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高麗屋の女房(抄)

目次

  三代襲名

 三人の子供たちは小さい頃から、芝居には興味を示していた。

 歌舞伎の中で使われる合方(あいかた)ばかりが入っているようなLPレコードをかけて、芝居ごっこをする。

 隆子(次女・松たか子)が生まれる前は、紀保子(長女・松本紀保)と照薫(長男・市川染五郎)と二人でやっていた。『暫』では、私の口紅で顔や素足に隈取りを描いたりして、

ちばらく……」

 なんて言う、たどたどしい台詞が年中聞こえてくるのだった。

 隆子が生まれると、これは新しい相手役ができたとばかりに照薫は張り切って、着物を着せてやっている。私の普段の着物を引っ張り出して、裾を引いて遊んでいるのだ。おもしろいことに隆子には男物の着物で袴をはかせてやったりして、照薫のほうは大体、裏方にまわっている。

 リーダーシップはいつも、照薫がとっていた。隆子は言われるままに、紀保子はつられてやっている、という感じだった。

 そのうち、絵本よりも『演劇界』という雑誌を手に取り出した。隆子にとっては、二、三歳頃からの「愛読書」だったかもしれない。

 だから当時の『演劇界』はボロボロだ。

 別に、子供の時からそんなものを無理やり見せたわけではないのに、三人でいつももって歩いて、回し見をしていたのだ。

 今になって隆子が、

「この芝居は見ていないけど、私、よく知ってるわ」

 と言うことがある。あれはきっと、その時『演劇界』で見ていて、頭のすみにしっかり残っているからだろう。

 子供は、家の中で大人が使っているものに興味をもつものだ。しかし、それを怒って取り上げたりはしなかった。

 それが、よかったのか悪かったのかはわからないが。

 父・八代目松本幸四郎が初代白鸚に、夫・六代目市川染五郎が九代目松本幸四郎に、息子・三代目松本金太郎が七代目市川染五郎になる。

 これを同時に披露するという歌舞伎界初の三代襲名の話が発表されたのは、一九八〇年秋のことだ。

 襲名公演は東京・歌舞伎座で翌八一年の十、十一月の二カ月という華やかなものだったが、この話自体が決まっていたのは、発表から一年は前だったと思う。

 七九年から八〇年の初めにかけて父が入院していたので「体調が戻るまで、もう少し延ばしては」という話も出たのだが、父は母に一言、

「いや、それでは遅い」

 と言ったのだそうだ。

 自分の体というものを、その限界を、密かに感じていたのだろう。

 もともとこの話が持ち上がったのも、父が「幸四郎を染五郎に譲りたい」ということからだったのだ。

 主人は八歳の時に染五郎を襲名し、一般的に見ても、わりあい華々しい活躍をしてきた。

 当人自身はもちろん苦しいこともあっただろうが東宝時代にはミュージカルや現代劇も手がけ“染五郎”という名前を歌舞伎を知らない人にまで浸透させたところがある。

 かといって、やはり、本筋は歌舞伎だ。主人の心の中にもそれはあったし、一つの過渡期にきつつあって、それを本人以上に父親はわかっていたのかもしれない。今の息子と主人以上に、主人と父は親子らしい会話のない親子だったが、同じ役者としての魂の部分では、黙って見ていても通じ合うものがあったようだ。

「襲名しかないんじゃないか」

 と、父は言ったという。

 それが一つのきっかけ、転機になるんじゃないか、と。

 大切な話だから、襲名の意向を伝えるにも順序がある。まず叔父・尾上松緑に了解いただき、それから会社の方へ話して、という順序だったと思う。

 そのあたりから、母と私の「三代襲名」の準備も始まっていった。

 母は歌舞伎の家に育っているので、いろんな方の襲名も見てきている。どういうことをするかというのはきちんと頭の中に入っているから、それを教えてもらって、とにかく段取りをしていかなければならない。

 まず配り物をどうするか。

 扇子、袱紗(ふくさ)、手ぬぐいという三つの品物をそれぞれの役者に三種類ずつ、というのはすぐに決まったが、なにぶん、すべて一つ一つ、アイデアから起こしての手作業だ。思いのほか、手がかかる。

 扇子もずいぶん図柄を描いてもらって、何度も手直しをした。扇子の竹に付ける絵も、鸚鵡(おうむ)の絵は父が自分で描いて、主人は松葉、息子は四つ花菱。扇子屋さんは十松屋という京都の老舗だったので、何度もこちらへ出てきてもらい、どういう桐箱にするか、懸け紙は、懸け紙の帯は、と、一緒に工夫を凝らした。母はそういうことが大好きだったから、まったく苦にならない様子だったし、そのアイデアがまた、素晴らしい。

 それに合わせて風呂敷と袱紗はきしやさんに頼み、白地に金の霞、松の緑に金の霞、朱に金の霞と揃えてもらった。

 扇子の竹も煤竹(すすたけ)にし、十松屋のご主人がわざわざ家にきて一本ずつ箱詰めをしてくださった。

 配り物はいろんなパターンで何千とセットしてもらった。その名簿づくりも同時進行でやっていくのだが、役者衆、ご贔屓(ひいき)様、邦楽関係者、マスコミ、花柳界、と全国に亘る。

 それを、実際に伺うところ、配送するところとに分ける。

 名簿がそこまでできあがったら、いよいよ挨拶回りだ。

 主人が伺うところ、私が伺うところを分ける。どうしても、という方のところには母も回ってくれたが、実はその時はもう父の具合もあまりよくなかったので、母はほとんど父につきっきりであった。

 失礼がないように、しかも一日でできるだけ効率よく回らなければならない。朝早く出発して夕方まで道順もしっかり考えて「今日はこれだけ回ろう」と心に決める。

 地方は電車、車を乗り継いで、東京近郊は可能な限り車で回ったので、大体、車の止められるファミリーレストランで食事して、名簿を消していくのが楽しみだった。

「残っちゃったあ」などと、言いながら。

 夏だったから、日が長かったのが幸いだった。ただ、着物は普段着ではなく紋付だし、車の中で「ああ涼しい」と言ったかと思うと、パッと外へ出て「ああ暑い」という、その繰り返しだった。

 大阪、京都、名古屋、東京。その挨拶回りに、二カ月はゆうにかかった。

 初めは「なんでこんなことしなきゃならないの」と思っていたのだが、だんだんそんな私にも覚悟ができてきた。挨拶回りそのものがどうということではなく、それを通して自分の中の気持ちが変わっていったのだ。

「このたび、襲名をさせていただくことになりました。よろしくお願いします」

 玄関先での一言だけで、別にその都度お家に上がるわけではない。そうやって相手とお目にかかる、「おめでとうございます」と言っていただく、その繰り返しの中で、自分の内に、どんどん覚悟ができてきた、とでも言おうか。

 実感として「襲名するんだな」ということが、わかっていく。自分が挨拶をするということも「襲名」の一部なんだと思えてくる。

 言葉にしてしまうと簡単だが、頭でわかるのではなく、自分の体にわからせるということなのかもしれない。

 その時本当にきれいごとではなく、歌舞伎役者の女房という仕事が、苦、ではなくなった。

「三代襲名」はNHKのドキュメンタリー番組にもなった。公演までの練習風景から八月の披露パーティー、母と私が配り物なり何なりと裏で動き回っている様子までも取材された。

 だがなんといっても、主役は役者たち。

 成駒屋(中村歌右衛門)さん、松緑の叔父と父が共演する『忠臣蔵七段目』の中で、力弥という役を息子がやることになり、鎌倉の家でお稽古しているところが番組の中に使われることになった。

 父が扮する由良之助が力弥に文箱を渡して指示する大事な場面で、息子はまだ文箱を受け取るのに背丈がギリギリであった。

 息子は歌舞伎をイヤだと言ったことは一度もないし、そのお稽古でも一所懸命、動きを覚えようとしていた。だが始まったばかりでなかなかうまくいかない。そのうち、テレビカメラが回っているのに、だんだん父のほうが本当に怒りだしてしまった。

「あらあら…‥」と、母が困った顔をする。それでも、息子はベソをかいたり、ふくれたりすることもなく、言われた通りやっていた。小さいながらも三代襲名の重みをわかり、これができなければいけないんだ、という懸命な思いがあったのだろう。

 父にしてみれば、病気のことから、気が焦るところもあったのかもしれない。

 七代目市川染五郎が自分の祖父と共演したのは、それが最初で最後になってしまった。

  空っぽの心

 十一月二十五日。ふた月にわたる東京での襲名披露公演が終わり、千秋楽が終わってすぐ、父は床についてしまった。

 けれど、一月からは大阪の新歌舞伎座での襲名興行が決まっていたため、主人は心配しながらも明けて大阪へ行かなければならなかった。特別な興行でもあり、私も一緒に行くことになっていた。

「父の様子がおかしい」

 そんな知らせが来たのは、主人と私が大阪へ行ってすぐのことだった。私はすぐに東京に戻った。主人も舞台が終わって、最終の飛行機で東京へなんとか戻ってきた。

 危篤状態は数日続いた。その間、主人は舞台が終わって最終の飛行機に乗り、翌朝一番の飛行機で大阪へ戻るという日々を続けた。

「舞台を休むわけにはいかない」

 そういう主人を見ていると「体は大丈夫なの」などと簡単な言葉をかけられないような、激しい緊張感に圧倒されるような毎日だった。

 わかってはいたつもりだったが、私は主人と藝とをつなぐ鎖のようなもの、業、とでもいえる深いものに、身をちぎられるような気持ちがした。

 父は、そんな息子にすべてを託して、一月十一日の夜に亡くなった。

 主人は父を看取った後、また翌朝の一便で大阪へ行き『勧進帳』初め何本かの舞台をこなしたのだった。

 そこで弁慶をやらなければいけないつらさは、本人でなければわからない。私たちは東京にいて、後のことをやらなければならなかったが、そばにいても、そのつらさをどうすることもできなかっただろう。

「白鸚逝去」というニュースは、その朝の新聞やテレビを駆け巡った。

 お客様は舞台の前にご存じなわけだ。当日『勧進帳』の最後の弁慶の六方の引っ込みは、お客様のすごい拍手が手拍子に代わり引っ込んだそうだ。

「後にも先にも、お客様の手拍子で六方を踏むのは初めてだった」

 と、後から主人は言っていた。

 たまたまそれをご覧になった東京のお客様が私におっしゃった。

「もう、あれは、あの時の舞台は、忘れられません」

 それは本当に、私もその場で見たかった舞台だ。前日、大阪に引き返すまで私たちの前では涙ひとつ見せなかった主人の、父へのすべての想いが込められていたはずだから。

 三代襲名は藤間家にとって大きな行事であった。しかし、その後すぐに父が亡くなってしまい、おめでたいという感触はまたすぐ夢のように消え、私の心の中にもぽっかり穴が開いた。

 だがそれ以上に、父の仕事を(かたわ)らで支え、息子たち二人を育て、藝の伝承に精魂込めてきた母の心は空っぽになってしまったようだった。

 少女の頃からの初恋を貫いた母にとっての夫の存在、というものは、はかり知れない大きいものだったに違いない。父がいたからこそ、母は頑張れたのだろう。

「本当に何もなくなっちゃった。芝居を見るのもいやだし、着物を着るのもいやだ」

 目に見えて父を思い出させるものはすべていやだと、母は言っていた。どうやって生きていっていいのか、というような感じ。

 私にしてみれば、あんなに藤間家をきちんと築いてこられて、家庭というものを強くあたたかく教えてくれた、そんな強い母が……と思うと、私もどうしていいかわからなくなってしまうのだった。

 葬儀、四十九日、百箇日、と仏を送る儀礼が続き、さすがにしなければならないことに抜かりはなかったものの、いつもの母とはもうまったく違った。人をもてなすアイデアなど、相変わらず考えておられたが、その表情は寂しさに沈んでいた。

「自分の気持ちを、もう誰が本当にわかってくれるのだろうか」

 言葉にされたことはなかったが、私には母のそんな声が聞こえてくるような気がして仕方がなかった。

 そんなふうに一年が過ぎた頃、母は親しい方からお誘いを受けて、以前やっていた小唄をまた始めるようになったのである。

「私がこれから生きていく道というのはこれしかないし、何もしないで鎌倉の家で過ごすということはとてもできないから」

 そんなふうに相談を受けた主人は、一も二もなく母にそれをすすめたようだ。

 母が唄っている姿など、それまで私は見たことがなかった。だが若い頃は、長唄や清元、古曲もずいぶんやっておられて、それも「プロになったら」と言われるほど、人並みはずれた上手さだったそうだ。

 それからは、唄が母の生きがいになった。

 なんでも徹底する方だったので、盛んに唄のお付き合いも広げられ、やがて「松派の家元・松正子」として、弟子を取り、自分でも稽古に励まれた。

「松」というのは、昔、母が播磨屋のおじいさま(=初代・中村吉右衛門)につけてもらったそうだ。播磨屋は波野という名字(みょうじ)で、小唄が上手なおじいさまは「波派」と名乗っていらしたらしい。

「藤間の家に嫁いで、八代目松本幸四郎の女房になるのだから、君は“松派”と名乗ったらいいんじゃないか」

 と、なったらしい。

 松派という流派を広げるというよりは、自分が歌いたい古曲をもとに、新しい自分の曲風をつくりたいという希望が、母にはあった。歌詞を自分で書いて、曲をつけてもらう。

 それを薫風曲、と名付けた。

 紀保子と隆子の二人が、その中の『女の四季』という曲に振りをつけ、踊りの会で踊ったこともあった。

 父が亡くなって、それでもやっとのことで自分の道を見つけた。……そんな母のところに、孫たちとともに訪れて、いろんな話を聞くこともあった。それはおそらく普通の家庭で考えれば、祖母として、ようやく少しは話もわかり始めた孫たちと話せる幸せな一瞬であったろう。

 でも母自身が、そういう幸せを望んでいたようには、私には見えなかった。平穏で、のんびりとしたおばあちゃんとしての暮らしより、彼女は「高麗屋の女房」として必死に生きてきて、なおかつ家庭をあたたかくつくるという、そんな毎日でこそ輝き、生きがいを感じる人だったのではないだろうか。

  それでも舞台がある

 息子照薫が七代目市川染五郎となったすぐ後、小学校三年生の時に、時代物の大役をいただいたことがあった。

 演目は『盛綱陣屋』。盛綱を父親の幸四郎がつとめるという、親子共演でもあった。小四郎という願ってもない大役だったのだが、(らく)間近になって、ものすごい風邪をひいてしまった。

 千秋楽の前日、とうとう、熱で起き上がれなくなった。

 時間まで待っていたのだが、布団から一歩も動けそうにない。それで、仕方なく一日だけ休演した。

 私はもちろん、その日は芝居へも行かず、高熱で動けない息子の部屋で、何ともやりきれない思いで一日を過ごした。

 そこへ、盛綱を終わって帰ってきた主人が、パッと部屋の扉を開けたのだ。

「今日のお客さん、すごくいいお客さんだったんだよ」

 それだけ言うと、またパタッと扉は閉まった。

 小四郎という役は、その舞台で、本当に重要な役。

「役者にとって、何より一番大切なのは舞台だ」

 とインタビューごとに言い続けている主人だけに、息子としてよりも病気で舞台を休んだ役者としての息子に、まず言うべきことを言おう、という気持ちだったのだろう。

「舞台を毎日、元気でつとめるということはいかに大変なことか。生身の人間だから風邪もひくけれど、それを舞台の時はいかに早めにくい止めて支障のないようにしなければいけないか」

 そういう想いをすべてその別な言葉で表現したのだ。それはきっと、役者を家庭で預かる私への言葉でもあったに違いない。

 それからしばらくして「熱はどう?」「大丈夫かい?」などと、普通の親の言葉になったが、その帰ってきた直後の一声は、今も忘れられない。

 翌日は千秋楽。熱はまだあったが、本人も「出たい」と言う。それで私が車を運転しておぶっていった。楽屋でお弟子さんがお化粧するのを見ていると、水で溶いた白粉(おしろい)が熱でポッポッと塗ったあとからあとから、乾いてしまう。

 ハーハーと小さな肩で息をしている息子を見ていると、目をつぶりたいような想いだった。

 母は、自分の息子だったら「いかなくちゃダメ」と言ったのだろうが、そこは孫のこと。私は本人が行くと言う限りは熱があっても連れていこうとかたくなに思っていたのだが、

「あんまり無理させちゃダメよ」

 と、やさしい言葉をかけてくれた。

 とにかく『盛綱陣屋』は一日休んだだけだったが、翌月の『佐倉義民伝』の子役は、とうとう休んでしまった。

 仕事をいただくというのは、一種のチャンスだ。主人、松本幸四郎はそういうチャンスを百パーセント自分のものにしてきた人だ。小さいからとか、病気だからとかは関係なく、そこでチャンスを逃すということが、本当にわが子だからこそ、悔しかったのだろう。

 染五郎はその後一カ月、本当に学校も休んだ。

 三代襲名の前頃から寡黙になりつつあったが、この頃は口をきけない病気になってしまったんじゃないかと思うくらい、何も言わない。風邪だけではなく、気持ちもずいぶん疲れたり、自分自身も舞台を休んだことがショックだったのだろう。

 私も若かったから、母親として、学校は学校でちゃんとやってもらわないと困ると思っていた。子供にしてみれば、舞台で神経を擦り減らす、学校ではまた別の神経を使って、それをうまく説明することもできず、さぞ大変だったんだろうと思う。

 そういえば『連獅子』を踊った時にもこんなことがあった。

 もう何日後が初日という時に、首が動かなくなってしまったのだ。「どうしたの?」と聞くと、

「学校で肩をポンと叩かれて、ふっと振り向いた瞬間、なんか筋がおかしくなっちゃった」

 と、ぼそぼそっと言うのだ(本当は、子獅子の毛ぶりの稽古で首の筋をちがえたのだろう)。

 その時はスポーツマッサージの先生のところへいって、応急処置をしてもらい、とにかく初日は間に合わせた。でも、公演は始まると一カ月続くのである。治しながらやっていくしかない。後々、長いこと「首が痛い」と言っていた。

『連獅子』は染五郎にとって、ひとつの試練だったのかもしれない。

 その舞台が終わり、母から葉書が届いた。

「連獅子、よくできました」

 そして句が一句、添えられてあった。

 限りなきわざをぎの道あげ雲雀

 母はめったに褒めない人だし、稽古の時も「もっと日頃からお稽古を積まなければ」と言っていただけに、それはうれしい葉書だった。

 染五郎が祖母に褒められたのは、その一度きり。だが、その一度きりが、いまだに支えになっているようだ。今も楽屋の鏡台前にその葉書を飾っている。

 一九八九年、八月。

 主人は五百回目の『ラ・マンチャの男』で、大阪の舞台に立っていた。

 しかもその日は、初日であった。

「母、危篤」

 その電話が鳴ったのは、ホテルで主人を劇場に送り出し、「私たちも後から行きます」と支度をしていた時のことだった。

 七月からずっと病院に入っていた母は、意識は確かながらも、息子が帰ってくるまでは生きていられないかもしれない、と感じていたのだろうか。

 なんとなく大阪行きを躊躇する私に、静かに、はっきりとこう言ったのである。

「初日だから、あなたも行かなければダメよ」

 だから夏休みに入った染五郎と隆子を連れ、大学受験を控えた紀保子だけを残して、大阪へ来たのだった。

その時、何も迷わず、私は子供たちに言った。

「おばあちゃまが危篤だから私はすぐに戻るけど、あなたたちは初日の舞台を見なさい」

 初日公演で、しかも『ラ・マンチャの男』の通算五百回目。

 しかし、五百回公演だからということで二人を置いていったのではないと思う。だがその時、二人を連れて東京へ帰ろうとはまったく思わなかった。夜、病院へ行くのに、一人のほうがいいだろうという思いと同時に、子供たちに私の代わりに、その初日の舞台を見守っていて、という思いもあったのかもしれない。

 その時、何も知らないで舞台に立っている父の姿を見て、後から、隆子はこんなことを言っていた。

「いつも完璧主義である父が、あの時ほどボロボロに見えたことはありません。とにかく、調子がよくない。それでも、父は必死で、お客様はその姿に感動して見ている。その時、ああ、なんか自分も、この仕事をしていくんじゃないかという予感がしたんです」

 染五郎は、おばあちゃまに芝居をいっぱい教えてもらったし、これからどうするんだろうという不安と悲しみで、ポロポロ泣きながら見ていたという。

 初日の舞台が終わった直後、私はすぐ楽屋に電話を入れた。

「それじゃとにかく、何とかして東京に帰りたい」

 非常事態ということで、劇場の方が車を出してくださった。夜の舞台が終わると、もう飛行機もない時間だ。車を飛ばして、明け方ついて、また朝一番の飛行機で大阪へ戻った。二日目もまた同じことをくり返さなければならなかった。

 その時、主人は大阪を出て、もう車の中にいた。今のように携帯電話が普及していない時代だった。つらい知らせは、車の中の電話にした。

 母は、亡くなる前に、私たちそばにいた人や長くいた事務所の人やお手伝いをそばに呼んで、一人ずつに最期の言葉をかけたのだった。

 私には、

「麗子のことを、頼んだわよ」

 と。主人のことは、それはもう当然だから、任せたといつも言っていたが、ひとり娘のことが、とても気がかりだったのだろう。

 そういう気になることを、一人一人に、伝えたのだ。

 人間、最期の時に、こんなにしっかりできるものかと、彼女を失う気持ちの寂しさ、言いようのない不安以上に、その時はその毅然とした姿に深くお辞儀をしたいような気持ちでいっぱいだった。

 でも、主人はその姿も結局見られなかったのだ。

 そして翌朝、また一番の飛行機で、大阪へ戻っていった。

「東京を離れると、よくないね」

 そうポツリと言った一言が、忘れられない。

それでも舞台がある

「一生修行だから」

 母が私たちに教えてくれた時間は短かったが、それはもう息子に教え、その精神は伝えたという思いがあったのだろう。

「あとはあなたたちが責任をもって育てなさい」

 と、そんなふうに言って母は去っていってしまったような気がする。

 でもふとわが身を振り返って、そんな気持ちになっていけるだろうかと思うと、大きなため息になってしまう。

 あまりにも些細なことで、毎日、毎日は終わっていくのだから。

「精一杯やったから、あとはお願いね」という人生の幕の閉じ方は、その生き方を表しているように思う。

 舞台を大切にしてゆくということ、それも精一杯だ。

 それは人様から見れば「それがどうした」ということなのかもしれない。あるいは、人様に言うべきことではないのかもしれない。

「悲しいことがあったから」といって、それに負けてしまったら、どうしようもない。

 それは亡くなった父母が一番のぞまないことだと。

 だから、もっといい舞台にしなければならない。そういう想いを支えにして、主人は飛行機で大阪に戻っていったんじゃないかな、とふと思う。

 そしてそんな想いが、役者であることを選びとった子供たちの心にも、常にごうごうと力強く滝のように注ぎ込まれている。そんな気がしてならない。

  エジンバラの虹

「仕事が中心でいると、どこかに犠牲を払っているものだ。それをするために、何かをあきらめなければならないというものは必ずある。すべて万事がうまくいく、ということはないよ」

 いつだったか、主人がそんなことを言ったことがある。

 私自身のことで考えると、藤間家のことで精一杯で、なかなか実家(さと)の親のことを気配りしてあげることに疎くなってしまっていた。

 本当は、ひとりっ子だから娘がするべきことは私がしてあげなければいけないのだが。

 だからその分、実家の母はずいぶんいろんな意味で、犠牲を払ってくれているな、と思わずにはいられない。

 そして、父も。

 私の実家の父は、別に病気だったわけではなく、たまたま腸の検査をした時にした麻酔で目が覚めなくなってしまい、そのまま逝ってしまったのだ。

 一九九〇年のことだった。主人が『王様と私』をイギリスでやることになっていた。その前に神戸で『ZEAMI(世阿弥)』をやっており、千秋楽の数日後に、あわただしく二人でイギリスに渡ったのだった。

 九州の両親はすでにその頃は東京で暮らしていた。

 町医者だし、あとを継ぐ人もいないし、うちも古い家だから、だんだん年をとって二人きりというのも暮らしにくくなってくる。主人のほうの両親も大賛成してくれて、襲名の何年か前に呼び寄せていたのである。

 出発の時は父も大変元気だった。その不幸な出来事は、ロンドンでひと月くらいお稽古をしている途中に起きたのだ。

 ある日入った連絡は、信じられないような事故だった。

「お父さんが、麻酔で目が覚めなくなってしまった」

 と、いうのである。

 頭の中に、過去に麻酔が覚めないというような事故が報じられた記事がいくつか思い出された。でも、まさか、自分たちの身内にそんなことがふりかかるなんて。

 実家の母も、その時はとてもしっかりしていて、

「でもいいお医者様がついていてくださるのだし、心配することはないから、そちらを頑張ってちょうだい」

 と言うものだから、信じるほかはない。

 新婚当初の『ラ・マンチャの男』と同じくらいの、すべての台詞が英語という舞台。エジンバラ、ブラッド・フォード、バーミンガム……とイギリス国内を転々と興行は続いていく。

「ああ、こういう大変な時に、どうしてそんなことが起こってしまったんだろう」

 咄嗟(とっさ)に思ったのは、悲しいでも、すぐ帰りたいでもなく、そんな複雑な思いだった。それは絶対に主人にも言えないし、言ったところで舞台は()けなければならない。それに集中してもらうためには、このことは黙っているべきなのだ。

「エジンバラの初日が開いたら、言おう」

 と、私は一人で決心した。

 心のどこかに、まだ意識が戻らないと確定したわけじゃないから、と自分をなだめるような思いもあった。と、同時に、

「でも、いつかそういう日が」

 という暗い雲が心に漂う。その不安は、振り払っても振り払っても、消えなかった。

 帰りたいとは思わなかった、と言ってしまうと、あまりに親不孝だと受け取られるだろう。

 自分の中にいろんな思いが錯綜して、言葉にするのもうっとうしいくらいだった。

 街を歩くと、エジンバラの暗さが一層心を重くする。古きよき街ではあるが、お天気は始終どんよりとしており、ニューヨークに比べれば、みんなが楚々と生きているという雰囲気だった。

 だが、ある日、そんな街並みの中で、ぱあっと目の前に虹を見たのである。

 私はすぐ、母に電話をした。

「虹が見えたのよ、だから絶対大丈夫よ」

 でも、その虹は、去っていく父の私への最期の挨拶だったのである。

 エジンバラでの初日が開いて一週間ぐらいたった時、私は主人にやっと話した。

「そういえば、初日が開いて自分もホッとして見てたら、なんか様子がおかしいなあと感じていたけど」

 と、顔を曇らせた。それで、とにかく一度帰ってきたら、ということになった。だが、エジンバラから次の場所に移動するのに、炊飯器から何からすべて運んで移動しなければいけない。気軽に食事できるところも少なく、ほとんど自炊をしていた。私がいないと、他にそんなことをしてくれる人はいないのだ。

 それでもエジンバラからブラッド・フォードヘ移動した後、すぐに日本へ一度戻ることにした。

 飛行機に乗り、そして成田から病院へ直行したのだが、その間のことはほとんど思い出せない。私なりに、表面的には静かだったろうが、内心はパニックになっていたのではないか。

 戻ってみると、想像以上に事態は深刻だった。気丈なはずの母は非常事態で、狂わんばかりになっている。周りの方は私の顔を見て、

「とにかく、帰ってきてくれてよかった。ホッとしたよ」

 と言ってくれた。みんな、どうしていいかわからないようだった。

 眠ったままの父の姿が目の前にあった。悪い夢を見ているようだった。

 でも、私は涙が出なかった。情けないほど、悲しいという感覚が起こらないのだ。とにかく母を、母に冷静さを取り戻してもらわないことには、どうしようもない。今さらこんな状態になってしまったことを恨んでみても、父の容体がよくなるわけではないのだ。

 私は、悲しんでいられないことが、つらかった。

 子供たちも、学校や仕事がある。そのことで、しなければならない仕事がある。主人のことも、いつまでも一人にしてはおけない。それでとにかく、一応様子を見て、とりあえず、またイギリスに戻った。

 とうとう、父の意識が戻ることはなかった。

「‥…亡くなった」

 十一月の末、冷たい冬の風が耳に染むように、その知らせは、やってきた。

 主人は「お線香を上げたいから」と、ちょうどクリスマス休暇を利用して、一晩泊まりで帰国した。

 すべてをすませ、その後、私は主人と一緒に、バーミンガムヘ戻った。

 いつか、来る別れだとは思っていたが、何よりショックだったのは、その亡くなり方だった。世の中にはたまにそういう事故がある。だが、まさかそんなことが自分の家族に起こるなんて誰も思っていないものだ。

 それが、私の父に起こったなんて。

 悲しみより、怒りより、それがショックだった。世の中の事件って、本当はいつわが身にふりかかってくるのかわからないことなのだが、それでもニュースを見る時、他人(ひと)ごとのようにしか見ていないものだ。

「自分にふりかかってくることは絶対ない」

 という信念みたいなものがあったが、そこでグラグラッと崩れた。

 本人は苦しむことはなかったかもしれないし、それは人の寿命なのかもしれない。けれど、検査した結果は何も病気はなかったのだ。

 本当に、本当に、残念なことだった。

 わがままを言って、私が「したい」ことを「する」に変えるのに、笑っていつも助けてくれた……。怒った顔を見たことがなかった……。

 私は決して、高麗屋の女房、藤間の家の妻や母親として、自分一人で覚悟をもってやってきたとは、とても思えない。たとえばその覚悟は、こうして父が死をもって教えてくれたのかもしれない、などと、ふと思うのだ。

  高麗屋の女房

 歌舞伎の世界は江戸時代以来ずっと続いている古い世界だから、封建的と言われがちだ。しかし、見方を変えれば、藝も新しいものを取り入れるからこそ続いていくものだし、役者の女房として共働きをしているという点では、ずっと新しい世界かもしれない。

 今の歌舞伎の役者さんでも「家で奥さんに仕事の話はしない」とか「奥さんに仕事のことは立ち入らせない」という方はいる。でも、お客様とのつながりとか、先輩の役者さんへのご挨拶とか、そういうことは結局奥さんたちがしているのだ。

 それはそういうしきたりだから、というのではなく、やらざるを得ないから、というほうが正しい。役者さんに、精魂込めて芝居に打ち込んでもらうために、それを奥さんの仕事にしていくのが、一番自然なのだ。時間的な限界を考えても、役者たちがそこまでやっていたら、体がもたない。

 母たちが若い頃は、父がひと月の興行で旅に出るというと、ほとんど芝居にかかりっきりで、家にいなかったのだという。子供はばあやさんが育てた。学校も、お稽古ごとに連れていくのも、すべてばあやさんの仕事だったのだ。

 もっとも、私がお嫁に来てからは、旅だからといって、行ったきりということは、もうなかった。

 私たちが子供を育てた時代ぐらいからは、ばあやさんみたいな人もいないし、またそういう人を雇う世の中でもなかった。

 昔と違って、教育のことも考えなければならない。今の役者の奥さんというのは、本当にすることが多い。

 切符の管理をしたりするのも、昔とは違う。今は事務所をつくっていて、なんと私は「株式会社松本幸四郎事務所」の社長でもあるのだ。

 ちっとも実入りのない社長さんなのだが。

 そこではお芝居の切符を扱ったり、スケジュールの調整をしたりしている。昔は年配の番頭さんが多かったのだが、今はどこの家もかなり若返っているようで、うちも歌舞伎の好きな若いお嬢さんが中心になってやってくれている。その人たちが、劇場の受付に立ってくれたりもするわけだ。

 もちろん、私も舞台の時はお客様にご挨拶する。

 仕事の上での連絡とか、雑誌の原稿の確認とか、そういう仕事も多い。

 帰ってご飯を食べていても、電話が鳴るので、食べているのか食べていないのか、横にいる主人もたまらないだろうと思うのだが、その点は自分の用事でもあるので、黙っている。

 みんなけっこう自分勝手だから、自分のことで電話がかかっていて私が話している分には許してくれるのだけれど、私が友達と電話で話していると「なんなのッ?」っていう視線を感じる。表情も声も、仕事の時とは違うのが、すぐわかってしまうようだ。

 家族のことだけをしていればいいというものでもない。この世界にはお弟子さんがいる。

 彼らの毎月の仕事というのを考えてあげなくてはいけないのだ。

 うちのお弟子さんはどういう役で出ているか、というのを常に頭に入れておかなければならないし、何かあった時に会社との話というのも、結局、師匠の代弁者はおかみさんということになるから、交渉しなくてはならない。

 当然、みんなのお給料の交渉をするというようなことも出てくる。

 毎月十二カ月、全部みんなが働けるとは限らない。主人が、歌舞伎以外の舞台に出ていたりすることもあるので、お弟子さんによっては、どうしても休みの月が出てくる時もある。だからといって、主人がお弟子さんを全員引き連れて、ミュージカルの舞台をするわけにもいかない。

 お弟子さんそれぞれを、どこの劇場にどう使っていただくかということを早めにお願いしておくのも、大切な仕事だ。

 あとは、家の中での仕事になってくるのだが、たぶん、普通の家庭の奥さんの家事とはまったく違う中身なのだろう。あるインタビューでたか子が、

「小さい頃、お母様にお弁当をつくってもらったことがない」

 なんて言っていたが、遠からず、そういう状況だった。

 今にして思うと、その分、主人のことで手いっぱいだったのだ。

 たとえば、会で素踊りを踊るというと、前の日に着物を全部出して、アイロンをかけたり、寸法を確かめたりして備える。

 着物の手入れと言っても、シミ抜きや洗い張りは呉服屋さんがやってくれるから、自分でベンジンで衿を拭くというようなことはない。だが、着る本人が太ったり痩せたりするし、着物自体も洗濯で伸びたり縮んだりする。そういうことを確かめて、体に合わせるのだ。

桁丈(ゆき)が短いよ……。寸法がちゃんと合ったためしがないじゃないか。いったい何年やってんの」

「でも洗えば勝手に浴衣が縮むんだから、しょうがないじゃないの」

 なんて、くだらないケンカもしたりした。

 しかし、いつまで怒ってもいられない。

 主人のことを、精神的な部分で支えていくというのが、私にとっては何よりも重要な日常の仕事なのだ。

 何か特別な話をする時でも、なんとなく一緒にいると、ぽつっ、とすんなり始まることがある。他の用を不義理しても、主人がいる時間には家にいるというのを大事にしてきたのは、そんな理由からだ。

 そうすると、夜でも遅くまで話し込んで、ずっと時間を忘れてしまっているとか、主人が眠らずにテレビを見ていても、一緒に起きているというように。

 亡くなった母が、言ったことがあった。

「(幸四郎は)本当にこれ以上話し合ってもどうしようもないとか、こんなにわからない人なのかと思っていたのが、コロッと変わる瞬間がある。その一瞬に、ふっとわかってしまうのか、それとも何か自分で感じるのかしら」

 主人はギリギリまで人を追い詰めるところがある。何か意見が食い違ったりすると、そんなに人を問い詰めてどうするの、というくらい。

 そんなことをして、どうなることでもない。でもその時に、自分に対しても問い詰めているのだ。そして自分で収拾がつかなくなって、百八十度、主張を転換させてしまうのだろう。

 そういう場面を受け止めるのも、大変な仕事だ。

 普通は子供が生まれれば子供に合わせるはずの生活が、いつまでも主人中心の生活できてしまったような気がする。

 主人は「朝起きて、子供を幼稚園に送っていく」なんてしたことがない。というより、そういう感覚がまるでない人なのだ。

 子供の舞台が始まると、低学年のうちは学校へ迎えにいって、歌舞伎座まで送り届けなければならない。三年生ぐらいになると自分で行くようになったが、子供のことだから、ひょっとどこかへ遊びに行ってしまうこともあるかもしれない。

 一人で行くようになってからも、そんなことが心配で、毎日、歌舞伎座に着くはずの時間には家にいるようにしていた。時間が過ぎて電話がなければ「ああ、無事に行ったんだな」とホッとする。

 お手伝いさんにお世話になったものの、三人の子育てにもけっこう時間は必要だ。結局、多少は自分の睡眠時間をさく以外、しょうがない。

 私はこんなに働くようには生まれていないはずだし、本当によく働いているなあと思って、マラソンの有森裕子さんじゃないけれど、時々は「自分で自分を褒めてあげたい」なんて言いながら、働いている。

 だから染五郎は、先々自分のお嫁さんが来たら、母親みたいにはさせたくないって思うんじゃないだろうか。

 母親とか、主婦という仕事は、本当に発散するところがない。

 何よりもその理由は、その仕事が「実際に自分が働いている」という実感がないことからきているのだという気がする。

 自分ではなく「誰かのこと」に終始しているということ。それは、いわゆる女の人が仕事をもつというのとは違う。

 今の言葉でいう、そのストレスを、どう解消したらいいのかということはいまだにあるが、若い頃はもっとあった。

 ビジネスではない仕事。社会を意識しないでやっていく仕事。それが家庭的でよい方向に向くこともあったのだろうが、それについて深く考える余裕もないままに、自分で自分をコントロールしてゆくしかないのだ。

 主人が舞台を務めていると、二十五日間、毎日変化がある。その日の体調によっても違うし、お客さんによってもずいぶん違うだろう。そういう人を毎日送り出していく家庭というものも毎日違っていて当たり前だ。

 けれどもそこで、自分の感情を剥き出しにしていたら、とてもじゃないが、役者の仕事までも破綻させてしまう。かといって、その感情をすべて押し殺して人に尽くすというのは、私は嘘だと思うのだ。

 そこで見つけたのは、一緒に楽しむ、という感覚だった。

 人間は「この人のためにこれだけしてあげている」と考えると、それだけの代償を求めてしまう。それはその人にとってはありがた迷惑かもしれないのに。いくら夫婦であっても、その本心まではわからない。

 自分も一緒に楽しんだり苦しんだりしよう、と決めたのだった。

 主婦である私のストレスと、家族……役者、俳優のストレスというのは、まったく異質なものだと思う。

 一番違うのは、日常でも人に見られているというストレスだろう。

 特に主人は神経質で、食事に行くにもなんとなく人に見られていたりすると、食べる気がしなくなるらしい。仕事の話をするのに「食事しながらでも」と言われることがあるが、そういうことができないのだ。

 年中そういうことで神経をつかっている人たちと、普通に生活できる私を比べれば、どちらがたくさんストレスを発散させなければならないかというのは納得できる。

 私は、演じる人ではない。

 だが、演じる人たちの家族であり、妻であり、母なのだ。

 一緒に楽しみ、一緒に苦しみ、一緒に生きること。深いところでつながっているのだと信じながら、できることは、元気にほがらかに一緒にいるということでしかない。

 人に「幸四郎はこういうふうに考えている」と話さなければならないことがある。

 そんな時、幸四郎の考えをわかっていなければ、嘘を言ってしまうことになる。それをわかるということはすごく大変だし、違ったふうに伝わっていることだって、今までもたくさんあったかもしれない。

 大事なことは、目先のことではなくて、大きなところはどこに向いているか、ということなのだと、最近やっとわかってきた。

 仕事のことも、家族のことも。

 今は「奥さん」と呼ばれることが多いが、「高麗屋のおかみさん」「高麗屋の女房」と呼ばれる雰囲気にならないと、本当ではないのだろう。

 結婚する時、母が「役者の夫婦は共稼ぎ」と助言をくれた、その言葉の意味は、年ごとに深まっていくのだった。

  (つけたり)・私のきもの生活

    受け継ぎ伝えていくきもの

祖母、母より伝えられて

 私が九代目松本幸四郎(当時は六代目市川染五郎)と結婚したのは、彼が二十七歳、私が二十四歳の時でした。医師の娘として育てられた私にとって、高麗屋の女房という大役を担うことは、同時にきものの世界への扉を開けることでもありましたが、祖母(波野千代・初世中村吉右衛門夫人)や母(藤間正子・初世松本白鸚夫人)は、言葉で教えるというよりも、母の後について歩いているうちに自然に覚えるよう、教えを示してくれたような気がします。きものぞろえも、二人とも品格を持ちながら、それぞれの個性がちりばめられて、今、改めて見てもすてきだと思います。それまでは、呉服屋さんにある反物(たんもの)を仕立てるのがきもの作りだと思っていた私が、きものを自分好みにあつらえる楽しみを教えてもらったのも、この二人からです。きものにクロス・ステッチを施すなど、モダンな感性を持っていた祖母、古美術の本や器など、和洋を問わず様々なものに興味を示しては、きものや帯の柄にできるかしら、と思いを巡らせていた母。二人とも染め色や模様のデザイン、刺繍など、納得がいくまでオーダーを繰り返していました。

 そんなきものを譲り受けて今、私も袖を通すのがふさわしい年齢になりました。自分の寸法に仕立て直しては、私なりに着こなしを楽しんでいます。

  私流の着こなし

「役者の家は共稼ぎだということ…」結婚するときに母から贈られた言葉です。私にとってきものは仕事着です。主人をひいきにしてくださるお客さまに対し、ふさわしい装いでお迎えをしたいと考えます。私自身は織りのきものも好きなのですが、劇場ではやはり絹の染めのきものです。

 大切なのは、きものの寸法が体に合っていること。私の場合、動くことが前提なので、ほんの少し身幅を広めに仕立てています。ほかにも、着丈は草履の上すれすれに、身八つ口がのぞかないよう、袖つけは長めに、ゆきは手首の関節の上くらいなど、細かなところを調整すると、とても着やすく、着ていて楽なのです。姿もすっきり見えるような気がします。そして品のある装いをすること。舞台への思いがあるほどに、それは自然に私流の着こなしとして身についてきたように思います。小物の合せ方もその一つです。清潔感のある白の半衿を心持ち詰めぎみに合わせ、思いのほか目立つ足袋は常に清潔で真っ白なものを、アイロンをあて、しわのないのをはきます。草履は脱いだときにも美しい細型。帯締めは優しい印象の平打ちが使いやすくて好きです。基本はオーソドックスなことばかりですが、きものはTPOを心がけて選んでいます。例えば歌舞伎座なら格を高く華やかに。初日は特に思いが違います。お稽古がすんで、やっとお客さまに見ていただけるようになった、これから一か月無事に千秋楽まで終えられるように、という思いをこめて、身を引き締めてきものを着ます。お正月の初日はなおさらで、衿を正すような気持ちで訪問着に袖を通します。歌舞伎の世界は、こんな日本のきものの心が続いているところではないでしょうか。私たちができるうちは、なくしたくないと思っています。そういう伝統の世界とは逆に、現代劇やミュージカルなどでは、お芝居の内容や劇場の雰囲気に合わせた装いでありたいと心がけて趣を変えます。

  私好みのきもの選び

 私にとって呉服屋さんとのおつきあいは欠かせません。いつもお世話になっている呉服屋さんもそれぞれに個性があります。今日は、最初は息子染五郎の友人だった「ごふく美馬」のご主人、美馬勇作さんに私のきものについて話をしていただきます。ふだん何気なく選び、作って着ているきものですが、呉服屋さんの側は、どう思っているのでしょう。

藤間 美馬さんとのおつきあいは十年ほどになりますね。

美馬 そうですね。もともと小学生のころからお芝居が大好きで、劇場に足を運ぶたびに、藤間さんの洗練された装いを拝見しておりました。こうしておつきあいさせていただけるなんて、夢のようです。

藤間 美馬さんはほんとうに芝居をよく見ていらっしやる。厳しいご意見もお持ちね。

美馬 古典だけれどモダンという歌舞伎の衣装は、とてもすばらしく、いつも勉強になります。

藤間 初めてきものを見せていただいたとき、とてもいいものをそろえていらっしやると思いました。美馬さんは、高知県を本拠地にしてご商売をされていますが、関西の華やかさと関東の粋をうまくあわせ持っていますよね。

美馬 おかげさまで藤間さんには江戸好みというか、もう一つ品のある銀座好みというのを教えていただきました。

藤間 確かに最初は少々好みの差がありましたね。でも、息子とも親しくしていただいているせいか、つい友達のような感覚で率直なやりとりができます。今では私の好みをよくわかってくださいます。人の好みは、頭では理解しても、きものとして一致させるのは難しいことですから。

美馬 お忙しいので、お仕事の合間などに楽屋で見ていただいたこともありましたね。ご主人の幸四郎さんからお褒めの言葉をいただいたり。うれしかったですね。

藤間 美馬さんは、お店を持たずにすべて一人でこなしていますでしょう。だからこそ美馬さんの世界ができ上がる。それがとてもすてき。今日のきものと帯も美馬さんのものです。私はこのような濃い色のきものに白っぽい帯を合わせるのが大好きです。

美馬 まさに理想的な雰囲気で着こなしてくださっています。

藤間 白地の帯はどんなきものにも合います。着る機会が多いほど、うまく組合せを変えて見せることが大切ですね。そんな時は自分の色を決めておくといいですね。同じような色彩なら組合せは自在にできますから。

美馬 私どもには、以前お求めになったあのきものに合う帯を……というリクエストもよくいただくのです。当然のことですが、お客さまにお買い求めいただいたものすべてを記憶しておくのも大切な仕事です。

藤間 母は、「きものより帯を上等に」とか「きものは地味でも帯は派手めに」とよく申していました。亡くなった後、整理してみると、きものの数より帯のほうが断然多かったのです。

美馬 昔から「帯は妹のものをせよ」ともいいます。帯はとても目立ちますから心持ち派手めのものを選ぶといいのです。確かに引き算ばかりではつまらない。藤間さんにも、もっと大胆なものをお召しいただきたい。上品さもある、そんなものをお持ちします。

藤間 特に仕事の場では、きものとの見た目の相性だけでなく、できるだけ品のよさを感じさせたいですね。

  娘たちに伝えるきもの

 二人の娘たちも大人になり、それぞれ女優という仕事に打ち込んでいる姿を見るのはうれしいことです。二人ともきものにも興味を持っているようで、長女の紀保、次女のたか子ともに、成人式や仕事を機会に振り袖や帯などを受け継いできました。紀保の成人式には新しい振り袖を作りましたが、たか子の時は、母が昔求めた古代裂の振り袖を着ました。ほかにも母の婚礼のお色直しに着た振り袖を主人の妹が着て、たか子も着ました。また、妹のお色直しのきものは紀保が着ました。時間は経過しても、いいものは変わらず残っていきます。これがきもののすばらしさだと改めて実感しています。以前は、私の派手になった色無地などは濃い色に染め直していましたが、このごろは、娘たちに役立つようになったので、そのまま残しています。このようにまた次の世代へ受け継がれていくのでしょう。娘たちはきものを着るとき、主人に意見を求め、尊重しています。こうしてきものへの美意識が高められていくのかもしれません。

 最近は若いかたもきものに興味を持たれていますが、親から譲り受けるだけではなく、自分のきものを新たにそろえる時代になりつつあるようです。でも洋服感覚で選ぶので、たいへん地味な色を好む傾向がありますね。親の立場からいうと、若いかたには明るい色のきものを着てほしいと思うのですが。たとえ地味でもはっきりした色を選ぶとか、帯を若々しくしたらいいと思います。そもそも初めてきものを着るのが成人式だというかたが多いのはほんとうに残念です。振り袖は娘の象徴ですから、本来は十代の娘さんが着るものでした。昔と同じようにとはいかなくても、若いときから日本のきものにふれていること、ひいては私たちがもっと積極的に伝えることが大切だと痛感します。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/11/24

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藤間 紀子

フジマ ノリコ
ふじま のりこ 随筆家 1945(昭和20)年、福岡県生まれ。

掲載作は『高麗屋の女房』(1997年、毎日新聞社)より第三章および表題の一文を編輯室で抄出し、「付」に『私のきもの生活』(2003年、文化出版局)第二章前半部も加えた。電子文藝館には夫である九代目松本幸四郎氏の『役者幸四郎の俳遊俳談』、『句集 仙翁花』、娘の松たか子氏の『松のひとりごと』も掲載させていただいている。

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