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堅壘奪取(喜劇一幕)

そまつな應接間──といふより、板の間の勉強室といふ感じ。ただし主人はここを書齋としてゐるわけではないので、かんたんな應接用セットが置いてあるだけ。小部屋のわりに窓が多く、光線はじふぶんはひつてくるのだが、ぜんぜん装飾がないので陰気な感じがする。

正面の窓のそとは庭──かんなが咲いてゐるのがみえる。出入口は左にひとつ。幕があくと同時に、この家の主婦らしき女が登場。うしろにふろしきづつみをぶらさげた學生ふうの男がしたがふ。女はこの客を案内してきたのである。客が席につくと、女は窓を全部あけはなつて退場。

その間、男はふろしきづつみを椅子のうへに置き、立つたまま不作法にあちらこちら物色してゐたが、左の壁ぎはの書棚から本を一二册ぬきだしてばらばらめくつてみたりする。女が退場するやいなや、本を書棚にをさめ、いきなり窓ぎはにより、窓を片はしから閉めてしまひ、これで落ちついたといふふうに、庭を背にして、どたりと椅子に腰をおろす。が、すぐさま立ちあがり、手ぢかの窓をあけはなつて、腰に手をあてがひ、仁王立ちになつて、あたりを脾睨(へいげい)する。とたんに落ちつきを失つて、からだをくづし、今度は窓をひとつひとつあけはじめるが、途中で思ひなほしたやうに、またみんな閉めてしまふ。それが終ると、ふろしきづつみをとりあげ、片手にそれをもち、片手で椅子をひきずり、隅の書棚のまへまで歩いてゆく。ふろしきづつみを床にそつとおろしたかとおもふと、やつと氣がすんだといふやうに、椅子のうへにあがりこむ──といふのは、腰かけるといふのではなく、椅子の背をまへむきにして、それにしがみつき、あたかも猿のやうに両膝をかかへこみ、背をまるくしてちよこんと庭のそとを眺めてゐる。

同時に、この家の主人らしき男がはひつてくる──瞬間、客のすがたを探してうろうろする。例の男は急に緊張し、がたんと両足をおろす。主人はあわてて客をみとめる。

主人 (しひてなにげなく、常識的に、しかもいんぎんに頭をさげ)河口です 。どうぞこちらへ。

 (椅子にまたがつたまま、しかし横著<わうちやく>といふのではなく、すつかり硬くなつて、黙つたまま、緩慢に頭をさげる。口のなかでなにかぶつぶついつてゐるらしいけれども、ぜんぜんききとれない)……………。

主人 (右がはの席について、ますますていねいに)どうぞこちらへ。

 (黙つたまま、相かはらず庭のはうをみつめてゐる)

  氣まづい沈黙──間。

 (急に)あつ……。(立ちあがつて窓のそばに駈<か>けよる)

主人 (これもあわてて駈けより)どうかしましたか。

 (唐突に主人にむかつてぴよこりとおじぎをし)ぼく森泉です。

主人 (ひきこまれたやうに)河口です。(狐につままれたやうなおももちで席にもどる)どうぞ……。

 (主人のまへにだらしなく坐り、両足をテーブルの下にのばし、首を椅子の背にもたせかけて、天井をみつめてゐる)…………

主人 (いらいらしはじめる)どうかなさつたんですか……。

 (首を椅子の背にもたせかけたまま、そうつと窓のはうにねぢまげ、しばらくそのままにしてゐるが、やがてつぶやくやうに)ふしぎだなあ……。やつぱり暗合だ……。

主人 暗合……、いつたいどうしたんです。

 (そのままの姿勢で、ゆつくり小聲で)ぼくと自然とのあひだに神秘な黙契があるんです。(急にからだを起し、相手をきつとみつめ、窓のそとを指さして)あの、赤い花です。

主人 花がどうかしましたか。

 (またもとのやうにぐたりとあふむけになつて天井を眺めたまま、陶酔したやうにゆつくりと)自然はじつに美しい。そのままで美しい。美しいいふのは繪みたいにきれいいふことぢやないです。美は調和や。萬物が調和しとる。たがひにたがひを拒絶するいふことがないんですね。自然は美しい。そしてぼくも自然の一部や。(一語一語高くなつたり、低くなつたりまつたく調子はづれに)花も、石ころも、天井も、ゴッホも、キャラメルも、自動車も、机も、雀も、萬里の長城も、ゲーテも、ラ・ブルュイエールも、B29も、氷山も、南京豆も、唯物史観も、ちやんちやんこも、金魚も……、(急に起きあがり)先生は人間が造つたもんは自然やないおもうとるんですか……。さうぢやないです、人間がこしらへたもんだつて自然の一部や、どんなにいつしよけんめに、たんねんに造つたもんだつて自然の一部なのです……、たとへば原子爆弾だつて、ヘーゲルの弁證法だつて、共同便所だつて、デモクラシーだつて、みんな、みいんな、自然なんや……。

主人 (ますますいらいらしてくる)さうですよ、わかつてますよ。だから、どうしたつていふんです。

 先生は宗教家です、社會教育家です、ジャーナリストです……。(ふたたびもとのだらしない姿勢にかへつて)が、やつぱり自然物のひとつや。しかし……、人間は自然物のひとつのくせに、おもひあがつとる……、いや、堕落してしまうたんだ。だれもかれも自分のうちに閉ぢこもつてしまうて、他人を拒絶しようとしてゐる。排他的な人間……、(感にたへたやうに)救はれませんなあ……。

主人 (怒氣をふくんで)きみはそんなお説教がしたくてぼくのところへ來たんですか……。

 (窓のそとに首をねぢまげて、ますますのんびりと)自然は美しい。自然は自然であるぼくを受けいれてくれます。さつき先生がはひつてきたとき、あの燃えるやうな赤い花……、ぼく、じつとみつめてゐました。心に喰ひいるやうや。すると、それが大きくなつたり小さくなつたりするんです。らくだみたいに大きくなつたり、貝殻みたいに小さくなつたり……、そのうちにぼうつとかすんできて、なんだか遠くのはうへいつてしまひさうになつた。(段々早口になる)ぼくは、こりやあかんおもうて、こちらへひきとめようおもうて、いつしよけんめになつたんやけど、花はだんだん遠くへいつてしまふ。ぼく、あせりました。ええい、めんどくさいおもひました。ぼく、なにもかもみんなぶちこはしてしまひたうなつて……、おなかのなかで、えいつと氣あひかけてやりました……。(急に起き上つて、頓狂な大聲で)すると、どうや……、(勝ちほこつたやうに、しかし小聲でひそひそと)あの花、ぽたりと地面におちちまうた……。

主人 なにをいつてるんだ、かんなはいつだつてぼたりと落つこちますよ……。

 (熱中して)自然は美しい、寛大です。人間が、ぼくが悪意をもつて自然に立ちむかうても、その悪意さへ寛大に受け容れ、温く包容してくれるんです。だのに、人間は……。

主人 さうです、人間は狭量です、その人間のぼくにきみはなにを求めるんです……。ぼくの首はぽたりといふわけにはいかんですよ。

 ぼくは先生になにも求めやしない……。ぼく、先生すきです、先生の書くもの……。

主人 きみがねえ……、ぼくをねえ……。

 ぼく、先生にまへ一度あつたことあります。

主人 へえ、どこで……。

 去年、先生、大阪へ講演にきたでせう……。ぼくあのとき文藝部の委員してたん……。

主人 あつ、さう……、因果はめぐる、今度はあなたが講演する番といふわけか──「自然の調和について」つて題でね……。

 (てれて、がくんとあごをひき)なにいうてんのや……。

主人 (改まつた口調で)で、御用は……。

 (ふきげんにそつぽをむき、椅子のうへに両膝をかかヘこんで、例のごとく椅子の背に首をもたせ、視線だけは伏目に相手のはうに投げかけて)ぼく、先生の書いたもんだけしきや讀まん。ほかあ、みんなおもしろうないもん。先生の文、とても美しい。ぼく、暗記してます。暗記しようおもやせんのやけど、とてもいいから、しぜんとおぼはつちやふ……。

主人 (少々やにさがつて)いや、なにもぼくの文章はよかないけれど、やつぱり文章はりつぱでなくちやいけないな、一般的に……。文章の形式はたんなる技巧ぢやなくて、思想の内容そのものを決定するんだからね。

 先生、書くの早いですか……。

主人 ぼくは遅いです。筆がすべりだしたら警戒しますね……。きみも小説か評論書くの……。

 (あいまいに)え……、でも……。先生、いまなに書いてますか。

主人 え……、べつになにつてこともないが……。

 先生は宗教家だけど、若いときに小説書かうおもうたことありますか。

主人 そりや、ありますよ……。

 どんな小説ですか……。

主人 どんなつて……。

 戀愛小説ですか、それとも宗教的な作品ですか、「出家とその弟子」みたいな……。

主人 さあ……。

 でも……、(にやにやして)先生には、小説かけない……。

主人 (ふきげんに)せつかく來ていただいて失禮だけれど、ちよつとあしたまでにしあげなければならない原稿があるんでね、すまないが、かんたんに用件だけでもうかがつておいて……。

 (びくんとちぢこまるやうに、両足をおろし、うつむいて、両手をまさぐりながら)用件て、べつに、ないん……。

 

  間。

 

主人 (困つたやうに)こつちに親戚でもあるんですか。

 高等學校のときの親友が大學に來てゐるんで、そこの下宿にゐるんです。

主人 こちらへは遊びに來たんですか。

 遊びにぢや、ない。

主人 就職でもするつもり……。

 ええ、さうしたい。

主人 困つたねえ。就職つたつて、いまなかなかたいへんですよ。

 …………。

主人 そのお友だちといふのは、そこにはいつまでゐてもいいんですか。

 友だちはいいんです。ぼくがゐればかへつて心づよいくらゐや。でも、毎日大勢ひとが來て勉強できやあせん。

主人 失禮だけれど、就職口を見つけるあひだの……費用は、用意してあるんですか。

 うちから四千圓もつてきました。

主人 四千圓つたつて、そんなものすぐなくなつちまふし……。お友だちはずつとめんだう見てくれるのかしら。

 (とぼけたやうに首を上むけて周囲を眺めまはしてゐるが、返事をしない)…………。

主人 あれですか……、こつちできみが就職することはお家でも承知なんですか。

 口が見つかりさへすれば喜びます。

主人 そりや、さうでせう。でも、ぼくはお帰りになつたはうがいいとおもひますね。四千圓つたつて、大阪から、ここまでぢや、汽車賃も相當なものだし、残りはいくらもないでせう……、で、いつ出てこられたんです。

 半月ほどまへです。

主人 半月……。ぢや、四千圓の金もほとんど使つちまつてるでせう……。

 まだ、三十圓、ある……。

主人 三十圓……。

 もつとあるかしら、四十圓くらゐ……。

主人 おんなじこつた。とにかく、きみがどうしてもこつちで就職したいのなら、ぼくはむりにとめはしませんけれども、それならそれで、もつと計画的にやらなくちや……。御両親のところにゐて、こつちにつてを求めて口を探してもらふとか、それではらちがあかないといふなら、しばらくあんたを寄寓(きぐう)させてくれるところを見つけて、そのうへでゆつくり口を探すといふふうにしなければ……。第一、そのお友だちだつて困るでせう……、お金もちなんですか、そのひとは……。

 とても困つてる……。

主人 そりやいけない……。

 なんとかなります……。.

主人 でも、口は探してゐるんですか……。

 職業紹介所へ行きました。

主人 なかなかないでせう……。ぼくも二三のひとに頼まれてゐるんですが、見つからないんで弱つてゐる。ぼくのできる範囲といへば、まあジャ一ナリズム關係ですが、それがいまとてもひどいんでね……。あんたのばあひにしたつて、ぼくでなんとかできれば、もちろん喜んで口をききますがね……。とてもむりだ、いまのところ。とにかくぼくも心がけるし、きみとしても心あたりのところによく頼んで、ひとまづ御両親のところに歸りなさい……。それにしても三十圓ぢや……。

 四十圓です。

主人 いや、たとへ四十圓にしてもです、それぢやあ今晩の飯も食へんぢやないですか……。

 心配せんでもいい、なんとかなります。家へは歸りません。出て來た以上、断じて歸りません。どうしても職を見つけます。

主人 困つたなあ……。

最初に客を案内してきた女が茶をもつて出てくる。主客沈黙。女は茶を置いてすぐ退場。

 (そそくさと、立ちあがつて、さきほどのつつみをひきよせ)先生がそんなこと心配してくれんかていい……。ぼく、なんとかなります……。(ごそごそとつつみをかきまはしてゐる)

主人 心配しなくてもいいつたつて……。第一、きみ……。(投げやりに)きみは病気ぢやないんですか……。

 (きよとんとして伏目に、なにかをおもひださうとするやうす。氣がついたふうにポケットをあちこち、落ちつきなくなにかを探しまはる。あつちのポケットから紙片を、こつちのポケットからマッチをといふふうに、出しては入れ、入れては出してゐる)…………。

主人 きみは、病氣ですよ。すこしをかしいよ……。病気つたつて、ただの病氣ぢやない……。(おもひきつて)ここんとこが、いけないんでせう……。(といつて自分の頭を二三度つつく)……。

 (探すのに氣をとられて、相手のはうを見もしないで)さう……。

主人 「さう」つて、きみ、重大なことですよ、これは。ねえ、こつちを見たまへ、きみ……。まあ、その、ここんとこが……(といつてふたたび自分の頭をついて見せるが、依然として相手は下を向いたままなので)ねえ、きみ、失礼だけれど……、(思ひきつて、しかもなにげなく)頭がいけないんでせう……。

 さうです。でも、もういいんです。

主人 (あわてて)いや、たしかにもうなほつてゐるでせう、でも、たとへなほつたにしても、それぢや、こんな騒々しい都會で、家族と離れて、世間的なつとめはむりぢやないかな……。

 ぼくも會社はいやです。一生あんな単調なしごとをしてゆくなんて、考へただけで、ぞつとします。まつたく氣がしれない。

主人 

會社づとめでなくたつて……、なんにしたつて、いざ就職となればおなじことですよ。生きてゆくとなればねえ……。ぢや、きみはなにをやりたいんです……。

 ちよつと待つてください……。(ふたたびつつみのなかをかきまはし、部厚な紙片のたばをとりだす)これ、讀んでみてください……。

主人 えつ、讀むつたつて、こりやたいへんだ、何枚あるんです。

 大したことない……。千枚もない、六百枚ぐらゐでせう、きつと。

主人 困つたな……。六百枚にしたつて、いま讀むことはできやしませんよ。あづかつておくから、そのうちをりを見て讀ましてもらひませう。

 ゆうべも書いたんです。まだ千枚ぐらゐつづきがあるんです。友だちのところはひとが來て、うるさくて書けやせん。

主人 で、なんです、これは……、小説ですか……。

 まあ、小説です。くにからこつちへ出てくるまでのことを書いたんです。たつまへの日から途中のことをひとつももらさず、まつたくそのとほりに……。ねえ、先生……。

主人 なんです……。

 ぼく、けふ先生のとこへ來ようおもうて、考へたんです……。いまはもうそんな氣なくなつちまうたけんど、友だちのとこ、うるさうてうるさうて、とても落ちついて書いてられやせんので、先生んとこへ四五日泊めてもらうて、かういふ静かなとこでゆつくり書けば、きつといいもの書けるにちがひないおもうた。いま、もう、そんな氣もちぜんぜんなくなつちまうた、先生と會つて話してるうちに……。だけど、ぼく、先生のもんだけしか讀む氣せんのや。ほかのもん、みんなつまらん。「奇蹟について」──今月の、あれ讀みました。最後のとこおぼえてます──「信ずるものに能はざるなしといふは、なにも奇矯(きけう)の言ではない。もし信じてのちに能はずといふものあるとせんか、それはなほ……」それはなほ……それはなほ……、信仰のたりない……、なんでしたつけ……、あゝ、「それはなほ、よく信じてゐないのにすぎない。」──名文ですね。(ぴくんとあごをひいて)ほんとだ、「信ずるものに能はざるなし」(急に立ちあがつて、萬歳のやうな形に両手を上に勢よく突きあげる)

主人 (困つたやうな、照れたやうな顔)…………。

 (がたんと腰をおろして)先生、ぼくを四五日泊めてくれませんか……。

主人 泊るつたつて、ぼくはきみがなにものだか知つちやゐないんですよ。

 (きよとんとして下をむき、なにか考へてゐるふう。笑ひだしさうなしかめつらをしてゐる。やがて、氣がついたやうに例の紙のたばを膝にのせ)先生、ぼく、これ、讀んだげませうか。

主人 いいですよ、讀んでくれなくつても。いや、讀みたくないですよ。

 でも、傑作なんです。

主人 そりや、傑作でせうよ。

 先生、「歯車」知つてますか、芥川龍之介の……。

主人 讀んだことはあります。しかし、それがどうしたつていふんです……。

 あんなもなあ、なんでもない。芥川なんて大した男ぢやありません。「歯車」よりこのはうがずつと傑作や。「歯車」なんて……。でもテーマはとても似てゐます。偶然の暗合ばかりの連続です。それが「歯車」よりもつとどつさり……、しかもみんな、ほんとにあつたことばかり、(すご)いもんや。くにからこつちへ來るまでのあひだに、もう暗合だらけなんです。

主人 わかりました。いづれ拝見します。しかしもう三十分たつちやつた、そろそろ約束のひとたちが見えるし──學生たちと讀書會をやつてゐるんでね……。それがすんだら、あすまでにしあげなければならないしごとがありますから、たいへん失禮だけれどもけふはこれで……。

 (急にそつぽを向いて)さつきぼく總理大臣に會つて來ました。奥さん、先生るすやいふんで……、五時ごろでなくちや歸つてこないいふんで、そのあひだに……、ぼく急におもひだしたんや、首相の家がごの近くだつていふこと……。先生が歸つてくるまで總理大臣に會つて就職のこと頼んでおかうおもつた……。

主人 なんですつて……本氣ですか。首切の張本人のところへ就職を頼みにいつたのかね。きみは……。

 やつぱりるすだつた……、書生が會つてくれて……。書生、先生の名まへ知つてませんね、先生の名まへいうたんですけど……。

主人 そんなことどうでもいいですよ。

 書生は取次げない、いふんです。でも、きみはおもしろい、見どころあるつていつてました。

主人 大いにありますよ……。

 取次ぐことは、できないけど、もうぢき大臣、歸つてくる、そしたらきみがどうするか、それはきみのかつてだ、そこまでぼくはきみの行動を掣肘(せいちう)する權利ない……。

主人 書生がさういつたんですか……。

 ええ……。そのうち自動車がブーつて乗りこんできました。ブー、ブー、ブーつてね。自動車がですよ、邸のなかに……。自動車がブー、ブー、ブー……。

主人 わかりましたよ、わかりました、わかりました。

 ぼくは大声をあげて、かうして両手をあげて、自動車のはうへ駈けていきながら、「總理大臣!」つてどなりました。

主人 つまらんことをしたもんですね。

 つまらんことしたもんや、ほんまに、だから、いいことです……、つまらんことだから、それはいいことです。「總理大臣!」つてね。そしたら、あの男も大したことない……。急に顔に血のぼつて、まつかになつて……。ぼく、頼んでみました、就職のこと。

主人 むだだつたでせう。

 むだでした。だからむだぢやないんです。効果はあつたんです。逆説ですよ、これは。いまちやうど議會が開かれてゐるから、關西の、ぼくの縣選出の代議士に頼むのがいいつて、議員名簿を見ればすぐわかるつて……。

主人 首相がそんなこといひましたか。

 首相ぢやないんです。あいつはだめです。あの男は大したことない……。

主人 首相と話したんぢやないんですか。

 秘書に話したんです。首相の奴は、ぼくにどなられて、顔赤うして、そのまんま黙つて玄関のなかへはひつてしまうた……。あれは大した人物やない。新聞で見るとずいぶん(はら)の坐つた人間のやうやけど、ぼくの大喝(だいかつ)きいて怖がつてました……。顔まつかにして、かうしてぶるぶるつて首ふるはして……。

主人 怖がつてたんぢやなくて、腹をたてたんぢやないですか。

 腹をたてたんでせうか……。

主人 ぼくもそろそろ腹をたてたくなりました……。あんたは首相を尊敬してゐるんですか……。どういふわけで首相のところへ、一面識もない首相のところへ、一身上のことを頼みになどいつたんですか。ぼくにはわかりませんねえ。

 もちろん尊敬なんかしてゐません。でも尊敬してないひとに、一面識もないひとに、一身上の相談しかけちやわるいですか。

主人 (あわてたやうに)悪かない、悪かあないけど……。悪かないが、非常識ですね。

 常識なんて、そんなものくだらん。先生は宗教家でせう、世界を救ふひとでせう、社會の尖端(せんたん)をゆくひとでせう。その先生が常識だなんてをかしい……。

主人 でも、ぼくは常識家です。徹頭徹尾、常識家です。

 先生はとぼけてる。ぼくも横著だけど、先生も横著だ……。「奇蹟について」──「常識は奇蹟を否定する。が、それなら奇蹟もまた常識を否定するまでだ。」──ほんたうにすばらしい、名文だ、先生は常識なんてつまらんものにとらはれるひとやないです。「が、それなら奇蹟もまた常識を否定するまでだ。」──すばらしい逆説ですね……。

主人 逆説です。逆説だから……、逆説だから、それだけのことで、現實とはなんのかかはりもありはしないんです。現實は、あんたは三十圓しか、いや、四十圓しかもつてゐないといふことです。そりや、就職口は見つかるかもしれない……。その小説のあとを書きつづけるのもいいでせう……。しかし、問題はそれまでのことです、今夜の飢ゑをどうしてしのぐか、今晩どこに泊るか……。常識家として、ぼくはそれを心配してゐるんだ。いまは常識の問題ですよ、奇蹟の出る幕ぢやないんですよ。

 さうです、奇蹟は偶然です。ぼくは偶然の連続に出あつてきました。先生はぼくをどうおもひますか。

主人 (腹だちまぎれに、しかしそれをおさへるやうに)ずいぶん非常識なひとだとおもつてゐます。

 まだ病氣がなほつてないなおもうてるんだ。半きちがひやおもうてるんや。

主人 いいえ……。でも、いろんなつらいことにぶつかれば、再発するだらうとはおもつてゐます。だから、両親のもとへお歸りなさい、といつてゐるんだ。あんたには保護者が必要なんです。

 天才も保護者を必要とします。いまのぼくは自分を天才とはおもうてません。昔はさうおもうとりました。病氣になるまでは、ひよつとすると自分は天才かもしれんおもうとりました。でも、いまは、おもはない。天才やないけど、きちがひでもない。先生はぼくをみとめないですか。

主人 みとめるもみとめないもないですよ。ぼくはきみを知つちやゐないんだ。

 知るためには履歴書がいるんですか。紹介状がいるんですか。

主人 (怒つて)きみはいつたいぼくになにを要求してゐるんだ。今夜をどうすごしていいかわからないのに、ここであんたはなにをしてゐるといふんですか……。きみはたつた四十圓……。

 (唐突に)いま何時ですか……。

主人 (つりこまれて腕時計を見て)六時四十五分ですよ。

 十八時四十五分……。あつ……。(急に顔色を変へて、立ちあがる)

主人 どうしたんです……。

 ふしぎや、ふしぎや……。また暗合です。(紙のたばをふりまはして)ここに書いてあるんです。ここに、ここに……。

主人 なにが書いてあるんです。

 (せきこんで)暗合です、やつぱり十八時四十五分や。ぼくがこつちへ來る途中で……、あれは、濱松や、先生の生れたところでせう、濱松は……。ぼく調べたんです。先生の生れた濱松の駅で、ね……。

主人 濱松がどうしたんです。

 いま何時だらうおもうて、時計見た……、そしたらとまつとる。それが六時四十五分や、十八時四十五分なんや。(力なく)その時計、賣つてしまうた……。

主人 ほんとのことですか、そりや……。

 (得意になつて)ふしぎでせう、じつにふしぎといふほかない。

主人 ふん……。

 そればかりやない。ほいと窓からそと見たら、貨物がとまつとる。そしたら、ぼくのまんまへの箱の番號が、なんやらの一八四五番……。いいですか、十八時四十五分になんやらの一八四五番──暗合です。

主人 ふん……。

 そんなことばつかり……。ふしぎです。そんなことばつかり……、みんなここに書いてあります……。ぼくが家を逃げださうおもうて、友だちに金借りにいきました。判こややつてる中學校ときの友だちです。金借りて、ふたりで町散歩してました。そしたら……、また暗合です。やつぱり中學校ときの友だちで、もう何年も遇つたことない、區役所の書記やつてる友だちに、ばつたり出あうたん……。ふしぎでせう……。

主人 べつにふしぎはないでせう。

 でも區役所は年百年中、判この要るとこやありませんか……。

主人 あ、さうか……。

 (ますます得意になつて)ふしぎでせう……。そればかりぢやありません……。(せかせかと紙のたばをめくつて)まだあります……、うんとあるんです。どこだつけ……、ええと……。

主人 もういいですよ……。

 あゝ、ここだ、ここだ──「わたしたちは連れだつて、町のはづれの神社にはひつていつた。首をうなだれ、だまつたまま、三人は拝殿のまへの石段をのぼつてゐた。わたしはなにげなく石段の右手の土手に眼をやつた。ああ、また……。なにものかがわたしのゆくてにわたしを待つてゐる、その土手には一面につげの木が植わつてゐたではないか。」

主人 なにがきみを待つてゐたんですつて……。

 つげの木ですよ、つげ……。ごぞんじでせう、つげは判こに使ふぢやありませんか。

主人 なんだ……、くしにも使ひますよ。

 それ、それ、それなんや。ぼく、その晩、ある女のとこへいつて、家を出ること告げたんですがね……。

主人 しやれですか、そりやあ……。

 え……、あゝ、あつはゝゝゝゝ。(急にまじめになつて)いや、これも暗合だ。たんなるしやれぢやない、暗合ですよ。

主人 冗談にもほどがある……。

 その女がね……。

主人 かたみにつげのくしをくれたといふんでせう……。

 (力をいれて、ながくひつぱるやうに)さう、なん、です、よ。

主人 いやんなつちやふな……。

 そればかりぢやない……。はじめて知つたんですけど、その女、さつきの判こやの友だちのいとこなんです……。

主人 森泉君! 森泉君といつたつけね……、いつたいきみは……。

 その森泉といふなまへなんですが、ぼくが汽車にのると、きつとまへのひとが讀みすてたんですね、ぼくの坐つた席に新聞が置いてありました。なんの氣なしにちらつと見ると、それがどうです、「MRA年次大會開く」とある……。MRA、いいですか、モ・リ・イヅミ・アツヲ……、MRAになります。

 

  このとき、ふたたび女があらはれ、來客を告げる。

 

 みなさん、おそろひになりましたわ。おへやのはうに おとほししてありますけれど……。

主人 あ、いますぐいく。

 (退場しようとする女のうしろから)奥さん……。奥さんでせう。ねえ、奥さん、ぼくもずるい男やけど、先生はじつにずるい。ずるいひとですね……、うそつきです……、横著です……。奥さん、さうでせう……。

 

  女、とまどひして、どう答へていいかわからぬまま、あいまいな表情でひつこむ。

 

主人

(立ちあがつて)ぼくはさつきから……、もうがまんできませんよ……。あんたはなんのためにぼくのところへいらしたんです。ぼくをからかひに來たんですか。

 先生はまじめだ、まじめすぎるんや。ぼくもまじめすぎる。まじめいふことはずるいいふことです。先生はまじめだ、だからずるい。(けはしい顔つきできめつける)横著ものめ。

主人 (氣味わるくなつて)なんでもいいですよ。とにかく、ぼくは用があるんだから失禮します。そんなことはいひたくないんだけれど、あんたもこれでおひきとりください。

 (とぼけたやうに)讀書會ですか……。なにを讀んでるんですか。

主人 聖書です。

 (にやにやして)ちやうどいい、ぼくも聴いてゐていいですか。じやまはしません。すみのはうで黙つて聴いてゐます。いいでせう……。

主人 いけません。

 …………。

主人 いいかげんにしてください。ぼくはあんたとは赤の他人だ。(激してくる、が、ことばはあくまで冷静に)ぼくはどうだか知らんが、あなたはたしかにずるい。(ふたたび坐りなほして)横著ですよ、世間を甘く見てますよ、あんたは……。

 ぼくは、ぼくばかりぢやない……、ぼくも先生も見えざる偶然の手に支配されてゐるんです。ぼくと先生とが出あつたのも暗合です……。

主人 暗合もくそもない。きみが來たから會つたんです。

 来ても、斷ることもできます、それを先生は會つた……。

主人 それはぼくの黒星ですよ。あんたのやうなひとだとわかれば會ひはしない。

 やつぱり會ひます……。

主人 もうこれからは知らないひとには會ひません……。 そんなことはしたくないんだ、でも、あんたのやうなひとがゐると、さうしなければならなくなる。

 紹介してくれるひとがゐなければ、どうしたらいいですか。

主人 問答無益、帰つてください。

 …………。

 

  間。

 

主人 帰つてください、お願ひします。

主人、急におもひついたやうに、奥へひつこみ、紙入をもつて戻つてくる。そのあひだ客は足をテーブルのうへにあげ、さも疲れたやうに、両手をだらりとたらして、あふむけに天井をみつめてゐる。主人がもどつて來てもその姿勢のまま。

主人 (自分の席にもどつて)氣を悪くしないでください、きみは友だちの下宿ぢやうるさくて勉強できないといつてゐるが、ぼくの察するところでは、おそらく友だちだつてめいわくしてゐることとおもひます。さつきもいふとほり、ぼくときみとは赤の他人だ、本来ならば、最悪のばあひ、警察にいつて戴くところですよ。そんなことばは使ひたくないが、あんたにそのつもりはないにしても、家宅侵入であり、面會強要といふことになるんですよ。しかし、あんたは病氣だ……。

 病氣ぢやない……。(紙入を見て、主人の意圖を察したのか、急にふきげんになつてゐる)

主人 なるほど、いまは病氣ぢやなくても、かつては病氣だつた。だからぼくは怒りません。誤解しないでくださいよ……、あんたがそのつもりでぼくのところへ來たなどとは毛頭おもつてゐないんですよ、しかし四十圓ぢやどうしやうもない……。失禮だとはおもふが、これを取つといてください。少いけれど、ひとまづお友だちのところへ歸つて、お家へ電報を打つて、歸りの旅費を送つてもらひなさい……。それまでの小遣です。いいですか、とにかく歸らなければだめですよ。(札を學生のまへにおく)

 歸りません、どんなことがあつても断じて家へは歸りません。

主人 ほかにどうしようつていふんです……。

 …………。

主人 どうしやうもないぢやありませんか。

 このつづきを書きます。

主人 そんなもの書いつたつてしやうがないんだ……。暗合なんていくらもあります。意味のないことですよ。(激して)きみは世間に甘え、暗合に甘えてるんだ。しつかりしなくちやだめですよ。

 先生、便所を貸してください、どこです……。

主人 なにつ……。(怒りをおさへて)こつちですよ……。(ドアをあけて、奥のはうにどなる)おうい、便所を教へてあげて……。

 

客、例の紙たばをふろしきにつつみ、それをぶらさげて出てゆかうとする。ひどく緩慢な動作。

 

主人 きみ、きみ、荷物は置いてつたはうがいいでせう。

 (立ちどまつて、ゆつくり荷物を胸のところまで持ちあげ、それをしばし眺めてゐるが、ふたたびそつと腕をのばして)これは持つていきます。

主人 だつて、きみ……。(きみわるさうに見送る)

 

客、酔つたやうにふらふらしながら出てゆく。主人いらいらしてゐる。薄暗くなりつつあるへやのなかを足ばやに歩きまはる。ふとおもひついたやうに、正面の窓のまへで立ちどまり、そとを眺めて突つ立つてゐるが、やがて口のなかで「えいつ」と掛聲をかけてみる。急にばかばかしくなつて妄想をはらひおとすやうに頭をふり、あわてて席にもどる。同時に、客が戻つてくる。くづれるやうに椅子に寄りかかり、うしろにのけぞる。

 

 あれ、便所は……、もうすんだの……。

 先生……。

主人 なんです。

 (弱々しく頭をさげて)先生、今夜ひとばん、泊めてください。

主人 いけません、へやもなければ、余分な夜具もないんだ。

 このへやでもいい……。

主人 きみは世間をよつぽど甘く見てゐるね。家がなくて野宿したり、地下道に寝たりしてゐるひとがゐるんだぜ。

 …………。

主人 ぼくの本を読んだといつちや、泊めてくれ、飯をくはせてくれといつてくるのを、いちいち……。

 あ、さうだ、おなかもすいてる……、をととひの晩からカロリーぜんぜんとつてない。

主人 ふざけるのはやめたまへ……。

 でも、先生の本、読んだひとで、泊めてくれといつたひと、ほかにもありますか。

主人 なんだつて……。

 (起きあがつて)ぼくだけでせう……。ね、ほかのひとは望まない、ぼくだけが望んだ……。

主人

 (自分をおさへるやうに)常識のある人間なら、たとへ望んだつて、行動にあらはしはしないよ。

 それは望まないからです。望みかたがたりないんだ。「信ずるものに能はざるなし」……。(またごそごそとつつみを探しはじめる)

主人 信じたつて、いつも能ふとはかぎりませんよ。

 これ先生の本です、扉に書いてくれませんか、「信ずるものに能はざるなし」つて。

主人 (おもはず大聲で)ふざけるなつ。

 (下をむいて、黙りこむ。やがて)誤解だ……。

主人 (自分をおさへて)とにかく、いくら信じてもだめですよ。きみがいくら望んだつて首相は就職のめんだうをみてくれはしなかつたでせう……。

 ぼくの望みかたがたりなかつたんです。ぼくはそんなに望んではゐなかつた。

主人 ぢや、ぼくのところへ泊ることは強く望んでゐるんですね。

 ええ、だからかならずかなひます。

主人 さうきいた以上、意地でも斷じて泊めません。

 先生はきつと泊めてくれます。

主人 歸りたまへ。どうしても歸らないなら、ひとを頼むよりしかたない。

 ひとつて、警察ですか。

主人 最悪のばあひはね……。

  

  間。

 

 先生、ぼく疲れちやつた、歩けない……。

主人 冗談いつちやいけないよ。それだけ雄弁にしやべれて歩けないことがあるものか。

 しやべつたんで、くたびれちやつた。

主人 きみ、いいかげんにしたまへ……。

 先生、たのみがあるんです……。

主人 なんです……。

 …………。

主人 まあ、いつてみたまへ、できることなら、ぼくに……。

 ここへ泊めてください。ね、先生……。ぼく、まだ頼みかたが、熱意が、たりないのかしら……。

主人、あきれかへつて黙つてしまふ。しばらく黙つて考へてゐる。

主人 (氣をかへて)ぢや、かうしよう──近くに知つてゐる宿があるから、そこへいつて泊りたまへ。地圖と紹介状を書きますよ。今晩一晩泊つて、さきのことはあしたの朝ゆつくり相談しようぢやないですか。ね、それでいいでせう。とにかくぼくのがまんできる範囲内できみの希望がかなへられるといふものだ。もちろん宿賃はぼくが払ひます。あんたはぼくのお客なんだ。さういふことはよくあるんだよ、親戚などが地方からたくさん出て來たときなんか、ね。それでいいでせう。さうすりや、今晩、小説のつづきも書けるし……。だけど、氣を悪くしないでくれたまへ……、もしきみが、そのはうがよければ、お金はあとでかへしてくれてもいいんだ……、かへしてくれなくてもいい。

 もらふはうがいいです。

主人 それならそれでいいさ。ね、さうしよう、さうしたまへ。ここへ泊るのも、宿屋に泊るのもおんなじだらう。宿屋のはうがかへつていいくらゐだ、御馳走はあるし、氣がねはいらないし……。

客しばらく考へてゐたが、やうやく立ちあがつて、例の緩慢なうごきで二三歩ドアのはうへ歩みよる。おもひなほしたやうに、下をむいて、そのままじつとたたずんでゐる。ながいあひだ、さうしてゐる。

主人 早くしてください。客が待つてゐるんですよ。

ながい間ののち、客はふたたびふらふら戻つてくる。どつかり椅子に腰をおろし、テーブルのうへの札に眼がつくと、そつと手を出し、ひとさし指でそれをビュンとはねる。

主人 いいかげんにしないか、きみは。きみが非常識のために、最後にはぼくまで非常識なことをさせられなくちやならなくなるんだ……。どこの國に見ず知らずのもののところへ來て、泊めてくれつていふやつがありますか。なるほどぼくは宗教家です。牧師だ。同時に貧しいものの味方をもつて任じてもゐる。しかし施しを強要されるのはいやだ。さつきはへやがない、夜具がないといつた。正直にいひます、今晩きみひとり泊めることぐらゐできなくはない。しかし、あすはどうする、あさつてはどうする。また、きみ以外の困つてゐるひとたちのことはどうするんです。なるほど窮鳥ふところに入るといふことばもある。それにぼくはひとを救ふことを天職とする人間だ。きみはおそらくぼくを、けつきよくはエゴイストにすぎぬとおもふかもしれない。が、きみはなんです、きみは……。ほかの多くのひとの生活苦をよそにみて、自分だけが救はれようと考へてゐるエゴイストぢやないか。しかも、自分にはその權利があるとおもひこんでゐる。甘つたれですよ、傲慢(がうまん)ですよ、おもひあがりですよ。

 (だんだん人相が変つてくる。眼はけはしくつりあがり、じろじろと横眼をつかふ)…………。

主人 (おもひなほしたやうに、急に氣よわく)いや、理窟はどうでもいい。ぼくはエゴイストですよ、自分の生活の乱されることをなによりもおそれる世間人ですよ、俗人ですよ。だから、損のゆくことはやらない。與へた以上、かならず取りますよ。取れるとおもふものにしか與へないんだ……。きみはぼくになにをしてくれましたか、なにをくれますか。きみはぼくから時間を奪つた、心の平静を奪つた、そしてさらに一宿一飯を奪ひとらうとしてゐる……。

 (じつと相手の瞳<ひとみ>をみつめて)ことばだ、音のエネルギーだ。

主人 え、なんですつて……、なんといつたんです……。

 (そっぽをむいて)音と光のエネルギーだ……。

主人 とぼけるのはやめたまへ……。ぼくはきみほどずるい男に會つたことはないよ。

 ずるいいふのは、正直いふことだ。逆説でね……。

主人 くだらぬ逆説なんかやめたまへ。平凡なことばで話せばいいんだ。

 損するいふのは得するいふことだ。

主人 つまらぬ逆説はやめたまへといふのに……。

 先生が損をする、ぼくが得をする……。プラス・マイナス相殺されてゼロです。陰と陽とはあふんです。

主人 その手でくるんだね、しらばくれようといふんですね……。

 やつぱり先生はぼくを尊敬してるんでせう。

主人 なにをいつてるんです、ぼくはきみばかりでなく、なんびとも尊敬しません……。

 でも、尊敬するいふのは軽蔑するいふことだ。

主人 軽蔑もしません。

 さうです、尊敬は軽蔑、軽蔑は尊敬、尊敬しないは軽蔑しない、軽蔑しないは尊敬しない。だから、みんなおなじことです。することもしないこともおなじです……。

主人 きみは……、きみは……。もう、わけがわからん。

 でも、ぼくは、歸らん。

主人 ぢや、ぼくがもつとも望ましくおもつてゐないことをさせようといふんだね。

 (そつぽをむいて小聲で)だんだん腹たつてきた……。

主人 そりや、こつちのことだ……。

 決著つけるまで歸りません。

主人 決著とはなんです、なんの決著をつけようつていふんです。

 音と光の決著です。

主人 (やうやつと自分をおさへるやうに)そりやなんのこと……。音と光の決著つてなんなの……。(なだめるやうに)ぢや、かうしよう、きみがかうしろといへば、それがぼくのできうる範圍内のことなら、なんとでもしようぢやないですか。だから、あつさりかうしてくれといつてください。

 だから音と光の決著をつけるんです。

主人 よろしい、音と光の決著をつけませう。で、どうすればいいの……。

 (鋭く)ずるいな……、先生はわかつてるくせに……。

主人 わからないから、きいてるんだよ……。要するにあんたを満足させればいいんでせう……。

 満足させなければいい。ぼくは不満足が満足です。

主人 さう、ぢや、きみを不満足にさせればいいんですね。

 満足させればいいんだ。

主人 それは逆説でね……。

 さう、逆説だから正論です。

主人 さうだ、たしかにそのとほりです。つまりきみは不満足が満足で、ところが、ぼくは満足が満足なんだ。さうなるとひじやうに好都合だ。ぼくはきみに歸つてもらふことが、すくなくとも今晩一晩だけ宿に泊つてもらつて、あすの朝には歸つてもらふはうが満足で、それがきみには不満足なんだ。それでいいぢやないか、音と光の決著はついたわけだ。

 ちえつ、そんなの……。ぼくは先生んとこへ泊めてもらひたくないんだ、それが不満足なんだ、だからどうしてもさうしたいんです、四日でも五日でも……。

主人 (怒りをおさへて)あゝ、さうなの。きみは四日でも五日でもここへ泊つて、小説のつづきを書くことがいやでいやでたまらないんだね……。それで、そのいやなことをやりたいんだね。

 (黙つてうなづく)…………。

主人 でも、やりたいことはやりたくないんでせう、きみの性質では……。だから、それはおやめなさい……、そら、音と光の決著はきれいについちまつた……。

 だめだ……、先生は宇宙の外心でしやべつてる、ぼくは宇宙の内心でしやべつてるんや。

主人 宇宙……、宇宙つてなんです……。

客 宇宙知らないの……。

主人 (からかつてゐるつもりだが、眞劔になつてしまつてゐる)宇宙つて、どの宇宙……、きみ、宇宙つていくつあるか知つてる……。

 一萬七千四百五十……。

主人 あ、ちがふ、ちがふ……、(眞顔で、むしろけはしい顔つきで)百九十八億四千六百三十二だよ。

 うそ、いつてら……。

主人 うそだよ、うそだからほんとさ。

客 月の数いくつあるか知つてる……。

主人 たしか三つぢやなかつたかなあ……、待てよ、五つだ、四つだ……。

 ばかいつてら、月はひとつしかないさ。

主人 ひとつ……、そりやずいぶん昔のことさ、(この話の最中、細君が茶を入れかへに登場)月がひとつしかないとおもつてゐたのは、十年もまへの天文學さ、いやしくも、今日の天文學では月は四つときまつてゐる……。

 先生はさつき五つというたんやないか……。

主人 五つといふのは四つのことさ、逆説でね……。(このとき細君が電氣のスイッチをひねつたので、室内が急に明るくなり、その光のなかに自分をじつとみつめてゐる細君に氣づくが、もうやぶれかぶれといつた調子)といふのはね……、ねえ、きみ、女の眼には四つにみえるんだね……、ぼくたち男の眼には五つさ。男と女とは逆だらう。だから逆説なんだよ。陰と陽さ、プラス・マイナスすると、女のマイナス四に男のプラス五で、けつきよくプラス一、十年まへの人間に一つしかみえなかつたのもむりはない話なんだよ。ところが微分積分が発達してひとつにみえる月が四つであり五つであることがわかつたんだ……。

 奥さん、先生はずるいよ、まつたくうそつきだ……。

主人 うそつきぢやない、ほんとの月だ。ほんとの月が四つあるんだ、五つあるんだ。ひとつだといふ、その月こそうそ月だ。

 (呆然としてゐたが)あなた、あなた、どうなさつたんです……。

主人 どうもしやしませんよ。

 だつて、變なことを……。

主人 みんなにもすこし待つててくれるやうに頼んでくれたまへ。大丈夫ですよ、どうもしてないんだ、ぼくは森泉君と議論してゐるんだ。

 先生はだめだ、宇宙の外心でものをいつてゐるから……。内心でいふことを知らないやつはかならず外心でしやべる……。

主人 いや、もひとつ重心といふやつがある、ぼくは宇宙の重心でしやべつてるんだ……。

 ことばだ、音だ……。音と光のエネルギーだ……。先生、決著をつけてください、決著がつくまでは歸れません。

 なんのことですの……。

 音と光の決著です。

 え……。

主人 ちがふ、電波の決著だ、宇宙線の決著だ、電波と宇宙線の決著だ。

 まあ、あなた……。しつかりしてちやうだい……。本氣ですか……。

主人 この男にきいてくれ……。

 いつたいなんのことですの、どうしたつていふんですの……。

 たくらみです、星のたくらみです……。

 え、なんですつて……。あたしにもわかるやうにお話してください……。ちつともわかりませんわ……。

主人 わからんといふことはわかるといふことだ。

 ちがひます、わかるいふことはわからないいふことです……。

 まあ……。

 星のたくらみ、赤い星のたくらみ、赤いは白いだ、白い星のたくらみ……。へびだ、うなぎだ……。

主人 今度は、へびとうなぎできたな……。のみだ、のみのたくらみ、のみとありのたくらみ……。

 あなたつ……。(主人の肩をゆすぶる)

主人 大丈夫だよ、冗談だよ……。おまへはむかうへいつておいで……、すぐいくから……。

 大丈夫ですか、ほんとに大丈夫ですか……。

主人 大丈夫、大丈夫……。

しばらく三人とも沈獣。細君はいくらか安心して、それでも氣がかりさうにしながら退場。

主人 (腹だたしさうに)ばかばかしい……。

 

  間。

 

 (突然、立ちあがつて)いきませう、警察へいきませう。わかつとるんや、ぼくは……。

主人 なにがわかつてるんです。

 先生はね、ぼくをだまして宿屋へ送りこんで、そのあとで警察へ電話をかけるつもりだつたんやろ……、ちやあんと知つとるんや……。

主人 ふゝん、今度は、ばかに常識的なかんぐりだね……。

 いこ……。ぼくが警察へいけばいいんやろ。さうすれば、先生はほつとするんやらう。(つつみを握つて歩きださうとする)

主人 まあ、坐りたまへ……。

 (案外すなほに座につく)……。

主人 わかつたよ……。音と光の決著といふのはわかりましたよ。

 …………。

主人 きみは、じつにぜいたくな人間だよ。なんのかんのといつて、要するに、たとへ宿屋に泊るにしても、安心して泊りたいといふわけなんだね。警察の不安をとりのぞいておきたいといふんだね……。音と光の決著といふのはそれだけのことだらう、ぼくから警察へ電話をかけぬといふ言質をとつておきたいんだ、きみは……。

 さうぢやない……。警察なんか怖くない……。ぼくは、警察、知つてるよ、大阪の警察も知つてる、東京の警察も知つてる……。八幡(やはた)の警察も知つてる ……。輕井澤だつて、仙臺だつて……、日本中の警察、たいてい知つてるよ。

主人 そんなこと自慢にやならないよ……。

 (また立ちあがつて)いかう、警察へいかう……。

主人 そんなにいきたいんなら、ひとりでいきたまへ、ぼくはいやだ、忙しいんだ。

 (ふたたび坐つて)ぢや、音と光の決著をつけてください。さうしなけりや、今晩ねむれない。

主人 だから、ぼくは警察へなんかいひつけませんよ……。早く宿へいつて寝たまへ。きみは昂奮(かうふん)してるよ……、一晩ゆつくりやすみたまへ。(だんだんやさしく)からだを大事にしなければだめだよ。そりや、病氣はなほつたかもしれないさ。でも、そんなに昂奮したりすれば、また再發するよ。ぼくはなにもきみを病人あつかひするんぢやない。しかし、きみは夢と現實を混同してるんだ。常識的になれといふのは、夢を捨てろつてことぢやない、夢は夢、現實は現實さ。現實的でなくちや、常識的でなくちや、夢は到達できないんだよ。

 (うなだれてゐる)…………。

主人 (狡猾なほどやさしく)きみは純粋だ……。ぼくははじめてほんたうに美しい魂のひとつにぶつかつたといふ氣がする。だが、ぼくのなかにだつて純粋さはあるんだよ。ぼくのうちにもきみは生きてゐるんだよ。だからぼくはきみをむごく扱ふのさ。わかるかね……。けふまでぼく自身をすら、ぼくはむごく扱つてきたんだからね。なるほど、きみはぼくの本を讀んでくれた。そしてそれに感動した。だが、ぼくとぼくの本とはべつだよ。といふのは、言行不一致といふことぢやないぜ。活字の世界でいつしよに同居できたからつて、現實の生活ぢや、さうはいかないんだよ。それを、きみは混同してるんだ。それがきみの美しさだ。きみをずるいといつたのは悪かつたよ。ずるいどころか、とても純なんだ。精神上の共感だけで、もうなんのいざこざもなくいつしよに暮せるとおもつてゐる……、またおたがひにその權利があるとおもつてゐる。人間、さうはいかないんだよ。ぼくにもきみの悲しみはよくわかる。よくわかつてゐるけれども、どうにもならないのさ。きみの精神は受けいれても、肉体は拒否する。きみだつてさうだ。現にぼくたちは汚いいざこざを演じてゐるぢやないか……。

 (泣きさうになつてゐる)…………。

主人 (しめたといふふうにすかさず)さあ、握手しよう。からだを大事にしたまへ。とにかくあしたはくにへ歸るんだ。そしてゆつくり小説を書いたらいいぢやないか。ぼくの友人にも小説家がゐるから、なんなら紹介してあげてもいいんだ。わかつたね……。さ、わかつたら宿へいつてやすみたまへ。あしたの朝また會はう。

 (黙つてうなづく、やをらふろしきづつみをとりあげドアのところまでふらふら歩いてゆく)………。

主人 (肩をだきかかへるやうにしていつしよについてゆく)あしたの朝ゆつくり相談しょう。

 (急に立ちどまり、うしろをむき)先生、ここに泊つちやいけませんか……。宿屋はいやだ……。

主人 (おもはず、かつとして)まだそんなこといつてるのか、きみは……。

 宿屋にいくのはいやです……。

主人 わからないぢやないか。ぼくのところでなければ、どうしていけないんだ……。警察には、けつして、いひやしないよ……。

 (くづれるやうに床に坐りこみ、両足を投げだし、両手をうしろにつき、自分の足さきを眺めるやうにして)くたびれちやつた……、ぼく、疲れてるんです……。

主人 なめるなつ……。

 歩けない……。

主人 (やつと自分を制して)家のものを案内させるよ……。ね、さあ、立ちたまへ……。

客 でも、音と光の決著がまだついてゐない。

主人 もう、ついてるぢやないか。

 ついてない……。

主人 (もてあまして)いつたい、きみは、どうしろつていふんだ……。

 

  間。

 

 (ずるさうな上眼づかひで)今晩だけぢや、つづき書けない。

主人 えつ……、きみは……、きみは……。(氣を変へたやうに)あゝ、さう、さきのことはあしたの朝ゆつくり考へようぢやないの……。くにへかへるなり、また方法があれば、四五日、宿で小説のつづきを書くなり……。

 四五日居てもいい……。

主人 方法があればね……、といふのは、そのさきのめどがつけばね。

 …………。

主人 きみはじつにいいひとだ、よすぎるんだよ。だけど、善良なだけぢや、この世のなかは渡つていけない。強くならなければだめだよ。世間は弱者を 押しつぶしてしまふんだ。だから、ぼくもせいいつぱい強くしてゐるんだ。 世間に弱味を見せちやだめだよ、ぜつたいにだめだよ。きみだつてさうだ……。そりや、親のすねかじつてゐるうちはいいさ、いままではね、けれど……。

 いままでだつて親の世話になんかならなかつた……。

主人 え……、ぢや、苦學してたの……。

 友だちのところ渡り歩いてた……。

主人 それがきみの流儀だね。でも、これからはちがふよ……。

 これからだつておなじです……。

主人 だつて、現に、きみはおもひどほりにならないことにぶつかつてゐるぢやないか。

 それがすきなんです……。

主人 あゝ、不満足が満足なんだつけね。

 満足が不満足なんです。

主人 わかった、わかった、逆説だね、お得意の……。

 逆説ぢやありません……。

主人 (こらへきれず)立ちたまへ……。(両腕に手をかけて、むりに立たせる)なんでもいい、さあ、出てゆきたまへ……。(ドアをあけて押しだす。自分もいつしよに出るが、氣がついて電氣を消しにもどり、スイッチを押す。室内うすくらくなる。出ていかうとすると出あひがしらに、ふたたびこちらむきに戻つて來た客とぶつかる)

 先生……。

主人 なんです……。

 「信ずるものに能はざるなし」──「奇蹟もまた常識を否定するまでだ。」

主人 わかりました、わかりました……。さ、だから……

 さつきのお金……。

主人 え……。

 貸してください。

主人 宿屋はあしたぼくが拂ひますよ……。

 ぼく四十圓しかもつてゐない……、たばこも買へない。

主人 (いまいましさうに、テーブルのうへの札をとり)さ、持つていきたまへ……。

 

  両人出てゆく。

 

 (廊下をゆつくり歩きながら、快活さうに大声で)先生、ふしぎですね、ぼくの名まへが森の泉で、先生の名まへが河口……。

主人 さうだね、ぼくはけつきよくきみを受け容れるやうになつてゐるといふ暗合かな……。

 さうなんだ……。それにぼく先生んところへ來るとき、番地もなにも知らなくて、ただこの町だつてきいてきて、曲り角で道きいたらね、そしたら、そのひと判こやで、けさ先生が住所印を注文したんで、番地わかつてるつて……。

主人 なるほど……、ほんとにふしぎなもんだなあ……。

 ふゝゝゝゝ……。

主人 はゝゝゝゝ……。

──幕──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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福田 恆存

フクダ ツネアリ
ふくだ つねあり 劇作家・批評家 1912・8・25~1994・11・20 東京府に生まれる。日本藝術院賞。

掲載作は文藝春秋刊『福田恆存全集』第8巻所収 「劇作」1950(昭和25)年2月号初出。

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