夜の聲(抄)
目次
誘 惑
おまへは何だって
私をその様にさらつてゆかうとする。
勿論
私に巣くうてゐる
度々
然し私ではない。
私ではないのだ。
まちがつてくれるな、たのむ。
昔、昔、ほんのちよつぴり
おまへの男つぷりに惚れたこともあつたけれど。
或る手紙(C)
いつか送つて下すつたミナト先生の
「霊を迎ふる浜辺の子等」は素晴しかつた。
おそらくそのゑは終生私の肌を離れないだらふ。
ブラマンク
コロー
ピサロ
セザンヌ
ゴッホ
ルノアル
ローランサン
私の好きだつた人々の誰も最早私には
残夢の如きものとなつてしまつた。
小さな
かつて美しく生きてゐたその人に就いて
私はいろいろと思はずにはをれない
それにしても若いかくれた天才がすでに此の世にないといふことは
なんといふ大きな悲しみだらふ。
「親切でも下手な人はお医者様でもかなしい」といつた貴方の言葉を沁々思ひ出した。
おゝ
「眉と眉の間に雪の如くつもる哀哉」
どうしてもこれをあなたにうつたへずにはをれないのだ。
どうやら変な手紙になつてしまひました。
それに私も少しばかり疲れてきたので
こゝらでペンをおきませう。
さて又私は例の様に私自身にどならねばならない。
おまへはまるで気狂ひだ。
否、おまへはまるで乞食だ。
疾 む
肉体は悲し噫、われは悉皆 の書を読みぬ。ステファヌ・マラルメ
遂に闘ひに破れて夕日の様に
倒ふれてゐます。
私は毎日熱い海の上に
白い帆かけ舟を幾つも流してゐます。
それはまるで私の子供を流す様でもあり
貴方の子供を流す様でもあり
たまらなくおそろしいことです。
此の世にきびしく坐つてゐる距離といふものを
今日程うらめしく思つたことはありませぬ。
泣いてゐるこども
こちらをむくな。
寒い貌をむくるな。
私の方へ
おろかな仕様のないこども。
私は眠らねばならないのだ。
かみさまも お眠り、
かみさまも お眠り、
だが、
私はやはり白い絹の寝巻の中で泣いてゐる声の方へ歩るいてゆく。
わかつてゐるよ、
わかつてるんだ、
涙をふいておやすみ。
桟橋にて
老いて寒い
言葉の様な時雨が降る。
誰を送つたのでもない出船のあとに
蒼ざめて立つ小石の様な女。
遠く波のしぶきの中に消えてゆく船体の背後に
私、しろがねの矢を放つて孤独なる己を思ふ。
はるかなる海路の果てにあるものを思ふ。
美しきもの懸垂せる国を思ふ。
心やさしき人の住める国を思ふ。
真冬、寥々と物さびて港は北風を噛む。
ふるへて喪失すな。
犯したる罪悪。白き
棹さす
夜が来れば
冷たい地球の上で
眠りこける者、
彼等の気配もいつか止まつてしまつた。
初冬のとがつた星屑が
チカチカ窓掛に揺れてくると、
霜に凍つた小草のにほひが
額の上を渉る、
しあはせとは何であるか、
夜とは何であるか、
眠るとは、
すべて生
窓をあくれば霜月十日の月だ。
肌を裂かうとつめよせる夜気に
私のくさつた胸が厳しく顫へる、
夜鴉の様な寒い姿、
此処は地獄の手前だらう。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/11/24