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夕暮秀歌百首

秋の夜の沈黙(しゞま)ふるはす鐘のおとにふと()し得たり人のよのうた

 

菜の花の相模の国に鐘のなるあしたを夢はゆきてかへりぬ

 

草山をすべりて雲の真白きが()()るよとて母だきましぬ

 

青き花たづねて遠き水無月の夕日の小野に(たま)はまよへり  以下(収穫)

 

をさなかりし春の夜なりきわれを()に梨の花ふむ母をみしかな

 

紅塵の中に一人の君住めり都の春の日の暮れおそき

 

昼と夜のさかひに咲ける花遠くたづぬるや君心つかれて

 

春深し山には山の花咲きぬ人うらわかき母とはなりて

 

十九にて君は死にきと葉桜のかげにたちより皐月(さつき)を思ふ

 

日の下に夢みる如き眼をあげて青き小いさき蛇われをみる

 

馬といふ獣は悲し闇深き(ちまた)の路にうなだれてゐぬ

 

人恋ふる血潮はわかき男のみうけしや春の夜をひとりぬる

 

あはれ日は歎きにかけぬ涙して青き()食らふ人のさまみゆ

        

卵ひとつありき恐怖(おそれ)につつまれて光冷たき小皿のなかに

 

別れ来て電車に乗れば君が家の障子に夜の霧ふるがみゆ

 

あたらしき心の刺激もとめつつうごめく蟲に似て今日もあり

 

魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて

 

襟垢のつきし(あはせ)と古帽子宿をいで行くさびしき男

 

秋の朝卓の上なる食器(うつは)らにうすら冷たき悲しみぞ這ふ

 

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな

 

風暗き都会の冬は(きた)りけり帰りて牛乳(ちゝ)のつめたきを飲む

 

濠端の貨物おきばの材木に腰かけて空をみる男あり

 

見のこしし夢をいだいて嫁ぎ来し女の夜のうつくしさかな   以下(陰影)

 

初夏(はつなつ)の雨にぬれたるわが家のしろき名札のさびしかりけり

 

赤く錆びし小ひさき鍵を(たもと)にし妻とあかるき夜の町に行く

 

曇り日の青草を()けば冷たかり自愛のこころかなしくもわく

 

代赭色の地がひろびろと(つらな)れり絶望に似てかなしみ来たる

 

髪をすく()がゆびさきのうす赤みおびて冬きぬさざん花の咲く

 

摘みとればはやくろぐろと枯れそめぬ冬磯山の名も知らぬ草

 

おそろしき人のこころに触れぬやう世のすみに妻よ小鳥飼はまし

 

わが妻がかけし蒲団の裾赤きあたりを軽くふみてみるかな

 

護謨(ごむ)の樹の青のひともと眼に遠しわが世のはてにゑがく護謨の樹  以下(生くる日に)

夕日よ、夕日よ、夕日よと心狂ほしく渦巻きて行く空焼くるかた

 

雪のうへに空がうつりてうす青しわがかなしみぞしづかに燃ゆなる

 

黒きだりや日光()をふくみ咲くなやましさ我が憂鬱の烟る六月

 

樹に風鳴り樹に太()は近くかがやけりわれ青き樹にならばやとおもふ

 

ムンヒの「臨終の部屋」をおもひいでいねなむとして夜の風をきく

 

腹白き巨口(きよこう)の魚を脊に負ひて汐川口をいゆくわかもの

 

日蓮の生れし国の海岸(うみぎし)大魚(おほな)かなしや血にまみれたり

 

黒き岩はみな触角をもてるごとし夕日あかあか岬にしたたる

 

夕日のなかに着物ぬぎゐる蟹少女(あまをとめ)海にむかひてまはだかとなる

 

向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ

 

日の反射はげしき山をあふぎつつ黒き洋傘ふかぶかとさす  以下(深林)

 

行けど行けど玉蜀黍(たうもろこし)の穂の光り富士あらはにも夕焼したり

 

わが小指(をゆび)わが児の小さきたなぞこに手握(たにぎ)らしめつ父なるものを

 

太陽はほのぎらひつつのぼりけり、馬、円をゑがく雪光る野に

 

子供らは土手にひそまり空をみるまた一人きてならびけるかな

 

すかんぽのまあかき茎を手握(たにぎ)れる少年のゆくふるさとのみち

 

冬の日のまあかく空にしづむころ白き印度の孔雀をみたり

 

うつばりに青き烟草(たばこ)を吊したりそのもとにゐて楽しかるべし  以下(原生林)

しんとして潮みちくらし寒き江の光障子にかそかなるかも

 

雪かつく山にむかひていくうねりよせくる波のおほうねりはも

 

鉱石を運ぶ索道(さくだう)のバケットのはろばろと来たる雪空のもとを

 

山原に人家居(いへゐ)して子をなして老いゆくみればいのちいとほし

 

青空とすれすれに高き五千尺の山の尾根にも木を植うるなれ  以下(天然更新の歌)

誰か一人こらへきれずに林道を誰か馳せゆく春が来たのだ

 

出水川あから濁りてながれたり(つち)より虹はわきたちにけり

 

山崩(なぎ)あとの一面あかき日の光雉子(きぎす)尾をひきいでて遊べる

 

宵あさき長井往還行きにつつ村湯の明りなつかしみけり  以下(虹)

 

朝風に吹きあふらるる青樫のざわめくみれば既に春なり

 

川床にわがねてあればまはだかの童子きたりて顔またぎすぐ

 

太陽は赤海月(あかくらげ)なしただよへり大地波うつ空のしたびに

 

凪ぎあかきあげしほどきの外海にさむざむとして日がひとつゐる 

 

蓮のはなもてる裸の童子ゐて炎天の道にわれ等をみたり  以下(南風)

 

木の下に子供ちかよりうつとりと見てゐる花は泰山木のはな

 

そら豆の花ふきあふる南風に村娘をのせたトラツクが走る

 

自然がずんずん体のなかを通過する——山、山、山   以下(水源地帯)

 

五月の青樫の若葉が、ひときはこの村をあかるくする、朝風!

 

野は青い一枚の木皿だ、吾等を中心にして遠く廻転する(ドライブ)

 

粗いタツチでヴアミリオンをなすりつけた岡の方へ裸馬がとぶ、日の光だ

 

あざやかな青天の虹鱒!十和田は晴れやかに吾等によびかける

 

夜、眠らうとする私の旅愁のなか——奥入瀬(おいらせ)が青くながれはじめる

 

あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め

 

ざくり、そぎおとされたガレ——まともからくる日の反射がきびしい  以下(青樫は歌ふ)

ぐいぐい迫つてすばやい短直突(ショート)だ。ボビイの顔がぢぐざぐになる

 

空はるかに、いつか夜あけた。木の花しろじろ咲きみちてゐた

 

沼はあとから私についてきた。背なかが青くそまるのを感じた

 

冬が来た、私の器官がむき出しになり、木木のきしみ寂しい()をたてる

 

わが子の墓をさがしに行く枯草のみち。かたかたの手袋知らぬまにおとしてゐた

 

春が来た。生きの日のさみしさに徹して、明るく大空の盃をあげる  (山嶽)

 

ふるさとは応召兵の旗旗のながれ、空賑やかに明かるくさみしく  以下(烈風)

 

ひらいた子の手のうへ、白い繭ふたつおいて冬ちかいと思ふ

 

四月の雪ある山の斜面、烈風のなかに虹あかくわきたつ

 

氷の季節となり、ピアノのブラックキイの音感、空から来る

 

雪あらぬ富士の全面に翳はなし粗放尨大(ぼうだい)にして立ちはだかれり 以下(富士を歌ふ)

裏富士のかげりふかくして旗たつる家あり兵のいでたるならむ

 

風烈しき濱街道は冬ふかし裸馬一匹日にかげり行く

 

まなかひに朝の富士あり天雲(あまぐも)をつらぬきて赤くそびえたるかも  (新頌・富士)

春あさき入川谷の雪解水(ゆきげみづ)(かち)わたりつつわが行かむとす 以下(耕土)

移りきて深山(みやま)ほほじろの声きけば安らひごころにわがなりにけり

 

山川の早瀬にのぞむ崖上の(つひ)(すみか)に夕日さしそふ

 

木の花のにほふあしたとなりにけり老いづきし妻をいたはらむとす

 

生くること(きは)まりければ叫びたる己れの声は山にひびかふ

 

生くることかなしと思ふ山峡(やまかひ)ははだれ雪ふり月てりにけり  以下(埴土地帯)

石の上に眠りてありし時のまにうつろひにけむわがうつし世は

 

ふかぶかと己れのうちにひそみたる山山の影に(いだ)かれて眠る  以下(夕暮遺歌集)

わがうちにカンデインスキーを感じてゐる枯草を流れる幻の馬

 

雪の上に焚火をすればものみなはかげを喪ふうすあかりして

 

一枚の木の葉のやうに新しきさむしろにおくわが亡骸は

 

雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/03/01

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前田 夕暮

マエダ ユウグレ
まえだ ゆうぐれ 歌人 1883・7・27~1951・4・20 神奈川県大住郡(現・秦野市)に生まれる。一時期歌壇に夕暮・牧水(若山)時代を画す。

代表歌集「収穫」をすでに本館に展示しているが、生涯作から『前田夕暮百首』が2005(平成17)年10月秦野市立図書館の尽力で出版され、各首に懇切な鑑賞・解説が付されている。ご遺族、関係者に深く謝意を表し「夕暮秀歌百首」を此処に永く記念する。刊本も参照味読されたい。

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