一
年齢廿五六の男、風體は職人。既や暮れんとせる夏の日の、暑熱尚ほ堪へ難くてや、記章袢天の胸を開きて、浅黄の色褪せし手拭に汗を拭きつつ、腿より脛には蔽ふものもなくて、表も鼻緒も砂塵に古びたる麻裏を、突掛草履の歩いそがしげなり。
身材は短き方にて、肉肥満たり。憎気なき丸顔の色白く、鼻は高からねど形恰好く、細く長き眼は常に笑めるが如く、口は屹と結びたれど、むつかしげならず、耳を蔽ふばかりに伸びし頭髪は、垢づき乱れたり。
日本橋区濱町三丁目を傍目もふらず、頭は重げなれど歩はせはしげなり。ふと面を上げて我ながら呆れし風情。
「何の事だ。おやおや。」と呟きつ歩を返し、右側なる薬種屋の横手の露路へ入りたり。
露路を入れば、裏には三軒立の棟割長屋。取付には相用の井戸あり。井戸に沿ひし長屋の一軒より、足音を聞付けしにや顔を出せしは、霜降頭の老婆なり。
「與太さん。」と、老婆は通掛りし男を呼び掛け、「如何だつたい。産婆は居たかい。」と、眉根を顰めて返辞を伺ふ體。
與太郎は上眼に老婆を見て、点頭く様に会釈し、「あゝ、直きに行くツて。」
「そりや好い塩梅だ。早く来て呉れねえぢや、何だか心細くツて。其もね、私に経験がありやア訳やねえんだが、はらはらするばッかしで、役に立ちや為ねえ。何ちにしたツて早く来て貰ひてえよ。それにお前、困ツちまふよ、れこにも。」と、拇指を出して眼を丸くし、「一方にやアお都賀さんが、今にも出産しさうに陣痛るツて、うんうん吁鳴つてるのに、徳利と首引きか何かで、怒鳴りツ通しだらうぢやないか。お都賀さんが可哀想だから、私もお前の歸宅る迄ともつて、今し方迄介抱てたんだけれどね、終にや私に喰つて掛るんだよ。お都賀さんにや気の毒だが、仕様がねえから、いま引上げたところさ。お前早く歸宅つて遣んねえ、お都賀さんがお前を待つて泣いてるわな、可哀想に。」
「すまねえ、すまねえ。叔母さん勘忍して呉んねえ。」と、與太郎は気の毒さうに打詫びつゝ嘆息す。訴へ顔せし老婆も今は慰め顔。「なにお前、お前にや実に気の毒さ。性来だから為様がねえが、お前の爺さんだけれど、彼様人は無えよ。お前は親孝行だし、お都賀さんは順しくするんだし、何にも不足アあるめえに、如何して彼様だらうかねえ。」
「どうも為様がねえ。叔母さん、お前にや実に済まねえ。」
「あれ、また怒鳴つてるよ。早く歸宅つてお遣りよ。」
「実に為様がねえなア。」
與太郎は老婆に辞れ、空屋を一軒隔てし長屋の奥隣、我家の門口を入るより早く、小言は脳天へ落掛りぬ。
「やい、與太、與太ン兵衛、何処を魔誤ついてやがるんでえ。嚊の事だと云やア、鼻汁ツ垂しめツ、二つ返辞でアクセキ(=表記できない)しやアがツて、親にや構やアがらねえんだな。お都賀と共謀になつて、親に当りやアがるんだな。当るなら当つて見ろい、ヘん年は老つたツて鍾馗の吉五郎だ。さア何とでも為て見やアがれ。」
與太郎の父吉五郎と云へるは、年六十に近けれども、骨太く肉脂づきたり。太く高き鼻の先垂れて鳶の嘴の如く、大なる眼は白眼がちてぎよろ付き、唇厚くして且つ反りたり。赭く禿げて光りたる頭上には、十筋ばかりの白髪を集めて鬢を落し、刷毛先を散らしたるは、鉞銀杏の昔を尚ほ今に忍べるにや。明衣は脱ぎて投出し、年には羞しかるべき鍾馗の文身を、素裸になりて胡坐をかきたり。前には鮪の刺身を竹の皮のまま、膳をも出さで畳に置き、右手には五合徳利、左手には、盃に湯呑をさへ面倒なりとや、飯茶碗をとりたり。
家は土間、炊場をも合せて六畳の一間。壁と壁との一隅、左なきだに小暗きを半屏風に囲ひつ、他の一隅には、大工を家業の道具箱を押寄せあり。押入の奥は見えねど、一棹の箪笥だになく、長火鉢と竈との二つが、僅かに家の飾りとぞ見ゆめる。
中央に胡坐をかきたる吉五郎、既や青くなるまでに酔ひ、口はヘの字結び、瞳子は上眼に瞿り、まだ土間に立ちたる與太郎を屹と睨みて、
「さア如何でも為やアがれ。年は老つたッて鍾馗の吉五郎でい。箆棒めツ、與太、手前なんぞにや指一本ささせねえぞ。さア何とでも為やアがれ。」
與太郎は上にあがりて、「家爺お前如何為たてえんだよ。おいらは何とも云つてやア為ねえよ。お前を如何しろてツたツて、串戯ぢやアねえ、如何なるもんかね。腹ア立つ事があつたら、おいら謝罪るからねえ、家爺、勘忍して呉んねえな。」と、父を和めて、屏風の傍に立寄らんとするを、「與太待てツ。」と、呼止むる吉五郎。
「何だよ、家爺。」と、振返る與太郎をはたと睨み、「何だよたア何でえ。此処へ来い。えゝ、何故来やがらねえんだ。」
父の命に詮方なけれど、與太郎は産に難める女房の上気遣はしく、立ちながら屏風の内をさし覗けば、枕にしがみ付きて、苦痛を耐へ忍べるお都賀、顔も得あげで、乱れたる頭髪の打顫へり。
「愚頭々々しねえで、来いと云つたら来ねえか。」と、噛付くが如く罵る吉五郎。
「お前さん、は、は、早く、お出でよ。」と、云ふ声の断続に苦痛も察はれ、蟲の音なる女房が言葉に、與太郎は尚ほ一歩進み寄りて、「今直きに産婆が来るからな、耐忍して居ねえよ。」
「あ! 心配してお呉れでない。もう、なアに、苦しかア……何ともありやしないよ。私ん所ア能いから、は、は、早く、お出でよ、お家父さんが呼んでお居でだから。」
「耐忍しねえ。もう直きに来るんだから。」と、女房を慰め置きつ、與太郎は腕打組みて、吉五郎が前へ坐りたり。
「おい與太。手前何だな、乃公と話す間もねえんだな。」と、茶碗に八分目の酒を一息に飲み乾し、長き息をふうツと吐く。
與太郎は眼を閉ぢて垂頭き、「其様事アありやしねえよ。今帰宅つた所なんで、鳥渡いま……。」
「今帰宅つたなア、手前から聞かねえでも知つてらア。手前何の用があつて、何処へ行きやアがツたんでい。」
「何処へツて、産婆を呼びに。お都賀が陣痛つて、今にも飛出しさうなんで。見ねえな……。」と、吉五郎が顔を屹と見て、其目に産婦を見返り、「如何に苦ながりやがるから、産婆を呼びに行つて、今帰宅つて、鳥渡お都賀の……。」
「だから云はねえ事か。一人前の腕も持たねえで、孩兒い生えて、手前其で如何する積りなんでい。」
「如何するツたツて、お前、今更其様……為様がねえよ。」
「為様がねえものを、何故こせえやがツたんでい。」
「だツて…。困ツちまはア。」
「何だと、困ツちまふだア。」と、乗出すが如く顔を進めて眼を怒らし、「生意気なことを抜かしやアがるない。箆棒めツ、手前の様な意気地なしにや、嚊は有てねえツて、最初ツから云つてるんだ。嚊を有ちやア兒が出来るてえなア、手前の様な没分暁漢にだツて、分らねえ事はあるめえ。今でせえ、箆棒めツ、たツた一人の親の口を乾しやがるぢやねえか。」
「家爺、静かに云つて呉んねえな。」と、與太郎は家外を見返り、「外聞が悪いやね、親の口を乾すだなんて。」父を見る眼も自づと力む。
吉五郎は空になりし徳利を板の間に投出し、「其面何でい。其様面ア為やがつて、如何為ようと云ふんでい。やい與太ツ、手前外聞が悪いてえ事知つてる気か。よう、與太ツ。」
與太郎は相手にならざるこそ能けれ、とは思へども立ちもならず、今は倒に尻を据ゑつ、腰の煙草袋を取り出し、伏目になりて煙草を吸む、其眉頭には顰みも見ゆ。
吉五郎は徳利を取上げ、これ見よがしに振揺かしつ。「六十近い老親の口に、好い酒一杯宛行へねえで箆棒めツ、外聞が悪いたア、何吐しやがんでい。年老つて楽が為たけりやこそ、手前の様な無気力野郎を、馴れねえ男の手一つで人間並に為て遣つたんだ。職業も碌素法出来ねえ木葉大工の癖しやがツて、直きに嚊の詮索よ。親へ楽な思ひもさせやがらねえで、嚊の御託も凄じいや。初めツから云はねえ事ちやねえんだぞ。お都賀が来やがツてから、口が殖えたの何のツて漸々乃公の口を絞りやアがつて、此頃ぢやア五合と相場を定めツちまやアがつたぢやねえか。此上孩兒なんぞ出産されて、おたまり小法師があるもんかい。孩兒が生れりやア、乃公はどんな目に会はされるかも知れやしねえ。ヘん、老人の乾物なんざア、何処へ持つてツたツて、銭にやなるめえぜ。加之に無塩の脂ツ気なしと来ちや、與太、手前捨所にも魔誤つくだらうぜ。」と云ひ止んで、空徳利を傾けて茶碗へつがんとし、「ヘん、何の事アねえ、のの字を書いたツて初まらねえ奴よ。」と、又もや徳利を投出しぬ。
「無えんだねえ。なけりや今買つて来るよ。済まねえけれど、産婆が来る迄だ、鳥渡待つて呉んねえよ。お前の云ふ通り、お都賀を娶つたなア、自分が悪かつたから勘忍して呉んねえ。今更追出されるもんでもねえし、其に孩兒が出来ちやア、もう詮方がねえよ。お前が年老で、四肢は漸々きかなくなるし、其世話をさせてえと思つたから、お都賀を娶んだ様なものの、如何した訳だか、お前の気にや入らねえし、自分ア実に後悔してるんだ。だがね家爺、お前だッて孫だ。自分だッて自分の孩兒の面初めて見るんだから、今日は先づ目出度えんだ。子よりも孫は可愛いとさへ云ふ位だから、お前も耐忍して機嫌を直して呉んねえよ。今日一日孩兒が出産しやアがるまで、後生だから機嫌を直して温和く飲酒で居て呉んねえ。産婆が来せいすりや、自分が大阪屋へ行つて、お前の飲みてえだけ、一升だツて二升だツて買つて来ようよ。後生だ、孩兒が出産すまで、家爺、耐忍して居て呉んねえ。」
「箆棒めッ、世間の奴等ア知らねえが、おらア孫の面なんざア見たくもねえんだ。お都賀の腹から出やがるんぢや、どうせ人間並の面アして居めえよ。手前産婆なんざ呼ばねえで、香具師でも呼んで来やアがりや能いんだ。其方が余程儲けづくだぜ。」
屏風の内には忍びかねてや、吁鳴る声のいと苦しげなり。
與太郎は屏風の方を見返り、また父の方へ対ひて、「まア能いやね。どうせ碌な孩兒や出来めえよ。種々事を聞いちやア血が上るめえとも……。」と、静かに立ちて屏風に立寄る。
吉五郎は見送りて冷笑ひ、「へん、嚊となりや彼様阿魔でも、憎くもねえさうだ。はゝはゝゝゝ。酉の市の売残りなら強勢だが、蟾蜍の隻目と来ちやア、昔なら兩国だが、今ぢやア奥山もんだ。生れた其子が蛇男、親の因果が子に報う、やア評判ぢや評判ぢや」と、空徳利もて板の間を打ち敲く。
女房の手前気の毒さは云ふにも足らず、萬一血の上る事ありもせばと、與太郎は毟りたき程切なき胸を、斯かる父を有ちし身の不勝と押鎮めても、流石に涙ぐみたる眼に、屏風の中をさし覗けば、お都賀は枕に顔を押当て、岳父の悪口に裂けなんず胸の苦しさに、時を限つて催し来る陣痛を、声立てまじと身を悶えて忍べる體。與太郎は見るに眼を閉ぢ、枕頭に坐りし膝は戦きたり。
お都賀の肩に手を掛けたる與太郎、「お都賀。」「え。」と、お都賀は顔も得あげで、僅かに漏らす返事だに、忍音にして涙をもちたり。
「辛棒して呉んねえ、よう。今なァ、産婆も今来るから、霎時の間の辛棒だ。耐忍してなア、自分が知つてらア、手前が心配することアねえんだ。能いか。恨むない。恨んで呉れるな、よう。お願ひだ。」と、耳に口を寄せつつ云へば、「あー、なアに、私や恨む人を恨む事はねえよ、自分を恨むばかりなんだよ。だがね與太さん、私や実に因果なんだね。考へると……。」と云ひかけて、扒り手に夫の手を確と握り、身を顫はしつつ泣く。
二
お都賀は俗に厄年と云ふ十九。細面にして下品ならぬ面貌も、名から松皮と称ばるる黒痘痕、眼さへ左には星入りたり、鼻も口も尋常ながら、眉毛は赤土の土手に、枯木の扶疎なるも斯くや。髪はいぼじり巻の鬢も髱も、火の点くばかり脂なく乱れぬ。苦痛に神労れ気衰ヘ、結びし唇頭打顫ひ、夫を見上げし眼は、白眼に血さへ走りたり。
面は人の花、眼はまた面の花なるべし。色の白きにも七難は包すと云ふに、面の色は黒きが上に赭味を帯ち、薄痘さへ可厭なるを、目に釘する松皮痘痕、吉五郎が口癖として、隻目の蟾蜍と罵れるも、憎きが上の悪口のみにはあらざりけり。
なべての上に美しきを愛づるは、自然なる人情、況して百年偕老の妻を選まんに、美人癡漢と眠れるが多き世に、如何なれば一つならず二つまで、花の色香なきをば摘りたりし、與太郎が意中こそ不審しけれ。
與太郎と吉五郎とは、血を分ちし親子にはあらざりけり。吉五郎が女房われに子なきを悲しみ、世話する者あるに任せ、親知らずの約束して、腹も痛めず我子となせしは、與太郎が二歳の秋の暮なりきと云ふ。
雛人形はおろか、狆猫さへ生けし子の心になりて愛づること、石女には多き例なれば、況して神かけ欲しかりし兒の、われを親とし馴染むに、他家の親には笑はるるまで、限りもなう鍾愛がりし與太郎が養母は、今より十年以前、春三月雪降りし年の、其月の上旬より余寒に中てられ、幸なく余病さへ起りて、半月とは臥しもせで、散るを櫻花の盛りなる頃脆くも世を捨てたりき。斯かりしより後、與太郎は吉五郎が手に成人りて、軈てぞ小腕ながら父には勝り、朝夕に追はれざる迄にはなりけるなり。似た者夫婦のみにはあらざりけり。吉五郎は其妻に異りて、與太郎を子とし愛せるならねば、女房世を去りし後は、職業思はしからずとて、我のみ酒臭き息を吐きても、與太郎へは朝夕を缺かしめし事も多かりき。斯くしつつも尚ほ與太郎を養ひ、螟蛉なる由をも知らしめざりしは、思ひの外小腕の利きて、あはれ一人前の大工となりなん見込あれば、これに依りて老後を安くせんと思ひたればなりけり。養母が與太郎の螟蛉なる由を、彼のみにはあらず、世間へも深く包みし上、度々住居を転へたれば、與太郎は其を知らん機会なかりき。父の辛きにつけては、飢に眠られざる夜半の枕に、亡母愛懐の涙は注げど、さて父を恨まん心はなく、命とし好きなる酒なるを、何程飲まれたればとて、何程の事かあるべき、稼ぐに追付く貧乏なしとさへ云ふものを、老後を樂しくさせてこそ、養育の恩の萬分一をも報ずるなれと、日毎の賃金は我手へ留めずして、悉く父に呈し、尚ほ酒料の不足ることを憂ヘ、おのれは粗衣粗食を分とし、花街は云ふも愚、つい鼻の前なる郡代の矢場さへ覗きしことなかりき。されば、仲間の若者等には、交際を知らざる唐偏朴、さては愚頭與太と綽号せられて、列外にされたれども、我は我なり、人並に外るればとて何かあるべきと、其を口惜しと思ふ気色だにあらざりき。
されども、節を知らず飽くことを知らず、量なき酒料ばかりかは、吉五郎が贅沢三昧に、與太郎一箇の腕に油を絞ればとて、いかでか支ふることを得べき。稼いでも稼いでも、朝夕の出入に不足を責められ、たまたま病気或は職業なきため家に在れば、其日の料にも追はるる不始末。酒なければ瞬時もあり難き、父が不機嫌を見るが可厭さに、四苦八苦の算段も尽きがてなり。加之朝夕の炊事も其手にすなれば、四六時中心も骨も折れ果てんとし、怠るとにはあらねど、自然と職業に身の入らざる日さへあり。職業に身を入れねば、得意場の思惑悪く、うけ悪ければ賃銭も尠く、結局は父の不機嫌を見るこそ辛けれ。世をも人をも無情く覚えて、今は根気も尽果てたるを棟梁の某見かねて、其が内幕を聞きもし協議をも遂げたる末、是を救はんには、女房を娶つの外あるまじと勧めけるを、肉身分けし親子差向にてさヘ、円滑は行き難き中ヘ、他人が入りてはと、與太郎最初の中は謝絶りたれども、女房は家を治むる道具、此なくては如何でか家治まるべき、家治まらずば、いかでか世に立つことを得ベき、殊に父御の介抱を委み置かば、後やすく心も長閑に、職業にも充分身を入れらるべし。さすれば、自然と生活も楽になりて、父御への孝養も出来る道理にはあらずやと、真心ある勧めに承伏し、似合しき縁もあらばと頼み置き、喜ばせんものをと、父へ其由を告げけるに、吉五郎は心中面白からず、嫁とは云へど心置かれて従来の我儘はなるまじ、云はば敵を二人にするも同じこと、今でさへ酒料の不足勝なるに、人一箇殖えるだけ影響を食うて溜るものかと、兎角に難じて應と云はねば、與太郎は板挟みになりて困じ果て、父不承知なるを如何にせん、押して娶らば却つて風波の起る種ぞと、棟梁には謝絶りけるに、其様没分暁漢の親があるものぞ、乃公に任せよと、吉五郎に会ひて理害を諭しけるに、道理には横紙も破れず、渋面つくりながらも承伏しければ、相談は早く嫁を迎ふるばかりに進みたりき。
斯くて、棟梁が媒酌に迎へしは、何処へ出しても羞しからぬ容女、色白にて眼に権をもち、口尻あがり小股しまりて、半天を引掛け吾妻下駄を突掛けし姿は、與太には惜しきと仲間に評判され、羨まるる迄夫婦間は睦まじかりしに、何とかしけん廿三日目に逃帰りて、彼方より無理離縁を乞りぬ。次に迎へしは、むツちりした丸顔、眼の下に黒子ありて愛嬌ぽたぽたと落ちなん風情、年も十七咲出でし花に比べたりしに、或夜泣明せし次の日、吉五郎が洗湯へ行きし留守の間に見えずなりぬ。六人目迄は三十日とは辛棒せず、何れも逃帰りたれば、後には、何か有るまじき評判さへ立ちて、媒酌せんと云ふ者さへあらずなりき。七人目に来りしは、今の女房お都賀なりける。
與太郎は六人の女房に懲り果て、此上は一生独身にて暮すの外なし、父を見送りし上ならば、また御相談をも願ひませうが、先づ其まではと、たまたま、世話せんと云ふ者あるをも謝絶りたりき。さるに、不思議なるは父の吉五郎、前に嫁を迎ふるは不承知なりしに似ず、頻りに與太郎を促し、一日も早く七人目を迎へよと云ふ。萬事に父の命を背かざる與太郎なれども、懲りる仔細ありて懲りたりし今日、容易くは承引かざりしに、餘りに迫らるる事の切なるより、又同じ事を繰返すも可厭なれど、詮方なきまま無益と思ひながらも、七人目を迎ふることとはなしけり。
生来の不具ならねば、容姿には望みなし、気立素直にして実意深く、難物の岳父の機嫌を損ねざらん女をとの希望。親ある身には道理ある希望なれども、何かが隠れなき評判となりたれば、與太さん一人の処ならば、望んでも遣りたきものなれども、あの岳父殿がと、後を見するもののみなりしに、去る人の世話にてお都賀と見合せし時は、いかに容姿に望みなしとは云ひながら、與太郎は此はと二の足を踏みたりしが、女らしき女には既や懲り果てたり、此女ならば去る事もあるまじ、花ありても実なくば何かせん、外見は瓦礫なりとも、内に金玉を包みたらんこそ、家に取りての宝なるべけれと、即座にお都賀を娶るべしと約したりき。斯くと聞きたる吉五郎、喜ぶかと思へば不承知を唱へて、一つには家の飾りともなるべき女房、醉興にも程こそあれと難ずるを、一旦約せしを犬猫同様、掌かへす違約もなるまじ、兎角に私が望みなればとて、終にお都賀を娶りたりき。前々の六人の嫁には異りて、お都賀が輿入の其夜より、吉五郎莞爾ともせざれば、岳父は辛き者とは聞きたれども、此ほど迄とは思ひ掛けざりき。とは云ヘ、兩親には幼時死別れ、頼みにすべき兄弟もなければ、親戚とても構つて呉れざる、生来ならねど不具に等しく、色も香もなき此身を、縁ものとは云ひながら、女房に為つて呉れたる夫の志こそ忝なけれ、岳父の何程も辛くば辛かれ、見事に辛棒為遂げて、鬼を佛に為しなんこと、我心の持ち様一つなるべしと、お都賀は健気にも思ひ定めつ、留守勝なる夫、家にのみ在る岳父の何れへも、陰陽なく真心もて仕へけるにぞ、今度こそはと、與太郎が頼母しく思へるには引更ヘ、吉五郎は朝から酒びたしの我儘三昧、下女同様に追使へど、はいはいと柳のしなひには、野分もすさぶに張合なく、兎角して一月余りは過ぎたりき。
或日の夕暮なりき。與太郎は例の職業に出でて留守なりしが、何事の発れるにや、お都賀は俄然泣声立てつ、家外へ逃出しぬ。一軒隔きて隣家の老婆、其声を聞付けて馳来り、何事ぞと問へども、お都賀は仔細を云はで唯泣くのみ。家内をさし覗けば、吉五郎眼を怒らして突立ちたるが、家外まで追出でんとするにもあらず、老婆が来りしを見て、何とやらん手持無沙汰の気色見ゆ。
老婆は解けかかりしお都賀が帯を引締め遣りつ、「泣いてちやア見ツともねえよ。まア如何したてえんだね。お都賀さん、私に理由を話しなさるが能い。吉さん、お前さんも、様子は知らねえけれど、まア勘忍して遣つて呉んなせいよ。與太さんは留守し、まア静かに。……お都賀さん、如何したてえんだよ。」と、雙方を押和め、様子を聞糺さんとすれども、お都賀は尚ほ泣入りて言葉はなし。
「お媼さん、放棄ツといて呉んねえ。太い阿魔だ。其様面アしてやアがつて、生意気を吐すない。與太が帰宅つたら、何だとか吐しやアがつたな。うす野呂の與太兵衛を誤魔化しやアがつて、能い加減な作言を吐きやアがると承知しねえぞ。何だッ、其面ア。隻目の蟾蜍よろしくてえ面ア為やアがつて生意気な事吐すない。作言つきやアがると、生かしちや置かねえから、さう思つてやアがれ。お媼さん、放棄ツといて呉んねえ。此様強情な……太い阿魔ツちやねえ。與太に何とでも云つて見ろい。作言をつくなら吐いて見ろい。」
いざと云はば、打ちも掛りなん吉五郎が見脈に、老婆は仔細は知らねど、また例の一件ではあるまいか、まさか今度のに其様事はと、尚ほ疑ひを存しつつお都賀を問詰むれど、泣入りて仔細を語らず、僅かに口を開きて、「何様面ア為て居たツて、心まで……。」と、云掛くれば、吉五郎が噛付く如き怒声に、云はんとしては云ひかぬる風情なり。老婆は愈よ其と覚れど、知らず顔に吉五郎を和めつ、お都賀を慰めつ、兎角しける処ヘ、與太郎帰宅りたりき。
老婆は與太郎に対ひ、おのれが見し様子を語りて、仔細は知らねど、お都賀どの悪きものなれば、悪き様に詫の為様はお前の心に在るべし、憖ひに他人が入つたなら、そこには蓋も入る道理、親子夫婦三人水入らずの和合をと、好機会にして帰り去りぬ。
與太郎は詫をするにも、謝せしむるにも、さし当つて迷惑したれど、何がなしに酒の事と、泣居るお都賀を叱りて酒屋へと走らせ、何事も酒に免じてと、膳を賑はす下物も二三品、飲らぬ口ながら其身も唇を濡し、仔細は不言不語、一場の段落はつきたりき。
此よりの後、お都賀は岳父の顔を見れば、浅猿しやと思ふ心の動きて、包むとすれど色に出づれば、吉五郎は口続けに隻目の蟾蜍と罵りつ、酒に怒を漏らして夫婦に当れば、與太郎が眉間の顰み、お都賀が眼の赧からざる日とてはなかりき。
斯かる中にお都賀は妊娠りたりしが、他家にては打祝ふべきを、吉五郎と云ふものあればこそ、因果を宿せしかの如く打歎く、夫婦の意中こそ哀れなれ。
三
僥倖にして血も上らず、胎兒にも恙なく、お都賀は夫の優しき心を塩釜の守札とも縋りて、産婆来りし後は思ひの外に産も易く、身二つになりし嬉しさ何物にか比ふべき。
産声にも力あり、男兒なりと聞くに、與太郎が喜ぶ顔を見るより、産婆も手柄顔に吉五郎が傍へさし付け、「御覧なさいまし。御器量好しで入ツしやいます。丸々とお肥りなすつて、此お可愛いこと。まア笑ひさうな顔をなさつて。」と、笑を含みつ、「さアお爺ちやんですよ。」と、愛想を花に孩兒を見せけるに、此時までも徳利を放さざりし吉五郎、振向きだにせざれば、産婆は継ぐべき言葉を失ひて呆れたり。
與太郎は斯くと見て、産婆が思はん所も気の毒さに、「家爺、鳥渡見て遣つて呉んねえ。折角産婆さんが連れてッて呉れたんだよ。可愛くもあるめえけれど、ねえ家爺。」と、促されたる吉五郎、「何だ見て呉んねえだ。何を見るんでい。」と、漸くにして朦朧たる醉眼を此方へ向けたり。
「何だ、孩兒か。見ろてえな、此か。はゝはゝ、不思議だなア。此でも人間並の面アしてやアがるから、変梃来だなア。生れねえでも好いんだに……。痘痕面もしねえで、眼も雙方ある処がまア儲けもんだ。何だッて。可愛かろだア。産婆さん、串戯云ひツこなしだぜ。自分は此奴の方が、余程可愛いや。なア、手前とが一番気が合つてらア。何時見ても憎くねえな、手前ばかりだ。さア、もう一杯可愛がつて遣るべい。」
吉五郎が言葉の終れる途端に、屏風の中なるお都賀、はアと声立てつつ泣く。産婆は驚き呆れながら萬一の事ありてはと、與太郎へ眼顔の指図に、與太郎はお都賀が手を屹と握りしめ、耳に口を寄せて、「今始まつた事ちやアねえや。耐忍して。能いか。気を落付けてなア。何と云つたッて能いや。今手前が如何か為つて見ろ、おいらが困るばかりぢやアねえや、何にも知らねえ孩兒が、第一可哀想だ。耐忍して呉んねえ。能いか。さア気を落付けねえ。な、な、な! 能いか。」と、吉五郎へ聞えざる程に慰め励ますなり。
お都賀は夫の心配するが気の毒さに漸う涙を拭ひつ、袖より僅かに顔を脱し、與太郎を見て言葉なく首肯きしが、見まじとすれど見ゆる屏風越の岳父の顔の、悪鬼羅刹よりも尚ほ怖ろしさと、当座の口惜しさと、行末の覚束なさとに、忍べども降りかかる身を知る雨に、又もや袖を蔽ひて泣く。
斯くて其日は暮れぬ。次の日より與太郎は職業を廃みて、お都賀が傍に付添ひ介抱なす。産婆への礼物を始め種々の費用、準備より二倍の上となりたるに、職業を廃める事とて、吉五郎が酒料を云ふ儘に應ぜざればとて、不足のたらたらを、朝まだきより怒鳴り立つるに、與太郎が困じ果つるよりも、傍に聴く身のお都賀の辛さ。夫の志の難有きに付けても、少しも早く床を上げてと、心急ぎのみせらるれど、重病の後に等しき疲労に起きんとはもがけど、眼くらみ頭ふらつき、思ふ儘になり難きこそ術なけれ。
遠慮会釈もなき父に追使はれ、酒屋其外への走り使ひ、孩兒を懐にしての炊事、男の身にはなるまじき事を、いやな顔一つ見せず、朝から晩まで煙草吸む間もなき與太郎が骨折心配に、お都賀は耐へ兼ね、剽輕してはと止めらるるを、最早何の事もなければと起出で、足元の危うきを見せじと踏みしめ踏みしめ、まだ鉢巻は得脱らで台所に立働くを、岳父が例の悪口は例の癖と耳にも止めず、其日より夫を勧めて、職業へと出し遣りぬ。後髪ひかるる心安からで、與太郎は一軒隔きし隣家の老婆に留守の間を注意けてと、萬事を頼み置きて、漸く職業に出づることとなしけり。
一日も気の晴々すると云ふ事はなけれど、孩兒の命名日も昨日と過ぎ、昨夜からは與吉々々と、日に夜に可愛さの勝りて、宮参をも身分相応に済ましぬ。此頃は既やそろそろ笑ひ掛くるに、食初の百日も明日となれば、贅沢らしうはあれども朱の膳と朱の椀、真似ごとに等しき形ばかりの品ならば、高価きことはあるまじ、今日の帰宅掛けに、お前さんの見繕ひにて、調へて下されと女房の頼みに與太郎も首肯きて出行きたれば、お都賀は心嬉しく、夫の帰宅を午前より待受けたりき。
秋の日の暮れ易くて、隣家の質商の土蔵に日影なくなりければ、お都賀は門に立ちて、夫の帰宅を今やと待ちける後に、大欠伸しつつ午睡より目ざめし吉五郎、「げーい。あッあー、あー厭な気持だ。何だ、もう暮れるのか。暮れようが暮れめえが、夜が明けようが明けめえが、其様事にやア用はねえ。やい、お都賀。居ねえのか。何だ、其様所へ茫然突立つてやアがッて、如何したてえんだ。さア早く燗を為ねえか。いや、燗する前に、大阪屋へ行つて来るんだ。愚頭愚頭しねえで、早くしろい。」と、叱するが如きは岳父の例の調子。
「おや、お起きなすつたの。今行つて来ますよ。」と、お都賀は内に入りて、財布を出して中を探れば、さても不思議、今朝まで正かに在りたる銀銅合せて二十何銭、何時の間に何人が出せしか、数を尽して失せたるに胆を破し、驚き呆れて言葉も出でず。
吉五郎はぎよろりと見つ、「如何したてえんだ。何だ、其様面ア為やがッて。無えのか。酒買ふ銭が無えのか。」
「無い筈はないんだけれど……。」
「無えんだけれど、如何したてえんだ。」
「どうも不思議だ事。如何したてえんだろ。まア。」
「不思議だ。何が不思議なんでい。財布へ入れてえたのが、無えてんだな。」
「えー、正かに、私が入れといたのに……。」と、お都賀は首を一趣げたり。
吉五郎はお都賀を睨みし眼を光らし、「なにを吐しやがるんでい。乃公が窃取したてえのか。」
「あれ、お家爺さん。さうぢやアありませんよ。」
「さうぢやねえ。さうでなきや、如何したてえんだ。やい、お都賀。考へて見ろい。能いか。此家に居るものア、手前と乃公と其孩兒と三人だ。能いか。其孩兒がよもや……手前の腹から出やアがつたんだが、手も足も動けねえで、眞逆窃盗は為めえよ。能いか。して見りやア手前誰が盗んだてえんだ。ふざけた言吐しやがると、承知しねえぞ。」
「あれ、まあ、お家爺さん、何ですねえ。其様事が……。何人が其様事を思ふもんですかね。」
「思はれて溜るかい。阿多福め。やい、隻目。手前能くも其様事を吐しやアがつたな。其様事を吐すからにや、手前手證を見たてえんだな。面白えや。さア何処へでも引張つてけ。警察へでも、何処へでも突出して見ろい。」
お都賀は今は泣声になり、「まア如何したら能いだらうねえ。お家爺さん、気に触つたら勘忍して下さいよ、何も其様事を思つて云つたんぢやないんですから。本統に飛んでもない。何様にでも謝罪りますから。」と、吉五郎が前へ手を支き、詫言しつつ涙はらはらと落しぬ。
「ぢやア何だな。手前が譌言を吐きやアがつて、其を乃公の所為にする積りだつたんだな。」
「あれ、其様……。如何してお家爺さんに……。其様可怖しい事を…。」
「いや、さうだ。其に違えねえ。うぬッ、如何するか見やアがれ。」
吉五郎あはや立掛らんとするに、お都賀は與吉に怪我あらせてはと、「お家爺さん、勘忍して下さい。」と、叫びつつ與吉を抱へて、水口より家外へ逃出しけるに、折能くも與太郎帰り来りければ、お都賀は嬉しく、「お前さん。」と、ひしと夫に縋りて、遂に声を立てて泣出したり。
與太郎は驚きながらも、また例の一件かと、故らに落付きて、其仔細を問ねんともせず、目まぜにお都賀を制し、静かに家内に入り、股引足袋の塵埃を手拭もて払ひなどして、さて父吉五郎へ会釈しぬ。吉五郎は與太郎が落付過ぎたるに、一入怒気を加ヘ、「與太ツ、隻目を追出しちまヘ。彼様阿魔を宅に置くことアならねえぞ。」
「えッ。」と、與太郎は父の顔を仰ぎて、「追出しちまヘッて。何だか知らねえが、家爺勘忍して遣つて呉んねえ。お都賀、手前早く来て謝罪つちまヘ。不可ねえぢやアねえか。此から気を付けろい。」
「謝罪つたッて承知出来ねえんだ。親に向やアがつて、窃盗呼ばはり為やがつたんだ。」
「何だッて。家爺を窃盗だツて。お都賀、手前何を云つたんだ。家爺を窃盗なんて。他の事たア一処にされねえ。如何したんだ。如何した訳なんだ。さア其訳を話して見ろ。次第に依つちやア、おいらも承知出来ねえぞ、さア早く云はねえか。」
夫にまで誤解へられて何となるべき、とお都賀は先刻の始終を述べ了り、「いくら私が気が利かないからと云つて、お家爺さんを窃盗だなんて如何して其様事を云やアしません。其様可怖しい……。」と、云掛けて又もや泣声になり、末は確と聞取難し。
「はゝはゝゝ。」と、與太郎は笑ひ出し、「こりやア大失敗だ。家爺、勘忍して呉んねえ。お都賀、手前が悪いんでもねえんだ。おいらの大失敗なんだ。今朝手前が與吉が食初の祝の、膳と椀と欲しいてえから、今日帰路に買つて来て遣りてえと思つたんだが、懐合が悪いから、手前の財布をはたいて行つたんだ。云つて置かうと思つたんだがつい忘れツちまつて……。」と、頭を掻きつつ父に対ひ、「さう云ふ次第なんだから、家爺勘忍して遣つて呉んねえ。おいらが大失敗だ。」
夫の言葉に胸撫下せしお都賀が眼前へ、與太郎は買来りし註文の品々を列べたり。
お都賀は膳と椀を手に取上げ、「お前さんが持つてくなら持つてくと、さう云つて置いてお呉れだと、此様事にやならないのに。其を聞いて、実に安心したよ。」と、云ひつつ手にせし物を熟視て、嬉しさは色に見えて莞爾し、「好い事ね、可愛らしくツて。」と、ひねくり既や余念なげなり。
「塗が好いから、思つたよりか散財つて来た。財布の底を払いちまつて、これ此通りだ。」與太郎財布を払き見すれば、お都賀は心に驚き、ぢツと夫の顔を見る。與太郎も其と気付きて、失敗りたりと思へば、自然と眉間も曇るめり。
様子を見居たる吉五郎、「與太、そりや何でい、鳥渡見せな。何だ、孩兒の祝の膳椀だと。馬鹿野郎め、何の真似為やがるんでい。大事の親の口を乾しやアがつて、其様真似為て見てえんだな。えーツ。」と、罵るかと見る間に、足を上げてお都賀が方へ蹴付けたり。
あなやとばかりお都賀身を避せば、膳は飛んで柱に当りて縁離れ、椀は不運にも與吉が頭をはたと打つ。わツとばかり泣出せば、余りの事に與太郎も、「家爺、お前も余り……。」と、云掛けしが思返し、さし垂頭きて眼を閉れば、お都賀は我も共音に泣きつ、「ええ、たがよたがよ。」と、與吉が頭を撫でつ擦りつ。
四
「如何だの、お都賀さん。今日は些たア快いかの。」
水を汲みにとて、井戸端に来りし隣家の老婆、溝を前にして小兒の襁褓を洗浄め居るお都賀に声掛け、背に負ひたる與吉が顔をさし覗き、「睡眠だね。あれ笑ふよ、夢を見てるさうな。ほゝほ。まア何てい可愛い顔だらう。あれ、また笑ふよ。吉さんにや可愛くねえのかの。可哀さうに、酷い事を。まだ熱は解れねえかい。飛んでもねえお祖父さんだなう。」
「あ−、まだ解めねえで困るのさ。」と、お都賀は老婆の顔を仰ぎ見、「詮方がねえやね、長いものにや巻かれろてえから。だがね、此兒も可哀想だよ。罪もねえ、何にも知らねえものを……寧そ死んぢまつた方が、此兒の幸_かも知れねえよ。ねえ、をばさん。」と、さし垂頭きて眼には涙見ゆ。
「戯言お云ひでないよ。お前が其様ぢや為様がねえよ。なにお前、何時まで生きてられるもんでねえやね。其中にや楽にならアね。短気を出さねえで、辛棒してお居でよ。御覧な、また笑つてるよ、孩兒は本統に仏様だなう。與太さんも辛い事たらう。お待ちよ、私が汲んで遣るから、早く溢けてお仕舞ひよ。さア能いかい。」
「はい、難有うよ。はばかり様。本統だよ、與太さんが可哀想さ。自分の亭主を称めるんぢやねえけれど、彼様好人物は滅多にありやしねえよ。本統に可哀想だよ。ねえお婆さん。大概の人なら、いくら親だッて、如彼に為せちやア置かねえやね。自分勝手を云ふんぢやねえけれど、お家爺さんが居なかツたら、與太さんも何程楽だか知れやア為ねえよ。與吉坊だツて、此様酷い……。」
「本統にさ。だがね、憎まれ者何とかとやらでね、自由にやならねえもんさ。もう長い事もあるめえよ。」
「勿體ねえけれど、余り辛い時や、其様感情も出るのさ、與太さんを楽にしてえと思ふとね。」
お都賀は洗ひし襁褓を綟らんと腰を伸し、露路より見ゆる本街の往来ざわつけるを見て、「お婆さん、何かあるのかねえ。往来が大層賑かぢやアないかね。」
「うー、彼かい。彼やお前葬送があるんさ。」
「何家から出るんだらう。何人が死んだんだらうねえ。」
「私も今聞いたんだがね、それ此先の呉服屋の甲州屋さんね。彼家の旦那が一昨日の朝死んでたんだツて。其をお前、同室え寝てえたお_さんが、些とも知らなかつたてえんで、世間ぢや種々な事を云つてるんさ。可哀想に彼のお_さんが、彼様可愛らしい顔をしてえて、眞逆に其様……。情人があるの何のツて、世間ぢやア云つてるんだが、眞逆其様事アありや為めえよ。」
「おや、まア。眞逆ねえ。其に何だてえぢやないかね。今ぢや厳重しくツて、薬種屋だツてお上の規則があるてえから。」
「そりやアさうだがね。さうばかりも云へねえやね。『亭主投げるにや、何の手が好かろ、青い蜥蜴に蝿虎まぜて』ツて、唄にせえあらアね。」
「おや、其様唄が。」
「お前なんざア知るめえよ。私の娘の時代に流行つた唄なんだよ。『青い蜥蜴に蝿虎まぜて』、その後ア何とか云つたツけ。中々流行つたもんさ。」
「青い蜥蜴に蝿虎まぜてツて。可怖い唄だ。あゝ、慄然とする。」
折から甲州屋の葬送露路前を通ると聞くより、老婆は其を見物せんとて、溝板に下駄踏み返しつつ走り行く。お都賀は小唄を聞きてより、身柱寒き心地し、顔色さへ変りて、葬送を見んともぜず、少時は茫然として立ちたりしが、吉五郎に呼ばれて、急ぎ我家に入りたり
* * *
四五日過ぎての午後、お都賀は井戸端に、我が夫幼兒の衣服を洗濯しけるに例の老婆も濯物せんとて出来り、何時も話種は盡きぬものにや、世間話に余念なし。
「お婆さん、何の事もありやア為ねえよ。唄なんか虚譌なんだね。」
お都賀は斯く云ひて何気なき體。老婆は聞くより吃驚し、覚えずお都賀の顔を見詰めたり。
「唄なんか虚だツて。お都賀さん、お前……。」と、丸くせし眼に前後を見廻し、小声になりて、「お前、試しでも為たのかい。」
「なアに。ほゝほゝゝゝ。お婆さん戯言云つちやア不可だよ。」とは云へども面色かはり、無理笑の声淋しげなり。
「其なら能いけれども、私や吃驚しッちまつたよ。」
「なアにね、唄なんかに在ることア、大概虚だから、青蜥蜴なんか何にもなりや為めえともつて。云はねえでも好いことを。ほゝほゝほゝ。」
「そりやさうさ、其様事があつちやア溜らねえよ。お前の所の吉さんなんざ、何を食はしたツて効くめえよ。青蜥蜴で無効きやア、黒蜥蜴でも食はして遣るさ。はゝはゝゝゝ。」
「お婆さん。其様事を。あゝ、可怖いこツた。」
「さうさね。串戯にも此様事は。おや、もう暮れるよ。」
「私ももう止さうよ。お婆さん、また明日。」
「あー。與吉坊又熟睡だね、ぢやアお去らば。與太さんが帰つたら遊びにお出でよ。」
「えー、難有う。」
* * *
或夜の事、與太郎は仲間の集会に夜を深かし、帰宅せしは十二時余程過ぎし頃なりき。
戸外より声を掛くれども答なく、戸をたたけども返辞なし。詮方なさに戸をこぢ明けて内に入れば、燈火消えたり。不審為ながら尚ほお都賀を呼びけるに、鼾声だに聞ゆることなし。加之可厭な臭の胸を突くばかりなれば、心驚きせられて、火鉢を探り当てて燧木取出し、火を擦るより打驚きて、覚えず尻居に倒れたり。父吉五郎耳口より血を吐き、拳を握りて死し居たるに、與太郎はあッと一声、吃驚に打たれて何事としも弁へず。お都賀も見えねば、與吉も見えず、如何にせしやらんと、此にも思ひ惑へる折しも、隣家の老婆入り来り、懐には與吉を懐きたるに、與太郎は一層疑ひ起りつつ、様子や知りたると問へば、老婆も吉五郎が様に胆を潰して、少時は息をもつかざりき。
老婆も様子は知らねど、今より一時間ばかり前にお都賀来りて、買物に行きて帰り来る中、與吉を預りてと云ふに、今宵に限らず幾度も先例あり、何の仔細もあるまじと預りたりしが、今しも與太さんの声聞えしより、與吉を返さんとて来り見れば、此有様に胆を潰せしなりと云ふ。
與太郎は早くも手洋燈を点し、四辺見廻せば、今しも我が引出せし火鉢の抽匣にや挟まれたりし、手紙らしきものの落ちてあり。手早く取上げ見れば、お都賀より與太郎へ残したる遺書なりき。與太郎は此にも胆を破し、遺書を見詰め、読めども其意を解り得ず、持ちし手の戦慄はるるのみ。
……自分ながら自分の気が明りませぬ、何を為たのか、唯夢の様な気が致し候、怖くて居ても立つても居られませぬ、死にに参り申候、私は気が違つたのだから、気違ひだと思つて、何卒勘忍して下さいよ、お前さまを楽にしたい、他に願ふ事は何にもないのです、私を打ちたいでせう、殺したいでせう、私も殺されたいのが願に候、お前様のお帰りを待ち候へども、待つて居る中も怖くツて、家内に居る事が出来ず候、坊はお隣の媼さんに預け置き候、可哀想なのは坊に候、坊に別れるのは悲しいけれど、生きては居られない私は悪人、人を、家爺を、勘忍し下され度候、悪人の子だけれどもお前さんの子だから、可愛がつて下され度候、私は死にに行きます、達者で居て下さい、坊も達者で居て下さい、あー書きたい、種々な事が書きたい、もう書けませぬ、まだ忘れた事が澤山あり候、坊を頼み候、悪いけれども勘忍して下されたく、どうか察して下されたく、此ばかりが願ひに候、もう紙が……
紙尽きて筆も亦尽きたり。尽きざるは與太郎が遺憾と涙となり。傍より差覗く老婆も涙禁め敢ねば、懐中なる與吉も何に魘えてか、わツとばかりに泣出しぬ。
人を頼みて警察署へ訴ヘ、検視を受け手続きをも済し、其夜は父の屍を守り明し、心には掛りながら、お都賀が行方は探しかねたりき。
翌朝まだきに、警察署よりの召喚に出頭し見れば、濱町河岸の杭に流れ掛りし水死の女あり、人相其方が妻に似たればとの申渡しに、それはと駈付け見れば、面影も変らざるお都賀の死骸に、與太郎は人目も羞ぢず泣き倒れたり。
嫁と舅なれども敵同士を、同じ日にも為されまじと、二日引続いて二箇の棺桶に、施主は與太郎と與吉と一日づつ、知れると知らざると、見る者泣かざるはなかりき。
昼間は乳を貰ひにとて、夜間は泣く子をすかさんとて、或は人の門に立ち、或は子守歌うたひ歩く、物の哀れは與太郎が上にぞ止めたりける。
(明治二十八年五月)