収穫
自序
我が第一歌集を「収穫」と名づく。
一体去年の秋出すつもりで、
すると数日後、.氏から一葉の端書が来て、「.私の短編集は外の標題にしたから、君のはもとのままの収穫で出すことにしてくれ」といふやうた意味の文面であった。
其儘になつてそれから半歳すぎた。
今度いよいよ出すことになつて標題を考へたがなかなか思ふやうな名が思ひつかぬ。矢張り「歌はわが若き日の収穫なり」といふ一句が頭に残っている。其処で、藤村氏からあゝいふ端書も来てゐることであり、氏の短編集は「藤村集」として此一月出てゐるので、却てもとのまゝがよからうと、人も言つてくれるし、自分もさう思つたので矢張「収穫」と名づけて出すことにした。
「収穫」は便宜上、上下の二巻に分けた。上巻には比較的新らしき歌を、下巻には割合に古い歌を収めた。古い歌と言つても四十年の後半期の歌が一番古いので、大体は四十一年及び四十二年、二年間の作の中より、比較的拙くとも正直に歌つてあるやうなものゝみを
四十年の作は兎に角、四十一、二年間の作はすべてゞ二千首に上つてゐた。此二千首以上の中から六百首以内の歌を撰抜した。撰抜する時、私は矢鱈と旧稿へ墨を引いた。二三百首を剰して悉く抹殺した。然し二度目に見かへした時、そのうちの二三百首を活かさゞるを得なかつた。最初は拙い歌を多く抹殺した。二度目は拙くとも正直な歌を活かした。
自分は技巧が拙い、修飾することを知らぬ。藝がない。であるから、思つたこと感じたことは、思つたこと感じたこと以上に歌ふことを知らぬ。唯正直に歌へたらよいと思つてゐる。自分は無論藝術を尊重する。愛する。然し自分は何時も通例人であらんことを願ふ。唯一箇の人間であつたらそれでよいと思ふ。通例人の思つたこと、感じたことを修飾せず、誇張せず、正直に歌ひたいと思ふ。
吾等は藝園の私生児たることを厭はぬ。唯真実でありたい。
終りに、本書の出版につき、種々尽力していたゞいた水野葉舟君の厚意を謝す。
明治四十三年
三月九日夜
著 者
収穫
上巻
荒みゆく心をしづにおししづめ「吾」をみまもり涙ぐまれぬ
あはれみが二人をつなぐ悲しさをいかなる時に君は知りしや
別れ来て
われ等また馴るるに早き世の常のさびしき恋に終らむとする
泣くひまに
秋の
何物か胃に
信じられぬ男のもてるなげきなどなき人とのみ君おもふらむ
わすれ行きし女の貝の
すてなむと思ひきはめし男の眼しづかにすむを君いかにみる
やや古き畳の上にちらばれる十月の日のなかに
白き額にのこし來にけるわが熱き唇おもひ夜の街ゆく
今朝もまた頭なやみて心
空虚なるちからなき胃とつかれたる頭をはこび日の街をゆく
君まどひおそれわななぎすすりなく葉ずれの音の水の如き夜
をりをりは別ればなしもまじる夜の気まぐれ心こほろぎをきく
秋の昼名しらぬ花をみてありぬ唇うすき子の恋ひしさに
わが前に甘き愁を眼にみせし誘惑ぞあるあはれ女よ
君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな
いはれなく君を捨てなむ別れなむ旅役者にもまじりていなむ
マチすりて淋しき心なぐさめぬ慰めかねし秋のたそがれ
いづくにか捨てむとすれど甲斐ぞなき誇らひに似し我が悲しみを
うら若き日の悲しみに別れ来て
さいはひに思はるる身は倦みはてぬ小鳥よ來啼け日光の中
低能児あかただれたる夕空の下にうたへるその黄なる顔
幅ひろき醜きそびら何物のそびらとしらずうす暗にみゆ
暖きあかるき底へ沈みゆくくちづけられし若きたましひ
なにとなくそらさむとする冷たき眼なにごとぞふと行きあひにけり
めさむれば秋雨のふる朝なりきうすあたたかき悲しみのこる
物につとつきあたりたる思ひしつ「二人をつなぐ悲しき力」
なにごとぞわかき女の魂の彼方に
かへりゆく人の脊をみて我れひとり君を久しく停車場にまつ
あたたかき血潮のなかにながれたる命恋しき身となりにけり
夕されば風吹けば木の葉散りくればうす唇のなつかしき子よ
秋の夜のつめたき床にめざめけり孤独は水の如くしたしむ
かへり行く女よ
つつましう
菊のにほひむさぼり吸ひぬ
わかれ來て飢ゑし悲しき野の獣けものの如く秋草にぬる
悲しみに別れ涙に別れ來し心のくまを木枯のふく
冬の朝まづしき宿の味噌汁のにほひとともにおきいでにけり
受話器とるあまりにとほき海の音の君が言葉にまじるここちし
吸殻の白くたふれし秋の夜の火鉢にもたれ風の音きく
秋の宵机の上の白菊のにほひをやかぐわかれしをんな
うつりゆく女の心しづやかにながめて秋をひとりあるかな
つかれたる皮膚にしづかにこほろぎのねのひびくなり独りねの夜
女ゆゑねたむは常といひながら君あまりにもはしたなきかな
こなたみつつそのまま街のくらやみに没しゆきける黒き牛の顔
やすらかに汝が夫を愛せよといひやりしより二秋をへぬ
黄ばみたる桑畑の上に昼の富士ながめてひとり口笛を吹く
またしてもわがままゆゑの嫉みごとほとんど君に
なまぬるき君が情のなかに生き幸なりしひとときもあり
うらかなし帰りて君が父の前いふいひわけのおぼつかなさも
屋根上を風さわぎ行く崖下のつめたき家に石の如くぬ(寝)る
野木ひともと梢あかるう暮れのこるあひびきの子の
曇天をとほくくまどる町あかり冬近き夜の窓にひとリみる
あくびをばこらへてわれをつつましうまもれる君といかで思はむ
赤茶けし帽子ひとつに悲しみをあつめしごときさびしき男
黄に枯れしものの蔓などからみたる断層面をあふぐ冬の朝
おもふままなすべきことをなし果てし後の心のさびしくありけり
煤烟の低うながるる街を行く
うす暗き校正室の北窓にもたれて夜をまつ男あり
何物にか踏みにじられしあとに似て自棄の心のやるよしもなし
あやまちて切りし小指を冬の夜の灯のもとにみるさむさかな
うら枯れし一面の野に降りそそぐ日光をみるひとびとのかほ
ほこり浮く校正室の大机ものうき顔の三つ四つならぶ
傷きし小指のさきに冬の夜のつめたさ感じふとめざめけり
停車場をいづればほこり
あわただしく悔いし男の悔いて後心さびしき空虚の一日
冬の午後磯山にねて砂をかむ犬をあはれむ別れしこころ
うすにごる初冬の海にふりそそぐ日光をみて物をおもへり
うたたねよりさむれば太く汽笛鳴く
油つきしランプの下にうづくまりけものの如くいぎたなくぬる
あがなひし命の愛のおぼつかなあたひ乏しくなり行かむとす
くちづけを忘れし人はさびしげに
木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな
君かへりし後のつめたき崖下の家に落葉の音ふけにけり
あやまちし來しかた君を傷けし來しかたをして葬らしめよ
あたたかきかかる思ひを君來たる午後までいかに守りてあらむ
わがままはすまじと昨日ちかひしを忘れし人の憎からぬかな
いくたびか君をあやまち傷けしそのはてにして別れむとする
君かへる夜の電車のあかるさを心さびしくおもひうかべつ
わがふるさと
君つれて君も知るなる人妻の初恋人の
わがままの心おさへて二人ありみじかき冬の日もくれにけり
すこやけき
いかならむものを二人にもち来たす四月の空のうらなつかしさ
君をつつむあかるき光幸に妻となる日をいかにまつらむ
感触になれし手ながらとらざればさびしかくしにわが手冷えたり
君泣かばとおもふときに君泣かず言葉すくなに物縫ひてあり
心やすくなりけり遠く活字刷る機械の音にわかれかへりて
うすら冷たく軟かなりし感触の胸のあたりにのこる心地す
投げいだせし手につたひくる冬の夜の冷たきにふと君おもひいづ
冬の夜の
ひとりねむる君が
悲しみにわかれて行かむ
いつしかに頬杖つきて眼を伏せぬ水仙ぞにほふたそがるる
嵐なす頭のなかにあはれなる女の顔の小さくただよふ
水の上を
君によりをしへられける悲しみに別れてさらに悲しみをえぬ
わが世界君にはみえず魂のふたつまどへる悲しさに生く
ありなしの水仙の香のただよへる暗き座敷に君おもひぬる
なにものもわが煩ひとならむ日の日光をみるうらなつかしさ
白菊の青きつぼみをにぎり居し君がをさなき
いま一度うなづきてわれにみせよかし言葉すくなきさびしき女
弱かりしふみにじられしそのままにあればありうるわれなりしかな
恋人を待つおもひしてひかへ刷まてばこの日も暮の鐘鳴る
われは唯黙してあらむしづやかに「吾」のゆくへをひとりながめむ
風暗き都會の冬は来りけり帰りて
火の気なき宿に帰りてくらやみにマチをたづぬる指のつめたさ
みづからをいたはることのおろかさにおちなむとするあはれ女よ
新らしき心となりし喜びに思はぬことを口ばしりする
乳色のさびしき花をみいでけり君が愁をまぎらすによし
遠く來て遠く消え行く葉ずれの音つめたき床にこほろぎをきく
つかれたる脳に沁みくる白粉のにほひの中に
やはらかき女の
別れ来て外套の襟に顔うづめ橋上に立ち冬の川みる
わがままをかたみにつくしつくしたるあとの二人の興ざめし顔
古マント茶色の帽子かくてわが悲しみは足る人に別れぬる
別れけり
かの別れ久しくなりぬかがやきて
磯山の
ておひたる獣の如く夜深くさまよひいづる男ありけり
自棄の涙君がまぶたをながるるや悲しき愛にさめはてし頃
別れむとする悲しみにつながれてあへばかはゆしすてもかねたる
おごそかに障子の外にせまりたる冬の夜深しゑひざめにけり
あかつきの柱つめたく脊を支ふなかばはねむり物をおもへる
あかつきの空をながるる霜あかりねむらぬ人の眼にいたく沁む
君思ひ窓によりつつ
停車場の赤き灯かげに別れ來て濠端に立ち人をおもへる
君にわかれ町の小坂をのぼるときやや胸ぐるし疲れをおぼゆ
みづからをあはれみそめし甲斐なさよ酒にしたしむことをおもへど
かはきたる空気ぞ部屋にながれたるひとりねむれば瞼つめたし
かへり來てつめたき衣をかふるとき君うらめしく思はれてきぬ
をしむなく愛せしゆゑにわがままとなりし子なりと君が眼のいふ
たのしまぬ心いだきてかへりけり机の上にかしらうづめぬ
うたたねよりさむれば障子ほのしらみ水仙の香の悲しくまよふ
おもひやる亢奮したる悲しみを胸にかかへてかへりし女
わが窓の下をうなだれかへり行く男をみなれゆふべをぞまつ
あたたかき
こころしてわれを愛せよまもれよとこのわがままの男のいひける
日にむかひすぐに立つなる
濠端の貨物おきばの材木に腰かけて空をみる男あり
みづからに
なにごとぞ驚くことのまれになり物忘れせしさびしさまさる
君よ許せ此
われをして多くの歌をよましめし汝が清く尊き涙 (以上二首、人へ)
しばらくは妻となしても許すべき君をあはれみ溺れそめける
あはれみか愛かなさけか君みれば捨てもかねたる歎きのみして
こころみに眼とぢみたまへ春の日は四方に落つる心地せられむ
少女等はわらひてあればこと足れるさまなりあはれ春の一日を
今日もまた夜ふけて帰りよごれたるさびしき顔を鏡によする
いつしかに日は中空にかゝりありいでて
やうやうに才なき吾をみいでしや一人ある日の心もとなさ
かくまでになりし女の心さへ男は悲し容るる
眼を口を耳をおほへる人三人脊なかあはせに木枯をきく
雪ふれば彷彿として眼にみゆる空のはてなる灰色の壁
血を見るにあらずば心飽足らず思はれもしつ刺激なき日を
君をえて勝ちし心のわかやかに燃えぬとみしはつかの間なりき
海ひろに濁りて死魚ぞただよへるそが中にみゆ君が
許されて行かばや海のつめたさに強ふる女のつよき恋より
あやまちて君にまことを語りける偽りをのみ喜ぶ人に
こはいかに冷たき床ぞ昨日よりひかれしままのうすき蒲団よ
わが胸にその前髪をあてしまま妻となる子は泣きねいりする
いかならむ夢をみしやと逢へばまづとひし癖などいまなつかしき
楊子くはへ障子いづれば
あるときの喜びをもてつぐのはむすべもなきかやこの悲しみを
いつはりの涙なりともにじみ來よ命死ぬべく君の泣けるに
二人をばいかに小さき其胸にはかりてあらむ
眼をとぢていつも思ひぬ悲しみに終るが如き二人の恋を
おきいづればいたく心のつかれをばことわりもなくおぼえぬる朝
君一人えたる重荷にたへぬやう心ぞふるふ信あらぬ日を
海あかり渚のかたに砂山をくだりぬこころ鉛のごとし
涙くだる冬の夜ふけの火もあらぬ冷たき部屋にわかれかへれば
みおくりぬ街のほこりにつつまれて遠ざかり行く君が
あはれなるこの空想児をば死なしめもえざりし夢の恋なりしかな
夏のゆふべ
今日もまた夜となり
あまりにもつきまとはるるが煩はしときにはわれを忘れゐよかし
いかにしてかくはぐれたる心とはなりにけるかと君をながめぬ
君は病む死ぬばかりなる悲しみをわれにも強ひて味へといふ
別れ來て電車に乗れば君が家の障子に夜の霧ふるがみゆ
心
ならはしとなりて君みぬ一日の不快にまさることあらぬかな
おとなしうわがなすままになれよわが愛するものよ柔順の子よ
君をはなれ窓にもたれてたそがれの街をみてあり帰らばやと思ふ
なつかしき恋ひしさ去りて残れるはままならぬ日の口惜しさのみ
ほこり浮く編輯室の古机頬杖つきて君を思ひぬ
あまんじて君
あぶら浮きし手と手握りてわが友と別れぬほこり風吹く町に
思ふこといはで終りしそのかみの幼き恋に似て胸苦し
わが思ふままならぬとき憎しみのわりなくつのるわかき女よ
ほこりあびし疲れし足にゆるびたる下駄の鼻緒の心もとなさ
日曜の君来ぬゆふべ何事も望みなきごとおもはれもしつ
うつくしき喜びといひ悲しみといひつるひまに陥りにける
飽足らぬ女なるかな熱するといふこと知らずただにやさしき
わが電車今宵も君をおきざりに風吹く街をよく走るかな
わかれ来てほと息つきぬおのれただひとりとなりし心安さに
あはざるに
よそめにはいと幸とみえもせむ心はぐれしかなしき二人
心足らひともなひ来たる
わが妻となすに
窓によりて夕となれば苗を吹く妻の弟をさびしがりける
わが愛に心足らひて
戦ひに似たる思ひのひまもなく心ぞそそる君おもふとき
心足りてありし昨日にかへらむとあがく二人のあはれさ思へ
われ愛すとかくは誓ふにおとなしうしたがふことの出来ぬ女よ
おごそかに隔つるもののあるをおぼゆ愛すといへど恋ひすといへど
足ずりて泣けど甲斐なしままならぬひろき世界にすむこの二人
すてらるるかすつるかいづれ別れての後の思ひを今知らまほし
時として飽足れるやう思はれしその一日の忘られかねつ
かへり行く裾短なる弟のうしろ姿を君とながむる
煤煙のうづまくをみてふと女恋しうなりぬ夕やけの空
なすままになりし昨日の君おもふこの春雨の朝ここちかな
このままに死なむといひし人はいま言葉すくなに帰り行きけり
うすけはひ
なにとなく唯何となく忘れえぬ人のひとりとなりし君かな
みなほせど溺れし故にあらじかと思へど君は美くしかりき
あなどりつさげすみつして捨てもえず捨てえぬままに可愛ゆくなりぬ
とある夜のめさめしときにかたはらに添伏す君のなかれと思ふ
この日より悔いあらためむ君ゆゑになかばは生きしわれなりしもの
かへりみて淡く悲しき心地する戦ひてえし君と思へば
さはれ猶可愛ゆきところかぞふればあへて別れもなしがたきかな
つかれたる白粉の香と肌の香と髪の匂ひにたへもせられず
ややしばしさかりてゐよと願へども甲斐なき人はわれを忘れず
これのみは悲しきかずに
何事も信ずる人をあはれとも飽足らずとも思はれて来ぬ
やや痛きここちをおぼゆつかれたる
かはゆさに余りてなるや
いさかひの後にのこれる
しばし前憎しと口も
世の常の女と君はなりしかや來しかたをのみよく責むるなり
歓楽のはてにまつなる寂しさに今日ひとりしてゆきあひにけり
捨てらるるそのうら安さ願へどもまてども君はうみあきもせず
わが女われより外に恋ひし人なかれと祈る信なき日なり
あたらしき心の刺激もとめつつうごめく蟲に似て今日もあり
眼をとぢつみだれし心しづめえずわが生活の路のはておもふ
うすぐもり光れる空の一面にゆきわたりたる淡き悲しみ
感覚の鈍うなりしを切に知り心さびしく
弟の家を走りて来りしをつれかへりゆく父のうしろかげ
いかにして男の誇きづつけずあらむ悲しき意識の恋よ
恋をすて世の
女多きうからの中に生ひたちしわが軟弱をわれと罵る
わかき日を葬れ膜をへだてみし世界のさまのやや変りきぬ
へだたりのいくばくなるを知らねども父おもふときさびしうなりぬ
君は泣くしづかに夏のたそがれの青葉の色のしづみゆくとき
にくしとは思へず君が泣くみては心はなはだ静なれども
海の日の赤ただれたる懸崖に立ちし心を君に教へむ
雲光るとあるゆふべの別れなど窓によるたびおもひいでぬる
ただわれを信ぜよといへど君は泣くわれまた涙さそはれて來ぬ
悲しみにうすく濁りし君が眼のしばしまともにわれをみるかな
名も知らぬ花にむかひてしばしありこのみづからをあはれむ心
死ぬばかり思ひつかれし君が皮膚灰白みしが悲しかりけり
そちむきに手枕なしてすすりなきぬる子よわれを憎しと思ふや
誰が罪ぞわが言葉みな信じえぬ悲しき君となし終りしは
悲しみを忘れむとして鎌倉の海にのがれし君かへり來ず
秋来たり九月となればこの心ゆるすといひし人はるかなり
わが胸のこの悲しみをわかつべき君は海よりいつ帰り來む
海の日に色づきし君が頬のあたりわづかに
以上、明治四十二年初春より新秋までの作
○
つかれはてつめたき夜の灯のもとに横はる時君おもひいづ
うれひつつ小坂のぼりぬつぐみたる
をさなかりし日の驚きに海をみし心を君よ失はずあれ
あゝ君は逃げし鳥なり
此二人つなげるものの涙にはあらじと知りし心さもしさ
さびしさに追はるる如く戸をいでて明るき街の灯にてらされし
偽れるわれをみいでしさびしさやまことなりきと思へるなかに
俥くだり冷たき秋の街をゆく心いささか飢ゑをおぼえて
來しかたも來しかたも亦美くしき偽りなりきうら若き日の
つまづきし心のいたで幾日してわづかに君をえていえにける
君をのみ思はぬ罪かわれのみの君にあらじと知りし此頃
耳にふとあつれば石も聲たててなげくに似たり悲しきゆふべ
君が
わが前にひとすぢ匂ふ秋の灯よ遠灘の音よわれをあはれめ
低き岡にひとり野ばらの香をかぎて君をまつこと十日となりぬ
冷えし夜の沙に
汚れたるこの美くしさ幾日してかくなりしかや君知りしより
あはれなる君が匂へる眼の色よややすさみたる心のみゆる
このわれをあはれめ夜の空わたる雁よ
水をみてながるる水をみてありぬ一日はかくてありもえしかな
ああ醒めてひとりかくありたらはざる此一日もゆふべとなりぬ
夜の海恋ざめし子をいたはりて暗きかたへに夜もすがら鳴れ
日の樹立あはれや顔を白き手におほひて泣ける君をみしかな
今日も亦親をわすれに来たりしとあはれや君はいたく泣くかな
遂にゆくところなき身のうしろより
ひたと噤む夜の時計をみあげたる瞳さびしきひとりの父よ
わが友よ
偽れる吾をまもりて辛うじてこの不安なる一日おくりぬ
同じ道ともに手とりて来し友をおとしいれぬと誇る人あり
夜の街つめたき眼して
林檎かみぬ十月の朝庭の木の風鳴るをきき柱によりて
灯ともさぬ瞳つかれし夕間暮このかなしみを誰にうつさむ
今日も亦わづかに生きてありけりとつかれたる身を夜の床におく
ふとしたる出来心もて何事もなし来たりける
唯さびし妻ほしきにはあらじかしかくわが心いひときすれど
われ一人となりぬわが友父となり或は母となりける後に
なりはひをいそしむ人の足軽るさああわれひとり今日もさまよふ
赤き灯をあかるき聲をあとにしてけがされぬ身ののがれ来しかな
わが知れる人のかぎりの名をかぞへ忘れでありしよろこばしさよ
今も猶君と祈りし秋の夜の卓の冷たさえわすれずあり
冬来たるほしひままなる心さへややいたみをばおぼえぬるかな
妹とすべきか妻となすべきか若き一人をえてまどひけり
若き子よ妻とよばれむ願ひの日まてるがよくも眼にみゆるかな
ひともとの木立夕日にかがやきてさびしきほどに瞳あかるし
木枯よ空にただよふ白き日よ目とぢてわれは俥にありぬ
いかにして
月曜のつめたき朝となりにけりほしひままなる二日はすぎて
遠灘の悲しき音よねむらむととぢたる眼より涙ながれぬ
冬深き
以上、明治四十一年初秋より歳晩までの作
収穫
下巻 (略)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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