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海洋少年団の秘宝

      (一)

 

 珍しく空襲警報が鳴らない夕方、庭先の小さな池の周囲に、行儀よく植えられた菖蒲の花が咲き、戦時中とは思えぬ静けさだ。

 昭和二十年の六月、正義は、十二歳の夏休みを迎えようとしていた。小学校最後の一ヶ月に亘る休みをどう過すか、頭の中はあれこれと思いをめぐらす楽しさで一杯である。

 父親は火薬工場に通う会社員、母親は市役所の職員、そして祖父母が半農半漁という家に育っている。正義はなんの不自由もなく、自由闊達な少年だ。そんな正義の不満といえば、人が恨むサラリーマン家庭である事だ。

 正義をそんな思いにさせたのは祖父の影響である。祖父の口癖は、サラリーマンには誰でもなれる。しかも夢がないし目的もない。そんな人生は味気ないもんだ。貧乏してても自分の生きる目的と夢がなければ人生の意義がないー。ということだ。

 祖父は正秋といって、村一番の荒くれ男と言われ狩猟でも漁業でも誰にも負けぬのが自慢である。もう六十二歳という高齢だが、ご先祖様が残してくれた秘宝を探し出すまでは死ねん。といって頑張っている。

 息子の正がサラリーマンになって「自分の夢を継いでくれぬ」とわかると、孫の正義にそれを託し、正義が小学校に入った頃から山に連れて行っては野兎の罠の仕掛けを教えたり、日向灘へ注ぐ北川の河口で漁獲り網の仕掛け、もぐりの方法などを教えた。そして密かに言い続けた。

「正義、いいか、じいちゃんが探しているか遺族の秘宝は必ずある。だから正義は、秘宝を探すのを手伝ってくれや」と。 

 正義も祖父の言葉を信じている。村一番のじいちゃんだ。と誇りにしているのだ。

「ばあちゃんよ、じいちゃん何処?」

「ああ、たぶん河口じゃろ。(魚を捕る底板のある金網)を上げにいっちょとじゃろ」

「おれ、いってみる。じいちゃんのひびは大漁じゃと思うよ。楽しみじゃ」

「そんならいってみ」

 正義の祖母はサトと言って、気丈な女性で男顔負けの力持ち。畑仕事を日課にしているが、収穫した野菜や芋類など、てんびんの前後のに入れて段々畑を軽々と降りてくる足腰が並はずれて強い。

「わしは、子供を一人しか生んじょらんき、三人も四人も生んだ女より腰に力が入るごつなっちょっと」と自慢する。

 そのサトの声を聞き終わらぬうちに正義はランドセルを濡れ縁に放り投げて駆け出した   

正義の住んでいる村は、背に山、前に川という狭い土地を細長くした約三キロに及ぶ集落である。家から河口まで子供の足で駆ければ十分で着く。そこには小さな漁港らしき船着場があって、川船が十隻ほどさざ波にゆられ川面に泳いでいる。

 祖父の正秋は、大人なら三人、子供なら六人は乗れる川船を櫓で漕いで、狩猟オフの時期は、ほとんど毎日のように、十キロ離れた浦尻湾に向けて胸を膨らませる。

 松田水軍が隠した金銀財宝を探し続けているのだ。子供の頃に伝説を聞いて以来である村の人達は「宝さがしの秋やん」となかば小馬鹿にした口調で言い合っている。もっとも聴こえたら殴り飛ばされるのでひそひそ話である。正秋はそんな村人たちの事は薄々は感じているが馬耳東風だ。むしろ「夢もロマンもないお前らは、生きちょる値打ちはないわい」と腹で笑っているのだ。

「おお、きたか、正義。今日はB29(米軍爆撃機)の爆音が響かんので、ひび漁の成績がいいわい」

「おー、よう入っちょったネ」

「うーん。チヌが三匹も入っちょる。おまけが蟹じゃ」

「晩めしのおかずは、蟹の味噌汁、チヌの刺身じゃ。ばあさんが喜ぶぞ」

 正義は、そんな祖父が大好きなのだ。

 いつものように、家路に着く道すがら、正義は祖父の話を聞く。そのほとんどが秘宝の話である。祖父の話によると、その秘宝は浦城湾の北端にある四方が一キロほどのの何処かにあるらしい。

 傘岩には秘宝伝説のほかに、西南の役で敗れた西郷軍の落武者が流れ着いて守護神となっているという言い伝えもある。夢とロマンとは別に不気味な怨霊めいた話まで人々の口端に伝えられており、その岩の姿が傘に似ていることから傘岩と呼ばれている。潮が引いた時には傘岩の頂上部分が水面に姿を現す。しかし、くびれた傘の柄に当たる一角は誰も寄り付けない潮の流れの激しい所である。真夏の強い太陽の光も届かぬ青暗い空間であるその奥に三畳敷きほどの平面の岩がある。秘宝は「そこに隠されている」というのが祖父の説である。

「じいちゃんは、わかっているのになんで秘宝を取ってこんとネ」

「ばか!そこには人間の力では行けんのじゃよ。サルベージ会社の潜りの専門家でさえ行けんかったんじゃ」

「じゃ、ほんとの宝の持ち腐れじゃわ」

「うーん、そうかも知れんのう。でも夕方の西陽が差す頃、しかも干潮だったら三畳平面岩にわずかに光が差す、その時に行ってみると確認できるのじゃが……」

「でも、どうやって行くんヶ。干潮の前後は潮の流れも速かろうが……」

「そうよ。それで、じいちゃんは秘宝を見つけられんでおるとよ」

「なーんだ。そうなんだ。じゃ、おれが夏休みに挑戦してみようかな」

「正義ならやれるかも知れんの」正秋は目を細めて励ますように何度も頷いてみせた。

 二人の話は限りなく続く。家に着くとすっかり陽は落ちて、西の空が茜色に染まっていた。祖母は捕ってきた魚を見ると、まるで当然のように料理をはじめた。

「きょうは大漁じゃったのう、じいさん」

「うん、蟹がもうけもんじゃ」

 祖父と祖母のの合った会話は、何のわだかまりもなく、ごく自然に、思いついたまま口を突いて出る。そんな祖父母の会話に、正義は何かを学びとろうとするように聞き耳を立てる。

 なぜ祖父母の会話に興味があるのか不思議である。そして、父母の会話は重苦しくて何も得るところがないと思っている。

 正義は完全に祖父母っ子で、父母に対しては愛情の度合いが薄いのである。だからという訳ではないが、正義は家に帰るのは寝る時だけだ。朝ご飯をすませ学校に行くまでが家にいる時間で、あとは同じ屋敷内にある祖父母の住居で祖父母と一緒に行動する。

 時には祖母の畑仕事の手伝いをすることもあるが、ほとんどは祖父に狩猟や漁業を習っている。いわば祖父仕込みの猟や漁の腕前は大人顔負けである。とくに潜り漁は得意とするところで、ゴム銃を右手に、左手には石を抱いて潜って行き、川底で動かずに魚が眼の前に現れるのを待つ。その間長くて一分足らずだが、魚は動かない不思議な人間をめずらしがって近づいて来るのだ。

 とくにチヌ(黒鯛)は好奇心が強く用心深い魚なので、人間の眼の動きまで察知して近づかない。しかも、好奇心で近づいて来ても真正面から来るのでゴム銃の狙いが定められない。そんな時、眼を右か左か、どちらかに動かす。チヌは逃げようとして眼の前で横になる。その瞬間にゴム銃を放つのである。

 わずか一分そこそこの少年と魚の知恵くらべといっていい。

 正義は十回ほど潜ると二回か三回はチヌを見つける。そして一回は横腹をみごとに撃ち抜いて息を切らして上がってくる。突いた魚をゴム銃と共に高く上げて「やったわい!」というポーズをとってまで泳ぎ着く。舟には親友の古賀と従兄弟のが必ず乗っている。三人は、日・独・伊の三国同盟を真似て「海童三人会」を結んでいる仲良しだ。

 古賀剛志は、夏目漱石の小説「坊ちゃん」に登場する「うらなり(古賀)先生」の孫である。うらなり先生は、四国・松山中学校に勤務していた英語の教師。教頭(赤シャツ)に追い出され、日向・延岡中学校に赴任して来た先生だ。

 坊ちゃんによると「延岡といえば山の中も山の中で大変な山の中だ。船から上がって、一日馬車に乗って、宮崎に行って又一日車に乗らなくては着かない所」というしかも言うに事欠いて「猿と人とが半々に住んでいるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくないだろうに………」と、延岡は過疎の中の特等過疎のように言われた土地だ。

 しかし、うらなり先生が赴任してきたときには、すでに鉄道・日豊本線が開通しており松山から別府までは連絡船で、別府から延岡までは汽車で来たはずだ。

 延岡に赴任して来た古賀先生は、着任した翌年に東海廻船問屋の娘・好江と結婚。一男二女に恵まれた。というのは、松山中での送別会で数学の堀田先生(山嵐)が「延岡はるな土地で………心にもないお世辞を振りまいたり、美しい顔をして君子をれたりするハイカラ野朗は一人もいない。君の如き温良篤厚の士は、必ず地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。延岡に赴任されたらその地の淑女をんで一日も早く円満なる家庭をかたち作ってかの不貞無節なるを事実の上に於てせしめん事を希望します」と挨拶したことを実行した結果によるものだ。  ※は新潮社文庫「坊ちゃん」から引用

 古賀剛志は、そのうらなり先生の長男・剛一の息子である。正義とは小学校一年生から同級生で、一番気の合う友達だ。いわば剛と柔の組み合わせだ。剛志はうらなり先生が初孫に「自分のように気弱で人の策略にはまりそれを承知で不当な仕打ちを受けるような情けない人間にならない」ことを願って命名したという。

 正義は、普段はおとなしい気の良い剛志だが、一担緩急あれば、人並みはずれた度胸が据わるのを頼もしく思っている。しかも、剛志の父・剛一は市役所職員で、正義の母・志津子と同僚であり親戚付き合いの仲である。

「正義ちゃん、うちのじいちゃんは、ばあちゃんと一緒になった事を人生の宝さがしに成功した。というが、正義ちゃん処のじいちゃんはどうネ」

「うちは、おれがいるからばばがいる。ばばがいるからおれがいる。といいよるが」

 正義も剛志も祖父母の事が自慢であり、二人の話はいつも祖父母の事ばかりである。

 正義の従兄弟・英文は母・志津子の妹である登美子の長男。貴公子然とした少年である。

 学校の成績がよく、小学校四年から級長をつとめている。

「おれは延岡中学校に行く。そして若山牧水のような短歌をつくる人になるんじゃ」

「英文ならなれるよ。母ちゃんが教養があるかいネ。短歌会でなんぼか発表しちょるし、“なかなかの短歌じゃ”とおやじがいいよった」

 正義は、英文の将来の夢を砕かんように話を合わせてやる。英文は「正義や剛志とは肌が合わぬ」と思っている。どちらかと言うと東京から転校して来た坂口と気が合うようで、どちらも田舎では珍しく自転車を持っている。いつも二人で街まで行ったり、競争したり、手放し乗りをしたりと、楽しんでいるもちろん、正義たちも、二人に自転車を借りて工場の運動場で自転車乗りに興じることもある。

 坂口肇は、父親が火薬工場長で、小学校五年生の一学期に転校して来た。体格がよくて色白で好男子なので、すぐに学級の人気者になった。成績もよく英文と級長の座を争っている。

 肇は、英文よりも正義と仲良くして、都会では味わえない田舎の生活を教えてもらいたいのである。

「正義君、僕は泳げないんだ。それで舟に乗ったり、魚を釣ったりしたいのにできないんだよ」

「そしたら水浴びを覚えたらいいがネ。おれが教えてやるが」

「そうだけど………大丈夫かなァ。溺れるだろうネ」

「何度も溺れると覚えるョ。溺れないようにする方法がわかるようになるからョ。もうすぐ夏休みじゃき、みんなで手伝って泳げるようにしてやるョ」

「ありがとう。僕は一生懸命に泳ぐ練習するョ。たのんだからネ」

 正義と肇は、そんな約束がもとで急速に仲良くなった。もちろん従兄弟の英文も、剛志も賛成だ。正義たち「海童三人会」は肇に水泳を教える事で仲良し「四人会」になった。

 正義たちの村は延岡の東側で浦城湾沿岸に位置している。世帯数二百戸ほどの小さな集落だ。小学校は、天孫降臨の地とされる高千穂峡を源流とする北川の河口に近い漁港を見下ろす山腹にある。一学年一学級で全校生徒は三百人ほどで延岡市二十小学校のうちで一番小さい小学校である。だが、その歴史は古く、明治八年に創立されている。小学校が創立された頃は、木材や農産物を大阪方面に積み出し帰りは石炭を積んでくるという栄えた商業港だった。

 延岡の東の海に面している地域であることから町と呼ばれた。小学校には、商人や延岡内藤藩の武士など当時では支配階級といわれた人達の子弟が通った。

 大正十二年に国鉄日豊線が開通し、その流通機構が大きな変革期を迎え、商業港としての役割に幕が引かれた。しかし火薬工場ができて、軍需工場のある村として発展し、社員住宅が立ち並び、商店もふえて村というより町らしい雰囲気が出てきつつあった。戦争は敗色濃くなり、昭和二十年六月二九日には、火薬工場が爆撃を受け焼失した。その翌日、正義たちは申し合わせたように港にあつまった。

 港には、正義の祖父の川舟をはじめ、十隻ほどが繋いである。正義たちは、その川舟に乗って、船底に寝転んで青空を見ながら話し合った。

「日本は敗けるんじゃろかのう」と剛志がいった。

「敗けん。敗けるもんか。日・独・伊が協力して発明した新型爆弾が出来るそうじゃかりョ」と正義が目尻を上げていった。

「どっちでも、戦争はすかん。夜の灯火管制で勉強ができん。よう終わって欲しい」

「そうだよ。僕も早く終わることを願ってるよ」

 英文と肇は、内心では日本は敗けと思っているのだ。でも口に出したら大変である。毎日毎日“鬼畜米英”の教育を叩き込まれ、学習時間は削られ竹やりによる銃剣術の訓練ばかいさせられている。

 口を開ければ「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」「一億火の玉」など悲愴な言葉が飛び交い、先生たちは非常時体制で登校しているのである。そんな緊迫したなかにも、のんびりと川遊びに興じる少年たちは穏やかで平和な一刻(ひととき)を感じていた。

「もう、戦争の話はせんと。大人がしよることじゃ。今の俺たちは空腹に耐え、暗い夜を辛抱するしかねェ」

 正義は投げ出すようにいった。答えるように肇がいう。

「それより、早く僕が泳げるように教えてくれョ。約束だからな」

「そうじゃった。正義ちゃん、肇君の胴に縄を縛りつけて川に放り込もうや」

 そう言いながら剛志は五メートルほどの荒縄を正義の方に投げた。

「よっしゃ。いいか肇君、溺れそうになったら、この縄が命綱じゃ。心配せんでいい」

「わかった……」と肇は答えた。

 といっても、不安で恐くて、胸がドキドキしている肇である。そんな肇の不安をとり除くように正義が「プールは真水じゃけん、泳がんといかんが、海水は泳がなくても体が浮くから心配すんなョ」

 正義、剛志、英文の三人で肇の命綱をしっかり握った。

「いいか、肇君。あんたの好きなように川に入れョ」

「わかった。僕は船縁につかまって、しばらく舟と一緒に泳ぐことにする・・・」

 正義は頷きながら「肇君は案外早く覚えるかも知れない」と思った。

 小学校四年生の時に、正義は同じ方法で祖父に教わったことを思い出していたのだ。少しづつ舟から離れたり、近づいて船縁につかまったり、そうしているうちに、自分の力で泳ぐようになる。どんな不器用な者でも三日も練習すれば泳げるようになる。

「肇君は要領がいい。あと一時間も練習すれば泳げるョ」

 英文も調子を合わせて「うまい、うまい」といって囃したてた。肇は必死で船縁に片手でしがみつき、片手で水を掻いだ。それは犬掻きで平掻きになっていない。 

 「肇君、平泳ぎでやるといい。犬掻きは疲れるからネ」

 そんな正義の声が聞こえる余裕がない肇は口や顔に水しぶきを浴びながら眼だけはギラギラと光らせていた。

「もういいじゃろ。一度上がって休んだらいいが」

 剛志がいうと

「そうじゃ、みんな肇君を舟に上げてやろうじゃねえか」

 正義の号令でみんなよりひと回り大きい肇の体を力をあわせて引き上げた。肇は、安堵した様子で

「泳ぎは面白いよ。明日(あした)も、その次の日もたのむよ、みんなたのむよ」

 と、笑顔でいった。

 正義たちは「肇君は本気で水泳を覚えるつもりでいる」とわかると嬉しくなった。転校して来た頃は、いつも一人で居た肇だが、今では仲間がいる。それも、とびきり上等の友達だ。 

「水泳を覚えたら、次は潜りだ、そして魚突きもやってみたいよ僕」

 肇は上機嫌である。正義も、剛志も英文も笑い転げた。こうして四人会は益々強く結ばれていった。ところが、肇と英文が「四人は縁起が悪い数字だからもっと増やして何事に対しても勇気をもって当たる、という少年団を結成しょうョ」と提案した。

「あんまり人が多いと、まとまりがつかんごつなるし、意見が分かれた時にゃ分裂することになるじゃろ」

 と正義が言うと

「それはそうだろう。でも規則(きまり)をつくって違反したときには罰をあたえる。ひどい違反に対しては脱会させればいいが」

 と、肇は会員の多いことに賛成である。

「七人ぐらいがちょうどいい」

 英文がポツンといった。剛志も英文の顔を見て、手を叩きながら

「七人にすれば会長がいる。意見が合わんときに、ちゃんとまとめてくれる(もん)がいるが」

 と会員を増やすことに賛成して、会長には正義を推薦した。正義は照れ臭そうに、それでもまんざらだはない様子だった。

「会長なんて、恥ずかしいが……。まあ“まとめ役”ということでいいか。事故でもあったら、男として責任をとるとじゃき」

 胸を張って言う正義に“頼もしい大将”が誕生した、と剛志たちは肩を叩き合って仲良しグループの絆をより強固にしていくことを誓いあった。

「島崎時夫さん()啓介(けいすけ)と山村局長ん()(さとる)と、船大工の川島源兵衛さん()勝市(かついち)と、俺は前から眼を付けとったんじゃ。どうじゃろか?」

 正義が言った。英文は山村悟については意義はなかったが島崎啓介と川島勝市について賛成する気になれなかった。

 英文が二人を敬遠するには、それなりの理由(わけ)があった。といっても他人(ひと)から見れば「気の合わない理由」にはならない、ただの偏見である。

 英文は東海町でも屈指の廻船問屋を母屋に持つ家柄だ。そして山村悟は父親が郵便局長である。しかし島崎啓介と川島勝市については「その家柄の格がちがう」と子供心にも差別意識を根強くもっているのである。

 正義が三人の名前を出した時、英文が拒絶反応を起こした理由は“家格の違い”にあることを言いたかったのだ。

 英文は、人間には人格があり、会社には社格がある。そして家には家格がある、それが人生の優劣を決める。と気位の高い母親に教え込まれているのである。

 正義は、そんな英文の“友達を見る眼”について“偏見はよくない”と思っている。だから、家柄がよくても、父親が社会的に地位があろうがなかろうが、貧乏であろうが「俺たちには関係ない。みんな、それぞれに元気よく強い大人になれば、必ずお国のためになれる」と信じている。

「国民一億火の玉」の時代に家柄がどうだこうだと言うのは非国民的な考えであると思って誰とでも仲良く、という主義だ。

 剛志の祖父(うらなり先生)は延岡中学校で英語の教師をしていたが、昭和十六年に太平洋戦争が勃発し英語使用が禁止されると同時に辞任しているのだ。それでも敵国の文字や言葉を教える人間は非国民であると汚名を着せられた。その孫である剛志は、学校で居心地が良い訳はないし、差別に泣かされ“いじめ”にもあった。

 そんな時に

「剛志は何にも悪くねぇ、剛志をいじめる奴は俺が相手になるき」

 と、正義は剛志をかばった。それでも三、四人がかりで足腰を棒切れで叩きのめされた事が何度もある。

「正義ちゃん、もういいが、俺んために怪我してから……」

 剛志は申し訳なさそうに正義に詫びるのだが、正義は「お前をいじめる奴が悪い」と言って後に引かない。

 子供の喧嘩に親が(くちばし)を入れるものじゃないというのは現代風の常識だ。しかし、正義の祖父・正秋は「それは大人の勝手な言い訳じゃわい。子供の喧嘩の原因は、ほとんどが親に責任がある。親たちが仲裁役をつとめにゃならんとじゃ」といって嫌がる正義の襟首をわしづかみにして、喧嘩相手の家につれて言って啖呵をきる。

「あんたん(とこ)の子たちが四人がかりで正義を殴り怪我させたんじゃ。正義に非があれば、(おり)が正義を殴るけど、あんたん所の子供たちに非がある時には、親の眼の前で一対一で喧嘩をさせる。もちろん素手だ。それでいいじゃろ」と。

 喧嘩相手の親たちは、子供たちに原因をたずねる。自分たちの子供に非がある事を認めた上で「誠に申し訳ないのう」と詫びを入れたのだった。

「それで一対一で殴り合いさせるかい」

「それは勘弁してやってくれや、なあ秋やんよ。もう子供たちも集団暴力はせんといいよるがョ」

 祖父・正秋は、どうにか腹の虫を納めて、正義の頭を撫でながら言った。

「いいか正義、二人までなら負けるな。でも三人以上が相手の時は逃げろ、逃げるが勝よワッハッハハ……」

 正義は祖父の躾については絶対に従うことにしている。祖父の言う事に間違いはないと信じている。だから英文の島崎啓介と川島勝市に対する差別については「お前の考えは悪い。二人には俺達がもっちょらん乱暴な(とこ)が『海童会』の為に役立つと思うがョ。じゃから仲間になってもらおうや、な、英文いいじゃろが……」

 英文は小さく頷いた。正義は「これで七人揃ったが」

「啓介君や勝市君たちも仲間に入るじゃろかい?」と剛志がいった。

 正義はあらかじめ悟、啓介、勝市には話しをしておいたのだ。三人とも「好き嫌いじゃねえ、目的が同じ、夢が同じなら、なんぼか楽しい仲間じゃわい」と承諾していたのだ。

 こうして、正義が率いる仲良し少年団は七人で発足した。その名称は「海洋少年団」となり「海童四人会」は発展的に解散したのである。

 正義たちの結成した海洋少年団は、学校で評判になり、親たちも援助しようという声が出はじめた。

だが、少年たちは自主自立の精神を尊しとし“自由と勇気と夢”を掲げており大人の介入を良しとしなかった。

 しかし「災難にあったり、事故でも起こしたり、心配のタネは多い。やはり指導者というか後見人が必要であろう」というのが大人たちの意見である。

 特に校長の甲斐権一先生は「学級担任が後見人になりなさい」と指名したが、正義たちは

「先生はいらん。そんなら学校での体操や銃剣術や遠泳、ボート競走などと同じになってしまう。それは嫌じゃ。自分たちのやりたい事をやる。それが海洋少年団じゃ。誰にもじゃまされたくないのじゃ」と校長にも従わぬ姿勢を見せた。

「秋さんよ。正義君たちの事、秋さんと源兵衛さんとで見守ってやってくれんかいの」

 甲斐校長は、正秋と源兵衛に頭を下げた。「校長さんに頭下げられちゃ(ばち)が当たるわい

孫たちの()(かえ)(もん)が……。心配しなさらんでいいです。俺どんが世話するがね」

 正義と源兵衛は快く引き受けた。校長は安堵の胸をなでおろした。この事は学校の職員会議の議題になり

「これが前例となって、次々に子供たちがグループ化して行くことになりかねない。それでなくても戦時下において、次代を担う少年たちの教育が厳しく問われる時、もっと慎重にすべきではないか」

 という意見もでた。が、その反面「だからこそ、彼等に自由な時を与えてやりたいものであり、大いに結構」と、小さな小学校にとっては大きな問題となった。 

 甲斐校長は「問題が起こった場合、私がすべて責任を取ります」

 この英断で海洋少年団は非公式ながら学校の認知するところとなり、正秋と源兵衛が後見人ということで決着した。

 

      (二)

 

 正秋は六十二歳になる今日(こんにち)まで、一度たりとも給料というものを貰った事がない。子供の頃から百姓の手伝い、山師の真似事、漁師の見習いなどで育った。学校も、小学校四年まで通って“読み書き算盤(そろばん)”の基礎を習って卒業した。十歳で一人前になる生活に入ったことになる。

「正義、俺はお前のじいちゃんじゃが、小学校の大先輩なんじゃぞ」と自慢する。しかも正秋の父・正吉(しょうきち)は商船に荷を積み込む“荷受人”であり、東海町で松田荷受所といえば人夫が三十人ほどもおり、大きな屋敷と倉庫を持った富源者(ぶげんしゃ)だった。東海港に出入りする船の大半の荷揚げや荷積みを松田の文字の入った半纏(はんてん)(ひらめ)かせ威勢良く港を席巻した。

 正秋は三十五歳になった時に人夫頭になった。他の荷受所の人夫頭より年配であった。

父・正吉の「荒くれ(もん)を使うにゃ、三十歳を超えんと一人前に扱われん」という理由からである。

 荷受所の仕事が嫌いな正秋ではなかったが自分の好きな事が出来ないほど忙しいのに閉口した。女房・サトとの間に男の子も生まれ一家を成していた。

 正秋が好きな事と言えば山林業であり漁業である。しかし父・正吉は「山林業は二十年三十年という気の長い仕事じゃ。それよりも今に活力がある荷受人の仕事の方が収入もいいんじゃ」と正秋が山林業の話をすると叱った。だが、漁業については、それが本職でなく趣味でやる分は、「俺も好きじゃ」と言って一緒にひび漁や釣りを楽しんだ。

 そんな正秋の生活を、根底から狂わせたのが一巻(ひとまき)の松田家系図である。

 屋敷の離れ(むね)納屋(なや)になっていて、その二階に先祖伝来の陶器(とうき)薙刀(なぎなた)鎖鎌(くさりがま)などが仕舞ってあった。掛け軸も十本ほどあり、その一本が家系図だった。それは室町時代からはじまっており、文明八年(一四七六年)の薩摩桜島大爆発の年に日向・大隈・薩摩三ヵ国の指揮権であった伊藤祐尭に海上警護を命ぜられた松田義清を初代としている。

 正秋が見つけた家系図は、途中で疑わしい点が見られるものの正秋で二十三代目にあたる。これは、代々当主が書き綴って残したもののようだが、その文言の新しさから判断して、ごく最近作り直されたようにおもわれた。

 正秋は、家系図にある初代「松田義清」についての記述に興奮を禁じ得なかった。

 『松田義清=寛正二年日向の国・東海村に生まれる。文明八年十五歳で日向守護島津武久から海上警護の許可を得る。豊後水道沿いの大入島、日向灘沿岸に近い深島、島野浦、浦城湾などを根城にして海上勢力を張っていた。明国(みんこく)から密貿易してきた薩摩の海賊船と戦いを交え、その財宝を戦利品として手に入れた。文明十八年瀬戸内海の覇者・村上水軍の急襲をうけ滅びる。義清二十五才の自決』とあった。

 二代目は義清が二十歳の時の娘婿・清助となっているが、清助は村上水軍に連れ去られ消息は不明。

 三代目が薩摩の海賊船の飯炊女(めしたきおんな)に生ませた義明(よしあき)。義明は父・義清の遺志を継いで、船団を再興させる。浦城湾は海の要塞といわれ、ここに逃げ込んだ船は容易に発見されなかった。その利を活して義明は日向灘沖を通る商船を襲うようになる。こうして日向灘の松田水軍は三代目で海賊団になり、五隻の船が浦城湾で待機した。

 松田水軍が得た金銀財宝は浦城湾に隠されたと伝えられるようになり、再び村上水軍に攻撃されるが秘宝は何処にも発見されずに今日に至っている。

 正秋は、系図による先祖が四百五十年も昔に日向灘の(しゃち)(こわ)がられた海賊であったことの事実に身震いするほどの感動を覚えた。

 以来、正秋は荷受人の仕事よりも、浦城湾の秘宝さがしに没頭して行くのである。

「バカもんが、そんげなお宝があったら、()ように誰かが見つけちょる……」

 正吉は、正秋が荷受人の仕事に身を入れずに寄ると触ると“秘宝”の話に明け暮れているのを見かねて

「いいかげんに眼を覚まさんといかん。お前が宝ぼけしちょるもんじゃき、荷受の仕事が少なくなっていく。もう島田屋に追い越されてしもうた。信用もなくなったが」

 と、強く叱りつけるのだが正秋の宝さがしは()まなかった。

 正秋が四十九歳になった師走の寒い朝、正吉は、家業のことを心配しながら彼岸に旅立っていった。静かな往生だった。正秋は、いくらか心を痛めた。生一本の強い親父(おやじ)だった。

「これで秋やんも、少しは性根(しょうね)が入ったじゃろョ。荷受の仕事に精ださにゃ松田荷受所は潰れるぞ!」

 寒風の中の野辺送りをすませ精進上げのお膳を囲んで、親戚一同と隣近所の人たち三十人ほどが「秋やん、しっかりせにゃのう」とお悔やみ代わりに口々に言い合った。

「もう宝探しは止める。あきらめた」

 正秋は、場所柄を弁えて、そう言わざるを得なかったが、心の中では「止めるもんか、必ず探し出してみせる」と呟いた。

 松田荷受所の当主は正秋になった。しかし家業は人夫頭に任せて、毎日のように海図を持ち出し浦城湾に川舟を()いで行き、波の来ない岩場に舟を(つな)ぎ止めて傘岩の周辺を潜る何度も何度も同じ所を潜って、岩の形を頭の中に叩き込むのだ。傘岩という名のとおり、頂上は平らな岩だが、その内側や傘の柄の部分は複雑に切り込みが交差している。

「宝探しに行って、宝は見つけられんけど、栄螺(さざえ)床伏(とこぶし)を市場に出すほど捕って帰るからいいがョ」

 サトは、正秋の捕って来た魚貝類は近くの魚市場で競りに掛ける。農作物は竹篭を背負って、東海−延岡の定期馬車便で街まで出かけ商店街の軒先で商いをする。

 初孫・正義が生まれた時、正秋・サト夫婦は、父母の正・志津子よりも喜んだ。

 正義が小学校に入る前からひび漁に連れて行ったり、(はたけ)仕事の手伝いをさせたり、強く逞しい少年になるように育てた。

「正義のことは親父たち(正秋・サト)に任せよう。なまじ俺達が口を挟むと、正義が迷う事になるから……」と、正・志津子夫婦は正義を正秋・サト夫婦に任せた。

 祖父母ッ子となった正義は、小学校四年生で泳ぎと潜りができるようになった。

「正義が向こうの岸まで泳いで渡れるようになったら宝探しに連れて行ってやるぞ」

 正義はじいちゃんと宝探しに行くために頑張らにゃ」とその年の夏休みには川幅百五十メートルを泳いで渡れるようになった。潮の流れが速い時は、かなり川下の方まで流されるがどうにか泳ぎ着けた。

 学校で五・六年生の合同遠泳大会に、特別に四年生で出場するなど“東海の河童”の渾名(あだな)で呼ばれるようになった。

「秋やんの育て方が厳しいので、なんでも早よう覚えるとじゃ」

 島崎時夫や川島源兵衛は、同じ年頃の孫をもつ者として正秋を羨ましがった。その反面孫たちが「海洋少年団」の団員であることを嬉しく思っているのだ。

 正秋は島崎時夫と川島源兵衛を誘い、浦城湾の秘宝探しを続けている。

「ときには孫たちが暴走せんように監視しちょらないかんけど、俺たちの夢は宝じゃ。それを忘れたら生きちょる甲斐がねェ。そうじゃろうが、時やん、のう、源兵衛さんョ」

 と、正秋は時夫と源兵衛があきらめかけると気を持ち直すべく励ました。

 夏は凪の日に、三人で浦城湾に出かけ、キャンプを張って、三日から五日間かけて探し続けることもある。

 宝ぼけ三人組、と愚弄(ひやか)されても正秋だけは本気である。時夫と源兵衛は「秋やん一人じゃもぞなぎ(可哀想)からョ。別にする事もねェし、手伝ってやちょると。何ちいわれてんいいが。結構おもしりもんネ」と自分たちがされている事を気に止める様子もなく平気でいる。

 正秋は、「いまに見ておれ、必ず探し出してやるわい」と、人生をかけている。

 荷受所の人夫頭が正秋に「もう俺には荷受所の責任は持てん。辞めさせて欲しい」と申し出て来たのは、正秋が松田荷受所の当主になって五年ほど経ってからだ。

 人夫頭が辞めるという理由は「荷揚げも荷積みも少なくなって、人夫に無駄な労賃の支払いが(かさ)んで責任が持てない」というのである。そういえば「収入より支出が上回り蓄えもすこしづつ減っている」と正秋は薄々は感じていた。

 自分の放蕩三昧で家業が潰れる事になればご先祖様に申し訳ない。そんな気持ちの強い正秋だけに、何とかして人夫頭を口説き伏せて仕事を続けてもらうしかない。

「どうじゃろネ、人夫を減らして、荷受・荷積みの時だけ請負払いにしたら?」

と提案した。いままでは仕事がなくても日当を払っていたので人夫にとっては居心地の良い職場であったわけだ。しかし請負制にすれば人夫の生活が相当に苦しくなり、他へ職場替えをするものが出て来ることになる。人夫頭はそれを心配して

「先代からお預かりした家業を、俺の不甲斐なさで潰しちゃ申し訳ありまっせんからネ」

 と、自分を納得させる様に頭をピョコンと下げた。

 正秋は笑って人夫頭の肩を軽く叩き

「たとえ潰れてもお前のせいじゃねェ。言ってみれば時代の流れということョ」

 室町時代から五百年近い歴史を持つ商業港東海港は、日向・大隈・薩摩という南九州の三ヵ国からの炭・椎茸・茶・材木・鰹節などを大阪方面へ出荷した。宝暦~寛政時代(一七五三年~一七九七年頃)には祖母・傾山系の山間部で銅・錫・鉛などの鉱物資源が発掘された。大阪商人・泉屋(住友)が経営を行って全国的に有名を馳せた。

 東海港に産物会所が設けられ九州屈指の港として賑わったのも大正末期までで、国鉄日豊線が開通し、流通機構が海路から鉄道に変り、昭和初期には月に一度、石炭船が入港する程度までさびれた港町になってしまった。

 正秋は「荷受所を閉鎖しても良い」と思っている。このまま続けても経営的に行き詰ることは明らかだった。ただ、人夫たちが路頭に迷う事になるのがやりきれなかった。

 人夫頭が言うように、今なら、他の荷受所に変れば三十人全員ではなくても、半分は雇ってくれるはずだ。

「残った人夫で頑張っても、先は見えちょりますが」

 人夫頭は辞めたいらしい。

「わかった。それじゃ、荷受鑑札を役所に返すことにする。廃業しよう、それでいいネ」

だが、人夫頭は返事をしぶる。正秋は人夫頭の腹に一物あると感じた。

(かしら)よ、お前さんに鑑札を譲ろうか。それなら松田荷受所の伝統は消えないからのう」

 と、人夫頭は待ってましたとばかりに

「ありがとうごさいます。どれほどで譲り受けるか、後ほど相談させて下さい。人夫たちにも話してみらにゃいかんですから……」

「よっしゃ、きまった。契約、手続きは近日中にしよう。俺もこれで安心して“宝探し”に打ち込めるばい」

 昭和十五年、松田荷受所は名称と経営者が交替し「東海第一荷受所」として発足した。

「正秋さん、相談役になって下さいョ。報酬は出せんけんどんが」

 正秋は断った。家業の一斉から手をひきたかったのである。正秋には“大きな夢とロマン”が待っているのだ。

 松田水軍が隠したとされる金銀財宝を探し出すという執念は少しも衰えない。その為には財産を遣い果たしても良し、とする狂気じみたものがある。

 一緒になって宝探しに参画している時夫と源兵衛も「ここまで来れば秋やんと心中ですばいのう」と意気込んでいた。

 山村郵便局長、甲斐校長、坂口工場長の村の指導者は「ちゃんとした資料があって、確かな証拠でも残っているのなら解るけど、秘宝伝説は“眉つば物”のようじゃが……」

 と、正秋たちの宝探しについて「やたらと村人の好奇心を煽るだけだ。戦争中だし、軍の方から禁止令がでるかも知れない」という心配をした。

 とりわけ坂口工場長は、火薬工場が軍需工場であり、その生産体制から労働管理まで軍の統制下にあることから、村人達への監視の眼も光っており、不審者とみるや尋問をするという厳しさだった。

 正秋たちの宝探しが不審な行為か、どうかについては軍当局の判断することであるが、戦況は悪くなる一方だし、鉄や銅など、それを素材とした鐘や太刀が拠出させられるほどである。そんな時期に宝探しなど言語道断だということになりかねない。

 正秋の納屋も軍の立入検査があり、先祖伝来の金属類は没収されてしまった。

「そんな馬鹿な事があるかょ。個人の大切な財産を取り上げるのかょ」

 正秋は楯突いた。だが、軍の命令は絶対的であった。

「そう言わんで、みんなお国の為に協力しちょるんじゃから、秋やんといえど、ここは協力してくれにゃならんと」

 その一言で正秋はしぶしぶ承諾した。

村はずれにある鎮守社の狛犬(銅製)も没収されたのである。

全国から強制的に没収すれば、軍艦の一隻や二隻は建造できるだろうが「情ない事だ。この分だと戦争は敗ける」と正秋は思っているのだ。

 家業は人夫頭に譲渡し、納屋に在った財産は没収され、正秋は宝探しの費用を捻出するのに閉口した。

 真夏とはいえ、傘岩あたりの海水の温度は低い。潜水服を着て酸素ボンベを背負って潜らなければ素潜りでは体が冷えてしまう。一式しかない潜水用具を三人で遣うのである

一人が潜っている間、二人はキャンプの近くで焚火をして暖をとったり、飯盒で飯や汁を炊いて、魚貝類は、焚火で出来た炭の上で焼きあげる。潜っていた一人が上がって来ると、三人で食事の一刻を楽しむのである。

 浦城湾の最北端に砂利地が波打ち際まで十メートルほどある。そこは六畳ほどの広場になっている。背後の岩山は針葉樹に覆われた絶壁だが、海から見て右手に風雨を防ぐことのできる格好の洞窟(ほらあな)がある。その前が、正秋たちのテントを張る場所である。

 洞窟の入り口は子供が背をかがめて通り抜けられる程度で、奥は二股になっており、一方は三メートルほどで行き詰るが、もう一方は二十メートルほど、光が届かない所まで行ける。

 真夏でも冷え冷えする洞窟は「松田水軍の本拠地だったはずである」正秋たちは、その周辺の岩や、そこから潜る傘岩あたりに秘宝が隠されていると信じて探し続けているのだ

「これだけ探しても、その形跡もないところをみると、やはり伝説かのう」

と、時夫と源兵衛はいう。

「そんな事はない。必ず何処かにあるはずじゃが」

 と言ったものの、正秋も「自分たちの力では限界だろうか」と思いはじめていた。

 最後の手段として、全財産を投げ出しサルベージ会社に依頼して、本格的に探すことにした。

 そんな正秋に

「じいさん、これで駄目ならば、もう諦めなのう。時夫さんや源兵衛さんに気の毒じゃがョ。」とサトが珍しく諭した。

 サトに諭された正秋は、時夫と源兵衛に最後の望みとして「サルベージ会社に頼むことにするがょ」と、首を項垂れて話した。

 時夫と源兵衛は、張り詰めていた気持が萎んでいく反面、何処かでホッと胸を撫で下ろしていた。

 だが、いかにも元気のない正秋を見ていると、長年に亘って同じ“夢とロマンを追いかけて来た仲間”として一抹の寂しさを感じるのであった。

 サルベージ会社は、豊後水道や日向灘沖で米空爆機と戦って海底に撃墜された戦闘機とその乗組員の遺体の収容など、軍の仕事で多忙を極めていた。

 正秋は何とか一週間、いや、三日間でも潜って欲しくて、サルベージ会社を何度も訪ね歩いた。だが、どうしても都合がつかぬ、と諦めかけていた時に「手押しの酸素ポンプ一台を舟に積んで、一人で潜る人が奥東海町にいるそうじゃがのぅ。頼んでみたらどうじゃろかいのぅ」と源兵衛が聞き付けてきた。

 正秋は源兵衛と潜水夫を訪ねた。気むずかしそうな男は、言葉を知らないのじゃないかと思えるほど無口だった。

「二人で酸素吸入ポンプを押してくれれば……。潜るですが」

「それじゃ、お願いしよう。いつから来てくれるかいのぅ」

「わしゃ、いつからでも……」

「それじゃ、来週から泊り込みで来てもらうことにしよう。いくら払えばいいかい?」

「いくらでも……。旦那さんに任せやんす」

 正秋は、その潜水夫と五日間の契約を結んだ。三食付きで日当三百円という破格の待遇であった。

 潜水夫は、井上秀夫という日本に帰化した朝鮮人だった。十八歳で日本にきて、鉱山や火薬工場などで働いた。二十六才になった時に職場で知り合った農家の娘と結婚した。

 農業を継ぐ、という条件だった。井上は農業に従事する傍ら、好きな潜りで魚貝類を捕って楽しんだ。そんな時、サルベージ会社が潜水夫を募集していることを知り、専門的に潜水の技術を磨いて、潜水夫の免許を取得することが出来た。

 潜水夫の免許を取った井上だったが、肺を病んでいるという理由でサルベージ会社には採用されなかった。

 井上は、自分で潜水の仕事を請負うことで貧農な生計を助けて来た。そんな生真面目な井上に、正秋は白羽の矢を立てたのだ。

「この男なら、必ず探してくれる。そんな気がする。」と正秋は大きな期待に胸を膨らませた。

 井上が正秋の家に泊り込みでやって来たのは七月上旬の事だった。持ち運び簡単な寝袋一つ、背中にかけて「よろしく、お願いしますです」と頭をさげた。

 正秋は、サトを紹介して「こいつが、食事の世話をしてくれる。喰いたいもんがあったら遠慮せんでいいからの」と、やさしく顔を(ほころ)ばせていった。側にいた時夫と源兵衛も

「俺たちが手押しポンプを押すからょ、よろしゅ、たのんます」

 井上は、いままでに、これほど人に必要とされた事がなかったので「わしは、うれしいです。一生懸命に宝を探しますです」

 と、目頭を熱くしていた。

 井上が寝泊りするのは納屋の二階、天井は低いが、東向きの風通しの良い部屋である。

 稲藁で作った手製のベッドと、真新しい柳行李が一つ。殺風景だが小奇麗な部屋である井上は、ベッドに腰かけた。生まれて初めて見るベッドだ。弾力性があり湿気はなく、夏は涼しく、冬は暖かい。それが稲藁(いなわら)である。

 生まれて初めて見るベッドに腰かけた井上は「富源者は違うわい」と思った。寝転ぶのが勿体無いような気がしながらも、そっと横になり寝心地を試した。深い眠りに誘い込まれる様だった。

 

      (三)

 

 ラジオの天気予報によると、梅雨も明けて本格的な夏日和が続きそうである。台風銀座と言われている東海港に今のところ台風が来る様子はない。正秋たちの本格的な宝探しは天候条件の揃った七月六日から十日までということになった。

 が、日増しに敵機来襲は多くなり、男手の少ない村では、国防婦人会と稱してお母さんが、もんぺに三角頭巾姿でバケツリレーによる防火訓練が行われている。老人と子供と女たち、という弱い者の代名詞のようにいわれる村人達は、兵隊にとられ、軍事工場で働かされている父親や兄など、若い人たちのいない村を守る、という気_に溢れている。それだけに正秋たちに対する風当りは強いのだ。

「こんな非常時に、あん奴等は……」

 と、じいさん、ばあさん、母ちゃんたちの非難の的である。村の集会でも話題になり回覧版にまで書かれる始末だ。

 他の事なら、どなりつける正秋が、今度ばかりは、村人達の非難を黙って受け止めるしかない。

 どんなに言われても「五日間のことじゃ。辛抱せにゃならぬ」と、サトと時夫や源兵衛の女房達に言い聞かせる正秋だった。

 六十歳と言えど、女子供より力はある「今こそ女子供を守る時ぞ」と、正秋たちに当て付けがましく気勢をあげる村人達の声を背にしながら正秋たちは浦城湾に向かった。

源兵衛が、隣村の弟が所有している発動機付の六人乗り伝馬船(てんません)を借りてきた。

 海は凪だ。東海港から出る船のエンジン音も快調である。伝馬船には、正秋をはじめとして時夫、源兵衛、そして潜水夫・井上の四人が乗り込んだ。手押しの酸素ポンプと潜水服(ゴム製)、潜水冠(潜水服の頭部。金属製で、前面左右には厚ガラスの円形窓があり後部は送気管、排気管に接続できるようになっている)通信装置、鉛製の靴など潜水用具一式も準備は万全に整った。

 七月六日、早朝六時。正秋たちは東海港を出た。日向灘は珍しく凪だった。それでも港の出口は海からの潮と川からの水が交わる地点で、高波が起こる。船は波を縦に割って進まなければ、横波を受けたら一度に転覆してしまう。

 船頭は源兵衛が努めた。

「これくらいの波なら大丈夫、沖に出れば凪だし、絶好の船路日和じゃわい」

 と、快調な運航ぶりを見せつけた。

 東海港から浦城湾に向かう日向灘海岸沿いは侵食された山地が、地殻変動や海水面の変化のために、海水の浸食を受けて、複雑な線を画いている典型的なリアス式海岸である。

 海上から眺める岩肌の美しさ、緑が青空とマッチし、碧い海を反射した波打際、その風景は言いようのない素晴らしさである。

 正秋は、ここを通る度に思う「これは自然が(かも)し出した一幅の掛軸であり、芸術そのものである」と。

海岸から二十メートルほど離れた船道(ふねみち)は、何の障害物もない。エンジン好調な伝馬船は、波しぶきを立てて、安井港、須美江港など、小さな漁港を通りすぎて行く。須美江港の沖にはオオスリバチ珊瑚礁群があり、魚貝類を育てる環境づくりに役立っている。

この珊瑚礁は県の天然記念物に指定されており、傷つけたり取ったりすると罰せられる

県水産課の管理が行き届いているせいか予想以上に繁殖している。

須美江は、水のきれいな海水浴場百選のベスト(てん)に入った所で、家族村や水族館などがあり、延岡が売り出している観光地の一つである。戦時下では『観光どころではない』とあって海水浴客もまばらなのが現状である。

須美江を過ぎると浦城湾に着く。大きく山裾野まで食い込んで海水を満たしている。

自然の要塞と言われるとおり、山陰、岩陰に入りこんだ船着場は、外海から発見され(にく)い。まさに、海賊の根城に恰好の場所であったであろう、ことが容易に想像できる。

 浦城湾で有名なのが傘岩だ。松田水軍の秘宝が隠されている、という伝説もさる事ながら岩全体が漁礁になっており、魚貝類の宝庫になっているからだ。

 正秋たちは、所定の場所に船を繋ぎ、所定の場所にキャンプ用品を陸上げした。

 はじめて来た潜水夫・井上は、手馴れた正秋たちのてきぱきした所作に、眼を白黒させている。

まるで、申し合せたように、作業の手順と役割がスムーズなのだ。

「あのー、わしは何をすればいいのですか」

「なん言うとな、あんたは海の中や岩の壁や底が仕事場じゃが。一服しよんないよ」

 正秋がいたわるように言うと

「そうじゃ。井上さんにゃ、俺たちの出来ん事をしてもらわにゃならんきのぅ」

 と、源兵衛は機嫌取りの口調である。しかし、時夫は「そう腫物(はれもん)にさわるような扱いせんでいいがの」と、正秋と源兵衛に言った。

そんな、やりとりを聞いて、潜水夫・井上は申し訳なさそうに「そうです……。僕は潜るのが好きですから潜るのです。お金じゃないですが」と肩を(すぼ)めた。

「わかったョ。井上さんの出番が来るまで潜水用具の手入れでもしてたらいいが」

 と言う正秋の言葉に、井上は安堵したらしく、潜水服などの手入れをはじめた。

 まだ昼前。太陽は東の方から真上に向う角度にある。潮は引いている。干潮は午後二時である。傘岩の周辺と、その下は、引潮の時には、流れが変則で図り知れない。時には激しく渦巻き、人間を巻き込んでしまうこともあり非常に危険である。

 潜りが専門といえども、引潮に潜らせる事は出来ぬ。潮が満ちて来るまで井上を待機させることにした。これは、今度の“宝探し”の原則五ヵ条の第二条である。因みに、正秋たちの決めた五ヵ条は次のとおりである。

 1条=何物にも変えられぬ人間の命が一番秘宝は二番とする。

 2条=干潮前一時間は、たとえ凪であっても絶対に潜らない。

 3条=海上で異変が起きたら、潜水夫からの合図がなくても引き上げる。

 4条=一回の潜水時間は一時間。これを超える時は強制的に引き上げる。

 5条=秘宝を探し出したら平等に分配する

 午後二時近くの干潮になると、傘岩の頂上が海面に姿を見せはじめた。ほんの十分ほどの潮止まりの間だけの事である。

「きょうは、傘岩の地理的条件を頭に入れてもらうでよ井上さん。潜らんでいいがょ。岩の形、潮の流れ、そんなことを覚えてもらいたいがょ」

 井上は納得した。はじめての場所、しかも川ではなく海であることなど条件が厳しいだけに慎重である。

 正秋たち素潜りでは、せいぜい水深十メートルが関の山だ。潜り着いた地点で、何する余裕もなく岩を蹴って海面に上がってくる。

 宝探しというより、魚貝類を捕る潜り漁である。しかし、ただ一度だけ、三畳敷ほどの平な岩の奥の方で、射し込んで来た陽の光に反射して『琥珀色の輝きをみた』ことが忘れられない正秋は、その地点を、地形から判断して、何回か潜るのだが、二度と、その三畳敷の岩を見つけられずにいる。

 正秋は、その三畳敷の岩こそ、松田水軍が金銀財宝を隠した場所だと信じ込んでいる。

 それは自分の眼で見た『琥珀色の輝き』が何よりの証拠という訳だ。

 松田家系図にも=天神様の金の御幣に刻み込まれている“朝日輝く、夕日輝く所”に隠した=と記されている。その場所が三畳敷岩だと思い込み、現在まで財産を投げ出して年月(としつき)をかさねてきたのである。

「井上さんょ、よく見ておいてや。此の場所から見て遠くに大岩小岩があるじゃろ。あの間に西陽が落ちる時、大岩の方から傘岩の頂上の左端を射す。そこから潜ると三畳敷岩があるとじゃが」

 潜水用具を手入れしている井上は、その手を休めて正秋が指差す方を見た。まだ陽は高くて、大岩小岩の間に太陽は沈んでいない。

「まあ、六時三十分頃じゃろと思うがょ。満潮が八時頃じゃから、その前に、注意しといて。それで目印をつけとけばいいが」

 正秋の注文は、井上にとっては、簡単な事ではなさそうだった。

「わしは、わかりませんがのぅ」

 と、不安そうに言う。

 時夫と源兵衛が助け舟を出して

「大丈夫じゃ、俺たちが、ちゃんと頭ん中に叩き込んじょるがょ」

「よろしゅ、お願いしますです」

 井上は安心した様子である。

洞窟(ほらあな)の前に、少々の風雨には耐えられる丈夫なテントが張られた。洞窟を(ふさ)ぐように張られたテントは、横並びに三張りである。海岸側に張られたテントは井上が使う。繋いである船に一番近い所にあり、船が岩に打ち上げられないよう監視するのだ。干潮の時に砂利地に引き上げて繋いである船は、潮が満ちてくると、海水が船底を“ぴちゃ、ぴちゃ”と叩きはじめ、やがて海水に浮く。

 (さざなみ)で船が揺れはじめると、岩に打ちつけられることになる。そうならないように、井上は見張り役なのだ。

 潮時表によって干潮の時間が解る。約六時間ごとに満ち引きするので、船を繋いだ所の海面の高低は簡単に目測できるのである。

 やがて西陽が大岩小岩の間に落ちて、すっかり海中に沈んだ傘岩の頂上あたりに、にぶい陽差しがあたる。

井上は、その様子を眼を凝らして見据えている、陽が差している場所の岩の形などを覚えるのだ。

「陽が沈むのは七時前じゃ。満潮は八時じゃからの。一度、船を出して現場まで行ってみようかのう」

「そうじゃ、船の錨を下ろす場所と、岸のテントからの“手信号”で決めよう」

「うん。誰かがひとり、岸に居なければならんのう。当番ということじゃ」

「きょうは、手順を決めることにして、潜るのは明日からにするがよ」

 正秋たちは、ほとんどの場合、考えが同じである。それは長年、海の男として生きて来た生活に根づいた工夫であり、体験から覚えたことでもある。

 初日の当番は時夫になった。正秋と源兵衛は、潜水夫・井上と三人で、傘岩へと船を出した。

 岸にいる時夫は船上の三人に“手信号”を送ることによって、船の錨を下ろし、潜る場所を決めるのだ。

「うまくいけばいいがのう」

「きょうは、何度も練習しような」

 船先と船尾に錨を下ろして海上に舟を停泊させる。その場所が違うと、潜水夫が海底で必要以上に歩き回らねばならぬのだ。

 岸から時夫の手信号がみえる。右の方へ大きく振っている。

「もっと右の方じゃわい。じゃが、時夫は手をかざしちょるがよ。あれは信号じゃないとじゃわい。逆光で眩いのじゃ」

 と正秋が言った。

「そうじゃ。でも、信号は大きく振るからわかるがょ」

 源兵衛が言う通り、時夫は大きく右の方へ

手を振っている。船を右に寄せると、時夫は両手を頭の上にあげ輪を画いた。

「これでいいんじゃ」

 正秋も時夫の信号に応えた。太陽は、すでに地平線の彼方に沈み、海面の四方を茜色に染め、日没を知らせていた。正秋たちが岸に帰り着いたのは午後七時三十分だった。

 初日は、明日からの潜水作業が上手(うま)く行くように準備して終わった。

 波の音を枕に、四人が夢路を辿ったのは午後九時を過ぎていた。

 磯場の朝は早い、キャンプを張っている左後方から、潮の香のする朝日が射し込んでくる。ひんやりとした空気、朝露でテントがしっとりと濡れている。

 午前五時半、日の出と同時に源兵衛が起きて、朝食の支度にかかる。

 近くから流木(ばいら)枯木葉(かれこつぱ)を集めてきて、岩石を積み上げて造ったかまど

に、飯盒と汁鍋をかけて火を焚く。

 正秋、時夫、井上の順に起きてくる。井上は猿股(さるまた)一つで浅瀬に体を沈めて「朝の水風呂です」と笑う。

「気持ちがいいからのう」

 時夫も正秋もそして、炊事当番の源兵衛まで、朝の水浴びをして気持ちを引き締めた。

「きよう一日、無事でありますように」

 四人は太陽に向って手を合わせて祈った。

「ちょっと時間が遅くなったが、午前の満潮が九時じゃから、七時に現場に着くようにすればいいが、そう思うたんじゃ」

 源兵衛は、言い訳するように、遅くなった事をみんなに詫びた。

「いいが、いいが、()よう飯食おうや」

 四人は、それぞれの居場所で、お互いが向き合うように座った。

 朝飯は、麦ごはんと()()みそ汁と沢庵漬(たくわんづけ)である。毒消しに梅干も用意してある。

 四人が岸を離れ、傘岩の近くに伝馬船の錨を下ろしたのは七時過ぎだった。

 岸から五分ほどで着く。干潮時には、泳いで来て傘岩の頂上で横になり休息をとることも出来る。周囲が一キロもある巨大な傘岩だが、狙った場所は昨日(きのう)確かめてある。

 錨を下ろして、井上が潜水服に手を通し、鉛靴を履き、潜水冠を着けて、正秋と時夫が酸素ポンプを押しはじめた。

 水深は十五メートルから二十メートルある。送気・排気管、命綱(ロープ)などの点検を済ませ、井上は、船縁に取り付けてある梯子(はしご)を一歩二歩とロープを手繰(たぐ)りながら静かに海の中へと沈んで行った。

 海面には、排気管から出される空気が、泡となって『ぶくぶく』と音をたてて上がってくる。泡の量が一定で、順調にあがってくる時は、潜水夫・井上の呼吸状態が良好で、何の支障もなく作業を続けているのだ。

「井上さんが動かない。たぶん一ヵ所で作業しているんじゃろうょ」

 正秋と時夫は酸素ポンプを押しながら、海底での井上の様子を連想していた。

海底では、井上が、見た事もない大きな栄螺(さざえ)床伏(とこぶし)が、手を伸ばせば届くところに何個もある、その光景に眼を見張っているのだ。

井上は、持って来た岩鏝(いわこて)で床伏を岩から剥取(はぎと)り腰に巻きつけた魚網に一つ一つ入れて磯漁を楽しんでいた。

漁ばかりしていると「何の為に潜っているんだ。と正秋さんたちに叱られる……」と一人で呟きながら小一時間ほど、岩の周辺を歩いて『三畳敷』を探して見た。それらしき場所は発見されなかった。それより貝類が沢山捕れた事が嬉しい井上だった。

船上では、正秋と時夫が、腕時計に眼をやり、顔を見合わせて

「そろそろ、上げようかのぅ」

 と同時に、海底の井上から『引き上げろ』の合図が来た。

 船上と潜水夫との連絡方法として、通信装置がある。が、今回は、その装置を付けていない。通信装置の管の中を通る声が、岩を砕く波の音に(はば)まれ、聞き(にく)いからである。

 非常の場合に、聞き違いにより意志の疎通を欠いては大事に至る恐れがあるからだ。

 潜水夫・井上の提案で、命綱(ロープ)による交信をすることになった。

 命綱を一度引いた場合は『どうですか。異常ありませんか』である。その(こた)えも一度引くだけ。二度ひいた場合は『上げて下さい。上げましょうか』である。

『いや、上げないでくれ』という返事は三度引く。三度以上何度も引いた場合は『緊急事態発生、大至急引き上げろ』である。

 船上と潜水夫は、これだけの信号で、お互いの安全を確認し無事に作業を続けて行けるように信頼し合っているのである。

 井上から、最初の合図は『引き上げて』の二度引きだった。正秋と時夫は、井上からの合図に応えて、二度ひいた。 

 井上は『浮上して良し』の船上からの合図で、潜水服に浮力をつける空気を、入れながら命綱をたぐり、上がってくる。

 ゆっくりした動作で船にあがってきた井上は、正秋と時夫に、潜水冠を(はず)してもらう。

「この海は美しいです。魚も沢山いる。貝もいっぱい捕りました」

 と、本来の目的である宝探しの事には触れずに、潜り漁のことを楽しそうに話した。

 そんな、嬉しそうな井上を見て、正秋は微笑(ほほえ)ましく思った。

 この純粋な心が、兎角差別されがちな朝鮮人でありながら、日本女性に気に入られ、人生の伴侶に選ばれたのであろう。

 人を疑う事を知らず、物事を才覚せず、正面から受け止める井上を見て「いい男に出逢えたもんじゃ」と、海の神様に手を合わせずにはおれなかった。

「井上さん、貝がいっぱい捕れたんはいいんじゃけんどょ。その、ね。どうじゃったかいのう。感想を聞かせてくれんかい」

 正秋が気忙(きぜわ)しく聞いた。

 井上は、罰悪そうに、頭を掻きながら

今日(きょう)は見つからんがです。時間も少なかったですもんで」

「そうじゃ。明日から頑張らにゃ」

「はい、すまんこつです」

「いやいや、謝る事じゃないがのぅ」

 二日目は、こうして終った。夕食は栄螺の壺焼(つぼやき)(さかな)疲労止(だれやみ)の焼酎で気分が(ほぐ)れてくる四人だった。

 翌日、また同じ場所を午前、午後五回に亘って潜ったが成果はなかった。

 四日目。七月九日、鈍よりした朝であった

「満ち潮の時だけでなくて、引き潮の時も潜りたいですが」と井上が言い出した。

 しかし「せっかく決めた五ヵ条を破ることは出来ぬ」と、正秋は反対した

干潮時じゃないです。引き潮の時ですがのういままで満ち潮ばかりじゃったもん」

井上が執拗(しつよう)に喰い下がる。正秋は『満ち潮引潮の条件がどう違うのか』解らなかった。

 と井上が

「引き潮の時は、海の底の流れが()ようてのう。それで(こぶし)ぐらい石ころが、ゴロンゴロン転げよっとです。宝石があれば見つけ易いと思うがです」と言った。

正秋は腕組みをした手を(ほど)き、(うなず)きながら潮時表をめくりながら

「うん。今日(きょう)は干潮が午前三時三十分と午後三時三十分じゃ。潜るとすれば、逆算してみると、午前九時四十分が満潮じゃから、潮止まりを計算して午前十時三十分から、干潮の一時間前までじゃ。うん、ぎりぎり午後二時半までじゃのぅ」といった。

 井上は

「それがいいですが。少々の事で潜水事故は起こらんです。心配せんでいいがです」

 と、片頬を(ほころ)ばせた。

「当番は時やんじゃ」

「そんなら、午前十時出発ということにしょうかいのぅ」

と正秋が言った。

真夏とは思えぬ、弱い陽射しが砂利浜を照らしている。昨日までの(まぶ)しさがない。

夕方には、俄雨(にわかあめ)でも来るのではないか、と思わせる日和(ひより)だった。

その日、予定どおりの時間に潜りが始まった。一回目は四十分、二回目は五十分、何の手掛かりもなく昼が過ぎた。

「少し北寄りに移動してみろかい」

源兵衛が言った。正秋も頷いた。

井上は、潜水服と鉛靴は着用しているけど潜水冠は外して、一服している。

正秋が舳先(へさき)の錨を、源兵衛が(とも)の錨を、それぞれ、エッサ、エッサ、と調子を取りながら上げていった。

源兵衛は、錨を海中にぶら下げた状態で、操縦室へ行きエンジンをかけ舵を握った。

北の方へ五十_ほど移動し

「秋やん、錨を下ろしていいがよ」

 と、声をかけた。舳先の錨が海底に着くと錨綱をピーンと張り、艫錨を下ろす。呼吸の合った伝馬船扱いである。

 船の移動を済ませて,三回目の潜水は午後一時に始めた。

「貝類には眼もくれず、宝を探しますです」

井上は、場所が変った事もあって、ちょっとした期待をしていた。

潜水が始まって三十分が経過した頃、命綱が、残り少なくなった。

「秋やん。井上さん、かなり遠くまで行っちょるがのう」

「そうじゃ。綱の残りが()えもんの」

 正秋と源兵衛は、井上にロープ信号を送ることにした。

 一度、強く引いた。異常はないか、という信号だ。何の応えもない。

「おかしいがのう」

 正秋は首をひねり、もう一度、合図を送ったが、井上からの応えはない。

 源兵衛が言った。

「引き上げの合図をしたほうがいいょ」

 正秋もそう思った。

 二人はロープを二度引いた。が、井上からの合図はない。

 正秋と源兵衛は、心配そうな顔を、お互い見合わせ、同時にロープを手繰(たぐ)りはじめた。

 と、途中で、ガツンという手応え。

 二人は直感した。ロープが岩にかかってしまったことを。これでは井上からの合図も船上には届かぬはずだ。

 こんな時、冷静に対処できるのは源兵衛である。

「秋やん、心配いらんが。まだ時間は残っちょるし、酸素送りは大丈夫じゃからの」

 二人は片手で手押しポンプを押し、片手でロープを手繰(たぐ)る作業を続けた。

「これ以上にロープを引っ張ると岩で(こす)れて切れたら、いかんがょ」

「源兵衛さん。錨を上げてょ。船を波に任せれば、ロープが岩から外れるじゃろ」

「そじゃの」

 一人がポンプを押し、一人が錨を上げる、という作業を船首と船尾で交代にやってのけると、体中に銀鱗を流した様な汗が吹き出た。

 空にはどす黒い雨雲が垂れ込み、一雨(ひとあめ)くるようだ。

 船を流れに任せること十分。船首から五メートルほど先に気泡が立っている。

「源兵衛さんよ、井上さんを見つけたが」

「うん、よかったのう」

そのとき、ロープが張った。正秋が手に取ると、三度も四度も合図が来た。

「よーし、上げるがよ」

 二人はロープを手繰りながら思った。井上さんがどんな顔で上がって来るかと。

「卵ぐらいの光るもんを見つけたがや。それを拾うつもりで、どんどん追いかけたがょ。岩陰に転がりこんでしもうたでょ」

「それは宝石かいのう」

「わからん。ロープが岩にからまっての。宝石どころじゃなかったとですょ」

「まあ、無事でいいがったがよ」

 三人は肩を抱き合って、無事であったことに感謝した。

 当番の時夫は、そんな事も知らず、三人が帰って来るのを待っていた。

 夕飯のおかずに、釣ったばかりの磯鯔(いそぼら)の味噌煮をつくっていた。

四人の中で一番、料理に自信を持っている時夫である。

 正秋たちは『きょうの出来事』は時夫には話さないことにした。

 まかり間違えば、命をなくす所だった井上が、何事もなかったように、美味(おい)しそうに夕食の膳に箸を付けているのを見て、正秋は思った『明日(あす)は潜ってもらうのは止めよう』と

 最終日、七月十日の朝は快晴だった。気合よく目覚めた四人は、決った事のように海水で朝風呂がわり。すっきりした褌姿で、朝日に向って一礼、一日の無事を祈った。

今日(きょう)は、源兵衛さんじゃの。当番が」

 時夫が言った。

「そうじゃの。その積りで、朝飯も用意してあるがの」

 源兵衛は鼻高々といった。

 と、正秋が顔を曇らせて

「みんな、聞いてくれんかいの」

 と、口火を切った。

今日(きょう)の潜水は取り止めにするがょ、じゃから、釣りと潜り漁を楽しんで、夕方の五時頃には東海に帰ろうや」

 源兵衛と井上は、正秋の中止の理由を理解出来たが、何も知らぬ時夫は、あ然として

「何故じゃ?約束は今日までじゃろが」

 と言った。

「そうじゃが、秘宝は、やっぱ、伝説じゃったがよ。諦めたとじゃ」

 心無しか、時夫には、正秋が目頭を熱くしているように思えた。

源兵衛が

「それがいいが、ここは栄螺や床伏の宝庫じゃし、捕れるだけ捕って、市場に出せば小遣いがでるがよ」

 と、無理な笑顔っを作った。

 井上が、口を開こうとしたのを見た正秋が(さえぎ)るように

「じゃ。そういうことじゃ」

 井上は

「……………」

「井上さん有り難うな。おかげで楽しい夢見たがよ。今後も、いろいろ仲良(なかよ)うやっていこうや。俺たちは“夢とロマンのじっちゃん四人組”じゃわい、のう」

 宝探しを諦めた四人の顔は爽やかだった。

 潜水夫を雇って、本格的に宝探しを実行した四人の男たちが、夢破れ、ロマンが(はじ)けて東海港に帰ってきたのは、夕方の五時を過ぎていた。

 まだ西陽は高く、陽射しが強かった。

 それぞれが、家路に向う足取りは重く、村人達の嘲笑(あざわら)う声が背中に突き刺さるようであった。そんな中で、正秋の女房・サトだけ明るい笑顔で迎えた。

 これで、正秋の宝探しは終った。サトは長年の暗雲が晴れた思いだった。

 

      (四)

 

 正秋は、海図を広げて、一点を見据えている。諦めたはずの傘岩の周辺である。赤鉛筆を持って

「ここは潜った、ここも潜った」

と、呟きながら印を付けている。

 (そば)で正義が眼を輝かせている。

「じいちゃん、宝探しは諦めたんじゃろ?」

 正秋は返事をしない。そんな正秋に

「ねー。じいちゃん」

 正義は正秋の背中を()するように返事をせがむと、正秋は不気味に笑って

「そうじゃ、夏休みも近い。海洋少年団の冒険ということで、キャンプをしたらいい」

 正義は胸がドキンとした。

 専門の潜水夫を入れて、大人四人で四日間も潜り続けて探しても、宝石の欠片(かけら)も見つけられなかったものを「まさか?俺たちに、じっちゃんは…。宝探しを(すす)めているんじゃ」と思った。

 正義の勧は当った。正秋が言うには、海洋少年団の活躍を監視し、援助しなければならない後見人(松田正秋と川島源兵衛)としては、夏休みを利用して、海洋少年団を浦城湾に連れて行き『海洋訓練を実施する』というものである。

 名目は『危険の伴う海洋少年団の行動に対しては父兄(後見人)の監視の下でなければならない』という監視役である。

「じいちゃん、知恵がいいの。まだ諦めちょらんとじゃ。宝探し……」

正秋は、孫に指摘され、少し狼狽(ろうばい)しながらも、含み笑いで

「源兵衛さんにも頼まんとのう。無理は言えんけどが」

「勝市が行けば放っとかんじゃろ。勝市も俺と同じに祖父(じいちゃん)ッ子じゃからょ」

「それじゃ、参加者と、いつ行くか、日を決めにゃならんぞ」

「うん、わかった。すぐにも仲間と相談してみるがよ」

 正秋と正義の夏休み探検キャンプは、すんなりと決った。

 日射しの強い放課後、いつものように東海港の船泊まり岸壁で、七人の少年と二人の少女が円陣を組んでいる。彼等は円陣を組む事が外敵を素早く察知し、何処から攻められても防げるし、(たたか)える。一致団結できる攻防体制であることを知っている。

 戦時下に於ける少年達は、戦闘訓練の一端を実生活で身に付けているのだ。

 が、話の内容は『戦争中というのに、馬鹿な遊び』と叱られそうなことだ。しかも提案者が正義の祖父・正秋であるということだから、計画が漏れたら、父兄会や国防婦人会などから「やめなさい!」という声が出ることも予想される。

 正義たちは『宝探しではなく、戦闘訓練である』という名目を前面に打ち出して相談している。誰も、自分たちの行動を口外する者はいない。

 だが、みんな「(うち)(もん)に黙っちょることは出来んがょ」と考えており、秘密な行動は無理である、ことは承知している。

「母ちゃん達は、竹槍(たけやり)で敵と闘う、と毎日のように訓練しようがょ。俺たちも銃剣術を学校でやりよる。夏休みに、浦城湾でキャンプして訓練するのは悪いことじゃねぇ」

 正義は、集まった仲間に同意を求めた。

「少年団は、同じ夢とロマンを追いかけ、友情を強くすることが、目的じゃがょ。じゃから、正義、いや団長の言うことに賛成する方がいいがょ」

 勝市が一番に賛成の声を上げた。啓介も悟も手を上げた。

 英文は肇の顔色を(うかが)っている。夏休みは大切な受験勉強がある。中学校に進学しようと思っている肇も同じ思いであるはず、と言う訳だ。そんな予想を裏切るように、坂口が大きな声で、

「賛成!賛成だよ僕は、僕は行く。キャンプなんて初めてだから…」と言った。

 英文が続いて

「俺も行く。母ちゃんが反対するが……、でも行くがょ」

「よーし。これで浦城探検隊の参加者が決ったがょ」

 正義たちは円陣を作り、肩を組んで掛け声を上げた。

 出発は八月十日。三泊四日の日程で、監督は正秋と源兵衛の二人。浦城探検少年隊七人編成である。

 こうして、正義を団長とする海洋少年団が立てた夏休みの計画は、浦城湾探検ということになった。

 この『浦城探検隊』について、父兄会が騒ぎ出した。学校でも職員会議の議題になった。

『東海ッ子は海の子だ。海洋訓練は大いに結構である』という賛成論もあれば『とんでもない。事故でもおきたら…』という反対論もあった。

 職員会議は紛糾したが、甲斐校長の提案である『監督者二人が必ず同行する事』と『保護者の同意を得る事』という条件で、学校側は許可を(くだ)した。

 甲斐校長は、監督として参加する正秋と源兵衛について『全幅(ぜんぷく)の信頼』を寄せているのである。それに『東海ッ子は海の子、キャンプするくらい元気なのは結構な事だ』と、内心は大賛成なのである。

 海洋少年団の計画は、以外なところから崩れはじめた。

 英文が参加を辞退した。母・志津子の強行な反対にあったのである。志津子の反対の理由は『非常に危険なことである』という事と『英文は泳ぎが苦手(にがて)であり、潜りも出来ないので楽しいはずがない』おいう事であった。

 英文は

「ほんと、すまんがょ」

 と、消え入るような声で謝った。

 英文が参加しないとなれば『悟も肇も駄目かも…』と正義は思った。

 ところが、悟も肇も親の許可をもらったというのだ。正義は飛び上がって喜んだ。

 浦城探検隊の最後の打ち合わせは夏休みに入り、夏も真っ盛りの八月二日の朝早くに行なわれた。

 監督役の正秋と源兵衛が少年たち六人を招集して、探検の注意事項を説明した。特に現地では『一人で行動しないこと』を厳重に申し渡した。

 正義たちは固く誓い合った。何事も最低二人以上で行動することも申し合わせ、浦城少年探検隊が発足した。出発は八月十日とし、三泊四日の日程と決めた。

 海洋少年団員で結成した浦城少年探検隊の目的は、海洋訓練であるが、それは口実であって『宝探し』は暗黙の了解事項である。

 正秋も源兵衛も、孫たちの探検隊に便乗して、まだ潜ってない傘岩の一角を捜して見よう、と(ねら)っているのだ。

 探検隊が出発する八月十日の朝。東海港の堤防に、英文が見送りに立っていた。

 正義は「英文は、本当は参加したかったがょ……」とポツンと呟いて、英文の分まで楽しもう、とみんなに言った。

 探検隊のキャンプ地は、正秋たちが張ったと同じ場所にした。

 正秋は、今まで一度も潜った事のない一角(いっかく)に狙いを付けていた。それは、岸辺に面している傘岩の、幾つもの岩穴があり、複雑な形状になって、百メートルほど伸びている箇所(かしょ)なのである。

 傘岩が岸辺に面している箇所から、波打際までの距離は広い所で十メートル、狭い所は二メートルから三メートルしかない。それも干潮時には岩と岩を跳び渡れるほどである。

 沖からの強い波は来ない。岩の両脇から、やかに流れ込む波は小さい。

 潜るのは全く危険のない岩場だ。

 今まで、沖の方ばかりを探した。

 それは資料に『朝日輝く処』とあることのこだわり過ぎて、岩の東西を集中的に潜っていたのだ。

 正秋は、一度だけ見た『三畳敷』は幻想だったのかも知れない、と思うようになっていたのだ。今回、孫たちを監督する役目を、積極的に買って出たのにも『岸辺の方』を潜ってみようという魂胆(こんたん)があったのだ。

 探検隊は、二日目から本格的な活動を始めた。

 正義、勝市、啓介の三人のうち二人が正秋と源兵衛が潜るときに一緒に潜る。残った一人は、見通しの良い場所を選んで、潜った者や漁をしている者を監視する役割である。

 剛志と肇、悟の三人は、魚突き、貝捕りなど漁をしたり、山に行って、野兎や野鳥を獲る罠を仕掛けたり、もっぱら狩猟と漁に専念することにした。

 午前三時頃、干潮前だった。正秋の後ろを正義と勝市が潜っていた。水深は五メートルほどである。正義が、ふと振り向くと、勝市がいない。正義は来た方向へ引き返して勝市を捜したが見つからない。

 正秋に報告するには離れすぎてしまった。

 と、勝市が右手の曲がり角から急に飛び出して来た。手を上向けて、合図してる。

二人は、ほとんど同時に海面に顔を出した

「どんげしたんじゃ」

 正義が心配そうに、しかも激しい口調で言った。勝市は

「小さな洞窟があったがょ。でも、そんげ深くはないがょ」と返事した。

「宝石は?」

 正義が訪ねた。

「何もなかったがょ」

 二人の会話はそこで終った。

 が、あまり離れて泳がんよう、さめて三メートル以内にいるように、お互い気をつけようと申しあわせた。

 その日の夕食は、剛志が突き上げた一キロほどの伊勢海老のみそ汁というご馳走に舌鼓(したづつみ)を打った。

 磯場の夜は、真夏でも冷え込む。風邪を引かぬ様、毛布に(くるま)って安らかな夢路に着いた。

 正義が、いつも自慢する水中時計は十時を指していた。満潮が近かった。

 三日目の朝、キャンプ場の後方の岸から、小石がバラバラと降って来た。そこら一面に落ちて来る小石は、大きいので握り拳ほどある。雨霰(あめあられ)である。

「じいちゃん、(あぶ)ねーばいのう」

「うん。こりゃいかん。猿の仕業(しわざ)じゃ」

「正義、みんな、波打際の方へ逃げるように言ってくれんかい」

 浪打際に非難した少年たちは、樹木を揺するザー、ザー、という音と、ギャー、ギャーという異様な泣き声とも怒り声ともつかぬ猿の大群が居ることに愕然(がくぜん)とした。

 その数は百や二百ではない。猿の大群の重さで樹木の枝が折れて、岩壁から小石と一緒に落ちてくる。

「こりゃ、大変じゃわい。猿軍団が襲って来るがょ」

 と源兵衛が言った。

「そうじゃの、念の為に焚火をしよう……」

 と、正秋が言うのと同時に、正義が

「肇くんがおらんがょ。剛志は知らん?」

「いや、知らん」 「まだ寝ちょるとじゃろか?」

「そうかも知れんがょ。昨夜(ゆうべ)、遅くまで東京の話を聞かせてもろたがょ」

 啓介がのんきな顔で言った

「馬ッ鹿が、猿に襲われたら大変(でじ)じゃ…」

 正義は気が気ではない。

「俺、テントまで行って見るがょ」

 と、正秋が

「子供は猿に舐められるかい、俺が行ってみるが、心配せんでいい」

「一人より二人の方がいいが」

 と源兵衛も立ち上がった。

 波打際で輪になって外敵を防ぐ体制になっていた五人の少年たちは『いまこそ海洋少年団の心意気を示す時ぞ』と、阿吽(あうん)呼吸(こきゅう)で一斉に駆け出した。肇が猿に襲われていたら、一丸となって猿軍団と闘う積りである。

 とその時、テントの背後から数匹の猿に襲われている肇を見つけた。

「じいちゃん!肇を助けて!」

 正義たちは、先に駆け出している正秋と源兵衛に向って叫んだ。

 正秋は、潜水夫のゴム銃を振り回し、猿を追い(はら)う仕草をしている。源兵衛は、飛礫打(つぶてう)ちである。

 正義たちがテントに駆け着いた時は、猿軍団は逃げ去り、肇がぐったりとなって倒れていた。無惨(むざん)に肇は肩から首筋にかけて何ヵ所も引っ掻き傷があり、血が滲んでいた。

「大丈夫か?」

 正義は、毛布を被って、震えている肇に、声をかけた。

「恐かった。僕、殺されると思ったよ」

 恐怖に(おのの)いている肇を見て、『しばらく、そっとしておこう』と思った。

 啓介が、救急箱から赤チンキを取り出し傷口に塗った。

「しみるじゃろ、我慢せいや、猿のばい菌は頭が狂うそうじゃ。だから、薬をつけないかんがょ」

「肇は頭がいいから、狂った方が普通になるじゃろょ」

 剛志が悪戯(いたずら)っぽく言った。肇と正義は、顔を見合わせて笑った。

「肇が笑いよった。もう心配いらん」

正義は安心した。しかし、正秋は、大切な他人様の子供を預かって怪我させてしまったことを申し訳なく思っている。

 しかも、正(正義の父親)が勤めている火薬工場の工場長の息子だ。お詫びの仕様もない。その事ばかりが頭を駆け巡っていた。

「猿の大群が現れた時は、天変地異が起こると言われちょるが、じゃから災害に遭わんように、夕方には帰ろうか。一日繰り上げることになるがょ」

 剛志は祖父(うらなり先生)が松山から赴任して来る時『延岡は猿と人間が半々に住んでいる』と言われた、と聞かされた事を思い出していた。そして

「正義のじいちゃんが言うように、帰ったほうがいいがょ」と、帰ることに賛成した。

 また猿の大群に襲われるかも知れない恐怖に(おのの)いているのだ。

「そうじゃの。これだけの猿の大群と闘ったのは、日本ではじめての勇敢な少年団ということじゃ」

 正義は誇らしげに言った。剛志も啓介も、そして潜っている時に、洞窟に吸い込まれそうになった勝市もみんな同じ思いだった。

 正秋は、逞しい孫たちの顔を一人一人みて、頭をなでながら『この少年達がいる限り日本国は滅びない』と信じた。

 松田水軍の隠した財宝は見つからなかったが、少年達の友情という宝物を見つけた様な気がした。

正義をはじめ、六人の少年達も「浦城少年探検隊」は『日本の宝だ』という大袈裟な思いが全身を包んだ。

少年探検隊は、一日繰り上げて東海港に帰って来た。日焼けした逞しい少年達は生き生きと(たの)もしく見えた。日本が歴史上初めて味あう“敗戦”の二日前、昭和二十年八月十三日の事であった。

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/30

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松田 東

マツダ アヅマ
まつだ あづま ノンフィクション作家 1932年 宮崎県延岡市に生まれる。代表作に伝記「果敢なる生涯」など。

掲載作は「電子文藝館」書下ろし、2002(平成14)年1月初出。

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