「今井さだと云ふ女の居処は此方では分らんかい」と、正服巡査は狭い土間に立つて、小い手帖を見ながら訊いた。
長火鉢の前に坐つてゐた色の黒い大柄な主婦は、上り口へ出て畏まつて、「ちつとも存じませんですよ」と、真顔で答へた。
「隠すんぢやあるまいな」と、巡査は笑ひながら云つたが、強ひて訊糺さうともせず、直ぐに出て行つた。
「どうしたの、姉さん」と、長火鉢に寄かゝつて肥つた手を焙つてゐた若い女が斜に顔を上げて訊いた。
「今井さだつて、朝鮮へ行つた人ぢやないの」
「あゝさう!前借を踏倒して逃げたらしいんだよ。屹度また男の家に隠れてるんだらう。あの女もいゝ加減で見切をつけて、朝鮮へでも何処へでも行つたらいゝだらうにね。何時までもあんな男に生血を吸はれてちや末がどうなるんだらう」
「何故男なんかに騙されるんだらう。私なんか馬鹿々々しくて、どうしてもそんな気にやなれないよ」
「その方が無事でいゝさ。だけど、男に騙されてる間は、苦労しながらも面白いものらしいよ」
「さう? だつて騙したり騙されたりしてるのは詰らないぢやないの」
「そりやお前さんがまだその味を知らないからだよ」と、主婦は笑ひながら唆かすやうに云つた。
「だつて…………………」
若い女は取留めのない思ひに耽つてゐたが、やがて四時を指した時計を見ると立上つて、「長話をしちやつた」と呟いて帰仕度をした。
「ぢや、明日の十時頃にね。彼方では大変はずんでるんだから、お前さんの方で迷はないやうにね。極りがつかないと、仲に立つた私が迷惑するから」
主婦は門口に立つて見送つてゐたが、寒い風に嚔して、慌て家の中へ入つて、「寒い晩だ」と独言を云つた。そして、立膝で吸残しの巻煙草を吸つてゐるところへ、小女と番頭の松田とが前後して帰つて来た。獅子ツ鼻の小女は鼻の先に提灯をぶら下げてゐる。手を袖口に引込めて寒さうに突立つた。
「何て云ふ顔をしてるんだらう。」と、主婦は大きな目に微笑を含めて、「和泉町ではどんな返事をしてたい」
「あれで結構だつて。そして主婦によろしく云つて呉れつて」と、見掛けによらず、小女の返事は大人振つてゐた。
「さうかい。あの年齢ぢや二円五十銭なら沢山だよ。そしてお前手数料の事はよく云つといたかい」
「えゝ」
主婦は襷をかけて台所へ行きながら、「松田さん、鶴ちやんは本郷へ向けたら屹度気に入るだらうね、一寸意気だから」
「さうですね」と危むやうな返事をしながら、松田は新聞を見てゐた。
「どうだらう」と、主婦は重ねて訊いて、「此頃不思議にいゝ口があるのに、どれも甘く収まらなくつて厭になつてしまう」
「清ちやんはどうなりました。得心したんですか」
「あゝ。あの女は纏まりさうだよ。今来て帰つた所だが」
「あれは掘出物だからな。あれ位の玉は一寸珍しい。もう十円ぐらゐは高くつけても大丈夫だつたのに」
「だつてさう方外な事は云へないよ。龍ケ崎からも二三人仕入れに来てるんださうだけど、向うから乗出して来さうないゝ玉は見当らないね。明日見に来るさうだから、掃除町へも知らせるだけは知らせとかうと思ふけど」
「今夜でも私が行つて来ませう。龍ケ崎なんか年増の腕つこきでなくちや稼げやしないんだが」
「なあに、初心な者だつて、一年も立つと変つてしまうんだよ。あの女がこんなになつてと思ふやうに変つて来るよ」
主婦は小女を差図して、台所稼ぎをしてゐたが、短い冬の日は早くも暮れかゝつて、竈の火は薄暗い台所を温さうに照らした。今まで寂としてゐた二階に物音がして、やがて洋服を着た男が階子段を下りて来た。
「よくそんなに眠れるこつたね。目が流れるだらうよ」
「漸く疲れが癒つた」と、その男は欠伸しながら、紐釦を嵌めて、「僕はこれから二三軒廻つて来よう。行火を気をつけといてお呉れ、遅くなつても今夜は此処へ帰つて宿るから」
自転車に飛乗つて出て行つた、松田も自分の家へ帰つた、主婦は小女と差向ひで夕餐を済ましてから、「つた屋」と白く染出した紺暖簾を片付けて表の木戸を卸した。そして、火鉢に火を盛上げ、釣ランプを明るくして、その下で今朝から読む暇もなかつた都新聞を拾読みし出した。外では凍つた土にカラコロ下駄の音がしてゐる。
主婦が上野町の此処で口入業を始めてから、もう五年の月日が立つた。先の情夫の都築の後立で不馴れなこの商売を始めてから、厭だ厭だと思ひながら、何時か一人前の桂庵婆になつてしまつた。四十二と云へば、もう婆あと呼ばれても怒れもしない年齢である。親は無し子供は無し、一人立の婆さんでは心細くて、動もすれば行末が案じられてならなくなつた、呑むと搏つとで迷惑ばかり掛けられた都築と、去年の暮に手を切つてから、もう男には懲り懲りしたと口にも出し、腹でも思つてゐたが、心細さは一層激しくなつた。で、或日水月で易を見て貰ふと、「寅の歳の男なら一生の頼りになる」と云ふ事だつた。主婦は急に元気づいた。寅歳の男を知人の中から捜して見た。「お前さんは何歳の生れなの」と、矢鱈に尋ねなどした。寅歳と云へば今年四十五か三十三かだ。三十三の男では自分にはあまりに若過ぎる。若過ぎるのは構はないけれど、自分にはそんな若い男と浮気をするやうな運は尽きてゐる。それに歳を取つた男の方が心丈夫だ。色恋は捨てゝ手頼になる人でなくちや。………
さう極めて掛つて、主婦は四十五の男の店先に姿を見せるのを待構へてゐた。二月三月の間幾度も頼もしい辻占の仇となつて、待人は来なかつたが、五月の末、最早水月の易も忘れかけた頃、ふとその人に出くはした。妾の世話などして懇意になつた男が、或晩沢井と云ふ保険会社の勧誘員を連れて来て、主婦を相手に戯談口を利きながら酒を飲んだが、その折話の中に、
「僕ももう四十五だが」と、歎息するやうな声が沢井の口から出た。
「では貴下は寅ですね」と、主婦は口早に云つて目を張つた。
寅歳の沢井は都築よりも男前はよくなかつた。色は飽まで黒くて、唇が反つてゐる。でも人懐つこいやうなニコニコしてゐるのを、主婦は悦しく思つた。「水月の云つたのはこの人なんだ」と心に極めて、親切に待遇した。女房子のあると云ふのが頼もしくなかつたが、それも仕方がないと諦めて、折角の運を取逃がさないやうにつとめた。
其後沢井はこの界隈へ来る度に足休めに立寄るやうになつて、折々は酔倒れて宿込むことさへあつた。
「僕はこれで他人の為にや骨身を惜まん性分だから」と屡々自分で吹聴して、店の事にもいろいろ口添をしてやつた。
「私も何時までこんな商売をしてたつて浮ぶ瀬がない。小さくても待合を出したい」と、主婦が訴へると直ぐに引受けて、今年中には屹度出さしてやると誓つた。今は事業に失敗つて間のつなぎに保険の外交員なんかになつてゐれど、五百や千の金は少し奔走すれば工面出来ん事はない。これでも五六年前には何万といふ金を運転してたんだぜと、誠しやかに云つた。
「私もそのつもりで知合の旦那衆に頼んでるんだから、お前さんも力を添へてお呉れな」と、主婦は呉れ呉れも頼んだ。だが、その望みは何時になつたら達せられるのやら分らなかつた。月末の酒代だけでも満足には渡して呉れなかつた。
「今年ももう十一月だよ、待合の開業祝ひは何時のこつたらうね」、主婦は次第に沢井を冷かすやうになつた。真面目に言訳めいた口を利くのを鼻で笑つて、混つ返すやうになつた。そして頼んだ人の当にならぬのに落胆もしたが、それよりも冷かしたり混つ返したりして日を暮すのが面白かつた。「沢井さんが沢井さんが」と、出入の若い女達の前で惚気たりして、一人でいゝ機嫌になることもあつた。
先の情夫の都築が何処で聞きつけたのか、折々店先にうろうろして家の様子を窺ふこともあつて、主婦は気味悪がつて、二階に身を忍ばせたりしたが、それも初めの間だけで、次第に顔を見られても平気になつた。何か向うから云つたら、負けてはゐない、恥を掻せてやらうと強い決心をした。
「おれも以前は壮士の五人や十人は使つてたんだ。都築が愚図々々云へば、手下を呼んで来て袋叩きにしてやるぞ」と、沢井は泰然と構へてゐた。
新聞の「情婦殺し」を読終つて、主婦は長煙管を引寄せて、「沢井さんも来ないねえ」と、小女に向つて云つた。寒さに怖ぢたのか、毎晩一寸は顔出しする車坂のお妾さんの徳ちやんも今夜は来さうでない。
「誰れか来さうなものだがねえ」と、主婦は呟いて、「徳ちやんに借りたい者があるから、一寸彼処へ行つて来たいんだけど、お前が又居睡ばかりして不用心だね」
「一人でお留守番してる時は、私居睡なんかしないよ」と、小女は答へた。
「甘い事を云ふね。居睡と寝小便ぢやお前も何処へ御奉公に上げるん事も出来んから、性根を入れて悪い癖を止めなくちや駄目だよ。」
「私、他処の女中さんなんかになりたくないよ、詰らないから。お神さんも清ちやんなんかによくさう云つてるでせう」
「可笑な子だね、お前も、清ちやんのやうにお妾さんになるつもりなの。大望を持つてるんだね。」
主婦は小女の肌理の粗い黒い顔を見詰めて、思はず吹出しさうになつた。「私はお前の先々の事まで心配してるんだけど、心配する程でもなかつたね。お前にはちやんとえらい量見があるんだから」と冷かすやうに云つた。小女は冷かされてゐるとは知らず、澄した顔をしてゐたが、ふと裏口の物音に耳を留めて、「お神さん誰れか来てるやうだよ」と知らせた。
主婦も聞耳立てた。やがて、「開けろ開けろ」と二三度高い声がした。其調子が只の人らしくはないので、主婦は不審がりながら、「何方?」と戸の側へ行くと、「おれだ」と明瞭した声がした。
主婦は胸を騒がせながら、稍あつて、「誰だか知らんけれど、私の家に用事のある人ぢやないでせう」と落着いて云つた。
「何でもいゝ開けろ」
「……………」
「おれが入るんが悪けりや、お前一寸戸外へ出て呉れ。頼むことがあるんだ」その声は穏かだつた。
「私、お前さんに頼まれる理由はないんだからね」
「おれは言掛りをつけに来たんぢやないぜ。表から入ればいゝのを、それぢや悪いと思つて、遠慮して裏口へ来てるんだぜ。頼むから一寸顔を貸して呉れ」
「頼む頼むつて、お前さん。私も不自由ばかりしてるんだから、此方から頼みたいくらゐなんだよ」
「だつて、お前は商売もしてるし、世話をして呉れる男もあるんぢやないか。おれは今は宿無しだぜ。今日はお前に迷感を掛けに来たんぢやないから会つたつていゝだらう……此処でおれは慄へてるんだから、暖い茶の一杯ぐらゐ飲ましたつて罰は当るまいと思ふがな」
「私、そんな事をお前さんに聞かされる理由はないよ。私は女一人だよ。お前さんは足腰も丈夫な男ぢやないかね」
主婦は言葉強く云つて店へ戻つたが、打遣つて置くのも恐しくて、有合はせの銀貨を一円ばかり紙に包んで、それに沢井の持つて来た壜詰を一本小女に持たせて、表から廻つて、裏口に立つてゐる男に渡させた。男は大人しく帰つたらしい。
「何か云つてたかい」と、入つて来た小女に訊いた。
「お神さんによろしく云つて呉れつて。それから誰れか来てるかつて訊いてたよ」
「さうかい、そしてどんな風をしてたい」
「暗くつて分らなかつた。冷たい手をしてたよ」
主婦は其華奢な力業の出来ない手を見るやうだつた。四十近くもなつてゐながら、乞食のやうな真似をしてと卑しみながら、寒空に震へてゐるのを憐れにも思つた。馴染めの初めの若い意気な男振りがチラチラ心に浮んだ。強請か脅迫しに来るかと恐れてゐたのに、嘘にでも憐憫を乞はれて見ると、憎い気はしなかつた。
此頃は何処にゐて何をしてゐるのか、一度は会つて訊いて見たくてならなかつた。
小女が寝床へ入つて、鼾をかき出した時分、表の潜戸を開けて沢井が首を縮めて入つて来た。
「寒いぜ戸外は、家の中へ入ると、地獄から極楽へ来たやうだ」と、長火鉢の前に胡座を掻いて、微笑々々しながら、「おい何を考へてるんだい、一本つけやうぢやないか」
「どうも済みません」主婦は強ひて笑つて、銚子を銅壺につけて、海苔を炙りながら、「今夜都築が来たよ」と何気なく云つた。
「で、どうしたんだい」
「追払つてやつたさ、此方ぢやちやんと道をつけて別れてるんだから、今更文句を云はしやしないよ」
「未練臭い男だねえ」
沢井は立入つて訊かうとはしなかつたが、主婦はよかれ悪かれ、その男の話をもつとしたかつた。困らされた昔の事でも聞いて貰ひたかつた。で、屡々話を向けたが、相手が些とも乗つて来ないので、進んで何も云へなかつた。
「都築が愚図々々云つたつて、おれが付いてるんだから、大丈夫だよ。親船に乗つた気で安心してゐなさい」と、沢井は相手の心は解しないで、微酔のいゝ気持になつてゐた、が、主婦は不断のやうに打解けた口を利かなかつた。厚い唇の上反つた、声の濁つた沢井を物足らず思ひもした。
「この年末にはどうかして呉れなくちや困るよ」と、暫くして真面目で云つた。「私は笑つてばかりゐて日が送れるやうな結構な身分ぢやないんだからね、些とは力を添へてお呉れよ。今年も十日と二三日しかないだらう」と云ひながら、目顔に角を立てた。沢井は些しは極りが悪くなつて、
「僕も運が悪くつて、当が外れ通しだつたから、お前にも済まんことをしたよ。しかし、この年末には自分の身体を質に置いても、これまでの埋合せをするよ」と、大人しく謝まつた。それを見ると、主婦も流石に柔しくなつて、「私、何もお前さんに無理を云ふのぢやないよ。だけど、此頃些ともいゝ儲け口がないんだから」
「さうだね」沢井は杯を置いて、巻煙草をポツケツトから取出し、「清公はどうなつたんだい。甘く得心したのかい」と、声を低くして訊いた。
「あゝ、あの子は甘く行つたよ。本郷のお髯さんにも誰れかいゝのがあるといゝんだが、あの人は手取早く収まらんのでね」
「種ちやんならいゝぢやないか、向うでは気があるらしいから」
「だつて、旦那持だもの。私もさう思つてるけど今の間は仕方がないさ」
「其処はお前の腕一つだね。どうせあの旦那は永続きはしさうでないから、当分此処でゞも本郷のに会はせといて、その中今のと手を切らすことにするさ。口実は幾らもあらあね、種ちやんだつて、両方から絞つた方がいゝだらう。第一あれだけのいゝ女をもつと利用しないのは嘘だよ。あの女ならまだ生娘で誤魔化せるんだから。」
「そりや当人さへ承知すればだけどね。私はさうさう性の悪い事は出来ないよ」
「だが、この商売をしてる間は仕方がないさ。地道に法律通りに、雇人の周旋だけしとつたつて、世間で桂庵を堅気な人間扱ひして呉れりやしないぜ」
「そんな事今更教はらなくつてもさ」と、主婦は嘲笑つて、「勧誘員だつて、人様に奉られはしないよ」
「桂庵婆あと一緒にされちや溜らない」
主婦は長煙管で打つ真似をした。
翌朝、八時前に沢井は出て行つた。松田は店先の火鉢に寄つて、紙切に書いた今日の雇人口を見ながら主婦と打合せをした。朝の間に、小い行李を担いだ田舎出の書生と、風呂敷包を抱いた肥つた婆さんとが口を捜しに来た。心当りの所を知らせて、相手の望みを訊きなどしてゐる中、襟巻で頤まで包んだ五十格好の男がノツソリ入つて来た。主婦は目に媚を浮べながら、恭やしく二階へ案内した。二階には火鉢やら煙草盆やら、茶道具まで用意してあつた。
「もう参りますでせうよ。こんな所へ度々お出でを願つて本当に申訳が御座いません。何しろ生れ付が内気なのに、両親の側にばかりゐましたのですから、覚悟はしてゐても、矢張極りを悪がつて困るんで御座いますよ」と、主婦は側に坐つてお愛相をしてゐた。
「しかし、当人も得心したんだらうね、後で苦情を云はれては困るよ」と相手は気六ケ敷顔をした。
「後で苦情なんか云はせは致しませんです。私が保証に立つぐらゐですから」と、主婦は力を入れて答へた。そして育ちのいゝ事や当人の気立てのいゝ事を繰返へして話した。男は耳を澄まして聞いてゐたが、それよりも、その女の無邪気らしい顔付に心を動かしてゐた。
「極り次第、約束の金は今日払ふ事にするが、お神さんの手数料は幾何かね」
「中々お安くないんで御座いますよ」と、主婦はわざと笑ひながら、「仲間の極めが、一円について二十五銭となつてるので御座いますが」と言難さうに云つた。
妾の手当四十円なら手数料が十円だと、互ひに腹の中で数へた。女の方からも取れる上に、あの位の女なら、特別のお礼も貰つていゝのだと、主婦は窃かに胸算用をしてゐた。このお清とあのお鶴と、それに龍ケ崎の酌婦の口とは、年末の引当てにしてゐるので一つ外してもならぬと、先日から気骨を折つてゐた。
「私共も堅い口ばかりではお飯が頂けませんですから」と、弁護するやうに云つた。
やがて約束の十時が疾くに過ぎて、十一時近くなつたが、お清は来なかつた。主婦は「お粧飾をしてるんだらう」と云ひながら、次第に気が焦立つた。で、急いで松田に命じてお清を迎へにやつた。昼の御馳走にと、小女に言付けて、二人分の鶏肉を買つて、酒をも取つて来させた。だが、待つ甲斐もなく、松田は独で息急きながら帰つて来た。そしてお清は二時間も前に此方へ来た筈だと母親の言葉を伝へた。
「どうしたんだらう」と、主婦は目を丸くして、松田に様子を訊いたが、少しも要領を得なかつた。
二階の男は不快な色を見せたが、やがて、苦笑して立上つて、「あんな顔をしてゐても、外に情夫でもあるんかも知れん、何もそんな六ケ敷女に係合をつける必要はないよ」と云つて、主婦が手を摩つて申訳をするのも聞入れないで、プイと戸外へ出た。
「気の短かい人だよ」と、主婦は店先に立つて、その男の急いで歩くのを見送りながら眉を蹙めてゐたが、やがて、満心の憎みをお清に向けた。身体中掻きむしつて、喰ついてやりたい位に思つた。「こんなに骨を折らせた上に恥を掻かしやがつて」と、罵つて、「今度来たら、うんと油を取つてやらなくちや」と云つてゐたが、お清はついにその日一日顔を見せなかつた。何れ二三日中にお詫に上りますと母親が使を寄越したばかりだつた。
主婦は怒りの鎮まると共に萎れた。あんなに口数を利かせて手足を使つて、それが無駄になつたかと思ふと情なかつた。二つ三つ当てにしてゐるいゝ口が、初端からかう外れては如何にも縁喜が悪い。こんな様子だと年末をどうするだらうと案じられた。
糞忌々しい、何処かへ遊びに行かうかと思つてゐる所へ仲のよい車坂のお徳が遊びに来た。
「これから蒲焼でも食べに行かうぢやないか」と、いきなり元気づいて云つた。
「どうしたの、何かいゝ事があつて?」
「あゝ、あるんだよ。今夜は蒲焼でお酒でも飲んで、私の惚気を聞かせやうかい、馴染甲斐に聞いて呉れるだらう」
「御馳走になれゝば、幾らでも聞いて上げるよ。沢井さんのこと?」
「うゝん、あんな人のこつちやないさ、私もうあの人は厭になつたよ」
主婦は周囲憚からず、つけつけ云つた。そして小女一人残して、不審がるお徳と連立つて池の端の鰻屋へ行つた。銚子一本一人で飲干しながら、都築と仲のよかつた昔を面白さうに話した。他人のお世話や慾得で出来た仲ぢやないんだからねえと、浮々した調子で云つて、「思ひ出すよ思ひ出すよ」と繰返した。
「どうせ苦労するほどなら、あの人と苦労した方がどの位増しだか分りやしない」
「だけど、姉さんも随分勝手だわね、あんなに都築さんの悪口を云つてた癖に」と、お徳は相手の心根を怪んで、「若い時、うつかりヅボラな男に掛合ふと、歳を取つて後悔するから、よく気をつけなさいつて、私や種ちやんに意見したことがあつたわね」
「それは今だつて、可愛いお前さんなんかには意見するよ。私の所へ口を見付けに来る若い女には、男に騙されて来るのが多いんだもの。そんな女の弱味につけ込んで、私達は生活を立てゝ行くんだから、厭な商売さね」
主婦はさう云ひながら、口先の甘い都築の意気な姿が目の前にちらついてならなかつた。で、家へ帰つてからも、お徳や松田を前に置いて、可愛い男に忍び会ふ夜の悦しさを語つた。そして松田が龍ケ崎行の酌婦の打合せをするのに、さして耳を留めもしなかつた。
「お神さんは今夜どうかしてるよ」と、皆なが呆れた。
翌朝主婦は不断の様に早くから起きて働いてゐたが、都築が再び来るだらうと気遣はれもし待たれもした。そしてせめてお鶴だけは本郷の人にでも収めたい者だがと、松田に手紙を書かせて呼寄せることゝした。次手に沢井宛の手紙をも書かせて、四五日内に、たとへ五円か十円でもいから、是非工面して持つて来て呉れと頼んだ。
「いくら沢井さんだつて、それんばかり、黙つてたつて持つて来て呉れるでせう、どうせ頼むんならもつとどつさり云つてやつた方がいゝでせう」と、松田は歯掻がつて注意した。
「だけど、今の場合だからねえ」
主婦は今の場合、僅かな金でも、確実に手に持つてゐなくては心細くてならなかつた。
(了)