いものに見ようとする傾向が、彼れの心の底で育ちかけてゐるのも看過(みすご)しがたかつた。

 悲しい事に、人は多くの場合、二つの極端の間を行き迷ふものである。一つは温い感情、一つは冷い理性である。前者は自己の不幸に遭遇すると、しばしば烈しい悩乱となり、後者は自己の不幸に遭遇すると、しばしば孤立的な枯渇を来すものらしい。

 私の眼があやまりでなくば、ラオチャンドは遂に、冷い理性の捕り兒となつた事を、行為の端し端しに表した。

 けれども、仕合せな事に、彼れの身体の方は段々と盛り返して行つた。そして、しまひには、僅かづつの歩行を医師から許されるやうにさへなつた。

 或る月の明らかな夜である。彼れは何を思つてか、二階の物干し台へそつと一人で昇つて行かうとしてゐた。鉄の梯子へ(すが)つて、月光の下にうごめく彼れの後ろ姿を目撃した私は、一種危険な気持ちに打たれて、思はず、足を早めつゝ、彼れのあとを追つた。(何故なら、その一週間前、施療部の一肺患者が寝台の鉄柵へ帯を懸けて、首を縊つた。非常な努力を以てでなくては出来ぬ、(かゞ)んだ儘の縊死(ゐし)を、この機会に私は初めて実見したのであつた。)

 私が台上へ達した時、ラ氏は既に東寄りの手すりへもたれかかつて、遠く居留地の方を眺めやつてゐた。

「少し動き過ぎますね。」漸く彼れに追ひ着いた私は、なじる心を混ぜて、さう呟いた。

「それに笛なぞを持つて、何うするのです? 吹くのは未だ早過ぎます。」

「いや」と、ラ氏は奥深い眼を五六回瞬いて言つた。「之はたゞ占ひです。」

「笛が……?」

「さうです。今、何時ですか?」

「大時計は九時を打ちました。」

「では、もう過ぎてゐる。」

 彼れは私が暫く其処にとゞまつて、彼れの為す所を、横合ひから観察してゐて呉れるやうにと願ひ、幾何(いくばく)もなく、一つの珍らしい情景が眼前に表れるだらうと予告するのだつた。

 十分程もすると、暗い梯子(はしご)の上り口へ、一つの首が浮上つた、首につれて胸、胴全体、そして足の先迄がせり上つて来た。

 見る見る、その影は軽い足取りで、ラ氏の方へと歩み寄つて来た。影といふのは、(これ)もアリヤンの若い女性、名は覚えて居ぬが、何でも当時、日本へ渡つて来たばかりの、乞食に等しい貧困者であつた。それにも(かゝは)らず、彼の女の体は薄い白絹に包まれ、彼の女の手首には、恐らく象牙製と思はれる腕輪が三つも重なつてゐて、それらは彼の女が耳なぞを掻くため、腕を持ち上げる度に、快い音響を発しつゝ、打ち合つた。

(私は以前にも一度、此の女に会つた、その時の記憶によると、彼の女は卵形の輪郭をした顔を持ち、乳へココアを混ぜたやうな色合ひの皮膚をしてゐた。彼の女の黒くて長い睫毛や、濡れたやうな暗い色の眼等は、何れも彼の女が純粋のアリア族である事を証拠立ててゐた。)

 さて、私は彼の女を(わざ)と避けて、梯子を六七段下つた。そして二人の若い異国人が之から何事を為すのか、少しばかりの興味に繋がれつゝ、眼丈(だけ)を台の上へ表して、待ちかまへるのだつた。

 初めの内、二人の動作は顕著でなく、二人の言葉も途絶え勝ちであつた。けれども、私の想像力は活發に動いて、自分の理解出来ぬ点迄をも、強ひて理解して了つた。つまり、女は(しき)りに愛を訴へた。男はそれを冷い理性で疑つた。女は(やが)て男の周囲をめぐつて歩き初めた。けれど、男は眼をさへ動かさず、下を向いて黙つてゐた。

 最後に女は胸のあたりを、縮めた指で掻きむしり、腰を柔かく左右に振つて、じれた心持ちを表した。すると、男は遂に横笛を取り上げて、ほんの一節丈を吹き鳴らした。女は喜んで兩手を打ち合した、腕環は揺れて、軽く快い響を立てた。

 男は直ぐ横笛を女に突きつけ、吹いて見ろといふ意味を英語で言つた。女は驚いて身を引いた。ただそれ丈の事であつた。

 二十分程も、尚ほ平凡な会話が続いた。私は遂に耐へ切れないで、再び物干し台の上へ昇つて行つた。

 女が慌てて歸つて行つたあと、ラ氏は私を招いて笑ひ、「魔女を追ひ払つた」方法を私が見てゐたかと尋ねた。彼れは私の質疑に答へて、斯う説明して呉れたのである––

「あの女は昨晩も来た。一昨晩も来た。そして、医師や看護婦の見てゐぬ所で、何かしら重要な相談をするため、私に会ひたいと要求したのです。私はこの屋上で出会ふ事を彼の女に許した。彼の女は約束の時間に此処へ上つて来た。そして、私の病気が治り次第、彼の女と結婚して呉れと、嘆願するのでした。私はそれを聴き入れなかつた。何故なら、彼の女が二十円ばかりの金を至急に借りたいため、私へ結婚の申し込みを(あへ)てするのだといふ事が、はつきり分つてゐたからです。二十円? 何うしてそれが大金でないと言へよう。私は一週間後から、施療にして頂く身ではありませんか。

 成る程、貴方は私が笛を吹いて後、彼の女へもそれを吹くやうにすゝめたのを、不思議がつていらつしやるけれど、考へて下さい。それは私の病気を恐れてゐる彼の女の心をためすためにも、彼の女を大急ぎで追ひ払ふためにも、是非必要だつたのです。」

 言葉は簡単で、にべもなかつたが、その中には何かしら取りとめのない諦めが含まれてゐるやうであつた。

 彼れが最近()れ程、孤独に安んじ、自ら足る事以外に何物をも求めぬかを私は今更知つて驚いた。

 

       五

 

 然しそのやうな愛情の行き違ひから、唯一の女友達をさへ失つて了つたラ氏は、時とすると、満足な心の中に、尚ほ嶮しい寂しさを感ずる事もあるらしかつた。

 そんな寂しさは彼れの胸中で幾分か変化して、次のやうな意地悪い行為となつて表れた。

 一週間後のある夕暮れ、ラ氏を不意に訪れたのは、某教会の日曜学校を監理してゐる三十格好の好青年であつた。彼れは最近にその愛妻を失つたとかで、態と質素な服をつけ、ボタンなども取れたものは取れたままに放置して、そんな無造作を楽しんでゐる風さへ見えてゐた。

 彼れはいきなり一面識もないラ氏に色々の慰撫的(ゐぶてき)な言葉をかけた。けれどもラ氏は少しも喜びの色を表面へ現さぬばかりでなく、何を思つてか、「悪魔退治」といふ印度の脚本の事を語り出した。(この脚本は過日マセドニヤ丸乗組みの印度人達によつて、実演された相である。)それから彼れは引き続いて、

「エスキモーの国には悪魔といふ言葉がない。だからエスキモー人へ向つて、我れ我れがいくら悪魔の事を説明しても、そんな悪い者が此の世に居る訳もないといつて、承知しない相だ。」といふやうな話しを、さも羨まし相に物語るのだつた。「神と一緒に悪魔を案出する程なら、その何方をも案出せぬ方が宜敷い。」

 教会の青年はこの異国人の心持ちが了解出来ぬらしく、不可解な微笑を浮べながら、立ち上り、廊下に置いてあつた花束の一つを取り出して、それをラオチャンドに與へようとした。

 その拍子にラ氏はすかさず例の横笛を取り出して、私の制止をきかず、印度の古調の一節を吹いた。青年はその不思議な節回しに耳を傾けつゝ、何かしら自失したやうに、呆然と立つてゐた。

 一節が終ると、ラ氏は直ぐその笛を青年の前へつきつけて、「プレイ、プレイ。」と重い音調で要求した。

「下手ですから……」と、青年は拒みかけた。

「それなら、花束も貰はない。」と、ラ氏は恐ろしく絶望的な表情をして呟いた。

 この時、青年はラ氏の心全体を直覚的に理解して、驚きの眼を(みは)つた。そして白い小さな手を出して、横笛を取り上げた。

 ラ氏は夢見るやうな奥深い眼で、青年の為す所を凝視してゐた。

 青年は六つの指をそれぞれの穴に当てがひ、遂に決心して、笛の口を自分の唇へと接近せしめた。

「危い!」とラ氏は言つた。そして立ち上りざま、青年の手からは笛を、机の上から花束を、一時に取り上げて、幾度も深くうなづいた。

 

       六

 

 ラ氏の心持ちが段々と穏かなものに変化して行つた時、却つて、彼れの身体が疲弊を増すのみとなつたのは悲しむ可き事である。

 退院の予定は全くくつがへされた。然も最早一銭の貯へをも彼れは持ち合してゐなかつた。

 院長はラ氏の経済状態を十分観察し、その上、もう余命が長くないらしいのを了解して、彼れを施療部へ移す事を承諾した。

 ()しこの世に、天国と地獄とを兼ね具へたものがありとすれば、それは確かに施療室である。

 何故なら、其処では救助と残虐とが、日を同じうして行はれるからである。

 死と向ひ合つて坐する幾日を、ラ氏はこの苦しい施療室で過し、(かつ)て住みなれた三等室に憧憬の心を寄せ通した。

 彼れは金銭を全部失つた日から、又急激に痩せ初めた。この事は人と物資との微妙な関係を我れ我れへ承認せしめるに十分だつた。

 斯うして彼れは再び血を吐く機会に行き会つた。彼れはそれを「生命の支拂ひ期」と戯れて呼んだ。

 ある時の如きは、止め度なく口から血が垂れるにも拘らず、彼れは態と身体の安静を破つて、烈しく起き上り、声を立てて、天へ祈りを上げ初めた。

 最早、医師の誰もが、ラ氏のこんな行為を制止しようとは試みなかつた。何故なら此処は施療部である。若し施療室といふものに頭脳があるなら、それはきつと斯ういふ苛酷な思想を持つたに相違あるまい––

「地上に於いて、実用に適さぬ生命は早く天へ送られる方が好いのである」

 私は恐怖の眼で友人ラオチャンドを見やつた。痩せる丈痩せて、昔日の面影もない彼れはベッドに坐して、体を前後にゆすつてゐた。彼れの眼尻には血の飛沫が一点、アミーバの広大図のやうな形ちで付着してゐた。板の間の上へ置かれた、古い洗面器には、彼れの吐いた血が鎮まり返つて溜つてゐた。

 と、其処へ、何を慌ててか、一人の助手が肘を縮めながら、駆け込んで来た。彼れはいきなり板の間の洗面器ヘ、粗忽(そこつ)な足の先を突きあてた。血は丁度(かつ)て人間の体内に居た時の如く、波打つた。丸い波紋が次々と表れるのを、ラ氏は侮辱されたやうな顔付きで眺め入つたが、(やが)て、

「私の血が再び動き出した……」と、悲しさうに私の方を振り向いて呟いた。「それより、静かに()さねば……」と、私も亦落ちつかぬ心で彼れへ言つた。

「私の国では、寝た儘で祈るといふ風習はない。」と、彼れが頑固に返答した。そして何事かをパーリ語で唱へては、体を前後に揺するのであつた。

 

       七

 

 再び美しい月の夜が来た。

 私は以前に一度経験したと全然同じ情景を、月光の下に見出して少からず驚かされた––ラ氏が唯だ一人で、物干し台の鉄の梯子をよぢ登らうとしてゐたのである。私は長い廊下を急いで、彼れの跡を追つて行つた。そして、広く冷たい天空の直下で、漸く彼れと向き合ふ事が出来た。

「骸骨が()んなに歩きます。」彼れは弁解するといふより、(むし)ろ、陳謝する如く、さう私へ囁いた。私はその一言を聴くと、最早何んな難詰(なんきつ)の言葉を見出す力をも失つた。そして、この夜こそ、恐らく、彼れが大きな天空を眺めて楽しむ最後の時となるだらうといふ事を、独り黯然(あんぜん)と予覚するのであつた。

 この美しい月光の宵、私と彼れとは短い時間の内で、極めて多くを語り合つた。

 色々な会話の中で、殊に私の注意を惹いた部分は次の三つに他ならなかつた。

 ラオチャンドは言つた––

「私の手に手袋がはまつてゐる。私が手を動かすと、手袋も斯んな風に動く。然し、(此処でラ氏は手袋をぬいだ。)手から引き離すと、(つか)れたやうにうなだれて、もう決して動かない。不思議ではないか。」

 又、ラ氏は物語つた––

「私の叔父に書物を広く読んだ、優れた人があつた。彼れは矢張り私と同じ疾患で(たふ)れたが、病臥の日の中で、私へ斯ういふ事を教へて呉れた。

 ラオチャンド、分るか。月が()けてゐる時、それは本統に半分を失つて了つたやうに見える。けれど、実は何者をも失つてはゐないのだ。私が不意に居なくなるとしても、それは月の部分が()けるやうなもので、実は何も変つた事は起つてゐないのだ。」

 この言葉につれて、二人は思はず頭上の天を眺めやつた。私は深い困惑に落ちて、この異国人の旅愁を少しでも和らげてやりたいと願つた。然し、ラ氏は最早全く感情的なものから遠ざかつて、平和に微笑んだ。

 更に彼れは斯う呟いた––

「私は何んな場合でも、極く自然に幸福を自分のものとした例を知らない。では、何うして私は幸福をかち得たか? 何時も不幸でもつて、幸福を買つたのである。例へば、私は幼い時から、日本へ渡つて来たいと憧憬(あこが)れた。然し、その願ひが果たされたのは、横浜で病ひにかゝつた叔父を看護する目的からであつた。

 又、私は君と大変親密にして貰つて嬉しいが、さうなる為めには、私の病気が色々と機会を造つたのではないか。」

 

       八

 

 ラオチャンドの死は意外に早く来た。生憎(あひにく)、私は副院長の用事を帯びて、N地方へ旅行に出てゐたので、ラ氏の臨終を親しく見届けてやる事が出来なかつた、それを私は今尚ほ残念に思つてゐるのである。

 彼の屍骸が病院から何処へともなく運び去られて後、約一ケ月程して、私は漸く旅行先から病院へと立ち戻つて来た。その時、多くの医師たちは既にラ氏の名前を忘れ去つて、唯だ「印度人」と呼んだりしてゐた。

 私は久々に自分の事務机へ向つて坐つた。そして吸取紙を出すために、机の抽出しを半分程明けた。抽出しが妙にきしむので、私は間に何か挟まつてゐる事を察して、指を其処へ差し込んで見た。窮屈に圧されて、縮んでゐる邪魔物をそつと引き出して、何の気なしに開いて見ると、それは未だ私が手を触れた事もない一通の手紙であつた。差出し人はM丸乗組みの印度船員某、名宛人は院長及び副院長となつて、その内容はほぼ次の通りの英文であつた。

 此の間、横浜へ寄港した次手(ついで)に、私たちは貴院の施療部で御厄介になつてゐるラオチャンドを見舞つてやつた。彼れは瀕死の病者で、その上、自活費を一銭も持ち合してゐない貧者であつた。凡ての費用を貴院から仰いでゐる由を承知して、私たちは、哀れな同胞に対する院長の厚い同情を深く感謝してゐる次第である。御恩の程は決して忘れる事が出来ぬであらう。

 私達は横浜出立の間際に、ラ氏死亡の旨を貴方達から聞いて、驚きもし、悲しみもした。尚ほ貴方方から私達へお託し下された、シャツ、ニッケル指環、笛等は間違ひなく、彼れの母(今は某家に乳母をつとめてゐる)の(もと)へと届ける事をお約束する。

 私たちが故国へ帰着した時、先づ第一に同胞へ説き明かさねばならぬ事は、院長及び副院長の此の上なき懇切な御所業である……云々……

 

       九

 

 最後に、私は此処で、ラ氏が言ひ遺した一つの思念を想起する。

「私は何んな場合でも、極く自然に、幸福を自分のものとした例を知らない。何時も不幸でもつて、幸福を買つたのである。」

 それなら、最も大きい不幸たる彼れの死を條件として、漸くに買ひ取つた幸福がありとすれば、それは一体何物であつたらう。

 私は思ふ。それは彼れが日本の地で持ち慣れた横笛を故郷の母へ無事に送り、その笛をして「汝の息子は平和に息を引き取つた、そして、汝の息子がこの地上から影を隠すといふ事は、結局、月の一部が()けるのと同じで、本統は何一つ失はれて居ないのである。」といふ諦認を物語らせる事に他なるまい。

 然し、幸福といふには足らぬ、そのやうな浅い喜びを除いたなら、他の何処に彼れの死を以て買つた幸福が発見されよう。私は全く、その問ひに対して、正しい答への出来ないのを寂しく思ふのである。

 

(昭和二年)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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松永 延造

マツナガ エンゾウ
まつなが えんぞう 小説家 1895・4・26~1938・11・20 神奈川県横浜市に生まれる。身体の不自由から通学かなわず独学で心理学や哲学を学んだらしい以外に経歴不詳。1922(大正11)年に処女長編小説、1924(大正13)年に戯曲集を自費出版。終始文壇のアウトサイダーのまま宿痾のカリエスに斃れた。宇野浩二や高見順や平野謙らの高い評価と記憶から掘り起こされ復活を得てきた。

掲載作は、「白樺」を介してトルストイやドストエフスキーを受け容れ日本的に実存の静謐と孤独を体したといわれる作風をよく示しているが、初出不明。講談社版「現代名作選」を参照。

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