今年の秋
十月は好季節であるが、毎年雨が多い。旅行しても、家にゐても、日を暮し心地のいゝのは十一月頃からである。今年の秋、私はいかにして過さうか。昭和三十三年十一月一日。私は歌舞伎座で挙行される芸術祭に列席するつもりで家を出て、その次手に、放送局に立寄ることにした。予約してゐた簡単な放送の録音を採って、お茶を飲んでゐると、お宅から電話がかゝつたとの知らせがあつた。世間の用事の乏しい私には外出先きへ自宅から電話のかゝる事なんか滅多にないので、珍しい事と思ひながら、受話器を手にして耳を注ぐと、「
「さうだなあ」私は、今日といふ今日、直ぐ帰郷の途に就いてもいゝが、二日の日曜、三日の祭日と二日つゞきの休日を
Aは、私の弟である。私が一家の長男で、Aは次男である。年齢に於て二歳の差があるだけである。人間として一しよに育つて来たやうなものだ。私の両親は十人もの子供を産んだので、その十人のうち八人は、今なほ生存してゐるのであるが、幼い時分に一しよに親しく成長したために、Aの肉体も精神行動をも最もよく知つてゐるやうである。私は早くから故郷を出たのだし、弟妹と往来することも、懇談することも、甚だ稀れであり、私に取つては、他人が他人である如く、兄弟も他人とさしたる相違がないやうに思はれてゐたのであるが、たゞ、Aとは、二歳だけの相違であるため一しよに育ち、小学校卒業時分まで、寝食を共にしてゐたので、おのづからAといふ人間をよく知ってゐるやうに思ふ。つまり人類のうちで、私が最もよく知つてゐる人間はAであると云つていゝやうだ。女性としては、無論、私は一人の妻だけによつて人間女性を知つてゐる筈であり、社会に伍して、いろいろな人間相を断片的に見てはゐるものの、純粋の人間をそのまゝに見たのは、Aに依つてであるやうに感ぜられた。私は自分の姿を彼に於て見ることがある。それはいやであり、好ましからざる事であるに関はらず、さうだからさうである。
老境を突破するまでに生き延びた八人の兄弟のうち、誰が最初に死ぬるかとかねて思つてゐたが、おれでなくつてAであつたか。Aは白内障に罹つて手術をしたが、その後は殆んど書物を読むに堪へないほどに視力が衰へてゐたさうである。胃腸も悪く、長い間普通食も食べられぬやうになつてゐたらしい。それでも、一時間もバスに乗つて岡山の学校へ国学を教へに行くこと数年に及んだと云はれてゐる。
父の葬式、母の葬式。私の妻も、この二つの葬式には立合つてゐるので、田舎の葬式振りは
「
私の故郷に親しみのない妻の望みで、多磨の墓地の片隅に、自家用のさゝやかな埋葬地を買つたのであるが、この世のいのちの絶えた残骸を、そこに埋めるまでの手続きの
ところで、先頃芸術院の総会に出席すると、或美術家が会員たる栄位を辞退したいと申出てゐるが、それを許可すべきか否かが総会の議題の一つとなってゐた。美術家にはをりをりこんな事を云ひ出す癖があるらしい。「止めたい人は止めさせたらいゝのではないか」と、私はいつも手軽に思つてゐたが、世間の秩序を守るためには、さう簡単には取極められないものらしい。或程度の引留め策が講ぜられた揚句、それでは「甚だ残念ではあるが」と、勿体をつけて、辞任許可となるのを例とするのである。「はじめから会員にならなければいゝではないか」と云つた人もあつた。その通りである。「会員になる時に、中途で辞任しませんといふ証文を一札入れさせることにしたらいかが」と云つた人もあつた。「中途で辞退して、自分は芸術院会員以上の人間になつたつもりなんだ。いつまでもあんな会員になつてるのは馬鹿だといふやうなものだ」と、隣席の人と私語してゐた人もあつた。まさかそれ程でもあるまい。はじめはこの名誉ある肩書を有難がつて拝受しても、何か身辺の事情、心境の変化があつて、辞退したくなることもあるのではないか。辞任の自由はあつて然るべきだと、私はかねて思つてゐた。死ぬ時、葬式の時、面倒だから、この栄誉ある装飾から脱却して置かうかと、私は詰らない空想をしてゐるのである。
「Aが死んだら、故郷の家とおれとの関係もちがふことになるのだから、処分法を考へねばなるまい」などと、Aの死は極つてゐることとして、彼死後の何かの話を妻と取りかはして、私は、殆んど何も入つてゐない鞄を提げて家を出た。今夜、私と一しよに出立する筈の、弟のIは、私よりも三時間後の夜汽車の寝台を辛うじて手に入れたさうであるが、かういふ旅行は一人一人の方がいゝのではあるまいか。私の寝室は鹿児島行特急のコンパートメントで、しかも、二人部屋に誰も乗つて来ないで、私独りで一室を占領してゐたのである。このまゝ鹿児島まで行つたらいゝのにと思つたりして、眠りづらい一夜を過した。
交通機関はますます進歩発達して、昨年、郷里の一端にまで汽車が通ふことになつた。バスも縦横に走つてゐる。私の幼少時代には、汽車までの距離が三里もあり、その間をヨタヨタの人力車が動いてゐるだけであつた。そん有り振れたことを今度事々しく思出したのは、学生時代、私の暑中休暇後の上京の時に、Aが私の荷物を持つて駅まで送つて来たことである。駅に預けつ放しにして置いた私の行李などを、Aが炎天下の三里の道を往復して、持ち帰つて来たことなどであつた。その時ラムネを一本飲んで来たと云つたことを覚えてゐる。春は物資が乏しかつたので、私が重い病気に罹つて、くだものを欲しがつた時に、二里を隔てた村に梨を買ひに行かされたのはAであつた。
私は夜明け前に岡山に着いて、そこから引返して、最近開通した汽車に乗り、バスに乗り移つて、郷里の停留所で下りると、
Aの病状について、H夫妻に訊くと、
「幽門閉塞症とかいふんですが、
「見舞に来る人に一々容体を話すんだから、厄介で
私は、いつものやうに、この家に帰ると眠くなつた。幼少の頃の私の勉強部屋であり、後には、父の常住の居間になつてゐた日当りのいゝ小ぢんまりした部屋が居心地がよくつて、私は帰郷のたびに、そこで気まゝに寝ころんで過すのを例としてゐたのだが、今度はそこでHが見舞客に応対することになつてゐるらしいので、私は自分独りの居所がなくなつた思ひをした。見舞客なんかには会ひたくないし、眠くもなつたので、二人の赤ん坊の寝てゐる座敷へ入つて、その側で毛布をかぶつて眠つた。赤ん坊の泣声が聞えても、それを、私は歌謡曲でも聞くやうな気持で耳にしながら、安らかに眠つた。
目が醒めた時分に、昨夜の遅い夜行車に乗つて来たIが到着した。赤穂留りの汽車で、乗換へまで一時間の余裕があつたから、赤穂見物をしたと云つて、名物の
山の家には、病室の側の部屋に、バスで私と一しよであつた女性が謹ましやかに坐つてゐた。何かの手助けをするつもりで、かういふ女性がをりをり来訪してゐるのださうだ。病室に入ると、Aの寝姿は冷静で、死の迫つてゐるらしい趣きは見えなかつた。Aの妻女は夜具の裾の方にゐて、時々足でも揉んでゐるらしかつた。Aは視力もないであらうし、私達の方を見ようともしなかつた。「誰にも知らせんつもりぢやつたのに」と、低い声で云つたのが、短い話の唯一の要点見たいであつた。私も、何を云つていゝか迷つて、つまりは何も云はないことにした。云はないための心残りはなかつた。
私とIは静かに病室を出ると、
実は、死んだ後では埋骨地なんかどうでもいゝのだが、生きてゐる今、風趣豊かなこの墓地に永遠に眠る事を空想することだけに一種の興味が感ぜられるのである。Aもそのうち此処の墓地の空いた所に埋められるのであらうが、私の遺骸の始末はどうなるか。
さつき接触したAは、意識は鮮明であつたが、私などの訪問について何の関心も持つてゐないやうであつた。「わざわざ来てくれなくつてもよかつた」と、衰へた頭に感じてゐたらしく、私の心に印象された。一しよに育つた人間に一生の別れを告げる時には、何等かの感傷的気持に浸ることがありさうに私は想像してゐたが、それは詩人や小説家の凡庸な
しかし、自分の生みの子や、孫娘に見守られて死ぬのは、狐独の死よりいくらか安らかさを覚えるだらうと、私のやうな境遇の者には感じられるが、それとともに、死後の子孫の生活を気にして、死ぬにも死に切れないと云ふ者もあつて、「あとは野となれ、山となれ」のさばさばした気持は、子孫のない者でなければ味へまい。
「こなひだ、山羊が突然死にました。お父さんが可愛がつてよく世話をしてゐたから、殉死ぢやないかと云つて居ります」
Hの妻は云つた。
「それよりもかういふ事がありました。こなひだ、岡山のカトリックの学校から、お年寄りの方が来て下すつて、洗礼を授けて下すつて、これで天国へ行けますと
それを聞いて私は、童話見たいな面白さを感じた。押付け洗礼にしても、死の悩みの
「お大師様のお伴をして極楽へお出んされ」と、私の父の死体を棺桶に収める時に、近所の婆さんが云つてゐたが、Aの死が見送られる時は、何と云はれるであらうか。
私が若しも、Aの葬式の揚に立つたとしたら、送別の辞として何と云ふべきか。死んだら最後、彼と我とは無縁の人である。死者は死者、生者は生者。親にしろ、兄弟にしろ、絶対無縁であるとすると、言ふべき事はないではないか。A自身がすでに自分の危篤状態を兄弔にも知らせるなと、側の者に云つてゐたらしい。しかし、死ぬ間際の人間の気持はどうだか。私はまだ経験しないから分らない。古来の聖人賢者愚者痴人が傍観的に観察して、何とかかとか、知つたか振りに云はれて来たが、これこそ究極の真相は分つてはゐない。私は断末魔の際に、伝統的に因習的に、南無阿弥陀仏を唱へるだらうか。エス・キリストに救ひを求むるだらうか。
「輸血すれば何日か持つだらう」とか、「長くつても今月一杯は六ケ敷からう」とか、何も分らない事が分らないなりに取り沙汰された。
「明日は天気がよささうだから魚釣に行かうかな」と、Iは突然思ひついたやうに云つた。彼は会社の勤めが忙しいので、一晩泊りで帰るつもりで、今朝大阪に着いた時、翌日の夜行車の寝台券を
「年齢のせゐで今は酔はなくなつてゐるから、釣魚は兎に角舟に乗つて見てもいゝ」と、Iとの同行を約した。
翌日の休日はよく晴れて風もなかつた。二人の外にRといふ、兄弟中での唯一の独身で不運で、終戦後はこの郷里の家に寄寓して乏しくくらしてゐる老人を連れて海へ出た。子を見る親に
舟に横たはつて、秋晴れの空を見てゐる方が、
翌日、私は、今生の別れに、も一度Aに会はうとした。病室を覗くと、Aは前日同様の態度を採つてゐた。訪問者を努力して見ようともしなかつた。意識は明瞭であるらしかつたが、どういふ事を考へてゐるかは推察もされなかつた。
私はまだ泊つてゐてもよかつたが、Aの死期は全然不明であるし、私がゐたつて、病人の
「遠路の所を、またお出で下さらなくつてもよろしい」と、Hは、近いうちに行はれる父の葬式を予定して云つた。私達も無論そのつもりであつた。
私はAの葬式には列しないにしても、自分が祖先から相続してゐるこのボロ家の処分のため、今後またやつて来なければなるまい。
私は、戦争前に帰郷して、父の最後を見守り、葬式にも列した。墓地のあたり、桜花
葬儀に列した知人からの知らせを、Iは持つて来て私に見せたが、それによると、先祖伝来の仏式でAの葬式が行はれた翌日、岡山のカトリックの女学校の講堂で、正式に追悼ミサ葬儀ミサが行はれたのださうだ。ヨゼフといふ永遠の尊い名前までつけられてゐる。その名前の上には十字架が掛けられてゐる。それよりも私が心を
洗礼の水まろらかにかほにおつ
かしらにそゝぐたふときろかも
押付け洗礼にしても、彼は何かしら有難い思ひをしたにちがひない。さうすると、私よりもAの方が仕合はせか。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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