鶏飼いのコムミュニスト
一
朝といつてもまだ早く竹薮の中はうす暗い、小田切久次は四辺に気を配りながら静かに鋸を
半丁ばかり距てた薮の入口には乞食たちが住んでいる。ここに住む恩義から乞食たちはこの竹山の番人の役を買つていたのである。
だが今朝はまだ彼等も
家に帰るとしかしもう仕事がそれを忘れさせた。鶏小屋で鶏たちが騒いでいた。家に程近く彼が盗みに行つたような竹山も雑木林もあり、前は原つぱ、裏には地面に軒のすれそうな藁葺きの百姓家もあろうというなごやかな新市内だつたので、夜はしつかり鶏小舎を囲わぬと野良猫や
鶏は三十羽、兎が二十匹ばかりいた。兎の方が繁殖力が強いのでゆくゆくは兎をふやすつもりであつた。これをやりかけた当座、うるさい友人の中には、小田切いよいよ変てこなことをはじめたよ、と笑う奴もいたが、詩を作るよりこの方が飯を食うにはたしかさがあつた。
小田切久次は囲いをとり鶏たちを広い棚の中へ移すと、
それが済むと小田切は台所へ行き、昨夜魚屋から盗つて来た魚の雑物の入つた馬穴を流しの下から引きだした、腐つたような魚くさい臭いがむッとする、小田切久次はどろどろした雑物の中にどぼりと手を入れた、臓腑の中に混つて魚の頭や骨が手に触れる、彼はその頭やほんの少しでも肉のついた尾鰭は丹念に拾いあげるとジャアジャアと水をかけて洗いドンブリに入れた。これは鶏や兎にはもつたいないので彼等夫婦がおつゆにしたり、余れば壷の中の酢につけておく。後の臓腑や骨はどぼどぼと大鍋に移し
兎の馳走は八百屋の掃き溜めから持つて来た。腐りの来たキャベツや人参は糞蝿がたかり嘔吐が出そうだが、小田切の手を通せば見ちがえるような野菜になる。まず人間も兎も食えそうもないものは畑の野菜の根にくれてやる。彼に不要というものがない、彼は前の空地を耕して畑を開いている。この開墾は一度ひどく地主にどなりこまれたことがあるが、地主は遠くのべつに来れない所に住んでいるところから小田切はねばり強く今でも時無大根や
小田切久次はたまに肉類も食べたいと思う、そんな時は鶏の首をひねるなり、兎の
小田切久次は又面白い木片を拾つて来ては盆や灰皿や額皿を彫る、これらのさび
た藝術品は彼の家の
にしとけよ、と第二段の交渉をはじめる、或時は最初六十銭に負けろと値切つておきながら、店の者が性も根もつきはてた結果、口あけだ、と投げ出すと小田切久次は仔細らしく財布を取り出し、ジャラジャラと白銅銭をかぞえ、次第に困つたような顔をして見せ、いかんな、五十銭しかなかつた、と言い出す、再びすつたもんだがはじまり、しかし結局辛棒強い小田切は店主をふらふら
にして了い、呆れ返つている相手の手からさらうように、買い取つて来るのである。文化的な今日にお構いなく米醤油を買うにも卵や鶏に換えて来るほどの小田切久次が、錆びた財布の紐を解くのはこうした藝術的な茶器類と書籍を買うときぐらいのものである。
小田切久次は珍らしい藏書家である、彼は欲しいと思う本があればどんなことをしても手に入れる、たとえ盗んででも——盗んででもと云つたが、実は彼の見上げるような書架にぎつしり詰つた本の三分の二は盗んで来たものである、彼がそこらの古本屋で一冊の本を買えば帰りにはマントの中に買わなかつた本も入つている、何時いかなる隙にそれだけ器用なことをやつてのけるのか生れつきタレントがあるのであろう。
ともかく彼の所有慾は
二
地区の研究会が済んだのは夜も更けてからであつた。ほめられても素直に嬉しくなれたためしのない小田切久次も今夜は
ところが今度彼が機関誌の五月号に書いた「相模川の霧」という詩は計らずも問題になつた、それも臆病な同盟の批評家たちは異端者扱いにされている彼の詩なぞ読んでも読まぬふりをしていたのだが、あるブルジョア雑誌で「相模川の霧」を賞め、わずか一篇の詩を七頁ほども割いて取り扱つていたので、同盟側としても見直してみねばならなかつたのである、そうなると編集部に来ていた、正に屑篭に入るだけの運命にあつた投書なども引き出され、地方通信員たちや地方支部同盟員たちの推賞の言葉も案外沢山あさり出された。そして今夜地区研究会でも小田切の詩が批評の中心になつていた。
小田切久次はそれを考えると久しぶりおおらかな気持にさえなるのであつた。ざまア見あがれ! 小田切久次はいまいましい仇敵を今日只今ぎやふんとやつつけた時のように独り言を云つて満足気に笑うのだつた。ふとその笑いが消えた、小田切久次は
顔の雑作も体と均衡を保ち四角で、眉は濃く繁り、唇はむくれて厚く、鼻は小鼻のところが一般の型を破つて反対に凹み、先へ行くに従い徐々に高さと幅を加え先端はやや誇張を許すなら奇想天外な形でむつくり飛び出している、これは小田切の平凡ならざる顔の中でも尤も偉観であつて全体が膨れたような感じを与え、跳び出した鼻先は見事な赤褐色を彩どり健康と強い情慾を現している。ただ何時の頃からかぽつりぽつりと生えはじめた白髪混りの頭が精力的な顔貌と似つかわしからず流石にそろそろ四十に手の届こうという彼の齢をうかがわせるものがある。
その風変りな姿が今ポストのある菓子屋の角を曲つた、菓子屋の隣りが乾物屋、乾物屋の次がしる粉屋、そのしる粉屋と露路一つ距てて例の酒屋だつた。とうに十二時は過ぎたろう、田舎街は已に寝静まり、彼の目指す酒屋も雨戸をとざし隙間洩る電灯の光さえなかつた。ただ店先のビール箱の上には相変らず一斗甕がのつている、彼は四辺を見廻しそつと近づいて行つた。両手を伸ばし取りおろそうとしたが、何か中に入つているのであろう、びくともしなかつた。彼は傍に乱雑に置かれたビール箱を二つ重ねて足場を作つた。今度は腕を水平にして甕が抱けた、力を入れると重ねられたビール箱がぎ一いと揺れただけで甕は尻を持ちあげなかつた、糞ッと小田切久次は渾身の力を出した、大力な小田切に渾身の力を出されては甕も尻を持ち上げぬわけにゆかなかつた。だぼッだぼッと重たく液体の揺れる音と共に甕は小田切の胸へのしかかつて来た、小田切ははずみを食つて足場の悪い箱の上で危く倒れそうになり、やつと踏みこらえて姿勢を直し足場を跳び下りた、その拍子に甕がビール箱に障りガラガラと音を立ててくずれた、小田切久次は総毛立ち反動で駈け出していた。甕はだぼッだぼッと気になるような音を立てた、中味は何だろう? 追う者もないのに小田切は駈けている、淡い月光に濡れた道を四斗俵と一斗甕が一緒に転がつてゆくように見えた。
三
おい開けてくれ、と小田切久次は足で玄関の格子戸を蹴つた、すぐ女房の芳江はごほんごほんと咳をしながら起きて来た。彼女は格子戸を開けると入つて來た甕の親子のような小田切の様子に、まあどうしたの、と眼を見張るのだつた。小田切は、ああ重かつた、と玄関の間の上り口にどしんと甕を下ろした、だぼッだぼッと甕は鈍重な音をたてた、何よそれは? と芳江が重ねて尋ねても小田切は矢張りそれには答えず、暑い暑いと帯を解いてぱッと
それまでやせた体を前かがみに、ごほんごほんと咳をしながら見ていた芳江は、鼻近く差し出された湯呑みの液に一寸舌をふれたが、水じやないの、と云つて明らかに軽蔑の色を現した。小田切は、いや、ほんの少しだが酒の気があるよ、と笑いもせず、自分でもう一度舐めてみて、うん、たしかに酒の気が大方まじつている、とつぶやいた。芳江は中の水にはあきらめたが只甕に気を曳かれ、どうしたのよ? ともう一度尋ねた、これか、と小田切は、どうやら余裕のある声を出し、あり
芳江は、ああこれがわが亭主かとふとあさましい気持になり、
何だかすつぱく、墓場の花立の中に
四
居るかい、と誰か柵の外から呼んだ、小田切久次は台所で魚のヘタを煮ていたが、声で杉村と直感し急いで座敷へ引き返した。机の上にあつた五十銭銀貨とバットの箱を曳出しにしまい込み、小田切君、ともう一度呼ぶ声にはじめて聞えたふうをし、おう、と応えて台所から出て行つた。小田切は突然友人に來られ、今みたいに五十銭銀貨やバットの買いたてなぞ見られるのが嫌いだつたので何時も柵の柴折戸に鍵をかけておいた。
彼は杉村の顔を見ると落ちついた様子を装い、やあ、と云いながら鍵をはずした。杉村は座敷に通ると妙にかしこまつた様子で膝を揃えて坐り、どうしているかねえ、とこの歴史には逆行しているような変り者の友人の顔をうかがい、袂からバットを取り出した。小田切は小田切で何時見てもインテリ臭い男だ、今頃何しに来やがつたのか、と杉村を
空だと聞いて杉村は興ざめの形で、そうか、時に——と急に話を転じた、実は君にお願いがあつて来たんだが、小田切君、君機関誌部の仕事を手伝つてもらえまいか、木村君が病気でね、僕後釜の人選を任されたんだけど、君にやつて貰えれば非常に好都合なんだ、と杉村はごく謙遜な云い方ではあつたが、多分に好意を押し売りするひびきがこもつていた、小田切は同盟の中にこれはと思う親友もなし、杉村や堀川なぞまあ最も親しくしている方だが、何時も杉村や堀川が中央部や支部の機関にいるということが小田切とすれば面白くなかつた、大体杉村という男は、ともかく評論委員会にいる男だけに会合なぞではいささか弁の立つところから、小田切よりいくらか利用価値があるように見られている、だが本当を云うと評論も小説もてんで駄目だ——尤も同盟の役員なんぞというものは本当の藝術家でないのが多いが——それでいてよく堀川なぞと大言壮語し、かつての同盟の混乱時代反対派活動の急先鋒であつたことを今もつて鼻にかける癖がある、内省が足らず思い上がつて居り、鈍感で藝術家としての
それはともかくとして機関誌の編集部員になつてくれという杉村の言葉は小田切久次の気を引いた、杉村や堀川たちの所謂三十歳組よりはるかに歳上の彼は同盟生活の歴史も古いのに、今日まで思わしい部署についたこともなく、万年不平分子の名にふさわしく何時も不遇? であつた。杉村や堀川たちが一緒に東京支部の執行委員になつた時も小田切久次は地区の配宣係、つまり地区同盟員に機関紙やニュースを届けて廻る役にえらばれた、子供達の遊戯に一人
そんな彼だ、杉村の言葉がうれしくないことはない、だが人間は他人に損させても自分で得することばかり考えるものだという哲学を持つ彼は、人がうれしい便りを持つて来ても、此奴俺を喜ばして鶏の卵でも一つ貰おうと思つて来たんだろうと疑う、だから喉から手の出るような杉村の交渉にも一度は歪んで意地悪を云つてみないと気が済まないのであつた。何も君、鶏飼いぐらいが適当している男に編集の仕事を持つて来んでも、外に沢山ジャアナリストがいるだろう、堀川なんかどうかね? と小田切は白眼がちな眼をじろりと杉村に向けた、
じや一つ頼むよ、と杉村が立ちかけると小田切は、俺もそこまで行こう、と云つて急いで着物を着更えるのだつた。外は何時か暮れていた、二人は原ッぱを横切り、火葬場の前を通つてほんの申しわけほど店の並んだ街通りへ出た、小田切久次はとある酒屋の前を通りかかつた時、冷酒を一パイやらないかね、と杉村の袖を引いた、杉村は立ち止まり、思いがけぬことを云う鶏飼の顔を
小僧が酒を持つてくると鶏飼いはコップ受けの
小田切は立ち飲み用に置かれた沢庵を杉村にも食わないかとすすめ、杉村がつまむと後に残つた三片ばかりを一緒に口に押し込み、小僧さんお新香もつとくれよ、と小皿を高く持ち上げた。小僧がはあッと威勢よく小皿を受けて奥へ消えると、小田切久次はじろりと杉村を横眼で見、しきりに
店を出て四五軒も行くと小田切久次は急に小走りにいそぎだした、杉村も無意識のうちにそれに従つた、何故か鶏飼いの態度は杉村にもそうすることを命じているように思われた、小田切久次は早く早くと小声でささやき煙草屋の角を折れた、杉村が呆気にとられ、どうしたのか、と追いついてゆくといきなり鶏飼いは懐から二つの固い物を取り出して杉村の
杉村の家まで急ぎつづけ、玄関に入ると錠を下ろし、座敷へ上つてはじめて安心したように小田切久次はヒヒヒヒと笑つた。そして、どれ出して御覧! と杉村の袂をさぐり、蟹の缶詰とココア缶を取り出した、杉村は
五
編集会議が済んで小田切久次が家に帰つたのは夜の十時過ぎである、彼はさつき紙を呑み込んだのが未だに腹につかえているようで変な気持ちがしていた、実は会議も終りかけた頃、事務所の本部書記が来て、知らせに来たのを皆まで聞かず、丁度その時小田切は突嗟に丸めて手早く呑み込んでしまつたのである、彼はまるでもう玄関に来たかのように聞きちがいしたのであろう、それから書記の報告を落ちついて聞いてみると委員長のKの家へ廻り、その足でこの会場とは方角ちがいの下落合の方へ廻つたことがわかり、小田切は、是非読みたいところがあつたのに、とくやしがつたが、呑み込んだものをどうしようもない。
何と思つたか彼は立上がり古ぼけた箪笥の上から三番目の抽斗を開け両手に幾本かの同じような「銀行」を掴み出した、それを机の上に並べ、同じようなことを三度ばかり繰り返した、机には円筒が二列
やがてゆつくり一本の煙草を吸い終えた小田切久次は「銀行」の端からヒーフーミーヨーと
鶏や兎の収入と云つても最近失業者の増加と共に競争者がふえ、割に金高にならず月せいぜい二十五円か二十三円だつた、家賃は十一円で小田切夫婦の大半ではあつたが、それでもどうしてこれだけの金を何時の間に溜めたものか平凡な頭には想像のつかぬことである、同盟員中誰がこうした隠れた蓄財を彼が持つていると知り得よう、尤もそんなことを知られたら貧乏な同盟から、出版防衛基金だの、犠牲者救援金だの、支部強化費だの、新聞定期刊行基金だのと数限りもない名目で入り代り立ち代り部署々々の係が現れて二十五本のポストは日ならず美名? と変るであろう、考えてもみるがいい、彼が何時も柵に鍵をかけておる理由であり、バットをかくす理由であり、又こうして夜更けてはじめてゆつくりとポストにあかず眺め入り、所有するひそかな愉悦をやつと味い得る理由である。
六
印刷所のケースに仕切られた校正室では杉村と小田切が忙しくゲラ刷りに赤字を入れていた、小田切は人の欠点だけが眼につく男で、校正をしながらも原稿の誤字を一々取り上げては、何だ粉砕の粉の字も紛と書いてる、実際此奴は字を知らん男だなア、こんな男が巻頭論文を書くんだから同盟の弱化も必然だよ、なぞとぶつぶつ云いながら得意の達筆をふるい、原稿の字が間違いでお気の毒、植え代えを頼む、と長たらしい説明をつけたりして校正している、そんなことでも書けば巻頭論文に少しは腹癒せが出来るのだろう、杉村は何かぶつぶつ云つてないと奴さん生きていられないのだなと思いながら赤線を引いていた、そこへ妻君とも娘ともつかぬ女がお茶を持つて来た、彼女は、まあもうそんだけになつたんですの、仲々早いわね、と愛想を云い近くの椅子に腰をかけ、テーブルにお盆をおいてお茶をすすめるのであつた。
小田切は忙しげにゲラ刷りを読んでいるふりをし、上眼使いにしきりと女の顔をうかがつている、杉村は、や、ありがとう、と云つたが仲々筆をおかない、菓子盆には大福が入つている、小田切はそれを盗み視ると一層せわしく赤字を書き込んだ、彼はこんな場合決して自分から手を出さぬ、それでいて、杉村の奴早くお茶にしたらいいのに、気取つているな、と思うのだつた。
暫く二人の仕事をぼんやり眺めていた彼女はつまらなそうに、杉村さん、
小田切はまごつき、へえ、貴方はそんなものを読むんですか、と意外な面持ちである、杉村が、いやア彼女は仲々プロレタリア文学のファンでね、と説明した、すると、あらファンは可哀想よ、と彼女は杉村を睨む真似をし、でもあんな詩を書く人
彼女は改まつたように、時に小田切さん、妾これから詩を勉強したいと思うんだけど、見て下さらない! と云つて、それは身についてしまつた彼女の癖であろうが肩をよじり、気にかかるような様子をするのである。小田切久次は洗練された男好きのする瞳を真正面に受けると、ふと刺激され、腋の下を羽毛かなんぞで撫で上げられるような変にこそばゆいものを身内におぼえるのだつた、え、ぼ、僕でよかつたら何時でも拝見します、と云いながら不覚にももう落ちつきを失い、そそつかしくお茶をすする小田切の様子はおかしかつた。
杉村はもう筆をとつてゲラ刷りを読みはじめた、間もなく女も茶碗を片づけて去つて行つた、彼女が去ると小田切は、仲々シャンじやないか、勿体ないねえ、と云うのだつた。何がどう勿体ないか杉村はわからなかつたが、うむ、と只口の先だけで答え文字面を追つた。小田切は残り惜しそうな顔で、仕方なく丸めたゲラ刷りをひろげたが、一行も読まぬうちに再び顔を上げ、職工たちはここに泊るのかと聞いた、杉村が簡単に、いやと、答えると、小田切は尚も、ここには二階に住いがあるのか、と問いかけた、杉村は妙なことをうるさく聞きたがる男だと思いながら彼女の部屋が二階にあるらしいねえ、と素気なく答え、ゲラ刷りに角
の字を書いた。もしもし、はいはいと二階で電話をかけている彼女の声が聞えて来た。
七
校正を了えて杉村と小田切が工場を出たのはかれこれ十一時すぎ、ぱたんとばね仕掛の
工場から四五軒、すぐT字形になつた角を曲り、その道を出た所が電車通りである、右手に赤い灯の見える交番に反対の方角へ一丁程ゆくと杉村が時たま来たことのある「たこ安」というおでん屋がある。奥まつたテーブルに向い合つて、酒を、と小女に命ずると杉村はテーブルの蔭でこつそり財布を調べるのだつた。
二人ともいける方で、編集雑費の残額は心細いものだつたが、一本や二本位の不足は自腹を切つてもと酒のことなら杉村は最初から覚悟が良かつた。酒が来ると小田切は杉村の手を制してすばやく徳利を自分で持ち、まあま、と杉村に先ず
小田切は最初の一杯を飲みほすと感にたえた面持で、うまいなア、と眼をつむつた、五臓六腑にしみ渡るという様子である。杉村はそれほどの正直さは出さぬが、久しぶりに飲む酒は乾からびた喉にじゆうと鳴る思いだつた。
しばらくは話もなく口からテーブルヘ、テーブルから口へ杯が上下していた、徳利が空になつたところではじめて、やあ、と感慨めいた顔で二人は互に見合い、ふふと笑つた。杉村は空の徳利でコツ、コツとテーブルを叩き、何かおでんを、とはじめて箸の物を注文した、二本目から三本目と酔いが廻るにつれ杉村は饒舌になつた、彼は、書記長が頭を割られたというニュースを知つてるか、とにやにやしながら小田切の顔を見た。そうかい、それは本当かい、小田切久次は思いがけぬ喜ばしい事件のように眼を見張つた。まあ書記長にも時には虫下しだ、しかし新聞なぞが書き立てると困るから極秘だぜ、と杉村も時節柄
最近同盟には一種の伝染病のように女房が亭主を捨てて逃げるのが流行つた、高川という男は警察に半月ばかり泊つている間に最愛の女房に家財道具をさらつて逃げられた、大栗は女房の同郷とかいう男に盗られ、吉野は親しい同志であつた元の書記長に女房と共に裏切られた、山檻鈴江が獄中の細河内を捨てて新劇の男優の懐に走つたことは一般にも注意を曳いた程である、その
一夜高内寺組でこうした悲劇の主人公の一人である吉野を慰め、はげます会というのが持たれた、ごく親しい者だけが寄り合い、小やかましい会合の型を破つて酒を飲み、腹の底から友情まで温めようというのであつた。かつて同盟の懇談会が酒を用いたということで「同盟の自己批判」という大論文を書き、酒飲みの杉村や堀川たちをすくませたころのあの書記長がその発案者であつた。杉村はここで一区切りして、昔は酒を飲むさえこつそりやつていたのに、同盟は今昔の感に堪えないものがあるではないか、と思わせぶりな顔をしながら立てつづけに酒をあおるのであつた。小田切も忘れていた杯を乾し、それでどうした、と好奇の眼で追及した。
ところが大体一座の顔も赤くなつた頃、書記長は例の雄弁で誰かを相手に口角泡を飛ばしていると突然、馬鹿野郎ッと叫んで横合いからビール瓶で殴りつけて来た者がある、理論家ではあつたが書記長も
ふむ、ふむ、同盟にも仲々捨てがたい奴がいるね、で、そ奴一体誰だい、と小田切は益々興味をそそられて来たふうである、
何でも事の起りは何時か書記長が文藝時評を書いていたが、その中で宍戸の小説の批判がなつていないと云うので根にもつていた彼がその席で書記長の名を呼んだらしいけれど、今云つた通り奴さん夢中になつて理論闘争をやつていた折から聞えなかつたのだろう、そ奴を生意気だと取り、かッとなつて殴りつけたというわけだ、それからまあ大騒ぎになり、みんなで宍戸を抱きとめると宍戸は、貴様が同盟を今日のような極左に陥し入れたんだぞ、自決しろッ、と叫びながら猛烈に欠けたビール瓶を振り廻して暴れ、仲々勇ましかつた模様だよ、と杉村は語り終えると愉快そうにぶすりとおでんの豆腐に箸を突き刺した。
ふふーん、仲々宍戸もいいところがあるねえ、と小田切はつまらぬところに感心し、興趣
前書記長は恋の逃避行をやるし、屋台骨が傾きかけるといろんなことが起るよ、と杉村は
おい、いいのかい? と小田切は心配そうな嬉しそうな顔である。杉村は、ポッポは温かいよと着物の上から胸を叩いて見せるのだつた。
八
二人は何時かいい気持ちに酔つていた。十二三本の徳利を並べ、ふらふらと彼等が「たこ安」を出たのはもう一時すぎだつた。通りかかつた円タクを呼び止め杉村が乗り込むと、何故か小田切久次は素知らぬ顔でひよこひよこ行きすぎた、おーい、おーい、と杉村は車の中かち怒鳴つたが、小田切は聞えぬのか、それとも聞えて聞えぬふりをしているのか矢鱈にずんずん歩いて横丁へ曲つてしまつた、杉村は、厄介な奴だな、とつぶやき車を跳び降りて後を追つた、角を曲つて横丁へ入ると小田切の姿はもう見えなかつた。おーい、小田切君——杉村は駈足になり横丁を抜けて向う通りに出たが更に小田切の姿はない、小田切君、と何度も呼んでみたが返事もない、変てこな奴だな、まるで鼠みたいだ、と独りつぶやき杉村は尚も横丁や露路をうろうろとのぞき廻つたが、もう皆目わからなかつた。探しあぐねた杉村は何時か狐につままれたような顔をして電車通りへ出て来た。
その頃小田切久次は知らぬ家の裏の塵芥箱の蔭にしやがんでにやりと笑いを洩らしたところだつた、うまく行つた、と頃合いをはかつて彼はのつそり立ち上がり、露路から裏通りへ出るとすたすたと印刷所の方へ急ぎはじめた、怪しからぬ想念に刺激され心臓が何時になく太く息づいていた、あの女はたしかに俺に好意を持つている——小田切久次は改めて思い直す、鶏や兎の性慾的な生活だけを見て暮している彼は何時か鶏や兎の生活と人間の生活とのけじめがつかなくなつていた、人間も性慾的には雄鶏のように軽卒で安直ならばいい、いや誰も心では雄鶏を羨んでいるのだ、何の不自然もなくそう思い込んでいる小田切久次はあの女が今夜俺を待つている、——でなくてどうして主人が留守だということをあの時わざわざ云う必要があろう、
ふと小田切久次は頭に何か触れたように感じた、途端に何物かが肩をかすめ、塀にぶつかつて時ならぬ音を立てた。電柱が物干に代用され竿が渡してあつたことに気がつかなかつたのである、小田切久次ははッとして電柱の中途で身をすくめた、大した音というでもないが突然隣りの庭から犬が吠えはじめた、彼は慌てて電柱から跳び降りた。すると犬は一層仰々しく吠え立てるのであつた、小田切久次は塀腰の横桟の間からのぞき不器用な手つきでおいでおいでをしながらだまそうとかかつたが、犬はその手に乗つて来ない、小田切はへつぴり腰で
泥棒、泥棒ッ、と警官は夜更けの街に物々しい声を上げながら追跡した、小田切久次はその叫びが気に喰わなかつたが泥棒じやねえぞ、と一声喚き返して宙を飛ぶように走つた。足は太く短いが走ることは自信があつた。通りを右へ折れ半丁も駈けると再び露路に入り、それからというものはどこをどう抜けたか自分にもわからぬ位彼は無茶苦茶に駈け廻つた、蓄積された彼の精力はこういうときに目覚しいばかり発揮された。もう警官もつけて来る模様がなかつた、どんなもんだ、小田切久次はほんの少しばかり得意になり、その露路の角に偶然にもさつきの警官が立つているとは知らず悠々と出て来た。
九
小田切久次が警察の地下室から出て来たときは已に機関誌部には他の同志が補充されていた。だが校正の済んだ組版も同盟が約束の半金を入れないため未だに印刷所の棚にそのまま積まつていた、雑誌も新聞も何時出るか見透しさえつかなかつた。只ひつきりなしにニュースや号外だけが同盟員に訴えかけていた、だが同盟員たちはあまり感激しなかつた、何れの機関も有名無実で、
はじめて
小田切久次は世間が憎く、人が
鶏小舎では鶏たちが
丁度この時芳江を縛り上げて出て来た小田切久次はこの有様を見ると人間か鶏かの見境いもなくカッとなり、馬鹿野郎ッと怒鳴つて傍の
雄鶏の脚を折つてから一週間ばかり経つた或る日の晩、もう鶏たちの餌がなくなり、小田切は例の魚屋へ雑物を
彼が馬穴を下げて家に帰つた時には已に寝ていた筈の芳江の姿が見えなかつた。便所かと思つて台所脇の便所の戸を開けて見たが、ぷーんと臭気が鼻に来ただけで彼女はいなかつた。芳江、芳江、と彼は呼んで見た。返事はなかつた。座敷に引き返し、机の前にゆくと彼はそこに見覚えのある筆跡を発見した。左様なら、小田切久次様、芳江——と簡単に走り書きがしてあつた。
小田切久次はぼんやりと馬穴を下げたまま暫く立つていた。彼はそこで馬穴を下ろしてもいいことを忘れていたのである。彼は次第に云おうようのない空虚と寂蓼にとらわれて行つた。ああ、出かける時に手足を縛つてゆけばよかつたと後悔したが甲斐もなかつた。今更逃げた魚は惜しく、何よりも再び女房を持つことが出来るかという不安と絶望とがはつきりと彼の心に来た。やがて彼は座敷の真ん中にはじめて馬穴を下ろし、そのまま下駄をつつかけて出て行つた。彼はすつかり昂奮していた。無意識に中野の方角へ駈け出していた足をふと止め、踵を返えすと今度は杉村や堀川たちの家の方へ急ぎはじめた。夜更けの道は寒々とする程静かだつた。通り馴れた火葬場の前も夢中で過ぎ、寺や墓場のある薄暗いところにさしかかると、不意に横丁から出て来た背の高い男があつた。
のつぽの男は前を走り過ぎようとするずんぐりした男を一寸眼で追い、すぐ、小田切君じやないか、と呼びかけた。小田切はいささかぎよつとして立ち止まり、杉村か、と感慨めいた声を出した。杉村は小田切に近寄り、常任委員会は今夜——たつた今、同盟の解散を決議したよ、とこれも昂奮した口調だつた。だが小田切には同盟の解散という歴史的な事件も今はさして驚くほどの事件ではない、ふむ、と一つうなずいただけだつた。杉村は小田切の様子が何時もとちがうことにはじめて気づき、君は又、この夜更けにどこへ行くんだ、と尋ねた、小田切は落ちつかぬ気に、女房が逃げたよ、と云い、杉村が聞きとがめて、何ッ、奥さんが? と驚くのにも答えず、後で君の家へ寄るから待つてくれよ、一寸神近さんところへ行つてみるから、と云い捨ててもう歩き出していた。
杉村は着物の上から古ぼけ垢じんだレインコートを着て、そのポケットからだらりと手拭を垂らした滑稽な小田切久次の後ろ姿を暫らく苦笑もせずに見送つていたが、やがて、ふむ、やつぱりそうか! と独りわかつたようにうなずき、墓場の前を家の方角へと帰つて行くのであつた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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