大相撲の名アナウンサー ──山本 照さんを偲ぶ──
平成十年十月二十七日の朝、私は突然 「山本さんはどんなにしておられるだろうか? 今夜電話してみよう」という、思いに襲われました。虫の知らせだったのでしょうか。 奇しくも、その夕刻、ご長男の謹一郎さんから「午前十一時四十二分に亡くなられた」というお報せをいただきました。
九十五歳の大往生、ありし日の山本さんを偲び、私は胸が一杯になりました。
人間の一生には、思いがけない出会いがあります。
昭和十二年の暮も押し迫ったある日のこと、小学三年生だった私は、四歳下の弟がぶら下げてきた相撲の雑誌を何げなく手にとって開いてみました。この時何故かわかりませんが、それまでまったく関心のなかった相撲への興味が
翌昭和十三年春場所(年二場所当時の一月場所)初日の一月十三日以来ずっと、私は午後四時半から六時半(時には七時)まで、ラジオにかじりつくようになりました。山本 照アナウンサーの実況放送でした。当時の幕内十分間の仕切り制限時間を充分に活用して、山本さんは、勝敗だけでなく、各力士の生い立ち、入門してから現在に至るまでの道のり、興味深い多くのエピソードなど、人間としての力士の紹介に時間を割かれました。
これらのことから、私は、子供心にも、多くのことを学び、山本さんの放送と相撲とが大好きになりました。
「かたや西の横綱双葉山定次、本名穐吉定次、大分県宇佐郡天津村出身、立浪部屋、昭和二年五月初土俵、昭和七年天竜一派の脱退騒動によりその二月に入幕、しばらく低迷しましたが、昭和十一年春場所に前頭三枚目で、六日目に横綱玉錦のはたき込みに破れた翌七日目、当時の瓊ノ浦を名乗っていた両国に勝ちましてから二年間負けを知らず、昨日まで四十三連勝しております。五尺九寸、三十三貫、均衡のとれた堂々たる体格です。 こなた東前頭筆頭の磐石熊太郎、本名小六熊雄、大阪市此花区出身、朝日山部屋、昭和二年一月初土俵、昭和九年五月入幕、五尺八寸、三十五貫、べんべんたる太鼓腹は四天王の一人であります」。
「勝負検査役は、東溜りが大正前期の横綱鳳の宮城野、西が打棄りを得意とした昭和初期の中堅力士吉野山の中川、向正面赤房下が昭和初期の横綱宮城山の芝田山、白房下が大正の大関太刀光の鳴戸、正面検査長席が大正時代の誇る小さな大横綱栃木山の春日野であります」。
相撲を愛し、力士を愛される山本さんの、暖かみのある、くわしく、わかりやすい説明のとりこになった八歳の私は、新聞や雑誌に首っ引きで、その場所の終わるまでに、幕内と十両の全力士の
また、呼び出しの美声に魅せられて、宗吉、初太郎、金五郎、玉吉さんの名前を知り、それぞれの節回しを真似て、毎日のように練習を続けました。老いた今でも、直接何の役にも立ちそうにないことに興味をもつ性癖は、この頃にすでに萌芽があったと思われます。その背景に、当時の相撲放送の大きな魅力があったことは、いうまでもありません。
それ以後、毎場所このような状態が続き、さらに古い雑誌や新聞をあさり、明治、大正、昭和初期の相撲の記録にもくわしくなってゆきました。
四十五年が過ぎました。山本さんは、昭和五十六年から五十九年にかけて、NHK発行の「グラフNHK大相撲特集号」に、「昭和時代の大相撲」と題する興味深い文章を連載されました。武蔵山、鏡岩、綾昇、旭川、両国、九州山、鹿島洋、桜錦など、数え切れないなつかしい力士たちの物語やプロフィールが飛びかいました。
私は、当時五十五歳前後、大阪の大学に勤めておりましたが、昭和五十九年一月号に掲載された、昭和初期の呼び出しさんについてのお話に興味を持ちました。そして「幼少のころに聞き覚えた節回しの記憶がどの程度に正確だろうか? 当時の録音が残っていないだろうか?」との思いから、私は、東京への出張にさいし余暇を割いて、山本さん宅を訪ねました。
「呼び出しの声の入った録音はどこにも残っていないでしょうね」とのことでしたが、山本さんは、初対面の私に、昔なつかしい面白いお話をつぎつぎと聞かせて下さいました。 その美しい節回しが子供心に印象的だった、初太郎さんと玉吉さんが、「前田山」、「磐石」、「男女ノ川」、「錦華山」などを呼び上げたときの特徴などについて、実例を示しつつ話しましたところ、山本さんは「まったくその通りでしたね」と、相槌を打ちつつ感心して下さいました。山本さんとは、その後もずっと文通が続きました。
九年が過ぎました。私が、停年退官した翌年、平成五年のことです。私は、「相撲が好きになった頃」と題する百枚の拙文を、「医科芸術」という雑誌に載せました。この文を読んでいただいた山本さんから程なく、昭和初期の相撲をなつかしむ手紙がまいりました。しばらくして私は、山本さん宅を再びお訪ねいたしました。心臓を悪くされたとのことでしたが、大変お元気で、時間を忘れて昭和十年夏場所後に武蔵山が、そして翌年春場所後に男女の川が横綱になったころのこと、昭和十三年夏場所の千秋樂の双葉山と玉錦との水入り相撲のこと、磐石がクラシック音楽を愛し、ローマ字でサインしたことなど、多くの面白いお話をして下さったのをはっきりと覚えております。大変楽しいひとときでした。
私が三度目に山本家を訪れたのは、その二年後、平成七年十月三十一日のことでした。間もなく九十三歳の山本さんは、「亡くなられる時があるのだろうか」と思えるような元気さで、国民新聞からNHKに入り、昭和八年一月から相撲放送をされるようになったいきさつや、昭和十四年春場所の四日目に双葉山が安芸の海に負けたときのくわしい情景などを、聞かせて下さいました。
おいとまするとき、門の前に立って、私が百メートルほど歩いて道を曲がるまで、ずっと手を振っておられたのが、脳裡に強く焼きついて、今もそのお姿が眼前に浮かんできます。
さらに二年が過ぎました。平成九年八月三十日、東京の「ホテル・ニューオータニ」で、山本さんの長寿と、橋本一夫さんの著書「明治生まれの親分アナウンサー 山本 照とその時代」の出版をお祝いする会が開かれました。はからずも招待された私は大変喜んで出席させて頂きました。盛会でした。山本さんのおすすめにより、橋本さんのこの書には二ページにわたり、私の拙文を引用して頂いております。
私はスピーチで、大阪から出席させていただいた心境と、昭和十三年頃の山本さんの実況放送の思い出などを、放送の口調をまじえつつ語りました。
会が終わってお別れするとき、九十四歳の山本さんが私に、「今日はこの世の極楽です」とおっしゃったのが印象的でした。
翌日の夜、大阪に帰った私は、山本さんから、喜びに満ちたお声で、「いたく感激しております」というご鄭重なお電話を頂き、大変恐縮いたしました。思えば、これが山本さんとの最後の会話でした。
顧みますと、私は、幼少のころ、山本さんの内容に富んだ情熱溢れるラジオ放送を何回も聞き、ごく自然に、相撲の面白さを知り、昔からの文献をひもどく楽しさを味わい、相撲の中に凝縮された人生の縮図さらには哀感や教訓を感じとりました。「努力せよ」、「運も実力のうち」、「チャンスは的確につかめ」、「嘆くな、くじけるな」などを幼いながらに実感しました。
これらのことは、私の人生に多彩な影響を与え、今も私の体内に生きております。「人は死すとも魂は永遠に残る」とは、こういうことなのでしょうか。
山本さんと直接お会いしたのは、わずか四回だけでしたが、人間を愛し、相撲を愛された、暖かいお人柄は、私の心の中に浸透し、神経細胞に強く刻まれております。本当にありがとうございました。
山本さん。どうか、静かに安らかにお休み下さい。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/07/22
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