クラーク氏の機械
一
時雨のあがつた午後、解剖学教室の若い教授木暮博士は大学の構内の並木道を通つて脳研究所へ行つた。道の上には黄ばんだ銀杏の葉が一めんに散り敷いて、空の暗いのに足もとだけがひとところ明るくへんに
教授はふと子供の頃、山に栗を拾ひに行つて道に迷つたときのことを思ひ出した。深い山の谷合ひを冷たい雨に打たれながら、へとへとになつて歩いてゐたが、あたりがしだいに暗くなつて行くのに、どこまで行つても道のある所へ出ない。困つてゐると向ふに煙が上つてかすかに人影の動くのがみえた。老人が一人ゐて炭を焼いてゐるのだつた。眉毛の垂れ下つた
考へてゐるうちに研究所へついたので教授は実習生たちが丹念に脳の切片を染めてゐる大きな室を通つて自分の机のまへへ行つた。隣の手術室からはタイル張りの床の上を何者かが鎖を曳きずつて歩いてゐるらしい音が陰鬱にきこえた。彼は助手に
「もう連れてきてあるのかい」
「はあ……すぐ手術をなさいますか」
「うむ、ぢや支度をしてくれ給へ」
教授はさう言つて隔ての扉を細目に開けてなかを覗いた。鎖で繋がれた一匹の大きな猿が、きよとんとして不審さうにあたりを見廻してゐた。
「なんだ、こいつは例のガンジーぢやあないか」
教授は不機嫌に言つた。
「ええ、もうこれが最後に残つたんです」
さう言つて助手は室へ入つて行くと鎖をとつてちよつとひつぱつてみながら、それともおやめになりますか、といふ風に上目使ひにちらと教授をみた。
「さうか、もう之だけになつたのかい、ぢやアまあ今日はこいつをやるさ」
教授はそのまま扉を閉めてさも大儀さうに自分の椅子へ腰をおろした。
木暮教授はもともと解剖学が専門なのだが、去年から此処でクラーク氏の機械といふものを使つて大脳生理学の実験をしてゐる。これは千九百八年に英人クラーク、ホースレー両氏によつて設計された脳手術用の機械で、これを被験動物の頭蓋にはめ、数理的な方式に従つてメーターを動かす針の尖がその動物の脳のなかで、施術者の欲する任意の部位にとどくやうになつてゐる。いつたい脳の手術といふものは面倒なもので、頭蓋を開いてみても施術者の欲する部位を探りあてることが先づもつて容易ではない。だが、この機械を使ふとそれが割に簡便にやれるのである。現在教授の手許にあるのはアメリカ製で、ノースウェスタン大学のランソン教授が改良設計した日本に二つしかないといふこの研究所自慢の機械である。教授はこれを用ひて猫や猿の中脳の赤核を破壊し、それらの動物に故意に脳溢血や脚腫瘍類似の神経障礙を起させ、人間に起る機質性脳疾患の理論を研究してゐるのであつた。
研究所の裏には実験動物を飼養しておく小舎があつて、そこに猿の檻が並んでゐる。いちじは十数頭の猿がゐたが、実験したあとでつぎつぎと殺して解剖に附すので今は僅か五、六頭しか残つてゐない。さうした猿どもの中に一匹、台湾産の毛の赤い爺さん猿がゐた。いつも檻の隅に
木暮教授もいまそれをみるとなんとなく嫌な気がした。ガンジーの顔がさつきふと心に浮んだ炭焼きの爺さんに似てゐたからであつた。研究室に残つてから今日まで人間の死体など数限りなく扱ひ、動物実験にも慣れてゐる教授なのに今日はどういふわけか気が進まなかつた。いつそのこと手術をやめようかと思つたりしたが、さうもできなかつた。科学者であ自分がそのときの気分や、動物に対するとるに足らぬ感傷などで予定した仕事を中止するなど如何にも不見識なことに思はれたからである。
二
隣の室の物音はしだいに激しくなつた。助手がガンジーを鎖のまま吊しあげて大きな硝子鉢に入れようとしてゐるのだつた。ガンジーは二、三度手足をバタバタさせてもがゐたがこれまでの猿ほどには
助手は蓋をすこしあけてそこからエーテルを注ぎ込んだ。間もなく猿はがくりと首を折り、額を鉢に押しつけて前のめりになつた。ちやうど子供が遊び疲れ、うたた寝をしてゐるときのやうな恰好だつた。
「先生、いやに簡軍に参つちまつたな」
さう言ひながら助手は頃をみはからつて猿を硝子鉢から出し、手脚を紐で手術台に縛りつけると、
手術の用意が出来たので、助手は教授をよびに行つた。教授は白い手術着を着てエーテルの香の
それがすむと教授はノミをとつてメーターの針のしめす真下の頭蓋に穴をうがちはじめた。ノミの刃先きは頭蓋骨にぶつつかつて鈍い嫌な音をたてた。そのとき麻酔から醒めかけた猿が躯をピクピク動かし、助手は手早くエーテルを浸したマスクで鼻孔を蔽うてやつた。手に力をこめて頭蓋をうがつ教授のこめかみからは汗が光るすぢをひいて流れた。猿はすぐ静かになつたが、その平静さがひどく教授の心を打つた。それはあらん限りの力で、最大の苦痛にぢつと耐へてゐる苦行者そのままの表情だつた。
教授はふたたび呼吸を殺して、今度は頭蓋の孔から機械に装置した針を深くおろし、傷口の一方に電極をさし込んだ。その傍らで助手はアンペアメーターのスイッチを入九、時計を手にしながら猿の顔を覗きこんでゐた。電流が果して動眼神縄の中枢に通じてゐるかどうかを調べてゐるのであつた。ガンジーは二、三度パチパチまばたいただけであとは動かなかつた。だがその間に猿の頭のなかでは五ミリアンペアの電流で赤核を直徑一ミリの大きさに破壊する操作が行はれてゐたのであつた。
教授は靴屋のやうに慣れた手付きで、傷口を縫ひ合せ、手術は終つた。ガンジーはしばらくはやはり、うつぶせになつたままだつたが、だんだん麻睡から醒めて、もぞもぞ躯を動かしはじめた。頭の剃りあとに血糊の汚くへばりついてゐるのがひどくむごい感じだつた。助手は紐を解いて庭の枯れた芝生の上に連れて行つたが、猿は啼くだけで立つことができずすぐごろごろころがつた。
「どうだね、まだ右手がきくやうかね」
教授は窓越しに助手に向つて声をかけた。助手は自分の指を二本だして猿の手の平に握らせそれを宙に吊してみせながら言つた。
「どうやらこの通りまだ利くやうですが……」
「どれどれ」
教授はスリッパをつつかけたまま芝生へ出て自分でやつてみたがやつぱり同じだつた。
「をかしいな」
彼は首をかしげて多くを言はず自分の室へとぢこもつた。
三
夕方になつて靄があたりをこめはじめた。窓からみる風景はみなやはらかく青みを帯びて、ふと眼をあげるとそれは人の心にどこか遠い見知らぬ町にでも来てゐるやうな錯覚を起させた。教授はすこし風邪心地で喉が痛んだが、麻睡からすつかり醒め切つたガンジーの運動や知覚の状態を調べようとしておそくまで残つてゐた。
助手がやつてきてその後に現れた猿の様子の変化を告げたときはあたりはもう暗かつた。教授はすぐさま懐中電燈をとつて、動物の飼育小舎へ出かけて行つた。彼の
ガンジーは檻に入れずに柱へ繋いだままにしてあつたが、ちやうど中風病みの老人がやつとわれとわが躯を支へてゐるときのやうに首をかしげながらしよんぼり床の上に坐つてゐた。教授が鎖をとつてひつぱるとろくに歩けず、躯を右側に傾けながらよろけた。明らかに右側半身不全麻痺のおこつてゐる徴候だつた。彼は近づいて行つて更に眼をしらべてみた。すると一方の眼は瞳孔が拡大してしまつて曇つた硝子玉のやうに動かなかつた。
自分で手を下してやつたことではあつたが、いま目のあたりそれをみると彼には猿の受けてゐる苦痛がひしひしと身にこたへた。動かないその眼には下手人に対する無言の難詰が籠つてゐるやうに思はれた。そして教授は、弱い者や抵抗力のない者を
教授はさびしい懐疑的な気持になつて帰り
学問のためとか真理の探求とか言ふとわれわれ学者仲間ではすぐ無条件なものに信仰してゐるが、いつたい猿に人間の学問や真理がなんの役に立つのだらう。学間とか真理とかは人間にとつてこそ必要であり、人間はまたその恩恵を受けてもゐるが、猿にとつては
暮方の混雑どきからはすこしはづれておそかつたせゐか省線電車のなかはいつもの割にすいてゐた。折よくあいた席に座をしめると教授は急にぞくぞく
さういふ光景はなほのこと教授の人嫌ひをそそつた。なんといふ愚劣な人間どもだらう。彼らがどれだけあの猿より高等だといへるのか。かういふ連中のために俺はあの無邪気な罪のない生きものを不具にしたり切りさいなんだりしてゐるのだ——さう思ふと教授はわれにもなく腹が立つてきた。そのうへ悪寒はしだいに激しくなつて彼は電車がわざわざのろくさ走つてゐるやうにさへ思はれた。立つてゐるのがひどく億劫で、一刻も早く目的の駅に着き、この人いきれでむれた不愉快な車内から逃れたかつた。やがて目のまへが茫となり、車体の揺れる度に足もとがふらついた。
「猿め、猿め」
彼は思はず大きな声で独り言をいつた。ちやうど彼のまへには十四五の痩せた女の子が向ふむきになつて靄に曇つた扉の窓硝子に何かしきりと文字を書きつづけてゐたが、その声に振り返つてまじまじと彼の顔をみつめた。
四
家へ帰ると出迎へた
「どうなすつたの、お顔色のわるいこと……」
教授はふらふらしながら着替へをして食卓に坐つた。食事をみると胸がむかついた。皿に盛つたスープをやつと半分ほど飲むとどうも起きてゐるのが辛くなり、書斎に床を敷いて貰つて倒れるやうに横になつた。
「あなた顫へていらつしやるのね……まあひどい熱だわ」
細君は心配さうに入つてくるなり彼の額に手をあててみた。教授にはそれがひどくうるさかつた。
「あつちへ行つてくれ、放つといてくれ」
彼は気短かに呶鳴つた。
戸外の靄はしだいに濃くなつて、あらゆる隙間から部屋のなかに流れこみ、寝てゐる教授のまはりで
「どこへ行くのだ」
と教授はきいた。
「書記のところへだ」
と彼らは答へた。
「書記とは誰だ、クラーク氏のことか」
「そんなものではない。エジプトのオシリス神の書記トートだ。猿の姿を借りて人間の罪を調べなさるお方だ」
猿どもはさう言つて彼を岩くれだつた
五
岩の上には黄金の冠をかぶつた大きな年老いた猿が腰をかけてゐた。あれが書記トートだと彼を連れて行つた猿の一匹がいつた。黄金の冠は月の光をうけてキラキラと
「坐れ、お前は誰だ」
「私は生理学者です」
「何を研究してゐるのか」
「クラーク氏の機械を用ひて大脳の生理を研究してゐるのです」
「クラーク氏の機械とはなにか、もつと
「この機械は千九百八年、英人クラーク、ホースレー両氏によつて、発見され……」
彼が説明をはじめると書記はみなまできかず、その顔に激しい侮蔑の表情を浮べ、
「な、なるほど科学者とかいふ連中の考へさうなことだ、彼らはなんであれ物差ではかつたり、秤にかけたり、計算したりしてみなければ気がすまぬのだ。しかも彼らはみなシャイロックのやうに生身から切りとつた一ポンドの肉は秤にかけることはできるが、そのとき流れ出る血のことにはとんと考へ及ばぬ愚かな奴らだ。金属でできた冷たい機械で神から与へられた思想をはからうとはなんといふ不遜であらう。わしはお前に告げる。
「だが書記トートよ。すべては学問のためです、真理のためです」
教授は躍起となつて叫んだ。
「学問とな、真理とな」
と、書記は唇を歪めて嗤つた。
「なるほどお前たちは
と、書記トートは声を励まして言つた。
「お前の研究室だけでも本年に入つてから十数頭の猿が虐殺されてゐる」
「だが書記トートよ、それは致し方のないことです。第一人間と猿とでは比較解剖学的にみても、いろいろな相違がある。それに猿は人間ほど進化してゐない……」
教授は弁解しながら目の前にゐるのは人間でなく猿であることに気がついてはつとした。
「それがそのお前たち人間の驕慢といふものだ。神は人間のためにのみ世界をつくり給うたのではない。一切衆生のためにもまた神は世界を造り給うたのである。即ち聖書にも世の人に臨むところのものはまた獣にも臨む、この二者に臨むところのことは一つにしてこれも死ねば彼も死ぬなり。みな一つの呼吸によれり。人は獣に
するとそのとき傍らできいてゐた一匹の猿がたち上つて言つた。
「もはや人間どもの罪業は十分に論告され、そのさかしらは論破しつくされたと考へます。しかしみるところ被告は一向にその罪を認めず、更に改悛の情がみえません。よつてむしろわが猿族の災ひを未然に防がんためには、クラーク氏の機械を用ひて彼からその驕慢の原因であるところの呪ふべき大脳を
「うむ、それがいい、では早速手術の用意をしろ」
書記トートはそれに同意して、自分の頭からクラーク氏の機械をとりはづした。するとまた周りの猿共が集つてきて彼を押へつけ、無理無体にそれを彼の頭蓋にはめこんだ。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/01/17
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