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歴史小説の種本

  第一章 頻繁(ひんぱん)に典拠される種本

 

 歴史文学とは、歴史上の事件、人物を素材として構成される文学で、小説のほかに史劇、史伝などもふくまれるが、本書では主として、小説というジャンルに限り、それも明治時代以降に創作された近代歴史文学作品において、種本(たねほん)がいかに扱われているかについてふれてみたい。

『広辞苑』で種本の項目をひいてみると、種本とは、著作・書画または講義などのよりどころとする他人の著作とある。

 本書では狭義的に解釈すると、小説化する場合に、小説価値のある話材――時代の推移により、古くなった(あるいは死滅した)作品に新しい解釈を加えて、再生価値のあるもの――すべて、死書を生書に使うことを種本に()るということになる。

 したがって、種本とは種類を問わず、種々雑多なるものが、即ち、種本になりうるが、小説価値のある話材をもったものでなくては種本とはいいがたいかといえば、かならずしもそうではない。一文の値打もないような紙屑にひとしい雑本のうちからテーマをみつけ、それを_(パン)種として想像力でふくらませ、創作欲の燃焼にかけて、文学的鑑賞にたえる作品に結実せしめる作家もいれば、小説価値のある話材をもつ種本を使っても、創作力量の不足から文学的に昇華することができず、種本よりも低劣な作品しか生みだせない作家もいる。

 要は、種本を生かすも殺すも作家次第ということになる。

 種本は種々雑多であるとはいっても、およそ典拠の定まった種本が使われる場合も多い。たとえば、時代小説、ことに剣豪小説において、正剣邪剣をふるう登場人物の造型にかならず種本として使われるのは、国書刊行会叢書のうちの『武術叢書』(国書刊行会・大4)である。

 『武術叢書』に収録されている、主なものとしては、天道流の達人、日夏弥助繁高の著書『本朝武芸小伝』は、亨保元年(1716)版行の武芸一般にわたる列伝書で、この種の列伝書では最も古く、信拠すべき記述が多い。この書を基にして、それ以後、明和期までの剣客を追加し、原版は明和四年(1767)に版行、寛政二年(1790)改版の『日本中興武術系譜略』や、備前岡山藩土の源徳修が十数年間に見聞した全国各流の大要を記述した天保十四年(1843)版の『撃劒叢談』などのいわば、伝記集がある。

 理論書ないし実技指導書ともいうべき主なものとしては、沢庵が禅の立場から剣法と心法との接触を論じ、心剣一致を叙述し、剣の奥義を論じて、柳生宗矩に与えた『不動智』、寛永十八年(1641)に宮本武蔵が熊本藩主の細川忠利の命により奉った兵法覚書で、旧帝国図書館所蔵写本と宮本武蔵・遺蹟顕彰会本とにより校定された『兵法三十五箇条』、武蔵の晩年の兵法極意書で、武蔵の直弟子の古橋惣左衛門、寺尾求馬の相伝の二書を校定した『五輪書』などがある。

 『武術叢書』に収録された以外のもので、種本としてよく利用されるのは、横山健堂の『日本武道史』、宮本謙吾の『近世剣客伝』などがあるが、『大菩薩峠』の作者である中里介山の『日本武術神妙記』(大菩薩峠刊行会・昭8)と『続日本武術神妙記』(隣人之友杜・昭11)も多くの時代小説家によって種本として使われている。

 元来、日本人には伝統的に武術剣戟の趣味があるから、作家が剣戟場面の稚拙な描写をすると、それだけで、その作者は読者に軽蔑されてしまう傾向がある。しかも、剣戟場面の描写は、とかく常套的で型にはまったものになりやすいために、多くの時代小説作家は、彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)するのが常である。

 近代作家で剣戟描写に近代性を与えた第一人者は中里介山であるといっても過言でない。中里介山がいかに古今の武道神妙の研究に造詣が深く、それゆえに剣戟描写にすぐれていたかを示す好例は、『大菩薩峠』の「甲源一刀流の巻」にみることができる。剣客島田虎之助と土方歳三を隊長とする新徴組一隊との斬り合い場面がそれである。

 「エイ」

たがひの気合が沸き返る。人は繚乱として飛ぶ、火花は散る、刀は閃めく、飛び違ひ走せ違つて、また一際納まつた時、寄手の人の影はもう三つばかりに減つてゐます。島田虎之助はと見ればこれは前と変らず平青眼。

 地に斃された人の数はこの時既に十一を数へられて、そして残るところの新徴組は都合四人。この四人は皆名うての者です。

 机龍之助と共に高橋伊勢守らに当る手筈であつた岡田弥市といふのは小野派一刀流でその頃有数の剣客です。いま一人加藤主税といふは溝口派で有名な道場荒らし、江戸中に響いてゐた達者で剛力です。いざや島田を斃すは我一人と、井上真改の太刀を振り(かざ)して飛び込んで来たのを島田虎之助の志津三郎は軽くあしらつて発止と両刀の合ふところ、ここに鍔競合(つばぜりあひ)の形となりました。

 加藤主税は炎を吐くやうな呼吸と雷のやうな気合で、力に任せて鍔押しに押して来ると島田虎之助はゆるゆると左へ廻る。とにもかくにも、今までの斬合で島田と太刀を合せて鍔競合まで来たのは加藤一人です。それを見てゐた岡田弥市は何と思つたか太刀を振りかぶつて丁度島田虎之助の背後へ廻り、やつと拝み討。見てゐた高橋伊勢守がこの時はじめてひやりとしました。

 島田虎之助は前後に剛敵を受けてしまつたのです。前なる加藤主税が(えい)と一押し、鍔と鍔とが揉み砕けるかと見えたるところ

「エイ」

組んだる太刀の気合で外れたかと思へば雷火一閃。

「うむん――」

 井上真改の一刀は鍔元から折れて彼方に飛び、水もたまらず島田の一刀を肩先に受けて凄まじき絶叫をあとに残して雪に弊れる。それと間髪を容れず後から廻つた岡田弥市の拝み討。島田虎之助は加藤主税を斬つたる刀をそのまま身を沈めて斜横に後ろへ引いて(さつ)と払ふ、理窟も議論もない、人間を腹部から上下に分けた胴切りです。一太刀を以て前後の敵を一時に斬る、これを鬼神の働きと言はずして何んと言ふ、高橋伊勢守がこの時はもうすつかり島田の手腕に敬服してしまつて、これは剣ではない禅であると生涯、嘆称して()まなかつたとのこと。

 

 この書中の一息一刀、すべて剣の妙諦に通じてはじめて描写が可能であって、介山の武術観の深さが、そのままあらわれている。『大菩薩峠』を読むと、介山の博識に驚かされるが、その博識の秘密を解く鍵の一つの好例として、介山の作製した“ネタ袋”がある。

 介山は、常日頃、精力的に読破した多くの書物に武術逸話が記されていると、それらを特別に用意したスリップにメモをして整理する方法を長年にわたって続けていた。この多数のスリップによる資料索引を基にして『大菩薩峠』が執筆され、さらに、『日本武術神妙記』『続日本武術神妙記』が刊行されたのである。

 中里介山の影響を受け、その影響をさらに拡大再生産したのは、維新史研究家で、戸田流の正統を継ぐ流泉小史は、“剣豪”という言葉を普及させるのに功のあった人物で、その著書である『剣豪秘話』(平凡社・昭5)、『剣豪秘聞』(中西書房・昭5)は、剣豪ものを書く昭和期の作家によって、かならずといってよいほど、種本として使用された。

 『武術叢書』は信憑性もあり、有効であることは勿論ではあるが、なかには机上空論的なものを混入し、ずさんな書もあるから一応の注意が必要である。

『日本武道史』『近世剣客伝』『剣豪秘聞』などは、著者自身の研究によるところが多いのに対して、中里介山の『日本武術神妙記』『続日本武術神妙記』は、『武術叢書』『甲陽軍鑑』『武将感状記』などから集めた逸話を雑然と羅列したものだけに、矛盾に逢着する記述が散見されることも付言しておきたい。

 

  第二章 種本に記された数十行の文章に触発されて生まれた名作

 

 典拠される種本がほぼ一定している場合とはちがい、種々雑多な書物に記述された、わずか数十行の文章に触発されて、名作が生まれることがある。その好例を近代歴史文学作家の巨峰、森鷗外の『高瀬舟』『寒山拾得』と、大衆歴史文学の代表作家、吉川英治の『鳴門秘帖』にみることができる。

 『高瀬舟』の大筋は、高瀬川を下る舟中で、弟殺しの罪人である喜助が、護送の同心、羽田庄兵衛に語る身上話である。不治の病いにあった喜助の弟が、兄の迷惑をおもって自殺をはかり、仕損じて苦悶しているのを見かねて、手をそえて死なせしめたために、喜助は罪を問われるのだが、喜助は遠島送りに際し、二百文を貰い満足し、弟を楽に死なせたことに安堵している心境が描かれている。

 鷗外が『高瀬舟』の種本としたのは、池辺義象校訂の『翁草』所収の「流人の話」である。『翁草』の著者である神沢貞幹は、その二百巻に及ぶ編述を寛政三年(1791)に完成した。

 鷗外の種本ともいうべき『翁草』は、東京大学総合図書館の鷗外文庫に現存しており、書き込み、朱点の類はない。その体裁は和装活字本二十一冊、明治三十八年から翌年にかけて刊行された。

「流人の話」は原本巻百十七雑話の部にあり、活字本では第十二分冊の五十七頁から五十八頁にわたる数十行のものである。

 「流人の話」と『高瀬舟』の大筋はほぼ同一だが、「流人の話」の人物は、流人と守護同心とあるだけで、その人物の性格、心理描写もなく、ただ事実を綴る文字の羅列にすぎない。鷗外はこの歴史的事実の断片に、二つのテーマをもりこんで適切な人物を描出し、一篇の生命の創造化に成功している。

 その二つのテーマとは、遠島の際に喜助が、鳥目二百文を貰って有難がったという知足・経済観念と安楽死についてである。

 鷗外は「流人の話」を読んで、自己の生活体験において関心をもった事柄を歴史上の事件と人物に仮託して表現した。知足・経済観念に対する同心、羽田庄兵衛の反省は、作者鷗外その人のものであり、安楽死については、我児、茉莉が瀕死の病に遭遇したときの医学者鷗外の体験がもとになっている。

 『高瀬舟』は大正四年十二月五日に脱稿、五年一月「中央公論」に発表されたが、『高瀬舟』脱稿の二日後の十二月七日には『寒山拾得』を脱稿、五年一月「新小説」に発表した。『高瀬舟』にふれた場合には、『寒山拾得』についても多少ふれなければならないのは、後者が前者の直後に脱稿され、同年同月発表されていること、テーマにおける題材分析を試みるに相互補足的な作品であること、『寒山拾得』も『高瀬舟』と同じく、種本に綴られている数十行の文章に触発されて成立した作品だからである。

 『寒山拾得』の種本となったのは、延亨三年(1746)刊行の白隠禅師の『寒山詩闡提記聞』のうちに記されている文章である。この書は闡提記聞の序、詩集解題、詩集の序とその注釈、寒山詩とその注釈及び評唱、豊干禅師録及び拾得録の本文とその注釈並びに評唱、志南の三隠集記の順に成り立つ三冊本である。

 このうちで、鷗外が『寒山拾得』の創作に拠ったのは、詩集の序文と豊干禅師録及び拾得録の中の詩を除いた部分であって、わずか数十行の文章にすぎない。

 『寒山拾得』の概略は、唐の貞観の頃、閭丘胤(りょきういん)という高級官吏がいた。閭は国清寺の乞食坊主の豊干が口にふくんだ水を頭に吹きかけられて持病の頭痛が治った。この浄水の(まじない)の一件以来、尊大な閭も豊干に対して盲目の尊敬を抱き続ける。その折、国清寺には偉い人物ともいうべき拾得(実は普賢)と寒山(実は文殊)がいることを教えられた。

 国清寺に赴いた閭は、豊干が寺の米つき僧で、ある日、山から虎に()って帰り、詩を吟じていたので、生きた阿羅漢だといわれていたが、その後、行脚に出て帰らないことを知らされるとともに、拾得と寒山にも紹介された。

 拾得は台所で僧たちの食器を洗う仕事をし、寒山は食器洗いの拾得から残飯を貰って生きる者であった。閭は二人の前に進み出て、うやうやしく礼をとり名前を告げた。寒山と拾得は顔を見合わせ、腹の底から笑い声をあげて逃げ去ったが、その際に寒山が「豊干がしゃべったな」といった。

 鷗外はこの作品のなかで、己れの無知な道とか宗教に対する俗吏の盲目の尊敬の無意味さを嘲笑するとともに、身分、財産にかかわらず、偉い人間はいるものだということを暗示し、そこに鷗外自身の心境を託している。それは鷗外が全生涯を過ごした官僚、軍閥の世界に対する批判、諷刺であった。

 『寒山拾得』の種本である『寒山詩闡提記聞』の詩集の序文の話の大筋は、『寒山拾得』のそれとほぼ同じであるが、詩集の序文における諸人物、諸場面の記述は疎略であり、前後錯雑の感がある。

 鷗外は、このありふれた素材を整理したうえで、テーマを設定し、芸術的香気を加え、文学的に昇華せしめ、そのあざやかな創造性を発揮している。前述の如く、『高瀬舟』と『寒山拾得』の二編が同時期に構想されたことや、そのテーマの題材を考えると相互補足的であり、そこには共通項が見い出せる。

 流人の喜助と寺の食器洗いをする拾得や残飯を竹筒に貰って生活する寒山、いずれも最低生活者である。しかし、見方によっては、次元の高い境地に身を置く人間でもある。即ち、本物は俗人には容易に理解されないことを、『高瀬舟』と『寒山拾得』は、読む者に提示している。

 鷗外は『翁草』や『寒山詩闡提記聞』などの種本に記述されている、何んの変哲もない数十行の文章を生かして、“歴史其儘と歴史離れ”のテーマにおける“歴史離れ”した『高瀬舟』と『寒山拾得』を創作した。この両作品は、鷗外の歴史文学作品のなかでは、詩的創造力の飛翔において極北を成すもので、ありふれた、わずかな素材に拠って、香気横溢した文学作品を結実せしめた好例である。

 吉川英治の『鳴門秘帖』の場合には、江戸末期の奇才として西洋画の先覚者であった司馬江漢が、文化八年(1811)に著した『春波楼筆記』が種本である。同書にわずか百字ほどで記されている紀行文に触発されて創作された。『春波楼筆記』は文章は蕪雑(ぶざつ)ではあるが、その()うところは遠く時流の上に出て、傾聴に値する書である。その全文は『有朋堂文庫・名家随筆下巻』(有朋堂書店・大11)や『日本随筆大成巻一』(吉川弘文館・昭2)に翻刻されている。

 

  一 阿波侯の世子伊豆の熱海に湯治す。かへらん事を忘れて数日を経たり。其の頃吾も同じく此の湯に浴す。二十余日を()て帰る。時に阿波侯の行蹟、常に朝は夜の丑の時を以て起き、読書、弓馬、兵術を、世子をして学ばしむ。故に之が為に僅の日を熱海に(のが)る。

 

 江漢が泊った熱海の宿の近くに阿波侯の別荘があり、江漢が未明に起床して風呂に行くと、かならず読書竹刀の声がする。そこで宿の主人にたずねると、声の主は阿波二十五万石の蜂須賀重喜だというのだ。江漢がその名君行状に感服しているくだりが上記の文章である。

 吉川英治はこの重喜のくだりを読んで不審に思った。蜂須賀重喜といえば、『徳川太平記』『御実記』その他、幕府関係の書物では、暗君の典型とされ、若年より噪狂惨忍、国政を怠り、淫乱に終始した藩主とされており、江漢の紀行文にある名君行状とは違うからである。

 不審を抱いた吉川英治は、『蜂須賀家系譜』『寛政重修諸家譜』『蜂須賀家記』などにより重喜の素質を調べた結果、重喜が他藩からの養子であること、その妻が京都の公卿家から嫁いでおり、蜂須賀家が歴代にわたり大名から室を迎えず、公卿と(よしみ)を結んでいることなどが、幕府の喜ばない原因となっていることが判然とした。

 さらに、吉川英治は『藩祖録』をたどり、阿波の藩風、士風などを調べると、島原の乱前後の残党が多く阿波に隠れこんだ事実や、その後の密貿易のことから、財力、武力などが判明した。そこで、現地踏査によって、口碑の類まで調べ上げた結果、皇道主義の公卿が豊臣以来の反幕思想をもつ蜂須賀家と結んで、幕府はこれに隠密政策を採るという三角対峙のテーマを着想した。

 この事実が興味ある裏面史だと直感した吉川英治は、次の段階として、当時の世相、風俗の考証を行ない、架空人物と実在人物に呼吸を吹きこみ、様々の事件の起伏を構成した後、名作『鳴門秘帖』を起稿したのである。

 『鳴門秘帖』の概略は、宝暦年間、竹内式部を中心とした公卿たちが、朝権回復を企てて失敗、幕府より厳罰をうけるという宝暦事件が起る。この事件の背後では、徳島二十五万石城主の蜂須賀阿波守重喜が糸をひいているらしいとの詳報を得た幕府隠密が、その確証をつかむために阿波に潜入、活躍する。隠密の世阿弥や法月弦之丞の活躍が功を奏し、幕府転覆の陰謀が未然に防止され、蜂須賀家の取りつぶしも免れるといった筋立である。

 法月弦之丞をめぐる恋や、弦之丞がふるう夕雲流の快剣の冴え、それに隠密秘文、お十夜頭巾の秘密などがからまり、読む者の手に汗を握らせしめる波瀾万丈、構想雄大をきわめた大衆文学の記念碑的作品である。

 種本である『春波楼筆記』に記されているわずか数行の文章に触発され、天馬空を翔けるがごとき空想力によって、かかる伝奇小説の傑作を結実したということは驚くべき作者の創造力である。

 吉川英治が司馬江漢の重喜の名君行状に感心している文章を読んだことが、『鳴門秘帖』執筆の動機となったが、海音寺潮五郎は史伝「阿波騒動」(新潮社『列藩騒動録第三巻』所収・昭41)において、従来、定説化されている暴君重喜の虚像を正している。

 海音寺潮五郎は重喜の藩政改革が鋭敏剛強に過ぎたために、領民から反感をまねき、失敗した結果、その反動で重喜が暴君であったとしか考えられていないが、実は重喜はすぐれた知恵と志をもった藩主であったと論断している。

 元来、阿波騒動に登場する蜂須賀重喜に関する史料は僅少である。海音寺潮五郎は重喜の実像を浮彫りにするために、明和四年(1767)の『阿淡夢物語』(全十二巻)と『泡夢物語』(全四巻)を種本とした。これらの書物は阿波騒動を扱った唯一の史料で、刊本ではなく写本である。かって江戸研究家の三田村鳶魚が国書刊行会の『列侯深秘録』を校訂編集の際に収録しようとしたが、入手不可能だったという、いわくつきの稀覯本(きこうぼん)で、その内容は阿波騒動を扱った小説である。戦後、蜂須賀家の書物庫の書籍が売立てられた時、歴史作家の中沢(みち)夫が買取り、以来、中沢家に秘蔵されている。おそらく日本で随一の稀覯本であろう。

 海音寺潮五郎はこれらの稀覯本を借覧し、種本として史伝「阿波騒動」を執筆した。海音寺潮五郎は“歴史は解釈である”という史観をもつ。したがって、小説である『阿淡夢物語』や『泡夢物語』に拠っても、解釈の仕方により歴史の真実を引き出せると考え、この史伝執筆にあたっては、『蜂須賀家記』『寛政重修諸家譜』『蜂須賀小六正勝』などの根本史料を、あくまで参考資料にとどめて使用しているにすぎない。種本たる『阿淡夢物語』と『泡夢物語』に潤色されているウソをウソと認めることにより、紙背に存する真実を剔出(てきしゅつ)している。具体的にいえば、領民の藩主重喜に対する反感が多く記述されている文章の裏面を深く読みとることにより、辣腕家としての重喜の実像描写に成功しているのである。

 阿波徳島の蜂須賀家始祖、蜂須賀小六正勝は、夜討強盗を業とした野武士であったと伝えられている。明治時代に侯爵の爵位を受けた蜂須賀家では、この伝承を心外として、東京帝国大学教授、渡辺世祐博士に家伝の史料を提供し、伝承の誤りを正すために『蜂須賀小六正勝』(雄山閣・昭4)の編纂を依頼し、一方では当時の流行作家、村上浪六に頼んで講談社の雑誌「キング」に連載小説を執筆させ、これは単行本『蜂須賀小六正勝』(朋文館・昭4)として刊行された。渡辺博士、村上浪六は、蜂須賀家から多額の謝礼を貰い、夜討強盗の件については一言も触れていない。小六正勝が夜討強盗の野武士であったことを渡辺博士ほどの学者が知らないはずはないのだが、蜂須賀家の依頼もだしがたく、そのことを無視したのである。

学者の書いた伝記といえども、かならずしも真実を伝えていない。逆に『阿淡夢物語』や『泡夢物語』のような小説を学者などは全く信用せずに無視するのが常だ。しかし、この種のフィクションにも真実は存する。

“歴史は解釈である” という史観をもつ、すぐれた歴史文学作家、海音寺潮五郎は、小説を種本にして史伝「阿波騒動」を執筆しており、その史料操作には興味深いものがある。

  第三章 同一の種本に拠る歴史文学作品

 

 数行の文章に触発されて、テーマを設定して創作する場合もあるが、先人たる作家が種本としてすでに使った同一の種本に拠りながら、解釈、視点を変えることによって、その作者独自の史観が表現された作品が往々にして生まれる。

 その好例として、『宇治拾遺物語』巻十第一話の「伴大納言焼応天門事」の場合をあげてみる。『宇治拾遺物語』は編者未詳の鎌倉時代の説話文学を代表する説話文学集である。その古写本には宮内庁書陵部所蔵本、内閣文庫所蔵本があり、明治二十三年版『日本文学全集』以来、『国史大系』『日本古典全書』など万治二年(1659)整版の流布本を底本にしてきたものも多いが、近来、岩波文庫、角川文庫など、古活字本を底本にして整版本で校合・注記したものが流布している。「伴大納言焼応天門事」の説話は、天竺・震旦・本朝にわたる一九七話のうちの一話である。

 清和天皇の御時、応天門が放火焼失した。大納言伴善男は左大臣源信の仕業だと朝廷に奏上したが、太政大臣藤原良房のとりなしで源信は冤罪された。この事件前に、右兵衛の舎人(とねり)である者が、次のようなことを目撃した。

 応天門の前を通ったとき、人の気配がするので廊下のわきにかくれていると、応天門の柱にすがって降りてくる者が三人いた。それは伴大納言とその息子、下男だった。三人は降りるやいなや、逃走した。不審に思いながら、その舎人も応天門を離れ去った。やがて、応天門は焼失してしまう事件が起こった。その数日後、左大臣源信が罪の疑いをうけたので、真犯人がいるのにひどいことだと思っているうち、源信は許されたのを知って舎人は安心する。

 ある日、この舎人の子と伴大納言の下役人の子の喧嘩が発展して、親子同士の喧嘩になった。下役人が主人の大納言を笠に着て罵倒するのに立腹した舎人は、目撃した大納言の犯罪をにおわすような言葉を吐いてしまう。

 これがきっかけとなり、訊問された舎人の自白によって、事件が明白化し、大納言伴善男は流罪となる。伴善男は応天門を焼き、左大臣源信に罪をきせることによって、首席の大納言である自分が大臣になることを企てたのだが、かえって我身が罰せられる結果になった。

 『宇治拾遺物語』にあるこの説話を六国史の一つで、清和・陽成・光孝三天皇の約三十年間の史実を編年体で叙述した正史『三代実録』を参照しながら補足すると、貞観八年(866)三月十日の夜、宮城大極殿前面にある応天門が放火され、その左右に連なる棲鳳、翔鸞の両楼も延焼するという事件が起こった。

 放火犯人とされる伴善男は、『三代実録』の伝記によると、天性才智に富み、弁舌にも優れ、政治法律にも通達した敏腕家だったが、その性格は残忍冷酷、他人の短所を指弾してはばからない人物だった。彼は左大臣源信とは仲が悪く、前にも源信を陥れんとしたことがあった。この応天門事件は源信が人をして放火させたものとして、善男がその処分を右大臣藤原良相に謀った。良相は善男の言を信じ、参議藤原基経をして源信の邸を囲ませようとしたが、基経は太政大臣藤原良房が関与していないのを知って、これを良房に告げた。

 良房は大いに驚き、直ちに参内、源信のために釈明に努めた。その結果、清和天皇が源信を慰諭され、源信は冤罪となる。このあたりの記載は『宇治拾遺物語』にも詳しい。

 『三代実録』巻十三、貞観八年八月三日乙亥(いつがい)の条には“左京人備中権史生大初位下大宅首鷹取、告大納言伴宿禰善男、右衛門佐伴宿禰中庸等、同謀行火、焼応天門”とあり、『宇治拾遺物語』に記述されている舎人が、大宅首(おおやけのおびと)鷹取であり、大納言伴善男の子、中庸(なかつね)の名前も明記されている。

 大宅首鷹取なる者が応天門の火災は、伴善男の仕業だと告白したが、善男は極力その事実を否定した。ところが善男の従僕の取調べによって、善男自身手を下さなかったが、その息子、中庸をして放火せしめたことが判明した。この結果、裁判が確定し、伴善男、中庸、その共謀者たちが流罪とされたことは、『三代実録』巻十三貞観八年九月二十二日甲子の条に記載されている通りである。

 この応天門事件以後、上古よりの豪族、大伴氏と紀氏は、中央政界から脱落し、藤原氏の勢力のみが強大となっていくのである。

 『宇治拾遺物語』を種本として、この事件を小説にした近代作家で、まず挙げられるのは、芥川賞辞退で話題をよんだ高木卓だ。

「応天門」(三笠書房『歌と門の盾』所収・昭15)では、応天門事件は伴善男が左大臣源信に罪をきせるために周到に計画し、息子の中庸や紀豊城らに秘かに命じて実行させたのだが、真相は露見してしまう。藤原氏興隆期にその勢力に対抗し、由緒ある大伴氏の家運挽回を企てた伴善男ではあったが、応天門に火をつけたその瞬間が即ち、自己の出世梯子の出火であったことをつい失念していたと、作者の高木卓は結論している。『三代実録』を参照しながら、重厚にして清朗な筆致で創作されたこの作品で注目すべき点は、伴善男が老躯(ろうく)みずから応天門に登つたのを目撃したのは、大宅首鷹取の故意か偶然かの錯覚であった、と作者が一言ふれていることだ。

 目撃者の鷹取のこの錯覚について、さらに推理をすすめ、発展させた作品は、歴史文学研究会会長を勤め、多くの歴史文学の佳品を残した村雨退二郎の「応天門」(河出書房『応天門』所収・昭31)である。

 鷹取が目撃したという応天門の楼上から降りてきた男は、矮小な体をした、両の眼窩が骸骨のようにくぼみ、額が人並みすぐれて広い、きわめて特徴ある容貌をしていた。それは伴大納言に違いないと思った鷹取が、検非違使庁で威嚇されて取調べられた時は、伴善男の放火について絶対にいうまいと覚悟していたが、拷問の苛酷さと、ある貴い人(太政大臣藤原良房)からその一件を目撃したことを認めれば、国守に出世させてやるとの訓諭につられて、自白してしまう。

 鷹取の自白によって藤原良房は、奇貨居くべしとして、伴善男、中庸らに拷問を加え、自白させ、流罪に処する。事件落着後、鷹取は国守に出世し、赴任の途中、傀儡師(くぐつし)の一隊に出会って仰天した。年老いた傀儡師の一人が応天門で見た放火犯人の伴善男そっくりだったからだ。すでに伴善男は伊豆に流されている。とすれば、彼に酷似した人物がほかにもいたわけで、鷹取の頭は錯乱してしまうのであった。放火犯人は伴大納言だと思っていたが、実際はそうではなかったのかもしれないからだ。

 この作品の主題は、裁判における鷹取の供述の曖昧さにある。拷問の恐怖から彼は曖昧なうちに自白してしまう。その後、瓜二つの傀儡師の老人を見て、証言の不確実さは決定的になる。しかも、放火事件を利用して藤原氏の権力を強めた黒幕的人物である藤原良房の暗躍がちらついている。良房は善男に酷似した人物を使って善男の犯罪に見せかけたのだろうか、そうならば、善男は政争の犠牲となつたことになる。

 この作品は、東京帝国大学教授、久米邦武の『平安初期裏面より見たる日本歴史』(讀賣新聞社・明44)の影響をうけていることはあきらかだ。

 久米教授は伴善男の断罪には十分に、告訴すべき余地があった、とこの書で述べ、彼が政争の犠牲となったと断言し、善男びいきの立場にたっている。この書が刊行された明治四十四年一月十七日の翌日、幸徳秋水らが大逆事件に関連して死刑宣告をうけていることも、重要な意味をもつことを忘れてはならない。

 つまり、久米教授が執筆中の最中に幸徳秋水らの拷問取調べは進行中であった。久米教授は、伴善男の放火事件と大逆事件の関連において、善男の断罪に思いを馳せ、この書を執筆していたにちがいない。

 村雨退二郎も久米教授の著書を読んで、同じく善男の断罪に疑問をもったはずである。村雨が「応天門」を発表した昭和三十年は、時あたかも松川事件の被告の無罪釈放運動が活発化していた頃である。松川事件における被告に対する警察当局の拷問・強制は苛酷をきわめたといわれる。列車転覆事件と応天門放火事件を考え、検非違使庁の鷹取、善男、中庸らに対する拷問をおもうとき、村雨の執筆意図は歴然としている。

 永井路子の「応天門始末」(「オール讀物」昭35・1)も村雨の作品と同じく、松川事件との寓話性がつよい。太政大臣藤原良房とその弟、右大臣藤原良相との対立、確執が、良房とその養子の藤原基経一派と、良相と善男一派との間に派閥抗争を生む。放火事件が起こると、権謀術策家の基経は検非違使庁の下役人をして、伴善男の家人を苛酷な拷問にかけ、事件のデッチ上げに成功する。この結果、善男、中庸などが遠流となり、事件は落着する。事件の黒幕は基経であり、彼はその後、従三位を授けられ、七人の上卿をさしおき、中納言に昇進、さらに、関白にのし上り、良房流藤原氏の繁栄を築いたのである、と作者は説く。作品中での権謀術策家、藤原基経の人物造型が若干、粗雑だが、その新解釈は説得性がある。

 加賀淳子の「陰謀の怪火」(「歴史読本」昭39・9)では、藤原良房、良相兄弟が対立関係にはとらえられてはおらず、逆に二人が提携して伴善男の従僕を買収し、善男の放火をデッチ上げた陰謀事件として描いている。

 村雨退二郎や永井路子の作品が久米教授の影響をうけたように、南條範夫の『応天門の変』(藝術生活社・昭49)も、その影響により善男弁護の立場で創作されている。

 南條範夫はゲオルギ・ディミトロフの著書『国会議事堂放火裁判』を参照し、ナチ政権下で起こった国会議事堂放火事件を詳述しながら、応天門事件との類似性を説き、伴善男が弁護の機会も与えられず、拷問により伏罪されたことを遺憾とし、仮空の法廷弁論を作中で展開している。そして、善男の放火説を否定し、この事件を最大限に利用して異例の出世をしたのは、藤原基経であったと結論づけている。

 村雨退二郎、永井路子、加賀淳子、南條範夫などの作品は、いずれも善男びいき説に立脚する。これに対して善男放火説に拠るのは高木卓、海音寺潮五郎の作品である。海音寺潮五郎は「伴大納言」(文藝春秋新社『悪人列伝(一)』所収・昭36)において、放火事件を善男の陰謀だと論断している。正史である『三代実録』の記述でも善男を放火犯人と断定しているが、この史書は藤原氏全盛時代に撰されたものだけに、伴氏についてどの程度に公平かどうかは頗る疑問である。

 同一の種本に拠りながらも、それぞれの作者によって、解釈は相違している。伴善男が犯人であったか否かは、黒い霧につつまれて、依然として歴史上の謎とされているのだが、村雨退二郎や永井路子の創作態度にみられるように、過去の歴史的事象に仮託して現代をいかに描くかという作者の意図は、戦後の歴史文学の数々の作品に生かされている。このような傾向は戦前には見られなかった。吉川英治のいう“合わせ鏡”としての歴史文学が、こんにちほど一般化した時代はないといえよう。

 過去にすでに先鞭をつけられている同一の話材に拠った場合、先人たる作家の扱いから一歩も出ないような特色なき作品では意味がない。そこには当然、新解釈なり、独自の史観がうちだされる必要がある。そうでなくては、単なる逸話の焼き直しであり、歴史文学とはいえない。そこに歴史文学のむずかしさがあり、面白さがあるのだ。

 

  第四章 誤謬(ごびゅう)を訂正されたお家騒動ものの種本

 

 種本に拠って作者が創作する際に、その種本のもつ誤謬を訂正し、虚構を排除することが当然のこととして行なわれる。その例をお家騒動ものの種本について考察してみる。

 加賀騒動は、一介の茶坊主から出世した大槻伝蔵が、加賀藩主前田吉徳の側室であるお貞の方と密通して、吉徳やその世子宗辰を殺し、お貞の方の生んだ勢之佐を藩主にしようとした密通事件で、この陰謀を打破するために、忠臣前田土佐守直躬が立ち上がり、伝蔵に制裁を加え、騒動を解決したことになっている。

 しかし、この騒動の経緯は、誤謬でかためられた虚構であり、それは大槻元兇説に基く加賀騒動の種本である実録体小説の『野狐物語』『越路加賀見』『見語大鵬選』『北雪美談金沢実記』などに拠って、形成された。『野狐物語』が伝蔵の死後七年にして流布されたのをはじめとして、以下、順を追うたびごとに、新趣向が加わり、最後の『北雪美談金沢実記』で固まったのだが、いずれも大槻伝蔵に制裁を加えた前田土佐守直躬を大忠臣として讃えた書である。

 これらの書を種本として作られたのが、講談であり、面白おかしく語って聴かせたのが講釈師であった。このほか、『雄藩秘史』と題する漢文の書があり、その十中八九までは妄説でかためられている。この書もかなり巷間に流布された。さらに、室鳩巣門下の学者で、大槻に終始反抗し、保守派の急先鋒となった青地藤太夫の著書で、加賀騒動の根本史料の一つである『俊新秘策』や、前田土佐守直躬の『虚実雑話』なども当然のこととして、大槻悪党説に基づいている。これらの書に拠って、虚構化された通俗加賀騒動の話は人々の間に定着してしまった。

 この俗説加賀騒動の虚構を打破したのは三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)であった。三田村鳶魚は「加賀騒動実記」(青蛙房『鳶魚江戸ばなし第三巻』所収・昭41)において、大槻が有能な革新的官吏であったがために保守的な前田土佐守を代表とする因襲派と対立し、前田土佐守派の奸策により陥れられて、ついに大槻が自殺に追い込まれる過程を徹底的に調べ上げて大槻伝蔵を雪冤している。この書を読むことにより、大槻の功績を伝える記録は、すべて前田土佐守派により煙滅されたであろうことが歴然とする。

 伝説加賀騒動の種本の誤謬を三田村鳶魚はその労著において訂正したが、海音寺潮五郎も「大槻伝蔵」(文藝春秋『悪人列伝下巻』所収・昭42)や、「加賀騒動」(新潮社『列藩騒動録第一巻』所収・昭40)において、伝蔵とお貞の方の密通を疑問視している。山路愛山の史伝『加賀騒動記』(敬文館・大元)、では、大槻伝蔵がお貞の方を吉徳に推挙したという説が事実ならば、密通も起こりえたと推察する。直木三十五の「加賀騒動」では、吉徳が痴戯として、すべて承知のうえで、伝蔵とお貞の方の三人が同衾(どうきん)したのだと説く。

 これらの諸説のうえにたって、密通を全面的に否定したのは村上元三の『加賀騒動』(毎日新聞社・昭26)である。

 村上元三は、伝蔵はお貞の方が吉徳の側室になる以前から彼女と恋仲だったという設定にしており、前田家上屋敷や金沢城内の絵図を子細に調べた結果、いかに君寵厚い伝蔵でも屋敷や城内の奥御殿に住むお貞の方のところには通えないとして、二人の不義を否定し、伝蔵とお貞の方とのあいだに生まれたという勢之佐と八十五郎が吉徳の実子であることを説いている。

 この大槻伝蔵は、藩政建直しのために献身する正義漢の能吏であり、胸底にお貞の方に対する恋情を秘めながら懊悩する殉教者である。従来のお家騒動ものにみられる善玉、悪玉による図式的な描写はなく、映し出されているのは人間たちの切実な運命の相剋である。

 この作品の与えた影響は大きく、郷土史研究家の間で再検討が行なわれ、勢之佐と八十五郎は、吉徳の実子に相違ないと断定された結果、前田家での供養に勢之佐と八十五郎が正式に加えられることになった。藩祖前田利家以来の一家一族の供養に、二人は不義の子としてそれまでは入っていなかったのである。

 加賀騒動の実態を改めて追求した小説には、中山義秀『武辺往来』(中央公論社・昭35)、早乙女貢「雪は汚れていた」(「オール讀物」昭45・2)、南條範夫「加賀騒動の元兇」(「小説現代」昭45・10)などがあるが、村上元三の小説ほど影響を与えた小説はない。

 郷土史研究家や歴史学者に影響を与えた小説といえば、永井路子の『炎環』(光風社書店・昭41)もその好例だ。作者は鎌倉幕府の事蹟をしるした『吾妻鏡』の漢文の行間を読み、北条一族が都合のいい書き方をした、そのカラクリを看破している。鎌倉幕府三代将軍、源実朝を暗殺した黒幕は、北条政子の弟の四郎義時であり、彼が源頼家の子公暁をそそのかして実朝を殺害させたという定説をくつがえしたからだ。

 永井路子は公暁の乳母夫(めのと)である三浦義村に着眼し、義村が公暁にはたらきかけて、実朝を斬殺させたという新しい史観をうち出したのである。

 こんにちでは、乳母ということばは、死語となってしまったが、永井路子は乳母や、その夫である乳母夫、あるいは、その子の乳母子(めのとご)など乳母一族が、養い君を育てる過程で、その側近となり、政治に介入し、後継者をめぐるお家騒動で重要な役割を果たしたことを指摘している。『炎環』のなかで、うち出された、“乳母史観”ともいうべき新史観は、郷土史家や歴史学者を注目させた。いわゆる、鎌倉ものを好んで書いてきた永井路子は、種本の『吾妻鏡』に拠り、多数の小説を創作しているが、『吾妻鏡』の誤謬のたぐいを訂正しているのである。

 

 最近は、作家が種本の誤謬を訂正するにとどまらず、歴史文学の創作が多面的になり、著しく学問に接近してきたために、場合によっては、作家が学者や専門家をリードさえしている。松本清張の古代史再検討や司馬遼太郎の近世人物群像の追求などがその好例である。海音寺潮五郎もその例の一人である。

 かつて江戸研究の碩学(せきがく)であった三田村鳶魚は、『大衆文芸評判記』(汎文社・昭8)や、『時代小説評判記』(梧桐書院・昭14)などの著書において、島崎藤村の『夜明け前』、大佛次郎の『赤穂浪士』などの歴史文学の傑作を俎上(そじょう)にのせて、時代考証の観点から徹底的にその誤りを指摘したが、海音寺潮五郎は三田村鳶魚の考証を作家として批判しているのは興味深い。

 三田村は「お由羅騒動」(青蛙房『三田村鳶魚江戸ばなし第三巻』所収・昭41)において、島津騒動の原因は、藩主斉興がお由羅の色香に迷い、お由羅もまた陰謀をめぐらして、奸悪な老臣らと通謀して斉興をたぶらかし、世子の斉彬をしりぞけ、自分の生んだ久光を藩主に立てようと企てたからだ、と解釈している。直木三十五の『南国太平記』(前中編、誠文堂 後編、番町書房・昭6)は、三田村の「お由羅騒動」がその種本である。

 海音寺潮五郎は「島津騒動」(新潮社『列藩騒動録第一巻』所収・昭40)において、三田村の解釈を旧歌舞伎芝居的で、単純な解釈にすぎないことを指摘し、斉彬の積極進取の性質が斉興や保守的な老臣らを不安にかりたてたこと、琉球と薩摩の密貿易問題を幕府に暴露したのは斉彬で、これは斉興を隠居に追いこむためであったこと、安政の大獄が進行中に斉彬が兵を卒いて京に上り、幕府に対するクーデターを行なおうとしたことなどが、錯綜した結果、斉彬は斉興によって毒殺されたという新解釈をうちだしている。

 さらに、三田村がこの騒動は、斉彬の藩主就任とともに終っているとする説に対して、海音寺は、斉彬の毒殺後、藩主となつた久光と西郷隆盛が終生、確執の間柄だったことを指摘し、この騒動の影響が西郷の城山における死にいたるまで、延々と続いたことを鋭く説いている。この海音寺の史観は、畢生(ひっせい)の史伝大作『西郷隆盛』を貫くバックボーンである。

 

  第五章 歴史文学作品における虚構の種本

 

 種本における虚構や俗説にまみれた事件、人物を正し、その実像ないし真実を描写することとは異なり、自己の創作に詩的真実(文学的真実)を賦与(ふよ)するために作家が好んで虚構の種本を捏造(ねつぞう)することがある。

 谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』(毎日新聞社・昭25)のはしがきで、

 “この作は大体、平安朝の古典に取材したもので、作者は一々、それらの種本の名を掲げ、屡々原典の一部を引用している”と述べている。

 “それらの種本の名”は、二十数作品にのぼっており、『少将滋幹の母』の構想展開に拠った主な種本は、『今昔物語集』と『閑居の友』である。作者が遒古閣文庫所蔵の写本だという『滋幹の日記』の残欠本は、虚構の種本である。

 父の国経や母を、滋幹が子供の立場から観るという、追憶と思慕の念を効果的に伝えるために、あるいは詩的真実を賦与するための有効な手法として、作者は虚構の種本を捏造しているのである。

 虚構の史料と実在する史料を巧妙に使いながら、往復書簡による私小説的手法で書いた興趣満点ともいうべき作品は、井伏鱒二の『武州鉢形城』(「新潮」 昭36・8~37・7)である。

 主人公(私)が、寺子屋机をつくるため埼玉県針ヶ谷の弘光寺の住職に材木を頼んでいた折、赤松の古材を送ってきたので、それを製材することを材木屋に頼んだところ、中から矢尻(やじり)と鉄砲玉が出てきた。

 興味をそそられた(私)は、早速、手紙で住職に問い合わせてみると、その赤松は、三百八十年前の天正の頃、武州鉢形城の城址の外曲輪(そとぐるわ)、瀬下丹後(武州鉢形城主、北条氏邦の侍大将)の屋敷跡にはえていたものであったというむねの手紙が届いた。

 さらに別便で、『管窺武鑑』『猪股伝記』『武蔵鉢形城』『鉢形落城哀史』など、鉢形城落城前後の模様をつたえる関連史料を送ってくれた。

 天正十八年(1590)六月十四日、鉢形城が落城した合戦の際、寄手(よせて)の前田利家父子、真田昌幸の軍兵と対峙して、瀬下丹後は手兵百五十余をもって戦ったが、この合戦は、鉢形北条軍の惨敗に終った。瀬下丹後は落城と同時に他所に立ち退いたが、後日、また元の屋敷跡に落ち着き、帰農生活に入ったという。

 鉢形城が落城する前後のありようを記録する史料を(私)に送ってくれた住職は、手紙の中で、

 赤松の角材内に潜んでいた矢尻、鉄砲玉は、蜂形城包囲戦の際、数多の騎馬武者、数多の雑兵の獅子奮迅するさなかに打ちこまれたものだろう。その赤松角材には、軍兵の矢叫(やたけび)(とき)の声がこもってはいないだろうか。貴殿はその角材のうちに潜む矢尻によって、何かと当時の軍兵の動きを想像なされ、それをば清閑の友となされたしと存じ上げる。依って、ご参考のため拙僧所有する史料のうち、『管窺武鑑』『猪股伝記』『武蔵鉢形城』『鉢形落城哀史』を別便でお送りする。

 と書いたあとで、それらの史料についての解説をしてくれている。たとえば、『猪股伝記』に関する解説では、次のように書いている。

 『猪股伝記』は、当弘光寺の元檀家総代より手書本を借受け、拙僧の筆写したるものにして(これは御用済の上は御返還を願いたい)他の軍記、軍談に比し、多く当時の雑兵どもの動きが記録されているのが特徴である。筆写不明にして、行文も稚拙であり、あるいは雑兵の書き残せしものではないかと愚考する。御清適を祈りつつ、合掌。

 上記の史料と手紙をもらった(私)は、手書本の『猪股伝記』を読んでみた。弘光寺さんの手紙によると、行文稚拙というのだが、仮名まじりの候文で、ごく平易に、たとえば、“かん八州のうち、五ヶこく持ち候保条殿(北条)を、日本五十ヶこく余のくに持ち候羽柴殿として、さらに、いくさ神の徳川殿をもよほして……”というような文体になっている。

 ところが、冒頭の言葉は、勇壮活溌で、“遠からんものはおとにもきけ、ちかくはよつて目にもみよ、我こそは武州はちがた、保条あはのかみの侍大将、猪股のとのかみが家来に、その人ありとしられたる、上州久良岐のさとの坂東武者、津久井の平八なり……”という書き出しになっている。

 これで見ると、津久井の平八という武士が『猪股伝記』の筆者のように思われる。だが、後半は文字の使いかたも幾らか違い、誰か他の武士が、数人の雑兵から聞書きしたような体裁になっている。最後の章には、鉢形落城後に城主や城兵の落去していく有様と、城を接収した敵将の出した布令の文言を書いてある。(中略)

 この手書本には、戦記篇の他に、天正十八年度の『猪股能登守内、猪股衆分限録』と名づける書類が附いている。

 これが附録篇でないとしたら、二つを合本にしたつもりだろう。猪股能登守の支配下にあった武士七十九人の姓名を書きならべ、各自の本国、かつて本国にあって身を託していた城の名前、または居住していた郡名または村名、鉢形城に身を寄せてからの居所、禄高、職名、年齢を記してある。例えば、先手衆の柏原織佐衛門なる者は、本国は肥前、郡城名は川坂、鉢形に来てからの居所は武州荒川辺、禄高は百二十貫、職名は先手頭、年は三十歳あまりといったようになっている。(私)は戦記篇の『猪股伝記』よりも、猪股衆の分限録の方に興味を持った。(後略)

 この『猪股衆分限録』を読んで、(私)が意外な感じを受けたのは、猪股の部下がほとんど他国から来た寄せ集めの者ばかりであり、鉢形城の所在する武州出身者は、禄百五十貫の足軽大将が一人と、禄八十貫の足軽が二人きりであったことだ。

 次に、もう一つ(私)が意外に思ったのは、猪股衆のうちに、(私)自身の郷里を本国とする者が二人もいることであった。(私)の郷里は、備後(広島県)深安郡加茂町粟根である。そこから近い安那郡志川滝山出身の百谷金太夫と北山民部、二人の足軽の名前が記載されていたのである。

 (私)の郷里の粟根は、志川滝山城の支配地だったが、毛利元就の滝山城攻略の時、村ぐるみ疎開して戦乱が終った際には村人たちはほとんど村に帰らなかった。『猪股衆分限録』に百谷金太夫と北山民部の名が載っているのは、彼らが毛利勢に攻められ、滝山城を落ちのびて、武州鉢形城の侍大将、猪股能登守の配下になったという経緯を物語っている。そこで、『猪股伝記』『管窺武鑑』『鉢形落城哀史』を丹念に読んでみた結果、写本の『猪股伝記』には続篇があるかもしれないと思った。

 早速、住職に問合せの手紙で、続篇のこと、戦乱で消滅した村の出身者の(私)が村の昔について知りたいこと、百谷金太夫、北山民部に関することなどについて調べてほしい、と頼んだ。

 数日後、住職からの返事と、『猪股伝記』の続篇『続軍記』の写本が届いた。『猪股伝記』の手書本を、以前に住職に貸してくれた弘光寺の元檀家総代が、その続篇の『続軍記』を提供してくれたので、それを住職が筆写したものだという。

 その手紙には、“(前略)愚僧こと、ここ数日このかた『続軍記』の筆写に没頭いたしおる。古風な読みづらい文字の判読には目も頭も疲労する。(中略)拙僧には判読に苦しむ文字の連なりである。おそらくこの手書本『続軍記』は、さしたる心得なき人が、ほの暗き行灯(あんどん)の灯か囲炉裏の火を頼りになし、ちび筆にて夜な夜な写し書きしたものだろう。至るところに読みにくい箇所が現れる。拙僧としては拾い読みを強いられているようなものにして、百谷金太夫の忍城外における行動のうち、拙僧に判読できたところは左の如き部分に限られる。(後略)”という主旨の内容が書かれていた。

 それによると、侍大将の猪股能登守は百谷金太夫を武州北埼玉郡にある忍城を攻略中の石田三成のところに、密使として差向けたという。その密使の内容が、『続軍記』には二行あまりにわたって書いてあるが、住職には判読に苦しむ文字の連なりであるという。

 百谷金太夫はその使命を果たすことができなかったらしく、敵軍の石田三成の捕虜となり、忍城水攻めの築堤工事に従事せられたのち、逃亡して鉢形城にもどった経緯について、住職は書くとともに、古文書にくわしい知人の時保先生に『続軍記』を読んでもらったと書いている。

 その結果、『続軍記』は、百谷金太夫が自分の日記代りに書いたものであること、彼はこの軍記を、親の許しを得て互に(ちぎり)を交わしていた仲であろう広木という娘に預けていたところ、娘はそれを金太夫または金太夫の母親に返すにあたって、筆写して金太夫の形見か生き形見として残すつもりで書き写したこと、おそらく、彼女は文盲だったので、大変な苦労をしながら辿り書きで写したにちがいないが、自分の契った男の書いた文章ゆえに文字を解せぬとはいえ、心をこめて書き写したであろうことなどがわかった、と住職は書いてくれていた。住職が判読するのに苦労したのは、筆写した者が文盲であったからだ。

 北山民部は敵方の陣地から砲撃する大筒(当時最新式の巨砲で、一千米以上の射程距離があった)におびえて鉢形城を逃亡し、敵陣に逃げ込んだという。そして、命をゆるされたが、嚮道隊(きょうどうたい)の最先鋒として、きのうまで味方だった城方の猪股能登守の兵と戦わざるをえなかった。北山民部の嚮道隊の武将、藤田信吉は、鉢形城に攻め入り、城主の北条氏邦に降伏を勧めたため、氏邦はそれに応じ、正龍寺に入って剃髪(ていはつ)したという。

 住職は手紙の中で、鉢形城の落城の有様や、落城後の北山民部、百谷金太夫の消息は不明であること、金太夫が広木という娘に会っているかどうかも不明なことについても書いてくれている。

 ちなみに、(私)は、住職が送ってくれた赤松の古材に食い込んでいた鉄砲玉と矢の根をほじくり出す苦労話や、鉄砲玉と矢の根が年輪七、八十年目のところに巣食っているので、同時に幹に打ち込まれていること、その鉄砲玉と矢の根を、元軍人で、戦史に詳しい知人に鑑定してもらったところ、鉄砲玉は鉄の玉に(なまり)でメッキしたもので、当時は鉛が不足しており、奥利根の砂鉄か古鉄で、鉄砲玉や矢の根を()た形跡があることを教えてくれた。

 (私)は住職に手紙で、そのことを知らせると、住職は、『武蔵鉢形城』『鉢形落城哀史』や、弘光寺所蔵の鉢形城古図などを参考にして、天正十八年六月、鉢形城を攻撃した真田昌幸の軍勢が、瀬下丹後の屋敷にも鉄砲玉と矢を打ち込んだことを知らせてくれた。

 以上が、井伏鱒二『武州鉢形城』の概略である。主人公の(私)と住職(虚構の人物)との往復の手紙による私小説的手法を使いながら、小説巧者の作者は、『管窺武鑑』『武蔵鉢形城』『鉢形落城哀史』などの実在史料を使用すると同時に、『猪股伝記』『猪股衆分限録』『続軍記』などの虚構の史料を創出し、双方の史料を種本として巧妙に使用しており、それがこの作品の特色となっている。

 読者は、武州鉢形城の攻防戦の有様を知ることができるが、作者の意図は、戦争の犠牲となった弱者ともいうべき同郷の足軽、百谷金太夫、北山民部の流転のペーソスを描こうとしたのであり、その意味において、戦争批判の作品だといえよう。

 

 虚構の種本を典拠にして、人間像の陰翳(いんえい)を浮彫りにする手法を駆使する典型的作家は水上勉である。

 『流れ公方記』(朝日新聞杜・昭48)は、足利幕府最後の十五代将軍義昭の辛苦悲惨な流亡の生涯を、義昭の身近に終始、仕えた側女ぬいが残したといわれる『くぼう記』を中心にして、義昭関係文献を参考に描いた、とされているが、この種本『くぼう記』は、作者による虚構本である。

 義昭と同じく流浪の人であった良寛を、蓑笠(さりゅう)を身につけた生涯人として描く水上勉の『蓑笠の人』(文藝春秋・昭50)では、『越佐草民宝鑑』と題する郷土人物誌が紹介されており、この『越佐草民宝鑑』には、明治十七年に田川完助なる人物が、天保時代の写本を水戸彰考館で見つけて複写したと記されている。その原著者はわからない、と水上勉は作品のなかで述べているが、これは架空の種本で、この書に記述されている良寛と同郷の水呑百姓弥三郎が、米騒動に連座し、佐渡での流人生活を終え、その末期には高僧の境地に達していたであろう生涯を、良寛の生涯と対比的に叙述することによって、良寛の生涯を顕著にしている。

 『流れ公方記』『蓑笠の人』などの作品で虚構の種本に拠り、効果的な人物造型に成功した水上は、『一休』(中央公論社・昭50)において、さらに、その手法をおしすすめ、文学的香気横溢する作品を結実せしめた。

 この作品のなかで、水上は『一休和尚行実譜』なる珍書を洛内書肆で人手したと告白し、この書が大正二年癸丑の刊であり、和綴じ和紙刷りの仮名まじり文で、著者は、明治中期に生まれた風狂子こと磯上清太夫であること、これには原本があって、京都竹屋町の儒家に出入りしたらしい某の著で、元禄二年(1689)の刊本であること、その原本には、“われ相国寺塔頭玉竜庵にあり”とあるところから、原著者は、かっては僧籍に身をおいた人か何かで、五山塔頭に暮らした経験者であろう、などと述べているが、この『一休和尚行実譜』は、空想の産物にほかならない。

 この虚構の種本に酷似した題名のある『一休和尚行実』は、実存する古書である。一休の弟子墨斎こと没倫紹等の著書と伝えられ、『東海一休和尚年譜』と共に一休の根本史料で、一休の死後、著されたものだけに一休の行実が多少、神格化されている。両書ともに『続群書類従』続第九輯下伝部第二百四十二と、『大日本史料』第八編之十三の文明十三年(1481)十一月二十一日の項において披見することができるが、『一休和尚行実譜』は明らかに虚構本である。水上は、一休の弟子没倫紹等のこれら両書及び一休の『狂雲集』『続狂雲集』と、この虚構本である『一休和尚行実譜』を軸にして、他の関連史料をあくまでも参考史料にとどめ、史実を歪曲しないことに留意しつつ、一休の生涯を実証的に書いている。

 この作品の主題は、戒律と性愛の追求であり、老僧一休と盲女の(しん)との交情を描写するクライマックスは、見事な高まりをみせている。

 この二人の心理の綾を艶麗に描いた作品には、加藤周一の『狂雲森春雨(くるいぐももりのはるさめ)』、唐木順三の『しん女語りぐさ』などがあるが、これらの作品に決して劣らないといっても過褒ではない。作者が虚構の種本『一休和尚行実譜』に晩年の一休と盲女の森との心境を托しているくだりは、叙情的で美しい描写だ。

 芥川龍之介に「奉教人の死」と題する作品がある。その第二章において作者は、

 

 自分の所蔵する『れげんだ・おうれあ』と題する長崎耶蘇会出版の書がある。体裁は上下二巻・美濃紙摺草体交り平仮名文で印刷不鮮明にして、上下扉には羅甸(らてん)字で LEGENDA AUREA の書名があり、その下には漢字で「御出世以来千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻也」と記してある。両巻とも約六十頁、載する所の黄金伝説は上巻八章、下巻十章で、その他各巻の巻首に著者不明の序文及羅甸字を加へた目次がある。以上採録したる「奉教人の死」は該『れげんだ・おうれあ』下巻第二章に依るものにして、恐らくは当時長崎の一西教寺院に起った事実の忠実な記録であらう。自分は「奉教人の死」では、多少の文飾を敢て行ひ、原文の平易雅馴な筆致を毀損しないやうにした。

 

 と、記しており、作品の中ではもっと詳細な書誌的記述がある。

 芥川が「奉教人の死」の種本にした長崎耶蘇会版『れげんだ・おうれあ』は架空の古書である。この小説が「三田文学」(大7・9)に発表されるや、捏造本とは知らない書痴仲間、切支丹文献蒐集家の間に一大センセイションを惹起した。当時は日本の切支丹研究の画期的な時代で、江戸研究の碩学、林若吉が越前福井の隠れた宗徒の家から国字本『こんてむつすむんぢ』を発見、入手したのが契機となり、蒐集熱が瀰漫(びまん)していたという時代背景も無視できない。

 林若吉や内田魯庵が早速、芥川にその借覧を申込んだり、その頃、猟書家の第一人者だった和田雲邨は、老書()をして鎌倉の芥川宅に赴かせて譲渡を申込んだが、虚構の種本だと判明し、大いに憤慨するという滑稽な一幕があった。

 この“偽書偽作事件”は、「時事新報」(大7・10・3)の「あんらくいす」、「大阪毎日新聞」(大7・10・3)の「茶話」、「東京日日新聞」(昭2・7・31)の「ざつろく」などの欄で扱われ、文壇における一寸した人騒がせな喜劇だった。

 芥川のこの種本は、我国最始の切支丹文献研究者である Ernest, Satowの『The Jesuit mission Press inJapan (日本耶蘇会刊行書誌)』(初版一八八八年)私版本、五四頁、一九二六年、東京・警醒杜書店複刻)にも記載されていなかっただけに、切支丹本の掘出しに見目嗅鼻(みるめかぐはな)だった蒐集家たちにとって垂涎(すいぜん)に値したのも当然だった。

 「奉教人の死」は、昔、長崎の寺院に仕えていた孤児の美少年が、町の傘張り人の娘に子供を生ませたという疑いをうける。長崎の町に大火が起きた際、その娘の家も焼け、娘は逃がれるが、幼児は火の中に残された。この時、猛火の中に飛び込み、幼児を救ったのは、嫌疑をうけた美少年だったが、不幸にも彼は焼死する。その結果、この殉教の少年は、男ではなく女性であることが判り、その疑いが晴れるという筋だ。信仰に生きる強靱な美しさと、充実した生に対する感嘆を主題としており、芥川の南蛮物の傑作である。

 芥川が虚構の種本に拠ったことを衒学(げんがく)趣味の遊び、いたずら、という批判も生じるであろうが、作品の虚構に真実性を賦与するために、慶長期の文体を採る必然性を感じたこと、事件と作者自身の間に距離感をもたせ、作者の主観を直接的に避ける韜晦(とうかい)のための技法であった。芥川はこの技法の予想以上の成功により、その技法を踏襲して、さらに翌年、「きりしとほろ上人伝」を執筆している。

 以上、歴史文学作品が種本に拠った場合に、その創作過程において種本がいかに使用されるかについて述べてきた。従来、この点に関する考察はきわめて少なかった。文学研究が書誌的操作をおろそかにして、とかく観念的なものに走りがちな傾向が強く、作品の原資料たる種本についての検討が無視される場合が多かったので、本書が役に立てば、嬉しいことである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/08/30

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磯貝 勝太郎

イソガイ カツタロウ
いそがい かつたろう 文藝評論家 1935(昭和10)年 東京新宿区生まれ。長谷川伸賞受賞。

掲載作は1976(昭和51)年刊『古通豆本27 歴史小説の種本』(日本古書通信社)初出、電子文藝館出稿に際し一部加筆訂正を加えた。

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