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口入屋

「今井さだと云ふ女の居処(ゐどころ)此方(こちら)では分らんかい」と、正服(せいふく)巡査は狭い土間に立つて、(ちひさ)い手帖を見ながら訊いた。

 長火鉢の前に坐つてゐた色の黒い大柄な主婦(かみさん)は、(あが)り口へ出て(かしこ)まつて、「ちつとも存じませんですよ」と、真顔で答へた。

「隠すんぢやあるまいな」と、巡査は笑ひながら云つたが、強ひて訊糺(きゝたゞ)さうともせず、直ぐに出て行つた。

「どうしたの、姉さん」と、長火鉢に寄かゝつて肥つた手を(あぶ)つてゐた若い女が(なゝめ)に顔を上げて訊いた。

「今井さだつて、朝鮮へ行つた人ぢやないの」

「あゝさう!前借(ぜんしやく)踏倒(ふみたふ)して逃げたらしいんだよ。屹度(きつと)また男の(うち)に隠れてるんだらう。あの()もいゝ加減で見切(みきり)をつけて、朝鮮へでも何処へでも行つたらいゝだらうにね。何時(いつ)までもあんな男に生血(いきち)を吸はれてちや(すゑ)がどうなるんだらう」

「何故男なんかに(だま)されるんだらう。(わたし)なんか馬鹿々々しくて、どうしてもそんな気にやなれないよ」

「その方が無事でいゝさ。だけど、男に騙されてる(うち)は、苦労しながらも面白いものらしいよ」

「さう? だつて騙したり騙されたりしてるのは(つま)らないぢやないの」

「そりやお前さんがまだその味を知らないからだよ」と、主婦(かみさん)は笑ひながら(そゝの)かすやうに云つた。

「だつて…………………」

 若い女は取留めのない思ひに(ふけ)つてゐたが、やがて四時を指した時計を見ると立上つて、「長話をしちやつた」と(つぶや)いて帰仕度(かへりじたく)をした。

「ぢや、明日の十時頃にね。彼方(あちら)では大変はずんでるんだから、お前さんの方で迷はないやうにね。(きま)りがつかないと、仲に立つた(わたし)が迷惑するから」

 主婦(かみさん)は門口に立つて見送つてゐたが、寒い風に(くさめ)して、(あわて)(うち)の中へ入つて、「寒い晩だ」と独言(ひとりごと)を云つた。そして、立膝(たてひざ)で吸残しの巻煙草を吸つてゐるところへ、小女(ちび)と番頭の松田とが前後して帰つて来た。獅子ツ鼻の小女(ちび)は鼻の先に提灯(てうちん)をぶら下げてゐる。手を袖口に引込めて寒さうに突立つた。

「何て云ふ顔をしてるんだらう。」と、主婦(かみさん)は大きな目に微笑(ゑみ)を含めて、「和泉町ではどんな返事をしてたい」

「あれで結構だつて。そして主婦(おかみさん)によろしく云つて呉れつて」と、見掛けによらず、小女(ちび)の返事は大人()つてゐた。

「さうかい。あの年齢(とし)ぢや二円五十銭なら沢山だよ。そしてお前手数料の事はよく云つといたかい」

「えゝ」

 主婦(かみさん)(たすき)をかけて台所へ行きながら、「松田さん、鶴ちやんは本郷へ向けたら屹度(きつと)気に()るだらうね、一寸(ちよつと)意気だから」

「さうですね」と(あやぶ)むやうな返事をしながら、松田は新聞を見てゐた。

「どうだらう」と、主婦(かみさん)は重ねて訊いて、「此頃不思議にいゝ口があるのに、どれも(うま)く収まらなくつて厭になつてしまう」

(きよ)ちやんはどうなりました。得心(とくしん)したんですか」

「あゝ。あの()(まと)まりさうだよ。今来て帰つた所だが」

「あれは掘出物(ほりだしもの)だからな。あれ位の玉は一寸(ちよつと)珍しい。もう十円ぐらゐは高くつけても大丈夫だつたのに」

「だつてさう方外な事は云へないよ。龍ケ(りうがさき)からも二三人仕入れに来てるんださうだけど、向うから乗出して来さうないゝ玉は見当らないね。明日見に来るさうだから、掃除町(さうぢまち)へも知らせるだけは知らせとかうと思ふけど」

「今夜でも(わたし)が行つて来ませう。龍ケ崎なんか年増の腕つこきでなくちや稼げやしないんだが」

「なあに、初心(うぶ)な者だつて、一年も立つと変つてしまうんだよ。あの()がこんなになつてと思ふやうに変つて来るよ」

 主婦(かみさん)小女(ちび)差図(さしづ)して、台所稼ぎをしてゐたが、短い冬の日は早くも暮れかゝつて、(かまど)の火は薄暗い台所を(あたたか)さうに照らした。今まで(しん)としてゐた二階に物音がして、やがて洋服を着た男が階子段を下りて来た。

「よくそんなに眠れるこつたね。目が流れるだらうよ」

「漸く疲れが癒つた」と、その男は欠伸(あくび)しながら、紐釦(ボタン)を嵌めて、「僕はこれから二三軒廻つて来よう。行火(あんくわ)を気をつけといてお呉れ、遅くなつても今夜は此処へ帰つて宿(とま)るから」

 自転車に飛乗つて出て行つた、松田も自分の(うち)へ帰つた、主婦(かみさん)小女(ちび)と差向ひで夕餐(ゆふめし)を済ましてから、「つた屋」と白く染出した紺暖簾(こんのれん)を片付けて表の木戸を(おろ)した。そして、火鉢に火を盛上げ、釣ランプを明るくして、その下で今朝から読む暇もなかつた都新聞を(ひろひ)読みし出した。外では凍つた土にカラコロ下駄の音がしてゐる。

 

 主婦(かみさん)上野町(うへのまち)の此処で口入業(くちいれげふ)を始めてから、もう五年の月日が立つた。(せん)情夫(ぢやうふ)都築(つゞき)後立(うしろだて)で不馴れなこの商売を始めてから、厭だ厭だと思ひながら、何時(いつ)か一人前の桂庵婆(けいあんばゞあ)になつてしまつた。四十二と云へば、もう婆あと呼ばれても怒れもしない年齢(とし)である。親は無し子供は無し、一人立(ひとりだち)の婆さんでは心細くて、(やゝ)もすれば行末(ゆくすゑ)が案じられてならなくなつた、呑むと()つとで迷惑ばかり掛けられた都築と、去年の暮に手を切つてから、もう男には懲り懲りしたと口にも出し、腹でも思つてゐたが、心細さは一層激しくなつた。で、或日水月(すゐげつ)(えき)を見て貰ふと、「(とら)の歳の男なら一生の頼りになる」と云ふ事だつた。主婦(かみさん)は急に元気づいた。寅歳の男を知人の中から捜して見た。「お前さんは何歳の生れなの」と、矢鱈(やたら)に尋ねなどした。寅歳と云へば今年四十五か三十三かだ。三十三の男では自分にはあまりに若過ぎる。若過ぎるのは構はないけれど、自分にはそんな若い男と浮気をするやうな運は尽きてゐる。それに歳を取つた男の方が心丈夫だ。色恋は捨てゝ手頼(たより)になる人でなくちや。………

 さう極めて(かゝ)つて、主婦(かみさん)は四十五の男の店先に姿を見せるのを待構へてゐた。二月三月(ふたつきみつき)の間幾度も頼もしい辻占(つじうら)(あだ)となつて、待人(まちびと)は来なかつたが、五月の末、最早(もはや)水月の易も忘れかけた頃、ふとその人に出くはした。(めかけ)の世話などして懇意になつた男が、或晩沢井と云ふ保険会社の勧誘員を連れて来て、主婦(かみさん)を相手に戯談口(じやうだんぐち)を利きながら酒を飲んだが、その折話の中に、

「僕ももう四十五だが」と、歎息するやうな声が沢井の口から出た。

「では貴下は寅ですね」と、主婦(かみさん)は口早に云つて目を張つた。

 寅歳の沢井は都築よりも男前はよくなかつた。色は(あく)まで黒くて、唇が()つてゐる。でも人懐(ひとな)つこいやうなニコニコしてゐるのを、主婦(かみさん)(うれ)しく思つた。「水月の云つたのはこの人なんだ」と心に()めて、親切に待遇(もてな)した。女房子(にやうぼこ)のあると云ふのが頼もしくなかつたが、それも仕方がないと諦めて、折角の運を取逃がさないやうにつとめた。

 其後沢井はこの界隈(かいわい)へ来る(たび)に足休めに立寄るやうになつて、折々は酔倒れて宿込(とまりこ)むことさへあつた。

「僕はこれで他人(ひと)の為にや骨身を惜まん性分だから」と屡々(しばしば)自分で吹聴(ふいちやう)して、店の事にもいろいろ口添(くちぞへ)をしてやつた。

「私も何時までこんな商売をしてたつて浮ぶ瀬がない。小さくても待合を出したい」と、主婦(かみさん)が訴へると直ぐに引受けて、今年中には屹度出さしてやると誓つた。今は事業に失敗(しくじ)つて(あひ)のつなぎに保険の外交員なんかになつてゐれど、五百や千の金は少し奔走すれば工面出来ん事はない。これでも五六年前には何万といふ金を運転してたんだぜと、誠しやかに云つた。

「私もそのつもりで知合の旦那衆(だんなしゆ)に頼んでるんだから、お前さんも力を添へてお呉れな」と、主婦(かみさん)は呉れ呉れも頼んだ。だが、その望みは何時(いつ)になつたら達せられるのやら分らなかつた。月末の酒代だけでも満足には渡して呉れなかつた。

「今年ももう十一月だよ、待合の開業祝ひは何時のこつたらうね」、主婦(かみさん)は次第に沢井を(ひや)かすやうになつた。真面目に言訳(いひわけ)めいた口を利くのを鼻で笑つて、(まぜ)つ返すやうになつた。そして頼んだ人の(あて)にならぬのに落胆(がつかり)もしたが、それよりも冷かしたり混つ返したりして日を暮すのが面白かつた。「沢井さんが沢井さんが」と、出入(でいり)の若い女達の前で惚気(のろけ)たりして、一人でいゝ機嫌になることもあつた。

 先の情夫の都築が何処で聞きつけたのか、折々店先にうろうろして(うち)の様子を窺ふこともあつて、主婦(かみさん)は気味悪がつて、二階に身を忍ばせたりしたが、それも初めの(うち)だけで、次第に顔を見られても平気になつた。何か向うから云つたら、負けてはゐない、恥を(かゝ)せてやらうと強い決心をした。

「おれも以前(もと)は壮士の五人や十人は使つてたんだ。都築が愚図々々云へば、手下(てした)を呼んで来て袋叩きにしてやるぞ」と、沢井は泰然と構へてゐた。

 新聞の「情婦殺し」を読終つて、主婦(かみさん)は長煙管を引寄せて、「沢井さんも来ないねえ」と、小女(ちび)に向つて云つた。寒さに()ぢたのか、毎晩一寸(ちよつと)は顔出しする車坂のお妾さんの徳ちやんも今夜は来さうでない。

「誰れか来さうなものだがねえ」と、主婦(かみさん)は呟いて、「徳ちやんに借りたい者があるから、一寸彼処(あすこ)へ行つて来たいんだけど、お前が又居睡(ゐねむり)ばかりして不用心(ぶようじん)だね」

「一人でお留守番してる時は、(わたし)居睡なんかしないよ」と、小女(ちび)は答へた。

(うま)い事を云ふね。居睡と寝小便ぢやお前も何処へ御奉公に上げるん事も出来んから、性根(しやうね)を入れて悪い癖を()めなくちや駄目だよ。」

(わたし)他処(よそ)の女中さんなんかになりたくないよ、詰らないから。お(かみ)さんも(きよ)ちやんなんかによくさう云つてるでせう」

可笑(をかし)な子だね、お前も、清ちやんのやうにお妾さんになるつもりなの。大望(たいもう)を持つてるんだね。」

 主婦(かみさん)小女(ちび)肌理(きめ)(あら)い黒い顔を見詰めて、思はず吹出しさうになつた。「(わたし)はお前の先々の事まで心配してるんだけど、心配する程でもなかつたね。お前にはちやんとえらい量見(りやうけん)があるんだから」と冷かすやうに云つた。小女(ちび)は冷かされてゐるとは知らず、澄した顔をしてゐたが、ふと裏口の物音に耳を留めて、「お神さん誰れか来てるやうだよ」と知らせた。

 主婦(かみさん)も聞耳立てた。やがて、「開けろ開けろ」と二三度高い声がした。(その)調子が只の人らしくはないので、主婦(かみさん)は不審がりながら、「何方(どなた)?」と戸の(そば)へ行くと、「おれだ」と明瞭(きつぱり)した声がした。

 主婦(かみさん)は胸を騒がせながら、(やゝ)あつて、「誰だか知らんけれど、(わたし)(うち)に用事のある人ぢやないでせう」と落着いて云つた。

「何でもいゝ開けろ」

「……………」

「おれが入るんが悪けりや、お前一寸戸外(そと)へ出て呉れ。頼むことがあるんだ」その声は穏かだつた。

「私、お前さんに頼まれる理由(わけ)はないんだからね」

「おれは言掛(いひがゝ)りをつけに来たんぢやないぜ。表から入ればいゝのを、それぢや悪いと思つて、遠慮して裏口へ来てるんだぜ。頼むから一寸顔を貸して呉れ」

「頼む頼むつて、お前さん。(わたし)も不自由ばかりしてるんだから、此方(こちら)から頼みたいくらゐなんだよ」

「だつて、お前は商売もしてるし、世話をして呉れる男もあるんぢやないか。おれは今は宿無しだぜ。今日はお前に迷感を掛けに来たんぢやないから会つたつていゝだらう……此処でおれは(ふる)へてるんだから、(あつたか)い茶の一杯ぐらゐ飲ましたつて(ばち)は当るまいと思ふがな」

(わたし)、そんな事をお前さんに聞かされる理由(わけ)はないよ。私は女一人だよ。お前さんは足腰も丈夫な男ぢやないかね」

 主婦(かみさん)は言葉強く云つて店へ戻つたが、打遣(うつちや)つて置くのも恐しくて、有合はせの銀貨を一円ばかり紙に包んで、それに沢井の持つて来た壜詰を一本小女(ちび)に持たせて、表から廻つて、裏口に立つてゐる男に渡させた。男は大人(おとな)しく帰つたらしい。

「何か云つてたかい」と、入つて来た小女(ちび)に訊いた。

「お神さんによろしく云つて呉れつて。それから誰れか来てるかつて訊いてたよ」

「さうかい、そしてどんな(ふう)をしてたい」

「暗くつて分らなかつた。冷たい手をしてたよ」

 主婦(かみさん)(その)華奢(きやしや)力業(ちからわざ)の出来ない手を見るやうだつた。四十近くもなつてゐながら、乞食のやうな真似をしてと卑しみながら、寒空(さむぞら)に震へてゐるのを(あは)れにも思つた。馴染(なれそ)めの初めの若い意気な男振りがチラチラ心に浮んだ。強請(ゆすり)脅迫(おどし)しに来るかと恐れてゐたのに、嘘にでも憐憫(あはれ)を乞はれて見ると、憎い気はしなかつた。

 此頃は何処にゐて何をしてゐるのか、一度は会つて訊いて見たくてならなかつた。

 

 小女(ちび)寝床(とこ)へ入つて、(いびき)をかき出した時分、表の潜戸(くゞり)を開けて沢井が首を(すく)めて入つて来た。

「寒いぜ戸外(そと)は、(うち)の中へ入ると、地獄から極楽へ来たやうだ」と、長火鉢の前に胡座(あぐら)を掻いて、微笑々々(にこにこ)しながら、「おい何を考へてるんだい、一本つけやうぢやないか」

「どうも済みません」主婦(かみさん)は強ひて笑つて、銚子(てうし)銅壺(どうこ)につけて、海苔(のり)(あぶ)りながら、「今夜都築(つゞき)が来たよ」と何気(なにげ)なく云つた。

「で、どうしたんだい」

追払(おつぱら)つてやつたさ、此方(こちら)ぢやちやんと道をつけて別れてるんだから、今更文句を云はしやしないよ」

「未練臭い男だねえ」

 沢井は立入つて訊かうとはしなかつたが、主婦(かみさん)はよかれ(あし)かれ、その男の話をもつとしたかつた。困らされた昔の事でも聞いて貰ひたかつた。で、屡々(しばしば)話を向けたが、相手が(ちつ)とも乗つて来ないので、進んで何も云へなかつた。

「都築が愚図々々云つたつて、おれが付いてるんだから、大丈夫だよ。親船に乗つた気で安心してゐなさい」と、沢井は相手の心は解しないで、微酔(ほろよひ)のいゝ気持になつてゐた、が、主婦(かみさん)は不断のやうに打解けた口を利かなかつた。厚い唇の上反(うはそ)つた、声の濁つた沢井を物足らず思ひもした。

「この年末(くれ)にはどうかして呉れなくちや困るよ」と、暫くして真面目で云つた。「(わたし)は笑つてばかりゐて日が送れるやうな結構な身分ぢやないんだからね、(ちつ)とは力を添へてお呉れよ。今年も十日と二三日しかないだらう」と云ひながら、目顔に(かど)を立てた。沢井は(すこ)しは極りが悪くなつて、

「僕も運が悪くつて、(あて)(はづ)(どほ)しだつたから、お前にも済まんことをしたよ。しかし、この年末(くれ)には自分の身体(からだ)を質に置いても、これまでの埋合(うめあは)せをするよ」と、大人しく謝まつた。それを見ると、主婦(かみさん)流石(さすが)(やさ)しくなつて、「(わたし)、何もお前さんに無理を云ふのぢやないよ。だけど、此頃(ちつ)ともいゝ儲け口がないんだから」

「さうだね」沢井は杯を置いて、巻煙草をポツケツトから取出し、「清公(きよこう)はどうなつたんだい。(うま)く得心したのかい」と、声を低くして訊いた。

「あゝ、あの子は(うま)く行つたよ。本郷のお(ひげ)さんにも誰れかいゝのがあるといゝんだが、あの人は手取(てつとり)早く収まらんのでね」

「種ちやんならいゝぢやないか、向うでは気があるらしいから」

「だつて、旦那持だもの。(わたし)もさう思つてるけど今の(うち)は仕方がないさ」

其処(そこ)はお前の腕一つだね。どうせあの旦那は永続きはしさうでないから、当分此処でゞも本郷のに会はせといて、その(うち)今のと手を切らすことにするさ。口実は幾らもあらあね、種ちやんだつて、両方から絞つた方がいゝだらう。第一あれだけのいゝ女をもつと利用しないのは嘘だよ。あの()ならまだ生娘(きむすめ)で誤魔化せるんだから。」

「そりや当人さへ承知すればだけどね。私はさうさう(たち)の悪い事は出来ないよ」

「だが、この商売をしてる(うち)は仕方がないさ。地道に法律通りに、雇人(やとひにん)の周旋だけしとつたつて、世間で桂庵(けいあん)を堅気な人間扱ひして呉れりやしないぜ」

「そんな事今更教はらなくつてもさ」と、主婦(かみさん)嘲笑(あざわら)つて、「勧誘員だつて、人様に(たてまつ)られはしないよ」

「桂庵婆あと一緒にされちや溜らない」

 主婦(かみさん)長煙管(ながぎせる)()つ真似をした。

 

 翌朝、八時前に沢井は出て行つた。松田は店先の火鉢に寄つて、紙切(かみきれ)に書いた今日の雇人口(やとひにんぐち)を見ながら主婦(かみさん)と打合せをした。朝の(うち)に、(ちひさ)行李(かうり)を担いだ田舎出の書生と、風呂敷包を抱いた肥つた婆さんとが口を捜しに来た。心当りの所を知らせて、相手の望みを()きなどしてゐる(うち)、襟巻で(あぎと)まで包んだ五十格好(がつかう)の男がノツソリ入つて来た。主婦(かみさん)は目に(こび)を浮べながら、(うやう)やしく二階へ案内した。二階には火鉢やら煙草盆やら、茶道具まで用意してあつた。

「もう参りますでせうよ。こんな所へ度々(たびたび)お出でを願つて本当に申訳が御座いません。何しろ生れ(つき)が内気なのに、両親(ふたおや)(そば)にばかりゐましたのですから、覚悟はしてゐても、矢張(やつぱり)(きま)りを悪がつて困るんで御座いますよ」と、主婦(かみさん)は側に坐つてお愛相(あいそ)をしてゐた。

「しかし、当人も得心したんだらうね、(あと)で苦情を云はれては困るよ」と相手は気六ケ(きむつかしい)顔をした。

「後で苦情なんか云はせは致しませんです。(わたし)が保証に立つぐらゐですから」と、主婦(かみさん)は力を入れて答へた。そして育ちのいゝ事や当人の気立てのいゝ事を繰返へして話した。男は耳を澄まして聞いてゐたが、それよりも、その女の無邪気(うぶ)らしい顔付に心を動かしてゐた。

(きま)り次第、約束の金は今日払ふ事にするが、お神さんの手数料は幾何(いくら)かね」

「中々お安くないんで御座いますよ」と、主婦(かみさん)はわざと笑ひながら、「仲間の()めが、一円について二十五銭となつてるので御座いますが」と言難(いひにく)さうに云つた。

 (めかけ)の手当四十円なら手数料が十円だと、互ひに腹の中で数へた。女の方からも取れる上に、あの位の()なら、特別のお礼も貰つていゝのだと、主婦(かみさん)(ひそ)かに胸算用(むなさんよう)をしてゐた。このお(きよ)とあのお鶴と、それに龍ケ崎の酌婦(しやくふ)の口とは、年末(くれ)引当(ひきあ)てにしてゐるので一つ(はず)してもならぬと、先日(こなひだ)から気骨(きぼね)を折つてゐた。

「私共も堅い口ばかりではお(まんま)が頂けませんですから」と、弁護するやうに云つた。

 やがて約束の十時が()くに過ぎて、十一時近くなつたが、お清は来なかつた。主婦(かみさん)は「お粧飾(めかし)をしてるんだらう」と云ひながら、次第に気が焦立(いらだ)つた。で、急いで松田に命じてお清を迎へにやつた。昼の御馳走にと、小女(ちび)に言付けて、二人分の鶏肉(とり)を買つて、酒をも取つて来させた。だが、待つ甲斐もなく、松田は(ひとり)で息()きながら帰つて来た。そしてお清は二時間も前に此方(こちら)へ来た筈だと母親の言葉を伝へた。

「どうしたんだらう」と、主婦(かみさん)は目を丸くして、松田に様子を訊いたが、少しも要領を得なかつた。

 二階の男は不快な色を見せたが、やがて、苦笑して立上つて、「あんな顔をしてゐても、(ほか)情夫(をとこ)でもあるんかも知れん、何もそんな六ケ敷女(むつかしいをんな)係合(かゝりあひ)をつける必要はないよ」と云つて、主婦(かみさん)が手を()つて申訳をするのも聞入れないで、プイと戸外(そと)へ出た。

「気の短かい人だよ」と、主婦(かみさん)は店先に立つて、その男の急いで歩くのを見送りながら眉を(しか)めてゐたが、やがて、満心の憎みをお清に向けた。身体中掻きむしつて、(くひ)ついてやりたい位に思つた。「こんなに骨を折らせた上に恥を掻かしやがつて」と、(のゝし)つて、「今度来たら、うんと油を取つてやらなくちや」と云つてゐたが、お清はついにその日一日顔を見せなかつた。(いづ)れ二三日中にお詫に(あが)りますと母親が使を寄越したばかりだつた。

 主婦(かみさん)は怒りの鎮まると共に(しを)れた。あんなに口数を利かせて手足を使つて、それが無駄になつたかと思ふと情なかつた。二つ三つ当てにしてゐるいゝ口が、初端(しよつぱな)からかう(はづ)れては如何(いか)にも縁喜(えんぎ)が悪い。こんな様子だと年末(くれ)をどうするだらうと案じられた。

 糞忌々(くそいまいま)しい、何処かへ遊びに行かうかと思つてゐる所へ仲のよい車坂のお徳が遊びに来た。

「これから蒲焼(かばやき)でも食べに行かうぢやないか」と、いきなり元気づいて云つた。

「どうしたの、何かいゝ事があつて?」

「あゝ、あるんだよ。今夜は蒲焼でお酒でも飲んで、(わたし)惚気(のろけ)を聞かせやうかい、馴染甲斐(なじみがひ)に聞いて呉れるだらう」

「御馳走になれゝば、幾らでも聞いて上げるよ。沢井さんのこと?」

「うゝん、あんな人のこつちやないさ、(わたし)もうあの人は厭になつたよ」

 主婦(かみさん)周囲(あたり)憚からず、つけつけ云つた。そして小女(ちび)一人残して、不審がるお徳と連立つて池の(はた)の鰻屋へ行つた。銚子一本一人で飲干(のみほ)しながら、都築と仲のよかつた昔を面白さうに話した。他人(ひと)のお世話や慾得(よくとく)で出来た仲ぢやないんだからねえと、浮々(うきうき)した調子で云つて、「思ひ出すよ思ひ出すよ」と繰返した。

「どうせ苦労するほどなら、あの人と苦労した方がどの位増しだか分りやしない」

「だけど、姉さんも随分勝手だわね、あんなに都築さんの悪口を云つてた癖に」と、お徳は相手の心根(こゝろね)(あやし)んで、「若い時、うつかりヅボラな男に掛合(かゝりあ)ふと、歳を取つて後悔するから、よく気をつけなさいつて、(わたし)や種ちやんに意見したことがあつたわね」

「それは今だつて、可愛いお前さんなんかには意見するよ。私の(とこ)へ口を見付けに来る若い女には、男に騙されて来るのが多いんだもの。そんな女の弱味につけ込んで、(わたし)達は生活(くらし)を立てゝ行くんだから、厭な商売さね」

 主婦(かみさん)はさう云ひながら、口先の(うま)い都築の意気な姿が目の前にちらついてならなかつた。で、(うち)へ帰つてからも、お徳や松田を前に置いて、可愛い男に忍び会ふ()(うれ)しさを語つた。そして松田が龍ケ崎行の酌婦の打合せをするのに、さして耳を留めもしなかつた。

「お神さんは今夜どうかしてるよ」と、皆なが呆れた。

 

 翌朝主婦(かみさん)は不断の(やう)に早くから起きて働いてゐたが、都築が再び来るだらうと気遣(きづか)はれもし待たれもした。そしてせめてお鶴だけは本郷の人にでも(をさ)めたい者だがと、松田に手紙を書かせて呼寄せることゝした。次手(ついで)に沢井宛の手紙をも書かせて、四五日内に、たとへ五円か十円でもいから、是非工面して持つて来て呉れと頼んだ。

「いくら沢井さんだつて、それんばかり、黙つてたつて持つて来て呉れるでせう、どうせ頼むんならもつとどつさり云つてやつた方がいゝでせう」と、松田は歯掻(はがゆ)がつて注意した。

「だけど、今の場合だからねえ」

 主婦(かみさん)は今の場合、僅かな金でも、確実に手に持つてゐなくては心細くてならなかつた。

  (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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正宗 白鳥

マサムネ ハクチョウ
まさむね はくちょう 小説家・評論家・戯曲家 日本ペンクラブ第2代会長 1879~1962 岡山県に生まれる。文化勲章。1908(明治41)年「何処へ」などで自然主義作家として認められ、文学に専念。人生や文学に対し批判的、懐疑的な傾向が強く、徐々に戯曲や評論に重きを置いた。なにを指して代表作と云い難い「存在」そのものの優れて文学的な達者であった。

掲載作は、1911(明治44)年「新潮」7月号初出、ずしりとした響きようで女の苦い生活苦と運命に確かな筆を運んでいる。初出時の原題は「口入宿」であるが後年の改題「口入屋」に従っている。

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