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人生の幸福

 いつかの私の誕生日に宅へ集つた若い人たちが、会が果てても、まだ数人、座敷のまん中に残つて、ちよつと風雅な恰好をした陶器のウイスキーの瓶を囲み、いくら注いでも、まだ底に残つていて、いつまでもたらたら出るのを、大げさに不思議がりながら、洋酒の酔を楽しんで、わやわや騒いでいた、その景色を時々思い出しては、われ知らず微笑むこともあるのだが、人生の楽しさなどいうものは、存外、そんなところにあるものだ。

 あまり形式的でもないし、あまり通俗でもない。他人行儀でありすぎもしないし、無礼講というのでもない。私などは、そういうふうにして、穏かに、和気藹々(あいあい)として一生を送りたいのである。そういうところにとどまつていると、デカダンスの面白さもわかるし、てんで杓子定規な、規矩準縄(きくじゆんじよう)の厳粛さにも一脈の同情を持つことができる。

 それから、自分は天才でないが、天才というものがこの世にはいて、自分たちとは違つた独創的な清新な世界に棲息していることも承知の上で、その天才たちの生態を、それとなくのぞいて知つて、瞠目し、景仰することも、心得ているのである。

 晩秋のある日天才Kは私を京橋のある酒亭、プルニエ何とかに迎えて、私の話を聞いた。彼はもう、すこし酔つていたようであつたが、私の言うことは、聞いているようであつた。いや、彼は明らかに、私の話したいことへは、さつと耳を傾けた。そしてまた酔つぱらい、また耳を立てた。そして、よしわかつたと言つた。たしかにそのとおりであつた。私は天才と話をすることの容易さと、恥ずかしさとを、同時に味わつた。そしてうれしく思つた。この人と語ることの楽しさよ。――それを形式的な表現では、栄誉と言つても良いことを私はまじめに心に上せていた。

 ハズリットのエッセイの一つに、「はじめて詩人と知り合つたこと」というのがある。コウルリッジに会つた話なのだ。私はこのエッセイが好きではない。ハズリットという奴は文学青年で、コウルリッジというのは哲学青年詩人なのである。私がハズリットで、Kがコウルリッジであるというのでは決してない。ましてKと私はその時、はじめて会つたわけでもない。しかし、ひそかにハズリットという俗物が、はじめて天才に会つたときの心持を、実は思いやらないでもなかつた。言葉を重ねて言うが、ハズリットを私が気取つているわけではない。ものは例えだ。

 天才という奴がどうしてこの世の中にいるのであろうか。彼らには俗物の言うことは半分聞けば解つてしまう。四分の一で解つてしまう。あとはつまらぬ音にすぎない。

 

 消えろ消えろ、(つか)の間の燭火(ともしび)

 人生は歩いている影に過ぎん、

 只一()、舞台の上で、

 ぎつくり、ばつたりをやつて、

 やがて最早(もはや)噂もされなくなる(みじめ)な俳優だ、

 白癡(ばか)が話す話だ、

 騒ぎも意気込も(えら)いが、

 たわいもないものだ。

 

 俗物というものは、そんなものだ。夏目漱石が、自分がロンドンにいたのは、二年である、「余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。……余が乞食の如き有様にてヱストミンスターのあたりを徘徊して、人工的に煤烟の雲を(みなぎ)らしつゝある此大都会の空気の何千何立方尺かを二年間に吐呑(とゞん)したるは、英国紳士の為めに大に気の毒なる心地なり。」と放言したのは、神経衰弱のせいもあつたろうが、所詮自分はイギリス人ではなかつたということで、イギリス人に同化しようと苦労してだめだつたということのうらがえしの意味もあつたろうか。おれは天才だ、貴様たちのような俗物とは縁なき存在であつた、というのかも知れない。

 エドマンド・ブランデンは、西脇順三郎に、どうも僕の詩は通俗になつていけない、と述懐したそうだ。西脇順三郎に会うと誰でもそう思うのだ。エドマンド心配するな。

 それにしても、天才は、ともかくも、ちよつと退()いていてほしい。プルニエで会つたKとは誰だつて? 誰でも良いさ。私のごとき俗物中流人には、天才の友人もいるのだ。そして、結構、友情を楽しむことができるのだ。人生は楽しきかな。

 

 そこで、俗物の話だが、いかに俗物でも、通俗であるまいとすることも無いでは無い。むかし東京の街は、鋪装してなくて、雨が降ると、お汁粉のように、たちまち、どろんこになつたものだ、上野広小路が沼のように見えたある午後に、そこを通りかかつた一人の青年は、あまりむしやくしやするので、いきなり、その沼の中へ、ごろんと倒れて寝てやろうかと思つたことがある。それは私のことだが、その心持がちつとも不思議ではなかつた。そうすればこの自分が、すこしはまともになつてくれるかと思つたのだ。こないだ、勤評のための文部省道徳講習会を邪魔しようとした全学連の一学生が、テレビで見ていると、講習員を載せたバスの前へ、身をおどらして、横に倒れた。瞬間、ばかな奴だ、あぶないじやないかと、心の中で叫んだが、似たような馬鹿な真似が別の動機で、かつて、ないでも無かつたのだ。つまりは、通俗でないことが必要であつたというわけである。といつても、自分が通俗でないことをしようとしていると昔の青年も考えたわけではないから、いまの学生も反俗の手本を見よと思つて(すべ)りころんだというのではあるまい。ただ、そうすれば何かがまともになるという気がしたのであろう。

 などというのは、大正の文学青年の考え方で、いまの全学連の学生たちは、何もかも計算しているのだ。ショーとしての価値まで勘定の中に入つている。いや、それを自分で計算したのではなくて、誰かが計算したのに従つて木偶(でく)のごとく行動しているに過ぎないのである。しかし、あんなあぶないことを、とにかくやるというのには動機があつた。その動機を信じているという事実が存在したことは認めなくてはなるまい。バスの前には、外側の動機があつたのだが、どろんこの上野広小路には、内側のそれが大切であつた。自分がまともな気持になりたいということ。

 つまり通俗ということには、まともでないというところがあつたわけで、通俗とそれとの間の異和感のごときものが、青年の心を苦しめるのである。けれども、まともなものというのは何だ。その時代の正義感とか、秩序の観念とか、美意識とか、通用論理とか、自然であると思うこととか、真実であると思うこととかではないか。良き日本人とか。愛とか平和とか。しかし、そういう、まともなことを支持し擁護しているうちに、何となくくたびれてくるものだ。

 そして俗物が出来あがる。ざまあみろというようなものだ。

 もうあとでいくら通俗でないような顔をして、反俗的奇矯をくりかえしても駄目である。にせ金が、火に焼かれて、卑金属の肌を出してしまつたようなものだ。この、何となくくたびれて、飽きるというところに()も言われぬ妙味がある。いまちよつと、お退()きを願つた天才たちは、憐れや、まともにくたびれるとか、飽きるということを知らないのである。

 その疲労ないし飽和感が出るということは実に不思議なことだが、人間のありがたいところだ。結局通俗ということが、一番着心地の良い着物になつてくる。そして人生に退屈してくるのである。いや、反対かも知れない。通俗であれば退屈しないで一生を過せるといえるかも知れない。何となれば、通俗という状態は実際には無くて、通俗でなくあろうとして、もがいていて、もがくのが型にはまつて来て、反俗精神に生きることが上手になつてくることを通俗というのかも知れないからである。自分ではしじゆう何かを試み、努め、追求して居り、喧嘩をしたり、会議をしたり、バーへ寄つてみたり、カメラを買つたりしていて、多分に忙しい。人生は万華鏡のごとく目まぐるしく廻つていると誰でも思つているのが通俗というものなのだとも思えるからである。

 いつのまにか、まともなものを見失つてしまう。さきに引いたマクベスのセリフ、消えろ、消えろを参照のこと。

 まさか、しかし、自分の尊敬するまともなものを、全然見失つているわけではないと私自身は思つている。だから全然俗物というのは可哀そうですよと自分を弁護し、私の通俗の程度、人生における位置は、この話のまつさきに述べたごとくですよと、もう一度御読み返しを頂きたいのだが、そこが結局は通俗の通俗たる所以(ゆえん)で、とおりやんせとおりやんせ、どこの天神様の細道も、それでとおつて来られたのである。

 

 あなたの生きている意味を書け、と言われて、そんなことを考えたが、そして何のために生れて来たと思うか、などと根本を訊かれると、当惑してしまう。そんなことを考えるのは当節は、あまり流行しないのではないか。明治の末に大学生であつた人々が、去年は妙に懐古的で、藤村操の巌頭の感という文章を全文あげて当時の記憶を語る記事を二度も見かけたが、あの時代の青年たちは、確かに人生の意義ということについて煩悶していたようだ。人生不可解、というのだ。実際、わからない。

 しかし、解つたところでどうなるものでもないのだ。この世へ生れて来た以上、そういう事実は何とすることも出来ない。自分でそれを消してしまえば、考える自分がいなくなるのだから自分の人生は消滅するけれども、人間がこの世に生れて来て死ぬという事実はどうにもならないのだ。雀が一羽、天から落ちてくるのも神慮によることだと、わからないことは神様にお任せして、事実を事実として受け取つているのが一番いい。それにしても、生れて来たには来たが、学校へ行つたり、病気になつたり、恋愛をしたり、貧乏になつたり、ということがないということはない。これは生れて来た税金のようなものでまことに迷惑なことである。バスの前へわざわざ辷つて転んでみたり、余計なことまで、せざるを得ないのも、雀の落ちるのと同様、神慮に依ることだと、やはり神様に責任を負わせるのが一番らくである。

 私自身まことに不信心者で、さらに神仏の実在を認めないけれども、困つたときには、神仏をたのむに限ると思つている。そういう時には実に真面目である。一所懸命に祈る。そしてまた、きわめて無遠慮にふるまう。さあどうにでもしてくれと、すつぱだかで大の字にねてしまう。人間のことなんぞ知れたものである。どうにかして一生を終るより以上、ほかに何とも仕様がないのだ。何だ。もつともらしい顔をするな。君だつて、人問じやないか。窮極のことが解つているわけは無いのだ。

 実際、窮極のことは解らない。そして自分が経験することきり解らない。われわれは、実に愚鈍不明をきわめているのだ。君もそうだよ。君もそうなのだ。だから、友達になろうじやないか。喧嘩をしたりなど、もつてのほかの増上慢というものだ。仲よくしましよう。――チャールズ・ラムはそう教えた。

 そういうのは一種の無常観で、いわば俗人の宗教(レリジヨ・レイサイ)と言つても良いものだが、そんなことを考えるに至るまでには、しかし、門松の数が必要なようだ。ラムがそれを言い出したとき、彼はもう四十五歳を超えていた。それまでの彼は、先ず「軽はずみで、見栄坊で、気むずかしやで、名うての***で、****に性根を奪われ、忠告が嫌いで、忠告されるのもいや、するのもいやで、その上***と来ている、どもりの道化者」であつたと自分で書いている。*印はスターンばりのこけおどしだが、例えば「名うての酒のみで、駄じやれに性根を奪われ、その上よわ虫と来ている」と読んでも良さそうである。それでいて、どうにか俗人の宗教にまで到達したのである。末世の俗物も、やはり、期して待つべきではないか。

 

 そういう先達のことを考えると大正の文学青年も、同じくらいたわけた道化者であつたかも知れぬ。そして、妙に虚無的であつたと思う。あの時代に、そういう考え方が流行したのであろうか。一方ではいつぱし立身出世主義で、今日は帝劇、明日は三越という栄華の標準さえも立つていたのだが、他方では、あらゆる人間のいとなみに対して青年たちは懐疑的であつた。何か、ひとのためになる良い仕事をして、社会に貢献して死にたいとか、後世にまで残るような良い研究を書物に書いて残しておきたいとか、いう人があると、あなた本当にそう思いますか、名誉心に過ぎんでしよう。どんなことをしてもすぐ忘れられますよ、するもしないも同じだ、と真面目にそう思つて、そういう思想を軽蔑したことを覚えている。

 しかもそれに対立する考えがちやんとあつたのだ。それは、自分を充足することであつた。それは利己主義とか自我中心とかいうものではない。絶間なく自分が燃焼していなければ、不安で空虚でたまらなかつたのである。社会とか後世とかいうものの幸福などまともに考えられなかつた。まともなものは、純一な自分の生活で、そこからあらゆるものが出発した。

 それはウォルター・ペーターとか、オスカー・ワイルドとかの影響であつたかも知れない。彼らは、大正の文学青年の神様であつた。彼らの言うところは、そうではなかつたかも知れないが、そういう風に受け入れられた。ちかごろ福田恆存氏の新訳「サロメ」が、ビアズレーの装画を新発見のものまで全部いれて、すばらしい本になつて出版されたが、「サロメ」の流行のうしろには、そういう虚無主義と、そして、純一を求める主我的理想主義というのか、むしろ、唯美廃頽思想と当時は呼んでくれた方がうれしかつたものが、ある意味では矛盾的に、ある意味では合理的に、並行していたことを思い出す。

 そのオスカー・ワイルドから私を醒ませた文学評論家は私にとつてロバート・リンドであつた。私はリンドを愛読していた。

「幕がサロメの砕かれた身体の上に下りると、胸がむかついてくる。虫がつぶされたという気がするのだ。」

 そういう考え方が、そのころから起つていたのである。右の引用文は、一九二○年の「文学の術{アート・オヴ・レターズ}」という評論集にある。大正九年の出版に当つている。その大正九年に、日本では田部重治氏の「渾沌から統一へ」という文学評論集が出ている。田部さんは、いま、山登りの文人として有名であるが、この本は名著であつた。当時から田部先生はぺーターの研究家で翻訳家であつた。この本では、そのぺーター流の高雅な精神的秩序が求められていたのであつた。そして、それは、われわれがその頃、まともな理想として追求していた純一というものに他ならなかつた。純一であろうとする考えは、今も私には高貴な神託のように時々現われてくるが、凡庸の人間らしく、私などは、それを支持し擁護する力をいつまでも持続していたとは言えない。つまり通俗になつてしまつた。そして、いまは、あつぱれ、俗物中流人と威張つている身の上である。人生はたのもしきかな。

 そして、お互に人間と生れて来て、何とは知らず苦労するのだ。すこしはひと様の為になる良いことをして死にたいものだと思い、せめて永年勉強したことを書き残しでもして、後世の人々の幸福に寄与するくらいのことはありたいものだ、と考えるに至つたのだから、愚人哲学もなかなか有力である。人生、生きるに足るかどうか知らないが、生れて来た以上、悔なく、酒杯をあげて、われひと共に幸福になるよう努めましよう。 (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/09/22

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福原 麟太郎

フクハラ リンタロウ
ふくはら りんたろう エッセイスト・英文学者 1894~1981 広島県に生まれる。日本藝術院会員。ロンドン大学留学の後、東京文理大教授として数多くの英文学者を育てた。その学殖に深く支持されたエッセイストとしても聞こえた。

掲載作は、1959(昭和34)年「新潮」1月号初出。

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