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能の笛方鹿島清兵衛をめぐる人々―名妓ぽん太と近代文学者の接点―名

 はじめに

 先年、日本医大図書館に勤務する細井昌文氏から能楽の笛方鹿島清兵衛について調べてみてはという手紙をいただいた。医療文献とりわけX線に関する記事にしばしば出てくるというのだ。同氏は図書館勤務の傍ら、下掛宝生流(ヮキ方)のいわば玄人でもあるわけだが、もちろん筆者とて鹿島清兵衛なる笛方の多くを知らない。いらい鹿島清兵衛について調べて行くうち、究極は、わが師飯塚友一郎博士にまで辿りつき、遠くなり行く明治の文学者をはじめ、そのモデルとなった人々の生きざまを追ったのが本稿である。

 

 レントゲソX線実験の草分け

            一

 いま、『大人名辞典』第二巻(昭和二十八年、平凡社刊)によると、鹿島清兵衛は、慶応二年(一八六六)、兵庫の酒造業鹿島屋に生れ、大正十三年(一九二四)八月六日、五十九歳で歿したとみえ、東京は京橋新川の分限者(ぶげんじゃ)鹿島清兵衛の養嗣となり、(つと)に演藝、幻燈、写真などに趣味を抱き、斯界(しかい)のパトロンとして識られていたらしい。以下、その生涯の業績に則って行くが、実は、これに意外な人物の関わっていた軌跡が理解される。

  ◇

 今市正義・原三正両氏の「日本放射線技術史考1 本邦におけるX線の初期実験」によると、医学士(山梨県多麻村出身)「丸茂文良が、東京築地の玄鹿館主、鹿島清兵衛(慶応二~大正十三)にX線実験をすすめられ、丁度四月一日(明治二十九年)が拙者の愚父の百日祭に当りますので、どうしても拙者は帰国しなければならないので国へ戻りました。(中略}丸茂は、前述のような家郷に供養の旅を(おえ)ると、X線実験に必要な器械・器具の借用を鹿島清兵衛に申込んだのである。鹿島は、能狂言の名手三木助月としてよりも、明治・大正時代の写真界のパトロンとして、神戸の光村利藻と並び称されていた。つとに今津正二郎について写真術を学び、後に東京帝国大学外人教帥バルトン(Balton,K.W.)の教導をうけて、内外の写真機、理化学器械を購入し、大規模な写場玄鹿館を経営していた。鹿島は所蔵のガイスレル管を丸茂に貸して激励した。丸茂はこれを模型に、薬瓶製造工場でアルミニューム線を極に封入した予備の真空管を製作させ、夫人むねを助手に真空放電の実験を開始し、X線の発生に成功した。」という。レントゲン教授がX線を発見されてから撞か数ヵ月のことで、丸茂文良医学士は、この成果を、明治二十九年(一八九六)五月三十一日、済生学舎校友会の例会において、「レントゲン氏の所謂X光線?のデモンストラチオン」と題して講演、「済生学舎医事新報」第四十二号に掲載されている(第22回日本医学放射線学会秋季臨床大会柾コ和六十一年魔フさいに復刻)。講演録の冒頭に「橋本君云々」とみえるのは、幕末の志士橋本左内綱紀の弟綱常(弘化二~明治四十二)らしく、「今の玄鹿館の鹿島君の所へ往って君遣って見んか是はむづかしいことであるがといふことを相談しましてそれから少し経ってマーやって見るが()いと申したら鹿島君の云ふのに大きく稲光りをするオモチャがある(所謂ガイスレル氏クリーケス氏の管がある)それでやって見たらどうか知らぬと云ふことをいはれた」とあり、いずれにしても日本の放射線医学に鹿島清兵衛が大きく関与していたわけである。

 

 写真道楽・玄鹿館主

 

 鹿島は、明治二十六年(一八九三)、徳川篤敬を会長にウエスト・バートン(東京帝大教授)や小川一真・石川巌らとともに大日本写真品評会を設立、ロンドンカメラクラブの作品を招来し日本で最初の写真展を開いたりしている。その財力の許すままケタ外れの道楽ぶりで、「新橋から京都まで一列車を買い切り、藝妓や数百人の客をのせて車中で酒宴を催し、そのうえ少年音楽隊まで連れて京都に乗りこんだ。そして、鴨川べりで大幻燈会を開いたり、大阪(ママ)南座で引伸し写真の実演をやったりした。また、あるときは日光華巌の滝を全紙判にとる計画をたて、全紙暗箱、現像用組み立て暗室、そのほか材料一式を小西本店に納めさせ、これを数十人の人夫にかつがせて、山坂を登らせるという大仕掛けな撮影旅行をしたこともあった。」(亀井武『写真とともに百年』)らしい。

 現在、早稲田大学演劇博物館に所蔵されている九代目市川団十郎の「暫」(明治二十八年)は、当時の密着写真としては世界一だといわれている。その時、「カメラに用いる原板も、等身大のガラスに感光乳剤を塗布しなければならないわけです。そこでこの乾板をフランスのマリオン社に注文しました。全紙四倍以上の大きさの乾板の注文ですから、マリオン社ではびっくりして、何かの間違いではないかと問い合わせてきたほどでした。カメラの方は小西本店に相談して設計してもらい、腕のいい職人に白木で新しく作らせ、レンズもちょうどいいものが見付かったので、この化けもののようなカメラを客席のど真ん中にすえました。照明の方はさし渡し六尺という馬鹿でっかいランプハウスを作りました。このランプハウスは大きなざるを作り、それに和紙を張り、その上に透明うるしを塗って作ったものです。この中にアーク燈を入れるわけです。この化けもの照明機を幾つも作ったとい」われてもいる(伊藤逸平『日本写真発達史』)。

 清兵衛の弟清三郎もその影響から大変な写真道楽だったらしく、清兵衛と京橋木挽町の大写場玄鹿館を開設、当時としては珍しい洋楽の演奏によるオープニング・パーティーをやったとも伝えられている。

 間口十間、奥行十五間の建坪百五十坪という劇場なみの写場で回り舞台になっていて客を待たせない仕掛けだったという。そのうえ夜は二千五百燭光の電燈で撮影、芝居小屋から大道具・小道具・衣装係を雇い、背景や扮装まで専門家だったらしいし、外国人には通訳も雇い、そこへ新橋や柳橋などの藝者や(くだん)の市川一門の役者などがやって来て毎日酒宴が始まるといった案配。こんなことが長続きするわけはなく、関西旅行では当時の金で五万円の借金、これは小西六が清算したというが、当の鹿島屋では親族会議の末に、縁切りとするが、その時の手切金が二十五万円だったと云われている。その後、清兵衛はマグネシウム――フラッシュ――で大火傷を負い、明治三十二年には玄鹿館もつぶれてしまう。

 玄鹿館は、このような写場だけではなく出版もし、アイヌの日常を記録した『AINU of Japan』『The War between Japan and China』という英文解説の写真集を出したり、バルトン(工科大学教授)著・石川巌訳『写真新書』(定価七十五銭)も出版して居り、日本の写真史に残した功蹟は少なくないといえよう。

 

 鷗外『百物語』のモデル飾磨兵衛

 

 このような、正に奇想天外なお大尽振(だいじんぶ)りを披瀝し、今紀文とまで言われた鹿島清兵衛なる人物を当時の文学者が知らない筈はない。

 森鷗外(一八六二~一九二二)の著作『百物語』(明治四十四年十月『中央公論』、『鷗外全集』第五巻)の主人公飾磨屋のモデルは鹿島清兵衛である。

 

 何か事情があつて、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であつたと思ふ。(中略)あすの川開きに、両国を跡に見て、川上へ上つて、寺嶋で百物語の催しをしようと云ふのだが、行つて見ぬかと云ふ。主人は誰だ。案内も無いに、行つても好いのかと、僕は問うた。「なに。例の飾磨屋さんが催すのです。(中略)あなたにはわたくしから話をして見て、来られるなら、お連れ申すかも知れないと、勝兵衛さんにことわつてあります。(下略)」との事であつた。

 

とみえ、飾磨屋勝兵衛こと鹿島(屋)清兵衛であることは疑う余地もなかろう。そして、鷗外は、「百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭を百本立てて置いて、一人が一つ宛化物(ばけもの)の話をして、一本宛蝋燭を消して行くのださうだ。さうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云ふことである。」と説く。実際、この百物語の催しは明治二十九年(一八九六)七月二十五日だったらしく(森銑三「『百物語』余聞」—『中央公論』臨時増刊「歴史と人物」昭和四十六年四月)、更にこの催しが、玄鹿館開業の披露として、歌舞伎新報社との共催で行なわれたらしい。

「此男の傍らには、少し背後へ下がつて、一人の女が附き添つてゐる。(中略)飾磨屋の馴染は太郎だと云ふことは、もう全国に知れ渡つてゐる。(しか)しそれよりも深く人心に銘記せられてゐるのは、太郎が東京で最も美しい藝者だと云ふ事であつた。尾崎紅葉君が頬杖を衝いた写真を写した時、あれは太郎の真似をしたのだと、みんなが云つたほど、太郎の写真は世間に広まつてゐたのである。」と記される藝者太郎は、新橋玉の家の名妓初代ぽん太のことで、清兵衛はこれを「落籍して艶名を謳はれ、つひに家産を蕩尽して養子縁組を解消され、世人に今紀文と噂された。(中略)ぽんたは終始愛児を撫育しつつ落魄の夫に(かし)づき、或は踊の師匠となり、寄席、地方巡業に出で、或は写真業助手をつとめ、世に貞女ぽんたと称された。」(『大人名辞典』第二巻)という。

 

 斎藤茂吉の『三筋町界隈』

 

 当の清兵衛はもちろんのこと、森鷗外や尾崎紅葉(一八六七~一九〇三)まで深い関心を寄せた天下の名妓ぽん太については、斉藤茂吉(一八八二~一九五三)もその例にもれるものではなかった。のみならず少年の日からその晩年に至るまでぽん太に魅了された一人であった。彼の随筆『三筋町界隈』にはそのことが詳しく書かれている。

 

 私は小遣銭が溜まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。

 そういう英雄豪傑の写真に交つて、ぽんたの写真が三、四種類あり、洗ひ髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割(ももわれ)に結つたのもあり、口紅の濃く(うつ)つてゐるのもあつた。私は世には実に美しい女もゐればゐるものだと思ひ、それが折りにふれて意識のうへに浮きあがつて来るのであつた。ぽんたはそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島清兵衛さんに引かされるといふことで(しき)りに噂に上つた頃の話である。

 そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷三丁目の交差点に近く住んでゐるといふことを聞き、また写真屋を開業してゐて薬が爆発して火傷をしたといふやうな記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交ぜられて初代ぽんた鹿島ゑ津子の名が見えてゐたことがあつた。

 

と書き遺しているが、その後、茂吉は、父君の経営していた青山脳病院の慰安会で件のぽん太が踊を舞った時のことをかなり詳しく記し、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の 舞ふ行く春のよるのともしび

(大正三年『歌集あらたま』)

と詠んでいる。その後の茂吉はヨーロッパ旅行などするが、「昭和十年になつて、ふとぽん太のことを思ひだし、」昭和十一年秋の彼岸に多摩墓地のぽん太の墓に詣でている。ぽん太(鹿島ゑ津)は明治十三年十一月二十日生、大正十四年四月二十二日、肝臓腫瘍で清兵衛の後を追うように四十五歳で他界したのである。

 更に茂吉は、「ぽん太については、森鷗外の『百物語』に出てゐるが、あれはまだ二十前の初々しい時のことであつただらう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルスを叙写してくれるなら、必ず光りかがやくところのある女性になるだらうと私は今でも思つてゐる。」と記している。

 鷗外は『百物語』の中で清兵衛とぽん太の二人を"病人と看護婦と云ふ印象"だとしているが、それも清兵衛が「何かの原因から煩悶した人(もし)くは今もしてゐる人だと云ふことは疑が無いらしい。(中略)一体あの沈鬱なやうな態度は何に根ざしてゐるだらう。あの目の血走つてゐるのも、事によつたら酒と色とに夜を更かした為ではなくて、深い物思に夜を穏に眠ることの出来なかつた為ではあるまいか。」と傍観した結果の病人ということで、これに貞淑そのもので寄り添うぽん太に驚かずにはいられなかったらしい。貞女ぽん太と称されるゆえんだろう。今、清兵衛(『日本写真史年表』掲載)とぽん太(『斎藤茂吉随想集』収録)の写真を机上にして、九十年余り昔の二人の恋? に思いを廻らす。

 

 清兵衛の二女くに子――飯塚友一郎博士未亡人

 

 春夏秋冬、鎌倉は腰越の山荘を訪れては歓談するわが師(飯塚友一郎博士)も遂にこの二人については語ってくれるところがなかったし、同夫人の養父坪内逍遙についてすら、こちらからは何となく話を切り出すことをさし控えていた。

 飯塚友一郎博士未亡人くには坪内逍遙の養女であったが、実は鹿島清兵衛の二女(明治三十二年生)で、六歳(明治三十八年)の時、高田早苗(早稲田大学総長)の紹介で逍遙の養女となり、「自分ら夫婦の死後は絶家するの決心」(河竹繁敏・柳田泉『坪内逍遙』)を固めた逍遙は、大正九年(一九二〇)六月、俵藤丈夫の媒酌で当時弁護士を開業の飯塚友一郎先生に嫁せしめたのである。くに夫人は、飯塚先生亡き(昭和五十八年四月)後、今も鎌倉に御健在であるが、背のすらりと高い方で、

 

 明治四十四年九月、牛込余丁町の逍遙邸内に新設された文藝協会試演場で逍遙作の「鉢かつぎ姫」を松井須磨子の宰相で姫の役を、「お七吉三」を上田洋一(吉田幸三郎)の吉三でお七の役を演じた。雑誌『歌舞伎』の「第一回文藝協会試演」で芹影女が「鉢かつぎ姫、舞台が綺麗で好い心持であつた。くに子さんの姫はもう少し落ちつきぶりが欲しかつた。」(『逍遙事典』山本二郎)

 

などと記されている人である。

 

 能楽の囃子方(笛・小鼓)として

 

 鹿島清兵衛はまた、明治の能楽復興期に能楽を(たしな)んだ人でもあった。「森田流といつても、当時は家元初太郎の外に寺井三四郎と三樹如月(鹿島清兵衛)とがゐただけで、如月は唯素人の道楽ぐらゐの程度であつた」(池内信嘉『能楽盛衰記』下二二九頁—大正十五年五月、春秋社刊)とはいえ、以下にあげるような数々の大きな催しに出勤している。

 

▽軍資義捐(ぎえん)

(明治三十七年二月十三日、於飯田町四丁目、喜多舞台)

  金子亀五郎

羅生門  宝生 新

        高安鬼三  山下貞胤

        三須錦吾  三樹如月

(同年三月二十日、於牛込新小川町、観世舞台)

  観世 清之

七騎落  鏑木 詐胤

        大倉繁次郎

        三須平司  三樹如月

(同年三月二十一日、同前)

  山階徳次郎

善界   宝生金五郎

        川崎利吉  観世元継

        勝田宣治  三樹如月

  観世清廉

    宝生 新

        加藤八百作 観世元継

        幸 熊次郎 三樹如月

 

▽観阿弥五百年祭

(明治三十八年四月十六日、兵庫和田神社舞台)

  観世銕之丞

百萬   栄 保助

        大野勘兵衛 観世元規

        大蔵喜太郎 三樹如月

  梅若 六郎

  梅若万三郎

松風  中村弥三郎

 見留     大野勘兵衛

        荒木 賀光 三樹如月

(同年五月七日、牛込新小川町、観世家舞台)

  大西亮太郎

高砂  野島 信

祝言      高安鬼三  観世元規

        幸熊次郎 三樹如月

(同年五月八日、同前)

  桜馬 伴馬

八島  鏑木詐胤

        加藤八百作

        幸 熊次郎 三樹如月

  金剛鈴之助

石橋  川越守男

        高安鬼三 観世元継

        幸熊次郎 三樹如月

▽京都・東本願寺式能

(明治四十四年五月二日、京都・東本願寺大師堂白洲)

  桜間金太郎

春日竜神 田中排吉

        林  蔵吉 野崎光之丞

        鹿島清兵衛

 武田市次郎

▽大正天皇御大典能(大正四年十二月八日、宮中)

  山口光夫

  金剛右京

橋弁慶     清水正徳

        北村一郎  鹿島清兵衛

 

 三木助月(「日本放射線技術史考」1、『逍遙事典』ほか)三樹如月などと記されているが、いずれも、写真の草分けで、名妓ぽん太を妻とする鹿島清兵衛のことである。

  ◇

 その後、厳しい残暑の未だ去りやらぬ昭和六十二年の夏の終り(九月七日)、(かね)て約束していた鎌倉は腰越の山荘に飯塚博士未亡人(くに)を訪ねた。六歳の時から嫁ぐ日まで養育された逍遙夫妻のことを話しておきたいとのことで歓談すること約一時間半。これはテープに収めてあるが、何れ起稿のうえ、同未亡人の名にて『逍遙研究』に発表されることになっている。その時、折り交ぜて実父母たる鹿島清兵衛、同ゑ津夫妻の思い出をも聞くことを得た。既に右の稿を書き終えていたことでもあり、何れ書き直す機会を得たいと思っているが、今ここに付記する要点は概ね次の通りである。

 一 清兵衛は先妻(先代清兵衛長女乃婦)との間に三人の子供、ゑ津との間に十二人の子供があったが、現存しているのは同未亡人と末妹の二人だけである。

 二 年に一・二度、養母せき(逍遙夫人)に連れられて実父母たる鹿島家を日帰りで訪ねていた。

 三 清兵衛は先のマグネシュームの実験で右手親指を失くし、以後の家計収入は、鹿島家の手切金とゑ津の踊りの師匠としての収入とであったらしい(因みにゑ津の収入は、当時のサラリーマンの月収百五十円位に対し五百円もあったという)。

 四 清兵衛他界の翌年(大正十四年)、その後を追うようにゑ津も他界するが、それも震災の労苦と清兵衛の大曲(関寺小町)出勤への心労が重なったためという。

 五 清兵衛の養子上京の際に弟の清三郎を伴なう。

 六 藝妓遊びは、清兵衛よりもむしろ弟の清三郎だったらしい。

 七 清兵衛は生家養家ともに酒造業・酒問屋でありながら、殆ど酒は飲まなかったらしい。

 

 〔付記〕 本稿に関連する文献として、渋川驍「『百物語』と鹿島清兵衛」(昭和四十六年六月、森鷗外記念会刊・森鷗外五十回忌記念特集『鷗外』所収)、清田文武「『傍観者』に付き従う女性—鷗外作品中の太郎と品—」(『新潟大学教育学部紀要』第26巻2号)がある。

 

 鹿島清兵衛関係年譜  割愛。本文にほぼ尽くされており、この上は原本を参照願う。)

 

[付配] 本稿執筆後、白洲正子女史が『遊鬼—わが師わが友』(平成元年十一月、新潮社)随想二十篇中に、鹿島清兵衛を遊鬼として執筆、飯沢耕太郎氏が、『芸術新潮』平成二年四月号に「"写真大尽"といわれた男—鹿島清兵衛」について秘蔵の写真とともに執筆している。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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松田 存

マツダ タモツ
まつだ たもつ 国文学者 1934年 東京都に生まれる。

掲載作は、1987(昭和62)年11月、「欅」第11号に初出、後に1991(平成3)年5月、朝文社刊『近代文学と能楽』に収録。

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