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世界マグロ摩擦!(抄)

南太平洋の島々にて

――海とマグロとアイランダーズ

 フィジーにて

 南太平洋島嶼(とうしょ)国が一国で大学を運営するのは財政的にも負担が大きい。そこで南太平洋フォーラムのメンバー国が集まってそれぞれ基金を設定し、この全地域を統括する総合大学が誕生した。一九九三年七月、私はフィジー共和国で一週間にわたって開催される南太平洋民族科学会議に出席することになった。フィジーのスパ飛行場には大学から出迎えのバスがきており、到着早々南太平洋島嶼国を代表する科学者たちに囲まれてしまった。バスに着席するやいなや、今回の会議の議題をめぐって、もう議論が始まった。ウエスタン・サモアやニウエからきた漁業専門家たちが、「西欧のいわゆる先端科学技術が、南太平洋の伝統的文化や漁業の形態をいかに破壊してしまったか」、それぞれ自分たちの意見を体験にもとづき開陳しはじめた。戦後つぎつぎと南太平洋の中に散らばる小島が独立したが、島嶼国が一堂に会し、科学的討議をするのは初めてなので出席者はそれぞれの思いを抱いていた。この広い太平洋地域から一〇〇人以上にのぼる科学者や実務家が集まり、南太平洋に脈々と語り継がれてきた伝統技術の今日的価値を、あらゆる角度から総合的に議論し、再評価しようという。試みとしては気宇壮大である。

 自己紹介もそこそこに、会議は早朝から深夜に至るまで休むことなく、一週間にわたって続き、取り上げられたテーマもまた多岐におよんだ。そのため関心が拡散しすぎた嫌いもあるが、画期的な試みであった。この会議における中心的な議題は、既にその評価が定まった天文学と航海術、タロイモやヤムイモを中心とした根栽農耕と焼畑農業、ならびに伝統的な漁法についてであった。この分野において、自分たちの民族としてのアイデンティティーを探り当て、それを復活させるとともに、それらを次の世代に引き継いでいくことが、この地域の将来における自立を促す大きな要因であることは、衆目の一致するところであった。四〇〇〇年近く前までさかのぼることのできるラピタ土器、野生動物の家畜化、自己完結型のエコ・システム(生態系)など、優れた歴史と伝統を持つことは間違いないが、それらに今日的意義を持たせ、さらに加えて現実に活用するとなると至難の技である。

 伝統と西欧化のはざまで

 南太平洋大学が、この会議を開催しようとした(ねら)いのなかには、当然政治的なものも含まれている。一つは地球の三分の一を占める広大な太平洋地域に島嶼国(とうしょこく)が広く拡散しているにもかかわらず西欧諸国は南太平洋島嶼国として一つに(くく)りあげてしまうこと。第二にあらゆる意味で西欧先進諸国の影響下に取り込まれてしまっていること。同時に島嶼国自体が西欧の科学技術に追いつこうとする呪縛(じゅばく)から逃れられず、金縛り状態に陥ってしまっている現状をあらためて再認識する。第三に、このまま南太平洋島嶼国が二一世紀に進んでいくと、各国は求心力を失い、地政学上、また経済・政治・文化の面でもバラバラにされてしまう危険性が出てくること等々である。

 植民地化されて久しい島嶼国がなぜ、今ごろになって急に大騒ぎするようになったのだろうか。それにはそれなりの理由がある。まず大陸国と違い、島という大海原によって閉鎖された限定的な場所では、自然と人間はすべてのレベルにおいて共生関係にあること。したがって一見、重要でないと思えるような小さな一つの秩序に手を加えるだけで、すべての環境が破壊されるに至るという事実を、この地域が世界に先駆けて体験したという驚きであった。これこそ今、先進諸国が鳴り物入りで騒いでいる〝地球に優しい環境〟、すなわちサステイナブル(sustainable)な環境保全そのものであった。それはまた、南太平洋諸国がこの分野で先史以前、すなわち九〇〇〇年近い前から、それを経験則として学習、実践してきたという事実の再認識であった。そこでは資本主義国家が金科玉条とする拡大再生産の理論は通用せず、むしろ単純再生産による自給自足が代々引きつがれて行なわれてきたという事実である。島という限られた空間では、爆発的な人口増加も漁業資源の()りすぎも、島民の生存を(おびや)かす大きな要因であった。陰暦と密接な関係を持つ出漁制限、それに付随するもろもろのタブー、獲った魚の再分配、珊瑚礁(さんごしょう)の内と外が厳格に分けられる漁撈(ぎょろう)権利ならびに男女の分業体制は、島という閉じ込められた社会で生き延びるための絶対基準であった。それがいつの間にか西欧技術によって取って代わられ、島の指導者たちは、いかにして西欧から多額の援助をもらい、かつ最新の技術を導入できるか、そのことだけを競うようになってしまった。島にとっての近代化は、まさに西欧へのお追従(ついしょう)といっても過言ではあるまい。

 近代化によって失ったものは

 これらの矛盾について、クイーンズランド大学の大学院生ウイリアム・エッシャーさんが赤裸々(せきらら)に告白している。

「私たちにとって、近代化とはみずからを取り巻く環境をいかにして支配し、開発するかであり、したがってその一点に精力を傾注してきました。その結果が何をもたらしたか。先祖が知恵と時間をかけて築き上げてきた伝統的生活スタイルの放棄につながったのです。人々は山岳部から開発の進む都市へと流出し、それに対応するインフラ(infrastructure =経済基盤、下部構造)づくりに忙殺されているのが現実です。同時に人々の間で貧富の差が拡大し、もろもろの社会矛盾が増幅されてきました。山村は放棄され、この南太平洋地域のエネルギーの源であった共同体意識や農業生産体系が崩壊していったのです」

 彼女は、こうした現象面のみならず、それがまたこの地域の民族自立と自助努力を破壊したと強調する。そして、西欧の強調する個人主義、開かれた社会、分権思想が、この地域を発展させてきた集団主義、中央集権、共同体意識に対して、それほどまでに優先する概念であり、価値観であったのかと、問いかけている。もちろん、西欧の知識・科学技術がこの地域に与えたインパクトは計り知れないし、それをいまさら否定できる訳でもない。しかし、こうした自覚意識を南太平洋の人々が堂々と訴えはじめたことが重要なのだ。

 漁撈民たちは、エコ・システムと共生していた

 もう一人、ソロモン諸島の中でも、もっとも隔離され、かつ自給生活を依然として続けている島から参加した女性教師は、十数種に及ぶ魚・貝の標本を持ち込み、それぞれの伝統的漁法、タブーを解説した後、それらがその地域の経済システム・社会システムの根幹を形成していることを具体的に説明してくれた。

「ソロモン諸島をダイビングの宝庫として訪ねる人が年々増加しています。彼らにしてみれば子供のおもちゃの延長程度にしか思っていないでしょうが、水中メガネやシュノーケルあるいはモリ、フリッパーを持ち込んできます。そして滞在中はひたすらスポーツ・フィッシングやシュノーケリングに熱中します。しかし、時間がたちようやく気づいたのですが、これら単純な道具が、じつは私たちの住む集落のエコ・システムを知らず知らずのうちに破壊していたのです。フリッパーとシュノーケルを手に入れた子供たちが、今や、かつては成人した男たちの専業であったアウター・リーフまで出掛け、魚を獲るようになりました。水中電灯の普及は、たいまつを使い、ある限られた夜だけ出漁するトビウオ漁を、年間を通じて行なえるようにしてしまいました。女たちが協力して小魚を追い上げる珊瑚礁内の漁も(すた)れはじめています。子供たちが獲ってくる魚で部落の消費をまかなうのに十分すぎるほどになってしまったからです。そして気がつくと、ある種の魚がリーフ内から消えてしまっていました」

 このいかにも女性らしい、きめこまやかな観察を聞いたオーストラリア人学者は、これは逸話のレベルの話であって科学的ではないと一笑に付すのであった。そして真の科学は、すべての条件、問題をまず想定し、統計、データを駆使したうえで結論づけられるものである、と誇らしげに断定し彼女を子供扱いした。

 しかし、二四〇〇年前、ギリシャに生まれた哲学者アリストートルはすでにウニの卵巣(らんそう)が月の満ち欠けと密接に関連していることを観察している。ただそれが科学的に完全に証明されるには近代まで待たねばならなかっただけで、だからといって経験則が科学に劣るということはいえまい。南太平洋の人々の生活はまさにこの延長線上に位置しているのではないだろうか。そもそも漁業とは日常の生活を規制する社会システムそのものであり、それがこの地域で温存されてきた、と解釈すべきであろう。それはまた、島の人々の生存を永続させるため、長年にわたって観察され、語り継がれてきたエコ・システム、すなわち島とそれを取り巻く自然環境との共生関係なのだ。大規模に獲って売る遠洋漁業とはまったく縁のない採取漁法が、じつは根源的な漁業のはじまりであることを、彼女はわれわれにいみじくも教えている。遠洋漁業や、大規模な延縄(はえなわ)漁業、あるいは畜養は、その意味で、彼女の訴えるエコ・システムとはもっとも相容(あいい)れない関係にある。この視点は、現在あまりに近代経営化されてしまい、資源保護の観点がややもすると見捨てさられがちの、マグロ問題の本質を知る手掛かりになるかもしれないのだ。

 漁民は自然の営みを知っている

    ――大漁を招く唐桑のエビス様

 私がマグロの仕事に首を突っ込み始めてまもない頃、宮城県のマグロ遠洋漁業の里、唐桑(からくわ)恵比須(えびす)棚を訪ねたことがある。当主の畠山氏が挨拶もそこそこに、「まずは〝エビス様〟にご挨拶して下さい」と岬の先端にあるお社に案内してくれた。個人が建てたお社ということもあり、小さな神棚を想像したのだが、じつに立派なお社で、総(ひのき)造り、しかも宮大工を棟梁(とうりょう)にして建てたものであった。そのほか畠山氏の家屋敷のなかには八百万(やおよろず)の神々が所狭しと(まつ)ってあり、漁業が大自然の厳しい海を相手にするものであることを、あらためて認識させられた。そのエビス様の話を取り(まと)めると、次のようになる。

 昔、鮪立(しびたち)湾の入口にあたるところにマグロを獲るための大謀網(だいぼうあみ)が仕掛けられてあり、ある日その網に大きな石が掛かった。よくみると石は人間が胡座(あぐら)をかいている姿にみえる。これこそ海の底からやってきたエビス様に相違ないということで早速畠山家に祀られることになった。やがて畠山家は連日大漁にめぐまれ、その話を伝え聞いた鮪立の漁師たちもこのエビス様にあやかろうと出港前にはきまって参拝し豊漁を祈願した。不思議なことに、その後、鮪立はいつも豊漁にめぐまれて、隣の宿浦(しゅくうら)では不漁の日が続くという奇妙な現象が続くようになった。隣村の漁師はおもしろくない。となれば自分たちにも運がめぐってくるように、このエビス様を運び出すしかない。すると今度は鮪立のほうが漁がさっぱりという事態になってしまい鮪立の漁師が騒ぎだすしまつとなる。何とかしてエビス様にまたお帰り願うしかない。となると、また向こうの若者が騒ぎだし――といった事態の連続である。そのうちひと回り小さいエビス様がまた網に掛かり、例によって例のごとく、同じような事態が発生する。こんな騒ぎが続くうち、エビス様を預かっていた家の主人が病気でなくなってしまう。自分の代になって運の悪いことが続くのをなげいたこの家の跡とり息子が占師におうかがいをたてたところ、エビス様が恵比須棚に帰りたがっているとのご託宣。こうしてエビス様は、紆余曲折(うよきょくせつ)を経てめでたくお里帰りをする。以来、恵比須棚はマグロの遠洋漁業一本で生きてこられたといった話なのである。

 この話と前述のソロモン諸島の教師の話には、多くの共通項がある。漁民たちは、村落共同体としての団結、協力、そして日常生活から導き出される知恵、魚のエコ・システムを知り尽くし、犯してはならない漁業上の(おきて)を守り、水産資源の適切な管理を行ないながら生業として漁業を引きついでいこうとする姿勢である。いわば、自然の恵みである漁業資源はある意味で人智(じんち)のおよばない自然の賜りものとみたてるエコロジー的概要がそこには息づいている。

 アイランダーのコスモロジー――海と陸とを宇宙として

 クック諸島は国防・外交をニュージーランドに任せている。だから、時に外からは準独立国として見られがちである。しかし、国民自身の自立した意識と行動を(うかが)い知れば、まさに堂々とした独立国といっても間違いではない。この国で総理大臣を八年近くも続けたジョン(きょう)に会い、国の将来像を聞く機会があったが、他の一流国家に決してひけをとらない見識の持ち主であった。お会いして話を聞くうちに、彼の博識ぶりに納得させられた。彼は本来医学をおさめた人物だが、島嶼(とうしょ)国の出身としてNASAのディレクターに就任した最初の人物でもある。数奇な人生を歩んだ彼の自叙伝『アイランドボーイ』は文明とはまったくかけ離れた島で生まれ育った一人の人物の成功物語でもあるが、同時に島のコスモロジーについて独特のアイディアを開陳しているところがおもしろい。彼の説によれば、南太平洋のアイランダー(島人)は、世界でもきわめてユニークな民族なのだそうだ。

「それは私たちの住む居住環境の特殊性、すなわち島という陸地と、それをいとも簡単に飲み込んでしまう圧倒的なまでの大海原の間にあって、その二つを、時になだめ、時に活用しつつ、基本的には共生してきた民族だということです。それをある人類学者は、海洋を支配してきた海洋・漁撈民族と規定したり、またある者は焼畑農業とタロイモ、ヤムイモを中心とした根栽農耕にその本質があると解釈したりします。また、あるものは海を陸地と同じ、あるいはそれ以上の存在としてあがめ、海と本格的な共存を始めた〝漂流民族〟 と特別視したりします」

「海図もなしに五〇〇〇キロ、一万キロに及ぶ距離を私たちはまるで自分たちの庭のように自由に航海してきたのです。まさに自分たちの住む世界を宇宙的コスモロジーとして時間・空間の両面から(とら)えてきたのです。したがって、私たちの生活は大陸を活動の中心として生きてきた西欧人とは、本質的にまったく違います。西欧では農耕文化と牧畜、あるいはもっと乾燥した大陸内陸部では狩猟・牧畜文化が密接に組み合わさり、そのうえに宗教、言語、血縁関係、村落共同体が成り立っているからです」

「しかし、私たちにしてみればそれらは文化の一端にしかすぎません。南太平洋の人々は、海と陸地を自由な空間として捉えてきました。時には移動の生活を選択するかと思えば、時には定着するといった具合に、自在に自然と共生してきました。二〇年ほど前にフィジー島のシガトガにある大砂丘で本格的な考古学の発掘調査が行なわれました。古い遺跡は四〇〇〇年以上前のものであることがすでに立証されていましたが、面白いことに、その上に幾層にもわたって新しい遺跡が築かれているのが新たに実証されたのです。この遺跡は、じつに興味のある事実をわれわれに解き明かしたのです。最初に漂着した住民は、砂丘を定住の場所と決め、ただちに村づくりをはじめたのですが、一年中吹き寄せてくる貿易風のため、ちょっと油断すると村そのものが砂に埋没してしまうことに気づくことになります。砂丘の移動はわれわれの想像をはるかに越えるもので、少しでも人手が足りなくなると、砂を取り除くことさえできなくなります。村の周囲がすべて砂で囲まれ埋没してしまうこともあるのです。もちろん土着の先住民、あるいは遅れてやってきたグループがすぐ近くに定住し、いざこざに巻き込まれたこともあるはずです。それ以外にもいろいろな困難に遭遇したに違いありません。やがて村は放棄され砂丘の中に埋没してしまいます。時が()ち、また新しいグループが漂着します。そして、この先住民が見捨てた砂丘のうえにまた新しい生活基盤がきずかれるのです。定着したものの多くは漁業を生活の(かて)にします。ところでシガトガという言葉ですが、三つの意味があります。私たちは無数の破片が堆積(たいせき)している遺跡の上に立っていますが、一つはシガトガ川そのものであり、一つは集落であり、一つは集落が拡散し大きくなった都会そのものを示しています。いかに急激に山岳部からこの川を伝って人口移入が進んでいるかを証明しています」

「このシガトガ川の近くから、良質の粘土が今でも産出するのですが、彼ら先住民はこの粘土を使って土器づくりに励みます。ほとんどは調理用の(つぼ)です。それを使って彼らは魚を煮たり焼いたりしたのです。事実、この砂丘からはおびただしいまでの、土器の破片が出土しています。ラピタ土器とよばれるもので、風向きによって、時に彼らの墓場跡や、かまど跡が地表面に露出します」

 夕闇(ゆうやみ)迫る頃、私は貿易風が吹き付ける砂丘を歩きながら、偶然ではあるが二つの風化した白骨に遭遇している。土器の破片を丹念に拾い集めると、時にその壺をつくった先住民の指紋が残っているのを見つけることができる。そして、その指紋をなぞりながらはるか遠い昔、この地に定着した先住民にしばし思いを馳せることになった。

「さらに重要なことは何代にもわたる彼ら先祖の墓が、まとまって組織化された状態で発掘されたのです。何代にもわたって定住した(あかし)でもあります。しかも不思議なことに、彼らはすぐ隣の集落とは血縁を結ぶような濃厚な交流をしていなかったようなのです。調査がまだ十分ではなく、断定するのは性急ですが」

 サンゴ礁の小さな地球――大地と海と人間の共生

 「陸と海を一大宇宙として生き続けた私たち先住民のロマンが窺えるでしょう」といたずらっぽく微笑(ほほえ)みかけ、こちらの反応を窺うジョン卿の顔が印象的であった。

「事実、ミクロネシアと呼ばれる島々にも、いまだにポリネシアの文化を継承し、周囲から独立して生活し続ける村がかなりあります。ポリネシア・アウトライアーと呼ばれていますが、これも不思議なことです。この人間と自然の共生のドラマ、それを何千年にもわたって実践してきたのが南太平洋のアイランダーなのです。エコ・システム、エコロジーといった言葉が最近ずいぶん使われ、環境破壊だと騒がれていますが、これはまさに地球を痛め続けてきた人間のおごりに神が怒った結果なのです。先進国の人々は開発、技術進歩の名のもとに、母なる大地、母なる海を破壊してきたのです。われわれは、その大地、海、そして人間を一体として共生してきたのです。南の珊瑚礁の島は、島全体に民族の知恵と細かい配慮が行き届いた、自己完結型の小さな地球だったのです」

「もう一つの例を挙げましょう。パプア・ニューギニアでも同じような共生の知恵が見られます。豚文化です。ある地域では子豚が生まれると一定の数を野生に戻します。またある地域では逆に野生の子豚を囲い込んで上手に育てます。西欧型の牧畜の原点といってもいいでしょう。これも先住民の英知の集約があってこそできるんです。野生の動物を本格的に家畜化し、生活の一部に取り込んだのは間違いなくわれわれの先住民なのです。われわれの豚に対する取り扱い方、その多様性こそ、われわれが宇宙人として生きてきた証拠でもあるんです。狩猟に依存する山岳部では、労働力がきつく、子豚を育てるのは割に合いません。また、よりよい品質の豚を維持するためには一部を野生に戻したり、野生の種と交配させたほうがいいのです。これが共生の知恵なんです」

 島のコスモロジーを語り始めると、彼の話は終わることがない。

 南太平洋には漁撈(ぎょろう)文化の原点がある

 ジョン卿の話を聞いていると、遠い昔、彼らはわれわれ日本人と同根だったのではないかとさえ思えてくる。だから漁撈文化に島国日本を重ねあわせるとつい連想が進み、心の片隅で(おも)い抱き続けてきた、日本人南方起源説にどうしても肩入れしてしまう。大島襄二(じょうじ)氏は「漁撈文化論」(『魚と人と海』三五〜三六ぺージ、一九七七、日本放送出版協会)の中で、こう述べている。

「文化の基底の問題として、魚を()ることと魚を食べることとは、日本の歴史の中で確固たる地位を保っている。しかし魚を売ること、売って(もう)けることは、あまりうまくいかないものという形で固定してしまった感さえある。(中略)『漁撈』という語から『漁業』という語へ、そしてさらに近代的な用語として、『水産』という表現になるにつれて、基盤にあった『漁撈文化』はその色が薄くなり、忘れ去られようとしているのではないだろうか。漁撈文化はいまこそ全面的に見直されなければならない」

 まさにこの問いかけの基盤が、南太平洋にある。私はここを起点として、「水産業」の頂点に立ち、かつ専門家が「大物」と呼ぶ「魚のなかの魚」、マグロ漁業の本質についてあらためて問いかけてみたい。

キリバスのマグロをめぐる〝トロイの戦争〟

 かつて太平洋戦争時、日米両軍が激突し、戦闘をくりかえしたギルバート、エリス諸島。それだけで読者の何人かは、苦い記憶をたどれるはずだ。いま南太平洋諸島の地に立ってみると、ブーゲンビリアが咲き乱れ、一年中とだえることのないこの平和そのものの南の島で日・米が国家のエゴをむき出しにして死闘を繰り返したことなど、想像すら出来ない。人間の強欲さ、無知さ、思いあがりを思い知らされるばかりだ。第二次世界大戦後、これらの島々は再び熱帯の楽園に戻るはずであった。南太平洋独自の秩序が回復し、歴史から(ひそ)かに、置き去られ、そして静かに世界の潮流から離脱してゆくはずであった。しかし、経済成長一点張りの戦後の世界にあって、歴史は思わぬ方向にゆれ動く。これらの地は、地球上に残された「最後の楽園」のイメージとともに再び脚光をあび、押し寄せる観光客の波にのみ込まれてしまった。

 このギルバート諸島は、一八九二年にイギリスの保護領に編入されている。以来、徹底した植民地化が進められたが、戦後の民族自立意識のたかまりと共に一九七九年、キリバス共和国と名をかえ独立した。三三の島々から構成される共和国の人口は八万人強で、ほかのミニ南太平洋諸島国とさして変わらない。しかし、このミニ国家の占有経済水域は五〇〇万平方キロにも及び、世界でも飛び抜けて広い。二〇〇海里時代を迎え、それぞれ隣り合わせの沿岸国が同じ領域を主張する以上、実際の経済水域は計算どおりにことが進むわけではない。東シナ海や日本海はその典型例で、日本、中国、韓国、ロシアなどの主張がぶつかりあい、わずか数海里しか領有できない。その点キリバスは隣国を心配する必要すらない。

 このキリバス共和国が突然、国交もない旧ソ連と八五年に漁業協定を締結した。国際緊張から無縁だと思われていたこの地域が、久々に世界の脚光を浴びた瞬間でもある。

 この地域の秩序維持にことのほか神経を使うアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド三国は、こぞって、このキリバス共和国を〝トロイの馬〟ならぬ、〝トロイの海馬〟と呼んで非難した。「タツノオトシゴ」が英語で〝sea horse〟(海馬)と呼ばれるところから(もじ)ったものである。

 旧ソ連が、南太平洋のど真ん中に、潜水艦の秘密基地を作ることを計画しているのだ、という噂がまことしやかにささやかれ、それが一層非難を増幅させた。アメリカは経済援助で翻意させようと、すぐさま日本に対し、キリバスに対する経済援助を大幅に増やすよう圧力をかけた。一年後の八六年のキリバス共和国に対する日本のODA(Official DevelopmentAssistance 政府開発援助)は、間違いなく五〇パーセント近く急増している。この背景を分析していくと、本質的な対立の理由はマグロ資源にあったことが浮かび上がってくる。

 キリバスのみならず、この地域はいずこも同じだが、ココヤシ、サトウキビ、あるいはわずかな一次資源を除き、めぼしい産業がない。結局、水産資源に依存するしかない。とりわけキリバスは広大な経済水域を持つだけに、そこから得られるであろう権益に、大きな期待を持つのは自然の成りゆきだった。更に幸いなことに、この地域はパプアニューギニア独立国、ソロモン諸島とならび、カツオ、キハダマグロ(Yellowfin Tuna)の棲息地(せいそくち)なのである。今日、日本が、韓国などとともに、キリバス共和国と入漁料方式によるマグロ操業協定を結んでいるのはそのためである。

 *キリバスとの漁業交渉――一九七八年ギルバート諸島周辺に、七九年ライン及びフェニックス諸島周辺に二〇〇海里漁業水域を設定し、八三年に領海一二海里に拡大した。わが国との政府間協定は七八年発効した。ランプサム方式から個別船方式へ八四年八月に移行することで合意し、九月一日から八五年八月三一日までの、一年間の操業条件が決定した。操業条件については、民間協定(自動延長つき)で定められており、その後の変更ののち登録料一隻(せき)当たり年間七万円に、入漁料は、毎月の魚価連動方式で決められる。九一年六月の場合、一航海当たりマグロ延縄(はえなわ)船七三万四〇八○円(一〇〇トン未満船)、六五万四七二〇円(一〇〇トン以上船)、カツオ一本釣船一〇八万四三三六円となっている。(『水産年鑑』九七ぺージ、一九九二、水産社より)

 〝シイ・チキン〟摩擦――イエローフィンを追え!

 

 このキハダマグロだが、日本を基準にするとサシミ用マグロというよりは缶詰材料として重用され、かつ需要が大きい。とくにアメリカでは〝シイ・チキン〟、「海の鶏肉(とりにく)」と呼ばれ、女性に重用されつつあった。脂肪の()りすぎからくる健康障害、太り過ぎを避けるため、脂肪分が少なく、かつ高蛋白(こうたんぱく)の缶詰が求められた。アメリカは、この〝シイ・チキン缶詰〟の「(もと)」となるキハダマグロを求め、広く太平洋各地に進出し、大型巻き網船で大量のキハダマグロを捕獲し続けていた。その乱獲にクレームをつけたのがキリバス共和国である。アメリカは独自の理屈でもって、ただちに反撃に出た。マグロは、大陸棚に()みつく魚類とは違い、高度回遊魚であり、それゆえどこの国の主権もおよばない無主物である。ゆえに自由に獲ることができると主張し、キリバスの主張を無視する態度に出た。アメリカの主義主張は時に独善的であり、滑稽(こっけい)にすら思えることがあるが、大国のエゴとはこんなものなのだろう。アメリカの業界は、それを(にしき)御旗(みはた)として、時にキリバス共和国の領海にまで進出し、キハダマグロを追い続けた。大国のエゴがキリバス政府を苛立(いらだ)たせたのだ。ただでアメリカに根こそぎ資源を獲られてしまうなら、お金を出すというソ連と話し合ったほうがいい、というのがキリバス政府の最後の判断であった。

 アメリカ、オーストラリアをはじめとする西欧諸国の情報機関は、公式にいえば何らの対抗手段、行動を取らなかった。しかし背後で、このキリバス・ソ連の協定つぶしに徹底的にとり組んでいた。それが功を奏したのだろう、この協定はたった一年で失効する()き目にあう。日本は西欧のこうした動きに呼応し、キリバスに対して、近代化されたマグロ船の供与をはじめたほか、漁業技術者や、冷凍施設の技術者をあいついで派遣、大幅な政府援助を行なったのであった。

 アメリカが世界の警察官を自認し、他国の利害を往々にして無視する行動に出るのはいまや日常茶飯である。その究極の(ねら)いは、自国のインタレストを擁護するためであり、この事件もその典型例にすぎない。サッカーの試合が契機となって戦争を始めた国もあるが、極端な話、マグロをめぐって戦争が起こることさえありえるのである。

 さて、このソ連の漁業船団の進出を、西欧の情報機関はどう評価したのだろうか。

 もともとソ連の漁業船団は、西欧のそれとは著しく形態が違う。母船には(はち)の巣のようにアンテナが張りめぐらされている。そこを西欧の情報機関はついた。マグロを捕まえるのに、なぜあんなにアンテナを林立させねばならないのか、と彼らは一斉に非難し始めた。そしてこの漁船団の真の目的は、アメリカが太平洋のまっただ中に撃ち込む弾道ミサイルの着地地点に待機し、あらゆる情報を収集することであると主張した。しかし、技術にうとい私ごとき素人(しろうと)には真偽のほどは(わか)らない。

 だが、ソ連がこの地域に進出せざるを得ない背景には、深刻な国内事情があったことも確かなのだ。七九年以降、ソ連は国内の食料事情悪化に備え、ウラジオストックを基地に太平洋における本格的な水産業活動への進出を図っていた。こうした背景から考えると、ソ連は南太平洋に漁業資源を求めたのである。そのために、この地域で活躍するトロール船団は、運航、操業、加工、運搬まですべてをカバーすべく、母船のみならず油タンカー船、タグボート、パトロール船、冷凍運搬船、時には病院船まで連れていく、大掛かりな船団方式を採用していた。

 南の島の光と影――魚に寄せる夢と現実

 南の島のいずれの諸国も、国民総生産という指数で単純に比較してみると残念ながら最貧国になってしまう。リン鉱石のナウル共和国、観光立国のタヒチ、ニューカレドニアなど、比較的潤っている国もあるにはあるが、総じて貧しい。しかし、現地にしばらく滞在して、彼らの生活を見ていると、貧しさもさほど深刻には見えてこない。熱帯の海洋国家といった風土が、人々を開放的にさせ、陽気な気性を(はぐく)んだのであろう。それゆえ国民性も穏やかで、踊りや歌が中心の生活を年中満喫しているというのも、一面の真理であろう。西欧の人々はこうしたハレ舞台や小道具に、ややもすると目を奪われて短絡的な結論を出してしまう。しかし国の将来を考えると、その実態はかなり深刻なのである。豊かな国と思われているナウルでさえ、リン鉱石はまもなく完全に掘り尽くされてしまうという。となれば島はまったくの不毛地帯と化してしまう。最後は新しい島を購入して大移住作戦を展開するか、ひっそりと息をひそめてこの島に留まるか、二者択一しかない。

 地球温暖化の進むなかで、海抜が今より一メートル高くなるだけで、島のほとんどが消えてしまう国もある。ツバルでは生産性のある産業はまったく期待できない。海洋民族として、世界各地に船員となって雄飛する出稼ぎ組の送金と、あとは外国援助にすがるしかない。生鮮食料品ですら輸入にたよっている。となれば島をとりまく海に期待が集中する。広大な経済水域をみれば、だれもが漁業こそ、活路を開く唯一(ゆいいつ)の道と信じたくなる。たしかに近隣のパプア・ニューギニアやソロモンではエビ、カツオなどに恵まれ、それから得られる収入も莫大(ばくだい)な額に上る。しかし、漁業関係者にいわせると熱帯の海は総じて水温が高く、資源は驚くほど貧相であるという。紺碧(こんぺき)の海イコール水産資源にとぼしいという意になる。水清ければ魚住まず、昔から言われている通り、などと茶化す人もいる。また魚種に富んでいても、食用としての利用性がゼロに等しい。北の海は逆で、魚種は限られているが、食用という効率面での価値は高い。

 オーストラリア人も、魚に関しては限りない夢を持っている。これだけの広い大陸ゆえ、それを取り巻く海には無尽蔵の魚が棲息(せいそく)していると思っている。これも専門家に言わせると、ありえないことだという。かつて四国の唐木漁業の社長にお願いして、オーストラリアの海を一緒にまわったことがある。当時、日本一の水揚げを誇るイカ釣り船を操業していた人物である。彼にいわせると、これだけの大陸にしては大陸棚が小さすぎるという。水がきれいすぎて海草もあまり生えていない。となれば魚の(えさ)となるプランクトンも期待できない。日本人の食欲を満たせるような種類はマグロ、アジ、タイ、エビ、アワビなどごく限られた魚種で、それ以外に多くは、期待できないないないづくしの海だという。それでもものは試し、オーストラリア人に会うたびに「魚はどうですか」とたずねて歩いたものだ。すると決まって、自分が釣りにでかけたときの経験をもとにしゃべるので「それはすごいものでね。入れ食いだよ。夕方まで釣っていると、携帯用冷凍庫が一杯になってしまう」ということになる。しかし、もともと人の手が入っていない海域だ、その程度の魚はどこにでもいるのだ。それが商業べースに乗るかどうかということになると、まったく次元が違う話になる。おしなべて魚群の影と一般の人々が抱く意識との乖離(かいり)、そこに水産資源の開発と管理をめぐるむずかしさがある。

 トンガの海に()けた男のロマン

 トンガ王国の人々も、オーストラリア人同様に、この魚影の濃さに関する神話を強く信じている。漁業交渉に関していえば彼らは日本に対しても積極的かつ押しの一手でアプローチしてくる。かつて関根四郎さんという、南方漁場の開拓に関しては神様といわれた人がいる。偶然だがトンガで彼に会ったことがある。彼もまた「トンガの海は魚影が濃い」という話に惹かれてやってきた一人である。さすがプロで、トンガの海を自分の目で確かめようとわざわざ現地まで出かけて来たのだ。戦後の経済復興を推進してきた財界人の鮎川義介(あゆかわよしすけ)、あるいは久原房乃介(くはらふさのすけ)のもとで、長く参謀を勤めた人物である。戦争で大型船は官民を問わず徴用され、撃沈されてしまった日本にあって、わずかに生き残った竜田丸(六〇〇トン)を、彼は漁船に転用したのだった。そして当時の連合軍総司令部に無断で、密出国に近いかたちで出港し、まったく未知であるペルシャ湾で新市場開拓に従事した人物である。そして、その地でエビを初めて冷凍処理して、商品化することを成功させた。まだクウェートという国すら存在しなかったが、クウェート人に冷凍の魚を食べる風習を教え込んだのも関根さんである。

 それだけの経験をもつ関根さんが、トンガの海を一見してひとこと、「貧相だな」。だが、彼は戦前の教育を受けてきた人物だけに、トンガの海をそう簡単には見捨てなかった。こうした小さい島国だからこそ経済自立が重要で、何か開発できるものがあるとすれば、それは水産業以外にないという信念であった。自分は年をとっている。戦争へのつぐないの気持ちもある。とすれば自分にとって最後の事業になるであろうが、何としてもトンガ自立の道を見つけてあげたいという。

 日本政府もトンガ政府の強い要請をうけ、立派なマグロ船を建造したり、漁船員訓練のための専門家を派遣している。しかし筆者が訪問した時、その船はトンガ王宮の前の波止場に停泊したままであった(その後、現地の乗組員は技術を身につけ、効率のよい作業が軌道に乗っていることを追記しておきたい)。陸上にある冷凍施設は、なんと婦女子の格好の昼寝の場所になっている。実態は、いったいどうなっているのか、私は実情を知りたく関係者に会ってみた。すると、役人が海図を示しながら、この船で一年間の、いわゆる試験操業をした分厚い現地調査報告書を振りかざし、トンガには未開発のキハダマグロがいかに棲息しているか、熱心に説くのである。その後、この報告書を日本に持ち帰り、専門の漁撈長(ぎょろうちょう)に見せて分析してもらったところ、明らかにデータが加工されているというのだ。水増しされたというか、資源を高く売らんがためであった。

 トンガの沖合には世界でも有数な海溝がある。そこをマグロの稚魚が通ってニュージーランド、オーストラリアヘ向かうため、資源そのものは無尽蔵といわれている。しかし、この地域のマグロ資源についての調査はまだスタートしたばかりである、日本の水産高校の訓練船が何日か延縄(はえなわ)を入れてみた結果では、とても商業化は無理な状況だったという。ということは、この地域に対して抱く期待は白昼夢に近く、マグロの大量捕獲による食糧革命など空想の域を出ないことになる。しかし、関根さんは、あきらめなかった。自分の持つ資金と技術を投入して、トンガ二○○海里全域の漁業権を手に入れ、壮大な実験をスタートさせた。そして珊瑚礁に取り囲まれたリーフの中での伊勢(いせ)エビの養殖からキハダマグロまで、商業化可能のものについて一つ一つつぶしていった。しかし、結局は流通、加工処理、冷凍、(えさ)の手配、人手に至るまで、ないない尽くしで挫折(ざせつ)の憂き目にあっている。しかし、男のロマンとしてみてみれば、話はまったく違う。これほど雄大な、実行に移せるような男の夢は世界広しといえども、そう残ってはいまい。小国とはいえ立派な独立国を相手に経済専管海域の漁業権を、一人の男が手に入れる。しかも、トンガ王国のためになるのであればと、私財をなげうっての決断である。こんな夢を持つ日本人を輩出した時、戦後の日本は名実共に一流になれるのではないだろうか。

 キリバスでの日米漁業摩擦

 ところで、キリバス共和国とアメリカの話は、どうなったのだろうか。キリバス政府の環境・資源開発水産部のジョン・キラタ氏に(たず)ねた。九〇年以降、アメリカはキリバスからのキハダマグロの輸入を全面禁止している。キハダ捕獲の際にイルカが混じっているというのが、その理由である。しかし、アメリカは旧ソ連とキリバスとの漁業契約を失効させた後、この領域で巻き網船操業の許可をとり、五〇隻あまりの船を操業させ、カツオやキハダマグロを捕獲していた。ここで操業するアメリカの漁業会社は、主にスターキスト社である。アメリカン・サモアに、従業員二五〇〇名を抱える大規模な缶詰工場を経営している。アメリカン・サモアはアメリカの準州でコングレスにも議席をもっている。それでいて(いま)だに最低賃金制すら導入されていない。従業員は一時間当たり、二・九二セントしかもらっておらず、賃上げの交渉中であるというが、未だに成功していないらしい。スターキスト社は、ワシントンでロビイストを使い、経営が苦しいと訴えている。しかし九一年にこの会社の会長がもらった報酬は、なんと七五〇〇万ドル、数字の間違いではないのだ。この資本主義をふりまわす大国のエゴを、いったいどう理解すればよいのだろうか。こうなるとサモアが準州であるかどうかはさして重要ではなくなった。要は本土がこの地域を中南米諸国同様に考え、資本主義の論理をひたすら金科玉条としサモア国民から搾取(さくしゅ)しているといってもいいのではないか。

 他方、日本はアメリカの圧力を受け、キリバスに対して積極的な援助を開始し、日本式の一本釣り船を導入、同時に冷凍施設も寄贈している。一時は年間二〇〇〇トン近い水揚げを記録して、アメリカン・サモアならびにフィジーの缶詰工場に出荷したこともある。しかし、九〇年末に、日本が全面的に肩入れしてきた企業は倒産する。原因は、マグロ操業に係わるあらゆるインフラ=基盤施設にすべてが起因する。技術と人の問題、漁法、漁場に関するデータや経験不足、海流、水温など自然現象に対する知識不足、(えさ)の畜養失敗などである。しかも、近代化した船を使いこなす技術も一朝一夕には移転出来ない。船舶や機械は一旦(いったん)故障するとパーツの入手にも事欠くありさまで、それらがすべてコスト増につながり経営を圧迫していったのだ。キハダマグロの現地の価格は、キロ当たり八○円相当にしかならない。そのほか、小型船で現地住民が集荷場に持ち込むものもあるが、月平均一五日出漁で、一日平均の稼ぎは五ドル四〇セントから九ドルにしかならないという。

 いちばんの問題は、年間三万四〇〇〇トンといわれるキハダマグロならびに四万トン()れるカツオが、アメリカの巻き網船で根こそぎ持っていかれることである。これだけ持っていって、アメリカが支払うライセンス料は三〇〇万ドルである。といってもキリバス政府の総予算からするとかなりの額にはなるのだ。キリバス政府に圧力を加え、九〇年、ソ連の船を追い出すことに成功したアメリカは、まるで今までの恨みを晴らすかのように積極的にマグロ捕獲に乗り出す。キリバス政府にいわせれば乱獲がたたり、タラワ近海における九〇年から九一年の現地住民による漁獲は、ほとんどなかったという。地元住民にとって貴重な他の雑魚種も、巻き網漁ゆえ一網打尽にされてしまう。それでいて、そうして混獲された魚種は、最後は廃棄処分にされてしまうのだという。

 この実態を日本はほとんど調査しようともせず、したがって、まともな議論すらしない。マグロをめぐる熱い議論は、究極的には日米の経済構造摩擦と同じレベルの話に収束してしまうのである。人類の漁業への営みを、地球の生態系の一部として謙虚に問いなおす基本的姿勢が、日米両国に欠如しているのだ。

 終わりに

  マグロ問題から日本が見える!

 既に述べたが、「スシ好き、トロ好きの日本人が悪玉」、これがマグロ規制を要求する世界の声となった。しかし、もともとの火付役はアメリカであり、その大々的キャンペインをくりひろげたのが『ニューヨーク・タイムズ』であった。日本の新聞・雑誌がそれを分析もせず、そのまま報道したところから、マグロ狂奏曲が始まった。一九九一年八月のことである。ワシントン条約締約国会議が京都で始まる六か月前のことである。この時期の出来事を、少し冷静になって振り返ってみると、一つの国際的利害関係がみごとなまでに浮かびあがってくる。スウェーデン政府とアメリカ政府が、クロマグロに対する規制案を提起することで合意に達していたのだ。同時に、それを意識的に新聞社にリークし、国際世論を喚起すべく大規模なマスコミ操作を開始したのである。

 ワシントン条約の規程からすると、クロマグロを絶滅の危機に(ひん)している魚種として付属書に改訂・記載するためには、会議開催一五〇日前までに事務局に正式に通知するよう定められている。

 日本の水産庁、日本鰹鮪(かつおまぐろ)漁業協同組合連合会も、このスウェーデン政府、アメリカの動向には常に注目し、情報収集にかけまわっていた。九一年七月二十日、日鰹連は傘下(さんか)の組合員に対し「大西洋マグロのワシントン条約への指定採択の動きあり」と警告を発したのであった。

 それと歩調をあわせるかのように、アメリカで長い伝統を誇り、科学的にも信用度の高いオーデュボン協会(NationalAudubon Society)が、アメリカ政府に陳情書を提出した。

 日本政府も業界も、動きを予測していただけに、対応は素早かった。ただちに、アメリカ国内でマグロを商業的に捕獲している業界とも連携し、今までの国際交渉では想像できないほどの積極的活動と総合的支援体制を打ち出した。ICCAT(大西洋マグロ類保存国際委員会)科学者会議においては、資源評価に対する専門的取り組みと改善への積極的取り組み、資源回復を実証することに直接結びつくような新しいデータの入手、手法の開発ならびに、それに伴い予想される財政支出への支援、商業漁業国に対する広報活動の強化、また国際世論への訴えを強化する一環としての世界マグロ漁業国会議の日本開催など、実に様々な政策に取り組んだ。

 国際会議での日本の積極的姿勢は、ある意味で驚きであった。常にアメリカに追随し、決して自らの意見を開陳しなかった日本が、あらゆる知恵をつかって世論に自らの姿勢を訴え続けたのだから。しかも、日本の業界は日本政府と共同歩調をとり、京都の会場外で強烈なロビイ活動を続けさえした。水産業者、とりわけ遠洋漁業者が資源ナショナリズムの高まるなかで、つぎつぎと撤退を余儀なくされ続けた体験が反動のバネとなった。とくにクジラの全面禁漁につながった苦い経験から、日本はようやく反撃する勢いを身につけたといえよう。これは、外交手腕の強化にもつながり、戦後の長かったアメリカ追随外交から抜け出し、自主性を積極的に打ち出した点でも象徴的である。

 日本の姿勢を注意深く観察していたオーストラリア政府は、非公式ではあるが、これでわが国はアメリカと日本の間にあって、一種の仲介役を果たすことができるようになったと大喜びしたのだった。国際舞台におけるオーストラリアの発言力の強化、ならびに日本とオーストラリアが、連携して、アメリカに対して共同歩調をとることができると喜び、連動のエールを送ってきた。同時に、アメリカがワシントン条約締約国会議で、いかにクロマグロを規制しようとしても、オーストラリアはそれに追随しないこと、ついで、ミナミマグロについては、「日本、ニュージーランド、オーストラリア当該三国で、すべてを決定していく」という強い意志を日本政府に伝達してきた。

 おそらく、外交のプロとして一元化を強く主張する外務省が、イニシアティブをとろうとしたら、こうも簡単にはことは進まなかったはずだ。通産省(旧)、農林水産省という経済実務にかかわりのある省庁が主管したことが幸いしたともいえる。

 さて、「資源囲い込み」という点に関してだが、この分野についてはオーストラリアもアメリカも大同小異である。短期間のあいだになんとしても自国の新しい産業として自立・育成させたいという願いがその底流に隠されている。

 もともと大陸の大きさのわりには貧相な水産資源しか持たないオーストラリアは、沿岸漁業大国になり得るはずもなかった。水産物に対する需要が高まったのは、第二次世界大戦を契機に、魚を好むスペイン人、ギリシャ人、ユーゴスラビア人、イタリア人が、大挙して流入し移民として定着して以来のことである。そこにマグロという海のダイヤモンドが見つかったわけだから、興奮するのは当たり前だろう。しかし、漁業に関する人材も技術も船もない。ないないづくしの中で、何とかして新しい産業をおこそうとすれば、この分野で最先端をいく日本からマグロ漁業のハードウェアとソフトウェアを吸収するしかない。これが、オーストラリア側の当事者の真摯(しんし)な願いとなった。だからこそ、マグロが多国間の関心の的となって以来、提起されたすべての根源的な問題点が、オーストラリア・日本間の漁業協定をめぐる交渉に内包されていたともいえるのである。

 本書の主題はマグロ問題だが、もう一つの狙いがこめられている。マグロ問題を通して、日本とオーストラリアのあり方を見直すことである。オーストラリアとの間でマグロをめぐり漁業交渉問題が提起されてからまだ日が浅い。関係者もことの発端を鮮明におぼえている。環境保護運動の行方をみきわめる一つのパイロットプロジェクトとして、国際的にも強い関心をもたれるようになった。同時にきわめてユニークな二国間交流がなされ、技術交流、人的交流、経済交流等でわれわれ日本人の国際社会におけるありようをかなり(あら)わに、かつ具体的に学ぶことになった。私自身がオーストラリアと長年かかわり、素人(しろうと)ながらもマグロ漁業者・生産者と苦楽をともにした経験も幸いした。本書は、それらの体験をもとに書き上げたものである。難しい主題を(つづ)りながら、ややもすると途中で、執筆を投げ出したい気持にもおそわれたが、海民として、漁撈民(ぎょろうみん)として生きる気仙沼の若き友人たち、そして苦難の道を生きた古老たちの姿を思い浮かべては自らを勇気づけた。きわめて稚拙な、荒々しい文章になったこととはまったく次元の違う話ではあるが。

  オーストラリアから日本人が見える!

 この本を書きあげる途中(九二年)で、マグロに関する大きなニュースが二つ耳に入ってきた。一つは第三章で登場願った築地魚市場の平原秀男さんが、オーストラリアのルーキン一家と取り組んできたミナミマグロ囲い込み成功のニュースである。一〇年以上前から夢を抱き続け、巻き網で一気にマグロの群れを囲い込み、そのまま大きな()()に移すという新しい畜養方法が実用化した瞬間である。

 荒天を問わずいかなる過酷な公海上でも畜養が可能な生け簀づくりに励んできた日本のブリヂストン・タイヤには、たちまちオーストラリアから追加の注文が入ってきた。日本の商社は、これこそ将来の日豪間のマグロ・ビジネス成功への最短の道であると信じ専門家を現地に派遣した。同時にマグロ捕獲のクォータ(数量制限の制度)をもつオーストラリア生産者に対しても影響力を行使しはじめた。今のうちに手を打って、できるだけ独占体制を確立しようとする狙いが目に見える。もし、この大規模経営の畜養が軌道に乗れば、日本の商社にとってはさらにビジネスを飛躍させるチャンスだ。

 ミナミマグロは他のマグロと比べてトロの部分が多く、背にもトロ身がつく。それを、このかたちで畜養化できれば、もっと多くのトロ身を短期間に乗せることも可能であろう。こうして、あらゆる政治力・経済力を動員しての、壮絶なシェア獲得競争がはじまった。

 築地で仲買いをしている飯田さんが早速現地に飛んでいった。実際に検分し、味質の良さを確かめるためであった。

 続いて今度はクロマグロの二世代養殖に成功したとのニュースが報じられた。気の早い日本人は、さっそくマグロ養殖に関連する企業の株買いに出動した。株価低迷のなかで、この関連銘柄だけがひとり気をはくというウソのような事態が生じたのである。オーストラリアのみならず、アメリカでも早速、その畜養技術を入手しようと関係筋が接近しはじめた。マグロがいまや投機対象の商品となった典例的な現象である。しかし、逆にいえば、同時にモノもカネも、そして消費すら日本および日本人が独占的に関与する、マグロという商品の特殊性を裏づける動きであった。

 日本製の生け簀の中に囲まれたミナミマグロは、その後も海面を波だたせるほど元気に動き回っているという。一つの生け簀の中に平均一〇キロのミナミマグロが一〇〇〇匹ほど囲い込まれている。この一〇〇〇匹×一〇キロ、すなわち、合計ほぼ一〇トンのマグロが経済効率上、どこまで魚価をあげられるのか、大げさにいえば世界中の関係者の目がそそがれている。トロ身がどれほど効率的に付くのか。マグロたちが大量に消費する(えさ)を、いかに安価に補給できるのか。餌や魚の排出物が生け簀の下にたまって海を汚すことにならないのか。また病気や身が擦れたりしないか。生存率はどうか。期待と不安が渦巻き、錯綜(さくそう)するなかで、関係者の一喜一憂がつづいている。

 一か月が経過したが生け簀の中でのミナミマグロの畜養はすべて順調である。魚も落ち着きをとり戻し、あとは築地で少なくともキロ五〇〇〇円になる商材に仕上げれば、と関係者がホッとした時、突如として驚くようなファックスが飛び込んできた。

 げんなりするような猛暑が続く八月初旬のことであった。オーストラリアの銀行が、ルーキン一家の経営する漁業会社を、全面管理下においたという非常事態の知らせであった。胸をふくらませていた関係者たちの大きな期待も急激にしぼんでしまった。まだ何の結果も出ていない。築地セリ人の平原氏のところにも急をつげるファックスが届いた。

 しかし広い生け簀に囲われて回遊しているマグロにとって、陸の上の騒ぎはまったく無縁であった。依然として、よく餌を食べ、元気に泳ぎまわっているのだった。銀行指導のもとで、経営権がルーキン一家の手から他人に迅速に移されたことも幸いした。

 その後しばらくたってから、築地をはじめとする日本の魚市場に、ごく少量だが、あきらかにこのポート・リンカーンの生け簀から送られてきたと思われるマグロが出回るようになった。といっても三匹から五匹といった程度で、一匹あたりの大きさも一五キロ前後のものばかりである。調べていくとその集荷を一手に扱っているのは日本では最大手の、水産物を中心とする専門商社であった。

 一体、何が起きたのだろうか。事態を調べれば調べるほど、そこには複雑な利害をめぐる関係者の錯綜した思惑が見えてくる。どうやら、悪名高きエコノミック・アニマル・ニッポン株式会社の所業のようであった。市場独占、シェア拡大をめざして突進する日本企業の論理がみごとなまでに展開されていることがわかってくる。結果がどうなるのか、結論が出るには、しばらく時間がかかろう。ただ、マグロ畜養の完璧(かんぺき)なまでの資本主義化が視界に入ってきたとだけは言えそうだ。

 この一件はまた、おもしろい事実を浮き彫りにしてくれた。唯一絶対に近いサシミ・マグロの最終消費地・日本が、巨大で複雑かつ特殊な日本式流通システムを発展させ、確固たるゆるぎない地位を占めていることを証明している。オーストラリアの生産者が振り回されるのは、ある意味で当然だろう。勿論(もちろん)、オーストラリア人漁業関係者とて生身の人間である。欲望の追求においては誰にも劣らない。いやむしろ、多くは移民であるがゆえに、短期間に功なり、財を築こうとするサガは日本人より強いのである。その彼らが、日本式の経済メカニズムの中に取り込まれ、右往左往し、欲求不満だけをつのらせていく姿がうら悲しい。

 そもそも、資源としてのマグロをもつオーストラリアと、技術・資本そしてマーケットを抱える日本とは、本来、理想的な補完関係を築き得る立場にあった。しかも、他の国に遅れて市場に参入してきたミナミマグロだからこそ、第三者の政治的圧力や思惑を除外して、両国は安定的かつサステイナブルな関係を発展させることができるはずであった。しかし実態は、すでに述べたとおり、人間として最も原始的な「蜻蛉(とんぼ)釣メンタリティー」の単なる伝播(でんぱ)以外の何ものでもなかつた。オーストラリア人は声を大にして、日本の技術、最先端の船を求めた。いつしか、一か月以上も洋上でミナミマグロを懸命に追う漁船員も出てきた。しかし、苦労の果てに彼らが掌中にしたマグロたちは、日本市場で期待したほどの魚価にはならなかった。魚の処理・保存に関する知識がいまだ十分でなかったからだ。日本に人的貢献、ノウ・ハウの提供を求める彼らの声は一段とたかくなった。それに対して日本は、まがりなりにも応えてきた。それでも彼らは満足しなかった。築地をはじめとする流通メカニズムに疑いを持ちはじめたのだ。日本式の築地プライス・メカニズムが透明に見えてこないのである。こうして、本来であれば日豪間の長い交流を通じて、理想的な合弁ができあがっていいはずのマグロ漁業において、相互不信が逆に増幅し続けている。

 そして今、オーストラリアのある大手マグロ船主が、膨大な借金経営のもとに、破局を迎えようとしている。その人物が言う。「所詮(しょせん)、日本人は我々のマグロを高く買おうとはしないんだよ。最後に自分たちで独占するためにね」。

 マグロ漁業をはじめて二十年余、破局を眼前にしながら、依然として彼はこう(うめ)くのだ。「どうして、築地では我々のマグロは高く売れないのだ」と。この問いに私はいまだに明確な答えを出せない。世界第二の経済大国として、この地球の共有財産である水産資源を驚くべきスピードで消費し続ける日本人。オーストラリア大湾の生け簀の中のあの元気なミナミマグロたちは、地球環境の将来の行方も知らずに、一匹ずつ日本の食文化の生贄(いけにえ)となってゆく。私たちは、このような問題から、一体、何を導き出し、何を世界に伝えられるのだろうか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/11/19

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堀 武昭

ホリ タケアキ
ほりた けあき 評論家・国際ペン常任理事。1940(昭和15)年、神奈川県横浜市生まれ。

掲載作は『マグロと日本人』(日本放送出版協会、1992)を大幅に加筆修正した新潮文庫版(2003)より第一章と終章を抄録。

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