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駒鳥の血

   

 

 突然、目のまえに小さな村が現われた。妙にしんとしている。人の住む気配がしない。光線があらゆる音を吸いとったかのように、村全体が息を潜めて、人目を避けている感じがする。

 なぜ、こんなところに迷いこんだのだろう。内海浩子は車から細い通りにとびだすと、怪訝な面持ちで周囲を見まわした。あと十七、八キロで目的地のバースに着くはずだったのが、まるでだれかに誘いこまれるふうに、奇妙な村に入りこんでしまった。

 通りの左右には勾配の急な三角屋根の傾きかけた家々がならび、そのあいだを石畳の路が山合いの川の流れのように、ゆるやかにうねっている。木組みのある白壁の木造家屋、赤煉瓦、蔦に覆われた石造りなどの一塊りの家々は、陽気な夏の光りを浴びてひそやかに笑っているふうに見えた。排他的にではなく、好奇心を押しかくした若い娘が慎ましやかに、訪問者の顔色を窺う風情で。

 チューダー・ハウスだと、浩子は気づいた。中世期の家屋がたがいに肩を押しつけ、支えあう姿勢で、浩子を凝視している。一体どこで道を間違えて、こんな古い村に紛れこんだのか。

 そうだ、あの時……。

 公園の木漏れ日のあいだを走りぬけると、いきなり視界がひらけ、広々と左右につらなる野原やなだらかな丘に、点々と牛や馬の姿がみえてきた。あのときに、浩子は苦い想いから抜けだしたのだ。白と黒のまだら模様の仔牛や、おぼつかない足どりの仔馬が、縺れあい、跳ねまわり、羊の群れは草を食みながら、きょとんとした目を向けていた。

 浩子はハンドルに右手を軽くあてて、でまかせに歌いはじめた。空気は爽やかで、甘かった。空は蒼く、風景はのどかで、三十歳の浩子は自由だった。

 憎悪と怨恨……。ながい年月、躰にまつわりついていた厭わしい皮膜が、春の氷のように溶けて消え去り、冬の分厚いコートを脱ぎ捨てたあと同然の素肌に、快いそよ風をうけた心地がした。ときおり高い囀りが、空へむかって一直線に舞いあがった。雲雀、と思いついたのは、ロンドンから一五〇キロちかくも走ってからだった。東京で生まれ育った浩子は、雲雀をみた記憶がなかった。

 目的地のバースまでは、ロンドンからA4道路をまっすぐに西へむかって、およそ一七〇キロの一本道である。まちがいようがない。もう二〇キロもいけば、ローマ時代の温泉場、十八世紀にはロンドンにつぐ社交都市だったバースに着く。

 そう思ってからまもなく、道路はティペナム街の手まえで左に真角に折れた。その先の二つに岐れた道を、汽車の線路にそった左方へと進んだ。すると、巨大な樹々の生い茂った、コローの風景画をおもわせる公園が、ひっそりと姿をあらわした。

 樹の枝々は小気味よいほど自在に伸び、陽を浴びて、かさなりあった葉先が銀灰色に、影の部分は濃い緑に沈み、煙るような日差しが幾筋も、なめらかな芝地に斜めに落ちている。陽にぬくもった草木の匂いが、とうの昔に失った家族の団らんに似たやさしさを、大地に滲みこませていた。あんな日溜まりにもう一度、寝転んでみたいと思ううちに、由緒ありげな建物が近づいてきた。

 車を停めて立ち寄ろうかと迷いながらスピードをさらにゆるめて、気がつくと、この細い通りにゆるゆると誘いこまれていたのだった。

 急ぐ旅ではなかった。バースに目的があるわけでもない。浩子は車にもどり、古びた型の郵便ポストちかくの、道路わきに駐車しなおした。ショルダー・バッグを肩にかけ、ジーンズのポケットに両手を突っこんで、人気のない通りをぶらぶらと歩きだした。光線が頭上にまっすぐに降り注いでくる。両わきの家々が身を乗りだして、顔を覗いている気がした。通りは短く、十数軒の家なみの先で終わっていた。小さな教会の手まえを右に折れると、先刻の通り平行して、さらに細い路があった。左手の、とりわけ小綺麗なチューダー・ハウスの看板が目にとまり、浩子はそのまえに立った。

 窓と二階の張り出し窓のあいだに唐草模様の鉄の釣り棒がさしこまれ、白塗りの板が下がっていて、茶色の字で『天使亭 ゲスト・ハウス&ティー・ガーデン』と書いてある。居心地のよさそうな、素朴な旅篭屋の趣があった。

 浩子はためらいもせずに、中に入っていった。入口正面に階段がみえ、その右側にフロントがある。が、人の姿はなかった。奥にむかって声をかけてから、フロントの台に背を凭せ、光りの立ちこめる室内をゆっくりと見まわした。

 ロビーというには、こぢんまりしすぎている。ふつうの家屋の広間、といった方がふさわしい。大きな暖炉のうえの棚に、磨きたてた銅や真鍮、陶器などの、骨董品とわかる飾りものが並べてある。柱や床はすっかり黒ずみ、歳月だけのつくりだせる深い光沢が、田舎の律儀な暮らしぶりを窺わせた。すべてが古く、大切に使いこなされた名残りがあった。

 一向に人の出てくるようすがなく、浩子はフロントに視線を移した。緑青の吹いた銅のベルが、台においてあった。持ちあげると、ずっしりした手応えがあって、カラン、カランと、のどかな音が手の下で響いた。

 しばらくして、背後で太い声がした。振りむくと、髭面の中年の男が無愛想な顔で立っていた。男の膝にぴったり寄りそった白い大きな犬が、胡散臭そうな目で浩子を見あげた。

「泊まりかね」

 くわえていたパイプを左手に移して、男がぼそりと尋ねた。

「ええ」

 思わず答えて、狼狽した。泊まる意思など、すこしもなかったのだ。

「何日ぐらいかね」

「そうね……一晩。いえ、二、三日かしら」

 行きがかり上、そう決めてしまった。

 旅券を渡して、男のあとから階段をのぼった。二階の天井は低く、廊下の床はすっかり傾いでいる。とおされた部屋の天井が屋根裏ふうに傾斜して、ガラスの嵌めこまれた天窓と窓とが、ほとんど境目がなくつづいていた。

 窓の外には一見、絨毯ともみえる花壇のある広い庭と、そのむこうに深々とした森が見渡せた。

「ずいぶん古い建物ですのね。いつ頃のものですの」

「建ったのが一四六三年、改造したのが一五五三年、という話だからね」

 吸いこんだ烟を吐きだして、パイプを眺めながら、男は退屈そうにいった。

「今ではこの村全体が、ナショナル・トラスト(史跡保護組織)に属しているから、置き物ひとつ、我々の勝手にできなくなった」

 口調は不服そうだが、奥まった灰色の目が誇らしげに光った。そう言われてみると、現代のものは、蝋燭がわりの電球ぐらいしか、見当らない。壁ぎわにある小振りの化粧台のしたに、大型の陶製の洗面器と水差しとが重ねておかれていて、浴室がなかった中世の頃の名残りをとどめている。黒光りした箪笥も、ふたつ並べたベッドも、ひどく大きかった。

「なんていう名の村ですの」

「レイコック。ウィルトシャーの」

 顔半分をおおった髭と頭髪に、三分の一ほど白いものが目立つ四十代半ばらしい彼もまた、過去から彷徨いでてきた人物の風貌をしていた。

「昼食をつくって頂けます? 何でもよろしいわ」

「天気がいいから、庭でどうかね」

「結構ね。ひと休みしたら、降りていきます。そうだわ。車を路に停めてきたけど、大丈夫かしら」

「盗む人間なんぞ、この村にはいないね」

 言いすてた男の背中に、浩子は声をかけた。

「あなたは、ここのご主人?」

「そうらしいね」

 ぶっきら棒に答えて主人が出ていくと、浩子はベッドに仰向けに寝そべった。高いベッドは柔らかく、躰がふんわりと埋まった。ふいに奇妙な感覚が、皮膚に鳥肌をたてて滑っていった。黒ずんだ天井と太い梁のあいまに区切られた天窓の、無限を強調する空。その空間をながめているうちに、彼女自身の所有する時間までが、無限に深く感じられてくる。

 浩子の頭のなかは、空白だった。肉体で捉えたものは肉体にとどまり、思考にまで至らない。躰のしたの柔らかな感触が骨と筋肉を溶かし、日溜まりに寝そべる猫にでもなったみたいな、頼りない、しかし居心地のよい気分だった。浩子は目のうえの深い空間に心と躰を浮遊させて、自由を満喫した。

 かすかに、澄んだ歌声が流れてきた。ついで、狂ったように吠える犬の声がした。浩子はベッドから下りて、窓のまえにいった。中世の建物特有の、木の桟で小さく仕切られたガラス板の不均質な厚みが、外の景色をわずかに歪ませている。

 両手で窓を押しひらいて、身を乗りだすと、庭の薔薇がいっせいに揺れたふうに目に映った。庭は蔓薔薇でかこってあった。その内側と中央のまるい花壇には、さまざまな色の薔薇が、さまざまな開き具合の花弁で、日差しを受けとめている。芝生の上に木のテーブルと椅子が、四組おいてあった。歌声はやみ、人の姿も見えなかった。

 浩子の視線が一点にとまった。庭の片隅に立つ一本の古い樫の周辺に丈のたかい草が茂り、細い茎のかさなりのせいか、緑色の絵の具を薄くぼかした感じのそこだけが、華やかな庭の色調を和らげている。樫の影になった草の一部分が、押しつけられた形で倒れていた。手まえの細く伸びた草をすかして、そのむこうに淡い異なった色が、霞めいて半透明になびいてみえる。

 草の奥で、その淡い色をしたものが、ちらと揺れたと浩子は思った。歌声の主だろうか。そう考えて目を凝らしたが、人のいるようすはなく、宿の白い犬がその辺りを、懸命に嗅ぎまわっているだけだった。昼食をとりに庭に下り、隅にある椅子を選んで腰をおろした。ひらきすぎた薔薇のまわりを蜜蜂が放物線を描いて飛び交い、ちかづいては遠のく羽音が、かえって静寂を意識させる。浩子は目を閉じて、太陽に顔をむけた。気紛れな予定変更が、自由の枠をさらに拡げて、無限に誘いこもうとする。久しぶりに自分の太陽をとりもどしたと、思った。

 

   

 

 自由は浩子にとって、太陽とおなじだった。十六歳のときに、姉に奪われてしまった太陽。原因不明のノイローゼに罹った姉の暁子は、不安のあまりふたつの太陽を欲したのであろうか。

 それまでの二人きりの姉妹は格別に仲がよく、二歳年上の暁子は妹の保護者の役も引きうけていた。幼いころから、浩子は姉の人形だった。聡明で、年齢よりも大人びた姉の陰に、妹は小柄な躰をかくすように寄りそわせ、愛情に崇拝と羨望をまじえた目で、あとを追っていた。

 神経を病んでからの暁子は、それまで学業もスポーツも学年で最優秀だったのが、どちらも思いどおりにならなくなると、ヒステリーの捌け口を浩子ひとりにむけだした。人形をあやつるだけでは満足できず、妹を自分の所有物に仕立てあげようとしたのである。浩子の言動、考え方、趣味、食欲にいたるまで、自分の意志で動かそうと、躍起になった。

 最初のうちは従順だった妹にも、やがて自己にめざめるときがやってきた。ようやく人形の殻から抜けだす決心のついた浩子は、必死で手足をばたつかせて、抵抗をはじめた。

「もう沢山だわ。これからは自分の頭で考え、自分の意志で行動したいの。胃袋だって、自分の食欲だけで満たしたいの。これ以上お姉さまの言いなりになっていたら、浩子は浩子ではなくなってしまう。お姉さまになり代わる気なんて、ないもの」

「あら、偉そうなことを言うわね。ひとりじゃ何にもできないくせに。人の前にでたら、ろくに口もきけないじゃないの。生意気いわないでよ」

「だって、いつだってお姉さまが指図するし、命令するから……。でも、もう言いなりにはならないわ」

 泣きながら宣言してからは、内気で消極的な性格を、姉とおなじ積極的な方向へ変えようと、懸命に努力した。

 その結果、姉と妹の立場が逆転した。焦った暁子の横暴が嵩じるにしたがって、浩子の反発はつよまり、攻守の責めぎあいになっていった。姉と妹はたがいに激しく対立し、憎悪しあった。しかし、暁子には病いの姉という(いたわ)りを得る武器があり、浩子には健康な妹という攻撃に耐えなくてはならない枷があった。

「暁子さんにとって今の妹さんは、ライバルになっているのです。お二人が一緒では、お姉さんの症状は悪くなる一方だと思いますよ。ご本人は妹さんをいじめているつもりは全くなくて、むしろ守ろうという意識がつよいですからね。完璧主義といいますか、つねにおなじ年代の人たちの上位にたっていなくては、気のすまない性格でもあるのです。現状では本人が望んでも、いぜんの状態にもどるのは身心両面から考えて、まず無理でしょう。ご本人がその点を自覚しているのが、最大の問題でしてね。なにしろ、頭のいいお嬢さんですから。むしろそれが災いして、自分自身にたいする忿懣が、欝積してくるのです。拒食症もそのあらわれですね。抑えきれない自己嫌悪の感情を、妹さんにぶつけることで、無意識に解消しようとしているわけです。妹さんにも我慢の限界があるでしょうから、逆らってはいけないと言ったところで、まだお若いし、とても無理でしょう。やはり、ご姉妹を決定的に引きはなす以外に、治療の方法はないでしょうなぁ」

 というのが、担当医のくだした診断だった。それからというもの、内海家親族のあいだでは、暁子の精神的暴力に立ちむかおうとする浩子が、問答無用で悪者にされることになった。

 二人の娘のあいだに挟まれて、なす術もなく、悲嘆にくれる両親のすすめで、浩子はスポーツに熱中した。また姉が軽井沢にいるときには、妹は葉山の別荘にゆき、時に入れ替わって、別々にすごす配慮がなされた。

 浩子は高校と大学生活のあいまに、春夏秋はテニスと乗馬にゴルフやヨット、冬にはスキーやスケートに興じた。休暇に家にいるのを避けるためだった。そして、母の友人の紹介で入会したテニス・クラブに通ううちに、メンバーである青年と熱烈に愛しあうようになったのである。

 浩子の大学卒業と二十二歳の誕生日を待ちかまえて、つぎつぎに縁談がもちこまれた。恋をしている浩子は、両親とその知人や親戚たちの、すべての説得を頑なに拒みつづけた。

 渦に翻弄されてもがいているさなかに、なにも知らない恋人からアメリカ留学の話を告げられた。恋は、浩子の生来の内気な性格を甦らせていた。姉の病いについて打ち明ける勇気がなく、二年間の留学に反対することもできず、飛びたつ飛行機を彼の家族と一緒にだまって見送った。

「浩子が勝手に、のぼせているだけよ。彼は結婚なんて、本気で考えているものですか。もし、その気があったら、恋人を放ったらかして、さっさと留学したりする筈がないじゃないの。甘いわねえ。だまされているのに、気がつかないなんて」

 暁子の言葉に、浩子の胸の底は、黒く淀んだ。

 姉のため、家族のためにと、両手をついて母に泣きつかれると、痛めつけられた神経が一挙に切れてしまった。人生の経験をつんだ両親や伯母たちがこぞって推薦する人物ならば、家族のために恋人を諦めて嫁ぐのが親孝行だと、浩子はくりかえし自分に言い聞かせた。暁子に反発して家のなかに嵐をおこすのは、実際に、浩子だけなのだった。

 投げやりな気持ちで、浩子は見合いに応じた。見合いのあと、本人と両親が強引に結婚を申し入れてきた。伯母たちは相手の家柄と、あまりの熱心さに、これで浩子の幸せが保証され、あげくにお荷物がかたづいたと、手を叩かんばかりに喜んだ。

 浩子はアメリカにいる恋人に手紙をだした。が、返事はこなかった。七、八月の夏季休暇にはアメリカ横断旅行にでかけると書いてきていたのを想い出して、暗然となった。ちょうど七月に入ったばかりだった。頼りになる親友もまたアメリカに留学中で、親身になって相談に乗ってくれそうな、身近な友人も知人も誰ひとり思い浮かばない。

 親戚一同をむこうにまわして、どこまで頑張れるか、自信は弱まっていくばかりだった。周囲からの攻撃と圧迫のなかで、防御の策など浩子にはなにもないのだ。息苦しく、神経のひりつく毎日がつづいた。暁子のくりかえす意地の悪い言葉が、しだいに真実味をおびて、胸深くに沈殿してくる。逆に想いが募るばかりの恋人と結ばれないのなら、誰が相手でも幸せにはなれないだろう。それに、姉から与えられる責苦に耐えて暮らす辛さに較べれば、それ以上の不幸がこの世にあろうとは、世間知らずの二十三歳の浩子には考えられもしなかった。思わず自棄になって、“もうどうでもいいわ”と呟くと同時に、結納がとり交わされ、式の日取りが決まった。

 結婚生活は、予想以上に惨めだった。夫を、諦めた恋人と比較してはならないと自覚していながら、浩子にはできなかった。まじめで沈着な恋人と、夫は正反対の性格である。夫の軽薄さを浩子は嫌悪し、軽蔑した。舅と姑は待ちかねる孫をいっこうに産みそうにない嫁を、あからさまに責めたて、いびるのを愉しみにしはじめた。

 イギリスに留学していた夫の語学力と営業の能力が買われて、二年ののちに、ロンドン駐在所長として派遣されることになった。これで、すくなくとも舅と姑の毒舌からは解放されると、浩子は安堵した。

 しかし監督者のいない、外国でのふたり暮しがはじまると、夫はたちまち本性をあらわした。出張にかこつけては女連れで旅行し、複数の愛人をつくり、浩子に最低限の生活費すら渡さなくなった。

 真冬のある夜、浩子は部屋のすみで膝をかかえて震えていた。玄関の扉を叩く音にでてみると、父の旧友が立っていた。

「いくら電話をしても繋がらないんだよ。壊れているの?」

 通した部屋の寒さに彼は身をすくめ、おどろいた表情をみせた。

「停電らしくて。暖房も電気なものですから……」

 事実を告げるわけにはいかなかった。三ヵ月分をまとめて支払う電気と電話の料金請求の、最終的な督促状が送られてきても支払う金がなく、予告どおりにやってきた係員たちが元栓を切っていったのだった。夫は女と旅にでたきり行方がわからず、借金のできる人間など、浩子の知る限りロンドンにはいなかった。

 夫が会社の金の使いこみをはじめたのは、ロンドン生活が四年めに入ったころだった。彼のしたに勤務する社員からその事実を聞かされたとき、浩子は迷わず離婚の決心をした。

 父の旧友からようすを聞いた両親からは、それとなく案じる手紙が何度か届いていたが、浩子の決心を実行に移させたのは、再三の姉からの便りだった。妹の不幸を知った暁子は昔の姉にもどって、ふたたび保護者の位置にたち、つよく離婚を奨めてきた。

 浩子は姉の病いの全快とやさしさに、救われた思いだった。姉のためにも自分のためにも心底ほっとして、ロンドンを発った。家族は、浩子を誤った道に追いやった責任を感じ、後悔しているにちがいない。少なくとも姉と母は涙を流して、謝罪してくれるだろう。その折りに告げる慰めの台詞を用意して、浩子は実家に帰った。

 ──仕方がないわ。最後はわたくしが、決めたのですもの──

 その言葉を口にする機会は、こなかった。逆に、主語を変えて、母と姉の自己弁護のために使われた。母は呵責など感じていないふりをみせたし、暁子の労りは二ヵ月と保たなかった。

 浩子に再婚話がきはじめると、母は姉と妹の反応を窺い、暁子の厭がらせは募っていった。浩子の外出着は一枚のこらず鋏で切り刻まれ、ハンドバッグや靴のひもが切りとられた。足止めされた浩子は、以前にもまして自由を失った。医者から暁子に逆らってはならないと忠告されてきた両親は、諍う娘たちから目を逸らしつづけていた。

 結局、家を出るほかはないのだった。このまま顔を突きあわせていたら、いつか姉を殺そうとするかも知れない。浩子は姉よりも、そんな自分自身に恐怖をおぼえた。一刻もはやく家から離れて自活するために、翻訳の仕事をすることに決めた。そして、勉強をしなおすという口実で、イギリスに逃げもどったのである。

 

   

 

 ホテルの主人が運んできた昼食をとりながら、浩子は自由の味を噛みしめていた。

 イギリスの七月は、日本の五月ごろの陽気である。暑くも寒くもなく、快適だった。腕を頭のうしろで組み、両脚をまっすぐに伸ばした行儀のわるい格好で目を瞑ると、躰が宙に浮きそうな解放感があった。

 瞼のうらに映る形が、ゆっくりとぼやけはじめた。とりとめのない映像がぐらりと揺れて、すうっと消えていく。別の像が、眼底から這いあがってくる。次第に形がほやけ、ぐらりと揺れる……。

 かすかな乾いた音を耳にして、浩子は目をあけた。首を左にまわすと、一人の女がいた。湖水を思わせる蒼色にふんわりと包まれて、樫の樹に背をむけた椅子に腰をかけ、本を読んでいる。鍔のひろい帽子の両脇から、流れるように垂れた薄いヴェールが耳から顎にかけてゆったりと覆い、そのあいだに栗色の巻毛が覗いているのがみえる。帽子もヴェールも、ドレスとおなじ淡いブルーだ。

 浩子はなかば閉じた横目で観察した。二十六、七歳だろうか。磨りガラスめいた白い肌で、華奢な躰つきをしている。薄い鼻と目のあたりの気の強そうな感じを、丸みのある唇が柔らげていた。オーガンディーらしい薄く長いスカートの裾から、白い編み上げ靴が踝までみえる。ふっくらと長い袖。露出しているのは、顔と手だけだった。その両手に、革表紙の分厚い本をもっている。

 まるでセピア色のひどく古い写真を見ているような、妙な錯覚に浩子は捉えられた。ヴィクトリア朝の身なりだった。泊まり客なのだろう。しかし、ロンドンでならどんな風変わりな格好をしても振りむかれる気遣いはないが、十五世紀にできたレイコック村の女にしては、服装が奇抜すぎる。古い土地はどこでも、保守的なものだが、余りにも古風すぎて不自然だった。

 観察する浩子に気づいたのか、ふいに女が本から顔をあげて、こちらを見た。慌てて逸らした目のはしに、女の微笑が映った。遅ればせに笑いかえしたが、彼女の視線はすでに本の上にもどっていた。が、唇に笑みが残っている。

 なんとなく居心地が悪くなった浩子は、村の見物にいこうと立ちあがった。ちらと女のほうを見たが、彼女は本の世界に没頭していた。足許に、先刻まで吠えていた宿の白い犬がだらしなく寝そべり、浩子にむけて目だけを動かした。

 人のいない通りをぶらつくうちに、はじめてきた場所にもかかわらず、懐かしい気分で村を眺めていることに気がついた。切妻屋根のうえの、茸に似た小さな煙突の列のせいだろうか。公害対策のために、暖房や厨房用燃料から石炭がきえると同時に、イギリスやフランスに多くみられる、この絵本にあるような煙突風景も、都会では消えつつある。

 二年ぶりにもどったロンドンの変わりように失望した浩子は、旅情を満足させるには田舎にかぎると思いついて、レンタカーを駆ってきたのだ。見知らぬ過去のなかに身をおけば、自分の過去と現在そして未来を、別人の目で眺められる。そう考えていたのだったが、五百年前の村におちついた今は、時間の観念と自分自身とがぷつりと切り離されていた。

 村を外れると道はしだいに細くなり、やがてこんもりした森の横にでた。森にそってゆるい坂を下りきったあたりで道は掘り割にぶつかり、そのまま短い石の橋につづいている。橋のむこう側の広い平地に、灰色をした、小屋とみまがう礼拝堂が建っているのが見えた。

 浩子は礼拝堂へむかって足を進めた。流れは堂のちかくで広くなり、柳の葉先が女の豊かな髪のように水面に垂れ、樫や楢の枝はつややかな緑の影を水上に浮かべている。かすかなせせらぎが、水の清冽さを思わせた。

 礼拝堂のまえには一面に野草が茂り、堂の、石をつみあげただけの素朴な建て方と黒ずんだ石肌が、ひどく古めかしい。

 開け放した入口に立って、浩子は内部を覗いてみた。粗末な木のベンチが五、六列ならび、祭壇には蝋燭が二本、点っている。幼いイエスを抱いたマリア像と壁画は、稚拙というよりも、子供の手によったものに見えた。壁画のところどころ剥げ落ちた部分に、素人ぽい修整が施してある。

 ちかくに寄って見ようと足を踏み入れたとき、どこからか啜り泣きの声がきこえてきた。浩子は驚いて足をとめた。声のするほうを窺うと、祭壇から二列めのベンチに、脆いた女の頭と肩を震わせている後ろ姿があった。

 知らぬふりをするか、それともこのまま出ていこうかと迷って、その場に佇んでいるうちに、女が立ちあがった。そしてくるりと向きなおって、正面から浩子を()つめた。咄嵯のことに浩子は身動きもできず、曖昧に微笑んだ。

 女は若くはなかった。やつれた顔を黒いスカーフで覆い、地味な色の服を着て、目だけが際立っていた。涙の奥に哀しみと憤りが、深い色で沈んでいる。似た目の色を一瞬、浩子は思いだしたが、誰のものだったかはっきりしなかった。女はつよい探る視線になって、浩子を凝視した。なにか言わなくては……。妙に追いつめられた気持ちになったが、適切な言葉が思い浮かばない。しかたなく目礼すると、女の肩から力が抜けていくのが分かった。

「素朴で、いい礼拝堂だわ」

 ほっとして、壁画のまえに進み、独り言めかして呟いた。背後で遠慮がちな咳払いがした。浩子にはそれが、なにかの合図に聞こえた。

「失礼します。あのう、村の入口に古い建物を見かけましたけど、あれは何でしょう」

 間いかける浩子を、女はまっすぐに見返してきた。

「アウグスティヌスの修道院ですわ、きっと。わたしたちはレイコック修道院と、呼んでいます」

 瞬きもせずに、女は答えた。かすれた声が印象的だった。

「どう行ったらいいでしょう。道に迷ってしまいましたの」

「ご一緒しましょう、よろしかったら」

「いえ、道順を教えて頂くだけで結構ですわ」

「案内役がいた方がよろしいでしょう。あの修道院は、この村の財産のひとつですから」

 ひとりで泣いたあとの、乾いた人恋しい気分を、浩子はよく知っていた。いまの彼女がその状態なのかとも思えて、厚意をうけることにした。

 戸外で見ると、女は思ったより若かった。しかし目の底には闇がひろがり、削がれた頬の線が痛々しい。中肉中背の浩子よりほんの少したかい背丈は、イギリス人にしては小柄である。三十代半ばとも、四十代ともみえる。控えめだが、暗い烈しさが潜んでいる感じの女だった。

「あの礼拝堂は、いつごろ建てられたものですの」

 さっき来た道を掘り割にそって歩きながら、浩子はならんだ女に尋ねた。

「最初にイギリス本土に上陸した、ノルマン人が建てたと言われています」

「というと、十世紀ごろでしょうか」

「九世紀ですわ」

 誇りを傷つけられた感情をわずかに篭めた口調に、浩子は慌てて質間をかえた。

「この村ができたのは、十五世紀だそうですわね」

「人のいないところに礼拝堂を建てるでしょうか。それにここの廃墟の寺院は、十三世紀のものです。いまの村の人口は、千三百四十六人ですわ。もし現在のことにもご興味がおありならば、ですけれど」

 浩子は口を結んだ。しばらくのあいだ、ふたりは無言で歩いた。流れが足許で、葉擦れに似た音をたてていた。頭上の枝先が揺れて、小鳥が一羽、素早く飛びたった。ちらと赤い色が空に舞った。

「ロビン(駒鳥)でしょうか」

 空高く飛んでいく鳥を目で追いながら、浩子は頭をよぎったマザー・グースのでだしの一節を、低い声で歌った。

「誰が殺した、コック・ロビン(雄の駒鳥)……」

「やめてっ」

 とつぜん女が足をとめ、鋭く叫んだ。浩子は何事かと驚いて顔をみた。

「なぜですの。あなたの国の、代表的な童謡じゃありませんか」

「いけません。この村で、その歌を口にしては、いけません」

 怯えた瞳を落ち着きなく動かして、女は押し殺した声で言った。

「でも、なぜ。珍しい歌ではありませんのに」

 女は首を横にふり、両手を握りしめて、懇願する口ぶりで繰り返した。

「やめてください。お願いです」

 いきなり彼女は、せかせかと歩きだした。浩子は急いであとを追った。女の目が思いつめた強さで、空の一点を睨んでいる。妙な女だと思ったが、浩子は黙ってならんで歩いた。

 ややあって、女がぽつりと言った。

「古い村には、いろいろなことがあるものです。よそからきた方には、理解できないようなことが……」

「伝説ですの。それとも迷信かしら」

 浩子の揶揄する口調に、むっとしたのか、女は答えなかった。二人は黙々と足を動かした。沈黙を破るために、浩子が口をひらいた。

「静かで、いい村ですわ」

「ええ」

 曖昧な表情で、女は呟いた。そして、レスリー・ミラーと名乗った。話題を変えるためか、それとも気を許すつもりになったのか、浩子には判断できなかった。

 いつのまにか二人は、今朝がた浩子が通った道に入っていた。右手に芝に覆われたおだやかな線の丘があり、その上に、灰色とも薄茶色ともつかない建物が見えてきた。

「あれがレイコック修道院です」

 レスリーの説明を聞きながら、浩子は院内を見物した。こぢんまりした中庭に咲くブルーベリーや水仙などの鮮やかな色彩と、古びた石造りの柱廊が、浩子には過去と現在を象徴しているふうに思えた。

「みごとな花壇ですわね」

 浩子が声をあげると、レスリーは痩せた手でその言葉を払う素振りをした。

「花壇ができたのは、ずっと後になってからですわ。たぶん、十六世紀以降でしょう。ヨーロッパの人びとが花の趣味をもちだしたのは、十六世紀になってからと言われていますから」

 灰色の服を着たひとりの若い修道女が本を抱えて、柱の影をひっそりと歩いていくのを見ると、やはりここは中世なのだった。

「修道女たちの部屋は遠慮しましょう。特に見るものもありませんから。それより、このまわりの建物ですけれど、これはどれも貴族の館で、約六百年前のものです」

「というと、千三百年代の終わり頃ですわね。ちょうどヨーロッパ全体が、大きく変化した時期」

 意外そうな表情をうかべて、レスリーが浩子の顔を見た。

「ええ、ヨーロッパじゅうにペストが大流行した年代ですわ。それ以後、人びとの暮らしや因習が、ずいぶん変わったそうです」

「大勢の人たちの、死のせいで」

「そうです。世界がふたたび息づきはじめると、人びとは新しい服をつくった……。当時のある年代記に、そう書かれていますわ」

「人生のはかなさが身に沁みて、生と死について改めて考えなおした、というわけかしら」

 一瞬レスリーの瞳が浩子の顔のうえをさまよい、黙って頷いた。そして前方に向き直った。

「あの塔とあちらにある厩舎は、どちらもチューダー・ルネッサンスですが、これから行く玄関ホールは、ゴシック方式で建てられています」

 三つの様式が混ざりあう歴史を反映させた建物よりも、浩子の関心は今では別の方向をむいていた。レスリーの、童謡にたいする奇妙な反応の裏にあるもの、それが浩子の好奇心を惹きつけて離さない。

 館のまえの広場にある橡の木陰に、どちらからともなく並んで腰をおろした。午後の空の彼方に雲が薄くやさしい姿で流れ、鳥が美しい旋律で歌った。

「ブラック・バードの声って、まるで歌でも歌っているようですわね。この辺にはロビンやブラック・バードの他に、どんな鳥がいますの」

 当惑した面持ちで目を瞬いたレスリーは、素っ気なく答えた。

「わたし、鳥のことはよく存じませんわ」

 そして、不安そうな声で訊いた。

「村にご滞在になっておいでなのですか」

「ええ、天使亭に」

 彼女は片方の眉をぴくりとさせて、頷いた。

「レッド・ライオンというホテルと、二軒ありますのね、この村には」

「天使亭のほうが古くて、格が上です」

 そう言い切るとレスリーは口を噤み、遠くをみる目つきになった.なにかを懼れているような暗い印象のレスリーに、ずっと気を奪われている浩子には、人懐こいとは思えない彼女が、なぜ行きずりの日本の女を案内するつもりになったのか、納得がいかなかった。話相手を求めてにしては口数が少なすぎ、無愛想すぎる。浩子の質問にたいする反応も神経過敏に思えるし、時折うわの空のところもあった。

「そういえばさっき、天使亭の庭にとても美しい女の人がいましたわ。青いドレスを着て……」

 何気なく言うと、レスリーが悲鳴にちかい声をあげた。

「何ですって」

 全身を硬張らせ、目を釣りあげ、それから頭をつよく左右に振って叫んだ。

「嘘、嘘だわ」

「嘘じゃありませんわ。ヴィクトリア風の格好をして、本を読んでいました」

「いいえ、いいえ。あなたの見間違いです。そんな筈は……。十年前に終わったはずだわ」

「でもわたくしは見たんですもの、確かに。ご存じの方ですの」

 レスリーは蒼白な顔で唇を慄わせて、浩子を睨みつけた。浩子が唖然としていると、彼女はさっと立ちあがり、いきなり駆けだした、丘の斜面に痩せた躰が消え、ひらめくスカーフが消えて、丘はもとの静けさにかえった。浩子は大きく息をついて、膝を抱えた。このまま村を出るわけにはいかなかった。昔風の青衣の女に会うために、天使亭にもどることにした。

 レイコックという九世紀の村になにかしら謎めいたものを覚えて、強い好奇心に駆られた浩子は、急に生き生きしはじめた自分を別人のように感じ、好ましく思った。

 

   

 

 天使亭の庭に青衣の女の姿はなかった。浩子は主人を捜して、あの女性は泊まり客かと、尋ねてみた。彼はぶっきら棒に答えた。

「女の客? いいや、あんたのほかに客はいないよ」

「じゃあ、昼食にでもきたお客さんかしら」

「いや、この一週間は誰もきちゃいないね」

 ツイードの上着の胸でパイプを磨きながら、彼は面倒くさそうに言った。

「でも、わたくしがお昼の食事をすませたとき、庭にいたでしょう、女の人が」

 主人は怪訝な顔つきになった。

「庭の椅子に腰かけて、本を読んでいたわ。ブルーの洋服とブルーの帽子で」

 眉を寄せて、主人がじっと浩子を凝視した。

「ブルーの服……」その声が慄えていた。

「綺麗な人だったから、よく覚えているの。それにヴィクトリア風の服装なんですもの。この古い村の雰囲気にぴったりだったし。ここでは住む人たちまで、昔風なのかしらと思ったのよ」

 彼は髭にかこまれた薄い唇をかたく結び、黒い瞳で宙を見据えている。その顔は、疑惑と恐怖の色が次第にひろがるのを、懸命に押さえようとしていた。浩子の声も耳に入らないのか、無言で首を振りつづけた。強情な子供そっくりな態度が、浩子をも依枯地にした。

「この庭にコック・ロビンはきます?」

 試しに投げた質問に、主人は険しい目で浩子を睨みつけ、足音を荒らげて歩き去った。

 浩子は二階の客室をひとつひとつ覗いてみた。どの部屋も鍵はかけてなく、いつ客がきても使える状態にしてある。室内は浩子の部屋と大差なかった。ツインの部屋ばかりで、総数は六室、浴室はついておらず、共用の浴室がふたつあった。荷物はどこにも見当らない。女が泊まり客でないことは、主人の言ったとおり、嘘ではなかった。

 夏の太陽は、六時といってもまだ高い。村の通りをぶらついたあと、浩子はレッド・ライオン亭の一階にある、村でただひとつのパブヘ足をむけた。

 サルーン、パブリックと、擦りガラスに記された二つのドアの、パブリックの方を押して入った。どうせ中は、簡単な仕切りがあるだけで、繋がっている。七、八人の男たちがグラスを傾けながら、声高に喋っていた。百姓や労働者らしい身なりで、例外なく赭ら顔だった。

 なかで最年長の老人が、ドアのまえに佇んだ浩子に目をとめて、無骨な手にもったグラスを掲げてみせた。

 ロンドンと違って村の男たちは人懐こく、競って浩子に席を空けてくれた。ひとりでパブに入るのは初めての浩子も、田舎の小村なら気安かった。皆はすでに浩子の滞在を知っていた。

「お嬢さん、どこから来なすった」

「日本からです」

「日本ねえ。中国じゃあ、なかったか」

「ほい、六シリング頂きだぁ」

 彼らは浩子がどこから来たのか、賭けていたらしかった。勝った人より、負けた男の数のほうが多く、勝者が浩子と敗者に飲みものを、奢ってくれることになった。

「あんたの国には、こんな旨い飲みものがあるかい」

 中年の男がカウンターから、注いだばかりのエールのグラスを運んできて、テーブルに置いて尋ねた。

 浩子は礼をいい「ええ」と答えて、グラスに口をあてた。いつもの通り、生ぬるかった。日本と異なり、イギリスではビールやエールを冷やす習慣はなく、口に含むとどこかとろりとした味がする。

 レスリーと天使亭の主人がみせた反応に用心深くなった浩子は、当たり障りのない、たがいの国の習慣を話題にした。やがて、打ち解けあった頃を見計らって、レイコックに話を移してから、それとなく切りだした。

「この村でもう、お友達ができましたわ。レスリー・ミラーさんという方」

 一瞬、息をのむ間があった。それから、皆がいっせいに顔を見合わせた。

「こいつは驚いた」

 と、若い男が叫び、老人は皮肉ぽく言った。

「あんた、どんな魔法を使いなすったんだね。レスリー・ミラーが友達をつくるなんざ、この十年間、わしらはただの一度も、見たことも聞いたこともないがね」

「あの女は人間ぎらいでね。口をきくと、だいじな魂が擦り減っちまうと、信じこんでるのさ」

「いや、おれはいいことだと思うぜ。彼女は淋しいんだよ。ひとりぼっちでさ。だから旅行者の、このお人と喋ったんだ。罪つくりなのはピーターだね。おれに言わせりゃ、ラングドムの血だよ」

 突然、弾みだした皆の会話を、浩子は黙って聞いていた。

「同業者の悪口は言いたかないがね」

 スタンドの中の男が口を挟んだ。

「罪つくりの元凶は、ピーターよりもマイケルだね。マイケル・ラングドムさ」

 男たちがやれやれといったようすで片手を振り、老人はたしなめる口調で言った。

「それを持ちだすのはやめとけ、レッド・ライオン」

「ピーターって、どなた? マイケル・ラングドムって、誰ですの」

 たまりかねて浩子が口を挟んだ。レッド・ライオンと呼ばれた赤毛の男が、グラスを拭きながら答えた。

「あんた、天使亭に泊まっていなさるんだろう。あそこの髭面がピーター・ラングドムで、マイケルってのは、ピーターの曾祖父さんだよ」

 訳がわからなくなった浩子は、天使亭の主人について尋ねた。

「ピーターは、レスリーの恋人かなにかですの」

「まぁな」

「違うとは言えねぇな」

 皆が肩を竦めて口々に言い、頷きあった。

「あの、コック・ロビンのマザー・グースですけど、あの童謡はこの村と、なにか特別な、つまり、曰く因縁みたいな、何かがあるんですか」

 ひんやりした風が吹き抜けていった。皆は無言でグラスに手を伸ばした。

「今日の午後、天使亭の庭で、とても綺麗な女の人を見かけたのですけど、ピーターというご主人は、誰もこなかったと言い張るんです。わたくし、彼は嘘をついていると思いますわ。だって、あんな昔風のめずらしい格好をした美人を、男のひとが見逃すなんて考えられませんもの。どうして嘘をつくのかしら。わたくしはただ、紹介して貰いたかっただけなのに」

 部屋は誰もいないみたいに静かだった。身動きする者もいない。エールを飲みかけている男、グラスを持ちあげた男、皆がそれぞれの姿勢のまま、ぴたりと静止していた。浩子は男たちの顔を見まわした。驚愕、恐怖、疑惑が、顔に貼りついている。

 ながい沈黙がつづいた。

「今日は何日だ」

 しばらくして一人が、聞きとれないほど低い声で尋ねた。

「七月十五日……」だれかが息を呑む感じで答えた。

「そうだ。ちょうど百年めだ。何てこった」

 レッド・ライオンが大声で叫ぶと、男たちはそわそわと互いの目を盗み見しあった。

「百年めって、何のことですの」

 誰ひとり、口をひらく者はいなかった。浩子は皆から弾きだされた気まずい思いで席を立ち、天使亭に帰った。

 

 翌日は午前中を庭ですごし、午後は咋日とおなじ行動をとることに決めた。ロンドンで買い求めた本をもって、咋日とおなじ椅子に腰をおろし、おなじ女が現れるのを待った。昼食をすませて、あた

りに目と耳を凝らしながら、例の童謡の歌詞を、頭のなかに思い浮かべた。

 

 誰が殺した 雄の駒鳥(コック・ロビン)

 それは私と 雀がいった

 私が殺した 弓と矢で

 

 十数番までつづく詞は、雀に殺された駒鳥(ロビン)の死を鳥や動物たちが嘆き哀しんで弔う、という内容である。イギリスのマザー・グースには残酷なものが多く、この歌にも被害者のロビン、加害者の雀、それに目撃者と傍観者がいるのだ。この歌がレイコック村に何らかの関係があるとすれば……。加害者と被害者。姉の暁子と浩子……。

「何を読んでいらっしゃるの」

 澄んだ声がして、浩子ははっと顔をむけた。青衣の女が微笑んでいた。服装、持ち物、座っている場所、何もかも咋日と変わりない。いつの間に現れたのだろう。浩子は緊張して、手の本を握りしめた。

「オスカー・ワイルドの“ドリアン・グレイの肖像”です。読み直してみようと思って」

 女は大きな帽子の蔭で、かすかに眉をひそめてみせた。

「オスカー・ワイルド?新しい作家でしょうか。聞いたことがありませんわ」

 浩子はびっくりした。ワイルドの名前を聞いたことのない英国女性がいるとは、到底、信じられなかった。それとも、発音が悪かったのだろうか。

「オスカー・ワイルドを、ご存じありません?」

「知りませんわ」

 しかたなく、女の手にした分厚い本に目をやって、浩子も尋ねた。

「あなたは、なにを読んでいらっしゃるの」

「これ?“自我の人”よ。ジョージ・メレディスの」

「わたくしも読みましたわ。五、六年前に」

 女は冷やかすように茶色の瞳を踊らせて、浩子の言葉を優しく訂正した。

「勘違いしていらっしゃるわ。この本は、二年前に、初めて出版されましたのよ」

「まあ、あなたこそ勘違いですわ。メレディスなら、百年も前の作家じゃありませんか」

 女は細い指先で、革表紙を開いてみせた。一八七九年印刷の、初版本だった。紙は厚く、茶色味を帯びて、旧式のローマンとイタリック字体のまざった、みるからに古風な体裁である。

「貴重な本ですわね。いま手に入れるとなると、数千ポンドもするんじゃありません?」

「あなたって、面白い方ね。桁がまるで違っていますわ。この本は三ペンスですのよ」

 優雅に肩をすくめて小さく笑うと、彼女は小首をかしげながら、右手をさしだした。

「わたくし、エステラ。エステラ・カーライルですの。よろしく」

 エステラの手を握ったまま、浩子は質問を浴びせた。

「伺いたいことがありますの、カーライルさん。ピータ・ラングドムさんという男性を、ご存じ?」

「ええ、もちろん」

「マイケル・ラングドムさんは?」

「知っていますわ」

 いくぶん冷ややかな声になった。

「それじゃあ、レスリー・ミラーさんも?」

 エステラの顔に、悪戯っほい表情が浮かんだ。

「知っていますとも。血縁者同士ですもの、わたくしたち」

「まあ、どういう?」

 浩子の声が高くなり、エステラは徴笑んだ。

「わたくしの妹の、曾孫、ですわ」

 浩子は聞き違いだと思って、問い返した。

「まさか。だったら、あなたより、ずっとずっと若いはずじゃありませんか」

 エステラが貴婦人のように、するりと立ちあがった。ドレスがせせらぎに似た音をたてた。

「また明日お会いしましょうね、浩子さん」

「ちょっと待って、エステラ」浩子は慌てて訊いた。

「お住まいはどちら?」

 大きな目を見張って、エステラは左手を胸にあて、問いかえす仕草をした。

「あなたはどこに、住んでおいでですの」

「わたくしの家はここよ。レイコックの天使亭ですわ。一五五三年の創立以来ずっと、天使亭はカーライル家のものですのよ」

 茫然と立ち尽くす浩子に、エステラはゆっくりと背をむけて、樫の樹のほうへ歩きだした。そして澄んだ声で歌いはじめた。

 

 誰が殺した 雌の駒鳥(ヘン・ロビン)

 それは私と 雀がいった

 私が殺した 弓と矢で

 

 誰が見ていた 彼女の死を

 それは私と 蠅がいった

 私が見ていた 小さな目で

 

 誰が受けた 彼女の血を

 それは私と 魚がいった

 私が受けた 小さな皿で

 

 エステラが振り向き、ふたりは向かい合った。彼女の目が異様にきらめいているのに、浩子は気づいた。

 

 彼らが殺した 雌の駒鳥(ヘン・ロビン)

 誰でも知ってる 村人は

 溜め息ついて 啜り泣き

 みんなで聞いた 弔いの鐘

 可哀そうな彼女のために

 

 低く歌いながらエステラは、草の生い茂った樫の木陰のほうへ少しずつ後ずさっていった。ドレスの裾が草を押し分け、下半身が徐々に草むらに呑みこまれていく。ふいに浩子は想い出した。きのう部屋で聞いた歌声は、このマザー・グースを歌うエステラの声だったのだ。

「待って、エステラ。まだ訊きたいことが……」

 エステラの全身が、太い樫に隠れた。浩子は急いであとを追った。エステラはいなかった。樫の根もとの草がかすかに揺れて、たったいま彼女が通ったことを示しているのに、エステラの姿はどこにもなかった。草むらの蔭に戸口があるに違いない。そこから出ていったのだろう。浩子は、びっしりと蔓薔薇が絡みついた柵にそって歩き、出口をさがした。身をかがめ、薔薇の刺に手を引っかかれながら、隙間をさがして往ったり来たりした。

「そんな所で、なにをしてるんだね」

 首をめぐらすと、主人のピーター・ラングドムが顔をしかめて立っていた。

「エステラ・カーライルが出ていった戸を捜しているのよ」

 ピーターが気味の悪い目つきで浩子を凝視した。浩子はエステラとのことを説明したが、彼は哀れむようすで頭を振った。左手のパイプを額の端にあてて、しばらく考えこんでいたが、やがて深い吐息をつき、押しだすような声でいった。

「信じようと信じまいと、あんたの勝手だがね。エステラなんて女は、もう生きちゃいないんだ。彼女は一八八五年に死んでいる」

 浩子は上ずった声で叫んだ。

「だったら、あれは誰なの。彼女は自分からはっきり、エステラ・カーライルと名乗ったわ。たった今までわたくしたち、お喋りしていたのよ」

「知らんね。わたしは見なかったし、声も聞いちゃいない。ま、エステラでないことだけは、確かだね」

「誰なのか知らないけど、ここから女の人が消えてしまったことも、確かよ」

 突然、ピーターが顔を真っ赫にして怒鳴った。

「あんたは一体、どうしようというんだ。この平和な村に、騒ぎを起こそうとでもいうのかね。わたしの天使亭に幽霊がでた、そう言いふらすつもりなのかね。そんなことを考えてるのなら、今すぐ出ていって貰おう。とっとと村からいなくなってくれ。腹きりの野蛮な国へ、帰れ」

 庭を走って部屋にとびこんだ途端に、浩子は全身が慄えているのに気がついた。エステラが死んでいるのなら、あの女は誰だろう。なぜ自分からエステラ・カーライルと名乗り、何のために、あんな昔風の服装で浩子のまえに現われたのだろう。

 彼女の話したことは一言残らず、はっきりと記憶している。確かに、どこかが妙だった。

 ベッドに座った浩子は、気持ちを落ち着けて、ふたりの会話を反芻してみた。話の食い違いはすべて、年代の差から生じている。

「すると、やはり、幽霊……」

 まさかと、浩子は自分の言葉を打ち消した。七月の明るい太陽の光線が燦さんと降りそそぐ庭に、幽霊が出てくるなど、とても信じられなかった。もちろん錯覚であろうはずもない。

 それにしても、エステラを自称した女は、なぜ浩子にあのマザー・グースを歌って聴かせたのか。そうだ。エステラは雄の駒鳥といわずに、雌と歌った。彼といわずに、彼女と歌った。しかし、なぜ──

 いくら考えても、疑問はいつまでも疑問のままだった。

 

   

 

 混乱した浩子は天使亭を出た。頭を冷やして、今の出来事を整理しようとしながら、ゆっくり足を運んだ。森にさしかかると、レスリーの姿があった。手をあげて近づいた浩子に、思いつめた表情で声をかけてきた。

「もしかしたらと思って、ここであなたをお待ちしていました」

「わたくしも、あなたにお会いしたいと考えていたところですわ。お話がありますの」

「こちらにも、お話することがあります。礼拝堂へいきましょう」

 ふたりは無言で歩いた。流れのせせらぎが昨日とちがい、今日は胸をざわめかせる。樹々の合間からそそぐ木漏れ日が水面に踊って、浩子の好奇心と不安を募らせた。礼拝堂の木のベンチに並んで腰をかけると、レスリーは頭のスカーフを被りなおし、祈る姿勢になって両手をくみ、目を閉じた。浩子はレスリーの話をまず聞いてみようと、じっと待っていた。

 やがて顔をあげたレスリーが、厳しい目つきで隣りの浩子を見やった。

「これから申し上げることは、けっして他言しないと、約束してください」

「分かりました。誰にも話さないと約束しますわ」

 浩子の緊張した声に、レスリーは頷いた。

「それから明朝、村を出ていただきたいのです。よろしいですね。あなたが村の人たちに、なにかと話したり質問したりなさるので、ますます皆の恐怖心を煽って、わたしばかりでなく、村中が迷惑しているのです。だからこそ、お話する決心をしたわけで、あなたの好奇心を満足させるためではありませんから、そのことをお忘れなく」

 レスリーは幼いイエスを抱いたマリア像に視線をあてたまま、かすれ声で話しはじめた。

「咋日あなたは、天使亭で蒼いドレスを着た美女を見たと、おっしゃいましたね。それはエステラ・カーライルという女性です。でも彼女は、ちょうど百年まえの昨日、亡くなりました」

「一八八五年と聞きましたわ。まさかあなたまでが、その話を本気で信じている訳ではないでしょうね。それがエステラの幽霊だなんて」

 ばかばかしいと思いながらも、レスリーの表情と態度は、一笑するにはあまりに真剣すぎた。いい終わってから浩子は、ふいに襲ってきた恐怖のために、身をすくめた。

「黙って最後まで聞いてください。そうなのです。あなたがお会いになったのは、エステラの霊なのです。十年に一度、彼女は七月十五日になると、きまって天使亭に姿を現わすと、言われています。十年ごとに必ず、あなたのような村を訪れた目撃者が、騒ぎたてるのです」

「騒ぎたてるだなんて。わたくしはただ、真実を知りたいと思っているだけですわ」

「ですから、こうして今、真実をお話しているではありませんか。本当にお知りになりたいのでしたら、わたしの申しあげることを、お信じになればよろしいのです」

 浩子は小声で詫びた。

「もう、邪魔はしませんから、どうぞ、お続けになって」

 しばらくのあいだ、レスリーは考えこんでいたが、やがて低い声で話しだした。

「エステラはカーライル家直系の跡継ぎとして、天使亭の相続人になるはずでした。彼女の先祖が一五五三年に今の天使亭の建物を買いとって、この村で最初の旅篭屋、天使亭を開いたのですが、あのエステラの悲劇はその時すでに、始まっていたのかも知れません」

 レスリーは溜め息をつき、茫然とした浩子にかまわず、諦めきったふうな淡々とした調子でつづけた。

「カーライル家については、代々いい伝えられてきた話だけではなく、記録も残されています。それによると、初代天使亭の主人トムソン・カーライルは二十六歳のときに、妻とともにレイコックに住みついたとされています。彼は苦労の末に三十歳で、天使亭をひらいたのです……」

 浩子は話に惹きこまれて、熱心に耳を傾けた。

 ──二十八歳でひとり息子が生まれたトムソンは、二十八年のあいだ細々と天使亭をつづけて、五十八歳で死亡した。三十歳になっていた息子が二代目の主人となったが、その後カーライル家では、どういうわけか代々、恵まれる子供は男子ひとりに限られた。彼らの結婚、嫡子誕生、家業相続、死亡時の年齢が、例外なくトムソンの場合と一致した。家人も村の人々もそれを偶然ではなく、一家の宿命と信じるようになった。

 十三代目の一八五九年と翌年に、はじめて男子ではなく、二人の娘が生まれた。それがエステラとアンの姉妹である。両親が喜ぶよりも不安を抱いたのは、むしろ当然だった。三百六年を経てはじめてカーライル家では、長女のエステラに婿養子を迎えなくてはならなくなった。

「エステラは美しいうえに聡明で、当時イギリス各地に設立されだした、個人経営の小学校、デイム・スクールで……」

「失礼ですけど、デイム・スクールって?」

 それまでレスリーの話をじっと聞いていた浩子が、口をはさんだ。

「女性が経営して、基礎教育をした私塾です。婦人が始めたので、そう呼ばれたのです」

「分かりました。どうぞ、お続けになって」

「レイコックにも、デイム・スクールが設けられたために、エステラはそこで初等教育を修めて、当時の地方在住の女性としてはめずらしく、読み書きが達者で、物識りでした」

 ──天使亭の景気は、すっかり安定していた。だが、エステラの祖父が受け継いだ一八三三年は、イギリス大恐慌の真っ只中であった。おまけにその頃は天然痘、チフス、コレラ、ジフテリアなどが猛威をふるっていて、温泉のでる保養地としてローマ時代から栄えていたバースヘの旅行者が、激減した。したがって、バースヘの途上の旅篭屋として潤っていた天使亭は、煽りをくって倒産寸前まで追いこまれてしまった。

 借金は病魔とおなじように、天使亭を蝕んだ。祖父は幼いふたりの孫娘と、天使亭の行く末を案じつつ、この世を去った。父親の代になっても、逼迫した旅篭屋を立てなおすのは容易ではなく、エステラは子供のころから家業を手伝った。エステラが十八歳になった春のこと、ひとりの男がふらりとレイコックにやってきて、天使亭に投宿した。ロンドンからきたという二十二歳のマイケル・ラングドムは、黒い髪と瞳をもつ美青年で、素姓はわからないが、よく旅をしていて博学だった。エステラとマイケルはひと目会ったときから、運命的出会いと信じた。バースヘむかう途中だったマイケルは、出発を一日のばしに延期して、ついには天使亭にいついてしまった。

 しかしエステラの父親は、マイケルが気に入らなかった。定職もなく、宿代を払おうともせず、エステラに結婚をせまる男に憤慨しながらも、結婚すべき二十六歳までには娘ごころも変わるだろうと、追い出さずに我慢していた。ところがその年の夏、ロンドンからきた客のチフスに感染して、両親ともにあっけなく他界したのである。先祖代々つづいた当主の寿命より、十二年も早かった。

 両親の思いがけない死が、エステラの目を覚まさせた。もう恋どころではなく、彼女が宿のきりもりをしてゆかなくてはならない。父と母の早世は、自分の身勝手な恋にたいする懲らしめと信じたエステラは、三百年以上もつづいている家業を、自分ひとりの罪と非力のために絶えさせてはならないと決心した。父親の遺言どおりに二十六歳になったら、父が望んでいたような実直な青年を婿にむかえ、二十八歳で跡継ぎを産まなくてはならない。長女のエステラは責任感のつよい娘だった。マイケルを諦め、彼に仕込まれた都会風のお酒落もわすれて、天使亭のために働いた。

 庭の樫の木は八年の成長をみせ、エステラは二十六歳になった。しかし、村の青年たちの誰ひとりとして、美しいエステラの、村名物の天使亭の、婿になろうとする者はいなかった。というのは、十二代もつづいた宿命的なものが破られて、息子ではなく二人の娘が生まれ、家運は傾いたあげくに、当主が忌まわしい熱病で死んだのは、けっして偶然などではなく、エステラが悪運をはこんできたからに違いないと、村人たちが陰口を叩きあったからだった。

 天使亭を大切に思うあまりに焦ったエステラは、ふたたび小綺麗に装って、伴侶が現われるのを待つようになった。

「ところが……」

 レスリーはそこで言葉をきると、膝のうえに視線をおとして口をつぐんだ。遠くの空に小鳥の声が散り、薄闇のなかで祭壇の蝋燭の炎が、わずかに揺らめいた。

「突然、エステラが死んだのです。二十六歳で。ちょうど百年まえの咋日、七月十五日に、たった一人で」

「病気で?」

 レスリーは目を閉じて、静かに首を振った。

「自殺でしたの?」

「分からないのです。村では妹のアンとマイケルが殺したという噂が、しきりだったそうです。その頃アンとマイケルのふたりは愛しあっていて、エステラが死ぬと、それを待っていたように、すぐに結婚したからです。マイケルは婿養子ではなく、天使亭の主になりました。以来、天使亭はラングドム家の所有になっています。マイケルの目的は天使亭だったのでしょう。でも、ほかの噂もあるので

す。カーライル家の家系そのものが、エステラを殺したのだと。そんな理由から村の人たちは、コック・ロビンの例の童謡を歌ってはアンとマイケルを責めたて、カーライル家の血を呪ったそうです。いまだにあの歌を歌うと、悪霊をまねくと信じられていて、村では口にしてはならないことになっているのです」

「そうでしたの。知らなかったもので、悪いことをしたわ。それであなたは、エステラの死をどう考えていらっしゃるの」

 レスリーが穏やかな顔をむけた。

「わたしは自殺とは思っていません。それほど天使亭を大切に考えていたエステラが、自分から死を選ぶはずがありません。彼女は死ぬまえに、マイケルとアンのことは知っていたと思います。ふたりが何を考え、何を望んでいたかも」

「いったい誰が、雀だったのでしょう」

「さあ、それは……。エステラだけが知っているはずです。だからこそ十年に一度、天使亭にもどってくるのだと思いますわ」

「何のために?」

「天使亭がいまも彼女のものだと、雀に思いしらせるために。雀の羽根をもぐために。天使亭を守るために」

「あなたも、彼女にお会いになったの」

「いいえ。エステラは身内の前には、けっして姿をみせないのです。わたしはアンの曾孫ですから。わたしたちはいつも、旅人の目撃者から聞かされてきました。それがかえって、わたしたちには恐ろしいのです」

「なぜ、身内にだけ姿をみせないのかしら」

 レスリーは浩子の質問に、答えようとしなかった。言おうか言うまいか、しばらく躊躇(ためら)うようすを見せたのち、彼女はつづけた。

「不思議なことですが、エステラがマイケルを愛して以来、カーライル家とラングドム家の若い男女は、必ず愛しあうようになるのです。いまの主人ピーターのお兄さんのリチャードとわたしの従姉も恋仲でした。でも十年まえにエステラの霊が現われたとき、彼女は自殺しました。リチャードはその従姉の妹と、密かに愛しあうようになっていたのです。エステラの場合とおなじように。アンとマイケルの二の舞を、エステラは絶対に赦そうとしません。リチャードは結局、従姉の妹といっしょに村を出ていったきり、行方不明のままです。そんなことがあったので、エステラの復讐心も収まって、この十年めはもう姿をみせないだろうと、みな安心していたのですが……。百年たっても、まだ諦めきれないのですわ。そういうわけでピーターとわたしは、いまだに結婚できずにいますの。婚約して二十年になるというのに」

「エステラが怖くて?」

「ええ。復讐が恐ろしいのと、エステラの今までの妨害のためですわ。でもエステラのこれほどまでの哀しみを思うと、恨む気持ちにはなれません。わたしは一生この村で、彼女のために祈りつづけようと、今度こそ決心しました」

 

   

 

 レスリーとの約束どおり、浩子は翌朝レイコック村を後にした。

 ハンドルをにぎる浩子の胸のなかで、エステラの長女に生まれたための苦悩と、姉の暁子の病いとが重なりあっていた。暁子のノイローゼは、両親の蜜のような愛情と、入り婿をむかえる期待に束縛されて、必死で長女の重みから逃れようと、もがきつづけた結果生じた亀裂だったのではないだろうか。自由な立場の妹が、さらに自由を追い求めて羽ばたき飛んでいく贅沢を、どのような思いで眺めていただろう。長女の自覚と、責任感のつよい姉の苦しみを、浩子は初めて理解していた。

 加害者と決めこんでいた姉が被害者であり、被害者のはずの自分が、加害者だったのだ。幼いころの優しかった姉が、たまらなく懐かしかった。やはり、愛しているのだった。

 A4道路にでると、道の真ん中で誰かが手を振っていた。浩子は慌てて急ブレーキを踏んだ。ナップ・ザックを背負ったジーンズ姿の少年が、叫びながら駆け寄ってきた。

「バースまで乗せてってくれない?」

 頷くと、敏捷に助手席にすべりこんできて、サングラスをひょいと頭のうえに押しあげた。少年ではなく女だった。横顔をみた浩子は、目を疑った。

「エステラ!」

 娘は含み笑いを洩らして、おかしそうに言った。

「ばれたわね。わたしヒルダよ。レスリーの妹」

 浩子は唖然として娘をみつめた。栗色の髪をうしろで結んで、現代っ子の身なりをしているが、確かにエステラだった。

 自分勝手なレスリーに思い知らせるために、演じたのよ。今度こそ、成功まちがいなしだわ」

 興奮でいきいきした娘の顔は美しかった。浩子はものも言えなかった。

「ピーターとわたしは、四年まえに結婚の約束をしたのよ。それなのに姉のレスリーは、もう愛されてもいないのに現実を認めようとしないし、諦めようともしないの。何でも自分の思い通りになると信じこんでいるんだから、姉貴なんて厄介なものだわ」

「エステラの幽霊は、あなたのお芝居だったの?」

 ヒルダは躰をよじって笑いながら、頷いた。

「ピーターも共犯なの?」

「ちがうわ。味方から欺いたのよ、もちろん」

「でも、十年まえ、二十年まえの幽霊は?」

 ヒルダの目に怯えが走った。見つめあった視線を払うように肩をすくめ、煙草をくわえた。

「知らないわ。今度のお芝居のヒントにはしたけど」

 暗い声で呟くと両手を拡げてみせてから、マッチをすった。三本めでやっと火がついた。手がはげしく震えていた。

「あなた、レスリーが自殺するとは考えないの? あなた方の従姉みたいに」

「姉がどうなろうと、わたしには関係ないわ」

 ヒルダは烟とともに、吐きだすように言った。天使亭のエステラを殺した雀は、妹のアンだと、浩子はそのとき直感した。

 サイド・ブレーキをおろした浩子は、思いきりアクセルを踏んだ。十五世紀の村が、レスリーが、一八〇キロの速度で遠ざかっていく。しかし車内に並ぶふたりの妹どうしの血は、今この瞬間も、それぞれの異なった肉体に、おなじ速さと濃度で流れているのだ。

 車が一台もいないA4道路のゆるい坂の上に、光りの塊りが揺れていた。水たまりにも、きらめく炎にもみえる。陽炎だった。ちかづくと陽炎は、小さな赤いものに変わった。小鳥の死骸、駒鳥が血にまみれていた。浩子はヒルダの横顔を盗み見た。瞼を閉じて、眉間にうっすらと皺をよせている。その頬にも、陽炎に似たひとすじの涙があった。

 浩子は速度を落とした。そして、駒鳥の死骸を踏まないよう注意しながら、光の炎をゆっくりと通り抜けた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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増永 直子

マスナガ ナオコ
ますなが なおこ 小説家 1939年 東京に生まれる。1977(昭和52)年「風景画」により日本文学振興会新人賞。

掲載作、2003(平成15)年10月「ペン電子文藝館」のため書下し初出。

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