一
「あれ、擽つたい。」
はねのけるように癇高な、鼻のひくい、中年期の女のみが発し得る声が、総体にゆらゆらと傾いた船室の一隅からひびいた。女の姿は何かの蔭になつて見えなかつたが、男は前のめりに動いた姿だけ、汚らしい壁の上に、不自然な暴動の影を投げて、崩れるように暗い方へ消えてしまつた。
「畜生、ふざけてやアがる。」
かなりな距離ではあつたが、さつきからその暗隅を見すかしていた偏目の男は、巻煙草の端を上のベッドから床へ投ると同時に、もうじつとして見ては居られぬと云う風な性急な言葉を吐いた。
そのわきに、ベッドに匍匐になつて講談本を読んでいた男も、その時、むつくり頭をあげて、偏目の男の熟視している方を眺めたが、すぐつまらなさそうに横を向いて、髯の中で嗤つた。
「ハワイへ着いたら尻尾を出すよ。」
偏目の男は、向き直つて対手に何か云いかけようとした刹那、
「わたし、もう立つの。つまらない。ちよつとそこを通してさ。」
と早口に云つて、暗隅に居た女が、煤けた送風機の後ろから上気した顔をあらわしたので、急いでまた元へ向き返つた。
「そんなに急いで立たいでもええじやないか、かみさん――。」
肺の強そうな、男の声が、蔭の方から女を追いかけた。
「もう、男の人は、いや。」
脚元があぶないので、送風機の胴へ片手を置きながら、華奢な踵の高い白靴を、船室のまん中の一段高くなつた壇の上へ載せた女は、肥つた笑い顔を、今出て来た方へ向けた。その拍子に、船が一揺れしたので女の手は送風機の胴を離れて、壇上の足が床の上の足と重り合うたと思うと、彼女の両手はすぐ横手のベッドの鉄柱をめがけて、身体もろともぴつたりと吸いついた。
「おゝ危い。――書生さん、御勉強ですか? 書生さん。」
抱いた鉄柱をそのまま揺つた彼女は、のびあがるようにして上のベッドを見あげたが、そこにいる青年は頭から毛布を被つて眠つていた。方々の男どもは、彼女の扁平つたい顔と派手な格子縞のスカートとに向つて犯すようなみだらな視線を注いだ。女はきまり悪げに、いろいろな色合の毛布や蒲団で囲まれたベッドとベッドとの間に、まぎれ込んでしまつた。
「ふられたね。」
うすつペらな笑いとともに、妙に細い声が、暗隅の男へ話しかけたらしく、その辺のベッドから響いた。二三人のえへら笑いがそれに続いた。
「ありや一体何だい、君?」
「酌婦よ。」
「そうかな、それにしても堅気らしい処もあるぜ。」
「君はまだ若いよ。」
正面の上のベッドに、あぐらをかいて、林檎をむきながら話し出した二人の青年の会話も、其時、舷窓の外を、まつ蒼な大幅の波が、強い肩でぐいと船体を押しのめして、甲板の上に大男が仆れた時のような物音を立てたので、抹消されてしまつた。乱雑な室内のすべての物は、一瞬間、ふらふらッと宙に浮いて、一息ついたかと思うと、又逆にもとの位置へ急にぐらぐらッと押し戻された。けたたましい嬰児や子供の泣き声と、それらの母親らしい女の声とが、一時に方々に湧きあがつた。枕元の金盥をさぐる音と生欠伸を噛む声もそれにまじつた。
「……後ろは禿山、前は海、
尾のない狐がいるそうな、
僕も三度四度騙さアーれイた、
なつちよらん……」
誰やらが、ほそい撓つた鼻声で突然唄い出した流行遅れの歌は、すべての騒音に穢された病的な空気をかい潜つて、歌の続く間は人々の耳に、船室の労苦を忘れさせる為の妙薬のようにひびいた。
「――あすこの隅の奴等は、みんなあれに惚れてるんだそうだ。面白いね。」
偏目の男は、まだ執拗く暗隅の方を見ながら、講談本の男の肩を揺つた。話しかけられた方は、二三行読み通してから、やつと「……両人はこれより播州姫路をさして急ぎました。」とある処へ中指を挿し入れたまま本を閉じて、充血した眼をあげた。
「そうかね? ――」暫く考えるような眼付をしていたが、思い出したように彼は駱駝の画いてある安煙草を片手でつまんで、「――皆な渇えてる連中ばつかりなんだからね。」とシガレットを口へ運びかけて、「この三等室に乗つてる女と云う女で、亭主のないのア彼女つきりだろう。皆なが張りこむのも無理はなかろうじやないか。お化粧さえすりや、あんなお多福だつて満更捨てたもんでもないからな。――」とシガレットを口にくわえて、枕元の米国製のマッチを鉄柱に擦つた。
「あ、こりや大変。あすこの奴等ばつかりと思つたら、君も、もうまいつているんだね。」偏目の男は顔の半分だけで、苦しそうに笑つて、いきなり対手の肩を打つた。
「何をぬかす、君こそ、見い、シスコを出帆してから、彼女の臀ばつかり狙つてるんじやねいか。」
「僕が? ……」と云いかけて偏目の男はさつと顔を赧らめながら、「そ、そんな馬鹿なことがあるけえ。」と絡みつくような声で笑つて、彼は揉みくちやになつた蒲団を敷いたベッドの上へ、くるりと仰向けに寝転んで、一つの目をつぶつた。
人々の会話の複音は、一種の単調さを以ていつまでも続いた。時々それが、階上の便所の扉が船の震動とともにやけに柱に打ち当る音や、どこかでフライ鍋が吊されたまま壁を伝つて動く拍子にからからと鳴る響や、船腹を撲つて甲板にざわざわと裾を曳く波の音などに寸断されて、一しお眠そうに響くのであつた。多くの人々から発散する甘酸つぱく、饐えたような動物性の臭いが閉された送風機の艙口の為に、どこへも逃場がなくなつて、辛うじてシイ・デッキの便所の戸口へ通うているので、そこへ溜つた尿素と石炭酸の臭を飽和したまま、再び船室へ舞い下りて来て、八十幾つかのベッドにある夜具の古綿や、めいめいの処に積み重ねた手荷物や、果物の籠や、蒼ざめた顔をして寝ている女共の肺の底までも沁み込んでしまうように思われた。その空気に浸りつくした船客のうちには、巨きい拇指のびくびく動く足の裏だけを見せている男や、未熟な果物のような乳呑児にだらけた胸元をひろげて寝ている婦や、青白い腹を露している女の子や、電燈の光の届かぬ辺に蒲団やら子供やらわけのわからぬ黒い団塊になつて突伏している者などが、一様に臭い息を吐いていた。折々臨月にまぢかい婦が、肩で息をしながら、ベッドの鉄柱伝いによぼよぼと二階の便所へ通う姿などが、多数の視線につきまとわれて室内から消えて行つた。
広い物置のような一室に、わずか五つしかない煤つぽけた舷窓の彼方に、黄昏の海は、寒さに刺戟された蒼白い波を戦かしながら、絶えず後ろへ後ろへと流れて行つた。時には、ガラス一枚の外で、まるで瀧のように暗碧の水の縞がどろどろと壁をふるわせて打ち当つたり、それが遠退くと氷山のような水の層が、また近づいて来る大波と、温和しく抱き合つて、船から離れながら深い谷を作つて渦を巻いて行つたりするのが、恐ろしい他界の不思議な暴力の如く人々の眼を脅かすのであつた。
「腹がへつたな、――まだ飯にならんかなア。」皺枯れた声が、どこからか、そう呟いた。すると、そのすぐ傍から、
「飯つたつて、例のバケツ臭い乾物の煮しめと、塩つ辛い沢庵漬じや食う気にならんからね。」と誰やらが、不平らしく継ぎ足した。その時、色の蒼黒い船室附のボーイが、だらしない雪駄ばきのまま戸口へあらわれて、莫迦丁寧な声で叫んだ。
「さア、さア、皆さん、これから、船室の検査がありますから、どうぞ床の上へ物を落つことさんようにして下さい。煙草の穀や、蜜柑の皮などね。済み次第すぐ御飯に致しますよ――。」と妙に船客を鼻であしらうような事を言つていなくなると、人々の間には、一しきりベッドの上へ立ちあがつたり、金盥をかたづけたりする気勢がして、片頼へべつとり寝乱髪のねばりついた女がきよろきよろ首だけ擡げてその辺を見廻したり、子供が眠から醒された時に限つて立てる泣き声などが聞え出した。一日中、必らず誰かがどこかの隅で燃やしている会話の火は、再び船室一杯にひろがつた。元気の良い掛声で、上のベッドから飛び降りる若い者などもあつた。
「どうです、かみさん、一寝入りしやしたか?」赧ら顔のがつしりした男が、暗隅からあらわれて、『十三番』と札を貼つた酌婦のベッドへ、ずかずかと寄つて来た。飛びあがるようにして毛布の中から半身を起した女は、まだ眠げな眼をぼんやり瞠いて忘れたことを思い出したように、
「もう、御飯ですか?」と訊ねた。
「御飯――? そうよ、御飯はとうに済んだがね。あんたがあんまり寝坊しとるんで、もう明日の朝までは御飯にありつけアせんぜ。」
男はとぼけ顔をして、女のベッドの片端へ無遠慮に腰をおろした。女は絹の靴下のちらと見えたスカートの辺をかばいながら、無意味な笑いに、健康そうな歯を見せて、ベッドから降り立つた。
「嘘。」
「いいや、ほんとうさ。今御飯をつめた俺の腹アこの通りつつ張つてるがな、触つて見なされ。――」
「どれ、どれ。――」
「あいたッ。」
その時、三人の男がそのベッドの前へどやどやと押寄せて来た。
「もう来てるか、早いのう。」
紀州訛の、角顔な、色のなま白い男に続いて、顔の黒い、声の細い青年が、剽軽な声でわめき立てた。
「妬けるね、いつもこう二人でちんかもをきめてるのを見ると。」
「そうよ、いくら船ん中だつてな。」
茶色のスウェタアを暖かそうに着た偏目の男が一番後になつた。
五人は狭いベッドに目白押しに掛けて、囂々わめき散らしていたが、突然、いままで静かであつた上のベッドから、色の浅黒い二十五六の青年が、安全剃刀を片手に、半身をあらわして、心持侮蔑を含んだ眼元で一同を見競べてから、女へ向つて、
「君、あの鏡をちよつと貸してくれませんか?」と優しく尋ねた。
女の瞳は、素早く青年の視線を掬い上げて、一瞬間、二人の視線は絡みついたように、空中にじつと交錯したまま挑み合つていたが、女は急に媚のある癇高な声をあげて、
「顔を剃るんですか?」とわざとらしく眼を瞠りながら尋ねたが、やがて男どもを立たせてベッドの辺をそそくさ探し始めた。
「御安くないね、いよう、色男。」
「二階にお軽がのべ鏡かね。」
下の四人は、そんなことを小声で言い合つた。
「あ、ありました。書生さん。」女は青年の顔を下から覗くようにして、鏡を手渡しながらにッと笑つた。
「よう、よう。」
「俺も書生さんにあやかりたいな。」
人々の声に遮られた青年の言葉は「……どうも髯が伸びて」と云う一句だけが、女の耳に入つた。女が自分のベッドの方へ戻るといきなり誰かの拳をぴしやりと平手で叩く響がした。上のベッドの青年は、ブラッシュで鼻の下や頤へ石鹸を塗り立てた。
この時、かつかつと梯子段を降りて来る五六人の靴音がして、妙に語尾を落した会話のきれぎれが、急にひつそりとなつた一室の内へ響いて来た。船客の多くはベッドから伸びあがつて、検査に来た船の役員どもの姿を訝しそうに見遣つていた。役員は総勢五人で、室のボーイが一番後から、ふだんよりも威張つた表情をして、白のジャケットを着込んでついて来た。真鍮釦をひからした彼等は何かの欠点を船客の間から探し出そうとする鋭い眼で隅々を見廻しながら、さもさも重要事らしく何事かを囁き合つて靴音厳かに次室へ通過して行つた。まつ先に立つた制服制帽の、口髭を短く刈り込んだ、日本人の船長の貌だけは、暫く人々の記憶に残つた。
「船長も糞もあつたもんけい。一体俺達を何と思つてやがるんだ。こう見えても、へん、御客様だぜ。船賃こそ安いかは知らねえが、ちつたア人間並の待遇をしろい。船会社ア俺達がこうやつて大勢乗り込むからこそ儲かるんだ。こんな臭いとこへぶち込みアがつてさ、あの飯は何だ、一体、莫迦にするのもいい加減にしねえか。……」
眼の円い、赤肥りに肥つた老爺が、酒臭い息を吐いて、一番先に煽動家らしい口吻で船室の沈黙を破つた。彼は叫びながら、ベッドからまん中の食事用の卓へせり出て来て、そこへ括り猿のような拳をとんと置いた。
「そうよ、そうよ、まるで豚小屋じやねえか、このざまはよ。」百姓らしい老人が、胡麻塩頭をふりながら、講談本を読んでいる男の下のベッドから合槌を打つた。それからそれへと、相応ずる者の声で、夜になつた一室には、桑港を出てからここ三日間の待遇の悪い会社の仕打を非難する不平で充ちていた。
『十三番』の女を中心として集まつた男どもは、何やらはしやいだ声で、高らかに唄いながら、折々、どつと笑い崩れていた。
「飯だ。」
正面のベッドにいた二人の青年が、そう叫んで、ベッドを立ちあがつた。送風機の向うから、ボーイが茶碗と箸を入れた笊と、香の物を盛つた鉄葉の皿を抱えながら、動揺する床をふみしめ、ふみしめ、こつちへ運んで来るのが見えた。次室の天井から、湯気の立つ飯櫃を、汚らしい縄で釣り卸すのが、立ち犇く船客の間から、手にとるように見えた。複雑な騒がしさが急に室の四隅から湧いてまん中へ集まつた。
「飯だ、飯だ。――」
「御飯ですよ。」
「そら、飯、飯、飯ッ。」
口から口へと、この簡単な言葉が、見る見る伝染して行つた。口に出さぬ者も、群集の勢いに動かされて、腹の中ではかすかに「御飯」と囁かざるを得なかつた。箸箱を持つてベッドから飛び降りる者や、子供の名を呼ぶ声や、茶碗の壊れる音や、バケツを蹴つた靴音や、人々の重みにきしるベンチの響や――大勢の人が、無造作な会食をする際に起すすべての物音は、船室の萎えた空気を一変して、急に賑かな、騒々しい景気付けをした。
「ボーイさん、お菜が来ないぞ!」
「お菜だ、お菜だい、間抜奴。」
「何をしてるんだい。先刻註文しといた蒲焼と口取を忘れるない。」
人々は笑いどよめきながら、首を伸ばして次室の天井から、まつ黒い縄で吊り下げられる笊を見ていた。一人の男が、箸で茶碗の縁を、かんかん叩いて、床板をとんとんと拍子を取つて蹴ると、もう一人の男が、別な場所でにやりと笑いながら、同じことを繰り返した。すると、それをきつかけに、模倣者がそこにもここにも増えて、しまいには、卓へ顔を出した男どもは、皆一斉にその即興の馬鹿囃を始めた。男どもの間に挟まれた婦達は、狂気染みた動乱の底に、食慾のなさそうな顔に微笑を噛みながら、うつむいていた。
「さア、さア、皆さん、お待兼のお菜が参りましたよ。――鉢巻をしてお食んなさい。頬つぺたが落つこちるほど甘い物ですよ。食料はついているんですから、御遠慮なしにたんとお食んなさい。――どうぞお静かに願います。」
煮物の小皿を山のように積んだ笊を、汗みどろになつて運んで来たボーイは、唇を歪めて叫びながら、一同を笑わせた。暫くすると、船室はにわかにひつそりして、湯を啜る舌と、舌打する響と、飯櫃を少しこつちへよこして呉れるようにと囁く声などが聞えるだけであつた。人々は、時々、茶碗から眼をあげて、自分の周囲を見廻して、これ程大勢の人間がこの船室には居つたかしらと疑うように、卓へ押し掛けた多数の人々を眺めた。席がないので、立ちながら頬張つている者もあつた。食物だけは二等まがいの特別な膳を運んで貰つている者は、尊大らしくべッドの上から下の食卓を瞰下して、ボーイの持つて来るオムレツなどを撮んでいた。箸をつけたと思うと、すぐ吐瀉してしまう婦なども見受けられた。
二
晩餐のすんだ後には、牛肉の片や、箸の折れや、沢庵の端などが、処嫌わず撒き散らされた飯粒と、煙草の吸殻とに雑つて、恰度、何物かが突然そこへ乱入して、手当り次第にすべての物を破壊して行つた跡のように思われた。それをボーイがせつせと掃除しているのを見戍りながら、人々は蛆のように転げて行く飯粒や、歯形の立つた大根の端などに、つくづく食物と云うものの気拙さをさとつたような眼付で、めいめいのベッドに飽食の体を横えた。
湯気のようにむんとする温かみと、すべての物が核心から腐つて行くような臭みとに閉された船室には、だんだん時が経つにつれて、人々の談もやや下火になり、時間の拘束の無い場所にあり勝ちな、底深いけだるさと、何かしら強烈な刺戟を覓める本能が、陸の生活のすべての約束から解放された人々の頭に根強く湧いて来た。一様に懶い表情をして煙草を吸うたり、とろんとした眼を開けたり閉じたりしている彼等の或者は、折々、何か事件が起ればいいと云う風に、ひよつくり、ベッドから首を擡げて、部室の中を見廻すのであつた。船の賄の粗悪な談や、アメリカ人と喧嘩した談などが、こう云つたふやけた空気のうちに、ちよろちよろと流れ出ては又すぐ沈黙に吸い込まれた。それでも、女の談だけは執念深くそこここに繰り返された。
一隅の上のベッドに、仰向けに寝そべつてトラムプを弄つていた青年が、向い側のベッドに鼻唄を歌つている紀州訛の男へ話しかけた。
「やろか。」
話しかけられた方は、しまりの無い唇を開いたなり、流眄に青年の釣りあがつた眉を見遣つて、
「何をするんか。」とじめじめした口吻で訊き返した。
「トワンティ・ワンは?」
「よかろう。」彼は首肯いて、青年の隣のベッドに、膝を組みたててその上へ本を載せて読んでいた学生に「あんたはどう?」と起きあがりさま、促した。学生は気軽に受けて、膝の上の本を枕の下へしまい込んだ。三人では面白くないと云うので、『十三番』の女と、赧ら顔の男とが加えられた。五人は青年と学生とのベッドに、珈琲色の毛布を敷いて、円座を画いた。
「親は誰?」
「くじがいい。」
「じやんけんで定めようよ。」
親になつたのはトラムプを持つた青年であつた。マッチの棒が一人前二十五本ずつ、一本二十仙で各自が親から買うことと決まつた。無聊と倦怠から急に一つの遊戯に集中された五人の人々は、活々とした笑顔を浮べ、心の中には一種の家庭的な親しみを共有しているように感じたのであつた。器用に切られて、器用に各自の膝下へ撒かれる札の一枚ずつ増えて行くのを楽しみに待つているかのように、四人は妙に張りつめた忍耐力を以て、親の細長い指を油断なく見戌つた。五人の頭の影は、カードを拾うために動く時だけ、ひらりひらりと毛布やベッドや壁の上に躍動したが、ややともすると、じつと珈琲色の毛布の上に永い間しがみついて何か深い考え事をでもしているかのように見えた。彼等の弛みない視線と指尖だけが、注意深く働いた。
「もう一枚。」赧ら顔の男は手元に配られた伏せ札とハートの女皇を見くらべていたが、太い声で呟いた。
「いいの?」親の手からはダイヤの三がひらりと辷り出た。
「よし。」貰つた方は首を縮めて、それを伏せ札と数え合わしてから、強く口を噤んだ。
「そちらは?」
「もらおうか。」
「ほら来た。」
「もう一枚。」紀州訛の男は、手札を二枚開いて、片手で煽るような手付をしながら、伏せ札を呼んだ。
「そーら、ブローク。」親は慣れた手付で、マッチを浚つて行つた。
一回目の勝負は、親の全勝に帰した。マッチの大部分は彼の膝下へ無造作に投り込まれた。こうした勝負が、しばらくの間続いた。マッチはそつちへ集つたり、こつちへ掻きよせられたり、一人の膝の前に手薄になつたと思うと、すぐ又そこへ倍になつて戻つたりした。立ち罩めた煙草の煙を通して、
「張りますよ。」
「そら、ブラック・ジャックだ。」
「ああ、これで一弗損しちまつたな。」
などと云う言葉が、次第に静まりかえつて行く船室の片隅から漏れた。いつの間にか凪になつた海の上を、辷るように進んでいた船は、折々心臓のような機関の鼓動を、遠くの方で間歇的に聞かしている外、時々、海のどこかで、綿の棒で大地を撲つたような波の音が、真夜中の底知れぬ大洋の寝返りを打つている態を想像させるのみであつた。そこここのベッドには鼾の声がだんだん高まつて行つた。
紀州訛の男は、ポケットからウイスキイの壜を出して、
「どうです?」と学生の鼻先へ突付けた。
「いや、いけません。」
「じや、あんたは?」突出した手首を動かさずに、壜の口だけ女の方へ向けた。
「ウイスケ? すこしくださいな。」女は眉根に小皺を刻みながら、壜を受取ると「このまま飲むの?」と壜の貼札と男の顔を見くらべた。
「喇叭飲よ。」彼は素気なく答えて、札を切り始めた。壜は女から赧ら顔の男と眉の釣りあがつた青年へ廻つたが、他に飲む人がなかつた。自分の処へ帰つた壜を掴むと紀州訛の男はまだ九分通り入つている酒を、本能的に眼の前に翳して見て、ぐいとそのまま口へ持つて行つて、咽喉を鳴らしながら半分ほど飲んでしまつた。飲み終ると「ほーう」と太い息をして、再び壜をポケットへ納めた。カードを撒き終つてから、彼は膝下のマッチを擦つてシガレットに火をつけながら、酒に嗄れた声で、
「さア、少し仰山張ろか。――」と云つて、マッチをぽんと外へ投つた。
立ち後れた形で、三人は勝負にならず、伏せ札とジャッキとスペードの三をじつと手元に見戍つていた学生と、彼との勝負になつた。
「見ようか。」学生はマッチのありたけを場へ払い出した。その時、隣り合いに坐つていた『十三番』の女の柔かい膝が、骨張つた学生の膝を二三度ぐいぐいと小突いた。目をあげると、女はほんのり上気した眼を意味ありげに細めて、彼にめくばせ(=難漢字)をした。
親は自分の札を用心深く引いて、一枚だけ手元に伏せて待つていた。
「いこう、鉄火でいこうかい。」頓て彼は膝の下のマッチを太い手でぐいとまん中へ押し遣つて、学生の顔をじつと覗き込んだ。マッチの大部分は場へ集つた。手合せになると、学生は自信のある手付で、伏せ札を軽く撮んでひよいと場へ開いた。五人の視線は一時にその一枚の札へ集つた。と思うと、急に転じて親の手元へ撥ね帰つた。そして、突然湧いた一種の感情を陰蔽した時誰もが使う急激な表情、――沈黙を守つて、恐ろしそうにまん中のマッチの数を目で計つた。すこし経つと、傍の三人は、殆ど同時に叫び出した。
「紀州さん、どうしたの?」
紀州訛の男は酔の廻つた顔をあげて、唇を歪めながら、てれかくしに高く嗤つた。
「ブラフだと思つたら、トワンティ・ワンか。――敗けた。敗けた。」
彼の鼻にかかつた声は、船室いつぱいに底力のない、からな響を送つた。どこかで、小児の魘される声がそれに雑つた。
「わたし、酔つちまつたの。もうよそうじやありませんか。大分遅いわよ。」女は紅くなつた頬を、円い手で撫でおろして、人一人動いていない船室を、不思議そうに見廻した。マッチを数えている学生に向つて、紀州訛の男は、熟柿臭い息を吐きかけながら、「勝つたのう、あんたは。」と取つて付けたような御世辞を浴びせた。ひつそりした室内に皆の勘定している金貨や銀貨の音が、気味悪くひびいた。
彼是三十弗ほど損をした紀州訛の男は、金を払い終ると、退屈そうに背伸びをして、膝を組みなおした。学生に金を数えてやつていた女がふと眼をあげると、彼の細い鋭い眼が刺すように自分の上に注がれているのを知つたので、彼女は何気なく、肥つた頬で笑つて見せた。
「あんた、大へん酔つたようだが、一寸甲板へでもあがりましよう。私もこんなに酔つちまつて、どうもならん。そんなに遅いことはないがの、まだ十一時じやけに。」彼は金側の大きい時計を女の方へ向けた。女は顔へ表わした笑いをどう始末していいか迷つたように、不自然な微笑を続けたが、不意に膝を立てながら、冗談らしく答えた。
「連れてつて頂戴な。」
「あれだ。」赧ら顔の男はベッドの梯子をおりかけて、情けなさそうな眼で彼女を見あげた。
「甲板へ出りや、あんたと二人切りじやけに、よ、――」紀州訛の男は女の手を執りながら笑い崩れた。話の継穂が無さそうに黙つて俯首いていた学生は、
「僕もいつしよに行きましようか。」と顔を染めながら言つて、きまり悪げに二人の様子を下眼で見くらべた。
「学生さんも?……かまわないことよ。いいでしよう?」女は男の手を振りも(=難漢字)いで、紀州訛の男に訊ねた。
「……三人でかい?」彼はごくりと咽喉を鳴らして、一瞬間の躊躇を示したが、すぐ狡猾そうな眼を天井へ投げ、
「……変な御連れさんじやて。」と空嘯いた。
「浪にさらわれると危険だよ。」学生はつけつけと咽喉から鋭い言葉を吐いたが、言い終つてから自分で自分の拙さ加減に苛立つた風に唇を噛みながら、枕の下の本を取り上げた。
女は黒と白の毛織の襟巻をすつぽり頭から被つて、あぶなげな足取で、男の導くままに梯子段をあがつて行つた。
「書生さん、妬いたのう。」男は上甲板へ出る艙口の梯子をのぼりつめて、アメリカ流に女の腕を執つて戸口を跨がせながら、鼻先でせせら笑つた。暗と電燈との境に、彼の金歯がちらりと気味悪くひかつた。女は不安な表情を見せまいとするように、黙つてただにッと笑つて見せた。
月の無い晩であつた。のろりと重い海の上を、汽船は幽かに浪を截る音を立てながら、辷るように暗の中へ、暗の中へと深く進んでいるのであつた。風呂桶を長くしたような煙突から右舷へかけて、斑な星の帯が、深い黝い空を斜に切つて、長く幅広くひろがつていた。仄白い旗を結びつけたマストは、そのすぐ傍の妙に底びかりのする一つの星を、掠めて二三外れたかと思うと、又そこへ戻つて来ながら、わずかに巨船が何物か船よりも強い力に押し動かされながら進んでいるのを暗示していた。蒼茫とした船の外の世界から、青白いものが、大きい皺のように、折々靄をわけて、縒れ縒れになつて近づいて、甲板の光圏に入ると黒と青の二幅の波に割れて、船腹を擽るようにさわさわと逃げて行つた。女の後れ毛が片頬へ戯れつくほどの軟風が、どこからともなく吹いていた。
「――ハワイへつくのは、もう二日目?」女は、ずんずん先に立つて急ぐ男を引留めるように、意味のない問を発した。
「三日目だよ、――」男は熱い息を吐きながら、言葉をちぎつて答えた。彼の細い眼は女の全身を取入れてしまうように、じいと彼女の朧な姿を凝視めた。突然男の腕が彼女の背に廻つた。「あんた、さみしいか?」
「そんなことないわ。みんな親切な人ばつかりですもの、どこへ行つても。」
「いままでどこにいたの?」
「シスコよ。それから田舎の方へも行つたわ、パパさんと。」
「パパさん幾歳?」
「わたしと十六ちがうのよ。姉さんを貰うはずだつたけど、姉さんが他の男と出来ちまつたのでわたし身代りに来たの。わざわざ写真と御金を送つて来たんですから、――」女は、一等室の円窓から漏れる光の前を横ぎる拍子に、まつ黒い海を背負つて、一瞬間くつきりと浮出た男の横顔を、流瞥にちらと見遣つて、声を落した。男はがつがつと身内に悶を感じた時のように、暫く押黙つてさつさと早足に歩いた。誰もいない甲板には、二人の靴音が不規則に、暗を刻んでどこまでも続いた。舳の方へ近づくに従つて、機関の響と船の動きとがより強く感ぜられた。暗に慣れた二人の眼には、その辺の送風機の群やら、起重機の柱やら、艙口の扉やら、欄干やボートなどが、手を触れたならそのまますうつと暗へ消え失せそうに、青白く立ちならんでいるのがわかつた。甲板の下の方から、まだ寝つかぬ人々の話声が、厚いガラス窓を徹して響いて来た。二人は自分々々の事を勝手に考えて歩いた。女は幾度か無言で抱きよせる男の執念深い腕をすり抜けたのである。
「わたしあんたのパパさんになるがなア。――」冷たい欄干へ手を置いた女に、男は背後から優しげな声で囁いた。
「今夜、あなた大変敗けたのねえ。――」女はつかぬことを言つて、圧迫して来る男の力を外らそうと試みた。男は黙つて、鼻から呼吸をした。暫く経つと彼は、
「金なんかどうでもいいや。――」と投げ出したように言つて、海へ向つてぺつと唾を吐いた。上のエイ・デッキで誰かの靴音が遠くの方から聞えて来て、又ばつたり止んでしまつた。機関の音が船の胴体の底に、重々しく何かに焦躁を感じたように、急に二人の耳へ入つて来た。男は抵抗の無い女の肩を隻手で掻きよせて、
「いやなの?」と息を喘ませながら、女の唇をもとめた。痙攣的な微かな動作で女は男の方へ体をねじ向けた。
「誰か見ているといけないわよ。」
暫くすると、女の尖つた鼻声が、折重つた靴音の下に、か細く響いた。
「何、誰もいやせんがな、そりや気の所為じやけに。」男はぼそぼそと囁いた。その途端に、女の襟巻が獣か何ぞのように、ひらりと暗に跳ねあがつて、音も無く甲板へ落ちた。すると、突然、空の方から、絹を裂くように、
「あッはは、あッはは……」
と笑う淋しい声がした。
男と女は撥ね飛ばされたように、距離を置いて、暗から立ちあがると、女の方から先に小犬のような唸りを発して、男の腕へしがみついたのであつた。上の方をすかして見て、男は、
「あれ、狂人よ、あすこの房室にいる婦だよ。」
と強そうに言つた。
「おゝ、びつくりした。さ、帰りましようよ、わたしこわいわ。」
「ま、もちつといようよ。あんなもの無関じや。」
蜿りの大きい波が、一揺り船を動かした後は、靄の深くなつて行く甲板には、大洋のどん底から湧き出すような、重苦しい沈黙がすべての物音を小さく封じ籠めてしまつた。
と、突然、女のヒステリックな声が沈黙を破つた。
「いや、いや。この人は、黙つてるといい気になつて!」
ぴしやりと男の頬を撲る響がして、もつれ合つた二人の肩の間から、女の円まつちい手が、五本の指をひろげたなりに男の胸をめがけて飛んだ。
三
前の日と同じように、その日も暮れるのであつた。
凡ての出来事が、前の日の出来事を真似ているように単調で、古臭かつた。同じように舌触りのわるい飯が、同じように塩辛い副食物であしらわれた。甲板の散歩も、煙草の味も、安煙草の煙の層の下に漂うている話題も、一定の仕事のない無聊さも、サン・フランシスコを出発した其日から、一日として変つたことがなかつた。人々の心も、同じ獄衣を着て、規則正しい監視の下に置かれたように、何一つ珍らしい事を考え出すことが出来なかつた。それでも、この重苦しい、ふやけた空気のうちに、だんだん熱帯地へ近づいて行く予感としての暖かさだけは、少しずつ人々の生活を変えて行くと同時に、彼等の心に自分達の旅行に就いて何かの目的があつたことを思い起させるのであつた。そして、彼等の会話のうちには日毎に『ハワイ』と云う言葉が余計に挿まれるようになつた。だが、彼等の大多数は盲目的に自分の生活を、汽船その物に任せ切つて、サン・フランシスコから横浜までの旅程を出来るだけ何も考えずに、その日その日の生活を送つて行くような自暴的な懶惰に陥つているのであつた。そう云つた人達は物を食べていない時は、鈍重な眠りに陥るか、無駄話をするか、その孰らかを選んだ。たまに甲板へ出たり、ものの本を読んだりする者があつても、それは彼等の全生活とは何の関係もない、不意の出来心からする行為に過ぎなかつた。
その晩も食事が済むと、まだ雑巾のあとの乾かぬうちから、一塊りの男どもが、白けた、みだらな微笑をうかべながら、二三人の饒舌者を中心として集つた。
「――その半巾お玉つてい名はどうしてつけたんですか。」と一人が訊ねた。
「いや、面白いんだ。人三化七たアあの女のことだろう。処が、奴さん、顔は醜いが客の待遇が上手でね。それで、御客は顔だけ見ないように、半巾を掛けると云う寸法さ。――」
「メリケン人が日本人を排斥するのも無理はないと思うこともあるね。写真結婚をやかましく云つてるが、あれで、ほんとうの処を曝け出した日にや、お互に肩身が狭いからなア……」
「白ん坊だつて、あんた、中へ入つて見りや腐敗しとるちゆう話じやねえか。」
「まア、人間つてい奴は、五分々々だね、白人だつて皆々善い奴ばかり揃つてるとは限らんよ。ジャップが悪いなんて云つても、大統領のウイルソンなんざあ淫蕩で仕方がない男なそうだからな。それから今、日本で代議士だの、学者だのつて威張つている連中がもとを洗えば、女郎のピンプをやつて勉強したり、白人の寡婦を騙して学位を貰つたりした連中もかなりあるんだからね。」
「――ともかく、こうやつて皆なの話を聴いているが、船ん中じや女の話に限るね。当り触りがなくていいや。ほかの事になると、どうも話がごつくつて、角が立つもんだが、この話ばかりは、聴いていても誰も損をした例はないからなア……」
いつも酒臭い息を吐いている、眼の円らな老人が若い者を見廻して、むくれあがつた唇を舐めずりながら、「あッハ、あッハ」と無遠慮に哄笑した。彼の声に和して、笑い興じていた一群の若い者は、だらしない眼付で、ベッドの上に居る婦どもを見返つた。
束髪の形がくずれた油じみた頭を、重苦しそうに持てあましていた婦どもは、彼等の枕元で男達が、言葉で表わせぬほどの猥褻さを手振りや身まねで表わして、展覧会に工場が競うて製作品を出品するように、あること無いことの限りを捏造して語りあつているのに、顔一つ赧らめもせず、くすくすと男にはわからぬような微笑を含んで、耳を済ましていた。
そのうちに、何かの機会で、微かな変化が船室一般の空気を支配するように見えた。一隅には、昨晩の連中が、またトランプを始めたらしく、そこへ吸収されて行つた人々の為めに、まん中の食卓に集つた人影も、大分疎らになつた。話し疲れた者はベンチへ足を伸ばして、あたり憚らぬ大欠伸をした。煙草を吸つている者は、一口でも早く一本のシガレットを吸いつくしてしまいたそうに、やたらに黄ろい煙を鼻孔から吐いた。まだ話し続けている者どもも、話をする当人が、言葉を選んだり、記憶を辿つたりする為めに、咽喉の辺で「え――」と声を引張るのが、堪らなく待ちもどかしそうに、いらいらした眼で御互の顔を見戍つた。彼等は各自に、だんだん深いけだるさの底に落込んで行く心を、無理にも刺戟の強い言葉や、実感を再現することで、惹き立てようとあせればあせるほど、言葉が上辷りりになつて、ほんとうに言おうとすることと遠くなつて行くのを感じた。今まで無限の好奇心から眺め合つた違つた顔も、その人の職業も、もう珍らしさを失つて、普通の挨拶以上にその人間の気質や経験などを穿鑿して見ようと云う気も起らなくなつてしまつた。
どのベッドにも、寂寥に苛まれた、壮健な肉体を持つた男や女が、息のつまるほど彼等の前途に塞がつている『時』の重みを、どうして過そうと云う考えもなく、彼等の第二の本能である労働から、一時釈放されたまま、何をするともなく、ただぼんやり煤けた天井や、上の人間の体のなりにふくらんだ帆布のベッドなどを眺めているのであつた。
「諸君、ちよつと御相談に及びますが――」一人の肥つた男が、小さなしよぼしよぼした眼を、肉の塊のような顔に働かせながら、いつのまにか船室の入口から妙な声を絞り立てて室内へ叫んだ。大食をする家畜のような男であつた。彼の背後には、偏目の男と講談本の男が、ポケットへ手を捻じ込んで、心持腹を突き出しながら、一室を見廻していた。
「あのう、ずつは今晩、当船に乗合せました日本浪界の権威、雲右衛門没後の今日真に彼の衣鉢を伝うる第一人者と謂われまする木村友燕君が、予々米国で皆様の御贔屓を蒙つた御恩報じに、一夕の御清聴を煩わしたいと、不肖を通ずて申込んで来られますので、それならと云うので当室の有志と御相談の上、幸い機関室とは一番かけ隔つて居りましる当室を暫時御借り申して、一晩丈け御邪魔をさして戴くそうで御座いますが、如何でしようか、もし諸君に御異議がなくば、早速その準備に取りかからせることと致します。」云い終つて、彼は、胸の太い金鎖を弄りながら、じろじろ四方を見廻した。彼の奥州弁は、撓つたセンチメンタルな声と対照して、ちよつと滑稽な感じを与えたのであつた。
その男の傍から、偏目の男も、尖りを帯びた声を張り上げて、
「今晩は、只今御話の通り、木村君の最も得意な義士銘々伝の大立者たる中山安兵衛をせられるそうですから――」と附け加えて、自分で自分の言葉に恥じたように、颯と顔を赧らめながら、一室の喝采や拍手に送られて、次の室へ出て行つた。
今までの単調が急に破られて、人々の心には新しい感激が湧いた。ボーイが三人どこからか紅白の幕を持つて来て、正面のベッドの鉄柱へ釣りあげる。食卓が取除かれた壇の上には、帆布が一面に敷きつめられ、弁士卓にはフラスコとコップが運ばれる。見る見る汚い船室は、浪花節の定席と変じてしまつた。しぼりあげた幕の前の、日本の国旗と汽船会社の旗とが、人々の眼には如何にも華々しく映じたのであつた。
舳の三等室から来た人々と、艫の船客とは、初めのうちは異人種のように、滅多に話もせずに別々に塊り合つていたが、時が経つにつれて、煙草の火を借りる者や、語り手の噂をする者や、前に坐つている女の批評をやる者などが増えて、いつのまにか、同じ目的の下に集つた、単純な複数に化つてしまつた。
鈴が鳴る。奥州弁の男が、卓の前へ立つた。壇をはみ出た群集は、梯子段や、床の上、壁の際などから、熱心に拍手をした。
「不肖が在米邦字新聞記者を代表すまして、今晩の司会の任を帯びましたことは非常な光栄に感ずる次第で御座います。床次内相閣下が浪花節を以て忠君愛国の大精神を鼓吹する宣伝機関と御考えになられましたことは、実に深い意義があることと存じます。同じく思想方面の宣伝者たる私どもの、今夜の如き会を皆様の前で企てしましたことも、決して御縁の無いこととは申されません。抑も、藝術と思想とは……」
その男は歯の浮くような事柄を、生硬な植民地式な熟語で長々としやべり立てた。幕の後ろには、語手らしい男が、黒の三つ紋の羽織を着流して、聴衆の中の婦の顔をじろじろ覗いていた。稍だれ気味になつて、新聞記者の演説が終ると、音〆を合せる三味線の音が、拍手や呼び声の響に雑つて、人々の心を浮き立たせた。世話役の偏目の男は、幕の後ろから、ひかつた一つの眼を働かせながら、黒い団塊になつて蠢動している頭の数を概算していた。続いて起る拍手のうちに、につこり笑つた、若い男が、軽快な動作で、卓の後ろへあらわれた。紅白の幕の前に立つた彼の白い皮膚と、角刈にした頭と、外つ歯の愛嬌ある口元とは、何よりも先ず藝人に接したと云う遊戯的な気分を人々に与えたのであつた。最後の拍手や、野次馬の呼び声などが鳴りやんでから、わずかの間の沈黙が、秒と秒との間にダッシュを引いた。
「――ええと、金門湾頭から降るアメリカを後にして、桜花咲く日の本の横浜埠頭まで、旅程十六昼夜、長の御旅のつれづれを私ども藝人風情が、御聴旧しの題を掲げまして、一夕の御清聴を煩わすことは、甚だ恐れ入りました次第で御座りまするが。」
外国ではどんな場合にも聞かれない種類の、個人性を極端まで否定してかかつた敬語の連発と、慴伏したような彼の動作は、聴衆を、一段高まつた、藝人を愛顧してやつていると云う見物人の心理状態に置いた。
「……この御仁、十を知つて百を悟り、目から鼻へ抜けるような恐ろしい智慧で、――幸い智慧であつて結構、これが梅毒ででもあつて御覧じろ‥…」
一同は顎を外して笑つた。気のゆるみに乗じて、合の手を籠めた三味線は、冴えた撥音に、現実の固有名詞や代名詞を、遠い昔の空想の距離に押し隔てた。鼻にかかつた低音が、言葉を操り、せりあげて、だんだん口腔いつぱいの濁つた強音に変ると、人々の脳裡に刻まれる一句々々は、封建時代の社会観や、日本でなけりやわからぬような不自然な思想や、それに絡みついて醜悪なものを美化しようとする雲とか花とか云う自然の現象や、卑俗な英雄崇拝の観念などであつた。声の抑揚が騒々しい言葉を運んで、ぐんぐん音階を登りつめると、末はやわらかな妙音になり、語手は自分の声に魅されたように、眼を閉じてびしやり卓を扇で叩いて、苦痛に堪えぬような長音を引いて、沈黙が呑むままに声を納めた。と思うと、くだけた、平板な叙述が浪花節特有の誇張した談話体で、いろいろな事件を、さもさも面白そうに、疑惑を挿まぬ頭で考えられて来た通り、するすると物語られて行くのであつた。……朱鞘の刀をさした偉丈夫とか、月代の青い町人の群とか、忠僕の奴隷的奉仕とか、あらゆる人権を放棄してまでも男性の横暴を助長した婦人の風習とか、そう云つた事柄が、水の落ちるような吟声で、単純な復讐譚に織込まれて語られるのであつた。聴いているうちに、人々は長い海外の漂泊から、故国をさして帰りつつある自分達が、むさくるしい三等船室で、軽薄な浪花節を聴いていることを忘れてしまつた。或者は眼を堅く閉じて、膝頭に顎を埋めたなりに、身動き一つしなかつた。或者は調子といつしよに、頭を左右にゆすぶつて音頭をとつた。或者は肺の底から息を吐いて「うまいもんです!」と隣の男に話しかけた。壁にひたと凭りかかつて、憂鬱な表情をして傾聴している者もあつた。――彼等のすべては、大道藝術の浪花節を嘆賞しているのではなくて、彼等の一人々々が、自ら藝術家となつて同じ伝奇的な出来事を、自分の頭の中で創作し、朗吟し、感動しているような気がした。
彼等の内省は知らず識らずのうちに、聴いている事件の中へぴつたりとはまつてしまつた。彼等の知つているすべての事が、その霊妙な節廻しのうちに籠つていそうであつた。それは、彼等が生れてから、また生れぬ前からも、幾度か聴いていた節ではなかつたろうか。いや、彼等自身曾て、その事件のうちに住んでいたのではなかつたかしら。彼等は皆一人の中山安兵衛として、江戸中の安料理屋や酒屋を千鳥足で飲み廻したのではなかつたかしら。そして、今こうやつてアメリカから長い間の力労を終えて小金をためて日本へ帰つて行くのは遠い昔の出来事で、実は自分自身、酔眼を睜つて、伯父の決闘の知らせを読んで、驚いているのではないかしら。――あの思慮深い、忠義一徹な伯父が、みすみす窮地に陥るものとは覚悟しながらも武士と云う片意地な身分から、どうしても後へは退けず、拙者にも知らせず老の身で、ひとりで仇敵のまつ只中へ飛び込んで行つた光景が、一々堅苦しい手紙の文句の行と行との間に読み取れるような気がする。思わずはらはらと大粒の涙が書面を濡らす。残念なことをした。もう決闘が始まつた頃だろう。甥の安兵衛酒を飲んでも、腸までは腐り居らぬぞ。続いて拙者も、おゝ、そうだ。高田の馬場とは……はて、道は遠いが、息の続く限り馳せ参じたなら、よもや間に合わぬこともなかろう。伯父殿はやまつてはくださるな、安兵衛がおつつけ参りまするぞ。甥奴で御座る、安兵衛で、――なに、酒屋だ、小僧、邪魔立するな。隣の婆さん、後をよろしく頼むぞ。安兵衛が駆けた。人々の魂も駆けた。井戸側の婦どもは呆気にとられて彼を見送つている。町の人通りが、皆立ち止まつて何事が出来したかと、口を開いて、血相変えて飛んで行く彼を眺めている。砂利が素足に痛い。鶏が驚いて、垣に飛びあがる。屋敷の黒板塀は長い、長い。並木がある。橋は二跨ぎに飛び越えた。人家が続く。市場が開けている。街道へ出た。天秤を横に担いで行く莫迦者がある。邪魔だ、邪魔だ、道を開け。えゝ、面倒だ、とうとう突き飛ばした。たわけ奴が。そろそろ息が切れかかつた。高田の馬場はまだか、えゝ、安兵衛これ位で呼吸が迫つて堪るものか。伯父殿、今この安兵衛が参じまするぞ、甥の助太刀で御座りまする、決してはやまつてくださるな。何と云う長い街道だ。……
「えッへん、安兵衛が高田の馬場を指して急ぐが聴いてあきれらあ。大笑いさせアがる。やめろ、やめろ、ちよんがり奴。」
誰かが、突然、梯子の上から、尖りを帯びた酔いどれた口吻でどなり立てた。
「誰だ、誰だ、黙れ。」二三人が立ちあがつた。
そこには水夫の服を着た、日に焼けた四五人の若い者が、梯子の中腹から船室を見下して嘲笑していた。素肌に浴衣をひつかけて、湯上りの髪を後ろへ撫でつけた小粋な若い者なども見受けられた。
「俺だ、俺さまだよ。ちよんがり節だからちよんがりつて言つたんだい。」同じ声が罵り続けた。
「やかましい。」
「しずかにせい。」
「喧嘩なら上へ来い、どん百姓。」
「何をッ――。」
聴衆の気持は急に幻覚の世界から突つ離された。今まで演壇へ集つていた視線は、梯子段の上に船室の空気を脅かす為に控えている不穏な闖入者の群を見て、恨めしげに震えた。英語まじりの罵倒が、呼吸の迫つた群衆のうちから、礫のようにそこを目懸けて飛んで行つた。何かが宙をけし飛んで来て、どしんと船室のうちの何物かに打当つた。偏目の男は、演壇の前に落ちた古靴を拾いあげるや否や、獣的な呻吟を発して、人をかきわけながら、梯子段の方へ急いだ。続いて四五人の男が水夫の群に肉薄した。風船玉を両手で打破つたような物音が起つた。まつ黒い一団の人々のうちから、三つ四つの拳が団塊の中心に向つて乱射されるのが、一瞬間、かつきりと下の人々の眼に映じた。複雑な喧囂がそこから発して、シイ・デッキに空洞な波動を起した。梯子段を辷つた靴音と、靭かい物が、重く床の上へ堕ちた音とが、けたたましい子供の泣き声と、そう云う場合に誰しもが発する、言葉とも呻吟ともつかぬ、動物のような叫び声の底に、太い音の輪郭を引いた。どやどやと潮のような人数が、音の迸る方へ押寄せた。面白半分にわいわい人の肩を押して行く者もあつた。総立ちになつて血走つた眼で御互を見戍つている男どもの間から、狼狽した女の顔が、蒼白く電燈の下に見えた。気の早い若い者などは、
「この腐れ船の水夫なら、やつつけちまえ。」などと大勢を頼んでわめき立てた。藝人は扇を構えて、口を開きながら闘争の中心点を呆然と見あげていた。暫く口汚く啀み合う声と、格闘のひしめきが、他のすべての紛沓の上に続いた。誰が止めるとなく、それが漸次に鎮まると、誰かが仆れた男を起して梯子段をあがつて行く気勢がした。五六人の船客が、梯子段の人だかりを分けて降りて来ると、群集は皆好奇心と信頼とを持つて彼等を前後から取巻いた。
「なアに、この船の水夫でさア。」偏目の男は、半巾で鼻血を拭いながら、新聞記者へ話した。
「あいつらは航海ごとに浪花節や琵琶の会を開いちや御客の心附を貰う筈なんですが、今度ア本物が居るんで、裏をかかれたような始末でさア。あの乞食どもが、うんと云うほど下顎を喰わしてやつたんですよ。――」
聴衆は再びもとの座へ納つた。木村友燕は、また扇をとりあげて騒々しい復讐譚の終局を、手短にはしよつて、調子も外れ勝ちに、幕の外の三味線の音と共に、演じ終ると手拭で汗を押えながら、一同の前に平身低頭した。だが、その姿は、今となつては、いかにも莫迦々々しく群集の目に映じたのであつた。彼等は世話役の廻した帽子に、思い思いの小銭を投りこんで、我勝ちにそこを立ち始めた。閉会の辞などは、彼等の話声や笑い声に埋れて、新聞記者の動かす両手が、騒音の底に落胆した人のする表情のように見えた。
その晩は、遅くまで、中山安兵衛を真似て唸つている男が多かつた。
一日経つと、汽船は鱶と土人の泳ぎまわつているホノルルの湾口へ着いた。
四
ホノルルでの碇泊は、あわただしい夢のように、過ぎ去つた。
上陸前に約束した知人や、同伴者と、連れ立つて船を出る暇もなく、着いたと思うと、わつとどよめき立つ大勢の人々が、後から後からと押して来るまま、船客の多くは税関の石段に、敵の襲撃にあつた潰走兵のように、ちりぢりばらばらになつて降り立つたのであつた。
そこから町へ入つて、時間に制限されながら、そわそわ見物したハワイの光景は、彼等の期待したほどの慰安も、快楽も酬いてはくれなかつた。船の中で、あの女といつしよにどこかの宿屋の奥まつた小座敷で、ゆつくり酒を飲みながらあわよくば口説いて見ようとか、支那街の白人の娼婦を探しあてようとか、久し振りで藝妓をあげて一騒ぎしようとか、退屈まぎれに、じめじめと思い耽つて、頭の中だけで地図を引いていた計量の大部分も、コールタアの臭の濃く漂うた空気に、鉄材に釘を打ちこむ機械の響が忙しげに、たゝたゝたゝ――と響き亙る広場へ出たり、世界のいたる地方の衣類を大急ぎでよせ聚めたような服装をしたいろいろな人種が、午日のはげしく照りさかつたペーヴメントの上に、皆何か一定の目標を目懸けて狂奔しているような実務的な人混みのうちに入つては、何の実現力もない、慾情の臆病な小細工に過ぎないように、みすみす打毀されて行くのを感ぜずには居られなかつた。……有色人種を人間と思わぬ顔に、太い葉巻の煙を吐いて闊歩するアメリカ人や、シャツとズボンだけでチョコレート色の皮膚を掩うた醜い土人の青年や、出来るだけ短時間に、出来るだけ多量の商品を、鬻ごうとあせつている小売商や、涼しげな羅を着流して買物をして歩く西洋の婦人や、陰険な顔を地に向けて日蔭の街を足音もなく往来している支那人や、太筆に日本字で汽船の発着表などを書き散らした旅館の列や、むくむくと膨れあがつた熱帯地の植物が、含んでいる限りの緑素を吐いて暑苦しそうに葉を垂れている態や、芝居の書割にありそうな一ぜんめし屋に、油じみた稲荷鮨のならべられてあるのや、――そう云つた風な、ごみごみした、いかにも植民地らしい風物が、まとまりの無い印象になつて、数時間の散歩の後に、人々の頭に斑らに残つているに過ぎなかつた。
ただ、この一瞬間の幻影のようなホノルルの碇泊時間に、彼等の心に深く染み込んだ何物かがあつたとすれば、それは久し振りで味つた土の踏み心地であつた。動揺する船の甲板を踏み慣れた彼等にとつては、靴の下に、いささかの動揺もなく、太古以来の安定さを以て、重々しく横わつている大地は、不思議な新しい世界のように珍らしく感ぜられたのであつた。
暫くの間、ハワイの晶るい港湾や、樹木の曲線や、まつ白い家並や、常夏の果園や、そこで味つた果物などが、船客の記憶を占めて、彼等の食後の話題にのぼつたりしたが、彼等が出来るだけ島の記念を船の中へ蒐めようと試みたように、競つて買い求めたバナナや鳳梨果が、船室の温度に熟れて、各自のベッドの鉄柱に酸の強い芳醇な匂を発散する頃になると、それらもやがて忘れられてしまつた。終りには、一つ捥がれ二つ剥かれて、だんだん果物も人々の鼻につき始め、子供らでさえ食べかけて床へ投るようなことが多くなつた。そして、その頃から、窖のような船室には、再び絶大な海の単調さから沁み込む寂寥が、容赦なく人々を囚にしたのであつた。
汽船は北へ航路を変えた。ささらのように裂けた寒い水面には、折々、鯨が潮を吹いたり、船のまわりを飛び交う信天翁の群が終日悲しそうな声をあげて鳴いたりした。波涛の音は、次第に甲板近くに、性急に噛みつくように聞えた。気候の変り目から、船客のうちには鼻カタールを罹う者が多くなつた。
しかし、ハワイを越してからの人々には、目に見えて一つの変化が起つたのであつた。それは一日経てば経つほど、それだけ日本に近づいたことになると云う距離に対する自覚が彼等の胸に萌したことであつた。日本は、彼等にとつては、普通の内地人の考えているような、単純な故国ではなかつたのである。――さびしい、頼りない、迫害され勝ちな異国から、一生に一度しか越したことのない巨きい海を隔てて、今まで毎日々々憧憬の眼を潤まして翹望して来た、彼等の労働と孤独の半生に対する最後の安息地であつた。あらゆる困難を冒し、どんな激労をもいとわず、いかなる屈辱にも甘んじて、再びそこへ、より富み、より強き、より有名な人間となつて帰ることが、彼等の異国に於ける長い漂泊の唯一つの願望であつたのである。その為めには石も投げられた、拳もうけた、熱い涙を幾度か呑み込んだ。忍び難い精神上の虐殺をもじつと怺えて忍んで来た。無智な彼等は、自由思想の発達した外国人が、日本の国体や、軍事行動や、社会組織や、商業道徳などに対して、あらゆる誹謗を行つても、ただただ盲目的な愛国心を以て抗争するより外はなかつた。彼等は心の中で「今に見ろ!」と言いながら、負けて、負けて、負け抜いた移民の生活を続けて来た。煩瑣な日本の徴兵猶予願や、無能な駐在官吏や、舌たらずの外交官の遣り口などを、何の批評もなく寛恕して来たのも、亦何の為めに自分達が迫害されるかを、植民地の低級な邦字新聞の社説以上に深く省察することがなく、すべてを教えられたままの、帝国主義一点張りで通して来たのも、それは皆、彼等の日本と云う、抽象化された理想に対する愛が、他の何ものよりも強かつたが為めである。彼等の日本は、彼等自身の生活の、より高い大部分であつた。彼等の持つた願望のすべては、日本に帰ることに依つて実現されるもの、古木のような彼等の一生はそこの上に接触して直ちに若芽を吹き出すもの、と彼等は先入的に久しい間信仰して来たのであつた。或者は、そこに娶らざるうら若い妻を予想していた。又、他の者は異国で拒まれた女性に対する復讐的な奴隷化を夢みていた。小金を貯えた者は新しいアメリカ風な商売や、耕作法などを企図していた。食物や、言語や、衣服に対する伝統的な必要は、すべての人々の同じ欲求であつた。
切端つまつた、険悪な北大平洋の中に、汽船は酔漢のようにしどろもどろな足取で、寒い方へ、寒い方へ、と進路をとつて行く日が多くなつた。そういう日には、人々は皆五つの小さな舷窓の彼方に、ぬつとあらわれては、陥落するように消えて行く、昏い鋼鉄色な水平線を、恐る恐る見遣りながらも、懐かしい日本への距離が、一波ごとに近づいて行くのを思い、わずかに、大自然が無慈悲な、気まぐれな力を以て、萬物を無造作に取扱つていることを忘れるのであつた。恐ろしい外界から眼を閉じて、日本へ着く迄の現実の生活を、出来るだけ遊戯化しよう、そして何でもいいから思索力を要求せぬことに、意識を麻痺して過そうと云う気持が、殆ど類型的に人々の心に、行為に、表情にあらわれた。酔う者は泥のように酔うて暮した。賭博に耽る者は、夜となく昼となく、蒼い緊張した夜業者にあるような顔をして、食卓の隅に黒山のように塊り合つた。読んで暮そうと思う者は、ハワイで買つた講談本や、通俗小説や、雑誌などを、幾冊も幾冊も枕元に重ねて、滅多にべッドから顔をあげなかつた。すべての男どもは、女に対する態度を一変した。女どもの眼も、男に向つて大胆になつた。彼等は「御前があたしに何を求めてるかはよく知つておるよ。」と眼で語つているようであつた。一切は、日本へ着くまでの旅の恥に過ぎない、と云う無責任な思想が、目に見えて著しく人々の動作にあらわれた。人の行為の最後に踏みとどまる羞恥と云う観念の、薄い皮一枚を剥けば、みだらな野獣性の跳梁しているような行動を目撃することが多くなつた。互にそれに慣れてしまうと、羞恥の観念も、鈍く稀薄になつて行つた。悉くの人が、はしやいだ、不純な、一時限りの恋に陥つた。放縦な、狂暴な色慾上の想像力が、人々の脳を襲うた。彼等の眼は、密閉された、鳳梨果の腐る臭と、ペンキと、便所の汚物の悪臭と、コスメティックの香りを籠めた、ぐるぐる転動して熄まぬ空間に、火を吹くように燃えあがつた。いたる処にもつれ合う彼等の視線は、今まで知らなかつた御互を、全く別な半面から、目新しく発見したように、異常な嫉妬と、疑惧と、執着心とを以て、じいと凝視めるのであつた。何かしら新鮮な刺戟が、誰かに依つて外から齎されなければ、その爛熟した雰囲気が、今にも饐え腐つて、人間を海豚のように癡鈍にしてしまいそうであつた。そして、外からは、何等の新しい刺戟も来ないのである。
何を見ても物の本質がわからぬほど、彼等の感覚は懶く、硬ばつて行つた。その癖、洋装の中からあらわれる女の肌や、子供が甘そうに舐つている豊満な乳房や、何かに押しひしがれてのた打ち廻るような、男の戯れた妄動などに対しては、鋭いびりびりした視線が、四方八方から、攻め立てるように蝟集するのであつた。はげしい、上ずつた、衝動的な動作が多くなつた。それに続いて、嵐のあとのような、深刻な魯鈍な弛緩が、ひつそりして息の音一つ通わぬ船室に漲るのであつた。人々は砂の中に埋められた者が、口だけ開いて救いを求めているような表情をして、隅から隅へ、底びかりのする眼を睜るのみであつた。発作的な会話が、所々、風に煽られたように、彼等の間に燃えあがつた。言葉――それだけが、ただ一つ彼等の間に黙許された自由な交際機関であつた。言葉はあらゆる象に悪用された。彼等は言葉で抱擁し、言葉で性の慾望を貪り遂げ、言葉で競争者を殴つた。いささかの接触も、偶然の握手も、不用意な微笑も、それが男と女との間に交されたものであつたなら、忽ち群集の罵詈や誹謗の中心となり、後々までもしつこく口汚く糾弾された。だんだん個人性を失つて行く人々の言葉は、御互に異つた趣味や、性格や、職業などをあらわす調子が薄らいで、ともすると、全く無意味な、狂燥的な、淫逸その物の叫喚のような響を伝えるのであつた。長い間、植民地で擦りへらされた彼等の言語は、さもしいアメリカの俗語や冒涜辞などを雑えた、日本語とも英語ともつかぬ呂律で、混沌とした泥の中を爬いながら、陸の上では見出せない別な世界を、そこに築きあげようと試みるように、あらゆる物に向つて発せられるのであつた。
それから暴風雨の日が続いた。
空と云わず、水と云わず、茫漠とした、まつ白い濃霧の中を、船は刻み足で、一寸二寸と、足場を探りながら進むように思われた。けしかけるような風は、汚い煙突の煙を、みるみる白濛々の世界へ、襤褸屑をちぎつて擲きつけるように飛ばして行つた。マストや柱や欄干は、髪を毟られる女のような悲鳴をあげて身を撓めたた。あらゆる垂直した立体は大自然の暴力に依つて、みすみす圧搾されて縮められてしまうように見えた。ビードロの山のような巨涛は、甲板の数尺上まで盛りあがつて、船腹に裂かれるごとに、冷たい残忍な音で甲板を罵りながら、細かいガラス屑のような飛沫を、船一面に浴びせた。波の落ち窪んだ個所に、風の工合で飛沫が薄らぐと、千丈の甍の傾きかかつたような海の腹に乱射する雨の脚が凄いほどはつきりと見えた。空は低く、壁のように水面に垂れて、その上を怪物の影のような雲が、予想外の速度でけし飛んで行つた。永遠の黄昏が迫つたように、船室は柿の果ほどの電燈がともつている外、深い闇のうちに没してしまつた。夜とも昼とも、日が幾日経つたともわからぬような、恐ろしい時間の停止が、船室に蟠つた。
誰一人外へ出る者がない。地下室のような三等船室には、すべてを忘れる為めの賭博が、一団の男女を聚めている。四五十の人影が、まん中の六七人の博徒を取囲んで、ひたひたと重り合う。卓の上の電燈は、醜い、頭の大きな侏儒のような彼等の影を、食卓から床の上へ、そこからまたベッドのある周囲にまで、うつすりと投げ出して、それがぼやけた辺には、白い歯を剥いた女や、馬のように鼻孔を大きくした男や蜥蜴のような手をひろげた子供の姿などが、朦朧と見える。
銀貨の音がする。何やら鋭い、細い声で賭け合う声が聞える。暫く沈黙が続く。すると、芝居の幕切の刹那のような雑音が、息を潜めて見ていた群集から湧く。その都度、いい加減に損をした者が群集の中から吐き出されるように、一人二人汗を拭きながら、外へ出て来る。夢中になつて札を引いている良人の袖を、曳留める額の抜けあがつた婦もある。俯向いて煙草を吸いながら険のある眼付で他人の動作ばかり視ている『親』もある。傍観者は、自分達の冒険心を他人の財産で購う為めに、残忍なほど批判力を磨ぎすまして、敗けた者の射倖心を煽り、勝つた者の名誉心を唆す。酔漢がわめき立てて卓の金を掻き廻す。ベンチが仆れる。群集が割れると、立ちあがつた博徒の一人が、酔漢を撲り飛ばす。船客が十重二十重にそこを取巻く。地獄のような騒音が鎮まつて人が散る。再び深い沈黙のうちに、弗が幽かに鳴り響く。外には、暴風雨が海を底の底から攪拌して、澎湃たる叛逆の手をあげて、鉄と木材とに隠れた卑怯な生物に挑みかかつている。
「そんなに追駈けちやいけませんよ!」
金切声が、二三度高く船室に響いた。『十三番』の女の声であつた。群集は首を傾げて彼女の方を覗いた。
「もう、これつきり。」
尖りを帯びた男の声が、切り捨てるように彼女を払いのけた。学生であつた。彼は今までのしやつきりした姿態を掠奪されてしまつたように、カラーもネクタイも着けずに、髯の生い伸びた顔を、卓の前へあらわして、何も見えぬような眼付で、自分の手元へ配られるカードを凝視めていた。女は彼のすぐ側に掛けていた。
「二弗、行つた。」胡麻塩頑の老人が、じみちな手付で、銀貨を二枚場へ置いた。
「二弗受けて、もう五弗。」紀州訛の男は意味ありげに学生の顔を偸み見ながら金歯を噛んだ。
「じや、こつちは七弗で見ようかい。」偏目の男は放胆的に十弗紙幣を場へ投げて、三弗の銀貨を手元へ引込めた。
「目腐れ博奕つたアこのこつたよ。俺は恰度にして、もう十三弗、二十弗で見ようか。」赧ら顔の男が、狡猾そうに眼で笑つて、紅い二十弗紙幣を出した。
「どうせ博奕だ。よかろ、二十弗で開く。」胡麻塩頭の老人が手先の銀貨を勘定し始めると、『親』になつていた手の甲に牡丹の文身のある男が、突飛ばすようにその男を遮つて、
「君は、落ちたんかい、それとも賭けるのか?」と彼は三角な眼を学生へ向けて早口に訊ねた。学生は、この二三日二十弗、三十弗と敗け続けて、今はポケットには幾何も残つていなかつた。だが彼の手札は彼を誘惑した。彼は急いで場面を一目の下に取り入れた、ひよつとすると紀州訛の男の三枚続きの一つがダイヤのスポットなら、四揃になるが、その他の者は別に恐るべきほどの手でもない。と彼は咄嗟の間に考えた。しかしそれはこの多人数の勝負にはあり得ないことだ。賭博にそう経験の多くない彼の心には、今まで失つた彼是三百弗近くの金が、必らずいつか帰つて来るもの、と云う妄信が絶えず働いていた。賭博の最弱点たる所有慾を以て、彼は賭けた。所有慾は彼の眼を鈍らしていたことを彼は知らなかつた。
「もう、これつきり。」と、女に言つた言葉を、彼は再び心のうちで、繰り返した。そして、立ちあがるなり、すこし激昂した口調で、
「二十弗受けて、もう三十弗‥…」
ときつぱり叫んだ。
一座は森として、彼の微顫を帯びた声を受け入れた。『十三番』の女は、青年の声を彼女には余り高過ぎたと云う風に、ぎよつとして、彼の横顔を仰いだ。
「五十弗、行つた。」紀州訛の男が応じて、巨きい平手を卓の上へ守宮のように粘しつけた。舌を巻いて落ちる者は落ちた。学生は、椅子の上へ片足を載せて、青白いわなわなした手で、編上げの紐をぐるぐるとほどいた。靴紐はかなり長かつた。細長い指に絡まつた紐を、殆ど引きちぎるようにして靴を脱ぎ捨て、靴下を捲り下した彼は、指の曲つた、長いこと日光を浴びたことのない、繊細な片足をあらわした。人々は息を凝らして、彼の不思議な行動を見戌つていた。間もなく、彼は靴下を捲りあげて、手早く靴を穿き直した。彼の頬には、余裕のない時に余裕を示す為めに、日本人のみがする病的な微笑が閃いた。脂汗ににじんだ一枚の百弗紙幣が、無造作に彼の手から投り出された。『親』と紀州訛の男と、学生との手合せになつた。あり得ないことが実現された。それはほんとうにあり得たのだ。紀州訛の男は、ダイヤのスポットを魔術手のように起して、部厚い、葡萄畑の土のまだこびりついていそうな指で、山のような場の金を横柄に浚つて行つた。学生の手元には五十弗の剰金が戻つて、カードはまた切り換えられた。
「もういいじやないの、わかつたでしよう? ――だめよ、だめですよ。」女は囁きながら、彼の腿を堅く押えた。学生の心には何かが崩れて、どこかへ流れて行くような心持がした。「失くした!」と云う観念が、突然その流の中に渦巻いた。彼は無意義にまた配られたカードを取りあげて、心の渦を凝視めていた、そして、いつの間にか、その渦がだんだん大きくなつて来て、すべての意義や判断をその底へ引擦り込んでしまつたことを感じたのであつた。彼には何も聞えなかつた。何も見えなかつた。百弗紙幣を切崩した賭博は、その余勢で、性急な、緊張した二三回の小さな勝負で、みるみる残りの五十弗も吸い竭してしまつた。最後の十弗紙幣をいらぬ物のように掻きよせて行く紀州訛の男の太い拇指を視ていた学生の眼は、芯のなくなつた瞳に、無限の同情を湛えたように、熱心に忠実に、その拇指の動く方向に従つて動いて行つた。彼の視線が、拇指の持主の顔にまで伝つて行くと、彼は初めて、その拇指の持主が唇を歪めて、自分の傍にいる女に妙な笑いを送つているのに気がついた。女はじつとして、失神した者のように彼の傍に掛けていた。突如、学生の眼の底に涙が湧いた。彼の心の中には、紅い、黒い、大渦が凄まじい勢でぐるぐる廻つていた。それに脅かされたように彼は半分笑いながら、女や、老人や、子供を押し別け、突退けて、そこを飛び出した。
「……よう色男……」と云う声が、走つている彼の耳に落ちた。盲目的に梯子段の下まで駈けつけた彼はちよつと立ち停まつた。彼は総身が急にまつ昏な物に押しひしがれたような気がした。その途端に、誰かが後ろから彼の腕を押えた。
「どこへ行くんです?」
女の声だ。彼はその女が誰であるかを知つていた。
「どこへも行かんよ……」彼はむつつり答えると同時に、梯子段を昇ろうとした。
「あなた、泣いてるのね。」女は追い縋つて、いつしよに梯子段に昇つた。後ろの方から、どつと笑い興ずる人々の声がひびいた。梯子段は二人の足下に、むくむくと駝背のように膨れあがつた。すると、今度は反対の方へ急な傾斜を作つて、辷り落ちた。凄まじく上甲板にくだけた波の音が、何か叫んだ女の声を打消した。彼は女を振り切つて、梯子を駈けあがり、シイ・デッキの艙口から夢中で重い扉を押し退けて、狂奔の海をまともに受けた上甲板へ半身をあらわした。ごーッと云う響が、彼の耳から耳へ通り抜けたかと思うと、彼の全身を擲き潰しそうな勢で、扉が逆にあおり返された。辛うじて両手で、それを支えると、にわかに彼の両眼から涙がはらはらこぼれた。
まつ昏い、底知れぬ騒音の世界から、恐ろしい勢で二人の巨人のような大浪が、もつれ合い、挑み合つて、急激に目の前へ近づいたかと思うと、汽船が暗礁に打砕かれたような震動と響とが、一度にどつと彼の支えた扉を襲撃して、弾き飛ばされた学生は、よろよろと艙口の梯子段をよろけ堕ちた。したたかに濡れた彼の体を抱き留めたのは『十三番』の女であつた。
五
なまなましい血が、隣のベッドをしきつたカナリヤ色の毛布の全面へ、恐ろしい勢で迸つて、みるみるあざやかな斑点になつて沁みとおつた。殆ど同時に、圧搾されたゴム人形のような幽かな響が、重苦しい沈黙をかい潜つて、可憐な音の輪を画いた。その音の輪はだんだん大きくなつて、終いには船室いつぱいに充ちわたつた。すると、その音のかたわらから底力のある、嗄れた、苦痛に歪められた声が、ややともすると、朗かな音を奪い取つて、もつと太い音の輪を画いた。――長い間二つの声が相争つた。
寝ている船客の耳にその声は、小うるさく、しつこく附纏うた。だが暫く経つと、その二つの音声がどこか遠い遠い昔から聞覚えのある、それでいて何とも云えぬ不思議な、慟しみと怡びをいつしよにした複音のようにひびいた。それにしても、彼等の醒めかけた意識が、だんだん明瞭になるにつれて、その二つの違つた声は、彼等の寝ている船室、彼等の枕元で、さつきから響き続けたことに、漠然とした疑いを起したのであつた。
その咄嗟、いろいろな雑音と振動とが、一度に沸きあがつた。
誰やらが、咽喉をしめられた時のような声をあげた。ベッドの梯子が外れて床の上へばつたり仆れた。寝ている者を起す気勢がした。金盥か何か、金属性の器物が鳴つた。足音が、ど、ど、ど――と何処かへ伝つて行つた。そつちにも、こつちにも、ただ一つの感情をあらわした人々の言葉が、入り乱れて、船室はにわかに沸騰したように騒しくなつた。船客の大部分はベッドを離れた。
夜は白ら白ら明けに近かつた。渋みを帯びた藍色の海は、どろりと重く舷窓の下に低く湛えていた。靄を含んだ海面のどこからかかすかな光が伝つて来て、船の周囲に忍び寄るように見えた。凛とした寒さが、人々の肌を犯した。
「御産ですつて?」
「誰?」
「あの五十番の、例の御腹の大きい婦よ。」
「どうも昨晩から様子がへんだとは思つたんですがね。」
「おかみさん、お医者は今すぐ来ますよ。――でも良かつた。二人とも健康でね。」
「おゝ、ひどい血だ。こりや、きたない。」
しどけない姿態をした人々は、いつも暗のうちに埋められたような、正面から左手の『五十番』のベッドを鍵状に取り巻いて、一人の歯の汚い婦が、血の滴る布や、蒲団などを取除けたり、産婦の枕の下へ掛蒲団をあてがつたり、独りでいそがわしげに立ち働いているのを眺めながら、ひそひそと囁き合つていた。駈けつけようとしてあせる子供を抱き留めている婦もあつた。みだらな笑いを含んで上のベッドから下を覗いている青年などもあつた。にわかにこの産婦が一室の中心点になつた。
産婦は蒲団の層の中に、高い鼻と歯だけをあらわして、低い呻吟を立てながら臥ていた。一応洗い浄められたらしいが、ベッドの下にあるごみごみした着物や、布切や、器具などの中に、踏み捨てられた歯磨楊枝が一本、血に染まつたまま、濡れた床に転がつていた。
「さア、皆さん、どうかあちらへ行つてくださいよ。」
産婦の世話をしていた婦は、以前は産婆ででもあつたらしく、そう云う場合に限つてあらわれる職業的な落ち着きを、歯切れの悪い声に聞かせて、何やら一塊の布に包まれた物を劬りながら、だんだん近寄つて来る人々をたしなめた。円い布の包の中には蠢動する肉の団塊が、精一杯のひいひいした声で泣いていた。そこから少し遠退いた人々は、喪服をつけた親族の会議のように、ひそひそ声で話し合つていた。婦と婦とでなけりやわからぬような会話が、そこここに取り交された。
金釦のついた制服を着けて、船医が来たのは、夜が全く明け放れた頃であつた。彼は急いで、後から続いたボーイから、鞄を受け取ると、慣れた手付で聴診器などを出して、看護をしていた婦の云うことを、熱心に聴取つた。やがて彼が立ちあがると、ボーイに担架を命じて、
「ともかく病室へ連れて行つてからにしますから。――こまつたなア、今夜着港と云うのに。」と、額に小皺を刻みながら、何か心配げに訊ねるその婦に対して答えた。
船医と入れ違いに担架が来た。産婦は白い布に覆われて、二人のボーイに担われながら出て行つた。看護をしていた婦が、嬰児を抱いてその後について行つた。薄紅い朝の日光が、ちらとその血よりも紅い嬰児の鼻とも頬とも唇ともわからぬ肉の団塊に落ちて、一室の視線から消えてしまつた。その飢えたような、慈愛に渇したような声だけが、巨船の腹部を貫いて、どこまでも、どこまでも、長い音線を曳いたように、人々の耳には聞えたのである。長い間、人々は押黙つて、偶然、今朝彼等の目の前で仲間入をした一人の小さい者のことを考えた。
「運の好い児だね、今日と云う今日、――」一人の老人が、余程経つてから船室の沈黙を破つた。
「そうだね、こんな縁起の良いこたアありませんよ。」歯の出た、顔のくすんだ中年の男が、心から嬉しそうに同じた。
人々の話は、今日に限つてしんみりと、人間の持つている深さから湧き出るように、厚みがあつた。話と話とは、思慮深い間を置いて交された。
舷窓の外には、蕨のようにうねうねした浪が、きらきらと朝日の破片を泛べて、その反映が、昼夜ともし放しにしてある電燈の光を弱く見せた。小さなパノラマの背景のような空には、灰色な雲の断層に、真殊色の柔かな朝の空が、爐のように赤い日光に焦されて、漸次に紫に変つて行くのが見えた。
「愈々着きますなア――。」
「わしは三十年振りでがすよ。変つてやしようなア、日本も。」
「今晩、何時でしよう。着陸は?」
「何でも検疫が済むのは八時だつていうんですから、九時頃でしよう。」
「まだ陸は見えませんかね?」
そんな会話が、どの隅にも交された。すべての人が、日光と、凪の海とに緩和されて、つい二三日前までの狂暴な、野獣のような動作も、気質も、言葉も、すつかり洗い落したかのように見えた。
晴々とした声で笑つている婦どももあつた。
「鶏が鳴いてますぜ。」などと剽軽な軽口をきいた男もあつた。
朝餐が済むと人々は、各自の荷物を取纏めにかかつた。誰かが、あたふたと甲板から降りて来て、誰かに何か囁いて、又梯子段を駈けあがつて行つた。と見ると、気の浮き立つた若い者が四五人、続いて上甲板へ足音高く走りあがつた。一室の人々は、舷窓から外を覗いて、
「もう着いたんかい?」などと叫んだ。
「夜じや惜しいもんだのう、富士山が見えんじやけに。」と紀州訛の男は、洗面器へ石鹸やブラッシュを詰めながら、傍の眉の吊りあがつた青年へ話しかけた。
「わしの知つてるもんは、先達日本へ帰つたんだがな、甲板から富士山を見てからに、あんまり嬉しがつたもんで、海ん中へひつくり返つたんだよ。フレスノで葡萄作つてね、何でも二萬からは持つて帰つたと評判された男だつたが、自分で葬式の費用稼ぎにアメリカへ行つたようなもんだよ。」そんなことを云いながらも、青年は溢れるような悦びを微笑みながら、紙製の鞄を両脚で締めていた。
人々は急に理想家になつた。今まで彼等の異国の生活や、恐ろしい世界は『日本』と云う一つの神聖な観念に触れて、忽ち一変して、坩堝を通過した金属のように煥燿いた。彼等はあらゆる事の預言者となつた。天地が急に晶るく快活になつたように、彼等は対手嫌わずにしやべり出した。髪の生え際まで蒼白く病みつかれていた婦も、むつくり起きあがつてベッドの辺を片付けはじめた。子供達は大人の群に感染して、わけもなく嬉しそうな顔をして室内を狂い廻つた。船客の顔は、どれもどれも、皺が舒びて、柔和な、慈悲深い表情をしていた。言葉にあらわせない彼等の心は、十六日間じめじめと見古した床の上を、朝餐の飯粒の散らばつた上を、
「日本、日本、日本――」
とコーラスを唱つて飛び廻つていた。
長い間ベッドの鉄柱に吊されたバナナの朽ちた幹が、どさりと切り墜された。まとめた布包を上のベッドから床へ投つて、「あつ、しまつた。」と顔を顰めて、あわてて飛び降りる者もある。毛布や蒲団のカーテンが払い除かれる。税関がやかましいからと云うて、買い込んで来たシガレットを手当り次第に呉れて行く者もある。自分が宿引にでもなつたように、横浜の旅館の屋号をならべて、他人を慫慂している者もある。不用になつた物は、皆惜しげもなく床の上に捨てられた。金盥、鳥打、佃煮の缶詰、果物、煙草の缶、古靴、女のコルセット、講談本、ウイスキイの壜――これらの物品は、突然、持主の所有慾を離れて、みるみる床の上に積み重つて、必要品から廃物に変じてしまつた。毛布や、道具類や、船客の乗つていないベッドは、今までのような個性を失つてしまつた。斑点だらけの壁が、床の上や、壇の上のごみごみした廃物を四方から包んで、一室が巨大な塵埃棄場のように見えた。遮る物の無くなつた壁の上には、春の海の反映が、ゆらゆらと光線の戯れを画いた。
不思議な融和力が、人々の心に動きかけた、それは単に昨日一昨日までの憂鬱と倦怠の生活から反動した、気紛れな歓びだけではなかつた。すべての人に共通な、すべての人を満足させる、すべての人の理想である、そして、今までの現実よりも高い、偉大な、幸福なものが、彼等の目前に迫つて来て、すぐと彼等の生活に溶け込んでしまう、と云う晴々しい予感が、各自の小さな迫害心や、獣力や、利己主義などを打ち破つて、彼等を同じ大きな目的に向つて進んでいる仲間同志にしてしまつた。無意識な欣びが互の間に結合力となつたからである。荷造りを終えた者共は婦や老人どもに力を添えた。覚束ない手跡で田舎の住所を認めながら、遊びに来給え、と隣のベッドの他国者に勧めている者もあつた。ボーイを呼んで幾何かの心附を取らせて、丁寧に礼を述べている者もあつた。鞄の中をあらためて、税関を通過せぬ物を除けてやつている世話好きな者もあつた。男達は云い合したように、アメリカ仕立の一張羅に、派手なネクタイを結んだ。婦どもは田舎の帽子屋から売りつけられたような、大束の造花を重げに載せた天鵞絨の帽子や、思い切つて夏向きなスカートを着た。彼等の眼は皆霞んだ。彼等の足は軽かつた。彼等の声は空洞になつて船室を鈴のようにひびきわたつた。
「陸が見えるよ、――日本が!」
あたふたと、甲板から降りて来た偏目の男は、まだ荷物の始末に忙しい講談本の男へ話しかけた。その声が、意外に高かつたので、一室の人々は総立ちになつて、甲板へあがつて行つた。
甲板の上は寒かつた。二月の風はコートやスカートの据を飜して、柱や壁の蔭には霜の気が潜んでいた。正午近い海は、無数の飛魚が泳いでいるように、白い日光の下に耀いた。静かな蒼空は、澄んで、幅広い白金のような日光を漲らして、水平線からくつきりと立ち離れて見えた。五六艘の反古紙を貼りつけたような日本の漁船が、モータアの力で、汽船から離れようとするように、沖へ向つて駛つていた。冷たい波は、船の両舷の下に逆毛のように白く砕けて、うねりを打つごとに黒い冬の影を舒して行つた。船客の多くは、右舷の欄干に凭れて、鋸形の一帯の陸地が、処斑らに白い歯を閃かして近づいて来るのを見戍つて、がやがやと喧ぎ立てていた。
人気のない船室に、自分の頭文字を書いた鞄の上へ腰かけて、甘くもなさそうに幾本も幾本もシガレットを吹かしていた学生はふと立ちあがつて、片隅のベッドへよじ昇つた。毛布や蒲団の除かれた帆布のベッドは、体の重みにき、き、きと軋つた。彼はその辺を見廻して、はつと息をひそめた。空洞な船室には、産婦のいなくなつた跡に撒いた石炭酸の臭いが縞を織つて流れていた。彼は恐る恐る手を伸ばして、ベッドの上に載せてある紀州訛の男の手鞄を引寄せた。鞄にはまだ錠が卸してなかつた。それを開きながら鋭い眼を、梯子段の方へくばつた。其時、シイ・デッキに忙しげな靴音がして、船室の梯子の前でばつたりと停まつた。
「日本が見えますよ、ね、書生さん。――書生さん!」女の声が、筒抜けに正面の壁へ衝当つて、やけにこつちの壁へ反響した。
いきなり、何かの兇器で頭を殴られたように、彼は立ちすくんで、大きな眼をすぐ前の壁の上に堅めた。彼が、何か言おうとして、痙攣的に唇を開いた時、『十三番』の女の、華奢な、踵の高い白靴が、梯子段をことりと一階降りて来た。
(大正十一年十一月)