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凍つた唇

 晴れきつた六月の午後。

 もう二十日余りも雨を見ない地べたは、歩く度にきしきしと下駄の歯がくひこんで、風はちつともないのにもうもうと砂烟りが立つた。鬼子母神の境内に立並んだ老木も、ぐつたりと疲れ果てた枝を垂れて、白つ茶けて埃にまみれた葉と葉の間からさしこむ陽は、ともすると軽いめまひを誘ふほどに烈しかつた。じつくりと粘つた汗が、指先きにつけて見たら、ぎらぎらと脂のやうに光るだらうと思はれる汗が、帯上げをきつく締めた乳房のまわりを気味わるく濡らしてゐた。鈴江は引摺るやうに運んで来た足をふと止めて、だるい眼を上げて四辺を眺めた。そこは先刻訪れた赤い門のあるお寺の前であつた。

『もう一度きいて見ようかしら──』

 奥の方に坊さんらしい人影のちらちらするのを覗きながら、彼女は幾度かためらつたけれど、又先刻の寺男のやうに、『──へーえ、小しんといふはなしかの墓ですかい?』と、明らかに冷笑を含んだ声で聞返しながら、じろじろと何時(いつ)までも好奇心に満ちた眼つきで眺められるのはたまらないと思つたので、たうとう思ひ切つて再度ぐづぐづと歩き出した。こんな暑い日に、こんな遠いところまで、いつたい何のために出て来たのだ──わがままな彼女の心はやりばのない不満にひどくいらいらして来た。

『なんだい、あの生意気な寺男は──』

 まるで根附けのやうにこちこちに乾干(ひか)らびてしまつた、意地くねの悪るい爺さんの顔を眼の前に浮かべて、彼女はペツと唾を吐きかけた。赤い門がちかちかと陽を照りかへして一層暑さを撒き散らすのも、たまらないほど癪に障つた。彼女はむつゝりと歩いて行つた。

 

 細い小径の(かたは)らを水が流れた。浅い汚ない流水で、底にいつぱい蚯蚓(みみず)を束ねたやうな藻が薄赤くうごめいてゐて、いろんなごみ屑もあちこちにへばりついてゐた。その流れの上へのしかゝるやうに、無花果(いちじゅく)の樹が幾本も並んで茂つてゐた。ばさばさした葉の蔭に、青く固い()がこちこちになつてゐた。そこの低い腐れた軒下には、おしめがいつぱい干してあつた。彼女はも一度唾を吐いた。

 

 しかし。

 陽が少しづゝかげつて来た。それと一緒に彼女の心も少しづゝほぐれて来た。ほつと吐息をして立止つて、ハンケチできゆつと顔を拭くと、べつとり黒いものがついた。どこもかもすつかり汚れてしまつたと思ふと、急に足袋の中の砂が気になり出したので、片足づゝ脱いで払ひながら眼をやると、そこは丁度小学校の運動場の前であつた。もう放課後なので生徒等の姿は見えなかつたけれど、五ツ位の可愛い男の児が三人ばかり、きやつきやと騒いでゐるのを見て、彼女は気紛れにそのまゝ足を止めて見入つた。

 こども達は鬼ごつこをやつてゐるのであつた。一隅に葭を張つた日除けがこしらへてあるのだけれど、そんな物には眼もくれずに炎天の下を跳廻つてゐた。その中の一番小さな児が鬼に追はれて、はあはあ転がるやうに彼女の鼻ツ先きまで飛んで来たが、いきなり『たんま』とどなつたかと思ふと、我慢しきれないやうにそこで用を足し初めた。うまくボタンが外づれなかつたと見えて、おしつこがヅボンから素足にはいたゴム靴を濡らしてしまつた。こどもは『ああら』と言ひながら指でこすらうとしたが、ふと彼女の微笑を含んだ顔にぶつかると、急にはにかんで、『やアい』とやけに両手を振廻しながら一目散に飛んで行つた。彼女はたうとう声を出して笑つてしまつた。

 彼女のきげんはもうすつかりなほつた。折角思立つて来た小しんの墓参を果さずに帰る事は残念だつたけれど、それも諦めるより他はなかつた。今度は誰かにお寺の名をしつかりきいて来よう──さう思つた、池袋の方へ出る通りをゆつくり歩いて行つた。

 

 小しんの事があれこれと思出された──。

 

 鈴江が友達の紹介で小しんの家へ遊びに行くやうになつた頃には、彼はもう目も盲ひ、腰も立たぬ廃人となつてゐた。それでも生活はそんな廃人をも追うて高座の上に上らせずにはをかなかつた。彼の独創的な機智の閃きを愛し、彼のいたましい薄倖を憐れむ人々の後援に依つて、月々催される独演会からの収入が、彼及び彼の一家の経費の半ばを支へてゐた。(あとの半分は、彼の慈愛深い師匠から恵まれてゐた。)その後援会に鈴江も加はつてゐた。そして丁度あねさま人形を坐らせたやうに、やつと釈台につかまつて躯を支へてる、薄つぺらな頼りない小しんの高座姿になじむにつれて、その人の健康時代には考へもしなかつた深い同情が、同情といふよりはまるで身内の者にでも対するやうな不思議な親愛の情が、一日一日と濃くなつて行くのを覚えた。それはたしかに単なる憐みの心ではなかつた。もつと(やは)らかに、もつとうるほひのある感情であつた。鈴江は自分でも何故か解らないほど深く小しんの事が考へられた。さうした一種の病的な感情が非常な勇気を彼女に与へた。

 たうとう彼女はさまざまな口実をこしらへては両親の前をつくろつて、折々小しんの許を訪れるやうになつたのであつた。

 大川に近い静かな横町に彼の家はあつた。何時もきちんと取片附けられた部屋のまん中に、厚い座布団を敷き、瀬戸の丸火鉢に支へられて、小しんはぢつとあぐらをかいてゐた。その柱に掛けた短冊の俳句にも、小屏風に投げかけてある袖だゝみの唐桟(とうざん)のはんてんにも、江戸趣味に憧れる彼の好みがうかゞはれた。四坪ばかりの庭だけれど、春になれば八重桜がうらゝかに咲いた。秋には真紅のけいとうが燃えるやうに咲いた。打水に黒く濡れた夏の夕べには、真綿をふくらませたやうな夕顔も咲いた。それ等の花のいろいろを、彼は耳を通して視、感じ、味つた。蒼い面長な顔をやゝ仰向けて、細いぴんとした声で物を言ふ時には、ちつとも盲人らしい感じがしなかつた。それほどに彼の神経は鋭敏だつた。失はれた視力を二倍にも三倍にもして、彼は心の眼をはつきりと見開いてゐたのだ。

『おしげ。』と彼が呼ぶ。それだけでもう妻には通じなければならなかつた。そして始終ぶるぶる慄へてゐる殆ど無感覚な彼の指に煙草がはさまれる。と、まだ口へ持つて行かぬ間にいらいらした声で、『火が曲つてついてる。』と叫ぶ…………。

『おしげ。』と又彼が呼ぶ。直ちに清められた痰壼が手に上せられる。すると彼は、『水が少ないぞ。』と皮肉に教へる…………。

 

 雨がびしよびしよと降つてゐた。鈴江は泥に汚れた足を流し元で洗ひながら、ふつと湯槽(ゆぶね)の方に眼を遣つた。

 家には不似合ひなほど新らしい大きな湯槽であつた。そのへりにしがみつきながら小しんは肩までとつぷりとひたしてゐたが、裾を高くからげて、肉づきのいゝ腕をまくり上げたおしげが、ひよいと脇へ手をやると、ほんとに軽々と湯から抱へ出された。それはまるで赤ん坊でも扱うやうな手軽さであつた。細い細い足が蛙のやうな格好にぶらぶらしてゐた。

『まるで徳利でさあ。お燗をつけたり、出されたり………』

 さう言つて、鈴江の方へ顔を向けてにやりと笑つた。鈴江は見てはならないものを見たやうな気がして、そのまゝ眼をそらしてしまつた。

『おや、今日はおぐしが変りましたね。』とおしげがこちらを見た。

『──銀杏返しがよくお似合ひですこと。』と眼を細くして愛想よく言つた。

『へーーえ、今日は銀杏返しですか。いゝね、若い人の銀杏返しは。』

 さう言つて、じつと首をかしげて又にやりと笑つた。鈴江はふふと含み笑ひをしながら、自分が此家を訪れる度に、髪やきものゝ好みなどをあとで(くは)しく聞きたゞすといふ話を、おしげからそつと聞かされた事を思出した、そしてうすく濡れた紺がすりの裾を両手で押すやうにしてゐた。

 小しんはほんとうに徳利のやうに、又どぼんとお湯の中につけられた。

 

 名月の夜であつた。けれど風立つた雲行きの烈しい晩で、月はとても見られさうにもなかつた。

 小しんはひどくきげんがよかつた。近々にアメリカヘ稼ぎに行くといふ親友の焉馬(ゑんば)を相手に、ひゐきの客に連れられて吉原へ行つた話をしてゐた。何時もより量を過ごしたお酒のために、頬なども赤く染まつてゐた。

『なにしろかみさんに負んぶして、しびん御持参の女郎買なんだからね。どうしたつて年代記もんさ。』

 さう言つて、元気よく笑つた。鈴江は柱に凭れて枝豆を前歯で噛んでゐたが『面白かつて?』と聞きながら、おしげと顔を見合せてくすりと首を縮めた。

『そりやあね。何てつてもその気分てえやつがね——』

 と、こつくりをして見せて腕で額の汗をこすつた。彼女は舞台で見る遊女屋のきらびやかさを想像した。そしてその舞台の真中に小しんを据ゑて見た時、急に何ともいへぬ哀愁が強く胸を打つた。泣笑ひ──さういつたことばを思ひ浮かべて、まるで影のやうに日夜かしづいて、まめまめしく良人を介抱するおしげをば、讃美の眼を以て見ずにはゐられなかつた。きりつと引詰めた濃い生え際に、眉毛の跡が青々としてゐた。

 軒でくつわ虫が賑やかにないてゐた。

『さうだ、鈴江さん。』

 と、思出したやうに彼は呼びかけた。

『一つあつしの咽喉(のど)をきかせませうか? え? 高座だつて、お座敷だつて、めつたにややつた事の無いつてえこの咽喉を。』

 もう少しもつれた舌をなめながら、彼は焉馬に(いと)を頼んで『秋の夜』を唄つた。そして、『この人のは馬鹿にはじきの利く三味線でさ。』と幾度もほめた。じつと眼をつぶつて、そのしめやかな唄をきいてゐた鈴江の睫毛(まつげ)には、いつか涙が(にじ)んでゐた。

 けれど小しんはやつぱり元気だつた。焉馬にねだつて『つんつらつん』を唄はせて、自分も小さな声で真似をしたりした。初めて聞いた小しんの唄、それはあんまり上手ではなかつたけれど、妙に鈴江の、心にしみた。

 

 霧がそれは深かつた。塀も枝ばかりの桜もぽうつと霞んで、その朝は庭が大変広く見えた。大川を行く船の櫓の音がはつきりときこえた。鈴江は聖天さまへ朝詣りをした(つひで)に浜金の柚味噌を買つて、一寸(ちよつと)と思つて寄つたのだつたけれど、ついずるずるに上がりこんでしまつた。

(ちやう)の日おけいこ』『半の日おやすみ』と書いた紙切れが鴨居からぶら下げてあつた。此頃若い人達に頼まれて落語のおけいこを初めたのだと小しんが言つた、その小しんは顔を洗つたばかりで、どてらに円くくるまつてゐた。

『聖天さまへお詣りして柚味噌を買うか。──こいつあ俳句になりますぜ、ねえ。おまけに今朝はひどい霧だつてえぢやござんせんか。』

 彼は耳を傾けてじつと聞入つた。霧はひそひそと軒をつゝんでまだ急には晴れさうもなかつた。

 不意に彼が笑ひだした。

『──俳句になる、ならないはともかくも、聖天さまへ日参なんざちと穏やかぢやありませんね。いつたい的は何です、的は?』

 わざとだんだん声を低めながら、そつと顔を覗くやうにした。鈴江は思はず赤面して、何かあいまいな事を呟いた。

 彼女はその時はつきりと小しんの瞳の輝きを感知したのだ。誰一人知る事の無い自分の大きな秘密をば、その見えざる眼のみが透視した事を悟つたのだ。彼女は深くうなだれた。閉ぢた眼の前を忘れた筈の一つの幻影が揺曳した。

 

 …………鈴江はびくりとして眼を上げた。狭い汚ない街は果てしもなく続いてゐた。陽は何時(いつ)の間にか洋傘を(すべ)り落ちて、僅に裾を斜めに息づいてゐた。左り側の青く塗つた洋館の前に、さつきが、だるさうに咲いてゐた。

 彼女の心は又過去の世界へと吸はれて行つた……………。

 

『あなたはずゐぶん暴君ね。』と、鈴江が静かにおさへるやうに言つた。

 いつもの晩酌の最中で、お酒だけは不自由な両手でコツプを捧げるやうにして、どうにか自分で飲んだけれどお菜は一々妻にやしなつて貰はなければならなかつた。それでゐてやしなひ方が非常にやかましかつた。その日もおさしみのお醤油のつけやうが下手だと言つて、ほんとに憎らしくなるほど叱りつけた。鈴江はまるで自分が怒られてゐるやうな気がした。

『あたしなら、あんなにがみがみ叱言(こゞと)を言はれりや怒つちまうは。ほんとにいゝおかみさんだから我慢して呉れるんだけど。』

 あなたはどんなにでも感謝しなければならない筈だ──さう彼女はつけつけ言つてやりたかつた。

 小しんは何も言はなかつた。黙つて煙草を吸つてゐた。まだ宵だのにあたりはしいんとして、台所で女中と話しをしてゐるおしげの声が低く寒さうに聞えた。

 幾分かゞ過ぎた。

『鈴江さん。』と、急に彼は口を切つた。指から脱け落ちた煙草の火が、ぽつりと赤く灰の中に光つた。

『わたしはねえ、これでさびしいんですよ。』と、たゞそれだけを引きちぎるやうに言つた。自嘲するやうな笑ひの影が口尻をかすかにゆがめた。鈴江はいきなり力いつぱい突きのめされたやうな烈しいシヨツクを受けた。さうだ。彼はさびしいのだ。彼を盲目とし、彼を廃人たらしめた病毒は、遂に近い未来に於て彼の凡てをも地下へ奪ひ去らうとしてゐるのだ。彼は既に『死』と相面してゐる。彼は来るべき『その日』のために、既に自ら法名までも撰んでゐるのだ。さう思ひ(きた)つた時、鈴江は口も利けない思ひがした。彼がどんなに暴君であり、又どんなにその貞淑な妻を苦しめようとも、誰がそれを責める事が出来るであらうか。彼はさびしいのだ。さびしいのだ。限りなくさびしいのだ。

 鈴江は顔をそむけたまゝ、ひそかに涙を指で抑へてゐた。彼のために流す涙が、やがては彼女自身をも温かくつゝんで流れた。

『あたしもやつぱりさびしいんです。』

 彼女のたましひがさうすゝり泣いた──。

 

 雪が降つてゐた。降るといふよりは落ちるといつたがふさはしいほど、水気を含んだ大きなかたまりがふわりふわりと降つてゐた。そのしつとりした雪片は、地に触れると同時に吸込まれるやうに消えてしまつて、黒々と濡れた土の上に町の灯がうすく(にじ)んでゐた。──雪が降る──さう思ふだけでひどくしんみりとした気持ちになれる晩であつた。

 もうその頃小しんの身は目に見えて衰へて来た。痩せられるだけ痩せてしまつた四肢は見るのも不気味なほどで、あぐらをかいた膝など、まるで板つ()れのやうにぺちやんこだつた。それでも顔は割にやつれも見えず、いつもきれいに剃刀をあてゝ、愚痴めいたことは一言もいはずに元気らしく笑つたりした。そして片時もお酒無しではゐられぬやうに、始終手許ヘコツプを引附けてゐた。それを誰も何とも言ふことは出来なかつた。たゞ沈んだ顔を見合せながら、貪るやうにお酒を含むその口許を黙つて見詰めるばかりであつた。

 その夜も彼はしつきりなくコツプを口へ運んでゐた。からすみだのうにやきだのをちびりちびり食べてゐた。水こんろにかけたあんかう鍋からは、香ばしい匂ひが立ちのぼつてゐた。丁度おしげは急用の迎ひが来て、同じ町内に住む弟の家へ出掛けたあとで、女中の何か洗ひ物をする水音が、台所でぢやぶぢやぶ聞えるばかりであつた。

 鈴江はさびしかつた。

『ほんとに静かな晩ね。』と、独り言のやうに呟いた。と、先刻から妙に黙り込んでゐた小しんは、ふと瞑想から呼び覚されでもしたやうに、ぴくりと肩を動かして首をあげたが、そのまゝ『鈴江さん』と呼びかけた。調子が少し(かす)れてゐた。

『わたしはね、眼が見えるうちにあなたに逢つて置きたかつた………』

 これだけ言ひ()して急に口をつぐんでしまつた。何時か彼の面には烈しい苦悶とも悲哀とも憧憬ともつかぬ、不思議な感情が渦巻いてゐた。咽喉か、もつと奥の方でか、ぜいぜい言つてゐるのが能く聞えた。彼は息苦しさうに暫くさうしてゐた。そのうちに、急に溺れかゝつた人のやうに、両手をふらふら前へ突出して、空を掴むやうな格好をした。支へを失つた膝から上が、今にものめりさうにがつくりとなつた。彼は喘ぐやうに鈴江を求めた。彼女の名を呼んだ。

『………鈴江さん………鈴江さん………』

 彼女は半ば無意識にあはてゝ彼を抱き止めた。驚くほど軽い彼の半身が、彼女の両腕の中でびくびくと浪打つた。彼女はまるで夢でも見てゐるやうな気がした。興奮と惑乱とに揉まれて考へる事が出来なかつた。

 不意に彼女はにちやりと頬に触れるものゝある事を感じた。次の瞬間には唇に触れるものゝある事を感じた。彼女ははつと息を呑んだ。一時に目が覚めた思ひがした。小しんの唇だ。小しんの唇が自分の唇を求めてゐるのだ。

 ──さう気附いた刹那に、彼女の心は全く自我的に冷たく落着いてしまつてゐた。彼女は急に腕の中に在る彼のからだが重くなつたやうな気がした。早く押除けてしまひたい思ひがかすかに湧き上がりつゝあるのを感じながら、それでもじつと耐へてゐた。耐へてゐなければならなかつた。貪るやうに吸附く彼の唇が、まるで氷のやうに感じられた。

 雪の降る音がはつきりとこの部屋の(うち)できかれた──。

 

 ………あれが最初の最後だつた。と鈴江は考へた。凍つた唇の感触がにちやりと甦つた。彼女はそつと頬を撫でゝ見た。そして微笑しようとした。けれどその微笑は直ぐに消えてしまつた。抑へても抑へ切れぬ慚愧の念がそんなごまかしを許さなかつた。彼女は深くうなだれてしまつた………。

 そのつぎ小しんを見た時には、彼はもう瀕死の状態に在つた。日夜間断のない躯ぢうの関節の痛みに、まるでこどものやうに号泣してゐる様を見ては、鈴江はもう泣くばかりであつた。頬の肉も殺ぎ取つたやうに落ち窪んで、高く折()げたまゝ延ばされぬ両肢などは、骨そのものよりも無惨に枯れてゐた。肉を腐蝕させて行くやうな高熱の異臭が、家中一ぱいにこもつてゐた。これでも人間は生きて行けるのかと思ふと、むしろ恐ろしくつてならなかつた。その時これも見違えるほどやつれたおしげが、鈴江の来訪を知らせると、彼はかすかに首をねぢ向けて『ああ、鈴江さん。』と弱々しく言つた。それつきりであつた。又彼はどうする事も出来ぬ苦痛のために泣き初めた。顔がまるでへし曲げられてしまつた。

 鈴江はもう此上我慢がならなかつた。泣きながら逃げるやうにその家を飛出してしまつた。枕頭に置いてある例のコツプのからであつた事が、妙にあたまにこびりついてゐた。戸外には明るい五月の陽が照つてゐた。

 

 それから三四日して、たうとう小しんは死んでしまつた。

 

 鈴江は香奠を郵便に托した。その葬式にも列しなかつた。

 何故であつたか?

 それには彼女ははつきりと弁明することが出来た。つまり彼女は世間が怖かつたのである。『死』といふものが、どんなに忘れ去られてゐた過去の人をも華々しく復活させるかを知つてゐる彼女には、さうした公開の席で注がれるであらう好奇の眼が、何よりも恐ろしくつてならなかつた。ひいては両親の思惑も考へずにはゐられなかつた。それで幾度か逡巡しながらも遂にその手段を執つたのであつた。

 此事に就ては、だから良心に恥づるところはないと信じられた。けれど、其後の小しんの霊及び遺族に対する彼女の行動はどうであつたか? 矢張りそれも許さるべき範囲のものであつたらうか?

 そこまで考へ詰めると、彼女はもうしつかりと首を上げて大地を歩む資格などの無い、卑むべきピツチとしての自分しか見出す事が出来なかつた。限りなき自己憎悪の念が炎のやうに身うちを焼いた。彼女は反抗的に一つ一つをはつきり思出さうとした。

 

 ………池袋の駅はもう直ぐそこだつた。人通りが目立つて殖えて来た。ごろごろごろごろ絶間なしに続く荷馬車の車輪が、彼女の袂をすれずれに掠めて行つた。往来の傍らの小高い空地で、老いた二人の男が芝を四角く切取つてゐた。氷屋が幾軒も幾軒も軒を並べて打水をしてゐた。…………。

 

 彼女はそれから一年余りにもなる今日まで、たうとう一度も小しんの墓を見なかつた。大川端のその家も訪れなかつた。むろんおしげとの交際などは断つてしまつた。

 何故であつたか?

 それは彼女に再び『恋』が恵まれたからであつた。永久に別れた筈のたゞ一人の恋人がとつぜん以前にもました情熱に燃えながら、彼女の胸へ立戻つて来たからであつた。彼女にはもう『恋』以外のものは凡て不要であつた。盲目に大胆に身もたましいも投げかけてしまつた。

 さうした彼女に死んだ小しんの事などが何時までも影を止めてゐよう筈がなかつた。それは全く夢のやうに記憶の表面から拭い去られてしまつた。葬られた寺院の名も法名も、彼女はきれいに忘れてしまつた。偶々(たまたま)その名を思い浮べることはあつても、極めて淡い感情のゆらめきしか伴はなかつた。

 そして時が流れた。

 一年といふ時の推移はさまざまな経験を彼女に与えた。一時の狂熱的な興奮がさめゆくにつれて、一度ひゞの入つた恋には永久に裂目のある事をしみじみと思つた。ふとした小さな言葉のいさかいにも。別れる前のやうな軽い戯れ心は織込まれてゐなかつた。二人は逢つても、逢はぬよりさびしい思ひを抱いて別れることが折々あつた。歓楽の味の苦がさ──そんな事を手紙のはしに書附けて、直ぐ真黒に塗潰したことなどもあつた。

 彼女には又さびしさが帰つて来た。

 そのさびしさの中へ紛れこんだやうに、記憶の底へ沈んでゐた小しんのおもかげが、ひよつこりと浮び上つて来たのはつい近頃の事であった。その時彼女の心はひどく狼狽した。思はず顔をそむけたい気さへした。お前に思出す価値があるか──誰かゞさう嘲笑してるやうに思へた。

 けれど不思議なほど速かに彼女の勇気が回復された。例へやうのないなつかしさがいつぱいに湧上つた。しつこくまつはる自責の念をもぎすてゝ、彼女は一心にそのおもかげを掴んだ。逢初(あひそ)めた頃の小しんが微笑しながらだんだんと近づいて来た………。

 

 それ故にこそ今日は出掛て来る気にもなつたのだ。小しんはきつと自分の心を汲んでくれるだらうと信じられた。今こそ凡ての自分の罪を許してくれるだらうと信じられた。

 彼女はほんたうに考へた。自分は決して彼の感情を盗むために近づいたのではなかつた。たゞ自分でもはつきり意識してゐなかつたけれど、恋を失つたさびしさに(こら)へかねて、何かに依つて紛らはさなければゐたゝまらぬ焦燥に引摺られて、彼に近づいてゐつたのである。皮肉に言へば誰でもよかつたのだ、誰か愛してやれる人でさへあればよかつたのだ。それならば何故彼を選んだと言ふのか?! それは彼が病人であつたからだ。

 自分の罪の一つはこれであつたと彼女は懺悔(ざんぐゑ)した。病人である彼を慰める事に依つて自己の寂寥を忘れると共に、一種の優越感を味はゝうとした事を、深く深く恥ぢずにはゐられなかつた。この不純な感情のなかつた自分の同情といふものが、あの敏感な小しんに感知せられぬ筈はなかつたと思ふと、なほ一層に彼に詫びねばすまない気がした。それほどに彼は人の情けに餓えてゐたのだ。彼女のなどゝは比較する事も出来ない深刻な寂寥のために、たとへそれが藁であらうとも縋りたく喘いでゐたのだ。そこへ自分が飛込んで行つた。彼は何も言はずにその手を延べた。

 そして二人は暗黙のうちに慰め合つて来た。自然に生長して行く人情といふものが、一日一日に二人の距離を狭めて行つた。遂に最後に()の雪の夜が来たのであつた。

 それが自分の罪の二つであつたと彼は数へた。

 あの夜熱狂した彼の態度にぶつゝかつた時、自分はたしかに困惑したといふ事は断言し得る。だがその時まで或はさうした瞬間の来はせぬかといふことを、一分の期待と一分の恐怖とを以て、待設けたやうな事はなかつたか、と自省したい。(しかし、自分は決してそれを責めるのではない。ある意味でたしかに相愛し合つた二人の間に来るべき、もつとも至当な出来ごとであつたから。)たゞ責めなければならぬのは、興奮から覚めた後の自分の態度そのものである。彼の唇が頬に触れたと知つた時、何故毛虫にでも這はれた時のやうな不気味さを感じたのだ。唇と唇とが接した時、何故寒気が立つほどの悪寒を感じたのだ。何故々々抱へてゐるその憐れな肉体にまで、無言の憎悪を浴せかけたのだ。

 それは彼が病人であつたからだ。

(彼女はこみあげる涙をやつとこらへた。)

 たゞ彼が病人であつたがために、彼女のエゴイスチツクな本能が、刹那的にあらゆる情火を消してしまつた。残るものは先天的に醜悪なものを憎む人間性の弱さのみであつた。それがあんなにも彼を忌み嫌はしめ、又彼を冷笑させたのだ。自分は何といふ恥知らずなのだらう。何といふ呪はれた女なのだらう。

 

 ………鈴江はもう思ひ続ける勇気を失つてしまつた。体ぢうが発熱でもしたやうにひどくだるかつた。これほどにも悔いなやんでゐるのだ、きつと彼はゆるしてくれるにちがひないと、も一度自分に言ひきかせるやうに後ろを振返つて見た。もうかなりの道のりを来た。さすがに高く茂つた森の梢もこゝからは見られなかつた。でも彼女は少し心が休まった。今どんなにかさびしく暮らしてゐるであらうおしげの事も、ひどくなつかしく思出されて来た。()しあのひとが自分達の過去の秘密を知つたならば、どんな感情を抱くであらうか?

 彼女にはいつものやうにしめじめとした笑ひを洩らして、何事も言はずに、凡てを温くゆるしてゐるおしげのまぼろしが、あまりにも鮮かに描き出された。さうだ、あのひとならばきつと許してくれる。良人の最後の愛情を盗んだ罪でもきつと許してくれる。その寂寥を少しでも忘れる事が出来たのならと言つて、必らず自分を冷たい眼で見詰めはしまい。

 彼女には空想と現実とのけじめがつかなくなつた。何事もなかつたやうに対座して語る、おしげと自分との声を耳底で聴いてゐた………。

 

 ………彼女は今、駅の入り口に佇んだ。

 砂利の中にしつらへた小さな花壇に、ゼラニユムが赤黒く咲きたゞれてゐた。きりきりと下駄の歯を鳴らしながら人が出たりはいつたりした。彼女はぼんやりしたあたまに、今夜逢ふ筈の恋人の顔を浮べて見た。そのひとも知らない自分の秘密である、いつそ打明けてしまはうかといふ、少し悪魔的なこゝろもちがひよいと顔を出した。

 彼女はほんとうに疲れてゐた。

 上りらしい電車の響きが、柱に凭せた爪先に重く響けて来た。

 もう日が暮れる…………。

 

   ──初出「処女地」大正十一年十一月──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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伊東 英子

イトウ エイコ
いとう えいこ 寄稿家 1890・1月~没年不詳 宮城県仙台市に生まれる。島崎藤村の個人誌「処女地」に数編の小説及び随感随想の類を寄稿したにすぎないが、熱い表現意欲にいつしかに身を挺した子女の文才は此処へ招くに足りている。

掲載作は、「処女地」1922(大正11)年11月初出、病魔に蝕まれながら名人と謳われた落語家小せんをモデルに「表題」の感覚を鋭敏に描いている。主人公の末期にいたる表現の優れて文学的に鮮烈なことは驚嘆に値し、いわゆる読み物との差異を鋭く提示し得ている。

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