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〈毒婦〉という教育

 はじめに

 

 ここでいう〈毒婦〉とは、明治五人毒婦の一人に数えられる一方で、〈貴婦人〉とも謳われた〈島津お政〉を指す。志賀直哉『暗夜行路』(大正10年から昭和12年まで「改造」に断続発表。「前編」は大正11年7月に新潮社から刊行)の「前編第二、十二」には、「祇園の八坂神社の場末の寄席といつたやうな小屋」で「懺悔する意味で自身、一代記を演」じていた、「長いマントを着、坊主頭に所謂宗匠帽を被」る女性が描かれているが、「暗夜行路前編」が主として大正元年から3年頃までの取材によるものであり、松山巌『うわさの遠近法』(講談社学術文庫,1997年,p.72)には〈お政〉の興行が大正初期頃まで続けられていたという報告もあることから、この五十歳を過ぎた「お政」は、〈島津お政〉をモデルにしたものとみることができるかもしれない。作中では、主人公時任謙作が「本統に一人の人が救はれるといふ事は容易な事ではない」との思いを抱きながら、「お政」の「気六ヶしさうな、憂鬱な顔」を思い浮かべるのだが、もし仮に、この場面が興行しながら諸国を経巡った晩年の〈島津お政〉の姿を伝えるものとすれば、「懺悔する意味で自身、一代記を演」じることで、犯した罪を悔い改めた後もなおその罪に深く関わりながら生きていった〈お政〉は、〈毒婦〉からいかにして〈貴婦人〉と讃えられるに至ったのか。

 本稿は、明治20年12月「大阪朝日新聞」に掲げられた出所記事に端を発し、新聞連載の「島津まさの履歴」や単行本『悪事改悛島津お政の履歴』などから、これまで看過されてきた明治20年代の「つづきもの」の有り様を明らかにすると同時に、〈毒婦〉の造形化に着目しながら当時の女子教育の一端や今日的な教育の問題を考察するものである。

 

 1〈島津お政〉の登場

 

 明治新政府樹立後、国民の啓蒙を目的としていた新聞は、政府内の分裂を契機として、政治的、社会的言論を中心とする「大新聞(おおしんぶん)」と、市井の出来事や記事を主に掲げた「小新聞(こしんぶん)」とに分離し、それぞれの読者層を獲得しながら発展していった。なかでも、「小新聞」に掲載された読み物風な娯楽性を伴った記事は、とりわけ庶民に歓迎され、明治10年代に入り、「つづきもの」として急激な成長をみるに至る。紙上で人気を博した「つづきもの」は競って小説化や演劇化され、衰退期を迎えていた戯作の復活を果たすと同時に、日本近代文学史上に写実小説が登場する明治20年代までの一時期を飾ることになる。また、のちの新聞小説の先駆ともなっていった。

 興津要「『つづきもの』の研究」(『明治開化期文学の研究』桜楓社,昭和43年,p.67)は「つづきもの」の嚆矢を『平仮名絵入新聞』連載の「岩田八十八の話」(明治8年11月)とし、「鳥追お松の伝」(『仮名読』明治10年12月)や「金之助の説話(はなし)」(『東京絵入』明治11年8月)、「高橋お伝」(『東京新聞』明治12年2月)など、「つづきもの」が華やかに紙面を飾った明治10年代前半をその全盛期と位置づけている。つまり、硯友社の結成や坪内逍遙『小説神髄』が刊行される、いわば日本近代文学の黎明期である明治18年辺りまでをその考察対象としているが、ここで取り上げる「島津まさの履歴」(明治21年6月5日~7月1日まで全17回、「大阪朝日新聞」)もそうした「つづきもの」のひとつに数えるべき作品である。しかも、その経緯を綿密に調査してみると、必ずしも興津がいうような、話題性のある記事を「つづきもの」として連載し、さらには刊行へ、といった経過を辿ってはいない。「島津まさの履歴」が明治21年6月の「朝日新聞」に連載され、その後『悪事改悛島津お政の履歴』として同年10月に刊行されるまでの経緯を「(1)『悪事改悛島津お政の履歴』刊行までの経緯」として、つぎに示しておく。

 

(1)『悪事改悛島津お政の履歴』刊行までの経緯

《年月日・記載事項・刊行状況・出典・発行所》

▽20・12・11;十二月十日、終身懲役に処せられていた窃盗犯である島津まさ(三十一年一ヶ月)は、特赦の申し渡しを受けた。(「朝日新聞(大阪)」)

▽21・4・18;「角の芝居は、過日当監獄より満期放免されたる島津まさと入獄中の雷お新の両人に係わる事蹟を仕組んで出す筈。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)

▽21・5・20;「角の芝居は、島津まさの履歴を狂言に仕組み外題を『島津まさ監獄日記』と名付け、来る二十三日に看板を上げ、来月一日初日の筈。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)

▽21・5・27;「『島津まさ監獄日記』の場割に訂正を加えるところあり。また、他にも何か事故の生じたる為、之を後に回す。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)

▽21・6・5;「島津まさの履歴(一)」連載開始。(「朝日新聞(大阪)」)

▽21・7・1;「島津まさの履歴(十七)」連載終わる。(「朝日新聞(大阪)」)

▽21・7・14;「道頓堀弁天座は『島津まさの履歴』を七幕に仕組み、納涼芝居を興行するといふ。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)

▽21・7・27;(「弁天座の仕打某は今度浪華座を借受け島津まさの狂言を一興行なさんとて奔走中」(『芝居と浄瑠璃』「朝日新聞(大阪)」)

▽21・10・27;『悪事改悛島津お政の履歴』刊行(岡野武平校閲・吉田香雨編纂・発行者吉田伊太郎・大阪、聚英舎印刷所)

 

 上記(1)に示したように、「島津まさ」に関する記事が新聞に掲載されたのは明治20年12月11日付「朝日新聞」である。この時は紙上第一面下段の片隅に「特赦の沙汰」と題され、つぎのように紹介されている。

 

 兼てより当府監獄に在る懲役(中略)十年囚兵庫県神戸元町三丁目今村たつ方同居島津まさ(三十一年一ヶ月)は元来旧律に拠つて終身懲役に処せられたる窃盗犯なりし処兼て各一等を減ぜられたる次第なりしに又此程より其筋に於て詮議の上特赦の申立ありし由にて昨日(中略)(いよいよ)特赦の申渡を受けたり(中略)まさは来る明治二十四年二月十六日が刑期満限に当れる由

 

 この記事から、通り名〈島津お政〉の本名は「島津まさ」で、実在の女性であり、しかも「元来旧律に拠つて終身懲役に処せられたる窃盗犯」であったことが知れる。今にすれば「窃盗犯」で「終身刑」というのは違和感があるが、当時法制度は十分に整備されていない。「旧律」は盗んだ金額によって懲役期間が決定されるというものであり、当然ながら盗んだ金額が高額なら、その受刑期間は一生分を越えるほどのものになる。「島津まさ」の経歴については後述するが、「終身懲役」である「島津まさ」の「特赦」を報じたこの記事は、客観性に富む文章によって事実を正確に報じたものであり、決して興味本位な戯作調のものではなかった。これは、「つづきもの」が「実の文学で、その種はいわゆる新聞の雑報であり、いわば雑報の文学である」(柳田泉『明治文学研究第四巻明治初期の文学思想』春秋社,昭和40年,p.100)ことと多少異なっている。「つづきもの」の代表とされる「高橋お伝」の場合、明治12年1月31日、「お伝」処刑の翌日から「有喜世新聞」「仮名読」などの「小新聞」が一斉に「お伝」の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪」(「仮名読」)、「四方の民うるほひまさる徳川」(「有喜世新聞」)といった戯作調の書き出しで掲載したのと、「島津まさ」とでは初発から事情が違っているのである。

 明治21年4月から5月頃に掲載された「朝日新聞」の記事からすると、明治20年暮れ、出所した「島津まさ」を真っ先に取り上げたのは、大阪の劇場「角の芝居」である。「島津まさ」が「つづきもの」として登場するのは6月5日であり、それ以前から「島津まさ監獄日記」と題した芝居の準備は始められていた。ところが、5月27日付に「場割に訂正を加えるところあり。また、他にも何か事故の生じたる為」に延期されてしまう。「島津まさの履歴」連載開始の6月5日はその直後である。つまり、「島津まさの履歴」は、劇化までの埋め合わせに急遽連載されたとみることができる。したがって、「つづきもの」が雑録に物語性や文学性を加味しながら、合巻化、小説化へと展開していったとする先行研究(興津,前掲書,p.67)とは異なる。「島津まさの履歴」は、それらを見直す事実としても注目される。

 なお、そのわずか3ヶ月後に単行出版された『悪事改悛島津お政の履歴』は、紙上掲載「島津まさの履歴(全17回)」に投獄中の事件や出所後を記した最終章「第十八回」が加えられたものである。

 ところで、明治14年1月、「終身懲役」を申し渡された「島津まさ」がわずか7年足らずの刑期を終え、20年12月に放免されたという事実は、逮捕拘留されて以来の彼女の「改悛」ぶりを説明するには十分すぎるほどである。単行出版された『悪事改悛島津お政の履歴』によって、「島津まさ」の経歴をみておこう。

 

 まさは江戸積の砂糖商錫屋藤七とお勇との間にもうけた五男二女の次女として生まれた(第一回)。両親は相次いで死別し、錫屋の家運は傾いていく。まさは奥勤の奉公に出されたが、主家の別家某に思いを寄せ、某の後を追って主家を逃げ出してしまう。掟の厳しい大家のことでもあり、継母が住む実家へも帰れず、まさは明治3年5月に入水自殺を図った(第二回)。大工某に助けられたまさは、その親切にほだされ、呉服商を営み始める。明治10年には湯屋業にも手を広げ、商売も軌道に乗ったかにみえた(第三回)。ある日、湯屋にかつての恋人が現れ、互いの想いが変わらぬ事を確認し合うが、その機に乗じた荒男たちに大金を盗まれてしまう(第四回)。金策に窮したまさはしばらく神戸で仲居として働きながら身を隠すが、かつての強盗事件は実は大工某に仕組まれたという噂を耳にする。明治12年夏7月頃、まさは再び大阪に舞い戻る(第五回)。まさは一刻も早く負債を清算したい一念で箱廻しに身を落とすが、ある青楼の依頼を受けて料理屋に行ったところ、大工某がまさを探しにやってくる。咄嗟に押入に隠れたまさは、金貨銀貨が入った胴巻を見つける(第六回)。まさは胴巻に隠された376円を持ち逃げし、その金で借金のすべてを返済した(第七回)。世話になった芸妓たちを芝居見物に連れて行った際、紳士体の男紀田某と再会する(第八回)。芝居小屋を出ると、紀田から不意に鞄を渡されるが、紀田はまさの眼前で逮捕され、紀田が大盗賊であったことを知る。鞄の中には1950円もの大金が入っていた(第九回)。大金を手にしたまさは、金に困るものがあれば惜しげもなく金を与えた(第十回)。立ち寄った時計屋で雷お新と出くわすが、お新は万引きで逮捕されていく(第十一回)。お新が拘引されるのを目の当たりにしたまさは、男装して姿を変え、この世の見納めにと驕奢を極めた遊びにふける一方、幼い子どもたちに小遣いを配って歩く(第十二回)。来合わせた比叡山の某一院の座主白道上人にその行状を戒められ、まさは上人の教化に涙を流す。その白道上人こそ、実母が生き別れた最愛の人であった。出頭を決意して湯屋から出たところ、まさは日本橋警察に逮捕される(第十三回)。監獄には雷お新がいた(第十四回)。まさの罪科は青楼の押入から大金を盗んだ一件だけだった(第十五回)。明治14年1月17日、まさは終身懲役を申し渡され、同年2月16日、終身懲役確定(第十六回)。受刑中、まさは神妙に獄則を守り、他の女囚を励ます。獄中四等助教を命ぜられるが、まさを妬むものもいた(第十七回)。18年2月25日、19年3月にも表彰され、合わせて4個の賞表を与えられた。まさは明治20年10月、国事犯事件で入獄した景山英とも獄中で親しくなった。明治20年10月に再び表彰され、同12月10日、放免の身となった。心学道話の家元へ礼に向かう。同胞はみな薄命のうちに果てていた(第十八回)。

 

 いうまでもなく、ここに描かれたすべてが「島津まさ」の実歴ということにはならない。そこには、当然ながら、読み物としての誇張や脚色が加えられているであろうし、その辺は差し引いて考えなければならない。ただ、ここで確認すべきことは、逮捕に至るまでの罪の犯し方である。失恋による自殺未遂まで、「まさ」は薄幸ながら何事もない。ところが、大工某と出会い、大金を盗まれたのをきっかけに、人の金に手をつけてしまう。それも偶然見つけた、胴巻に隠された金である。それ以外、「まさ」はとても悪党とは思えない。盗んだ金はまず借金返済にあて、貧しい人々への施しも忘れない。心学の道話に涙を流し、犯した罪を悔いる気持は他を圧倒するほどである。ほんの出来心、それが「まさ」を窃盗犯にし、「終身懲役」の大罪人にしたのである。ここに書かれている「まさ」が犯した「悪事」は、盗まれた金を返済することに躍起になっていた彼女が、目の前にあった金を持ち出したという一件だけである。それさえ、大工某に陥れられていたのである。本来なら、「まさ」は「悪事」を犯すような女性ではなかったのだ。だからこそ、前代未聞の早さで放免されたのである。

 生涯「悪事」とは無縁のはずの女性が、ある時階段を踏み外し、犯罪者になっていく。そうした印象をもつ作品といえようが、事実スピード出所した「まさ」を描くためには、本来的に「まさ」は決して悪女ではなかったことを強調する必要がある。それからすれば、「まさ」の実人生と『悪事改悛島津お政の履歴』とは、必ずしも一致しないことは考慮すべきだが、紙上の片隅にひっそりと報じられたにすぎない「まさ」に関して、読者が興味をそそられるのは、なぜ「終身懲役」になったのか、それがなぜ「特赦」となったのか、そうした点にあったろう。その疑問に答えるためには、「終身懲役」犯になるような人物でなかったことを強調するのが妥当である。そうすれば、その目覚ましい「改悛」の在処も首肯できるものとなる。

 

 2 〈絶世悪婦〉から〈毒婦〉へ

 

 「島津まさ」が演劇化されたことにより多くの支持を得たことは、ほどなく『悪事改悛島津お政の履歴』(岡野武平校閲,吉田香雨編纂,明治21年10月27日,擁萬楼刊)が刊行されたことからも窺えよう。その後、日本全国を興行して回ったと思われるが、明治24年辺りから東京版「朝日新聞」にその記述がみられる。その後の動向について、「(2)〈島津まさ〉の横浜興行、諸本の刊行」としてつぎに掲げる。

 

(2)〈島津お政〉の横浜興行、諸本の刊行

《年月日・記載事項・刊行状況・出典・発行所》

▽24・9・29;「蔦座は『大阪朝日新聞』の続きもの悪婦お政の伝『島津政女改心録』。役者は従前の一座へ右島津政女(三十五)が自身の劇を演るといへば、是は一段の見ものであらう。」(『横浜の芝居』「朝日新聞(東京)」)

▽24・10・3;蔦座において「島津お政改心録」を市川七右衛門、中村谷三郎、尾上多見之丞という顔ぶれで上演開始。(『蔦座のコップ騒ぎ』「朝日新聞(10.20.東京)」)

▽24・10・16;「同座は『島津政女改心録』が人気にはまりいよいよ大入りに付、今十六日よりお政改心の場までを演ずるよし。」(『横浜の蔦座』「朝日新聞(東京)」)

▽24・10・16;「同座にては過日より大阪の婦人島津政なるものゝ履歴を仕組たる狂言にて」(『横浜蔦座』「やまと新聞」)

▽24・10・25;「横浜の蔦座で大入りを取ている『島津政女改心録』が大分宜さうだとの内相談から、・・・どうでも島津政女の狂言を演ることに取り決まりたるよし。」(『ことぶき座』「朝日新聞(東京)」)

▽24・10・29;「狂言島津政女改心録は近頃大当りにして日々大入につき尚二十九日より引続き第三回の興行をするといふ。」(11・10頃まで約40日間に亘って興行)(『横浜の蔦座』「朝日新聞(東京)」)

▽24・11・9;『絶世悪婦嶋津政女改心録島津智海口述』(横浜市金林堂発行・川村太一著)刊行。

▽25年頃か;横浜蔦座「嶋津政女謹述る」(「口上ビラ」かながわ資料室所蔵、その後蔦座は明治32.8.12の関外大火により消失して廃座)

▽28・4・23;『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(東京、擁萬楼発行、編集兼発行鈴木倉)刊行。

▽37・2・6;「市村座島津政子一座は久々の出京といひ座員の櫻井東女、南鈴子など初めての目見江といひ何れも大車輪にて勤むとなり」(『楽屋すゞめ』「朝日新聞(東京)」)

▽37・2・17;「島津お政一座は来二十日より横浜の横浜座へ出勤と極り狂言は『島津政女改心録』の通しにて打上後は予て約束ある米国万国博覧会へ赴き欧米を漫遊すといふ」(『楽屋すゞめ』「朝日新聞(東京)」)

▽37・2・20;「横浜座の島津政東京市村座にて興行中なりし同一座は来二十三日初日其純益を軍資に献納する狂言は例の『改心録』九幕、尚マサは獄舎実説懺悔談及心学家庭教育談を弁ずる由」(『芝居だより』「横浜貿易新聞」)

▽37・2・23;横浜座「軍資恤兵金献納演劇島津政女改心録十幕」上演開始。「活劇派真演劇女壮士島津一座貧児教育学校創立賛助員島津政子」口上。(横浜開港記念資料館所蔵・肖像写真「芝居番付」)

▽37・3・11;「横浜座の替狂言ハ一番目『露探』二番目『島津政女』後編六幕」(「横浜貿易新聞(狂愚仙)」

▽37・3・23;「果然横浜座閉場」(「横浜貿易新聞」)

▽〈不詳〉;「活劇派真演劇女壮士島津真佐子一座開演御披露旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人日本女優演劇改良会々長権中講義」(横浜開港記念資料館所蔵「芝居番付」)

 

 上記(2)は横浜を中心に調査し、現時点で確認できた資料から作成したものだが、明治24年に入り、〈島津お政〉の芝居が横浜で評判となっていたことだけは確かである。24年9月29日付「横浜の芝居」(「朝日新聞(東京)」)に「島津政女(三十五)が自身の劇を演るといへば、是は一段の見もの」とあるように、このころには「まさ」本人が舞台に上がり、自ら懺悔話を披露していたようである。10月16日付「横浜蔦座」(「やまと新聞」)にも「狂言中に島津政が舞台に出て自分の懴悔話を聞かせるのが大評判と成り、近頃に無き大入なる」とあり、末尾には「(ついで)に記す、島津政は当年三十八才、頭を円くしたれど中々の美人なり」とも報じている(時期は不明だが、横浜開港記念資料館には「島津まさ」の肖像写真が掲げられた「芝居番付」が所蔵されている)。この時点で、「まさ」の年齢はまちまちだが、出所した際の年齢が31才であったことからすれば、この頃「まさ」は35才のはずである。その「島津政女(三十五)が自身の劇を演る」ということでかなりの評判になり、翌10月3日から11月10日頃まで約40日間に亘って興行されたことは間違いない。これによって、「横浜演劇史年表」(横浜開港資料館編集『横浜の芝居と劇場』横浜開港資料普及協会,1992年)の「24・10頃蔦座で『島津政女改心録』上場」、及び、『神奈川県演劇史』(神奈川県立青少年センター,1995年)における「資料1演劇事象」の双方に記された「10頃」は「10・3~11・10頃まで」と補うことができよう。

 この10月興行に続くと思われる、神奈川県立図書館かながわ資料室所蔵、未発表資料横浜蔦座「口上」の全文をつぎに掲げておく。

 

 乍憚口上

 御市区(おんまち)中様益々御機嫌克(ごきげんよく)御超歳(ごてうさい)被遊恐悦至極(しごく)ニ奉存候隨而妾義昨年御当港於而我児(わがみ)が犯せし大罪を改心録与名ケ(かいしんろくとなづけ)活歴演劇(かつれきえんげき)ニ取仕組ミ御覧ニ入候処殊之外御意ニ叶ひ連日之大入実ニ四旬(しじゅん)の永ニ至候段全ク御ひゐきの御蔭と朝夕奉拝謝然るに今般去ル方之御招ニ任せ奥羽地方江参り候に付而者暫く之間御当地御目見得も不相成右御名残与して甚ダ嗚滸(おこ)がましくは御座候得共中幕之内へ

傾城青陽鶏(けいせいはるのにはとり) 長七出馬切の場

政女自ら相勤メ御覧に入れ候間尚不相替永当に御見物之程伏して希上奉候以上

横浜蔦座に於而嶋津政女謹述る

 

 この「口上」の年月は不詳だが、「昨年御当港於而我児が犯せし大罪を改心録与名ケ活歴演劇ニ取仕組ミ御覧ニ入候処殊之外御意ニ叶ひ連日之大入」という記述が、先にみた蔦座の「島津政女改心録」上演を指すとすれば、翌25年に横浜蔦座で再演された時のものとも考えられる。が、これは断定できない。ただ、「去ル方之御招ニ任せ奥羽地方江参り」とあるように、その間地方巡業による興行を継続していたことは確かなようだ。

 横浜蔦座で「大当りにして日々大入」という金字塔を打ち立てた「島津政女改心録」は、約40日間にも及ぶ興行の最終日と相前後して、『絶世悪婦嶋津政女改心録島津智海口述』(川村太一著)刊行に至る。これは、上演された「絶世悪婦嶋津政女改心録」の「序幕」から「大詰」までの芝居の演目を冒頭に掲げ、それに解説を付したもので、本人の口述を元に「脚本二十冊」が作られ、「場役割に規り僅かに経歴の筋書」にあたるという。残念ながら「真佐女口述乃其荒増を速記に」したという「脚本二十冊」は未見だが、上演の様子を伝える『絶世悪婦嶋津政女改心録』から、芝居の内容をみておくことにする。

 

序 幕  大坂二軒茶屋の場、守口街道松原の場

二幕目  守口街道亀屋の場、同奥座敷の場、同裏手堀外の場

三幕目  大坂本町砂糖店の場、同奥座敷お政責の場

四幕目  大坂本町橋の場、同政女投身の場

五幕目  高麗橋岩井湯の場、同二楷新内浚の場、呉服店の場

六幕目  道頓堀芝居の場、同芝居茶屋の場

七幕目  平野町魚亀の場、大黒橋召捕の場

八幕目  明石町宿屋の場、舞子の浜牛買殺の場

九幕目  淀屋橋時計屋の場

十幕目  小間善兵衛の内併す路地口の場

十一幕目 天満橋の場、友之進内の場

十二幕目 大坂監獄の場、同女工洗濯所の場、罪石空役の場、病院安蔵お政面会の場、島津お政放免の場

大 詰  地蔵寺説教の場、天下茶屋畷権治親殺の場、権治召捕、同改心自白の場

 この『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年)と先の『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)との相違点は、つぎのようにまとめることができる。

 

1、大工清七の企みにより恋人秀二郎と別れ、清七との間に清一という子をもうける。

2、秀二郎との再会により清七の欺きを知り、清七との関係を清算しようとする。

3、淀屋橋の時計屋で金皮時計を万引きし、強請る。

4、茨の権治と結託し、強盗や殺人(毒殺を謀る)などを犯し、金を巻き上げる。

5、木田安蔵と共に脱獄する。

6、米屋を脅かし、三百円を奪う。

7、神戸で「初音」という料理屋を開業する。

8、明治21年12月10日、特赦、放免される。

9、大塚覚善師の法弟となり、智海と名乗る。

10、雷お新の遺言によって権治に殺されかける。

11、権治の実母がお政の身代わりとなって殺される。

12、明治24年11月6日、権中講義の職を授かる。

 

 先述したように、大阪で刊行された『悪事改悛島津お政の履歴』の〈お政〉は、根っからの悪党とは思えない女性として描かれていた。ところが、それから約3年を経て、すでに「まさ」の経歴には多くの相違点がみられるようになる。1から12に掲げたように、「まさ」は一児の母となり、茨の権治を情夫とする。木田安蔵と脱獄を企てたり、万引きや強請を働くなど、「悪婦」性が加味され、強調されている。一例を挙げれば、当初「島津まさの履歴」では、「雷お新」が時計屋で逮捕されたが、ここでは「まさ」が「金皮時計を万引し之を身体に押かくし却て其家に柄目をつけ金百円をゆすり取」(「九幕目淀屋橋時計屋の場」)っている。その上、「まさ」が「特赦」によって放免された年月日は、新聞報道と『悪事改悛島津お政の履歴』とでは20年12月10日で一致していたが、ここでは21年12月10日とされる。また、蔦座『絶世悪婦嶋津政女改心録』興行にあたって、「権中講義をさづけられ」た「智海」こと「島津政が舞台に出て自分の懴悔話を聞かせ」ているのである。『絶世悪婦嶋津政女改心録』にはつぎのような記述がみられる。

 

 今度真佐女口述乃其荒増を速記にし之を脚本二十冊に輯す劇場に舞ひ本人自ら演上に登り仏教心学交も交も演ず弁舌宛も流水の如く相貌(そうばふ)音律男子に(まさ)ると場中巳るゝ許りにて喝采の声拍子の音連日場中に絶ざるはまつたく(それ)(ことわ)りなきに非ず

 

 「頭を円くし」法衣に身を包んだ女性が舞台に上がり、「宛も流水の如く」、「仏教心学」を弁ずる。その「美人」の過去は「金皮時計を万引し」たり、「金百円をゆす」るなど非道なものである。しかも、「捕縛せられて囚獄の末」にも「収監中大賊の木田安蔵と共謀し風雨の夜半に病気と偽り油断させ破獄」するような極悪人である。目の前の「頭を円くし」た「中々の美人」の、それがつい数年前の事実であり、変われば変わるものだ、という観客の驚きや衝撃は想像に難くない。〈悪婦〉を強調すればするほど、その「改悛」ぶりが一層増すという、逆説的だが、そのひとつの証左であろう。「まさ」本人について、作品はつぎのようにも伝えている。

 

 衣食の料にあてるの余ハことごとく囚人貧民に施し(中略)暇あれば経文を読誦し応答厳正犯す可からざるの風あり(中略)今日豹変教導の任を帯て人に説く古往今来見さるの奇婦なり嗚呼(ああ)奇代の女子と謂ふ可し

 

 明治21年6月5日に新聞連載された「島津まさの履歴」から『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年10月)を経て、『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年11月)刊行までの間、「まさ」自身が出家して「智海」と名乗り、「自身の劇を演る」など、出所後の本人に大きな変化がもたらされている。それと並行して作品も書き直されていったことは注意されていい。つまり、作品が「島津まさ」という一人の女性に「絶世悪婦」と称されるような「悪」性を加味していったのと同時進行するかのように、「まさ」は「厳正犯す可からざるの風」、「奇代の女子」に豹変して舞台に登場しているのである。

 

 3 〈毒婦〉の誕生

 

 明治28年に入ると、東京への進出も果たしたと考えられる。東京、擁萬楼から『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(4月23日)が発行されていることからも、それは窺えよう。ここに至り、「島津まさ」は〈悪婦〉を超え、「明治五人毒婦之一人」の〈島津お政〉と化していった。この『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(明治28年4月)と前述した『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年11月)との相違点をつぎに掲げておく。

 

1、雷お新、妹分島津およし、茨の権治の悪巧み。

2、継母と義弟とがお政を酷く折檻する場面。

3、盗賊島津およしはお政と偽名、捕縛される。

4、道頓堀中の芝居狂言「島津お政改心実録」の評判。

5、呉服店が強盗にあった後、お政は芸者となる。

6、雷お新の仁平衛殺し。

7、お政の策略で、お新は拘引される。

8、お政が、時計店で時計を盗む。

9、比叡山の麓で猟人に追われて雪山を転落。通りがかかった白道上人(お政の叔父)に助けられ、実子清一との再会によって改悛し、自首する。

 

 1から9に掲げたように、「雷お新」や「島津およし」など、他の女性たちの存在感が大きくなっている。「お政」もまた、不幸な幼少期を強調する一方、「雷お新」の「仁平衛」殺しを目撃し、それを逆手にとって「お新」を陥れ、その金を持ち逃げしてしまうなど、「雷お新」の上手を行くほどの女性として描かれている。逃亡中に次々と脅迫や強盗を働く「お政」は、「追々に悪事をたくみに働き」、「毒婦」として成長していく姿でもある。それが、「実子清一との再会」を契機に「改悛」するという、「母性」を持ち出すことで、かつての「毒婦」は「実に未曽有の貴婦人なり」と語り終えられるのである。

 参考までに、いかに「毒婦」性が加味されたかについて、単行出版された三冊(『悪事改悛島津お政の履歴』、『絶世悪婦嶋津政女改心録』、『明治五人毒婦之一人嶋津政女改心実録』)に共通する一場面〈紀田安蔵から預った大金入りの鞄を開く場面〉をつぎに掲げておく。

 

1.『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)

何時の間に何處へ往けん一人だも桟敷には居らざりけりお政は詮方なさに(中略)我宅に持帰り人知れず開いて内なる金を算へ見れば

2.『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年)

 安蔵革嚢の二千八百円有余の金をお政に預け青樓にて酌まんと木戸を出るを遁すかとかヽるを安蔵心得て恵比寿橋よりざんぶりと飛こむ(中略)竟に安蔵を大黒橋に捕縛せりお政是ぞ幸ひと洋刀(ナイフ)を以てカバンを切り(くだん)の札をとりだし

3.『明治五人毒婦之一人嶋津政女改心実録』(明治28年)

 急場のしのぎに、錠前きつて跡で其訳け云ふたなら、夫婦の中ではあたりまい、幸い爰にナイフがある、是で切れとの天のあたへ(中略)納屋の内へ隠して置き、斯して置けば此身の仕業と心も付くまい、気を落ち付て一ぱいやろう

 

 繰り返すまでもない。「お政」は次第にその純情さを失い、捕縛されていった安蔵には目もくれずに「ナイフ」で鞄を切り裂き、金のためなら大盗賊の情婦となることさえ躊躇わない。こうして、「まさ」は通り名をもつ〈毒婦〉として誕生したのである。

 ところで、明治10年前後、ひとつの流行にまでになった「つづきもの」のなかでも、いわゆる「毒婦物」と呼ばれる作品群がある。その代表格は、「夜嵐お絹」「高橋お伝」「鳥追お松」等だが、お絹が毒殺の罪で斬首刑に処せられたのは明治5年2月(30才)、お伝が情夫殺しで同じく斬首刑となったのは明治12年1月(29才)、お松が狂死したのは明治10年2月(27,8才)であった。いずれもその美貌と肉体とで男たちを翻弄し、薄幸のうちに落命した実在の女性たちである。彼女たちの生涯は維新と前後し、その波乱に満ちた事実としての情痴と殺戮性は、前時代的な勧善懲悪とも結びつき、新聞の恰好な材料となって、種々の虚構性を織り交ぜながら人口に膾炙されていった。

 当時、明治10年代の文学的風潮は、いうまでもなく実学尊重である。事実性を重視し、その制約から外れることは時流にそぐわないものとみなされた。実録を元にした「つづきもの」が隆盛をみたのも、前時代的な怪奇や伝奇性に飽き足らなくなった読者が、事実の報道と勧善懲悪との微妙なかね合いでもたらされた「つづきもの」を歓迎したからである。そうした幕末以来の儒教的な勧善懲悪や因果応報がいつまでも作品を覆っている限り、当時の新文学創造の機運や政治小説に後れを取ることになる。たとえそれが、実の情痴話や毒婦の戦慄すべき凶悪事件だったとしても、「つづきもの」が古色蒼然たる内容を脱しきれず、陳腐な紋切り型の文体を続ける限り、新時代の文学にその座を譲らなければならない。そうしたなかで、明治20年代に入り、「島津まさ」が「毒婦」性を加味しながら生き延びていったことは、これまでの「毒婦物」にはみられない展開であるといっていい。高橋お伝や夜嵐お絹のような「毒婦物」とは一線を画すような、新たな「つづきもの」として登場したことは特筆に値する。つまり、「毒婦」がすでに「毒婦」として語られてきたそれまでの「つづきもの」とは、決定的な違いがあるからである。「島津まさ」は演劇化されたことで評判となり、それが却って作品に「毒婦」性を付加される、という経過を辿っている。坪内逍遙が『小説神髄』で「小説の主脳は人情なり」と提唱したことなどで、写実的な小説が新文学としての地位を確立していくこの時期、刑されたお伝やお絹たちが新聞連載当初から虚構性を伴っていたのとは異なり、「島津まさ」は「島津まさの履歴」、『悪事改悛島津お政の履歴』を経て『絶世悪婦島津政女改心録』へ、さらには『明治五人毒婦之一人島津政改心実録』へと書き換えられる時間の経過のなかで、その「毒婦」性は生み出され、〈島津お政〉として造形化されていったのである。ちなみに、明治21年6月刊行『新編明治毒婦伝』(銀花堂)には、「毒婦」として「高橋於傳、茨木於瀧、雷神於新、夜嵐於衣、権妻於辰、鳥追於松の六人」を掲げている。いずれも「容貌十人勝れたる美人なるも其の美ハ只容貌に止りて其為業の心程恐るゝも尚ほ余りある」と紹介されているが、この時点の「毒婦」に〈島津お政〉の名前はみられない。

 

 4 成長する〈毒婦〉

 

 「毒婦」と化した「島津まさ」はどこへ向かっていったのか。「つづきもの」として「島津まさの履歴」を連載した「大阪朝日新聞」は「小新聞」として成功し、当時(明治21年頃)には3万4千部近い部数を発行していた。芝居になるまでの間、「つづきもの」として連載されたことによって多くの読者を得、さらに劇化されることで、それはさらに大衆化される。その大衆化は、前科をもつ本人が「貴婦人」となって登場するという、「実録」は見紛うばかりの「実物」を得たことで、一層の教育的色彩を帯び、説得性をもつ。明治37年2月20日付「貿易新報」に「政は『獄舎実説懺悔』及び『心学家庭教育談』を弁ずる由」とあるように、「まさ」自身もまた、意識的に「懺悔」は「家庭教育談」であると喧伝していたが、そうした単純な論理は、それゆえ、却って大衆に歓迎されたのであろう。むろん、これには当時の読者層や観客層を考慮に入れなければならない。

 前田愛『近代読者の成立』(『前田愛著作集第二巻』,筑摩書房,1989年,p.119~p.129)はこれについて有効な手がかりを与えてくれる。それによれば、明治初年に幼少時代を過ごした人々の多くは、「父から漢籍の素読」を、「祖母・母・姉からは草双紙の絵解き」を、つまり、「肉親の声によって授けられ」る読書体験が、彼等の知識や教養の支柱となっていた。明治5年8月「学制」に始まる近代教育制度の体制が整うに従い、青少年の読書欲は高まりをみせるが、女子の小学校就学率は明治20年代まで50%を上回ることはない。立身出世を望む男子とは裏腹に、大多数の庶民が女子に望んでいたのは、近世以来の女子教育観、つまり、将来の嫁としての役割の自覚や家庭的技術の習得という女子固有の教育であった。一方、「高等女学校令」(明治32年)によって男子の中学校とは別に設置された高等女学校は、日本の近代化の過程で形成されてきた家父長的な家族国家主義観というイデオロギーに引きつけられた儒教的な良妻賢母主義的教育であった。高等女学校「修身」科が「躬行実践ヲ旨トシ務メテ貞淑ノ徳ヲ養」(明治32年2月「高等女学校ノ学科及其程度ニ関スル規則」,大空社『高等女学校資料集成第一巻』1997年,p.23)うための必須教科であったのをみても、そのことは明らかである。その後、日露戦争をきっかけに一層高揚した国力と女子教育への期待は、明治40年代に入り、ほぼ男子と並ぶまで(男子98.5%、女子96.1%)になる。統計的にみれば、それまでの女子の不就学率は、一見、一般民衆が女子の教育に対して無関心であったかのように思われるが、必ずしもそうではない。社会的変動によって生じた近世末期以来の女子教育への期待は、明治新政府樹立後の女学校設立論の一論拠となるほどの大きさだった。ただ、「伝統的な社会が育んだ独特の穎智」である、「一方は漢語の勁い響きを反復することによって規範(ノルム)への馴化を訓へ、他方は七五調のなだらかなリズムに乗せて規範から逸脱した世界の所在を開示する」(前田)ような、そうした前時代から継承された知徳の育成に馴染んでいた多くの庶民は、机上ばかりの学校教育に違和感を抱き続けていたのである。

 明治維新後、国家の目論んだ女子教育が不振を続けていた頃、庶民はもっぱら前時代的な方法で女子の教育に心血を注いでいたと考えられる。年代は未詳だが、つぎに掲げる「芝居番付」(横浜開港資料館所蔵)は、その証左となろう。

 

   活劇派真演劇女壮士島津一座

謹啓御当地各位様には何の御障もなふ益々御清適の御事大慶至極と存じ奉賀候随而本会演劇の義は(中略)人慾の恐るべきは無教育よりなれる己が身を模範とし因果応報勧善懲悪の意を以て是迄各地に於て懺悔演劇仕りし処(中略)固より拙き女一座の事なれば御覧諸彦の御満足を期するは不容易な業なれど単に幼男婦女子をして家庭教育の一助たらしめん希望の至に御座候故狂言ニは改良ニ改良を加へ十分なる精神を凝し現世己が作りし罪悪の始めより改悛の今日に至る迄の身の閲歴細大漏らさず演劇として聊か以て教誡の近路となし一座大車輪ニ未熟ながらも会長自身も演芸に出勤致し善悪邪正の有様を五倫五常の明るき道に照し義を正し理をせめ速ニ善に趣くを主とし高尚優婉に敏活に演じ(後略)

 

 やや長い引用になったが、この「芝居番付」には、「貧児教育学校創立賛助員島津政子肖像」(写真)も掲げられている。法服に身を包んだその風貌は、鼻筋の通った美形であり、端正で凛としたものである。この肖像写真に付された「島津政子」の肩書きは「貧児教育学校創立賛助員」とされており、「貧児」に施しを忘れなかった「島津まさ」が演劇の傍ら下層社会への関心を持ち続けていたことを窺わせる。また、「人慾の恐るべきは無教育よりなれる」といった彼女の本音もある。自ら「模範」として舞台に立った「まさ」の心情さえ伝わってくるものである。赤裸々に「是迄犯したる自己の罪悪の顛末」を「細大漏らさず演劇とし」、観衆を前に「懺悔」することが、「無教育」の「まさ」に考えられる最善の方法であり、「近路」だった。それを「高尚優婉に」演じるのは、「幼男婦女子」の教育向けに脚色しているからである。

 中流階級以上の家庭向けには、それまでにも女子の啓蒙雑誌として明治18年7月に『女学雑誌』が、明治24年8月には『女鑑』が発刊されていたが、「貞操節義なる日本女子の特性を啓蒙し、以て世の良妻賢母たるものを養成する」(『女鑑』)という性格のものであった。いずれも、女子に「貞操節義」や「良妻賢母」像を求めた、高等女学校設置目的と何ら変わりのない偏向した女性像を掲げていたといえるが、女子の公教育制度にいまだ馴染めない庶民には、剃髪の「貴婦人」がなによりの「模範」となったであろう。活版本の普及によって、一冊の蔵書を囲み、家族団欒のうちに家族共同の教養の糧や娯楽を共有する時間や場が失われつつあったこの時期、「逸脱した世界の所在を開示」(前田)してくれるのは、何も草双紙の絵解きに限ったことではない。芝居もそれを満たしてくれたはずである。「毒婦」の「懺悔」が、「高尚優婉」であればあるほど、女子の「貞操節義」や「貞淑ノ徳」への教育効果は期待できよう。見方を変えれば、この「口上」は、芝居が庶民の娯楽となるだけではなく、婦女子の教育に演劇が大きな役割を果たしていたことへの注意をも喚起させているのである。

 ところで、この「芝居番付」が作成された時期については、つぎのように類推することができよう。明治30年前後、松原岩五郎『最暗黒の東京』(明治26年)や横山源之助『日本の下層社会』(明治32年)が相次いで刊行されたことで、「貧民」はにわかに脚光を浴び始める。また、肖像写真からすると、日本で最初に写真製版が印刷されたのが明治23年8月17日発行「毎日新聞」付録であり、明治28年12月『文芸倶楽部』臨時増刊号に初めて女流文学者(樋口一葉、若松賤子ら)の肖像写真が印刷されている(李孝徳『表象空間の近代』新曜社,1997年,p.157)ことから、少なくともそれ以降の写真と考えられよう。それからすれば、この「芝居番付」は明治30年代に作られたと推定できるのではなかろうか。

 いまひとつ、この「芝居番付」は演劇史の上からも興味深い。「活歴派」「女壮士」というのがそれである。明治5年4月「三條の教憲」布達後、僧侶や神官に加え、戯作者、役者も「教導職」を命じられ、人民啓蒙にあたるが、以来、淫風醜態や荒唐無稽を排除し、それに代わって、史実の尊重や勧善懲悪による国民の教化を主とした演劇だけが許された。その「教導職」は明治17年に全廃されたが、「まさ」が明治24年11月に「権中講義」(職制は一級「大教正」から十三級「権訓導」までが設けられ、「権中講義」はその第九級にあたる)を授かるのはこれと矛盾する。この場合、庶民の間では全廃後も機能していたことを示すものとみなすべきか。

 明治10年代以降、政府の欧化政策に影響を受け、改良を余儀なくされていた演劇界は、当時活歴劇(九世市川団十郎による歴史的写実主義的演劇,小櫃万津夫『日本新劇理念史』白水社,1988年,p.162)や散切劇(明治の新しい風物を舞台に描いた演劇)、壮士芝居(壮士が自由民権思想を民衆に伝えるために興した演劇)が喧伝され、脚本尊重の動きも強まり、脚本改良も進められた。つまり、「活歴」と題された「島津政女改心実録」は、「活」きた「お政」の「歴史」そのままとしての「活歴劇」であり、「女壮士」とは「無教育よりなれる己が身を模範と」して、婦女子に「因果応報勧善懲悪の意を」伝えるため、演劇に情熱を傾けるという「女一座」の決意表明でもあった。

 

 5〈毒婦〉の行方

 

 「島津まさ」が「教導職」廃止後も「権中講義」を名乗り続けて貧児や女子の教育へと接近していったのは、「無教育なれる己が身」への悔恨であったにちがいない。あるいは、『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)に記されたように、獄中で親しくなった「景山英」こと「福田英子」(大阪事件によって明治18年暮れに逮捕投獄された)の影響があったかもしれない。その後の出版物から「景山英」の名は消されていく一方で、〈島津お政〉が女子教育へと傾斜していく辺りは興味深いものがあるが、その内実はそれほど単純なものではなかろう。「懺悔でもなんでも要するに芝居に違ひなかつた。しかも見物はそれが当の人物である所に何等かの実感を期待するだけに一層彼女には苦しい偽善が必要となるに違ひなかつた」とは、〈島津お政〉らしき人物を見かけた謙作(「暗夜行路」)の内的独白だが、謙作をして「本統に一人の人が救はれるといふ事は容易な事ではない」と吐露させた、いまや「島津一座」の座長に納まった「まさ」は大衆の教化という大役を果たさねばならない。そのためには人気の持続が不可欠である。その意味からしても、演劇界の動向や庶民の関心事を的確に把握し、「斯界の改良を企て着々と歩を進め」(口上)ながら全国を巡業していくほかはない。

 時機に叶った興行を意識してのことであろう。明治37年2月10日、日本がロシアへの宣戦布告後間もない、横浜座上演の際の明治37年2月23日付「口上」の冒頭部分はつぎのようなものである。

 

 活歴派真演劇女壮士島津真佐子一座開演御披露

旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人日本女優改良演劇会々長権中講義

 島津真佐子

軍資恤兵金献納演劇島津政女改心録十幕

 

 この頃、横浜の各劇場(2月21日から相生座、25日からは賑座)では「日露の戦争」や「日露戦争大海戦」と銘打った戦争劇を「大詰め旅順口海戦の場は電気作用の大道具」(「横浜貿易新聞」)で上演するなど、一気に戦争ムードが高まっていた。島津一座もその機に乗じ、早々に戦争を取り入れた「改心録」を仕立て、横浜座で上演していたことをこの「軍資恤兵金献納演劇」と銘打った「芝居番付」は物語っている。ここに至り、「旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人」は「毒婦」や「終身懲役」を大々的に喧伝した「改心録」に飽き足らず、「戦争」という時流にまでも迎合し、その初心であった「懺悔」や「改心」という「家庭教育談」の域を逸脱してしまう。

 そうなれば、自ずと限界はやってくる。この「芝居番付」が配布された横浜座興行に当たり、「狂愚仙」と名乗る「横浜貿易新聞」の記者によって、明治37年3月11日から13日まで、「戦争劇と島津政(一)マサは果して改心したか」、「戦争劇と島津政(二)醜悪劇は風教の破壊物なり」、「戦争劇と島津政(三)政は遂に偽善の徒なり」と題した文章を三回に亘って掲載され、「戦争劇」と結託した「まさ」の偽善ぶりは厳しく非難される。さらに、同年3月16日付「醜悪劇と真演劇の由来」(「横浜貿易新聞」)では「島津政女一座」が標榜した「真演劇」(当時隆盛を見せ始めた「新演劇」に対抗し、「真相を演じた劇」という意味合い)が揶揄されるだけでなく、「権中講義は頻りに抽出し違ひの『必ずしも』を振廻して顔を顰め手を振る様の気障(きざ)さ加減と来たら実に嘔吐一斗を催す(狂愚仙)」、「彼等を長く市内に置のは横浜市民の面汚し」とまで徹底的にその浮薄さを攻撃されてしまう。「新演劇」の祖となった川上音二郎一座をいち早く世に送り出し、翻訳劇上演に力を入れるなど、横浜の演劇界は先見性が高いことで知られる。その土地柄を考慮してか、時を移さず「家庭教育談」としての「改心劇」に「戦争」を持ち込むという、無節操な上演を試みた代償は大きかった。ほどなく、その偽善性は辛くも見破られ、敢えなく「島津政女一座」は横浜演劇界から放逐されたとみることができる。付け加えれば、その翌年(明治36年4月)、特赦によって出獄した「花井お梅」(明治20年6月9日箱屋殺しで自首、川口正太郎の小説「明治一代女」のモデル)が「お梅は初舞台のことゝて日々稽古に余念なし」(明治38年7月28日「貿易新報」)と報じられ、皮肉にも〈島津お政〉に取って代わるかのように、「お梅」は横浜座においてその経歴を自ら演じるという演劇活動を本格的に開始する。ここに至って、〈島津お政〉は完全に横浜から排斥されるのである。

 

 おわりに

 

 近代日本の形成期にあたる混沌とした時代状況のなかで、「島津まさ」は彼女なりに罪を悔い改め、誠実に生きようとしたにちがいない。しかしながら、伝説の〈毒婦〉となった〈島津お政〉という人間像が作り出されていった経過をこうしてさまざまな観点から検討するとき、〈島津お政〉という一女性の問題に止まらない、近代日本における文学史や演劇史、教育史等の今日的な問題が浮かび上がってくるはずである。

 やや結論を急ぐようだが、ひとつには近年ほとんど顧みられなくなった明治初期文学の問題がある。〈島津お政〉造形化の変遷は、いま一度「つづきもの」という一時代を飾った文学がいかに複雑な様相を呈していたか、再検討を促しているように思われる。維新後、新しい「文学」が芽生え始めてきた時期、前時代的な勧善懲悪や因果応報から抜け出せなかった「つづきもの」を、「毒婦」を、なぜ民衆は求め、どこに魅了されたのか。近代教育制度が一般に浸透し始めていた時期、なにゆえ演劇は民衆の「教誡」に傾斜し、多くの民衆もまた、なぜそれを歓迎したのか等である。

 一方、演劇史的には、後年「島津政子」が「会長」を務めたという「日本女優演劇改良会」や「女壮士」についてはいまだ研究の俎上に上げられていない。演劇改良運動が「活歴」から「新劇」へと展開していく過程で、全国を巡回した「女一座」の存在は見過ごされているのではあるまいか。また、教育史を論じる際に、庶民の間で機能していた教育実態としての演劇まで視野を広げることの重要性も感じられる。

 ことに、今日国語教育において問題視されている「文学」と「教育」との接点、あるいは乖離という問題など、相互の本質に関わる問題をも、それは提起していると思われる。つまり、「まさ」自身が、特赦放免後、「智海」と名乗る「権中講義」から「座長」「日本女優改良演劇会々長」へと変貌していった事実は、生身の活きた人間は常に変化するということを教えている。また、それと並行するように〈悪婦〉は〈毒婦〉へと書き換えられる過程は、「文学」が本来的に「悪」や「毒」を内包し、常に時代を映しながら、時流に乗ることでその生命を持続し続けるものであり、それは偏向していく危険性を孕んでいることをも示唆している。もちろん、国語教科書に掲載されている、教材と呼ばれる「文学」と、ここでいう「文学」とは大きな隔たりがある。戦前期のナショナリズムに絡め取られた「読本(とくほん)」(国語科講読用教科書)はもちろんのこと、「教育性」という規範から逃れられない教材が、前田の言葉を借りれば、漢文の素読のような「漢語の勁い響きを反復することによって規範への馴化を訓へ」るものとするなら、「文学」は「なだらかなリズムに乗せて規範から逸脱した世界の所在を開示」してみせるものである。教材の向かう先は「善」や「徳」であり、「文学」そのものは「悪」や「毒」でもある。「教育」と「文学」とでは、当然ながら向かう方向は異なる。ゆえに、「文学」を「文学教育」へとそのまま移行させることはできまい。あるいは、教授者と学習者という問題への糸口ともなろう。〈島津お政〉の造形化は、そうしたさまざまな問題を提起しているのである。

 なお、冒頭で触れた志賀『暗夜行路』ではこの「お政」を「(まむし)のお政」としているが、「蝮のお政」については篠田鉱造『幕末明治女百話(下)』(昭和7年,四条書房刊,岩波文庫再録,1997年)に本人の聞き書きがある。また、それを基にした長谷川伸の小説『蝮のお政』もあるが、「蝮のお政」とは前科10犯を勲章にした女掏摸「内田まさ」をいう。つまり、「懺悔する意味で自身、一代記を演」じたという点では〈島津お政〉と同一人物と考えられるが、「蝮のお政」は別人であり、これについては稿を改めたい。

 

《付記》

 旧漢字はすべて新字体に改めた。なお、資料の閲覧に際しては、国立国会図書館特別資料室、神奈川県立図書館かながわ資料室、横浜開港資料館に格別なご高配を賜りました。記して深謝いたします。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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眞有 澄香

マアリ スミカ
まあり すみか 神奈川県生まれ。博士(教育学)。関東教育学会研究奨励賞受賞。編著書に、『「読本」の研究 近代日本の女子教育』(2005年、おうふう刊)など多数。

掲載作は、2002(平成14)年11月「学校教育学研究論集第6号」(東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科)所収の初出「〈毒婦〉という教育―〈島津お政〉の造形にみる近代日本の文学と教育―」を、2003(平成15)年7月、日本ペンクラブ「電子文藝館」掲載のため改稿。