三 書窓の警報
夫より数日を経て、板伯(板垣退助伯爵)よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸ひ、御身と同伴の事を頼置きたり、直ぐに来よ紹介せんとの事に、取敢へず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹氏にてありければ、妾はいよいよ安心して、翌日神戸出帆の船に同乗し、船の初旅も恙なく将た横浜よりの汽車の初旅も障りなく東京に着して、兼ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし自由燈新聞記者坂崎斌氏の宅に至り、切対面の挨拶を述べて、將来の訓導を頼み聞え、やがて築地なる新榮女学校に入学して十二三歳の少女と肩を並べつつ、只管に英学を修め、傍ら坂崎氏に就きて、心理学及びスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かゝりし程に、一日朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端なくも妾の書窓を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにも係はらず、外に対しては卑屈是れ事とし、国家の恥辱を賭して、偏に一時の栄華を衒ひ、百年の患を遺して、唯だ一身の苟安を冀ふに汲々たる有様を見ては、いとゞ感情にのみ奔るの癖ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂に巾幗の身をも打忘れて、いかで吾れ奮ひ起ち、優柔なる当局及び惰民の眠を覚し呉れでは已むまじの心となりしこそ端たなき限りなりしか。
四 当時の所感
嗚呼斯の如くにして妾は断然書を擲つの不幸を来せるなりけり。当時妾の感情を洩せる一片の文あり、素より狂者の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国てふ事に熱中したりし其有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左に抜萃することを許し給へ。斯は大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾は茲に自白す、妾は今貴族豪商の驕傲を憂ふると共に、又昔時死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭へり。我等女子の身なりとも、国のためてふ念は死に抵るまでも已まざるべく、此の一念は、やがて妾を導きて、頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸く彼の私欲私利に汲々たる帝国主義者の云為を厭はしめぬ。
嗚呼学識なくして、徒らに感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されど其頃の妾は憂世愛国の女志士として、人も容されき、妾も許しき。姑らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐
(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄に於て、時に十九歳=正しくは二十一歳)
元来儂(われ)は我国民権の拡張せず、從て婦女が古來の陋習に慣れ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已、豈事体の何物たるを知らんや、況んや邦家の休戚をや。未だ曾て念頭に懸けざるは、滔々たる日本婦女皆是にして、恰も度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一も顧慮するの意なし。斯く婦女の無気無力なるも、偏へに女子教育の不完全、且つ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂(われ)は同情同感の民権拡張家と相結托し、愈々自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、是れ固より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競ひて国政に参し、決して国の危急を余所に見るなく、己れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘ひ、能く事体に通ずる時は、愛国の情も、愈々切なるに至らんと欲すればなり。然るに現今我国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、或は演説に或は政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして政に参せしめざる時は、憂国の余情溢れて、如何なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向つて忠告するも、馬耳東風たる而已ならず憂国の志士仁人が、誤つて法網に触れしを、無情にも長く獄窓に呻吟せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙に遑あらず、就中儂の、最も感情を惹起せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦の三大自由権を剥奪し、剰さへ儂等の生来曾て聞ざる諸税を課せし事なり。而して亦布告書等に奉勅云々の語を付し、畏れ多くも天皇陛下に罪状を附せんとするは、抑も亦何事ぞや。儂は是を思ふ毎に苦悶懊悩の余り、暫し数行の血涙滾々たるを覚え、寒からざるに、肌に粟粒を覚ゆる事数々なり。須臾にして、惟らく嗚呼此の如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛の酷なるを怨み、如何の感を惹起せん、恐るべくも、積怨の余情溢れて終に惨酷比類なき仏国革命の際の如く、或は露国虚無党の謀図する如き、惨憺悲愴の挙なきにしも非ずと。因て儂等同感の志士は、是を未萌に削除せざるを得ずと、即ち曩日に政府に向つて忠告したる所以なり。斯く儂等同感の志士より、現政府に向つて忠告するは、固より現当路者の旧蹟あるを思へばなり。然るに今や採用するなく、却て儂等の真意に悖り、剰さへ日清談判の如く、国辱を受くる等の事ある上は、最早や当路者を顧るの遑なし、我国の危急を如何せんと、益々政府の改良に熱心したる所以なり。儂熟々考ふるに、今や外交日に開け、表に相親睦するの状態なりと雖も、腹中各々針を蓄へ、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強の欲を逞ふし、頻り東洋を蚕食するの兆あり、而して、内我国外交の状態につき、近く儂の感ずる処を挙れば、曩日に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、其談判は果して、儂等人民を満足せしむる結果を得しや。加之、此時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明けし。然るに其結果たる不充分にして、外国人も私かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うて爰に至れば、血涙淋漓、鉄腸寸断、石心分裂の思ひ、愛国の情、転た切なるを覚ゆ。嗚呼日本に義士なき乎、嗚呼此国辱を雪がんと欲するの烈士、三千七百万中一人も非る乎、条約改正なき、亦宜なる哉と、内を思ひ、外を想うて、悲哀転輾、懊悩に堪へず。嗚呼如何して可ならん、仮令ひ女子たりと雖も、固より日本人民なり、此国辱を雪がずんばあるべからずと、独り愁然、苦悶に沈みたりき。何となれば、他に謀るの女子なく、且つ小林等は、此際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫らく一心に英学に従事し居たりしを以て、曾て小林とは互に主義上、相敬愛せるにも関はらず、儂は修業中なるを以て、小林の寓所を訪ふ事も甚だ稀なりしを以て、其計画する事件も、求めて其頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大に感ずる所あり、奮然書を擲ちたり。亦小林は豫ての持論に、仮令ひ如何に親密なる間柄たるも、決して、人の意を枉げしめて、己れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、況んや吾々計画する処の事は、皆身命に関する事なるに於てをや、吾は意気相投ずるを待て、初めて満腔の思想を、陳述する者なりと、何事に於ても、総て斯の如くなりし。然るに、忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂は曩日に述し如く、我国の安危旦夕に迫れり、豈読書の時ならんやと、奮然書を擲ち、先づ小林の処に至り、此際如何の計画あるやを問ふ。然れども答へず。因て儂は、或は書にし、或は百方言を尽して、数々其心事を陳述せしゆへ、稍や感ずる所ありけん、漸く、今回事件の計画中、其端緒を聞くを得たり。其端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、此挙に乗じ、平常の素志を果さんの心意なり。而して、其計画は既に成りたりと雖も、一金額の乏しきを憂ふる而已との言に儂は大に感奮する所あり、如何にもして、幾分の金を調へ、彼等の意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯会社を設立するを名とし、相模地方に遊説し、漸く少数の金を調へたり。然りと雖も、是を以て今回計画中の費用に充つる能はず、只有志士の奔走費位に充つる程なりしゆゑ、儂は種々砕心粉骨すと雖も、悲しい哉、処女の身、如何ぞ大金を投ずる者あらんや。況んや此重要件は、少しも露発を恐れ告ざるをや、皆徒労に属せり。因て思ふに、到底儂の如きは、金員を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々其手段を謀れり。然る処、偶々日清も平和に談判調ひたりとの報あり。此報たる実に儂等の爲めに頗る凶報なるを以て、稍や失望すといへども、何ぞ中途にして廃せん、猶一層の困難を来すも、精神一到何事か成らざらん。且つ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、其勢力実に盛んなりしに、一朝平和に其局を結びしを以て、其脳裏に徹底する所の感情は大に儂等の為めに奇貨なるなからん乎、此期失ふべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択び、先づ朝鮮に至り事を挙げしむるに如かずと、是に於て檄文を造り、これを飛して、国人中に同志を得、共に合力して、弁髪奴を国外に放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日に政府は卑屈無気力にして、彼の弁髪奴のために辱を受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそゝぎたりとて、大に外交政略に関する而巳ならず、一は以て内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、愈々速かに此挙あらん事を渇望し、且つ種々心胆を砕くと雖も、同じく金額の乏しきを以て、其計画成ると雖も、未だ発する能はず。大井小林等は、只管金策にのみ、従事し居たりしが、当地に於ては最早や目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫らくして、大井は中途にして帰京し、小林独り止まりしが、漸く其尽力により、金額成就せしを以て、愈々磯山等は渡行の事に決定し、其発足前に当り、磯山儂に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因て儂は、其必用の在る処を問ふ。磯山告ぐるに、彼是間の通信者に、最も必用なるを答ふ。儂熟慮是を諾す。最も儂は、曩日に東京を出立するの時、矢張り、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、其義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動を為さんと希図したりしが、当地(大阪)にて亦朝鮮へ通信の為め同行せんとの事に、小林も是に同意したれば、即ち渡航に決心せり。然るに、磯山は、彌々出立と云ふ其前日逃奔し、更に其潜所を知る能はず。故を以て已むなく新井代りて其任に当り、行く事に決せしかば、彼も亦同じく、儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちに之を諾し、大井小林と分袂し、新井と共に渡航の途に就き、崎陽に至り、仁川行の出帆を待ち合はせ居たり。然る所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜を生じ、渡航を拒むの壮士もある様子ゆゑ、儂は憂慮に堪へず、彼等に向ひ、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧るの慮なく、許容せざるを以て、儂は大に奮激する所あり、未だ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。其際儂は新井に向ひ云ふ様、儂此地に到着するや否や壮士の心中を窺ふに、堂々たる男子にして、私情を挟み、公事を抛たんとするの意あり、而して君の代任を忌むの風あり、誠に邦家のために歎ずべき次第なり。然れども、是等の壮士は、却て内地に止まる方好手段ならんと云ひしに、新井是に答へて、成程然る乎、斯の如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。吾が諸君に対するの義務は、畢竟一身を抛擲して、内地に止まる人に好手段に与ふるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧ざる如きの人を要せんやと。儂此言に感じ、嗚呼此人国のために、一身の名誉を顧みず、内事は総て大井小林の任ずる所なれば、敢て関せず、我は啻其義務責任を尽すのみと、自ら奮て犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全ふする者と、暫し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、此行決死せざれば、到底充分平常希望する処の目的を達する能はず。且つ儂(われ)今回の同行、偏に通信員に止まると雖も、内事は大井小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂今仮令ひ異国の鬼となるも、事幸ひに成就せば、儂平常の「素志も、彼等同志の拡張する処ならん。まづ是に就ての手段に尽力し、彼等に好都合を得せしむるに如かずと。即ち新井を助けて、此手段の好結果を得せしめん、且つ夫につきては、決死の覚悟なかるべからず、然れども、儂、女子の身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物の有るあり。仮令ひ身体は軟弱なりと雖も、愛国の熱情を以て向ふときは、何ぞ壮士に譲らんや。且つ惟へらく、儂は固より無智無識なり、然るに今回の行は、実に大任にして、内は政府の改良を図るの手段に当り、外は以て外交政略に関し身命を抛擲するの栄を受く、嗚呼何ぞ万死を惜まんやと、決意する所あり。即ち崎陽に於て、小林に贈るの書中にも、仮令ひ国土を異にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近東洋に、自由の新境域を勃興せんと、暗に永別の書を贈りし所以なり。嗚呼儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子を棄てゝ、亦何かあらん。然れども是れ私事なり、儂一女子なりと雖も豈公私を混同せんや。斯く重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢て犠牲たらんと欲せしや、他なし、啻愛国の一心あるのみ。然れども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能はず。空しく獄裏に呻吟するの不幸に遭遇し、国の安危を余所に見る悲しさを、儂固より愛国の丹心万死を軽んず、永く牢獄にあるも、敢て怨むの意なしと雖も、啻国恩に報酬する能はずして、過ぐるに忍びざるをや。嗚呼是を思ひ、彼を想うて、転た潸然たるのみ。嗚呼何れの日か儂が素志を達するを得ん、只儂是を怨むのみ、是を悲しむのみ、噫。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署に於て
大阪府警部補 廣澤鐵郎印
斯く冗長なる述懐書を獄吏に呈して、廻らぬ筆に仕たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔る青春の人々は、呉れ呉れも妾に観て、警むる所あれかし、と願ふも亦端たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼なかりしは、飽まで浮世の浪に弄ばれて、深く深く不遇の淵底に沈み、果ては運命の測るべからざる恨みに泣きて、煩悶遂に死の安慰を得べく覚悟したりし、其後の妾に比して、人格の上の差異如何ばかりぞや、思ふて爰に至る毎に、そゞろに懐旧の涙の禁め難きを奈何せん。斯く妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲たんとしたりしは、一は名誉の念に駆られたる結果とは云へ、亦心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願ふてなりき。当時拙作あり、
愛国丹心万死軽 あいこくのたんしんばんしかろし
剣華弾雨亦何驚 けんくわだんうまたなんぞおどろかん
誰言巾幗不成事 たれかいふきんこくことをなさずと
曾記神功赫々名 かつてきすじんごうかくかくのな
五 不恤緯会社
是より先き妾は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍ら、何とかして同志の婦女を養成せんものと志ざし、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教へ、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、此感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟女史と謀りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途つきて、行く行くは一大団結を組織するの望みありき。然るに事は志しと齟齬して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇へり。
(以下割愛)