人生派の批評と藝術派の批評
一
文藝批評の標準又は態度といふことが、事新しく最近文壇の一つの問題となつたが、この問題の解決は、要するに人生派の批評と藝術派の批評との是非論に外ならない。今更いふまでもなく文藝批評の標準を、鑑賞家乃至批評家の主観以外の外的な境地に求めるやうなフォーマリズムの批評は、今日ではすでに跡を絶つた。「人は皆自己を標準として万事を判断する。人は自己の外に何等の標準をも持たない。」と云つたアナトール・フランスの言葉はたしかに真理である。今日の文藝批評においても亦この「自己」の外に何等の標準もないのである。従つて今日の文藝批評は、その意義もその価値も大部分はその批評家の「自己」の如何にかゝってゐるといふことになる。言葉を換へていへば、その批評家の懐抱する人生観そのものゝ
さて人生派の批評とはいかなるものか、藝術派の批評とはいかなるものか、私は今この二つの文藝批評の特質と価値とをいさゝか
二
人生派の文藝批評のいかなるものであるかを説明するには、この派の批評の代表と目せられるものを例證するのが最も便利である。この意味で私は暫くトルストイの批評を一瞥する。
トルストイの「藝術とは何ぞや」の一書は、彼れの宗教的藝術観を主張した点で注目さるべきものであると共に、所謂人生派の藝術批評の好典型としても充分注目さるべきものである。トルストイはこの書の中で、本当の藝術と
第一の感染性の多寡とは、作者の経験した感情を藝術品を通して第三者に伝へ得る度合の多寡といふことである。すなはち本当の作品は、それを第三者に伝へ得る度合が非常に多く、似而非藝術は非常に少ない。更に言葉を換へて云へば、本当の藝術は「あらゆる人に近附き得る」一般的普遍的なものでなければならぬ。たゞ同好の少数者に又は一階級にのみ読まれ、聞かれ、観られるやうな藝術は、この意味から
「吾々はこの宗教的意識を土台として一切の生活現象を評価しなければならない。而して藝術も亦これに漏れない。すなはち、吾々は、一切の藝術の世界から、この宗教的意識から流露する感情を伝へる藝術を選んで、これを充分称揚し、この感情を伝へない藝術は、これを極力排除しなければならぬ。」
又、如上現代における宗教的意識とは、トルストイに従へば、原始基督教的意識といふことの別名であるから、この宗教的意識を伝へる感情といふことも、っまりは原始基督教的感情といふことに外ならない。従つてトルストイの第一の標準も亦、結局、この原始基督教的感情の多寡といふことゝなるのである。かくしてトルストイは如上宗教的意識を伝へる感情を描くことを以て藝術家の任務乃至道徳であると主張してゐるのである。
トルストイは以上の立場から一切の藝術を批評してゐる。彼れのこの立場に立つ時は、近代文藝の大部分は劣等な、堕落した藝術とならざるを得なくなる。何となれば近代文藝の多くには、殆んどトルストイの思惟するやうな原始基督教的の感情を描いたものがないからである。否、むしろさういふ宗教的感情に対して反感を持ち、懐疑を挾み、一視同仁、四海同胞といふやうな共同感情、普遍感情よりも、自己の特殊な個的感情を描いたのが近代文学の多くであるからである。従つてイプセンでもメーテルリンクでも、ボードレールでもベルレーヌでもニイチェでもユイスマンでもワグナーでもべートーベンでも多少でも個的特色ある近代の文学者は、トルストイからはすべて非難攻撃の対象となつてゐないものはない。
トルストイが文藝批評の最も重大な標準として
三
人生派の文藝批評としてはトルストイの外に多く挙ぐべきものがある。「自然派の小説」の一書で、ゾラ及び仏国の自然主義を極力非難して、自然主義の唯物論的人生観の代りに人間力を強調したブリュンチエール、「堕落時代」の一書で、近代文学の個人主義的、頽廃的、誇大妄想狂的傾向を痛罵したマックス・ノルダウ等も亦、この派の批評における代表者と目せられてゐる。彼等の人生観は、その細かいところになると何(ど)れもちがつてはゐるが、たゞ人類全体に向つてその同胞感的理想を高く掲げ、それによつて一切の藝術品に臨んでゐる点は何れも同じである。従つて彼等の文藝批評からは、所謂近代文藝の多くが無価値であり、無意義であるといふ結果となるのは当然のことである。さて、これに対して藝術派の批評とは如何なる特質を持つてゐるか。
藝術派の批評は、人生派の批評が人類全体のための一種の理想をその最後絶対の標準とするに対して、たゞに批評家その人のその作品から受ける感受性を唯一の
すでに一切の理想を棄て、成心を去り、虚心以て与へられた作品に対するといふことは、言葉を換へて云へば、その作品から、出来るだけ印象を多く、且つ素直に受け入れるといふことである。そしてさうすることは、その印象にして受け入れるに値するものである限り、それによつて「自己」に何物かを附け加へることである。「自己」に何物かをつけ加へて、自己の生を更に拡大し、増進することである。この意味から云へば、藝術派の批評は、人生派の批評に比して、更に自己に執した批評である。より多く自己を
「実際のありのまゝに対象を見るといふことは、すべての真正な批評の目的であると云はれてゐるのは正しい見解である。美的批評において対象を実際のありのまゝの姿において見るといふことは、言葉を換へて云へば、実際ありのまゝの印象を知るといふこと即ちそれを明かに識別し、感得することである。音楽、詩、人生の藝術的な諸様相、即ち美的批評の対象は実に
ペイタアの如上の見解はたしかに藝術批評の根本間題である。彼れはトルストイその他の人生派の人々のやうに、一個の理想を掲げそれを標準として作品に対することをしない。彼れはたゞ与へられた作品が自分に対してどういふ関係を持つてゐるかを
」と。以てそのいかに、一流派のみを是認するトルストイ及びその一派と異なるかゞわかるではないか。藝術派の批評は、かくの如く与へられた対象に対して一定の標準から何等の選り好みをしない。又何等善悪高下の価値をも定めない。たゞその対象たる作品が自分にいかに投影して来るか。いかに自己に印象するか。と、いふことを語るのみである。アナトール・フランスが、与へられた作品に対して全力を
四
かくの如くすべての対象を、同一のものと
モウパッサンがその「ピエルとジャン」の序文に書いたその小説論の中にもこの点で注目すべきものがある。彼れはペイタアが批評家の立場から、作家の気質を尊重し、併せて批評家の気質の重要といふことを力説してゐるに対して、彼れは作家の立場からこれを力説し強調してゐる。
モウパッサンは、或る者は作家に向つて「喜ばせて呉れ」と云ひ、或る者は「慰めて呉れ」と云ひ、或る者は「感動させて呉れ」と云ひ、或る者は「夢を見せて呉れ」と云ひ、或る者は「笑はせて呉れ」と云ひ、或る者は「泣かせて呉れ」と云ひ、或る者は「考へさせて呉れ」などゝ云ふが、それらは
この言葉は作家としての彼れの抱負を語るものであると共に、文藝の批評家に対する彼れの要求を端的に表白したものである。彼れは批評家に対して更に次のやうに述べてゐる。
「真に批評家たるの名に値する批評家は、選択好悪の情を捨てた解剖家でなくてはならない。彼れは与へられた藝術の産物に対して、単に藝術的価値を評価する人でなければならぬ。あらゆる物に向つて開放された彼れの理解力に、しばらく自己の個性を没して、善良な作物を発見し、賞讃するだけの余裕を存し、たとひ一個人としてそれを好まぬまでも、批判者としてそれを味ひ得るものでなければならぬ。」
又、曰く
「彼れが藝術家である以上は、彼れの好むがまゝに物を理解し、視察し、思考するの自由を与ふべきである。理想主義者を批判するためには、吾々は充分に詩に対する同情を呼びおこし、然る後彼れの夢幻の、陳套であること、平凡であることなどを指證すべきである。もし自然主義者を批評するならば、宜しく実人生における真理が、彼れの作に描かれたる真理と相違するや否やを明示すべきである。」
モウパッサンの以上の言説はすなはち、「彼れに対してはすべての時期、すべての型、すべての趣味上の流派はそれ自身に於ては同等である」といふペイタアの主張を裏書きしたものと見るべく文藝の批評家に対する要求としていかにも
一切の文藝批評家は、所詮この意味における人生の熱愛者でなければならぬ。一個の理想主義的人生観を唯一の標準として作品に対する人生派の批評よりも、私は如上の立場から、むしろ一切の理想と成心とを捨てゝ、自己の印象、ペイタアの所謂「深く感動する能力」を唯一の標準として、与へられた作品に対する藝術派の批評に、より多く
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/03/09
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード