いのちの初夜
駅を出て二十分ほども
梅雨期に入るちょっと前で、トランクを提げて歩いている尾田は、十分もたたぬ間に、はやじっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。随分
病気の宣告を受けてからもう半年を過ぎるのであるが、その間に、公園を歩いている時でも街路を歩いている時でも、樹木を見ると必ず枝振りを気にする習慣がついてしまった。その枝の高さや、太さなどを目算して、この枝は細すぎて自分の体重を支え切れないとか、この枝は高すぎて登るのに大変だなどという風に、時には我を忘れて考えるのだった。木の枝ばかりでなく、薬局の前を通れば幾つも睡眠剤の名前を想い出して、眠っているように安楽往生をしている自分の姿を思い描き、汽車電車を見るとその下で悲惨な死を遂げている自分を思い描くようになっていた。けれどこういう風に日夜死を考え、それがひどくなって行けば行く程、益々死に切れなくなって行く自分を発見するばかりだった。今も尾田は林の梢を見上げて枝の工合を眺めたのだったが、すぐ
二日前、病院へ這入ることが定ると、急にもう一度試して見たくなって江の島まで出かけて行った。今度死ねなければどんな処へでも行こう、そう決心すると、うまく死ねそうに思われて、いそいそと出かけて行ったのだったが、岩の上に群がっている小学生の姿や、茫漠と煙った海原に降り注いでいる太陽の明るさなどを見ていると、死などを考えている自分がひどく馬鹿げて来るのだった。これではいけないと思って、両眼を閉じ、なんにも見えない間に飛び込むのが一番良いと岩頭に立つと、急に助けられそうに思われて仕様がないのだった。助けられたのでは何にもならない。けれど今の自分は兎に角飛び込むという事実が一番大切なのだ、と思い返して波の方へ体を曲げかけると、「今」俺は死ぬのだろうかと思い出した。「今」どうして俺は死なねばならんのだろう、「今」がどうして俺の死ぬ時なんだろう、すると「今」死ななくてもよいような気がして来るのだった。そこで買って来たウイスキーを一本、やけに平げたが少しも酔が廻って来ず、なんとなく滑稽な気がしだしてからからと笑ったが、赤い
一時も早く目的地に着いて自分を決定するより他に道はない。尾田はそう考えながら背の高い
道は垣根に沿って一間くらいの幅があり、垣根の反対側の雑木林の若葉が、暗いまでに被さっていた。彼が院内を覗き覗きしながら、ちょうど梨畑の横まで来た時、大方この近所の百姓とも思われる若い男が二人、こっちへ向いて歩いて来るのが見え出した。彼等は尾田と同じように院内を覗いては何か話し合っていた。尾田は嫌な処で人に会ってしまったと思いながら、ずり上げてあった帽子を再び深く被ると、下を向いて歩き出した。尾田は病気のために片方の眉毛がすっかり薄くなって居り、代りに眉墨が塗ってあった。彼等は近くまで来ると急に話をぱたりとやめ、トランクを提げた尾田の姿を、好奇心に充ちた眼差しで眺めて通り過ぎた。尾田は黙々と下を向いていたが、彼等の眼差しを明瞭に心に感じ、この近所の者であるなら、こうして入院する患者の姿をもう幾度も見ているに相違ないと思うと、屈辱にも似たものがひしひしと心に迫って来るのだった。
彼等の姿が見えなくなると、尾田はそこヘトランクを置いて腰をおろした。こんな病院へ這入らなければ生を
総てが普通の病院と様子が異っていた。受付で尾田が案内を請うと、四十くらいの良く肥えた事務員が出て来て、
「君だな、尾田高雄は、ふうむ。」
と言って、尾田の
「まあ懸命に治療するんだね。」
無造作にそう言ってポケットから手帳を取り出し、警察でされるような厳密な身許調査を始めるのだった。そしてトランクの中の書籍の名前まで一つ一つ書き記されると、まだ二十三の尾田は、激しい屈辱を覚えると共に、全然一般社会と切離されているこの病院の内部に、どんな意外なものが待ち設けているのかと不安でならなかった。それから事務所の横に建っている小さな家へ連れて行かれると、
「ここで暫く待っていて下さい。」
と言って引上げてしまった。後になって、この小さな家が外来患者の診察室であると知った時、尾田はびっくりしたのであったが、そこには別段診察器具が置かれてある訳でもなく、田舎駅の待合室のように、汚れたベンチが一つ置かれてあるきりであった。窓から外を望むと、
「ははあん。」
と一つ頷くと、もうそれで診察はお終いだった。勿論尾田自身でも自ら癩に相違ないとは、思っていたのであるが、
「お気の毒だったね。」
癩に違いないという意を含めてそう言われた時には、さすがにがっかりして一度に全身の力が抜けて行った。そこへ看護手とも思われる白い上衣をつけた男がやって来ると、
「こちらへ来て下さい。」
と言って、先に立って歩き出した。男に従って尾田も歩き出したが、院外にいた時の何処となくニヒリスティクな気持が消えて行くと共に、徐々に地獄の中へでも堕ち込んで行くような恐怖と不安を覚え始めた。生涯取返しのつかないことをやっているように思われてならないのだった。
「随分大きな病院ですね。」
尾田はだんだん黙っていられない思いがして来だしてそう訊ねると、
「十万坪。」
ぽきっと木の枝を折ったように無愛想な答え方で、男は一層歩調を早めて歩くのだった。尾田は取りつく島を失った想いであったが、葉と葉の間に見えがくれする垣根を見ると、
「全治する人もあるのでしょうか。」
と、知らず識らずのうちに哀願的にすらなって来るのを腹立たしく思いながら、やはり訊かねばおれなかった。
「まあ一生懸命に治療してごらんなさい。」
男はそう言ってにやりと笑うだけだった。或は好意を示した微笑であったかも知れなかったが、尾田には無気味なものに思われた。
二人が着いた所は、大きな病棟の裏側にある風呂場で、既に若い看護婦が二人で尾田の来るのを待っていた。耳まで被さってしまうような大きなマスクを彼女等はかけていて、それを見ると同時に尾田は、思わず自分の病気を振り返って情なさが突き上って来た。
風呂場は病棟と廊下続きで、獣を思わせる
「消毒しますから……。」
とマスクの中で言った。一人が浴槽の蓋を取って片手を浸しながら、
「良いお湯ですわ。」
這入れというのであろう、そう言ってちらと尾田の方を見た。尾田はあたりを見廻したが、脱衣籠もなく、唯、片隅に薄汚い
「この上に
と思わず口まで出かかるのをようやく押えたが、激しく胸が波立って来た。
「何か薬品でも這入っているのですか。」
片手を湯の中に入れながら、さっきの消毒という言葉がひどく気がかりだったので訊いて見た。
「いいえ、ただのお湯ですわ。」
良く響く、明るい声であったが、彼女等の眼は、さすがに気の毒そうに尾田を見ていた。尾田はしゃがんで先ず手桶に一杯を汲んだが、薄白く濁った湯を見ると又嫌悪が突き出て来そうなので、彼は眼を閉じ、息をつめて一気にどぼんと飛び込んだ。底の見えない洞穴へでも墜落する思いであった。すると、
「あのう、消毒室へ送る用意をさせて戴きますから――。」
と看護婦の一人が言うと、他の一人はもうトランクを開いて調べ出した。どうとも自由にして呉れ、裸になった尾田は、そう思うよりほかになかった。胸まで来る深い湯の中で彼は眼を閉じ、ひそひそと何か話し合いながらトランクを掻き廻している彼女等の声を聞いているだけだった。絶え間なく病棟から流れて来る雑音が、彼女等の声と入り乱れて、団塊になると、頭の上をくるくる廻った。その時ふと彼は故郷の蜜柑の木を思い出した。笠のように枝を厚ぼったく繁らせたその下で、よく昼寝をしたことがあったが、その時の印象が、今こうして眼を閉じて物音を聞いている気持と一脈通ずるものがあるのかも知れなかった。また変な時に思い出したものだと思っていると、
「おあがりになったら、これ、着て下さい。」
と看護婦が言って新しい着物を示した。垣根の外から見た女が着ていたのと同じ棒縞の着物であった。
小学生にでも着せるような袖の軽い着物を、風呂からあがって着け終った時には、なんという見すぼらしくも滑稽な姿になったものかと、尾田は幾度も首を曲げて自分を見た。
「それではお荷物消毒室へ送りますから――。お金は拾壱円八拾六銭ございました。二三日のうちに金券と換えて差上げます。」
金券、とは初めて聞いた言葉であったが、恐らくはこの病院のみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を掴み取ると同時に、監獄へ行く罪人のような戦慄を覚えた。だんだん身動きも出来なくなるのではあるまいかと不安でならなくなり、親爪をもぎ取られた蟹のようになって行く自分のみじめさを知った。ただ地面をうろうろと這い廻ってばかりいる蟹を彼は思い浮べて見るのであった。
その時廊下の向うでどっと挙がる喚声が聞えて来た。思わず肩を
「何を騒いでいたの。」
と看護婦が訊いた。
「ふふふふふ。」
と彼はただ気色の悪い笑い方をしていたが、不意にじろりと尾田を見ると、いきなりぴしゃりと硝子戸をしめて駈けだしてしまった。
やがてその足音が廊下の果に消えてしまうと、またこちらへ向って来るらしい足音がこつこつと聞え出した。前のに比べてひどく静かな足音であった。
「佐柄木さんよ。」
その音で解るのであろう、彼女等は
「ちょっと忙しかったので、遅くなりました。」
佐柄木は静かに硝子戸をあけて這入って来ると、先ずそう言った。背の高い男で、片方の眼がばかに美しく光っていた。看護手のように白い上衣をつけていたが、一目で患者だと解るほど、病気は顔面を冒していて、眼も片方は濁って居り、そのためか美しい方の眼がひどく不調和な感じを尾田に与えた。
「当直なの。」
看護婦が彼の貌を見上げながら訊くと、
「ああ、そう。」
と簡単に応えて、
「お疲れになったでしょう。」
と尾田の方を眺めた。顔形で年齢の判断は困難だったが、その言葉の中には若々しいものが満ちていて、横柄だと思えるほど自信ありげな物の言振りであった。
「どうでした、お湯熱くなかったですか。」
初めて病院の着物を
「ちょうどよかったわね、尾田さん。」
看護婦がそう引き取って尾田を見た。
「ええ。」
「病室の方、用意出来ましたの?」
「ああ、すっかり出来ました。」
と佐柄木が応えると、看護婦は尾田に、
「この方佐柄木さん、あなたが這入る病室の附添さんですの。解らないことあったら、この方にお訊きなさいね。」
と言って尾田の荷物をぶら提げ、
「では佐柄木さん、よろしくお願いしますわ。」
と言い残して出て行ってしまった。
「僕尾田高雄です、よろしく――。」
と挨拶すると、
「ええ、もう前から存じて居ります。事務所の方から通知がありましたものですから。」
そして、
「まだ大変お軽いようですね、なあに癩病恐れる必要ありませんよ。ははは。ではこちらへいらして下さい。」
と廊下の方へ歩き出した。
木立を透して寮舎や病棟の電燈が見えた。もう十時近い時刻であろう。尾田はさっきから松林の中に
尾田を病室の寝台に就かせてからも、佐柄木は忙しく室内を行ったり来たりして立働いた。手足の不自由なものには繃帯を巻いてやり、便をとってやり、食事の世話すらもしてやるのであった。けれどその様子を静かに眺めていると、彼がそれ等を真剣にやって病人達をいたわっているのではないと察せられるふしが多かった。それかと言ってつらく
当っているとは勿論思えないのであるが、何となく
「今まで話相手が少くて困って居りました。」
と言った佐柄木の貌には、明かによろこびが見え、青年同志としての親しみが自ずと芽生えたのであった。だがそれと同時に、今こうして癩者佐柄木と親しくなって行く自分を思い浮かべると尾田は、いうべからざる嫌悪を覚えた。これではいけないと思いつつ本能的に嫌悪が突き上って来てならないのであった。
佐柄木を思い病室を思い浮べながら、尾田は暗い松林の中を歩き続けた。何処へ行こうという
林を抜けるとすぐ
その時かさかさと落葉を踏んで歩く人の足音が聞えて来た。これはいけないと頸を引込めようとしたとたんに、
「しまった。」
さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸も出来ない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
死ぬ、死ぬ。
無我夢中で足を
「ああびっくりした。」
ようやくゆるんだ帯から首を外してほっとしたが、腋の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。いくら不覚のこととは言え、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口惜しがりながら、しかしもう一度首を引掛けてみる気持は起って来なかった。
再び垣を乗り越すと、彼は黙々と病棟へ向って歩き出した。――心と肉体がどうしてこうも分裂するのだろう。だが、俺は、一体何を考えていたのだろう。俺には心が二つあるのだろうか。俺の気づかないもう一つの心とは一体何ものだ。二つの心は常に相反するものなのか。ああ、俺はもう永遠に死ねないのであるまいか。何万年でも、俺は生きていなければならないのか。死というものは、俺には与えられていないのか。俺は、もうどうしたらいいんだ。
だが病棟の間近くまで来ると、悪夢のような室内の光景が蘇って自然と足が停ってしまった。激しい嫌悪が突き上って来て、どうしても足を動かす気がしないのだった。仕方なく
「俺は、何処へ、行きたいんだ。」
ただ、漠然とした焦慮に心が
「尾田さん。」
不意に佐柄木の声に尾田はどきんと一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと
「どうしたんですか。」
笑っているらしい声で佐柄木は言いながら近寄って来ると、
「どうかしたのですか。」
と訊いた。その声で尾田はようやく平気な気持をとり戻し、
「いえ、ちょっとめまい
がしまして。」
しかし自分でもびっくりするほど、ひっつるように乾いた声だった。
「そうですか。」
佐柄木は言葉を切り、何か考える様子だったが、
「兎に角、もう遅いですから、病室へ帰りましょう。」
と言って歩きだした。佐柄木のしっかりした足どりに、尾田も何となく安心して従った。
「尾田さん、あなたはこの病人達を見て、何か不思議な気がしませんか。」
と訊くのであった。
「不思議って?」
と尾田は佐柄木の貌を見上げたが、瞬間、あっと叫ぶところであった。佐柄木の美しい方の眼が何時の間にか抜け去っていて、骸骨のように
「つまりこの人達も、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは、不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか。」
急に片目になった佐柄木の貌は、何か勝手の異った感じがし、尾田は、錯覚しているのではないかと自分を疑いつつ、
「はははは。目玉を入れるのを忘れていました。驚いたですか。さっき洗ったものですから――。」
そう言って、尾田に、
「面倒ですよ。目玉の洗濯までせねばならんのでね。」
そして佐柄木はまた笑うのであったが、尾田は溜った
「この目玉はこれで三代目なんですよ。初代のやつも二代目も、大きな
そんなことを言いながらそれを眼窩へあててもぐもぐとしていたが、
「どうです、生きてるようでしょう。」
と言った時には、もうちゃんと元の位置に納まっていた。尾田は物凄い手品でも見ているような
「尾田さん。」
ちょっとの間黙っていたが、今度は何か鋭いものを含めた調子で呼びかけ、
「こうなっても、まだ生きているのですからね、自分ながら、不思議な気がしますよ。」
言い終ると急に調子をゆるめて微笑していたが、
「僕、失礼ですけれど、すっかり見ましたよ。」
と言った。
「ええ?」
瞬間
「さっきね。林の中でね。」
相変らず微笑して言うのであるが、尾田は、こいつ油断のならぬやつだと思った。
「じゃあすっかり?」
「ええ、すっかり拝見しました。やっぱり死に切れないらしいですね。ははは。」
「…………。」
「十時が過ぎてもあなたの姿が見えないので、ひょっとすると――と思いましたので出かけて見たのです。初めてこの病室へ這入った人は大抵そういう気持になりますからね。もう幾人もそういう人にぶつかって来ましたが、先ず大部分の人が失敗しますね。そのうちインテリ青年、と言いますか、そういう人は定ってやり損いますね。どういう訳かその説明は何とでもつきましょうが。――すると、林の中にあなたの姿が見えるのでしょう。勿論大変暗くてよく見えませんでしたが。やっぱりそうかと思って見ていますと、垣を越え出しましたね。さては
尾田は真面目なのか笑いごとなのか判断がつきかねたが、その
「うまく死ねるぞ、と思って安心しました。」
と反撥して見たが、
「同時に心臓がどきどきしました。」
と正直に白状してしまった。
「ふうむ。」
と佐柄木は考え込んだ。
「尾田さん。死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか。」
「まだ一度も探って見ません。」
「そうですか。」
そこで話を打切りにしようと思ったらしく佐柄木は立上ったが、また腰をおろし、
「あなたと初めてお会いした今日、こんなことを言って大変失礼ですけれど。」
と優しみを含めた声で前置きをすると、
「尾田さん、僕には、あなたの気持がよく解る気がします。昼間お話ししましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年前のその時の僕の気持を、いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味っていられるのです。ほんとにあなたの気持、よく解ります。でも、尾田さん、きっと生きられますよ。きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜路があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう。」
意外なことを言い出したので、尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分
「兎に角、癩病に成り切ることが何より大切だと思います。」
と言った。不敵な面魂が、その短い言葉の内部に覗かれた。
「まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かも知れません、今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。実際、同情程愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕が一体どう慰めたらいいのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに
「よく解りました、あなたのおっしゃること。」
続けて尾田は言おうとしたが、その時、
「どうじょくざん。」
と嗄れた声が向う端の寝台から聞えて来たので口をつぐんだ。佐柄木はさっと、立上がると、その男の方へ歩んだ。「当直さん」と佐柄木を呼んだのだと初めて尾田は解した。
「何だい用は。」
とぶっきら棒に佐柄木が言った。
「じょうべんがじたい。」
「小便だな、よしよし。便所へ行くか、シービンにするか、どっちがいいんだ。」
「べんじょさいぐ。」
佐柄木は馴れ切った調子で男を背負い、廊下へ出て行った。背後から見ると、負われた男は二本とも足が無く、膝小僧のあたりに繃帯らしい白いものが覗いていた。
「なんというもの凄い世界だろう。この中で佐柄木は生きると言うのだ。だが、自分はどう生きる態度を定めたらいいのだろう。」
発病以来、初めて尾田の心に来た疑問だった。尾田は、しみじみと自分の掌を見、足を見、そして胸に掌をあててまさぐって見るのだった。何もかも奪われてしまって唯一つ、生命だけが取り残されたのだった。今更のようにあたりを眺めて見た。膿汁に煙った空間があり、ずらりと並んだベッドがある。死にかかった重病者がその上に横わって、他は繃帯でありガーゼであり、義足であり松葉杖であった。山積するそれ等の中に今自分は腰かけている。――じっとそれ等を眺めているうちに、尾田は、ぬるぬると全身にまつわりついて来る生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それは、
便所から帰って来た佐柄木は、男を以前のように寝かせてやり、
「他に何か用はないか。」
と訊きながら、蒲団をかけてやった。もう用はないと男が答えると、佐柄木は又尾田の寝台に来て、
「ね、尾田さん。新しい出発をしましょう。それには、先ず癩に成り切ることが必要だと思います。」
と言うのであった。便所へ連れて行ってやった男のことなど、もうすっかり忘れているらしく、それが強く尾田の心を打った。佐柄木の心には癩も病院も患者もないのであろう。この崩れかかった男の内部は、我々と全然異った組織で出来上っているのであろうか。尾田には少しずつ佐柄木の姿が大きく見え始めるのだった。
「死に切れない、という事実の前に、僕もだんだん屈伏して行きそうです。」
と尾田が言うと、
「そうでしょう。」
と佐柄木は尾田の顔を注意深く眺め、
「でもあなたは、まだ癩に屈伏していられないでしょう。まだ大変お軽いのですし、実際に言って、癩に屈伏するのは容易じゃありませんからねえ。けれど一度は屈伏して、しっかりと癩者の眼を持たねばならないと思います。そうでなかったら、新しい勝負は始まりませんからね。」
「真剣勝負ですね。」
「そうですとも、
月夜のように蒼白く透明である。けれど何処にも月は出ていない。夜なのか昼なのかそれすら解らぬ。ただ蒼白く透明な原野である。その中を尾田は逃げた。逃げた。胸が弾んで呼吸が困難である。だがへたばっては殺される。必死で逃げねばならぬのだ。追手はぐんぐん迫って来る。迫って来る。心臓の響きが頭にまで伝わって来る。足がもつれる。幾度も転びそうになるのだ。追手の
「お前はまだ癩病だな。」
樹上から彼は言うのだ。
「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか。」
恐る怖る訊いて見る。
「癒ったさ、癩病なんか何時でも癒るね。」
「それでは私も癒りましょうか。」
「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ。」
「どうしたら癒るのでしょうか。佐柄木さん。お願いですから、どうか教えて下さい。」
太い眉毛をくねくねと歪めて佐柄木は笑う。
「ね、お願いです。どうか、教えて下さい。ほんとにこの通りです。」
両掌を合せ、腰を折り、お祈りのような文句を口の中で呟く。
「ふん、教えるもんか、教えるもんか。貴様はもう死んでしまったんだからな。死んでしまったんだからな。」
そして佐柄木はにたりと笑い、突如、耳の裂けるような声で
「まだ生きてやがるな、まだ、貴、貴様は生きてやがるな。」
そしてぎろりと眼をむいた。恐しい眼だ。義眼よりも恐しいと尾田は思う。逃げようと身構えるがもう遅い。さっと佐柄木が樹上から飛びついて来た。巨人佐柄木に易々と小腋に抱えられてしまったのだ。手を振り足を振るが巨人は知らん顔をしている。
「さあ火炙りだ。」
と歩き出す。すぐ眼前に物凄い火柱が立っているのだ。炎々たる
「ころされるう。こ ろ さ れ る うー。
血の出るような声を
「ああ夢だった。」
全身に冷たい汗をぐっしょりかいて、胸の鼓動が激しかった。
「あっ、ちちちいー。」
泣声ばかりではなく、何か激烈な痛みを訴える声が混っているのに尾田は気づいた。さっきの夢にまだ心は
二列の寝台には見るに堪えない重症患者が、文字通り
に大きな絆創膏を貼りつけているのだった。絆創膏の下には大きな穴でもあいているのだろう。そんな頭がずらりと並んでいる恰好は奇妙に滑稽な物凄さだった。尾田のすぐ左隣りの男は、
その中尾田の注意を惹いたのは、泣いている男の隣りで、眉毛と頭髪はついているが、顎はぐいとひん曲って仰向いているのに口だけは横向きで、閉じることも出来ぬのであろう、だらしなく
生きることの恐しさを切々と覚えながら、寝台をおりると便所へ出かけた。どうして自分はさっき首を
「たかお! 高雄。」
と呼ぶ声がはっきり聞えた。はっとあたりを見廻したが勿論誰もいない。幼い時から聞き覚えのある、誰かの声に相違なかったが、誰の声か解らなかった。何かの錯覚に違いないと尾田は気を静めたが、再びその声が飛びついて来そうでならなかった。小便までが凍ってしまうようで、なかなか出ず、焦りながら用を足すと急いで廊下へ出た。と隣室から来る盲人にばったり出合い、繃帯を巻いた掌ですうっと貌を撫でられた。あっと叫ぶところを辛うじて呑み込んだが、生きた心地はなかった。
「こんばんは。」
親しそうな声で盲人はそう言うと、また空間を探りながら便所の中へ消えて行った。
「今晩は。」
と尾田も仕方なく挨拶したのだったが、声が顫えてならなかった。
「これこそまさしく化物屋敷だ。」
と胸を沈めながら思った。
佐柄木は、まだ書きものに余念もない風であった。こんな真夜中に何を書いているのであろうと尾田は好奇心を興したが、声をかけるのもためらわれて、そのまま寝台に上った。すると、
「尾田さん。」
と佐柄木が呼ぶのであった。
「はあ。」
と尾田は返して、再びベッドを下りると佐柄木の方へ歩いて行った。
「眠られませんか。」
「ええ、変な夢を見まして。」
佐柄木の前には部厚なノォトが一冊置いてあり、それに今まで書いていたのであろう、かなり大きな文字であったが、ぎっしり書き込まれてあった。
「御勉強ですか。」
「いえ、つまらないものなんですよ。」
「あの方どうなさったのですか。」
「神経痛なんです。そりゃあひどいですよ。大の男が一晩中泣き明かすのですからね。」
「手当はしないのですか。」
「そうですねえ。手当と言っても、まあ麻酔剤でも注射して一時をしのぐだけですよ。菌が神経に食い込んで炎症を起すので、どうしようもないらしいんです。何しろ癩が今のところ、不治ですからね。」
そして、
「初めの間は薬も利きますが、ひどくなって来れば利きませんね。ナルコポンなんかやりますが、利いても二三時間、そしてすぐ利かなくなりますので。」
「黙って痛むのを見ているのですか。」
「まあそうです。ほったらかして置けばそのうちにとまるだろう、それ以外にないのですよ。もっともモヒをやればもっと利きますが、この病院では許されていないのです。」
尾田は黙って泣声の方へ眼をやった。泣声というよりは、もう
「当直をしていても、手のつけようがないのには、ほんとに困りますよ。」
と佐柄木は言った。
「失礼します。」
と尾田は言って佐柄木の横へ腰をかけた。
「ね尾田さん。どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね。」
佐柄木はバットを取り出して尾田に
「あなたが見られた癩者の生活は、まだまだほんの表面なんですよ。この病院の内部には、一般社会の人の到底想像すらも及ばない異常な人間の姿が、生活が、描かれ築かれているのですよ。」
と言葉を切ると、佐柄木もバットを一本抜き火をつけるのだった。潰れた鼻の孔から、佐柄木はもくもくと煙を出しながら、
「あれをあなたはどう思いますか。」
指さす方を眺めると同時に、はっと胸を打って来る何ものかを尾田は強く感じた。彼の気づかぬうちに右端に寝ていた男が起き上って、じいっと端坐しているのだった。勿論全身に繃帯を巻いているのだったが、どんよりと曇った室内に浮き出た姿は、何故とはなく心打つ厳粛さがあった。男は暫く身動きもしなかったが、やがて静かにだがひどく嗄れた声で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるのであった。
「あの人の咽喉をごらんなさい。」
見ると、二三歳の小児のような涎掛が頸部にぶら下って、男は片手をあげてそれを押えているのだった。
「あの人の咽喉には穴があいているのですよ。その穴から呼吸をしているのです。咽喉癩と言いますか、あそこへ穴をあけて、それでもう五年も生き延びているのです。」
尾田はじっと眺めるのみだった。男は暫く題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかなあー。」
すっかり嗄れた声で此の世の人とは思われず、それだけにまた真に迫る力が籠っていた。男は二十分ほども静かに坐っていたが、又以前のように横になった。
「尾田さん、あなたは、あの人達を人間だと思いますか。」
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて黙って考えた。
「ね尾田さん。あの人達は、もう人間じゃあないんですよ。」
尾田は益々佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません。」
佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の興奮すらも浮べて言うのだった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち
そのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考えて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしようか。」
だんだん激して来る佐柄木の言葉を、尾田は熱心に聴くのだったが、潰れかかった彼の貌が大きく眼に映って来ると、この男は狂っているのではないかと、言葉の強さに圧されながらも怪しむのだった。尾田に向って説きつめているようでありながら、その実佐柄木自身が自分の心内に突き出して来る何ものかと激しく戦って血みどろとなっているように尾田には見え、それが我を忘れて聞こうとする尾田の心を乱しているように思われるのだった。と果して佐柄木は急に弱々しく、
「僕に、もう少し文学的な才能があったら、と歯ぎしりするのですよ。」
その声には、今まで見て来た佐柄木とも思われない、意外な苦悩の影がつきまとっていた。
「ね尾田さん、僕に天才があったら、この新しい人間を、今までかつて無かった人間像を築き上げるのですが――及びません。」
そう言って枕許のノォトを尾田に示すのであった。
「小説をお書きなんですか。」
「書けないのです。」
ノォトをばたんと閉じてまた言った。
「せめて自由な時間と、満足な眼があったらと思うのです。何時盲目になるか判らない、この苦しさはあなたにはお解りにならないでしょう。御承知のように片方は義眼ですし、片方は近いうちに見えなくなるでしょう、それは自分でも判り切ったことなんです。」
さっきまで緊張していたのが急にゆるんだためか、佐柄木の言葉は顛倒し切って、感傷的にすらなっているのだった。尾田は言うべき言葉もすぐには見つからず、佐柄木の眼を見上げて、初めてその眼が赤黒く充血しているのを知った。
「これでも、ここ三二日は良い方なんです。悪い時には殆ど見えないくらいです。考えても見て下さい。絶え間なく眼の先に黒い粉が飛び廻る苛立たしさをね。あなたは水の中で眼を開いたことがありますか。悪い時の私の眼はその水中で眼をあけた時と殆ど同じなんです。何もかもぼうっと
ついさっき佐柄木が、尾田に向って慰めようがないと言ったが、今は尾田にも慰めようがなかった。
「こんな暗いところでは――。」
それでもようやくそう言いかけると、
「勿論良くありません。それは僕にも判っているのですが、でも当直の夜にでも書かなければ、書く時がないのです。共同生活ですからねえ。」
「でも、そんなにお
「焦らないではいられませんよ。良くならないのが判り切っているのですから。毎日毎日波のように上下しながら、それでも潮が満ちて来るように悪くなって行くんです。ほんとに不可抗力なんですよ。」
尾田は黙った。
「ああ、もう夜が明けかけましたね。」
外を見ながら佐柄木が言った。
「ここ二三日調子が良くて、あの白さが見えますよ。珍しいことなんです。」
「一緒に散歩でもしましようか。」
尾田が話題を変えて持ち出すと、
「そうしましよう。」
とすぐ佐柄木は立上った。
冷たい外気に触れると、二人は生き復ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、時々背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることの出来ない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。
「盲目になるのは判り切っていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はある筈です。あなたも新しい生活を始めて下さい。癩者に成り切って、更に進む道を発見して下さい。僕は書けなくなるまで努力します。」
その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです。」
そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。
あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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